「比企・外秩父の山徹底研究」第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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(略図)大平山・葉原峠・仙元峠(浅間峠)・釜伏峠付近略図

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釜伏峠(かまぶせとうげ)

 登谷山(雨乞山)とそれに続く657.7㍍2等三角点峰を越えてくだりつくのが、今は車道となった釜伏峠。

 平凡な車道の通る峠となってしまったが、大霧山方面から延々とつづき、釜伏峠から北にさらに延び、いくたの峠を設け、さらに方向を北東に変え、金尾山を最後に荒川に張り出す長大な尾根中、この釜伏峠がもっとも知られた峠である。

 なぜなら江戸時代の頃から、江戸から中山道を通り、熊谷から寄居をへて、秩父に達し、秩父神社を参拝するための重要な道だったからである。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡風布村の条には、「釜伏峠 村(風布村)の南の方にあり、南の方、郡三沢村より来たり。東の方、男衾郡秋山村に達す。村内にかかること十六町ばかりの峠なり。道幅三尺より六尺に至る」と位置的な概要を述べたあと、「中山道より榛沢郡寄居村へ出、この峠にかかる秩父観音の順礼道にして、これを山通りと云い、もっとも難所である」と記す。

 『新記』にもあるように、江戸時代、江戸と秩父との往来が盛んだった頃、中山道を熊谷に向かい、さらに寄居についたあと、二つのコースに分かれた。

 一つは寄居より荒川に沿って、波久礼(はぐれ)→野上→三沢→秩父に向かう「本通り」。

 もう一つが、寄居から釜伏峠に登り、三沢村におり、秩父に向かう「山通り」である。

 「本通り」がメインルートだったが、ここには波久礼の難所があった。

 荒川が大きく蛇行すると同時に、北と南の両側から山がせり出し、川幅が極端に狭くなり、川は急流という難所であった。

 しかも、道が川に聳える断崖に付けられていたので、悪天候により水流が増えると、通行できず、足止めになるという事態が頻発した。、

 そのため、多くの人々は難所のある本通りを避け、寄居から釜伏峠に登る「山通り」コースを選択したのである。

 これにより、釜伏峠は大いに賑わった。

 釜伏峠の賑わいは、荒川沿いに秩父鉄道が開通するまで続いた。

釜山神社(かまやまじんじゃ)

 釜伏峠からすぐに釜山神社への参道に入る。

 山犬像と釜山神社と刻まれた石碑のところから参道に入る。

 五対の山犬像を見て、大きな「岩松翁の碑」を過ぎると、参集殿が現れる。

 その裏の石段を登ると釜山神社が現れる。

 先に「岩松翁の碑」といったが、釜山神社の歴代の宮司がすべて岩松姓である。

 『新記』風布村によると、「この峠に新兵衛という者居住す。この者のいかなる故にや田畑二町八段一畝十九歩、往古より今に至って除地なり。氏は岩松姓なり。同姓の者三軒あり。新兵衛か先祖は上州金山落城の時落人となり、この地に忍び居り、弘治二年(1556年)に死去せりという」と宮司の祖先について詳細に記している。

 『秩父志』はさらに詳しく、「この北陰の分、峠に登ること二十丁ばかりにして人家三軒あり。皆一族分家にて岩松氏なり。往古乱を厭いてここに隠遁せりという。土人称す。新田の氏族岩松天用入道の余裔なりといい伝ふ」と記す。

 以上の古い地誌から分かるとおり、現在の釜山神社宮司岩松氏の先祖・岩松新兵衛は上州金山落城のときの落人で、まずは峠の下に一族三軒が住みつき、弘治二年(1556)に死去したという。

 峠から寄居方面に向かって500㍍ほどくだったところに、かつて岩松家が住みつき、釜山神社を開いた場所がある。

 その後、峠下の釜山集落から現在の峠に釜山神社を遷座した。

 釜山神社は岩松氏の祖である新田氏を氏神として祀ったことが、その始まりであるという。

 釜山神社に関するまとめとして、町田尚夫氏の以下の記述を引用しておこう。

 「この神社(注:釜山神社)は、元々は釜山蔵王大権現と称し、天文二年(1533)、新田義貞の後裔岩松氏が氏神として創建したと伝える古社。後には峠越への人々の信仰を受け、江戸後期には養蚕守護のご利益があると広く信仰された。

 慶応2年(1866)、社殿の修理費が発端となって紛争が起こり、明治8年頃風布の鎮守姥宮神社に合祀された。その後、岩松家は神社の再興を志して奔走、明治30年に至り、漸く鎌倉の住吉神社を譲り受け旧社地に奉斎した。のち社名を釜伏神社に、更に釜山神社に改称、昭和17年現在地に新築移転した」(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』(奥武蔵研究会、2004年)

 大久根茂氏によると、氏が取材した当時(1980年代)の岩松宮司は28代目。名は新兵衛といい、「新兵衛」と「信兵衛」の名が交互に世襲されているという(大久根茂『秩父の峠』(さきたま出版会、1988年)。

釜伏山(男釜:かまぶせやま・おがま)

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡風布村の条に、釜伏山について以下のような記述がある。 

 「峠(釜伏峠)の傍に釜を伏せたる如くの山二つ相雙へり。是を釜伏山という」

 ここからも分かるように、釜伏山は一般に「釜伏山」と呼ばれる釜山神社背後の男釜だけでなく、峠をはさんで相対している「女釜」を含む総称である。

 まず釜山神社の裏から登ると、かなりの急坂となる。

 二つ目の突起が釜伏山(男釜)の山頂。

 山頂には釜山神社の奥ノ院が祀られている。

 残念がら樹木が鬱蒼と茂っており、展望はない。

 2万5千分の1地形図「寄居」の582㍍独標。

 地形図では男釜にのみ釜伏山の記載をしいているが、これは誤りで、男釜と女釜(591㍍独標)の間に釜伏山の表記をすべきである。

釜伏山(女釜:かまぶせやま・めがま)

 男釜同様、釜を伏せたような山容が印象的。

 秩父鉄道・親鼻駅から釜伏峠に向けて風布の集落を過ぎ、尾根筋に出て展望が開けてくると、正面に釜を伏せたような山が大きくそびえる。

 一瞬、男釜かと思うが、これが女釜なのである。

 女釜には「荻根山」(おぎねやま)の別称があるため、「釜伏山」と「荻根山」が相対していると記載される場合が多いが、繰り返しいうが、「釜伏山(男釜)」と「釜伏山(女釜」なのである。

 そのため、釜伏山に登るということは、男釜・女釜の両方を登るということなのである。

 しかし、女釜(荻根山)は不遇な山で、登る人は僅かで、大勢は釜伏峠から釜山神社から男釜に登り、男釜から日本水(やまとみず)方面にくだってしまう

 女釜へは峠付近から明瞭な道がついており、僅かな登りで山頂に着くことができる。

 樹木が茂って展望のない男釜と対照的に頂上からは北から西にかけての展望が良く、西上州の山々から両神山・城峰山など秩父北側の山々のパノラマが広がる。

 ところで、女釜には荻根山以外に「見通し八丁」という別名もある。

 神山弘氏によると、明治初めにここを測量したとき、磁気を帯びた鉄分があったため、機械が狂って、目測で周囲を八丁といったのが由来で、見通し八丁と呼ばれるようになったという(神山弘『秩父・奥武蔵 伝説たわむれ紀行』(金曜堂出版部、1982年)。

 女釜の標高は591㍍。男釜の582㍍よりも9㍍高い。

日本水(やまとみず・一杯水→いっぱいみず)

 男釜から岩尾根をくだった鞍部より左に断崖をへずるようにして進んだところにある。

 古い地誌にも複数登場する昔からの名水である。

 『武蔵国郡村誌」秩父郡風布村の条でも、「峯(引用者注:男釜)より北方一町を下り、岩の間より清水湧出し旱魃淫雨の候といえども、かつて増減せざるをもって、土人これを一盃水と呼ふ』と記述している。

 『武蔵通志』でも、「(釜伏嶺の)頂上に釜山神社あり。日本武尊を祭る。その北に下る一町ばかりに一盃水あり。岩隙より湧出し」とある。

 これらの記述から想像されるように、日本水はかつて「一盃水」(一杯水)と呼ばれていたことが分かるうえ、大岸壁の間から湧き出る様子が手にとるように分かる。

 実際に「日本水」は、百畳敷岩と呼ばれる30㍍もの高さの岸壁の下部の岩の割れ目から水がこんこんと湧き出ている。

 日本水は涸れなかったため、旱魃路の雨乞い行事の「もらい水」になったという。

 つまり、「一般には、この水を汲み、若者たちがリレー式に村まで運び、畑にまいて降雨を祈った。そこで水をもらいに来るのは遠方の村々で、地元の村では、わざと遠方の城峰山方面等にもらいに行ったという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡る』(エンタプライズ、1990年)

 飯野氏は続けて、次のように書いている。

 「この日本水は、日本武尊が岸壁に剣を刺して、戦勝を祈願したところたちまち湧出し、あまりの冷たさから一杯しか飲めなかったところから『一杯水』とも言われている。また、不老長寿や子授けなどの願いごとにご利益のある霊水としても、古くから近在には知られていた。環境庁が選定した名水百選にも風布川源流『日本水』として選ばれた(飯野頼治、前掲書)

 このように昔から霊水として有名だった日本水だが、現在では、百畳敷岩が崩落する危険があるため、立ち入り禁止となっている。

花山(はなやま)

 日本水入口(日本水は現在立ち入り禁止)から相変わらずの岩尾根を約10分ほど進むと、待望の通称「花山」。

 埼玉県の天然記念物に指定されている「ゴヨウツツジ」(アカヤシオ・シロヤシオ)自生地で、開花期には、岩場にアカヤシオのピンクの花が、それに少し遅れシロヤシオの白い花が栄え、実に美しい光景だった(1985年の訪問時)。

 山頂中央に、「埼玉県指定天然記念物ゴヨウツツジ自生地」と書かれた昭和40年(1965)10月建立の石碑があり、もう一つの古い石碑(大正13年(1924年)3月の銘)には「釜伏山名物花山」と刻まれている。

塞ノ神峠(さいのかみとうげ)

 花山から北に岩稜をくだり、2万5千分の1地形図「寄居」の男釜北北東の415㍍独標との鞍部まで来たら、左に入る。花山直下の岸壁の下をからんで、あっけなく風布川上流に沿った林道に飛び出す。

 釜伏峠に向かって車道を登るにつれ、先ほど歩いてきた男釜北尾根の岩稜が左手にそそり立ち壮観である。

 車道歩きは遠回りになるので、扇沢耕地内の近道を抜け、再び車道に出たら、右に分かれる山道を登ると、明るく開けた稜線上の「仙元峠」(浅間峠)につく。

 仙元峠については次に説明することにして、これでは「塞ノ神峠」をカットしてしまうので、稜線上を釜伏峠に向けて南に向かうと、複数の林道が接続する交通の要衝のような塞ノ神峠につく。

 はじめに塞ノ神峠の表記と発音について明記しておきたい。

 ほとんどの「指導標」や「峠の表示柱」、地元・長瀞町のハイキング案内やマップ等には「塞神峠」と明記されている。

 その結果、「塞神峠」を「さいじんとうげ」と発音するのが、ネットの登山記録等では一般的になってしまった。

 しかし、正しくは「さいのかみとうげ」である。

 塞神峠にちゃんと「さいのかみとうげ」とルビを振れば良いのだが、それをしないため、「さいじんとうげ」の発音が一般的になってしまった。

 要するに、表記は「塞ノ神峠」でも「塞神峠」でも良いが、きちんと「さいのかみ」と読ませるためには、「塞ノ神峠」の表記の方がより適切である。

 さて、塞ノ神峠(さいのかみとうげ)とは何かというと、村の入口にあって、疫病の侵入を防ぐ「サエノカミ」を祀る峠の意味である。

 なお、一部のガイドブックでは塞ノ神峠・塞神峠を「賽神峠」と表記している例がある。

 「賽」には疫病の侵入を防ぐ(塞ぐ)という意味がないので、この表記(賽)は誤りである。

 では、塞ノ神峠にはどのような塞ノ神(さいのかみ・さえのかみ)が祀られているのだろうか。

 峠につくと、「塞神」と刻まれた高さ60センチ、幅50センチほどの石碑が、石積みの土台の上に立てられている。

 ここに、昔は「防ぎ」のワラジが置かれていたという(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』(エンタプライズ、1990年)。

 ところで、「風布」(ふうっぷ)は釜伏峠~葉原峠の尾根を境に長瀞側と寄居側に二分されている。

 現在も葉原峠~釜伏峠の尾根は、長瀞町と寄居町との境界尾根であると同時に、秩父郡と大里郡の郡界尾根である。

 その境界尾根をまたいで風布の集落がある。寄居側の風布やその北にある小林はみかんの産地として有名だが、明治22年(1889)から昭和18年(1943)までは、両側の風布とも白鳥村の一部として同じ行政区画内になった。

 だが、そのため学童にとっては峠を越えて向こう側の学校に通うという事態が生じた。

 飯野頼氏は以下のように経緯を説明している。

「(白鳥村当時)風布の小学校は、寄居側の中組耕地にあったため、(長瀞側の)葉原は葉原峠、蕪木(かぶらぎ)は浅間峠、大鉢形、阿弥陀ヶ谷の子の子供たちはこの塞ノ神峠を越えて通学した。そして分教場の小学課程を終え高等科になると、今度は、天神山城址の麓の白鳥尋常高等小学校まで、寄居側の風布の子供たちが峠を越えて通った。このように塞ノ神峠などは、学童たちの峠道でもあった。

 これも昭和18年9月、町村合併により風布は、峠のある尾根を境に東側は寄居町、西側は野上町(引用者注:のちに長瀞町)に合併したことにより解消された(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父をめぐる』(エンタプライズ、1990年)

 ここでは男釜北の岩稜を、日本水入口→花山とたどり、扇沢耕地を経由して仙元峠から塞ノ神峠に戻るコースを紹介した。

 だが、これは1985年当時の記録であり、花山北尾根の岩稜は、現在かなり荒れているおそれがある。

 そのため無難なコースとしては、花山から再度男釜を登り返して釜伏峠から車道を通って塞ノ神峠に出た方が安全かも知れない。

仙元峠(浅間峠:せんげんとうげ)

 塞ノ神峠から北に仙元峠、葉原峠、538.6㍍3等三角点峰にいたる尾根は、釜伏峠より尾根続きであり、長瀞町と寄居町との境界尾根である。

 二本木峠~登谷山~釜伏峠への起伏のある尾根とは違い、塞ノ神峠からの尾根は、ほとんど平坦ともいえるようなゆるい尾根であり、展望こそ灌木に邪魔されるが、500㍍圏の快適な尾根散策が楽しめる。

 途中、仙元峠道、葉原峠道などが頻繁に横切るように、この尾根は長瀞側の大字井戸や風布と寄居側の大字風布を結ぶ生活の道が通っていた。

 途中で寄居側風布の扇沢からの道が東側から合流すると、浅間神社(仙元さま)の社殿の建つ仙元峠(浅間峠)につく。

 2万5千分の1地形図「寄居」の450㍍圏の鞍部である。

 峠北の505㍍独標と塞ノ神峠とのほぼ中間である。

 峠には北東方面から風布からの林道も登ってきている。

 さらに、峠から反対に南西にくだる山道は、長瀞町風布の「植平」(うえびら)集落への道である。

 仙元峠という峠名は、峠に仙元さまと呼ばれる浅間神社が祀られていることによる。

 ひなびた峠にしては立派な浅間神社の社殿の裏には、「仙元宮」と刻まれた石碑があり、慶応2年(1869)11月建立の古い碑である。

 先にも書いたが、仙元峠は長瀞町風布の蕪木や植平と寄居町風布の扇沢を結ぶ峠であり、峠の東西の両風布の住民にとって不可欠の生活の道であった。

 4月上旬にはカタクリの咲く仙元峠は、かつて秩父困民党のなかでも最強の軍団として活躍した風布組の農民が越え、白鳥尋常高等小学校へ通学するために扇沢の学童たちが越えた峠であった。

 仙元峠を長瀞側に越えると蕪木(かぶらぎ)の耕地。そこは、大野苗吉(大鉢形耕地出身)とともに風布組の蜂起を組織した指導者のひとり、大野福次郎が育った耕地だ。

植平峠(うえびらとうげ)なる峠?

(略図)金尾山・大平山・金ヶ嶽付近略図 

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ところで、仙元峠の次の峠となると、505㍍独標を越えて葉原峠となるが、ここに「植平峠」(うえびらとうげ)なる峠が登場する(略図「金尾山・大平山・金ヶ嶽付近略図の「植平峠A」)。

 尾根の西南側の植平地区(長瀞町風布)に由来する峠名だが、長瀞町のハイキングコースマップや昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)などと2万5千分の1地形図「寄居」を照合すると、505㍍独標すぐ北の鞍部ということになる。

 しかし、505㍍独標からくだった地点から、ほとんど平坦な尾根を僅かに進めば葉原峠である。

 長瀞町ハイキングコースのコースタイムには植平峠(植平峠A)から葉原峠まで10分とあるが、こんな至近距離にわざわざ峠を設ける必要があったのだろうか。

 植平からは葉原峠へのちゃんとした林道がある。

 植平峠Aは、金ヶ嶽からの尾根が植平分岐と分かれて、仙元峠~葉原峠の主尾根に接続する地点とされるが、あえてこの地点を植平峠と呼ぶ必要があるのだろうか。

 どうも長瀞町がハイキングコースの宣伝等にあたり、重要なポイントには名前が必要と判断し、命名した可能性も捨てきれない。

 植平峠をめぐる事情をさらにややこしくしているのは、もうひとつの植平峠(植平峠B)が存在するからである。

 日下部朝一郎氏は著書『秩父の峠道』(木馬書館、1981年)において、金ヶ嶽からの尾根が主尾根の葉原峠南の505㍍独標から西に延びる支尾根とぶつかる地点(2万5千分の1地形図「寄居」では、植平から北東に向かう破線路が岩根神社方面から来る林道と接続する地点)を「植平峠」(うえびらとうげ)と呼んでいる。

 ただし、そのとき日下部氏は「正式には植平峠という名称はないが、仮にこう呼ぶことにしよう」と述べているのである。

 つまり、「植平峠」なる峠は日下部氏が1981年に仮称としてつけた峠であった(植平峠B)。しかも、今の植平峠(植平峠A)とは位置が違う。

 これはどういうことなのだろうか。

 あとは私の想像だが、日下部氏が仮称・植平峠と命名した当時、植平峠なる峠はなかった。

 幸い日下部氏の著書はかなり売れて(発売3ヶ月で版を重ねている)、植平峠の名称は広がった。

 その後、長瀞町がハイキングコースを設定する際に、金ヶ嶽からの尾根が葉原峠~仙元峠の主稜線に接続する地点に名称をつける必要があったとき、行政側に日下部氏のつけた植平峠の名が浮かび、日下部氏が仮称として命名した植平峠の位置を葉原峠南に移動させたのではなかろうか。

 こうして日下部氏が主稜線の505㍍独標から西に派生する支尾根上(金ヶ嶽に達する)につけたはずの植平峠(植平峠B)が、主稜線の葉原峠南(505㍍独標すぐ北の鞍部)に移動したのである(植平峠A)。

 つまり、日下部氏の仮称としての命名を長瀞町側が利用して、今の植平峠(植平峠A)を生んだと考えられないだろうか。

 なお、505㍍独標山頂の立ち木に、「大神部山」なる山名表示板が打ち付けられているという。

 しかし、大神部山というのは何の根拠のない山名であり、山名表示板をつけた方の勝手な命名の可能性が高い。

 そんな山名がネットを通して拡散し、徐々に山名として定着することを危惧している。

 ちなみに、505㍍独標山頂には、石尊大権現と小御嶽大権現の石碑がある。

葉原峠(はばらとうげ)

 釜伏峠から延びる主尾根が塞ノ神峠、仙元峠(浅間峠)をへて達する峠。

 南の505㍍独標と北の538.6㍍3等三角点峰(大平山)とのちょうど中間の鞍部にある峠。

 寄居側の風布から来た林道が峠を越え、長瀞側に乗っ越している。、

 峠には古い石の道標があり、「左小林、右扇沢、植平、左井戸、右風布」と刻まれている。

 名前からは、草原の明るく開けた峠を想像するが、1985年(約40年前)に訪れたときには、明るく開けた仙元峠とは対照的に植林と雑木に覆われ、山稜が迫っているせいか、暗く感じられる峠だった。

 今はどうだろうか。

 葉原峠は、この山稜では釜伏峠に次いで有名な峠で、古い地誌にもその名が見える。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡井戸村の条では、「葉原峠 村(井戸村)の東にあり、隣村風布村へ越ゆる峠にして、登ること十五六町ばかり。山上にて風布村と界限せり」と記す。

 『武蔵国郡村誌』秩父郡井戸村の条では、「葉原峠 (中略)高さ七十五丈。村(井戸村)の東にあり。嶺上より三分し、東は風布村に属し、西は本村に属し、北は岩田村に属す。村の北方より上る三十五町険岨」と記述されている。

 さらに『武蔵通志』には、「葉原山 高さ七百五十尺。白鳥村井戸の東北にあり。風布岩田にまたがる」と記している。

 葉原峠から長瀞側の岩根神社に向かってくだると、1985年当時は進行方向右に一軒家があった、

 この家が通称「テッペン金サン」と呼ばれる家である。金さんは村の一番高いところに住んでいるので、近所の人々はそう呼んでいるという。

 果たして、40年後の今、家は残っているのだろうか。

 もう少しくだった岩根神社はツツジ群落で有名。

 「岩根神社の境内、社務所前の山林一帯、参道の両側に樹齢百年を越す見事なツツジが千株もの大群落をつくり、  満開の時には全山花で埋まり壮観を呈する。

 4月17日の春祭のころが満開で、巨木となったツツジのトンネル、境内からの眺望などの素晴らしさは、関東でも例を見ないほどである」(長瀞町教育委員会・長瀞町文化財審議委員会『長瀞ひとり歩きー文化財・名所を訪ねてー』長瀞町教育委員会、1984年)

 再度葉原峠に戻り、反対側の寄居町風布方面にくだると、大字風布の小林地区に出る。ここは、みかんの北限で、みかん畑が一杯に広がる。  

 長瀞側・寄居側の風布が白鳥村のもと一体だった頃(1889~1943)、分教場の小学課程を終えた学童たちが、井戸(現在の長瀞町井戸)の白鳥尋常小学校の高等科に通った道が葉原峠道でもあった。

 葉原峠には悲しい歴史もある。

 葉原峠を寄居側にくだった小林地区は秩父困民党のなかでも一番勇猛であった風布組の人々が小林の金比羅山に集まり、夜になり、葉原峠を越えて吉田町の椋神社の本隊と合流した(明治17年10月31日)。

 これが秩父事件の勃発である。

 風布組は「団結力が強く、終始先頭に立って戦ったので犠牲者も多く出たという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡る』(エンタプライズ、1990年)  

大平山(おおびらやま:指山(さすやま)・土鍋山(つちなべやま))

 葉原峠の北にある538.6㍍3等三角点峰(点名は「小林山」)。

 2万5千分の1地形図「寄居」を見ると、山頂は西側を除き、崖に囲まれている。

 だが、実際に登って見えると、そんな崖の存在を感じさせない、ゆるやかな登りで山頂につくことができる。

 広い山頂は、周囲を灌木や植林に囲まれ、残念ながら展望は得られない。

 中央に三角点が寂しくあるだけの寂峰であり、すぐ北がゴルフ場(寄居カントリークラブ)であることが信じられないくらいだ。

 大平山は、荒川左岸の不動山(549.2㍍3等三角点(点名「不動」)に次いで、長瀞町で標高第2位の山である。

 それにしては、長瀞町の大平山に対する扱いは冷たいと言わざるを得ない。

 すぐ南の葉原峠はハイキングコースになっているのに、葉原峠から容易に登れる大平山はハイキングコースから外されている。

 ハイキングコースの地図に山名すら記されていない。

 寄居町の風布から眺めると台地状の堂々とした山容が印象的な大平山。

 恐らく、この堂々たる山容が大平山の名称由来であろう。

 登谷山や釜伏峠から塞ノ神峠、仙元峠(浅間峠)、葉原峠に続く長い尾根上の大平山。

 大平山から尾根は北東に方向を変え、金尾峠をへて、金尾山を最後に荒川に沈み込む。

 残念ながら大平山からの尾根は長瀞カントリークラブの造成により消失してしまい、今はゴルフ場に沿った林道が金尾峠・金尾山に続いている。

 このように、葉原峠からは近すぎ、山頂から金尾峠へのハイキングコースといっても、長々と林道を歩かされ、味気ない。

 大平山は、それをメインにハイキングコースを組めないところに、今の不遇な状態の原因があるのかも知れない。

 せめて葉原峠から立ち寄るハイカーのために、山頂の立ち木を伐採し、展望をよくするとともに、きちんとした長瀞町の山名表示柱を建てて欲しいものだ。

 さて、大平山の山名については、ある意味混乱状態にあると言ってもかまわない。

 古いガイドブックから現在にいたるまで「大平山」(発音はオオビラヤマ)の呼称が定着しているが、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)では、大平山の表記をメインにしながらも、括弧書きで「小林山」の別称を併記している。

 だが、小林山は三角点の点名であり、おそらく寄居側の風布・小林地区の最高点という意味を込めているのだろうか。

 ついでに言うと、長瀞町や寄居町など行政側は小林山の名称を採用しているようだ。

 山と高原地図が長年、大平山の表記を単独で採用ししていたのに、小林山を併記するようになったのには、上記のような事情があるのだろう。

 それでは、そもそも大平山という山名を採集したのは誰だろうか。

 恐らく戦前・戦中にかけて、東上線沿線の比企・外秩父の山々の紹介に尽力したひとりである岩根常太郎氏であろう。

 岩根氏は、昭和15年(1940年)発行の初めての奥武蔵・秩父・比企のガイドブックであるハイキングペンクラブ『奥武蔵』(博山房、1940年)のなかで「釜伏丘陵」を担当している。

 担当部分の冒頭の山名紹介で、岩根氏は大平山について次のように書いている。

 「大平(おおびら)山 三角点539米を算する秩父丘陵掉尾の山だ。大平山とは風布の呼称で、金尾では指(さす)山、波久礼では白鳥山と呼んでいる」

 大平山は、岩根氏が風布(当時は、長瀞側・寄居側の風布が白鳥村のもとで行政上、統一されていた)で採集された呼称であるとしているが、興味深いのは「指山」(さすやま)という名称に言及している点である。

 というのは、指山が古い地誌に登場するからである。

 しかも、「土鍋山」(つちなべやま)という山名も浮上する。

 まず『武蔵通志』を見ると、「土鍋山 また指(さす)山といい、高さ八百尺。白鳥村岩田の東南にあり、金尾・風布・井戸にまたがる。支脈北に連なるを丸山、要害山と云い、荒川に至り、東に連なるを小林山、高柿山といい、男衾郡の西界に至る」とある。

 前記の記述中、「要害山」は「金尾山」の別名である。

 土鍋山(指山)が大平山であるとすると、土鍋山から北に連なる尾根が要害山(金尾山)を最後に荒川に至るという表現は正しい。

 後半の「東に連なるを小林山」という表現は、大平山から東にみかん畑のある小林に至ると読めないだろうか。

 そうなると、大平山の別名(と同時に三角点の点名)を小林山とするのには疑問が残る。

 小林山は大平山東の小林集落を総称する名称ではなかろうか。

 次に、『武蔵国郡村誌』秩父郡岩田村の条を見てみよう。

 「土鍋山 高さ八十丈。村(岩田村)の東南にあり、嶺上より四分し、東は金尾村に属し、南は風布村、西は井戸村、北は本村に属す。村の西方より登る十三町」と記す。

 ついでに、『郡村誌』では、秩父郡金尾村の条に「さす山」の記述がある。

 「さす山 高さ六十五丈。本村(金尾村)限り。周回二十町。村の西南にあり、嶺上より三分し、東北は本村に属し、西は岩田村に属し、南は風布村に属す。山脈東南釜伏山に至る。登路一條、本村中央より上る。高さ十八町五間」 

 岩根氏が「金尾では指山」と呼んでいるとしているのは、『郡村誌』の金尾村の条に「さす山」の記述があることが影響しているからだろうか。

 あるいは金尾で指山の呼称を採集したのかどうか不明だが、『通志』『郡村誌』の土鍋山、さす山の記述を読む限り、いくつかの矛盾が散見されるとはいえ、土鍋山・指山(さす山)は、大平山の別称とみなして良いだろう。

 逆に小林山は、繰り返すが、寄居町風布の小林地区みかん畑の山を総称する名称であろう。

 白鳥山という名称も、岩根氏が山名採集していた当時(1930年代末)、風布が白鳥村に属していたことと関係あるだろう。

 そこで、小林山と白鳥山を除き、大平山(おおびらやま)の地区別の呼称を、古い地誌や岩根氏の先駆的なガイドから整理すると、以下のようになる。

 ・大平山→寄居町風布・長瀞町風布の呼称

 ・指山(さす)山→寄居町金尾の呼称

 ・土鍋山→長瀞町岩田の呼称

 大平山西南の長瀞町井戸では、何と呼んでいるか気になるが、各地区別(金尾・風布・岩田・井戸)に大平山の呼称(あるいは、無名峰であるか)について再調査する必要があるだろう。

 とりあえず大平山(指山・土鍋山)との表記を採用したい。

 最後に「指山」(さすやま)の山名について触れておこう。

 鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)、岩科小一郎『山村滞在』(岳書房、1981年」)によると、「サス」には「焼畑」の意味がある。つまり、「サス山」とは、焼畑のあった山、あるいは山腹で草木を焼いて畑に開いた山の意味である。

金ヶ嶽(金ヶ岳・金嶽:かながたけ)

 仙元峠・葉原峠間の505㍍独標から西に派生する支稜上の神社記号のある山。

 380㍍独標の北西側の山である(標高約370㍍圏)。

 秩父鉄道の野上駅付近から見ると、屹立する三角形の山が印象的。

 日下部朝一郎氏の述べるように、「山頂に松の木の木数本が見え、左葉原口へ裾を引く山容は美しく、いかにも神を祀るにふさわしい奇峰」である(日下部朝一郎『秩父の峠道』木馬書館、1981年)。

 山頂に春日神社を祀る金ヶ嶽は、さすがに古い地誌でも取り上げられている。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡井戸村の条では、「金嶽 村(井戸村)の東の方、山峯屹立し、登ること十五六町。頂上に春日の小祠を祀る」とある。

 『武蔵国郡村誌』秩父郡井戸村の条にも、葉原山(葉原峠のこと)の説明中に「金ヶ嶽」の名が見られる。

 同様に、『武蔵通志』でも、葉原山(葉原峠)の説明中、「金嶽の上に春日神社あり。四時詣賽の者多し」と言及されている。

 金ヶ嶽へは、南側山麓の臨済宗法善寺から登る表参道が一般的である。

 道は長瀞町ハイキングコースのうちの一つなので、良く整備されている。

 かなりの急坂だが、約30分で山頂につく。

 山頂には、小祠どころか、立派な春日神社の社殿が祀られている。

 正面上側には「春日神社」と書かれた額がかけられている。

 残念ながら期待した展望は、周囲の樹林が伸びて得られないが、神域の雰囲気が漂っている。

 金ヶ嶽からは、南東に308㍍独標をへて、植平分岐(植平峠B)から植平峠A(便宜的な名称)をへて葉原峠にいたる道が、長瀞ハイキングコースとして良く整備されている。 

 ところで、金ヶ嶽の山名については、「金」という文字自体が「金属地名」やそれに関連する渡来人の影響を感じさせる。日下部氏は「鉱質を含む山の意」と述べている(日下部朝一郎『秩父の峠道』木馬書館、1981年)。

 それを証明するように、『新記』井戸村の条には、次のような記述がある。

 「岩穴六ヶ所 金嶽の麓にあり、自然の窟にあらず、皆坑口なり」と記しているように、金ヶ嶽の麓に6カ所の穴があり、すべて自然の穴ではなく、何らかの鉱物を掘った坑道の入口であるとされている。 

金尾峠(かなおとうげ)

 大平山(538.6㍍3等三角点)から北東に続く尾根が県道82号長瀞玉淀公園線にぶつかる地点が「新金尾峠」である。

 新金尾峠は「2万5千分の1地形図「寄居」からも分かるように切り通しとなっている。

 ここは長瀞カントリークラブからの道と長瀞玉淀公園線が合流する地点である。

 旧金尾峠へは、いったん長瀞カントリークラブへの道を少し入り、すぐ右に山道を登る。

 まもなく、大きな馬頭観世音像の立つ旧道につく。

 馬頭観世音には、「寛政四子三月吉詳日頼主当所村中 右大ミや道 左やま道」と刻まれている。「大ミや」とは秩父市を指している。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡金尾村の条では、「金尾峠 岩田村の界にあり、登り四町ばかり。下りもまた同し僅かの峠なり」と記している。

 『新記』の記述のとおり、金尾峠は金尾村と岩田村との境界であった。

 そのため、「この金尾峠は当時(白鳥村当時:1889~1943)岩田に(白鳥村)役場、さらに1キロ程行った所に高等小学校があったため、特に金尾の人たちにとっては行政、通学上非常に重要な峠道だった」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』エンタプライズ、1990年)

金尾山(かなおやま:要害山:ようがいやま))

 金尾峠北東の229㍍独標。

 外秩父主稜の掉尾の山であり、この山を最後に、笠山・堂平山に発し、釜伏峠・塞ノ神峠・浅間峠・葉原峠・大平山をへて、延々と続いてきた外秩父主稜は荒川に消える。

 金尾山は別名「要害山」(ようがいやま)といい、『新編武蔵風土記稿』秩父郡金尾村の条は、「金尾弥兵衛という者居れりとそ。今愛宕神社勧請す。因て愛宕山ともいうなり」と記している。

 『新記』の要害山との記述、そして『秩父志』の「金尾砦」との記載などにより、金尾山に金尾弥兵衛なる者の屋敷あるいは砦があったことが分かる。

 梅沢太久夫氏は、この屋敷ないし砦を「要害山城跡」と名付け、城郭の詳細な記述を行っている。

 一節を引用しよう。

 「波久礼は両側に山が迫り峡谷地形を作り出しているが、この右岸、金尾に要害山(ようがいやま)城がある。荒川を眼下に望む標高231㍍金尾山の山頂から南の山腹にかけて縄張りがみられる」として、秩父道を眼下にできる山頂部の物見を備えた山腹部の屋敷跡という城郭の構成を示している(梅沢太久夫『埼玉の城 127城の歴史と縄張 改訂版』(まつやま書房、2024年)。

 それでは、金尾砦(要害山城)を築いたのは誰なのだろうか。

 『新記』や『秩父志』は金尾弥兵衛と記しているが、前出の本のなかで、梅沢氏は「この要害山城が所在する地域は、鉢形城下、あるいは藤田本拠の末野から金尾の渡を渡って、天神山城(引用者注:長瀞町岩田)へ向かう主要な道筋に有り、永禄11年(1568)、藤田氏邦印判状に示される、『金尾』の番小屋が置かれたところに比定される。また、天正10年(1582)9月、岩田玄蕃は北条氏邦から『養父岩田彦次郎跡の瀧上屋敷并金尾山』を安堵されている」としているが、築城した人物については、慎重に明記していない。

 ここで推測を許していただければ、後北条氏の関東進出にあたり、山内上杉家に属した藤田氏はいったん後北条氏の軍門に下ったが、のちに再度後北条氏に対し反旗を翻した。

 この時期(永禄年間)に藤田氏の本拠である末野(寄居町末野)と藤田氏の城である天神山城(長瀞町岩田)を結ぶ軍事上の要衝(とくに後北条氏の鉢形城への監視役)として、藤田氏が最初に金尾山に「番小屋」を築いたのではないか。

 その後、北条氏邦による天神山城攻略などにより、藤田氏が再々度後北条氏の軍門に下ったのちに、今度は鉢形城主・北条氏邦が家臣の岩田氏の所領とし、現在の砦(城)を築いたとは考えられないだろうか。

 さて、金尾山は1959年4月5日の植樹祭で、当時の天皇、皇后両陛下が6本の檜を御手植されるとともに、参会者が計1万5千本の檜を付近一帯に植樹した。

 このことを記した「行幸記念の歌碑」と「行幸啓記念碑」がある。

 現在、金尾山山頂付近一帯は公園として整備され、ツツジが植えられ、5月に山頂付近は一面ツツジの山になる。

 先の歌碑や記念碑から少し登った山頂には愛宕神社のコンクリート製の祠が祀られている。

 また山頂には、「仰ぎ見つ俯し見つあかぬ金尾山」と刻まれた句碑が建てられている。

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