「比企・外秩父の山徹底研究」第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

高橋秀行をフォローする

(略図)官ノ倉西尾根東半分略図

(略図)官ノ倉西尾根西半分略図 

  

DSC_0402

概要

 官ノ倉丘陵は官ノ倉峠からさらに北西に延び、2万5千分の1地形図「安戸」の366㍍独標から「烏森山」「天ノ峰」をへて、「愛宕山」で「城山」(安戸城址)からの入山川沿いの支尾根が合流する。

 その先が山名をめぐり混乱のある421.2㍍3等三角点峰。

 ここで縦走を打ち切り、東秩父村奥沢に下るハイカーが大多数だが、西尾根はさらに続いている。

 421.2㍍3等三角点峰から尾根伝いに急下降するあたりから、これまで樹林に覆われていた尾根が急に視界が開け、眼下に寄居の町並みが広がる。

 それを囲む比企や児玉の丘陵、さらに関東平野の彼方には赤城山や榛名山など北関東の山々がずらりと並び、実に素晴らしい眺めだ。

 くだりついた鞍部から登り返した390㍍圏のピークが比企郡・大里郡・秩父郡の三郡境。

 三郡境から先はヤブやブッシュが混じり、踏跡も途切れ気味になるうえ、紛らわしい枝尾根が派生する読図コース。

 今は消滅した「乳首山」の採石場跡を突っ切り(と書いたが、砂岩の採掘は今でも行われており、2028年3月末まで行われる予定。土砂採掘場の範囲もどんどん拡大しているので、後で詳述するように、採掘場は避けた方が良い)、「金山」(愛宕山)、「君八山」(勲八山)を抜けると、右前方に突然、見事な乳首状のピークが現れる。

 これが寄居町西ノ入山居(さんきょ)の「浅間山」(仙元山)である。

 浅間山への支尾根を分けると、西尾根の主稜線は「物見山」の先で北に方向を変える。

 286.6㍍4等三角点峰(点名「大内峠」)を経て、ヤブとブッシュに阻まれながらも、ようやくフィナーレである寄居町三品の「高山」(石尊山)にたどり着く。

 長大な官ノ倉丘陵の東端(小川町笠原の石尊山)と西端(寄居町三品の石尊山)が、ともに「石尊山」というのも興味深い。

 以下、この長大な「官ノ倉丘陵西尾根」の主要な山等について説明を加えていこう。

一ツ岩

 木部川は天王沼の先で不動入とイラ入に分かれる。

 イラ入は官ノ倉峠に登るハイキングコースに沿っているが、まもなく不動入(上流にある「北向不動」に由来)からさらに「ウス入」が分かれる。

 ウス入をつめると、官ノ倉丘西尾根直下の大岩にぶつかる。これが「一ツ石」である。

 「一ツ石」から登ればすぐに西尾根に出る。

 少し西に進んだところが、官ノ倉峠と烏森山とのほぼ中間地点。

 この地点に東秩父村安戸の方が祀ったという山ノ神の小祠がある。

カナッポリ

 木部川の上流である不動入をさかのぼり、北向不動に向かう途中から右の山腹を登ると、杉の植林の斜面に大きな穴があいている。

 金属を採掘した跡で、開口は縦3㍍、横1㍍位の縦穴。

 ただし、底はさらに左右に奥へと掘り進んでおり、とくに左の方が深く、奥行き5㍍ほどである。

 1986年当時話を聞いた木部の古老は、コウモリを捕りにカナッポリに入ったというが、穴の奥の方に進むにつれ、空気が薄く息苦しく、持ってきたロウソクの火も消えてしまったと語ってくれた。

366㍍独標

 後述の烏森山東の366㍍独標の山頂には、「不動沢の頭」の山名表示板が立ち木に打ち付けられている。

 この山名表示板をハイカーが写真で撮り、SNSで振りまいた結果、ついには不動沢の頭が烏森山と並び、googleマップに掲載される始末になっている。

 しかし、不動沢の頭の名称は、あくまでのハイカーのつけた便宜的な呼称であり、地元の呼称ではない。

 今のところ、地元(小川町側・東秩父村側)では無名峰である。

 ところで、最近復刻された奥武蔵研究会著『奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)を読んでいたら、意外な事実を発見した。

 同書のガイド「官ノ倉山」添付の略図(120頁)に何と、「不動入ノ頭」なるピーク名が記載されているではないか。

 木部川は天王沼付近で、本流の不動入(沢名と同時に沢周囲の山字名)と支流のイラ沢(こちらも沢名と同時に沢周囲の山字名)が分かれる。

 イラ沢は、ほぼハイキングコースに沿い、官ノ倉峠付近に突き上げる。

 木部川上流の不動入には、まもなく右岸から支流の「ウス入」が合流する。

 「ウス入」も沢名であると同時に、沢周囲の山字名である。

 この「ウス入」(沢名・山字名)を大きく離れた官ノ倉西尾根上の421.2㍍三角点の名称にしたところが、後述する混乱の原因になっている。

 それはさておき、木部川本流の不動入は、北向不動を経て、直線的に烏森山に突き上げるが、前記の略図では、天王沼から北向不動を経由して、西尾根上の「不動入ノ頭」に突き上げる破線路が明記されている。

 では、略図上の不動入ノ頭が烏森山に相当するかといえば、そうではなく、2万5千分の1地形図「安戸」と照合すればすぐ分かるように、略図のように不動入のツメで直進せずに急激に南に直線的に折れて到達するピークこそ、366㍍独標なのである。

 ちなみに、ガイド文の担当者は坂倉登喜子氏。

 同氏は、木部川上流の沢名(山字名)である不動入、ウス入などを採集しなからも、これらをもとに便宜的な仮称(不動入ノ頭)をつけたり、沢や山字から大幅に離れた421.2㍍三角点に「臼入り」「臼入山」なる決定的に間違った名称をつけてしまったのである。

烏森山(からすもりやま)

 366㍍ピークから緩く登ると、「烏森山」(370㍍圏)。

 樹林に覆われ、展望のない山頂には烏森山の私設表示板。

 安戸の人が祀った虚空蔵様の小さな祠がある。

 烏森山は小川町側(木部・勝呂)の呼称。

 古くは『武蔵国郡村誌』の木部村の条、『武蔵通志』の両者にも記載のある山。

 上勝呂の「吉田家住宅」(1721年に建てられた築300年の埼玉県最古の住宅で、茅葺屋根が特徴的。国指定文化財。今ではすっかりきれいに復元され、蕎麦や団子などが食べられる)付近からみると、366㍍峰および一段と高い烏森山が左右に並んでいる。

 『武蔵国郡村誌』男衾郡木部村の条には、「烏森山 高さ百九十八丈。周回本村限り。神の倉の北に峙つ。嶺上より三分し、西北は勝呂安戸の二村、東南は本村に属す。山脈西方秩父郡に連亘す。樹木鬱蒼。字入の沢より上る二十町五十八間。山の西を安戸村にては字入山と云う」とあり、木部の不動入のツメに当たる山である。

 烏森山の名因は、樹木の茂った「烏=鳥(とり)」の多い山というところにあるのだろうか。

 烏森山には「虚空蔵山」(こくぞうやま)という別名がある。

 前述したとおり、烏森山山頂には瓦屋根の虚空蔵様(虚空蔵菩薩)の祠が祀られている。

 下勝呂で1986年頃、烏森山の山名を採集した折、古老から次のような話を聞かされた。

 かつて不動入には、北向不動から始まる十三仏があり、沢のツメに当たる烏森山の頂上に最後の虚空蔵菩薩が安置されていたという。

 この話の真偽は定かではないが、虚空蔵山の名因は、このあたりにありそうだ。

天ノ峰(てんのみね)

 烏森山の西にある390㍍圏のピーク。

 安戸側の呼称。

 入山川から眺めると、周囲の山のなかでも、ひときわ高く聳え立っているので、この名がある。

 なお、天ノ峰西側の中腹から鞍部にかけて見事な竹林が広がっている。

 小川町側の勝呂から鎮守の白鳥神社経由の西山林道が十石沢に沿って延びており、林道終点から天ノ峰まで明瞭な道が踏まれているようだ。

 西山林道を使うと、官ノ倉峠まで迂回せずに、勝呂の吉田屋住宅からそのまま直線的に天ノ峰に登り、そこから東に烏森山に行くなり、西に愛宕山に行くなり、西尾根の主要な山に容易に行けるようになった。

木部の北向不動尊

 木部川の上流は不動入と名前を変える。

 不動入の名前の由来こそ、上流にある木部の北向き不動尊である。

 不動尊のお祭りは毎月28日だが、とくに4月28日と10月28日のお祭りは盛大に行われ、花火をあげたりする。

 北向不動には、不動尊、虚空蔵様をはじめ十三仏が祀られている。

 こう言うと、先の烏森山のときに、勝呂の古老から聞いた話(十三仏は北向不動から始まり、不動入沿いに烏森山まで十三の仏が祀られている。最後の十三番目の虚空蔵様が烏森山に祀られている)と矛盾するかもしれない。

 現在では十三仏は北向不動に祀られているとすれば、昔、不動入に沿って烏森山の登路に沿って祀られていたのは、修験者用の仏ではないか。

 しかし、沢のツメに当たる登路が急な悪路なため、十三仏は北向不動に遷座されたと考えることもできる(あくまでも想像あるが)。

 昔、北向不動には1丈5尺もの大ケヤキがあった。

 しかし、ある村人がそのケヤキを無断で切って売ってしまった。

 ところが、切った人も買った人も口が曲がったり、病気になってしまったという。

愛宕山(あたごやま)

 官ノ倉山からの官ノ倉西尾根と安戸城址(城山)から入山川に沿って長く延びる支尾根が合流する410㍍圏のピーク。

 愛宕山は、小川町側の勝呂の呼称である。

 南北に細長い山頂の北肩に、勝呂の宮沢家が明治18年(1885)4月に奉納した瓦屋根の小祠がある。

 宮沢家の当主の話によると、かつて愛宕山の山頂に登って雨乞いを行ったという。

 愛宕山の名は、『武蔵国郡村誌』勝呂村の条にも見られる(「高さ周回ともに不詳。村の西方にあり、嶺上より三分し、西は奥沢村、北は木呂子村、東南は本村に属す。山脈秩父郡に連る。(中略)登路一条険なり。西方より上る七町四十間」)。

 勝呂から眺めると、他を圧する堂々たる山容で、小川町側の西浦川(桜川)・木呂子川、東秩父村側の入山川(いりやまがわ)の水源をなす隠れた名山である。

城山(しろやま)

 愛宕山から南走し、やがて東に方向を変え、入山川に沿って主稜と対峙する長い尾根の末端にある239㍍独標。安戸城址がある。

 城址についての歴史的な経緯は定かではないが、一の郭を中心にした小規模な形態であることから、腰越城の出城であったと考えられる。

 城址には城山大権現の碑が立ち、廃城になった後にも神聖視されたことがうかがわれる(詳細な遺構図は、中田正光『秩父路の古城址』(有峰書店新社、1982年を参照)。 

細窪山(ほそくぼやま:三角点)

(略図)細窪山・愛宕山付近拡大図

 愛宕山の西に連なるピークは、412.2㍍3等三角点(点名は「奥沢」)峰。

 官ノ倉丘陵の最高点である。

 官ノ倉西尾根縦走の実質的な終点となるこのピークからは、途中に阿夫利神社(石尊様)の社殿のある尾根筋をへて東秩父村の奥沢にくだるのが一般的である。

 肝心の官ノ倉丘陵最高点であるにもかかわらず、このピークをめぐっては長年にわたる混乱の歴史があり、それは今でも続いている。

 要するに、「臼入り」ないしは「臼入山」なる誤った山名が比企・外秩父の開拓期である1941年(昭和16年)以降、ガイドブックや登山地図で流布された。

 その結果、私設の山名表示板には「臼入り」「臼入山」が記され、この名を鵜呑みにしたハイカーの山行記録を通してどんどん広がることになった。

 1980年代半ばに「細窪山」という正しい山名(小川町木呂子側の呼称)が採集されたのちにも、「細窪山」(臼入り)ないし「臼入り」(細窪山)の表記も現れ、今でも山頂の私設山名表示板では臼入り(臼入山)が優勢である。

 何とgoogleマップでも、「臼入山」(細窪山)と、誤った山名と正しい山名が併記されている状態である。

 幸い、かつて「臼入り」という間違った山名を広めた山と高原地図『奥武蔵・秩父』(昭文社)が最近になって、ようやく細窪山の山名を採用。

 合わせて地図上に「誤った『臼入山』の標識あり」と注記してくれたお陰で、今後徐々に臼入り(臼入山)の名前が消え、細窪山に統一することになるだろう。

 それでは、なぜ誤った山名がつき、こんなに長く定着してしまったのだろうか。

 やや煩雑になるが、誤記の歴史を追ってみたい。

 臼入り(臼入山)の名が最初に登場した記事は、官ノ倉丘陵の最も早い紹介記事でもある岩満重孝氏の踏査記録(『ハイキング』101号、昭和16年2月)と岩崎京二郎氏の踏査記録(『山と高原』昭和16年2月)である。

 岩満氏の紹介記事中に「村人は地図にあるいくつかの突起を、ウスイリと呼んでいる」と、ウスイリの山名を明記している。

 ここでの決定的な間違いは、沢名(小字名)である「ウスイリ」(正しくは「ウス入」)をピーク名(ないしピーク群名)としている点である。

 同記事のコースタイムでは、官ノ倉山(神倉山)(0:10~1:30)→ウスイリ(1:55)→一本木立のある所(2:05~25)→三等三角点(3:05~45)となっており、ウスイリなる山は、位置的には官ノ倉山と3等三角点との間で、むしろ官ノ倉山に寄ったピークを指すことが分かる。

 岩崎京二郎氏のガイド記事「神ノ倉丘陵」では、「臼入り」という漢字表記が初めて登場し、岩満氏の記事と同様、臼入りは421.2㍍3等三角点と官ノ倉山との間に位置するとされている。

 こちらのコースタイムでも、神の倉山→5分の下り→峠(神の倉峠)→1時間の藪くぐり→臼入峰→50分の上下数峰→421.2㍍三角点となっている。

 岩崎氏の記事で注目したいのは、421.2㍍三角点峰で縦走を打ち切らず、次の比企・大里・秩父三郡の境界峰に足をのばし、さらに同峰からの鞍部への急下降と同時に眼前に広がる大展望を記し、在りし日の「乳首山」らしき山から八高線の折原駅に辿る長大なルートを紹介していることである。

 官ノ倉丘陵の紹介当初の記事でも、421.2㍍三角点峰以西の主稜線を記録したものとして特筆したい。

 今ネット上にあふれる官ノ倉西尾根の山行記録でも、三角点以西の主稜縦走をした記事は全く見かけない(残念ながら、現在では巨大な採石場のため、縦走は途中で打ち切るか、いったん麓までおり、車道を歩いて採掘場を迂回するしかない)。

 以上、「ウスイリ」「臼入り」「臼入峰」などが最初に登場した記事を2つ紹介したが、繰り返すが、臼入りは421.2㍍三角点と明確に区別され、現在の366㍍独標~烏森山~天ノ峰付近と思われる位置を指していた。

 しかし、「臼入り」の名称由来は書かれていないが、木部川の上流・不動入に途中で進行左手から流入する「ウス入」という沢名および付近一帯の山字名(ウス入)の聞き取りがベースになっていることは明らかである。

 では、本当のウス入をツメると、どこに出るのだろうか。

 2万5千分の1地形図「安戸」を見る限り、366㍍独標と官ノ倉峠の中間付近。つまり、稜線近くの「一ツ岩」をへて、西尾根に達する付近。すぐ左に行くと、山ノ神の祠がある付近である。

 先駆者2名の記録からウスイリや臼入り・臼入山が正確にどこの地点を指すかどうかは不明だが、421.2㍍三角点からは大きく離れていることは明らかである。

 上記2つのパイオニア的な記録ののち、ウス入(沢名・山字名)とは約1.5キロも離れた421.2㍍3等三角点の名称を「臼入り」「臼入山」としたのが、新ハイキングペンクラブ著『新しき山の旅』(昭和17年、昭和書房)所収の坂倉登喜子氏(岩根登喜子名)執筆の「官ノ倉山、小瀬田越え」である。

 略図に三角点は記載されていないが、ガイド文では官ノ倉山に登ったあと、再び官ノ倉峠に戻り、西尾根を「臼入山」までたどっている。

 そして、文中に「臼入山からは、北へ八王子を経て、中郷部落へ降るなり、或は奥沢へ降ってバスに乗るなり」とあるように、ここでは「臼入山」は明らかに3等三角点峰と同一視されている。

 坂倉登喜子氏は、奥武蔵および比企・外秩父の開拓者のひとりであるが、なかでも官ノ倉山とその周辺を愛し、数多くのガイド文を雑誌等に寄稿している。

 奥武蔵研究会の三代目の会長を務め、そののちも亡くなるまで同会顧問を続けた。

 そして、本来の木部川上流の支流「ウス入」周辺の山字名が、主稜上の「366㍍独標と官ノ倉峠」中間地点付近のピークの名称とされ、さらに坂倉氏により、ずっと西に寄った3等三角点峰の名称とすることになった。

 この決定的な誤りが、その後、引き継がれることになった。

 それが完成したのが、『マウンテンガイドブックシリーズ8 奥武蔵』(昭和29年、朋文堂)付録の大石真人氏監修「外秩父概念図」である。

 ちなみに、大石氏は奥武蔵研究会の二代目会長を務めている。

 「外秩父概念図」では、412.2㍍三角点峰にはっきりと「臼入り」の名を記している。

 こうして奥武蔵・秩父・比企・外秩父の地域山岳会である奥武蔵研究会は、坂倉氏、大石氏など会創設に関わった先駆者たちの誤りをそのまま引き継ぎ、同会執筆のガイドブックや山と高原地図でも、大石氏の外秩父概念図は踏襲された。

 1980年代半ば以降に会員の調査研究で先駆者の誤りが指摘され、「山と高原地図」からも後に「臼入り」の名が消去され、しばらく山名記載なしの状態が続いたあと、ようやく「細窪山」の名が記載されるにいたった。

 しかし、長年にわたる「臼入り」の影響は甚大で、今でも山頂に「臼入り」「臼入山」の山名表示板があり、「細窪山」の表示板を圧倒する勢いである。

 さて正式な山名であるが、北側の小川町木呂子の一部の人々は、三角点峰北側斜面の山字(小字)名「細窪」に由来する「細窪山」と呼んでいる。

 逆にハイカーが下山路として利用している南側の東秩父村奥沢では、特に名称はなく、単に「三角点」と呼んでいるだけである。

 以上の経緯を踏まえ、臼入り」「臼入山」という間違った山名が固定しないように、東秩父村観光協会は三角点山頂の「臼入り」「臼入山」と記した私設の山名表示板を早急に撤去すべきであろう。

 しかし、その東秩父村側が小川町木呂子側の呼称「細窪山」を採用していないので、対応は難しいだろう。

 木呂子・奥沢両地区の「民意」を活かすためには、「細窪山」(三角点)と、両者を併記した山名表示板を設置するのが望ましいのだが。

 なお、前記のように昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』では、細窪山という山名が明記され、「臼入山」は誤りであることも明記された。

 ところが、同じ昭文社発行の「都市地図 埼玉県12 東松山市 小川・嵐山・滑川・吉見町 ときがわ町 東秩父村」では、相変わらず421.2㍍三角点峰を「臼入山」としている。

 奥武蔵研究会は、都市地図の地名訂正を昭文社に早急に申し入れるべきであろう。 

 最後に、三角点から奥沢にくだる途中にある石尊様(2万5千分の1地形図「安戸」で421.2メートル3等三角点から南に延びる尾根途中の神社記号。奥沢から石尊様まで破線路が記入されている)についても簡単に言及したい。

 阿夫利神社(石尊様)の例祭は以前、4月12日に行われ、奥沢の集落総出で登拝した。

 しかし、その例祭も久しく行われておらず、社殿もすっかり傷んでしまった。

三郡境

 細窪山から主稜線を西に急斜面を下降し、再度登り直したピーク。

 無名峰だが、このピークが比企郡小川町・大里郡寄居町・秩父郡東秩父村三郡の境である。

 官ノ倉西尾根の主稜は、この付近から前方が開け、これまでの暗い樹林帯の縦走と打って変わった雰囲気になるが、前方下に広がる地獄絵のような巨大な砂岩の採石地(秩父鉱業(株)寄居鉱業所)には目を覆いたくなる。

「大犬穴」(おおいぬあな)

  『武蔵国郡村誌』男衾郡西ノ入村の条は、「大犬穴山 高三十五丈、周囲不詳。嶺上より南は秩父郡奥沢村に属す。村の南より四町」と記し、『武蔵通志』も「大犬穴山 高三百五十尺、折原村西ノ入の南にあり」と簡潔に記している。

 しかし、「大犬穴」は「山」ではなく、巨岩である。

 場所は、寄居町西ノ入の五ノ坪地区。

 五ノ坪では、小川町や東秩父村の和紙の原料となるコウゾが栽培され、大正までは紙漉きが行われていたという。

 昭和に入ってからは、コウゾの皮を蒸し、それを紙板に貼り付けて乾燥させた和紙の原料を小川町の紙問屋に出荷していた。

 コウゾの生産は戦時中に和紙が軍の用紙として需要が増したことからピークを迎えたが、それも長く続かず、今では桑畑にとって代わられている。

 五ノ坪には大犬穴以外にも「稚児岩」という名の大岩が山中にある。

 稚児岩にまつわる悲話を紹介しよう。

 豊臣氏の総攻撃により鉢形城が落城したとき、城主・北条氏邦の側室が逃げてきて、この地で子どもを産み、その子に乳を飲ませたことから稚児岩と呼ばれるようにったという。

 稚児岩は五ノ坪川に沿った車道から右に分かれる馬込(まごめ)と呼ばれるヤツの奥にある。

 気持ちの良い雑木林の中に岩石群の露頭があるので、すぐにそれと分かる。

 しかし、西ノ入の栃谷地区からのびてきた砂岩の採石場(秩父鉱業寄居鉱業所)が岩のすぐ近くにまで迫り、まさに風前の灯の感がある(以上は1986年当時の記録だが、その後採石場がかなり範囲が拡大したことを考えると、稚児岩は消滅した可能性もある:未確認)。

 さて、肝心の「大犬穴」は五ノ坪林道を最後までつめて、最後の二股を右に入る。

 仕事道は頻繁に左右に分岐するが、つねに左をとると、檜の植林の斜面に高さ7~8㍍の大岩が、まさにのしかかるように周囲を威圧していた。

 近づくと石灰岩であったが、オオカミが棲んでいたという大穴は確認できなかった。

 それ以外に、細窪山、「三郡境」周辺の大岩を2つ。

障子岩(しょうじいわ)

 細窪山と「三郡境」の鞍部にある石灰岩の巨岩。

 北側がすっぱり切り落ちていて、素晴らしい展望が得られる。

ムジナ岩

 細窪山東側鞍部より奥沢に少しくだった山林中にある。

 大きな穴が空いていて、そこにムジナが棲んでいたので、戦前子どもたちは、煙でいぶしてムジナを捕えようとしたことあったという。

乳首山(ちくびやま・ちちくびやま)

 官ノ倉西尾根主稜線の一峰だった。

 在りし日の標高は364㍍。

 山頂は凹地をはさんで二峰に分かれていて、それがあたかも女性の胸を連想させることから、東秩父村の坂本や大内沢では「乳首山」と呼ばれていた。

 この山は鉢形城からみると裏鬼門の方向にあたる。

 そこで昔、ある人が鉢形城の財宝が埋まっていないかと掘ってみたところ何も出てこなかった。

 ところが、帰りに大雨に降られ、そのため病を得て亡くなってしまったという伝説が大内沢では残されている。

 韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成(中・歴史編)』(北辰図書出版、1973年)には、「チツクビ山」(埼玉県東秩父村坂本)の項で、上記と類似した伝説を収録している。

「大内沢の入口、坂本分にチツクビ山という高い山がある。虎岩のあるところである。このチツクビ山は忍城(あるいは鉢形城)が落城した時宝物を埋めたところといい、掘ると血の雨が降るという」

 1986年の踏査当時、既に地形図(2万5千分の1「安戸」)上の364㍍独標は完全に削り取られ、消滅。

 一帯は整地された平地に変わっていた。

 その後、採石場(秩父鉱業寄居鉱業所)は拡大を続け、東は「三郡境」からくだった鞍部付近、西は金山・君八山の山頂直下をかすめ、浅間山(仙元山)方面にまで延びる勢いだ。

 今では地形図から364㍍独標は消され、採石場自体も私が訪れた1980年代後半とは比較できないほど規模を拡大している。

 秩父鉱業(株)は、官ノ倉西尾根の要の部分を掘り崩す(寄居鉱業所)ほか、東秩父村皆谷の名山・観音山も珪石採掘により、完全に掘り崩してしまった(「秩父鉱業御堂鉱業所)」)。

 しかし、のちに述べる金山・君八山がどうなったか?その後の消息を聞かないので心配である。

 1986年当時は乳首山周辺だけに採石場が限られていたので、休日、整地され広場と化した乳首山跡を横断して縦走を続けることができた。

 しかし、ここまで採石場が拡大した今となると、あの東秩父村皆谷の「観音山」(中山)同様、大規模な採石場への立ち入りが禁止されている恐れがある(あるいは危険で立ち入ることができない)。

 そうなると西尾根縦走は迂回を迫られることになる。

 無難なのは、三郡境から細窪山まで戻り、奥沢から大内沢まで車道を歩き、居用バス停から居用の集落まで車道を登り、そこから西尾根の金山ないし君八山に取り付き、縦走を再開するルートである。

 ヤブ山好きには、三郡境からさらに縦走を進め、秩父鉱業(株)寄居鉱業所がぎりぎりまで迫るピークから尾根伝いに東秩父村坂本の落合にくだるルートがある。

 送電線巡視路らしき踏跡は、良く踏まれている。

 落合からは車道を大内沢方面に進み、居用バス停から山上の居用集落に車道を登ることになる。

 こちらの方が細窪山から奥沢にくだるよりも、車道歩きを少なくできるうえ、三郡境付近からの好展望を楽しむことができる(眼下に広がる悲惨な寄居鉱業所の砂岩採掘現場は見たくない光景だが)。

金山(かなやま:愛宕山)

 官ノ倉丘陵西尾根は、三郡境以降は、大里郡寄居町と秩父郡東秩父村の境界尾根としてさらに続く。

 しかし、乳首山の消滅に続き、砂岩の採石場がどんどん拡大し、乳首山に続く尾根上の峰・大内沢の金山も、すぐ南まで採石場が迫っている。

 とはいえ、1986年以降、40年近く訪れていないので、近況が分からず歯がゆいかぎりである。

 金山は、『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内沢の条に、「金山 村の東にて上り二十町ばかり。芝山にて秣場(まぐさば)なり」と記されている山である。

 金山という山名は、鉢形落城のときに、埋蔵金をこの山に埋めたことに因むと説明されている。

 この伝説以外にも、「金山」という名称自体、官ノ倉丘陵に広く見られる金属関連地名の1つである。

 金山山頂の西端には、東秩父村大内沢居用(いよう)地区の信仰の厚い愛宕神社が祀られている。

 そこから、居用の人々は金山を「愛宕山」とも呼んでいる。

 居用の愛宕神社は、もともと居用の産土神で、開口一間、奥行一間半の頑丈な社殿であった。

 その後、明治43年(1910)に大内沢村の村社・大内神社に合祀された際、鉢形村木持(きもち)の愛宕神社(愛宕山)からの頼みにより、社殿を譲与した。

 居用では、社殿跡に石碑を建てて祀っていたが、大正10年(1921)3月、現在の立派な「愛宕大神」の石碑が建てられた。

 青石のような自然石で高さ約四尺八寸位、幅二尺位、厚さ約三寸八分位のもので、「愛宕山大神」と深堀りされている。そして、石垣の四方積みの上、しっかりとした土台石に建立されている。

 例祭は正月14日と7月24日の年2回(愛宕大神に関する説明は、真下通雄『銀河縹渺ー大内沢の歴史考ー』(1980年)による)。

君八山(勲八山:くんぱちやま)

 大内沢の居用地区すぐ右手に聳える359㍍独標。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内村の項では、金山の次に、「勲八山 是も同辺にて、登り十町ばかり」とごく簡単に記され、金山近くの山であることが明示されている。

 山名の「君八(勲八)」については不詳であるが、山持ち(山の所有者)の名前なのであろうか。

 2万5千分の1地形図「安戸」(2018年測量、2018年5月1日発行)を見ると、君八山の東半分が採掘で削られている状態にも見える。

 もはや風前の灯火といった状況だ。

 2018年の測量から6年を経て、今どうなっているのか。既に君八山は消滅してしまったのか。まだ無事なのか。早く確認したい気持ちが一杯である(しかし、身体がついていかない)。    

浅間山(仙元山:せんげんやま)

 君八山を過ぎると、進行右手に突然、乳首状の山が現れる。

 その乳首に酷似したユニークな山容に誰もが息を飲むのは確実である。

 そして、山名を知りたがることだろう。

 この山の名こそ、「浅間山」(仙元山)であり、322㍍独標である。

 とにかく、釣鐘状の山体の上にちょこんと乳首が乗ったように見える山容は、乳首山の別称で有名な比企・外秩父の名山「笠山」以上に「乳首山」の名にふさわしい。

 浅間山の山麓で、この山の名を聞き取りした結果、山麓の寄居町西ノ入でこそ「乳首山」等の別名は採取できなかったが、むしろ離れた寄居駅の陸橋から眺めると、びっくりするほど乳首状に見えるという(藤本一美氏のご教示)情報を得た。

 私も鐘撞堂山へのハイキングの帰りに、寄居町の北部で遠くに見える顕著な乳首状の浅間山を指し、「乳首山」の愛称はないかどうか聞き取りをしたところ、寄居町の北部や花園町で「おっぱい山」の愛称が使われていることを確認した(「乳首山」の別称はない)。

 それにしても、これほど立派な乳首状の山容の山が、私の歩いた当時(1985~86年頃)、不遇なヤブ山であったというのが信じられなかった。

 そこで浅間山の麓にある臨済宗・明善寺(みょうぜんじ)(寄居町西ノ入の山居地区)を訪ねてみた。

 最初に明善寺から寄居町平倉に抜ける鞍部から直接、浅間山に登ってみた。

 当時、官ノ倉西尾根の主稜線から浅間山への枝尾根は、ブッシュがびどく、とても歩けたものではなかった。

 ブッシュがうるさいながらもか細い踏み跡を忠実に登り、山頂に着いたが、展望のない何の変哲もない頂上だった。

 ただし、木立の中に建立されている浅間神社の社殿は小さいながら、しっかりつくられており、何と扉は真新しいスチール製だった。

 誰も登らないような不遇な山の山頂の小さな社殿に一体誰が?という疑問を禁じ得なかった。

 その一方で、慶応元年(1865)の銘を刻む古い鐘は、往時の信仰を偲ばせるものだった。

 再度、明善寺に戻ると、ちょうど寺は屋根の改修中だった。

 明善寺といえば、秩父困民党の甲大隊長・新井周三郎が捕虜にしていた県警巡査青木与一に切り付けられ、瀕死の重傷を負った後にかくまわれた寺である。

 周三郎は西ノ入の出身で、幼児、明善寺に通って和尚に読み書きを習った。

 当時から非凡な逸材であったという。

 その後、単身で東京に出て学び、教員の資格を取得。

 上州鬼石の浄法寺小学校へ赴任した。やがて、周三郎は秩父事件の波に巻き込まれていく。

 さて、明善寺に逃れた周三を密告を受けた警官隊が取り巻いたが、東京の逸見道場で修業した剣のわざに恐れをなし、誰一人として踏み込めなかった。

 周三郎は、かつての恩師の説得でようやく折れて投降したと伝えられている。

 彼は秩父事件の半年後の明治18年(1885年)5月17日、22歳の若さで熊谷監獄の絞首台の露と消えた。

 浅間山は明善寺とは関係ないだろうか。

 あるいは神仏分離以前には明善寺の奥ノ院的な存在でなかったのか。

 こんな疑問を抱きつつ、山居地区から望む浅間山を仰いでびっくりした。

 地元の山居(大字西ノ入)からは乳首状の突起が消え、均整のとれた富士形に見えるのではないか。

 しかも、山居には明善寺との関係を物語る次のような伝説が伝えられていた。

  明善寺の開祖となった僧は駿河の国の出身であったが、ある日、山居の地を訪れ、正面に仰ぐ富士形の山(浅間山)を見て故郷から眺める富士山を思い出し、この地に明善寺を建立したという。

 実際に、かつては住職は修業のために毎日、浅間山に登っていた。

 浅間山も、猪ノ倉や山居、大内沢などに住む檀家の人々が信仰していたという。

 そして、以前の屋根瓦が取り払われ、立派な銅の屋根への張替えが終わった寺で、本堂左手の釈迦堂の扉をみて驚いた。

 それは先に見た浅間山山頂の浅間神社の新しい扉と同一のものだったからである。

 幸い、改修に立ち会っていた檀家の方がおられたので聞いてみると、明善寺は寄居町西ノ入や東秩父村大内沢の檀家の人々がお金を出し合って管理している。

 浅間神社の扉を改修したのも明善寺の檀家の方々だったのである。

 明善寺と浅間山とのつながりは、寺が無住になった今もちゃんと生きていたのである。

(注記)

 私は1986年以降、40年近く浅間山を訪れていないが、1989年に明善寺の檀家が浅間神社の傍らに「摩利支尊天」と刻字された青石の碑(明治35年4月)、「せんげん様」(浅間様)の碑を遷座したという。

 さらに、山頂に寄居町二級基準点が新たに設置されているという。

 また、大内沢から送電線巡視路を使い官ノ倉西尾根の主稜線に出、枝尾根を浅間山に向かう踏み跡も、猪ノ倉・仙元名水から山頂に直接登る道とともに最近ではよく歩かれているという。

 最後に、最近ハイカーの間では、浅間山は「西ノ入仙元山」と呼ばれているようだ。

 しかし、浅間山にも秩父鉱業(株)寄居鉱業所の採掘が迫っている。

 浅間山すぐ南の沢沿いの車道が採掘現場の北端である。

 採掘期間は2028年3月までだが、採掘許可が更新され、2028年4月以降も砂岩の採掘が認められた場合(恐らくそうなるだろうが)、確実に沢を越え、浅間山が採掘のターゲットになることは必至な情勢である。

 何とか、このユニークな山容の山を守りたいのだが、大企業の前には無力なのだろうか。

物見山(ものみやま)

 君八山から郡界尾根(官ノ倉西尾根主稜)は送電線の下を歩くようになる。

 いくつかのピークがあるが「東京電力西上武幹線第181号鉄塔」のあるピーク。

 名称は、比企・秩父・大里地方に多い「物見山」と同じ。

 北条氏の主要城の物見の城であった(大内沢の物見山の場合、距離的に近い鉢形城の物見)と想像される。

286.6㍍4等三角点峰(仮称・大貫山)

 官ノ倉北尾根の主稜は、物見山の次のピークで向きを急激に北に変え、大内沢と寄居駅を結ぶ車道に沿って延びていく。

 向きを変えると、すぐに4等三角点のあるピークに着く。 

 点名は「大内峠」。地下埋標の珍しい三角点である。

 町田尚夫氏は、著書『奥武蔵を楽しむ』(さきたま出版会、2004年)において、明善寺→浅間山から尾根通しに本峰に達しているが、記録では「大貫山」の名を冠している。

 しかし、他の文献や記録、地図類をみても、大貫山の名は発見できなかった。

 そこで、大貫山の名はあくまでも「仮称」として併記させてもらい、暫定的には286.4㍍4等三角点峰をメインとさせてもらいたい。

高山(石尊山)(たかやま・せきそんさん)

 官ノ倉山から延々と続いた官ノ倉丘陵西尾根の終点(西の末端)に当たる山。

 277㍍独標。

 他の石尊山と区別するため、ハイカーの間では便宜的に「三品石尊山」と呼ばれている。

 高山の名は、古くは『武蔵国郡村誌』や『武蔵通志』に見られる。

 『郡村誌』男衾郡三品村の条は、「高山 高さ三十二丈五尺。連山擁塞周回測り難し。村の中央より西に聳へ、山脈秩父郡大内沢村に連亘す。雑木生茂。登路一條険峻にして恰も断岸の如し。少しばかりの渓水流下す。山上に高山社あり」と詳細に記している。

 これに対し『通志』の記述は、「高山 男衾郡尾折原村三品村の中央より西に聳立し、高さ三百二十五尺。山脈西秩父郡登谷山大内沢より来り、西北は釜伏峠に連り、北は車山」と、『郡村誌』の詳細な記述を踏まえ、やや簡略化している。

 「高山」の名は、その名のとおり、寄居町三品付近では一際高い山という意味であろう。

 記述にある「高山社」とは、高山山頂にある石尊神社の奥社社殿である。

 『郡村誌』三品村の条は、「高山社」についても、長文で詳細に記しているが、分かりにくいので、その後の経緯を加えながら「翻訳」した町田尚夫氏の文章を引用しておこう。括弧は私が付け加えたものである。

 「(三品から)急登して着いた頂上の小平地には、石尊神社奥社が祀られている。この神社は日本武尊伝説の社で、『武蔵国郡村誌』に「高山社 日本武尊が東征の際この山頂で憩い、石に腰掛けて四方を見渡した。その石を高山石尊神社として祀った(要旨)」とある。近世は願い事を叶えてくれる神様として信心され、戦前まで数多くの講が参拝したという」(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』さきたま出版会、2004年より)。

 町田氏は続けて「嘗ては山頂に百人もの氏子達が集い、賑やかに催された夏祭りは里へ移った」と書かれている。

 要するに、山頂の石尊神社の社殿は奥社であり、例祭は麓の本社で行われるということである。

 町田氏が訪れたのは2002年6月である。

 私が三品を訪れ、高山の石尊神社について講元の森家で聞き取りを行ったのは1986年である。町田氏の踏査との間に16年の歳月が流れている。

 16年の間に山麓にある三品の鎮守・白髭神社と高山山頂の石尊神社との関係も変わったので、まずは古い私の聞き取り結果を記してから変化を指摘したい。

 大里郡寄居町三品(みしな)は戸数30戸ほどの小さな集落だが、独立した1つの大字をなしている。

 隣の西ノ入が平倉・栃谷・山居・五ノ坪の4つの地区からなり、戸数も270戸を超えるのとは対照的である。

 一般に大字を構成するためには、村社(鎮守)を維持できるだけの財産を村(大字)が所有していなければならないとされる。

 ところが、三品には石尊神社のほかに、山麓には「畠山重忠の乗り上げ石」で知られる村社(鎮守)の「白髭神社」もある。

 ところで、三品ではかつて屋根に瓦を乗せてはいけないと言われていた。

 これは贅沢してはいけないといういましめで、神社の神殿を瓦にさえすれば、氏子が守られると信じられていた。

 この地では、昔からきゅうりをつくってはいけないという戒めがあった。それは、きゅうりの切り口が白髭神社の屋根瓦の紋と似ていたからである。

 森家は戸長を務めたこともある三品の名家だが、石尊神社との深いかかわりをもつようになったのは、神社が祀られる高山の土地を購入してからだという。

 聞き取り当時の講元の先代のときの話だが、そのころ村人は高山山頂まで登るのが大変なので、白髭神社境内の「畠山重忠乗り上げ石」(ひずめ石という)の上に石尊様を遷移しようと主張。

 これに対し、森家側はあくまでも石尊様はあくまでも高山に置くべきと主張。

 両者が対立し、一時石尊様は2つに分かれてしまった。しかし、その後、村人も折れて、高山石尊様に統一された。

 講の責任は氏子総代が務め、3人の永代世話人を含め5人からなる。この5人が講元の家に集まり、準備を進める。

 高山石尊様の山開きは例年8月18日で、この日から当番が2人1組で山頂の灯篭に灯をともしに行く。

 当番は順番で各戸を回り、次年度に引き継がれる。

 2年前に白髭神社の境内に公民館がつくられ、祭りに使われる道具一式が納められているが、それ以前はすべて講元代表宅で所蔵し、祭りの当日にリレー式で山頂に持ち上げた。

 山開きの当日から世話人は森家宅に集まり、祭りの準備を進める。

 まず、前年度に記帳した人すべて(約100人)に呼び出し状を出す。例祭の前日(8月26日)には「高山石尊神社神璽」と刷られたお札を配る。

 一方で一般の氏子は山頂までの道普請に携わる。

 祭りの当日、最後の準備として、山頂が狭いので、「お棚掛け」と呼ばれる桟敷をつくる。

 祭りの当日(8月27日)は午後2時から4時に頃が最も賑やかになるが、過去90年間で雨に降られたことは2回しかなかったという。

 祭りには三品以外にも、西ノ入、秋山など隣から多数の参拝者が訪れ、氏子以外にお金を出して祈願を申し込む人は100人近くにのぼったという。

 平倉地区(西ノ入)では、梵天講が組織され、例祭の当日、石尊神社の御神木に幣束をつけた梵天を取り付けて祈願を行う習わしになっている。

 祭りが終了すると、世話人をはじめ氏子の人々は一杯ひっかけながら山をくだり、公民館でお日待ちを行う。

 そして、お日待ちをしても残ったお金を例年積み立て、昭和60年(1985)には高山山頂の石尊神社社殿の改修を行った。

 1986年当時、三品や秋山の耕地を見下ろす高山の山頂には、真新しい石尊神社の社殿が鎮座していたのである。

 以上が1986年の聞き取りであった。

 ところが、2002年6月の町田尚夫氏の調査では、「急な山頂へのお参りが難儀なことから、数年前白髭神社のひづめ石(引用者注:畠山重忠の乗り上げ石)の上に(石尊神社の)小祠を祀り遷座した。ご神体は長さ50センチほどの石の棒で、大切に護持されている」(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』(さきたま出版会、2004年より。括弧内は引用者が補足)。

 あくまでも高山山頂の石尊神社で例祭を続けるか、それとも住民の高齢化に伴い、麓の白髭神社の「畠山重忠の乗り上げ石」上に遷座して里で例祭を行うかという論争が再燃。

 今後は里で行う主張が通って、山頂の神社は「石尊神社奥社」になった。

 高山山頂からは北側に「ラクダの背のような」(町田氏)コブを連ねた「車山」(くるまやま)の特異な山容が印象的に望まれる。

車山(くるまやま)

  寄居町三品の南に位置するのが高山(石尊山)であるとするなら、集落の北に聳える山が「車山」の山稜である(車山は、寄居町立原の山である)。

 車山は、金勝山ほどではないにせよ、小さいながらも独立した山塊をなす。

 車山山稜の主峰である東端の226.8㍍3等三角点峰(点名「車山」)から西端の194㍍独標まで縦走するだけでも、それなりに楽しめる。

 とくに3等三角点峰からのワイドな展望は見事で、いつまでいても飽きることはない。

 古い地誌に当たると。『武蔵国郡村誌』では、男衾郡秋山村(現在の寄居町秋山)、男衾郡立原村(現在の寄居町立原)の両方の項目で、それぞれ車山の詳しい説明がある。

 しかし、車山山稜南麓にある「永光院」は寄居町三品分なので、少々ややこしい。

 『武蔵通志』を読むと、車山に関する興味深い記述がある。引用しておこう。 

 「車山 高さ二百尺。三品の北にあり。山頂凹處あり、二峰をなし東車山、西車山と云い、上に琴平社あり」。

 たしかに、226.8㍍峰の山頂には金毘羅神社が祀られている。

 しかし、『通志』の説明は、主峰だけでなく、車山山稜の西端が194㍍独標、東端が地形図等で車山の表記がされてきた主峰という山稜全体の「総称名」とすると、容易に理解できる。

 車山山稜は、全体で5つほどのコブからなるが、ほぼ中央南山麓にある「永光字」奥の谷をはさんで東側の山稜に「東車山」、西側の山稜には「西車山」の山字名がある。

 これも、『通志』の記述の正しさを証明するものであろう。

 東車山の主峰である226.8㍍三角点の頂上に立てば、広大な眺望など、それなりの満足をえることができる。

 しかし、西に進み、西車山の西端まで縦走することで、初めて車山の真価が分かる。

 ちなみに、226.8㍍三角点峰の金毘羅神社は、山麓に住む三品や立原の数戸により信仰されている。

 毎年1月10日には信仰している人たちが登拝している。

 さて、車山を語るうえで避けられないのが山名由来である。

 近くに北条氏の主要な城であり、北の上杉氏に対する要であった鉢形城があるだけに、至近距離にある車山の山名も鉢形城落城にまつわるものが多い。

 例えば、車山の山頂から鉢形城の曲輪(くるわ)がよく見えることから、「くるわやま」と呼び、車山になったという説。

 豊臣氏の鉢形城攻めの際、豊臣勢の一員であった徳川家康の重臣・本多忠勝が28人持ちの大砲(おおずつ)を山頂に貼り付け、鉢形城の大手門を破壊したときに、大砲を引いた車の轍がついたことから、車山の名がついたという二説が有力である(寄居ホームページより)。

 その他、寄居町鉢形と折原の境にある荒川に架かる落合橋付近から眺めると、車山は双耳峰に見え、荷車の二輪の車を連想させることから、車山の山名が生まれたとの異説もある。

 しかし、これらの説を細かく検証していくと、二番目の大砲を引いた荷車の轍説は、当時の大砲の性能では玉が車山から鉢形城には届かないという点を無視している。

 三番目の山容説は、あくまでも車山の山名・山容に付会した説の域を出ない。

 最初の「くるわやま」説もそうである。

 そうなると、車山の山名を天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条氏攻めにまつわる逸話から切り離して、実はもっとそれ以前からあったという考えにたどり着く。

 それが渡来系にかかわる説である。 

 手元にあった鏡味完に・鏡味明克著『地名の語源』(角川書店、1977年)をひもといてみると、「クルマ」の項目のところに「織布の部民」という意味があるという記述が目を引いた。

 そこには、養蚕や耕作の技術をもたらした渡来人の存在が感じられるのである。

 とくに三品村が属していた男衾郡の開発には渡来人が大きな役割を果たしていた。

 なかでも、9世紀前半に男衾郡の大領という高い政治的地位を保有し、巨大な財力を誇った壬生吉志福正は、6世紀末の屯倉(大和政権の直轄地)設置とともに武蔵国に移住した渡来系氏族壬生吉集の末裔であると考えられている(金井塚良一『吉見の百穴』教育社、1986年を参照)。

 事実、旧男衾郡には「勝呂」「牟礼」など渡来系の人々と関連した地名が残っている。

 しかも、三品の鎮守である白髭神社が高麗神社の系統であることにも注目したい。

 このように見ていくと、古代にこの地に移住してきた渡来系の人々は、養蚕や織物の部民として定着し、白髭神社等を氏神として信仰した。

 そして、集落のシンボルである山に「クルマヤマ」の名を与えたと考えることができないだろうか。

 もちろん、これはかなり強引な説であり、今のところ大字名の「三品」が渡来系の人々との関連では解けない弱点をかかえている(地元では、昔、三品に「三本足の雉」「三本枝葉の松」「巴の芝」という珍しい三品目があったということから、三品の名がついたと伝えられている)。

 もっとも、この逸話は「三品」の地名に付会したものであろう。

 ともあれ、車山の山名由来を渡来系との関係で解きほぐすためには、さらに綿密な調査と考証を積み重ねていかなければならないだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました