(略図)粥新田峠・二本木峠付近略図

(略図)二本木峠・皇鈴山・登谷山付近略図

二本木峠(にほんぎとうげ)
粥新田峠と登谷山のほぼ中間にある峠。
秩父郡皆野町三沢と秩父郡東秩父村坂本を結ぶ峠である。
現在の峠は、山稜を走る県道三沢坂本線と、峠に登る林道和地場線が合流する車道の一地点に過ぎず、ひなびた峠を想像するとあまりの落差に驚かれるだろう。
峠の端にたたずむ石積みの上に安置された石宮がわずかに往時の峠の面影を残している程度だろうか。
この石宮には「大正七年三沢村玉川耕地一同」の銘が刻まれている。
峠にはヤマツツジが植えられており、5月上旬に一斉に開花するときは見事の一言。
さて、二本木峠にはダイダイボウと日本武尊にまつわる伝説が残されている。
笠山のところでも紹介したので重複になるかも知れないが、あえて再録しておこう。
(デイダボウの足跡)
「昔、デイダボウ(デイラボウ・ダイダボウ)という巨人があらわれた。腹が空いたので、笠をぬいでおき、粥新田峠に腰をかけて休んだ。笠をぬいでおいたところが今の笠山である。荒川の水を口にふくみ山に向かってふいたところ霧がかかった。これが今の大霧山である。それから粥を煮て食べた。そこが今の粥新田峠である。また持っていた二本の箸を立てた。これが今の二本木峠である。腰をおろしたところはやすみ石という。デイダボウの足跡は大霧山の頂上や粥新田峠の下にもあるという」(韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成 上・自然編』(北辰図書出版、1973年)
(日本武尊に因む伝説)
「日本武尊は東夷征伐の折、この峠で食事をされた。その時使った杉の箸をさしておいたところ、根がはえて峠名の起こりの二本の大杉になったという。尊は峠より北に連なる稜線を腰に鈴をつけて歩かれた。その鈴の音を聞いた鈴草がいっせいに開花したので、その山は「皇鈴(みすず)山」と呼ばれるようになった。皇鈴山を越えると日が暮れてしまい、次の峰は夜登られたことから、その山は「登夜(とや)山」になったという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』(エンタプライズ、1990年)
いずれも、地名の漢字表記に付会した伝説の域を出ない。
『武蔵国郡村誌』秩父郡坂本村の条では、「二本木峠 坂本村の西北にあり、嶺上より二分し、東は本村、西は三沢村に属す。村の東方字内手より上る一里。即ち小鹿野道なり」と記す。
『武蔵通志』でも「二本木嶺 粥新田峠の北にして、西は三沢村に属す。坂本字内手より上る一里。小鹿野に至る支道なり」とほぼ同様の内容を記載している。
いずれの地誌にも書かれているように、二本木峠は、小川町から坂本村に出て、峠から三沢村におり、小鹿野町に向かう古い峠道であった。
愛宕山(あたごやま)
二本木峠のすぐ北にある654.9㍍3等三角点峰(点名は「二本木」)。
県道三沢坂本線は愛宕山を巻いてしまうので、山頂に達するためには急坂の山道を登らなければならない。
到着した山頂は樹林が茂って展望はなく、3等三角点標石と愛宕神社の石碑が寂しくたたずむ場所である。
大平山(おおひらやま)
愛宕山北の標高670㍍圏のピーク。
大石真人氏監修の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8『奥武蔵』朋文堂、1954年所収)では、愛宕山を二本木山と記し、その北の山を大平山としている。
古いガイドブックでは必ず記されていた大平山だが、最近のガイドブックや昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』では山名が消えてしまった。
ちなみに、日下部朝一郎『秩父の峠道』(木馬書館、1981年)、33頁の略図では、大平山ではなく、「物見山」と表記している。
皇鈴山(みすずやま)
大平山の北に続く679㍍独標。
広い山頂は、この山稜中最も展望が楽しめる場所である。
県道からの車が満載の駐車場は目障りだが、東屋やベンチもある、
さらに展望が良いのが、山頂東側の「展望台」である。
端には手すりが設けられ、手すりにつかまりながら、何も遮るもののない大展望を満喫できる。
展望台の下にはベンチが一つあり、一見、山頂から下に転げ落ちそうな感もあるが、こちらも展望台以上の臨場感のある眺望を楽しめる。
このベンチを「天空のベンチ」と呼んでいる。
皇鈴山の山名は昭和になって命名された
さて皇鈴山の山名について、古い地誌にも記載が全くないし、どのような由来で、この大仰な名がつけられたのか疑問をもっていた。
それが氷解したのが、関口洋介氏の奥武蔵研究会会報『奥武蔵』第350号(2006年7月)の次の一文に接したときである。
「皇鈴山は、昭和11年、当時の三沢村の福田唯一村長がこの峰を初めて『皇鈴山』と命名し、山頂に皇鈴神社を祀ったと言われる」
念のために『三澤村誌』(三澤村誌刊行委員会、1977年)を古書店から取り寄せ確認したところ、次の一文があった。
「皇鈴山は昭和11年。時の村長福田唯一氏の発議により三沢公園として誕生し、皇鈴神社を祭り、春秋の二季に日を定めて全村民相寄り一日の融和を楽しんだという」
村誌の一文では、皇鈴山の名を福田村長が命名したとは明言していないが、山頂に三沢公園を設置するにあたり、村の象徴として山名を同時に命名したと考えて無理はないだろう。
皇国思想が反映されたような皇鈴山という山名も、昭和11年(1936年)という太平洋戦争に向かう時代の雰囲気を感じさせる。
持田紫水(もちだしすい)の句碑
戦後の昭和25年(1950年)、皇鈴山頂に皆野町(旧三沢村)出身の夭逝の俳人・持田紫水(1917~1943)の句碑が建立された。
紫水はようやく新進の俳人として頭角を現した矢先の昭和15年(1940年)、23歳で応集を受け、南方に派遣された。
応集中の昭和17年(1942年)、5つの句により馬酔木賞を受賞したが、昭和18年(1943年)戦地で胃腸カタルにかかり、故郷の三沢村に戻り療養していた。
だが同年11月8日、26歳の若さで他界した。
皇鈴山山頂に建立された紫水の句碑には、表に「いっしんに鷹みてありぬ萱は穂に 紫水」と彼の句が刻まれた。
碑の裏には、彼の師であった金子伊昔紅による次のような紫水の略歴が刻まれている。
「持田紫水は大正6年1月29日三沢村に生まれ、俳句を好み、伊昔紅、かけいに学び水原秋桜子先生の馬酔木に寄稿して馬酔木賞を受く、昭和18年11月8日病没す」
毎年5月5日が山開きであり、当日は皆野町主催の行事が盛大に行われている。
金場の平・とんび岩
皇鈴山の次のピークを越えたあたりから尾根はにわかにやせ、右下は崖が続く。
2万5千分の1地形図「安戸」で崖の表示がされている一帯だ。
崖の上に手すりがつけられているので、それをつかみ慎重にくだる。
この崖上の「ヒラ」を「金場の平」と呼び、崖下から少しくだった斜面に「とんび岩」と呼ばれる大岩がある。
登谷山や大霧山など一帯は「結晶片岩」で、風化するともろい。
そのため、なだらかな山になる傾向があるが、一部では「金場の平」のように荒々しい崖が露出する一帯もある。
グミの木峠
金場の平のガレ場の縁をくだり切ると、「グミの木峠」。
県道三沢坂本線が平行して延び、東秩父村大内沢から皆野町三沢への林道が尾根を乗っ越しているので、かつての静かな雰囲気は様変わりした。
それにしても、『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内沢村の条に、「グミノ木峠 村(注:大内沢村)の西よりにて三沢村へ行く峠なり。登ること二十町ばかりもありて、頂を界とし、三沢村へ約十町下るなり」と記載されている古くからの生活の道であるのに、今ではガイドブックや登山地図などでグミの木峠を記載しているものはごく一部である。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』でもグミの木峠の記載はない。
唯一の例外が、重信秀年『奥武蔵・秩父ベストハイク30コース』(東京新聞、2023年)90頁の地図で、「茱萸ノ木峠」名で記載している(本文中に峠への言及はない)。
峠には四角に石積みしたした上に山ノ神神社の小宮が祀られている。
大内沢側で祀ったもののようだが、建立した経緯は地元でも分からないようだ。
なお、峠には「防ぎ」の吊り場がある。
「防ぎ」とは隣の他地区との境界付近にしめ縄を張り、疫病神が入ってこないようにワラジを吊したもので、大内沢(東秩父村)・三沢(皆野町)境界に、こちらも大内沢側が設置したもののようだ。
登谷山(とやさん)別名:雨乞山(あまごいやま)
グミの木峠から登り返した668㍍独標。
『武蔵国郡村誌』秩父郡大内沢村は、「登谷山 高八十丈。周回不詳。村の西にあり、嶺上より二分し、東は本村(注:大内沢村)に属し、西は三沢村に属す。村の西より上る十八町五十間。即ち、三沢道なり」と記す。
『武蔵通志』は、「登谷山 高八百尺槻川村大内沢の西にあり」と解説している。
山頂からの展望はそれなりだが(東側の展望は良好)、皇鈴山の大展望には遠く及ばない。
東秩父村大内沢を象徴する名山だが、山頂のマイクロウェーブ中継所が使用を中止した後そのまま放置され、今や廃墟状態。
かえって展望を邪魔し、山頂の雰囲気を害する存在になっていて残念な限りだ。
それでは登谷山の山名は何に由来しているのだろうか。
先に引用した日本武尊の伝説は「登谷山」(登夜山)の漢字表記に付会したものであり、「トヤ山」の発音から推測していくべきだ。
「トヤ」には山の鞍部や山中で鳥をとる人の小屋」などいろいろな意味があるが、それらは登谷山の地形に一致しない。
もう少し「トヤ」の意味を探ると、「草刈場」の意味もあることが分かった(鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)。
登谷山からグミの木峠への山稜の東側は大内沢共有地であり、江戸時代以降、草地で秣場として利用していた。
その後、杉や檜を植林したが、「草地=秣場」のテッペンにある大内沢の象徴的な山として「トヤサン」の呼称が生まれ、それに「登谷山」の漢字を当てたと考えることができないだろうか。
なお、登谷山のことを、大内沢の人々は「雨乞山」とも呼んでいた。
真下通雄氏は、1980年出版の自著のなかで、子供の頃経験した大内沢の雨乞いの模様を再録している。
全文引用すると長いので、簡潔にまとめておこう。
大正12年(1923)の夏の終わりの頃、既に1ヶ月も雨らしい雨がなかった。
農作物の被害は著しく、こんな旱魃は経験したこともないと人々がこぼすようなった。
そこで大内沢でも雨乞いを催すことになり、ある日の午後、昔から雨乞山といわれている登谷山の頂上へ百余人の村人が大太鼓三、小太鼓八個を担いで参集した。
やがて山頂の適当な場所に太鼓が据えられ、八大竜王を呼ぶことになった。
雨乞いの経験のある長老の指導で、彼が先ず音頭をとり、皆さん大声で復唱することになり、大太鼓、小太鼓のたたき方も長老が指導した。
長老が大空に向かい「なーむ、なんだあ、りゅうじんおう」と叫ぶと、大勢が復唱し、間髪を入れずに、小太鼓が、続いて大太鼓が力強く叩かれ、さらに長老が「南無、跋難陀竜神王」と音頭をとると、大勢が復唱し、大小の太鼓を叩く。
八大竜王を呼び終えると、また、これを初めから繰り返し行った。
夕方になって雨乞いが効いたのか、にわかに雲が出てきた。
やがて雲は山頂にまで広がった。
そして、雨乞いの効果てきめんで細かい雨が降ってきたので、雨乞いは夕方5時半頃やめ、皆は下山し、自宅に急いだ。
だが自宅に戻ると雨がやんでしまった。それから3日ほど経ってから大雷雨があり、翌日・翌々日も雷雨になり、ようやくにして十分な雨に恵まれた(真下通雄『銀河縹渺ー大内沢の歴史考ー』(1980年)
登谷山北西の657.7㍍2等三角点峰の点名は「雨乞山」である。
三角点峰で雨乞いをした記録がないことから、おそらく登谷山の別名である「雨乞山」を何かの事情で採用したのではなかろうか。
したがって、657.7㍍2等三角点に、三角点の点名をもとに、雨乞山と命名するのは誤りである。
なお、657.7㍍2等三角点峰について、日下部朝一郎氏は『秩父路の峠道』(木馬書館、1981年)33頁の略図において、「鎧山」(ヨロイ山)の名をあてている(説明はない)。
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