(略図)四ツ山・堂ノ入山周辺略図

概要
東上線北側(東側)の比企丘陵では何といっても大立山・二ノ宮山・高根山がお勧めだが、それと肩を並べる存在として小川町高見から寄居町牟礼にまたがる四ツ山(四津山)・物見山がある。
山頂の四津山神社からの北面の眺望が絶佳といえる四ツ山(四津山)の素晴らしさについては、改めて書くまでもないだろう。
しかも、山頂とその北西側の山稜に中世・高見城が築かれ、山稜に沿って見事につくられた城郭や堀切の跡には驚嘆せざるを得ない。
ハイカーにとっても、城跡マニアにとっても楽しめる四ツ山(四津山)だが、ヤブ山好きにとっては、市野川にそって小川町から寄居町に延びる丘陵の縦走は一層興味の対象だった。
展望が良く整備も十分な四ツ山(四津山)山頂から北西に向け、高見城址の遺構を確認しながら歩いたのち、いよいよ尾根はヤブ尾根に変貌する。
途中、小川町と寄居町の境界付近で道が横切るが、再度ヤブ尾根に取り付き、読図をしながらついた丘陵の末端が190.6㍍3等三角点のある(点名は「牟礼」)物見山だった。
今回、比企・外秩父の山の地誌をまとめるに当たって、かつて楽しんだ四ツ山(四津山)~物見山の山稜を確認しようと、2万5千分の1地形図「三ヶ尻」を見ると、驚くことに物見山の山頂部が消滅し、三角点は移設されていた。
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」をお持ちの方は、地形図の左下をご覧いただきたい。
「寄居町」「小川町」と大きく書かれた地点のちょうど間に市野川に沿って四津山~物見山の丘陵がある。
だが、山頂に神社記号がある四津山はすぐに分かるが、そこから北西に山稜を図上でたどっていくと、3等三角点が190.6㍍から168.6㍍に低くなり、位置も東に寄っている。
そして、かつて物見山山頂のあった場所には、工場か倉庫らしき高層建築物が建てられており、物見山は辛うじて南半分こそ残っているが、山頂および北半分は消滅している。
物見山がどのような経緯で半分消滅したのかについては、あとで詳しく述べたいが、四ツ山(四津山)が脚光を浴びるなか、隣の物見山が人知れず変質したのには一抹の寂しさを感じる。
四津山神社から北西に山稜に沿って「二郭」「堀切」「三郭」「堀切」とたどり、以後はヤブ尾根を進み、まもなく小川町・寄居町の境界で横断する道に突き当たる。
正面は物見山だが、ワンビシアーカイブ第5センターの建設により山頂を含む山の北半分が消失した。
そこでワンビシアーカイブ第5センターの左を回り込み、寄居町牟礼の集落内を進むと、森林公園ゴルフ倶楽部の入口近くにある長昌寺につく。
長昌寺のすぐ先のヤツが寄居町の民間ボランティア団体の手で整備された「おぶすまトンボの里公園」(寄居町牟礼)。
この「トンボの里公園」から「たかんど」(たかんど山)(2万5千分の1地形図「寄居」の193㍍独標)経由で、もう1つの民間ボランティア団体が整備した「男衾自然公園」の「堂ノ入山」(171㍍独標)を結ぶ「たかんど山ハイキングコース」の整備が始まっている。
たかんど、堂ノ入山は、いずれも寄居町富田に位置している。
同じ富田の鷲丸山が本田技研寄居工場の建設で消滅するなか、たかんど~堂ノ入山の一帯が持ちこたえたのは、この山域を愛する民間ボランティア団体の熱意と尽力の結果である。
コースの終点は東上線の新駅「みなみ寄居駅」(通称ホンダ駅)である。
破壊される山もあれば、民間ボランティア団体が自治体の支援を受け整備した山もあるという明暗を感じることのできるコースとして、とくに桜の咲く4月上旬に推奨したい。
四ツ山(四津山:よつやま)
四ツ山の山名由来
小川町の北部。寄居町との境界に近い大字高見に位置する四ツ山(四津山)。
『新編武蔵風土記稿』比企郡高見村の条は、「増田重富蹟」に続き、その場所について以下のように記している。
「坤(ひつじさる)の方にあり、そこを四ツ山と呼ぶ」
『武蔵郡村誌』比企郡高見村の条は、「四ツ山 高さ三十六丈。周囲不詳。村の西方にあり、山脈西方今市に村に連なる。樹木鬱蒼。字深田谷より上る五町十五間」と記す。
『武蔵通志』も『郡村誌』の記事を一部踏襲。
「四(ヨツ)山 高さ三百六十尺。男衾村今市の南にして、比企郡八和田村高見に属す。 四峯並立するをもって四山の称あり。 高見字深田谷より上る五町余。 頂に愛宕社あり。 北は荒川を望み、景勝の地なり」と記す。
明治19年(1886)の「高見村地誌」はさらに詳しい。
「山嶽 四ツ山。 所在 本村(注:高見村)西南字四ツ山。 形状 その様、山を四個並立したりごとくなるをもって四ツ山の称を付せりという。 村中の一大高山にして、山派左右に分かれて、南麓は全郡高谷村に境し、西は男衾郡今市村境なり、平地中より突立し、岩石峩々とし、高谷村の簱峠と相対す。 高さ 三十六丈。 周囲 十七町五十五間。 登路 一条あり、本山の東北字深田谷より登る。 屈曲険岨なり。 その程は五町十五間松樹多し。 景到 頂上は一平坦をなし、愛宕社祠あり。 山中ツツジ多く、花時の風景最も愛すべし。 四方の眺望実に眼を驚かせり。 北方流水は荒川にして、布白を延ばすかごとく地方眺望一等地と称せり。 雑項 頂上愛宕社は毎年3月24日をもって祭る。 地方人民群参す。 当山昔時城跡なり。 城主増田四郎重富という人住みせしと言い伝う。 豊臣秀吉関東征伐の際に廃城の由を里伝す。 その証誌なし」(小川町教育委員会所蔵旧八和田村行政文書336)
これらの地誌が述べるように、関越自動車道と市野川にはさまれた寄居町今市付近から遠望すると、台地状の山の上に四つの小さな突起が確認できる。
まさに「四峯並立」「四個並立」する山容である。
ここから「四ツ山」の名が生まれたということがよく分かる。
現在では「四津山」の表記が一般的だが、もともとは「四ツ山」と表記されていた。
四津山神社
四ツ山(四津山)の山頂には、大字高見の鎮守・四津山神社が祀られている。
『通志』や「高見村地誌」に記述されているとおり、もともと四ツ山山頂に祀られていたのは「愛宕神社」(愛宕社)であった。
愛宕神社は、もとは麓の明王寺の境内鎮守で、氏神として寺に祀られていた。
その後、愛宕神社は宝暦9年(1759)、現在の鎮座地である四ツ山山頂に遷座された。
当時の神社は、寺が奥ノ院として京都から遷座した愛宕様の本体を祀っていた。
それが現在四津山神社の社殿内に安置されている勝軍地蔵である。
勝軍地蔵は、高さ30センチほどの白馬に乗った見事なものである。
その後、明治40年(1907)の政府による神社統合により、村内の11社を四ツ山の愛宕神社に合祀。 高見村の村社(鎮守)とした。
このとき、神社名を愛宕神社から、地名(四ツ山)にもとづき「四津山神社」に改称した。
本来は神社名が「四津山神社」で、神社のある山名は「四ツ山」であるが、「四津山」の表記が神社名、山名として定着した感がある。
要するに、もともとの「四ツ山」が「四津山」と表記されるようになったのは、愛宕神社が鎮座していた四ツ山に高見地区の15社を遷座するにあたり、「四津山神社」と改称した時点であったと考えられる。
しかし、本ブログでは、もともとの山名表記である四ツ山を尊重し、「四ツ山」(四津山)と併記することにしたい。
高見城址
四津山神社参道入口の石鳥居を抜けると、山頂までは162段の石段となる。
石段は下と上に分かれ、下の47段は比較的緩やかだが、上の115段はかなり急な石段である。
参道入口から約20分。
急な石段を登り切ると、芝生の山頂に比較的新しい四津山神社の社殿が鎮座する山頂一角につく。
現在の社殿は、1997年11月に建立された新社殿である。
山頂からは北側の展望が開け、眼下には荒川の向こうの深谷・熊谷の市街。 さらに冬なら雪をまとった榛名、赤城、谷川、日光白根など北関東の山々が一望でき、時間を忘れるくらいである。
「高見村誌」のいう「地方眺望一等地」の名がふさわしい山頂からの好展望である。
ところで、四津山には中世の山城・高見城が築かれていた。
『新編武蔵風土記稿』比企郡高見村の条は、「増田重富居蹟 坤(ひつじさる)の方にあり、其所を四ツ山と呼ぶ。ここは増田四郎重富といいし人の居蹟といい伝うるのみ。 その事蹟詳ならず。 されど男衾郡野原村文珠寺に重富の塚あり」と記す。
『武蔵国郡村誌』比企郡高見村も、ほぼ同じ内容で、「増田四郎重富居蹟 方十五間ばかり。村(高見村)の西方四ツ山の嶺上にあり、四囲土手の遺形猶存す。 古昔増田四郎重富といいし人の居蹟と云い伝うるのみ。 その事蹟詳ならず。 されど男衾郡野原文珠寺に重富の塚あり」と記している。
増田四郎重富といえば、熊谷市(旧大里郡江南町)野原の文珠寺を再建した人物であり、彼の塚が文珠寺にあるというのも頷ける。
『郡村誌』には、増田四郎重富は「長享元年(1487)二月三日卒せしといえり」とある。
中田正光氏は、築城者については明確には分からないとしつつも、高見城の位置づけとして、鉢形城と松山城の中間地点にあり、杉山城などとともに、当時の街道を押えていたとしている(中田正光『埼玉の古城址』有峰書店新社、1983年)。
遺構図と2万5千分の1地形図「三ヶ尻」を照合すると、現在の四津山神社付近が高見城の本郭、神社参道が大手口に当たっている。
広い山頂の神社北北西に堀切をはさんで二の郭。
さらに山頂一帯では一番標高の高い(200㍍圏)地点に三の郭が尾根に沿ってつくられ、三の郭北端の堀切は高さが5メートルを超えている。
最北端の堀切を抜けると、尾根は急なくだりとなり、小川町・寄居町の境界鞍部に落ち込む。
内田康男氏は「増田家文書」を解読し、文明10年(1478)、古河公方足利氏家臣の増田四郎重富は、深谷市上増田からこの地に移り、高見城を築いたとしている(小川町遺跡調査会『四津山』1997年)。
その2年前の文明8年(1476)、山内上杉氏家臣の長尾景春が鉢形城に立てこもって、主君に離反する事件(長尾景春の乱)が起きた。
これに対し、扇谷上杉氏は重臣の太田道灌を派遣し、文明12年(1480)、太田道灌の軍勢は一時、高見城に布陣したといわれる。
文明18年(1486)、扇谷上杉氏の当主・上杉定正が家臣の太田道灌を暗殺するという事件が起こった。
太田道灌の死後、太田氏は山内上杉氏に属するようになり、扇谷上杉氏は古河公方と結びつき、両上杉氏は激しく敵対するようになった。
古河公方方の扇谷上杉氏(上杉定正)は河越城に、そして山内上杉氏(上杉顕定)は鉢形城を拠点とし、各地で争いを起こした。
そして、長享2年(1488)11月3日から15日の間、両者が激突する高見原の合戦が行われた。
「増田家文書」によると、高見原合戦の時、高見城は古河公方方家臣(扇谷上杉側)の増田四郎重富が城主で、その翌年、高見城は山内上杉顕定に攻められ、落城。 それとともに、増田四郎重富も自害したと伝えられている(『郡村誌』では、増田四郎重富の死亡年を長享元年(1486)としているが)(以上の記述は、小川町遺跡調査会『四津山』1997年にもとづく)。
三つ児岩(みつごいわ)
高見地区・四ツ山(四津山)の二の沢にあるという三つに割れた大岩。
この岩については、いろいろな伝説があるが、そのうちの3つは以下のとおりである。
「三歳になる神様(大男)が、どこからか頭の上に岩を乗せてきて、四津山で一休みした時、その岩を放り投げたのが、この三つ児の岩という。今でも岩に頭と手のついた跡(後刻か)がある。 大岩が三つに割れたという。 一休みした時、足をついたのが、足っこ沼(一の字沼)と牟礼の足っこ沼といわれ、両方足の形をしている。 この三つ児岩のところに小さなお宮があり(今は確認できない)、正月飾りを持って行ったという」
「昭和55年作成の『八和田地区郷土かるた』によると、「奇石で残る三つ児岩」の説明に「高見地区四津山の二の沢にある巨大な岩を三つ児岩という。 伝説によれば、戦国時代、四津山城の築城祝いに、家来の中から、七・五・三の兄弟が選ばれて、舞いを奉納中、突風が起こって春雷となり、山を下りることができなくなった。 年下の七歳、五歳の子供は、家来たちに助けられたが、三歳の子供は風に飛ばされて岩まで吹き落とされてしまった。 それ以来、大正の末期までの約300年の間、三歳の子供は山に登らせない風習が残っていた」とある」(いずれも、内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤「小川町の山々・巨石・名石ーその歴史と伝説ー」講座資料、令和4年2月19日作成」より引用)
「昔、四津山に3人兄弟がいて力比べをした。兄、仲、弟と順次大岩を持ちあげて四津山をまわったが、末弟は長兄、次兄にはかなわなかったとみえて、頂上に捧げた岩を半廻りもしない中に途中で投げ出し、四津山に腰かけ、両脚をふんばって休んでしまった。その時、頭で支えた跡と手で支えた跡がはっきりついている岩が、四津山の東側中腹にあり、諏訪社が祀られている。これを三つ児の岩といっている。
さらに、南側の麓には、この時踏んばった足跡、といわれる「足っこ沼」があり、清らかな水を湛えている(韮塚一三郎編著『埼玉伝説集成(上・自然編)』北辰図書出版、1973年)
四津山神社の春祭り
小川町高見に鎮座する四津山神社の春祭りは、毎年4月24日に行われる(現在はそれに近い日曜。2004年は4月21日・日曜に行われた)。
この春祭りのことをお日待ちともいい、神楽が奉納される。
四津山神社の氏子の区域は、大字高見1区と2区、大字能増の旧2区である。
祭りにあたっての役割は、総代(5名)・用(14名)が中心になり、祭事・神礼・神楽・炊事などを分担して行う。
祭りの前日は氏子の人たちが総出で、祭りの準備を行う。
神社の境内にたてる万灯の花づくりを集会所に集まって作る。
万灯に飾る花は、紅白の色紙でつくる。これは女の人たちの役割である。
男たちは、竹を鉈で小割りにして節を削り取り、花をつける枝に使うヒゴ作りを行う。
万灯には「風雨順時」「五穀豊穣」「交通安全」「○○氏子中」と四面に文字が書かれ、農耕を始めるにあたり豊作を祈願する意味が込められている。
さらに祭りに来る参詣者に振る舞われる紅白の三角餅を作る。
餅は、白二、紅二の四臼たく。
これらの作業は祭りの前日に行われる。
祭りの当日になると、朝早く、幟旗をたてたり、若い人たちは、神楽の道具や前日に作った万灯、飯台に入った三角餅などの重いものをもって急な石段や斜面を登り、山頂まの神社まで運びあげる。
午前10時頃になると、神楽殿から神楽の笛や太鼓の音があたりの山々に響きわたる。大里郡花園町永田の金鑚神社永田組(現在は深谷市金鑚神社永田組:深谷市無形文化財)の人たちが奉納する神楽。
この神楽は、児玉郡神川町の金鑚神社の名前に由来し、児玉郡から大里郡にかけての県北部に伝承されてきた。
当日奉納される神楽は、神々を題材にした一座形式で、禊(みそぎ)、岩戸開(いわとびらき」の演技が午前中に奉納され、午後からは氷の川(ひのかわ)、湯探(ゆさぐり)、そして最後に種蒔(たねまき)などの演目が行われる。
最後の神楽である「種蒔」の最後に、天狐、アシライ、豊受大神たちが参詣者に紅白の三角餅を神楽殿から蒔く。
この餅を食べると、一年間無病息災でいられるとされ、とても縁起の良い餅である。
このとき、境内に立てられた万灯の花も氏子たちをはじめ多くの参詣者が競って大事に持ち帰る(以上は、小川町遺跡調査会『四津山』1997年にもとづく)。
2024年4月21日(日)に行われた四津山神社祭典では、午前10時から神楽殿で、金鑚神楽永田組(深谷市無形文化財)による神楽が奉納。
午後2時からの祭典後には三角餅を蒔いて見物客に差し上げるほか、中学生以下の子どものために、クイズに答えると景品やジュース・焼きそばなどがもらえる催しを準備した。
物見山(ものみやま)→山頂部と山の北半分が消滅
四津山から尾根沿いに城郭跡を進み、いったん小川町・寄居町境界地点で、尾根を横切る道に出た後、再度登り返してヤブ尾根をたどった最後の山が寄居町牟礼の物見山であり、190.6㍍3等三角点峰であった。
物見山には、その名称からわかるように、尾根続きの高見山城の物見櫓が築かれており、地理的にもっとも近い高見山城の三廓と連携し、鉢形城と高見山城をつなぐ役割を担っていたと想像できる。
今回、改めて最新の2万5千分の1地形図「三ヶ尻」(2016年調製、2017年2月1日発行)を見ると、何とその物見山の山頂とそれを含む北半分が消えているではないか。
そして、3等三角点が20㍍以上も低い168.6㍍になり、尾根を少し東に寄った(四津山方面に寄った)ところに移されていた。
物見山北半分跡には、二棟の高層建築物がつくられている。
そこで、物見山に何が起こったのか、過去の2万5千分の1地形図「三ヶ尻」をさかのぼって、経緯を確認してみたい。
幸い、(財)日本地図センターのホームページからネット上で過去の地形図を閲覧できる。
だが、拡大すると図がボケてしまうので、標高など細かい数字は正確性に欠けるため、三角点の位置変更と物見山周辺の造成工事を時系列的に追うことにより、物見山の終焉を確認してみたい。。
・1981年修正 1982年12月28日発行 物見山山頂に3等三角点(ただし、1983年2月の山行時に三角点標石は見当たらず)。物見山~四津山の尾根に何も起こっていない。
・1986年修正 1987年10月30日発行 物見山はそのままだが、三角点は北東支稜の168.6㍍地点に移動。物見山周辺で造成工事が始まったことが地図上から確認できる。。
埼玉県内のすべての三角点(当時)を網羅した遠山元信編『埼玉県内の三角点 1995年度版』(埼玉山岳調査会、1995年)でも、3等三角点(点名「牟礼」)の標高は168.6㍍になっている。
・1993年修正 1994年11月1日発行 物見山山頂の切り土工事が始まった。
・1999年修正 2000年8月1日発行 山頂を含む物見山北半分が消滅。山頂跡も整地された。
・2006年更新 2006年9月1日発行 整地された土地に一部建物が建ち始めた。
・2016年調製 2017年1月1日発行 物見山北半分跡に2棟の高層建築物が建った。奥の方の建物の南端が物見山山頂部跡である。
物見山北半分跡に建ったのは、(株)NXワンビシアーカイブズ関東第5センター。
同社は日本通運のグループ会社で、関東第5センターは、生保・損保・証券・金融等の帳簿類や販促関係の資料の書庫である。
関東第5センターが建設されたのは、2006年12月22日。
2008年2月15日、第5センター敷地内に、新自動倉庫が増設された。こちらも文書保管庫である。
今、2棟のの大型文書保管庫が建つ同地からは、山頂と山の北半分を削られた物見山の無残な姿が望まれるだけである。
また1つ比企の里山が実質的に消えたのである。
最後に、1983年2月に四津山~物見山へ歩いた折、物見山1つ手前のピーク付近から物見山山頂に達したくだりの一文を引用しておきたい。 在りし日の物見山の様子が分かるだろう。
「細々とした(尾根上の)踏跡をたどると、右に物見山手前のピークを巻く道が分岐する。ここには石の祠が祀られているので見落とさないよう注意したい。すぐに先のピークに登る踏跡を右に見送り、伐採された斜面を登ると物見山山頂につく。
狭い山頂からは、木の間ごしに比企の丘陵、さらに白銀の北関東の山並みが眺められる。山頂の端には小さな石の祠が祀られており、地元の信仰を集めていた山であることがうかがわれよう。ただし、190.6㍍三角点標石はどこにも見当たらない」(高橋秀行「杉山城跡から物見山」『新ハイキング』1984年3月号より)。
1986年の修正、1987年10月30日発行の2万5千分の1地形図「武蔵小川」以降、物見山山頂にあった三角点標石は、北東支稜の168.6㍍地点に移設された。
私が1983年3月に訪れた際に三角点標石を見つけられなかったと記しているが、もしかしたら、この時点で既に三角点の移動が決定されており、標石も抜かれてしまっていたのであろうか?
大石真人氏の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8『奥武蔵』朋文堂、1954年)所収でも、四津山から北西に延びる尾根の末端に物見山(190.6㍍)の山名が明記されている。
物見山手前のピーク巻き道の入口にあった石の祠、そして物見山山頂にあった石の祠は移設されたのだろうか。それとも山と運命をともにしたのだろうか。
ところで、最近ネットの山行記録等で物見山山頂とされているのは、何とか造成を免れた山頂南側の山腹である。
標高も190㍍圏から170㍍圏に下がっている。
造成を回避できた物見山南半分の最高点(前記山頂南側山腹)から途中168.6㍍3等三角点(点名「牟礼」。山頂に「愛宕山」なる山名表示板があるようだが、これはハイカーが勝手に命名したもので、地元呼称ではない)に寄り道しながら、四津山にいたる主稜線は無事縦走でき、「おぶすまアルプス」(これもハイカーの造語)なるコースの核心部分をなしているようだ。
堂ノ入山(どうのいりやま)
2万5千分の1地形図「寄居」の右下を見ると、巨大な本田技研寄居工場(寄居町富田:鷲丸山跡)と、こちらも巨大なワンビシアーカイブズ関東第5センター(寄居町牟礼:物見山跡)にはさまれ、南には2つのゴルフ場(「寄居カントリー倶楽部」「森林公園ゴルフ倶楽部」)、北は住宅地に囲まれた里山地帯がある(寄居町富田)。
それが「堂ノ入山」と「たかんど」(たかんど山)の尾根である。
堂ノ入山は、新吉野川と谷津川との合流点東の丘陵上の171㍍独標。
たかんどは堂ノ入山の南東にある尾根続きの193㍍独標。
実は、この2つの山を含む一帯は、寄居町の2つの民間ボランティア団体の手により保全・再生された。
まず、「寄居にトンボ公園を作る会」が寄居町牟礼に「おぶすまトンボの里公園」という名のビオトープを整備した。
その後、「(財)男衾自然公園管理組合」が、雑木とヤブの荒廃した山になっていた堂ノ入山一帯の刈り払いとハイキング道の整備、指導標の設置などを行い、さらにオオヤマザクラと小彼岸桜との交配種であるイギリス生まれの桜アーコレード(和名・男衾桜)を堂ノ入山山頂付近に約千本も植林。
2011年、かつてのヤブ山・堂ノ入山は、「男衾自然公園」の名で寄居有数の桜の名所兼展望ハイキングコースとしてデビューした。
さらに、「男衾自然公園」と「おぶすまトンボの里公園」を結ぶ「たかんど山ハイキングコース」を「寄居にトンボ公園を作る会」が整備中ということで、奇蹟的に残された里山が民間団体(もちろん寄居町も支援しているが)のイニシアティブで保全・再生され、寄居町民をはじめ多くの人々に親しまれているのは嬉しい限りである。
とくに「男衾自然公園」の「男衾桜」は4月上旬と9~11月の二季咲き。
春には桜祭りも開かれるほか、3月下旬にはカタクリも咲くなど、花一杯の里山に変貌した。
堂ノ入山は、早くも大石真人氏監修の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8『奥武蔵』朋文堂、1954年所収)に「堂ヶ入山」(197㍍)と記載。
こんな早い時期(1954年)にヤブ丘陵「堂ヶ入山」の地名採集をされた大石氏の慧眼には感服せざるを得ない(ただし、標高197㍍としていることから、「たかんど」を堂ノ入山と勘違いした可能性もある)。
さかのぼると、『新編武蔵風土記稿』富田村内谷津村の条に、「堂之入山 村(富田村)の東の方にあり」との簡単な記述があり、昔から知られた山であったことが分かる。
「男衾自然公園」となった現在、山頂には堂々たる立ち木をバックに立派な山名表示注が建てられ、笠山・堂平山方面の展望が良い。
その他、堂ノ入山周辺には、金比羅宮、仙元大神の両碑が祀られるピークにそれぞれ展望台が設けられ、堂ノ入山以上の360度の眺望を得ることができる。
金比羅宮、仙元大神などの碑が周辺にあることから、堂ノ入山は、古くから地元の信仰を集めた山であったことが想像できる。
さて、堂ノ入山の山名だが、「ドウ」「ド」には、「水量の小さな枝沢が本流に合する」「川の合流点」などの意味がある(岩科小一郎『山村滞在』岳書房、1981年、鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、1977年)。
「枝沢が本流に合流」「川の合流点」という語彙を堂ノ入山周辺の地形に当てはめると、見事に符合することが分かる。
堂ノ入山西山麓で、谷津川が新吉野川に合流するのである。
谷津川は新吉野川の支流であり、「枝沢が本流に合する」ことを意味する「ドウ」そのものの地形である。
つまり堂ノ入山は、「谷津川が新吉野川」に合流する地点付近にある山の意ではないだろうか。
たかんど(たかんど山)
堂ノ入山を含む「男衾自然公園」と「おぶすまトンボの里公園」を結ぶハイキングコースは2つある。
一つは、「里のコース」。
もう1つが「たかんど」を経由する「山のコース」である。
たかんど(たかんど山)は2万5千分の1地形図「寄居」で、堂ノ入山の南にある193㍍独標で、堂ノ入山の丘陵の最高点である。
「トンボ公園を作る会」は「たかんどは、コース中で最も標高の高いところ」としているが、同時に地元では単に「たかんど」と呼んでいると加えている。
残念ながら、たかんど山頂は、雑木に覆われ、展望は得られない。
小川町駅からタクシーで四津山神社参道入口まで行き(約2,500円)、四津山山頂からの展望を満喫したあと、西に高見城址の遺構を探索し、そのまま尾根伝いに小川町と寄居町との境の道におり、そこから牟礼の集落を経由して県道に出たところが、長昌時。
そのすぐ先が「おぶすまトンボの里公園」。
ここから「山のコース」をとり、「たかんど」から「男衾自然公園」内の堂ノ入山や2つの展望台で広大な眺望を楽しみ、みなみ寄居駅(通称「ホンダ駅」)にいたるコースは、巨大ゴルフ場造成で大立山が登れなくなった大立山~二ノ宮山~高根山に代わり、東上線北側(東側)の比企丘陵屈指のハイキングコースに躍り出た。
桜が満開になる4月上旬に訪れたいものだ。
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