(略図)大立山・二ノ宮山付近略図
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(略図)高根山付近略図
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概要
比企丘陵の良さは赤松林に代表される雑木林の美しさにある。
なかでも、東上線北側の一帯は、今は亡き武蔵野の面影をもっとも濃厚に残す一帯だった。
赤松の美林の狭間に散在する人工の灌漑沼、登山者ずれしていない地元の人々の素朴な人情、低いながらも山頂から得られる広大な眺望等々・・・。
ところが、東京から関越自動車道を利用して至近距離にあること、なだらかな丘陵地帯であること等が災いしてゴルフ場開発の格好の餌食になってしまった。
昭和30年代末に早くも高根山がゴルフ場に姿を変え、それ以後25年近くも持ちこたえてきた大立山も、遂に西武鉄道の手に落ちた。
比企郡滑川町を代表する3つの山(大立山・二ノ宮山・高根山)のうち、何とかハイキングの対象として残りそうなのは二ノ宮山のみ。
そんな情報を手に入れたのは1987年。
大立山麓の加田(がだ)集落(滑川町中尾)を訪ねたとき。
それから2年間、西武鉄道の「仮称・滑川嵐山ゴルフコース」(現・おおむらさきゴルフ倶楽部)造成の動向を気にかけながらも、訪れる機会を逸していた。
ところが、1989年1月に2年ぶりに訪れてみて、事態が一層切迫していることを実感させられた。
1989年1月15日の山行時には年内着工の情報を得ただけで、実際の工事には取りかかっていなかった。
ところが、同年5月4日の再調査時には、何と嵐山町側(嵐山町太郎丸)の登り口にあたる三ツ沼の奥には立ち入り禁止の柵が設置され、柵を乗り越えて登りつめた稜線上は無残にも開削され、工事用の道路が縦横に走っていたのである。
私が大立山を初めて訪れたのは1982年3月。
今から43年も前だ。
当時、三ツ沼から登り詰めた尾根は、とても100㍍台の丘陵とは思えない深山の雰囲気を醸し出す境地であり、そこにかすかな踏跡が見つけられる程度だった。
それがわずか7年でこうも一変してしまうとは!
しかし、それは単なる序曲にすぎなかった。
「おおむらさきゴルフ倶楽部」という単体のゴルフ場としては埼玉県最大規模のゴルフ場(169.9㌶)に大立山は完全に囲まれ、辛うじて山は残置森林として残ったものの、ゴルフ場の柵に囲まれ永遠に登れない山となってしまった。
大立山周辺の三ツ沼や北側山麓である加田集落に伝わる秘話を秘めた「両頭庵沼」などの灌漑沼も、辛くもゴルフ場の範囲から外れたが、ゴルフ場内の多くの農業用灌漑池がゴルフ場の調整池につくりかえられるとともに、区域外の両頭庵沼も含め、ゴルフ場内・ゴルフ近接のため池の所有権がゴルフ場の関連会社に移ってしまった。
二ノ宮山もハイキングコースとして残ったとはいえ、「おおむらさきゴルフ倶楽部」に三方を囲まれている状態である。。
武蔵嵐山駅から太郎丸をへて、三ツ沼から大立山に登るコースが消えた今、武蔵嵐山→大立山→二ノ宮山→高根山→文珠寺という絶好のハイキングコースの前半が消滅した。
滑川町の三山のうち、大立山が消えた現在、二ノ宮山→高根山だけでは物足りないといわざるを得ない。
今回は、もはやゴルフ場内に囲い込まれ、ハイキングの対象とはならなくなった大立山や所有権がゴルフ場関連会社に移った両頭庵沼などを含め、在りし日の滑川の三山とその周辺の伝説・習俗等を記録として残したい。
あわせて、西武鉄道がどのようにして広大な地域の土地を入手したのか。その経緯をゴルフ場にもっとも近い滑川町加田の集落で聞くことができた。
関連する文書等も閲覧できたので、ゴルフ場のための土地入手の経緯を再現しておきたい。
そうでないと、苦い記憶は永遠に忘れさられてしまうからだ。
鬼鎮神社(きぢんじんじゃ)
鬼鎮神社は嵐山町川島の住宅地のなか。
畠山重忠の菅谷館築造の際、その鬼門除けの守護神として、旧鎌倉街道に沿って造営された。
勝負の神として戦前は出征兵士の信仰が厚かったが、現在では受験生の合格祈願が目玉。
志望校を書いた絵馬が所狭しと掛けられていた。
面白いのは、「鬼に金棒」の言い伝えにひっかけて「金棒のお守り」を授けていること。
金棒は大小二種類あって、5センチほどの小さい金棒は(当時)500円。大きい金棒(当時2,000円)は50センチ近くあるスチール製のずっしりと重いもの。
この金棒を自宅に祀って祈願が成就したら、神社にお返しする。
本殿の右手には返却された金棒が掛かっており、壮観である。
2月3日の節分祭(15時頃から行われる)では、赤鬼・青鬼を中心とした年男が「福は内、鬼は内、悪魔外」のかけ声で、追難式を行うことで有名。
淡州神社(あわすじんじゃ)
市野川を渡り、滑川町水房との境界でもある切り通しを抜けると、嵐山町太郎丸の集落。
朱塗りの鳥居が遠目からも目立つ淡州神社(地形図では、太郎丸の文字の下の神社記号)は、商売っ気のある鬼鎮神社と対照的に、昔ながらの雰囲気を残していた。
1989年1月15日は、ちょうど小正月。
社殿にもオッカドで作った削り花が供えられていた。
削り花の横に米粒がまかれていたので尋ねてみると、米粒は削り花の実を意味するとのこと。
削り花は前日の14日に作り、神社にお供えする。
小正月には3個の花をつくるが、年の初めに供える花は、1年12ヶ月にちなみ、長いオッカドの木に12個の花をつくる。
翌15日には花に実がなるといい、米粒をあげたり、柏の葉に包んだ赤飯をあげる。
このとき供えた米粒を混ぜて炊いたご飯を食べると、病気が治るといわれる。
御堂山(みどうやま)
太郎丸の入口にある80㍍前後の小山。
しかし、そんな小山ながら興味深い伝説や信仰を秘めている。
登り口には馬頭観音があり、石段を登った中腹には堂宇がひっそりとたたずむ。
かつて、この堂宇内に金箔の聖観音像が納められ、近在の信仰が厚かった。
しかし、1989年よりも20年ほど前、何者かに盗まれてしまった。
堂宇の左手から登りつめた山頂は小平地で、金比羅神社、秋葉神社、愛宕神社の三つの小祠が鎮座。
聖観音が健在だった頃には、金比羅神社を合わせて1月10日に祭礼を行っていた。
また、8月12日には村中の人々が聖観音の前に集まり、酒を酌み交わしたという。
しかし、聖観音が盗まれてしまってからは祭礼も簡素化され、1月3日に淡州神社の新年祭の時、ついでにしめ縄を張り、幣束をあげる程度。
山頂を公園化するという話もいつしか立ち消えになってしまった。
御堂山にまつわる巨人伝説をひとつを紹介しておこう(韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成 上・自然編』(北辰図書出版、1973年)。
嵐山町広野に大田坊(ダイダンボウ)というところがある。伝えるところによると、昔ダイダン坊という大男が土をたくさん入れた籠を背負ってここを通った。そのときの足跡の一つが広野のダイダン坊堰付近に残り、もう一つの足跡は滑川町羽尾付近にある。また、籠のメド(すき間)から土がこぼれ、太郎丸の御堂山になった。メド山が、いつの間にか御堂山になったのである。
大立山(おおだてやま)
(略図)大立山詳細図

嵐山町太郎丸から大立山への登路は、関越自動車道をくぐって三ツ沼の最後の沼から尾根にとりつく。
私が最後に大立山に登った1989年5月4日には三ツ沼に立ち入り禁止の柵が設けられ、尾根上のヤブ深い小径も工事用の道路に変わってしまっていた(今はゴルフ場)。
幸い、1989年5月当時は、何とか山頂に登ることができた。
手前(南)から112.7㍍4等三角点(点名は「大立山」)標石、安永4年(1775)2月吉日記銘の山ノ神の小祠、冨士浅間大神・小御嶽神社の石碑がある。
『武蔵国郡村誌』比企郡中尾村の条では、「大立山 高さ三十丈。周回十六町五十九間。村の西方に孤立す。東西南北より上る各四町。嶺上に山王の古祠あり。松の老木多し」と記す。
『武蔵通志』は、「高さ三百尺。宮前村中尾の西」と記している。
山の北東麓には滑川町中尾の加田(がだ)集落があり、山名は加田薬師付近から眺める堂々たる山容によるという。
以前は山頂に松の木があって、良く目についた。男松二本、女松一本が女松を真ん中にそびえ立っていたおり、大立山のシンボルとなっていたが、残念ながら台風のため倒壊してしまった。
大立山の山ノ神は加田集落の信仰を集めているが、加田側からの主要な登路は二本ある。
ひとつは南東麓の両頭庵沼(りょうとうあんぬま)の脇から登る表参道。
もうひとつが地獄谷(樹木谷ともいう)をツメて井戸跡から七曲りの急坂を登り、北西麓の二ツ沼(これも調整池に改造)からの登路と合流する裏参道である。
毎年1月17日が山ノ神の祭り(初詣)で、加田17軒のうち、昔から住む15軒の人々が登拝する。
午前10時頃に山頂に登り、山ノ神の祠に餅を二つ供える。
拝んだあと、供えた餅のうち、ひとつを残し、他のひとつをもらって帰る。
つまり、餅の取り替えっこをする。
この餅を食べると、山仕事をしていてもマムシにかまれないという。
昔は表参道を登って、裏参道をくだるのが通例だったが、その後地獄谷沿いの道が荒廃してしまったため、表参道を往復するのみという。
果たしてゴルフ場に囲まれ、地元の人でさ容易に入ることのできない現在、山ノ神の祭り(初詣)は続いているのだろうか。
表参道途中の墓地はどうなったのだろうか。
両頭庵沼(りょうとうあんぬま)
加田から大立山に登る表参道の入口にある農業用のため池。
この沼には竜神(双頭の大蛇)が棲んでいるので、水が絶えたことがなかったという。
沼は二つからなるが、東側の大きな沼(下沼)の奥に気になる二つの碑があった。
右の碑は表面に「真龍軒信道居士 静龍軒妙家大姉 胎児」、裏面に「大正5年9月8日 小高常五郎 小高豊吉建立」とある。
そして、左の碑面には「心中妙真倦」(裏面には、大正4年5月15日 施主小高豊吉)とあるではないか。
この心中碑の由来を加田の集落で尋ねるうちに、両頭庵沼(用土庵沼)にまつわる以下のような悲話(伝説)が採集できた。
昔この碑のある場所に、若い僧が「用土庵」という名の庵を建てて住んでいた。
この僧と村の娘が恋仲になり、娘は僧の子を身ごもってしまった。
しかし、娘は慶徳寺の方丈と婚約していたので、僧と娘は将来をはかなんで沼に身を投げ、心中してしまった。
心中碑は、二人の悲恋を憐れんで、その霊をなぐさめるために昔、用土庵があったところに建てたという。
また、「両頭庵」の名称由来となっている次のような伝説もある。
昔、沼のほとりに坊さんが「用土庵」という庵を建てて、村人の信望を集めていた。
ある時、ひどい旱魃があり、村人は坊さんに降雨の祈願をお願いした。
坊さんは祈願を引き受けたが、「これから七日七夜の間、絶対にお堂に近寄ってはならない」といった。
ところが、五日目の晩に五兵衛さんという村人がしびれをきらしてお堂の中を覗いてみると、頭が二つある大蛇がとぐろを巻いているではないか。
覗かれたことを知った大蛇は、怒って庵を壊して外に飛び立ってしまった。
それから三日三晩降雨が続いたため、村人は用土庵を両頭庵と名付けるようになった。
加田薬師(がだやくし)
慶徳寺の薬師堂。加田集落裏の高台にある。
毎年4月11日がご開帳。
とくに十二年に一回の寅薬師様は盛大な賑わいをみせ、薬師堂前に灯籠が立ち並ぶという。
目の病気に霊験があり、目を患う人は昔は薬師様に旗(現在は千羽鶴)を奉納して願を立てた。
また、薬師堂裏の井戸で目を洗うと、不思議と眼病が治ったという。
そして目が治った人は必ずお礼に寺沼に鯉を放したという。
伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)
昔は二ノ宮山上にあったが、文明元年(1469)に滑川町中伊古の地に遷座したと伝えられている。
石段を登り切ったところにあった御神木「はらみ松」は、ちょうど木の幹がはらんだように太くなっていることから、木の皮をはがして煎じて飲むと安産になると言い伝えになっている。
伊古神社には「はらみ松」にちなんで安産講もあって、3月15日には講をひらいて、かなり遠方からも人が来たという(1989年よりも40年以上も前)。
その「はらみ松」も、昭和61年(1986)マツクイムシのために枯れてしまい、現在では根元から5㍍ほどを残して切り倒されてしまっている。
この切った部分は製材所で板にして、伊古神社の氏子の家に配ったという。
二ノ宮山(にのみやさん)
滑川町の最高点で、131.7㍍2等三角点(点名「伊古」)。
その優美な山容から、古くから信仰の対象になってきた。
『秩父群村誌』比企郡伊古村の条は、「二の宮山 高さ四十丈、周回二十五町。村の乾の方に孤立す。嶺上に伊古乃速御玉姫の小祠あり。老松数株及び雑樹繁栄し、風景奇絶。字の上より上る七八町」と記す。
『武蔵通志』も、「高さ四百尺。宮前村伊古の西北にあり。頂に伊古乃速御玉姫神社古祠あり。老松数株を存す」と記している。
伊古神社の奥ノ院(榛名神社を合祀)のある山頂は、1989年当時は雑木が邪魔になってしまったが、東方の関東平野方面の展望が得られる。
ただし、「おおむらさきゴルフ倶楽部」に三方から囲まれてしまったのは残念。
2004年12月の藤本一美氏による山行記録によると、「その二ノ宮山へは、南西側参道を巻き気味にゴルフ場柵越しに登れば、あっけなく131.8㍍2等三角点標石のある山頂に達した。芝地の広場の中央に平成6年(1994)完成の鉄骨製展望塔(全高23.7㍍、展望台21㍍)が建ち、みんなで登ってみた。標高差153㍍地点からの何のさえぎるもののない360度の大展望があったが、ラフな展望説明板にはちょっと物足りなかった。(中略)眼下のゴルフ場の先には、堂平山、笠山、大霧山を始めとする奥武蔵の山並みが続き、その奥には両神山も現出。登谷山の右手後方には雪雲をかぶった浅間山の白い峰が見え、榛名・赤城山方面の火山群も明瞭に見えた」(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)
私が最後に登った1989年の5年後に展望台が完成。
『群村誌』が「風景奇絶」と賞賛した展望が戻ったようだ。
だが、眼下のゴルフ場だけはいただけない。
竹内宿弥が東国巡視の際に、この山上より村里の状況を視察したといわれる。
山頂の伊古神社奥ノ院に合祀される榛名神社の例祭は春日待ちといわれ、毎年4月15日に行われる。
当日は滑川町伊古の各地区の氏子総代が山頂に登拝。子どもには団子が配られる。
なお、この日は「ふせぎ」(防ぎ)といって、伊古の各地区(組)では、他地区との境の道の両側にしめ縄を張り、そこにワラジを吊して疫病神が入らないようにした。
団子は、各組ごとに当番(用番)を決めて、当日は用番の家に各戸から米を集めて団子を作り、山上に運び上げた。
また、山頂に八大竜神の碑が祀られていることからも分かるように、二ノ宮山は伊古の雨乞いの山であった。
雨乞いは敗戦直後の頃まで行われていたが、まず伊古神社で藁でヘビを作って(中に生きたヤマカガシを入れる場合もある)、拝んだあと、滑川の堰(伊古堰)でもむ。
次に、新沼の水でもう一回もんで二ノ宮山に登り、山頂の松に縛り付けて、八大竜神に降雨を祈願したという。
高根山(たかねやま)
(略図)高根山付近詳細図
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比企丘陵の最北端に位置する105.1㍍3等三角点峰(点名「高根山」)。
比企郡滑川町上福田に属するが、旧大里郡江南町(現・熊谷市)小江川(おえがわ)との境界にも近い。
西側を除き、三方を高根カントリー倶楽部に囲まれている。
『武蔵通志』は、「高さ一千二百二十尺。福田村の北にあり、奮松林なりしが近時剪伐して、頂上に一叢を残す。四顧爽潤にして北は行田・熊谷等の市街を(中略)望むべし」と記す。
西面に刻まれた参道を登ると、中腹に「小高根さま」(こだかねさま)の小祠。山頂の岩盤の上には「高根様」(たかねさま)の祠がある。
藤本一美氏は、「超低山であっても周辺からみれば、ひと際目立つ高い尾根、峰の山ということで、滑川町上福田の人々に信仰され」と山名を考察しておられる(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。
東山麓の円正寺前ヤツ(約10戸)、円正寺後ヤツ(約10戸)、榎ヤツ(約5、6戸)(いずれも滑川町上福田)の人々が信仰。
高根さまの例祭は4月24日。
役員は祭りの指図をする大役(数年間務める)と団子を作る当番(一年交替)に分かれ、各ヤツごとに一名ずつ。
当日の朝8時頃に各ヤツの当番の家に集まって、あらかじめ各戸から三合ずつ集めておいた米で団子を作る。
なお、榎ヤツは山頂までの距離が遠いので、山頂に最も近い円正寺後ヤツの当番の家で一緒に団子を作る。
作った団子は昼過ぎに山頂に運び上げて、子どもたちが学校から帰ってくる14時頃から祭礼が始まる。
ところで昔、高根山の所有をめぐって大里郡小江川村(現在、熊谷市)と比企郡福田村(現在、滑川町)が争った。
しかし、円正寺不動庵の坊さんの計略で高根山は福田村の分になった(現に、熊谷市と滑川町との境界よりもやや滑川町に寄ったところが高根山頂)。
その争いの場が今でも「論証場」(ろんしょうば)の名で残っている。
地元の人の話では、高根カントリー倶楽部内というが、残念ながら現地を確認するにいたっていない。
なお、小江川の鎮守・高根神社は高根山から北西約1キロ離れた丘陵中腹に祀られている。
高根神社の説明板によると、「古くは元高根(注:ヘリテイジゴルフコース南の高台付近)に鎮座していたのを享保年間(1716~36)に現在地に遷座したものと伝えられる」とある。
だが、小江川の古老のなかには、高根神社はもともと高根山にあったものを、福田村との境界争いに敗れて現在地に遷したという人もいる。
その真偽のほどは定かではないが、境界騒動にまつわる逸話が今日でも上福田、小江川の双方に伝わっているのは興味深い。
ポンポン山
高根山西峰ともいうべき山。こちらは熊谷市域(合併前は、大里郡江南町域)で、山頂は熊谷市の高区配水池が占拠している。
その上には鉄骨の小展望台がある。
高根山は「四顧爽潤」という『武蔵通志』の過去の表現に反し、樹林に覆われ、山頂からの眺望はゼロ。
それを補って余りあるのがポンポン山の小展望台からの大展望。
北には何も山がなく、関東平野に直接面する丘陵というだけあって、関東北部の山々の眺望をはじめ、360度のワイドな展望が素晴らしい。
100メートルに満たない標高を忘れるひとときだ。
ポンポン山というと、吉見丘陵の玉鉾山が有名だが、ここ小江川のポンポン山は玉鉾山と違って山頂の地面を踏んでもポンポンと音がするわけではない。
山頂直下に開口1.5㍍、奥行2㍍ほどの横穴が存在する。
これは古墳時代の高根横穴群のひとつと考えられているが、この穴で手を叩いたり、足を踏みならすとポンポンという反響音がすることから、ポンポン山の名がついた。
横穴の奥壁に観音像が埋め込んであったとは、小江川の古老の話。
観音山(かんのんやま)
ポンポン山の南尾根一帯は、「四季の湯温泉ホテルヘリテイジ」(前身はポンポン山ヘルスセンター)の敷地内になっているが、そのなかにかつて「小江川石」を切り出した石切場の跡が残されている。
1989年当時は80年ほど前であるから、今からは120年程前ということになるが、地元では「ゴンベ岩」(藤本一美氏の聞き取り)とも呼ばれる「小江川石」は建物の土台や井戸の側壁用に重用されたようだが、この石切場の「テッペン」が観音山である。
昔、観音山山頂には、観音像を彫った高さ5㍍ほどの小江川石の石柱があったといい、『武蔵通志』も、「観音山 高さ百五十尺。男衾郡小原村小江川の東南にあり。中腹以下列巌楯の如く、稚松點綴して、中に老松二株あり。頂上石柱峭立す。長さ五尺、周七尺ばかり。南面に観音像を彫す。登路五盤して、およそ二町三十間」と記す。
もっとも石柱に掘られた観音像も、それらしく見える程度の余りはっきりした姿のものではなかったようでもあり、刻んであったのは観音像ではなく、単に文字だけだったと証言する古老がいるなど記憶も混乱している。
とにかく石柱は大正12年(1923)の関東大震災のときに谷に落ちてしまい、その後、谷底に放置されていたが、ポンポン山ヘルスセンター建設の際、何の変哲もない石だったので、土砂で埋められてしまったという。
文珠寺(もんじゅじ)
ポンポン山から熊谷市野原(合併前は大里郡江南町野原)の文珠寺までは約50分。
午前10時頃、武蔵嵐山から歩き始めると、このあたりで夕刻との時間の戦いになる。
丹後の切戸、米沢の亀岡と並ぶ日本三大文殊とされる(日本三大文殊は、丹後の切戸、米沢の亀岡、大和の安倍という説もあり)。
武州野原の文珠寺は、正式には五台山文珠寺と称し、知恵をつかさどる仏様として尊ばれていた文殊菩薩を本尊としている。
文珠寺は古く関東地方の平和を願って建立されたもので、鎌倉時代に再興され、吾台山能満寺、さらには大愚山文珠寺と呼ばれた。
しかし、文明13年(1481)火災に遭い、大部分が焼失してしまった。同15年(1482)、比企郡高見の四津山城主・増田四郎重富が再建したという。
さすがに「知恵の文殊」といわれるだけあって、境内には合格祈願の絵馬が所狭しと奉納されている。
普段は比較的静かな寺だが、2月25日の大縁日は大いに賑わうようだ。
おおむらさきゴルフ倶楽部の土地入手過程
「おおむらさきゴルフ倶楽部」は、滑川町中尾・伊古・水房、嵐山町廣野・太郎丸にわたる約169ヘクタールの広大な面積に27ホールを擁する巨大なゴルフ場である。
単体のゴルフ場としては埼玉県最大の規模を誇っている。
しかし、ゴルフ場の造成により滑川町西部の貴重な丘陵地帯が原型をとどめないほど土地改変をされ、大立山はゴルフ場のなかに含まれ、山自体は残ったものの、地元加田集落の住民も、年1回の山頂・山ノ神の例祭時に数人がゴルフ場の許可を得て立ち入ることしかできなくなってしまった。
もう1つの山である二ノ宮山は山頂に展望塔が設置され、一見観光地として整備されたかのように見える。
だが、三方をゴルフ場に囲まれ、展望台からはゴルフ場越しに景色が見えるという皮肉な様相になっている。
それ以上に、大立山・二ノ宮山を含み、山麓には農業用のため池が散在。その合間に集落が発達して、山とため池、自然林、集落の四者が一体となって長年にわたって比企丘陵の典型的な風景を形成してきた地域が、ほぼすべてゴルフ場に変わってしまったことは、痛恨のきわみである。
おおむらさきゴルフ倶楽部の面積169㌶がいかに大きな規模であるかは、滑川町東部の丘陵・ため池地域を生かして公園化した国営武蔵丘陵森林公園の規模304㌶と比較してもよくわかる。
たしかに規模は森林公園に及ばないが、比企丘陵北部の中核である滑川町の西部地区に200㌶に迫る自然公園ができ、誰でも利用することができる場が設置できれば、どんなに良かったのかと思わざるを得ない。
しかも、西部に実現できたかもしれない自然公園は、大立山・二ノ宮山という森林公園にない「山」を有する変化に富んだ公園になったはずである。
では、西武鉄道はどのような方法でこの広大な土地を入手することができたのだろうか。
話は滑川村(当時)が村東部の山田・土塩地区に森林公園の誘致を決定した頃にさかのぼる。
それは昭和41~42年(1966~67)頃である。
滑川村は役場内に開発事務所を置き、3年間にわたり建設大臣への陳情や誘致決議など誘致活動を繰り広げた。
誘致活動は難航したが、地元選出の自民党代議士である小宮山重四郎などの支援を受け、ようやく国営森林公園の建設が昭和42年(1967)に正式決定した。
ところが、実際に用地の買収を担当したのは国ではなく、埼玉県企業局であった。
用地買収に当たり、地元の山田地区などでは地主会を組織し、公園内の通学路や消防道路を通らせてくれるように、また公園内の農業用ため池の用水を自由に使えるように水利権は地元にあること等を要望した。
その結果、地主会と埼玉県との協定書を結んだが、開発の所管が埼玉県から国のつくった公園建設財団に移ってから、協定書は結局反故にされてしまった。
森林公園誘致が決まった昭和41~42年(1966~67)頃、西武鉄道の下請けのビル管理会社「和泉管財」(社員はたった3~4人程度だったという)が滑川町西部の伊古・中尾・水房で用地買収を開始した。
和泉管財は嵐山町に事務所を設け、村と一体になって「西部開発」を名目に用地買収をスタートさせたという。
なぜ西部開発を名目にしたのだろうか。
それは、森林公園の建設、東上線の森林公園駅開設、そして関越自動車道の建設予定などに沸く滑川村東部に対し、遅れている西部の開発を名目としたのである。
土地の用途は当初不明確であったが、道路網の整備が一例として挙げられていた。
買収は嵐山町側の太郎丸・廣野から始まった。
滑川村では二ノ宮山麓の伊古地区が鎮守である伊古之速御玉比売神社の社有地(伊古地区の共有地)である二ノ宮山周辺の8町歩を1反80万円で売ってしまい、その金を氏子に平等に分配したのが皮切りだった。
和泉管財は、当時1反=100万円で買収していたが、この頃からマツクイムシが広がり、丘陵の代名詞ともいうべき大きな松の木がどんどん枯れていった。
マツクイムシの被害も、地権者が土地を手放すきっかけとなった。
和泉管財は先のように、1反=100万円という破格の値段で買収していったが、地元の地権者のなかには、荒れた山林をこのような高価で買収することに対し、疑問を抱く者も少なくなかった。
和泉管財は、1970年頃は1反=100万円だったが、次の年には1反=200万円、さらに300万円、500万円と、どんどん値をつり上げていった。
これを見て、とくに大字中尾の大立山山麓にある加田地区では買収にためらう地権者が多かった。
だが、当初から開発に積極的であった二ノ宮山山麓の大字伊古が先のように鎮守共有地を売ってしまったのが、滑川村における買収の突破口になった。
和泉管財は、村会議員や農業委員、区長と連携し、四者一体になって地権者に対し、土地を売るよう各個撃破を行った。
和泉管財の社員が来たあと、今度は村会議員、次は農業委員、さらに区長と入れ替わり地権者に買収を迫った。
この頃、滑川村や区長の呼びかけで、西部開発委員会が設置された。
西部開発委員会では、大地主、中小地主の関係なく平等に代表権をもった。
これは一見民主的なように見えたが、実際は買収の促進に一役を買った。
なぜなら、大地主は自分のもつ土地に対し愛着をもつ者が多く、買収には慎重だった。
ところが、中小地主は小金に釣られ、買収に動く者が圧倒的だったので、数の力で開発への方向づけが決まってしまった(とくに伊古のフライング的な共有地売却が転機となり)。
さらに、西部開発委員会が設置されてから大手地主への各個撃破はさらに激しくなり、委員会の会長、役員、和泉管財の担当者が共同で働きかけるようになった。
なお、滑川村の東部開発委員会は早くも昭和25~26年(1950~1951)頃に設立され、大字山田と土塩が一体化して組織され、森林公園誘致に向け早急に活動できた。
これに対し、西部開発委員会は開発に対する大字ごとの意向が食い違っていたため(開発積極派の伊古、慎重派の中尾、中間派の水房)、伊古・中尾・水房が別々につくった。
それぞれの地区の開発委員会は12~13名で組織され、委員の中には地権者以外の人も入っていた。
例えば、伊古地区の委員長は地権者ではなかった。
これらの地権者以外の委員が事業者や村の代弁者として委員会をリードし、区長や賛成派の地権者、村当局などと連携し、一方的に要望書を提出したが、伊古・水房地区は開発に賛成、中尾は反対という異例の内容であった。
具体的に昭和44年(1969)11月17日付で区長から滑川村村長、滑川村議会議長あてに提出された要望書を見てみよう。
内容は以下のとおりである。
「今般、滑川村西部地区(伊古・中尾・水房)における西武鉄道株式会社の綜合開発について、西武鉄道により正式に委任を受けている和泉管財(株)が、この開発について地区住民に対して賛成・不賛成の意向を調査いたしましたところ、多数が賛成し、かつ「開発賛成書」に調印しましたので、この開発について村当局がご賛成くださいますよう地区区長としって御願いします」
異例だったのは、要望書中「地区住民の多数が開発賛成書に調印」とありながらも、各地区の姿勢について、伊古と水房は賛成、中尾は反対との立場を併記していたことである。
この要望書の前提になったのが、昭和44年10月28日付で和泉管財により各地区の地権者に配布され、調印を迫った開発要望書である。
内容は以下のとおり。
「今般、滑川村西部地区(水房・中尾・伊古)において西武鉄道株式会社が大規模な綜合開発を計画中であります。村当局が西武鉄道株式会社と十分なる協議を行い、地元および地元民の利益を十分尊重して開発を指導する場合には西武の開発に賛成します」
まさしく、地元の賛成をでっち上げ、そもそも賛成であった村当局に対し、西武鉄道の開発に協力するための錦の御旗を与えるものであった。
が、この時点では大立山に最も近い中尾地区では反対の立場が優勢であった。
ところで、嵐山町側では和泉管財が廣野の山林を買収し始める前に、昭和40年頃(1965)、大口製本工場が社宅の用地買収の名目で太郎丸の山林を買いまくっていた。
当時1反=30万円で用地を買収し、三ツ沼の改修などを行った。
だが、この計画はとん挫し大口製本は西武鉄道に買収した土地を転売した。
しかし、昭和40年代後半から50年代初めにかけて、和泉管財の買収は行き詰った。
この後、和泉管財のバックにいた西武鉄道(西武不動産)ががいよいよ直接買収に乗り出したという。
もっとも、和泉管財は計画(道路網の建設?)を断念し、西武鉄道に1反=150万円で売却したとい話も聞こえてきた。
ともあれ、西武鉄道が和泉管財を受け継ぐ形で買収工作を始め、この時期、住民の間では道路網ではなく、ゴルフ場にするのではないかという噂が立ち始めた。それは本当になった。
実は和泉管財の買収攻勢がとん挫した昭和40年代後半から50年代はじめの冷却期間に、西武鉄道は不在地主の土地を中心に虫食い的に買収を進めていた。
加田のある地権者によると、買収した土地を赤く塗った地図を持参し、未買収の土地について「知恵を貸してください」と西武鉄道の関係者が直接訪れることもたびたびであった。
そして、西武鉄道はついに昭和57~58年頃(1982~83)、「(仮称)滑川・嵐山ゴルフコース」の青写真を地権者に示してきた。
私が大立山・二ノ宮山・高根山を最初に訪れたのは昭和57年(1982年)だから、私が比企丘陵の自然に魅了されたまさに同じ時期、西武鉄道による「(仮称)滑川・嵐山ゴルフコース」建設のための用地買収が水面下で進行していたわけである。
西武鉄道は売却を渋る中尾・水房の地権者に対し、懐柔策として買収ではなく、賃貸あるいは交換用地の提供という選択肢を提示した。
賃貸の場合、1反=10万円の賃貸料を示したが、全面売却を渋っていた加田の慶徳寺(加田薬師)もこれで折れた。
慶徳寺の場合、半分を売却。残り半分を賃貸ということで折り合ったが、賃貸については1反=20万円、しかも10年分を前納という破格の条件だった。
賃貸の場合、所有権が移動しないので、これまで売却をためらっていた地権者も競って契約に応じた。
買収積極派の伊古に加え、賃貸という選択肢を提供することにより、中尾・水房の地権者も完全に陥落した。
中尾の地権者82名中、契約に応じなかったのは1名のみという状況になった。
ちなみに、高根カントリー倶楽部が建設された頃(昭和35年頃)、用地買収は1反=11万円が相場だった。
しかも、大立山頂には中尾の雷電神社社有地が150坪あるが、3~4年前(ヒアリングが1990年だから1986~87年)氏子総代が西武鉄道に貸してしまったという。
こうして、開発許可が出た1988年10月頃には、中尾の大勢も西武鉄道と賃貸の契約を結び、開発賛成になびいていった。
ところで、西武鉄道による用地買収や賃貸の際に最もネックになったのが、ゴルフ場内や隣接するため池の調整池への改造であった。
西武鉄道はため池の調整池への改造にあったり、「水量が倍になるから迷惑はかけない」と言ったという。
さらに改造に伴う堤や水路の改修費(100~200万円)については、県から3割、村から1割の補助金が出るが、残りを用水を利用している田んぼの耕作面積に応じ、地権者に割り振る(例えば、1反=10円など)というのが通例であった。
この地権者負担分を西武鉄道が負担するというので、地権者は簡単に改造を認めてしまった。
それにより、私の取材中(1990年4月)、ため池は調整池に改修中だった。
つまり、既存のため池を壊し、ほとんど田んぼのような形にして(水を抜いて)、改修するのが手順である。しかし、これでは6月中旬の田植え時に水がない。ということで、地権者は西武鉄道に対し早急に水を溜めてもらいたい(例えば、工事を一時ストップするなど)と要望した。
実は私が調査に訪れた1990年4月の2年前、すなわち1988年10月4日付で、都市計画法にもとづく開発区行為の許可、森林法にもとづく林地開発許可が出てしまっており、進入路の建設やため池の調整池への改造などが行われていた。
加田集落では、ゴルフ場にまるまる含まれる大立山への道について、せめて例祭の行われる1月17日だけでも立ち入れさせて欲しいと要望をしたが、1990年4月の時点で回答がないということだった(その後、1月17日の例祭にかぎり、代表者数人のみが登っても良いということで決着)。
大立山裏参道の七曲りや井戸跡(この井戸は両頭庵沼の水が枯れたときにも利用できた)は、破壊されてしまったという。
中尾で最後まで「仮称)滑川・嵐山ゴルフコース」造成計画に反対していた地権者は、「ゴルフ場の用地のうち54㌶(あるいは半分とも)が賃貸。それゆえ西武は『半分は皆さんのゴルフ場』という美名のもとにゴルフ場の造成を進めている。つまり、『西武の独占ではなく、権利の半分は皆さんにある。住民とともにやっていく』などというが、実際には住民の要望など全く聞き入れない」と嘆いていた。
いくら土地を貸したといっても、地区の象徴的な山である大立山に年1回、しかも限られた人だけ、さらに限られた時間だけしか登れないという現実が、西武鉄道の言葉が空約束であったことを雄弁に物語っている。
「(仮称)滑川・嵐山ゴルフコース」は、西武鉄道所有のパブリックゴルフコース「おおむらさきゴルフコース」の名で、1995年3月19日にオープンした。
2007年6月1日、西武鉄道の親会社「コクド」解体を含む西武グループの再編にともない、パシフィック・ホールディングス(PHD)に売却。「おおむらさきゴルフ倶楽部」と名称変更し、会員制ゴルフ場になった。
さらに2012年6月26日、PHDから株式会社アコーディア・ゴルフに売却された。
同社は、本ブログの対象区域内で「アドニス小川カントリー倶楽部」「玉川カントリークラブ」を運営している。
アコーディア・ゴルフは、所有・経営をめぐり紆余曲折をたどったあげく、2025年1月にパチンコ・パチスロメーカーの「平和」の傘下に入る予定。
「平和」は既に国内第2位のゴルフ場運営会社「パシフィック・ゴルフ・マネジメント」(PGM)を傘下に入れていたので、第1位の「アコーディア・ゴルフ」を傘下に入れることにより、国内第1位、第2位のゴルフ場運営会社を傘下に入れることになる。
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