「比企・外秩父の山徹底研究」第4回「仙元丘陵」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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(略図)仙元丘陵全体図

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概要

 2万5千分の1地形図「武蔵小川」を見ると、地図の中央西南側に屈曲して流れる槻川と八高線にはさまれた明瞭な丘陵があることが分かる。

 298.9㍍2等三角点(点名「青山」)のある「仙元山」から南下。

 青山城址(割谷城址)のある「城山」をへて、252.6㍍4等三角点(点名「下」)付近から急激に東に折れ、小川町・ときがわ町境界を進む。

 地形図にも山名が表記してある「物見山」(286㍍独標)をへて、次の「仙元山」でそのまま境界尾根をくだり、「小倉峠」から「小倉城址」へと進むコースと、南下して「昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉」経由で、八高線・明覚駅に到着するコースが分かれる。

 小倉城址へ向かうにせよ、南下して明覚駅に向かうにせよ、ゴルフ場(玉川カントリークラブ)に沿って進むことになるのは残念。

 しかも、南下するコースの途中から右に分かれ「白石」に登るコースは、白石がゴルフ場に含まれてしまったので、立ち入ることができない。

 このようなマイナスポイントがあるものの、比企丘陵でまとまった尾根歩きをヤブもなくできる貴重な丘陵である。

 なおコース中、252.6㍍三角点峰については、山名の混乱がある。

 最新の昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)には「大日山」と山名を記載している。

 現地には「大日山」と書かれた大きな私設の山名表示板があり、こちらも「臼入り」「臼入山」と同様、登山地図や山名表示板をそのまま垂れ流すSNSの山行記録で、「252.6㍍三角点=大日山」の情報が発信され、ハイカーの間で定着するにいたっている。

 しかし、これは間違いで、252.6㍍三角点峰は無名である。

 だが、近くに「大日山」なる地名がたしかにある。

 それはどこか? 

 以下の記述で明らかにしていこう。

仙元山(せんげんやま)

 小川町青山の東部にある298.9㍍2等三角点峰。

 地形図にも「仙元山」の名が明記され、古い文献にも記録が残されている名山である。

 『武蔵国郡村誌』比企郡青山村の条は、「仙元山 高さ周囲不詳。村の東方にあり、嶺上より二分し、東は下里村、西は本村に属す。孤立にして樹木疎立す。村の北方より上る十町」と記す。

 明治初期の記録だが、現在にもあてはまる内容で、簡潔にして見事な記述である。

 ちなみに、同じく明治期の『武蔵通志』で「浅間山 同村(青山村)の東」とわずかに触れられているのも、「仙元山」のことである。

 仙元丘陵には、本山以外にも物見山(286㍍独標)東に同名の「仙元山」がある。

 両者を区別するために、それぞれが属する大字を冠して、「青山仙元山」「下里仙元山」と便宜的に区別するときもある。

仙元山見晴らしの丘公園

 仙元山北東の中腹に、小川町が1993年に約5億円を投じてつくった公園。

 小川町の中心部をはじめ、赤城、榛名など北関東の山々、さらに比企の名峰・笠山などを一望できる360度の眺望を誇る展望台。

 そして全長203㍍と埼玉県で第2位の長さの「ローラー滑り台」をメイン施設とし、東屋やトイレ、観光休憩所、駐車場などを備え、公園からは仙元山山頂への遊歩道が延びる。

 公園設置は仙元山とその周辺を一変させた。

 それまでは笠山や大霧山、官ノ倉山などの陰に隠れ、ヤブ山好きがわずかに登るだけで、道標も皆無であった山が一変。

 過剰なほどの指導標とよく整備された遊歩道の山となった。

 仙元山は、不遇のヤブ山から小川町中心部からもっとも近いプレイゾーンとして、行楽客やハイカーの押し寄せる観光の目玉となった。

 仙元山への登路も、従来の北山麓・天満宮から直線的に登る道から、見晴らしの丘公園から遊歩道を登るコースが主流になった。

 見晴らしの丘から仙元山山頂まで約30分の整備されたルートである。

青山の百庚申と浅間社跡

 見晴らしの丘公園から遊歩道を山頂に向けて登ると、以前からの天満宮からの道に出る。

 ここで指導標のとおり、左に行くと、すぐに展望台を経て山頂に達するが、天満宮への道を少したどり、西に分かれる急坂を登ると、小平地に出る。

 ここが仙元山の名称由来になった冨士浅間信仰の対象である浅間社のあった場所である。

 ずらっと並んだ緑泥片岩の庚申塔が目を引く。

 これが小川町指定史跡の「青山の百庚申」である。

 百庚申は、万延元年(1860)12月庚申日、青山村の人々が中心に造立したが、奉納者は青山をはじめ12の村にわたっている。

 百庚申について、『青山二区の郷土誌』(青山二区ふれあい いきいきサロン、2024年2月)は、次のように詳しく解説している。

 「万延元年(1860)は、富士山御縁年の年にあたり、同年12月には仙元山頂上に丸三講(この地方で組織された冨士講の一集団)により庚申大神(親庚申という)1基が建てられました。そのほか同年のものと推測される「庚申」の碑が、講員と思われる人々等により百基以上建てられました。建立者の地域をみると、現在の小川町(この中に青山二区の人々と思われる人が8基ある)、東秩父村、ときがわ町、熊谷市の広範囲に及んでいます。

 同月には円城寺参道入口左脇に浅間大神宮と百庚申拝礼道の道標を兼ねた石碑も建立されました。これは、大先達3人が富士登山33拜の大願を成就した記念に各地多数の丸三講員の援助を得て建立したものです。裏面には富士山北口本宮浅間神社に奉仕する神職であるとともに御師でもあり小川地方に布教していた「大外河美濃守(おおとがわみののかみ)の名前も刻まれています。

 これ以降は、地元青山下分の人々だけでなく、丸三講の人々の多数の人々が登山し浅間神社及び百庚申を拝礼したものと思われます」(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい いきいきサロン、2024年2月)

 百庚申の隣には、青山村の浅間講が信仰した浅間神社(『新編武蔵風土記稿』や『武蔵國郡村誌』に「浅間社」として記載)、つまり青山・浅間神社跡の石積みが残されている。

 浅間神社は1908年に青山村の鎮守である氷川神社に合祀されたが、それまでは毎年4月の例祭は大いに賑わったという。

 上記のように、山頂北山腹の浅間神社の存在が、仙元山の山名由来である。

 そのために、仙元山山頂には浅間信仰の名残は存在しない。

 なお、前出の『青山二区の郷土誌』では、浅間神社の沿革について、次のように詳しく記録している。

 これによると、仙元山は、もともと富士山と呼ばれていたようである。

 「元禄8年(1695)の書類に、円城寺が富士山に浅間社の宮を新造したとあることから、仙元山はもともと富士山と呼んでいたことがうかがわれ、当時から浅間社が祀られていたことがわかります。この浅間社は、日本最高峰「富士山」を信仰の対象とする浅間大社を分祀したものと思われます。

 以降、山麓の青山下分の人々から信仰され、人々の登拝が行われたと思われます。万延元年(1860)に建立され

 明治2年の青山村絵図に「仙元社」とあり、一時仙元社と称した可能性もあります。

 明治3年正月、神仏分離令により、浅間社はそれまで管理してきた円城寺から離れ、青山村下分鎮守として神職により祭礼が行われることとなりました。明治5年以降の「仙元大神祭礼帳」によると、当初は氏子85戸とあり、田嶋中井組、大原矢ノ口組、見田畑ヶ中組の年番により4月3日(明治11年から5月3日、明治32年から4月17日)に行われたようです。

 (中略)明治41年3月、神社合祀政策により、青山鎮守の氷川神社内に移転しました。

 昭和44年11月、青一見田組により、下分の天神山に社殿を造営し遷宮を行いました」(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい いきいきサロン」、2024年2月) 

仙元山山頂

 百庚申から元に戻り、再度山頂を目指すと、見晴らしの丘公園から遊歩道が合流してすぐに「展望台」に出る。

 残念ながら、周囲の雑木が育ってしまい、展望はいまいちである。

 展望台からひと登りしたところが、2等三角点標石(点名「青山」のある)仙元山山頂。

 こちらも立ち木に覆われ、展望は立ち木の間から小川町の市街が見下ろされる程度である。

山名は「仙元山」、小字名は「浅間山」

 先に述べたように、「仙元山」は当初「富士山」と呼ばれていたようである。

 その後、仙元山となって現在にいたるが、字名は明治初年の地租改正の際に、「浅間山」に変更したようである。

 それ以降、山名は「仙元山」、字名は「浅間山」となった(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい いきいきサロン、2024年2月)。

荒沢北向不動尊

 仙元山西山麓の小川町青山の大原(おおばら)地区には、大原と隣の矢ノ口の住民の信仰を集める荒沢北向不動尊がある。

 荒沢北向不動尊の例祭は、「5.雷電山・御岳山・大峰とその周辺」で紹介する旧玉川村(現ときがわ町)日影の小北地区の北向不動尊例祭と古来から同一日に行われ、例祭の内容も非常に近い。

 距離的に比較的近い両方の北向不動尊例祭を比較する上でも興味深いので、私の調査ノートから「荒沢北向不動尊」の例祭を紹介したい。

 そのため、仙元丘陵の主稜線からいったん山麓に下りることをお許しいただきたい。

 先にも書いたが、小川町青山の大原地区にも、旧玉川村(現ときがわ町)日影の小北地区と同様、北向不動尊がある。

 両者は、ともに例祭を旧暦1月28日に行ってきた。

 青山の仙元山から西に青山二区に派生する尾根の末端にこんもりとした森がある。

 ここに荒沢北向不動尊がある。

 ところで、県道をはさんで大原の反対側(西側)には「金山」の地名があり、ここでは昭和の初めまで銅が採掘され、今でも採掘跡の穴が残っている。

 だが、鉱石中の銅成分が少なく、採算が合わず、既に採掘を中止してしまったという。

 小川町の郷土史家・内田康男氏のご教示によると、銅の採掘跡のあるところは「金山」、坑道が残るのが「黒岩」で二ヶ所に分かれているという。

 『青山二区の郷土誌』(青山二区ふれあい いきいきサロン、2024年)によると、明治3年11月、青山村役人から福寿山と称する黒岩秣場から銅が算出するので、政府に対し自費で開鉱したいと願い出ている。

 明治11年には、福寿山産出の銅鉱が秩父郡黒谷村(和銅鉱遺跡)産出の銅鉱とともに、勧業仮博物館に展示されたという。 

 以下、少し長くなるが、『青山二区の郷土誌』より引用したい。

 「『小川町の自然 地質編』や地元の方によると、昭和10年に、大木粂次郎(あるいは駅前の関口石材店ともいう)が採掘を開始して8年間ほど稼行され、人夫は多いときで7~8人が手堀りで作業し、月に1度は発破を使っていたといいます。鉱山ではトロッコを使用して鉱石を運び出し、南京袋につめてリヤカーで小川町まで運送したといいます。

 『小川町の自然 地質編』によると、「旧坑内やズリ場でも採掘鉱物らしきものは確認できなかったが、ニッケルかクロムを採掘していたと思われる。」と記しています。

 現在、字黒岩谷地内に坑口が4か所あり、坑道の総延長は約153メートルに及びます。うち最大の坑内平面図は前頁

(引用者注:『青山二区の郷土誌』18頁の黒岩坑山最大の坑内平面図)のとおりですが、そのうち地階部分の総延長は約136メートルで縦横に伸びています」(『青山二区の郷土誌』)

 『青山二区の郷土誌』18頁には黒岩坑道一階の写真が載っているが、そこにはコウモリの姿がはっきりと写っている。

 黒岩坑山跡の南に隣接するのが「金山」(金山は字名)。

 金山地区内の岩場には数カ所採掘された跡とみられる場所がある(『青山二区の郷土誌』)。

 では、本題の北向不尊動に戻ろう。

 例祭(縁日)は旧暦の1月28日に行われていた。

 現在(1987年2月)では旧暦1月28日に近い日曜に行われる。

 1987年は3月1日(日)。

 私が訪れた時、ちょうど縁日を翌週に控え、今年の当番の人々が祭りの準備をしているところだった。

 不動尊に向かう道すがらにも、「3月1日(日)青山大原北向不動縁日 大福引き・甘酒・当番第5隣組」と墨書きした紙が貼られていた。

 不動尊の入口には、当日、旗をたてる竿が2本建てられており、そのテッペンには「しきび」の木が3本付けられている。

 ちょうど「厄疫・除災・守護 荒沢北向不動尊」と印刷された紙を竿に付け、当日参拝者に配る旗をつくっている最中だった。

 不動尊の堂宇の奥には、火焔を背負い、手に剣をもつ本尊の不動様の像が安置されている。

 この堂宇は、昭和45年(1970)5月に改築されたもので、改築記念碑には次のように刻まれている(北向不動尊の堂宇は、ちょうど大原を見落とすように、北向かいに建てられている)。

 「不動明王御宮は古書の語るところ天明6年(1786)9月吉日大原組矢ノ口組の信徒の深き信仰心により建立されたるも年歴を重ねることいく星霜このたび御本殿改築の要を感じ地区民の協賛寄進を得ここに落成を見るにいたる」

 不動尊の背後にある沢が荒沢で、荒沢北向不動尊の名もこれによっている。

 当日はカレ沢だったが、梅雨時などは水が流れ、ちょうど沢が大きく右にカーブしたところが滝になるという。

 ここ大原の北向不動は、まだ集落に近い立地だが、それ以外の小川町およびその近隣の北向不動(日影・笠原・木部など。これらに加え、上古寺の滝ノ入不動)がいずれも沢沿いにあり、すぐ近くに滝場をもっていること、概して山奥に祀られていることも興味深い。

 大原の荒沢北向不動尊の由来は、旅の六部が不動尊を背負ってこの集落にやってきたが、大原の紺屋という屋号をもつ大木家の縁側で不動尊を残し、現在堂宇のある地にたどり着き、この地で息絶えてしまった。

 この六部の霊をなぐさめるため、村の有志が荒沢に不動様を祀ったのがはじまりという。

 なお、荒沢をはさんで不動尊の向かい側には、やはり瞽女(ごぜ)が背負ってきたといういわゆる「アワシマ様」の小祠がある。

 紺屋の屋号については、もとは青山城に仕えた染物師であったことに因むという。

 不動様の縁日は正月初不動として、旧暦の1月28日に行うのが習わしになっていた。

 それは、春を待つ行事として信仰を集めていた。

 以前は忠実に旧暦1月28日に行われていたが、その頃は堂宇の屋根の上から団子を撒いたという。

 今ではそれに近い日曜に行っているが、大原・矢ノ口7地区のうち、新住民の多い区を除く6地区の持ち回りになっている。

 祭りの費用は1戸につき5,500円徴収するが、その他寄付もあり、旗の印刷は印刷所が厚意で請け負ってくれている。

 総額では17万円ほどかかるが、当日には2,500人に近い参拝者があり、大変な賑わいをみせる。

 祭りは午前9時から午後4時頃まで行われる。

 まず円光寺の住職がお祈りしたあと、参拝者がそれぞれお祈りする。参拝者には旗と半紙に包んだ団子が渡される。さらに甘酒がふるまわれる。希望者には祈祷のためのお札が渡される。

 ちなみに、祭りが休日に行われるようになったのは、15年ほど前(1987年の15年前だから、1972年頃)からである。

城山(しろやま:青山城址・割谷(わりや)城址)

 仙元山から城山に向かう尾根筋は、私の訪れた1980年代半ば当時は、伐採されたあとで、展望に恵まれた山稜だった。

 今はどうだろうか。

 それでも、見晴らしの丘から仙元山山頂を往復する行楽客がこちらには来ないため、ずっと静寂になり、ハイカーの領域となる。

 2万5千図「安戸」では、267㍍独標とされているピークが城山で、小川町指定史跡の青山(割谷)城址である。

 以下、町田尚夫氏の秀逸な文章を引用しておこう。

「小川仙元山の山頂から南の尾根に入ると、急に人影が途絶える。だらだらと下って行くと、西に青山へ、次いで東に割谷への道を分ける。

 登りにかかると稜線は逆S字にぐにゃりと曲がる。地図上でも顕著な捩れ尾根だ。右折して登り着いた267㍍標高点の山頂一帯が青山城跡である。頂上からは多くの支稜が派生し、谷が複雑に入り組んでいる。その地形を巧みに利用して構築された山城だ。順路を進むと先ず三の郭、次いで本郭に至る。ここで南南西に120度向きを変え、やや下ると二の郭となる。各郭の間には土塁や堀切の遺構も多く見られ、城郭研究の資料として評価も高い。

 『武蔵国郡村誌』比企郡下里村の条には「割谷城墟 村の西にあり東西八十間南北百五十間遺濠猶存す年月不詳高谷弥吾助平貞義の居城なりと云伝う」とある。

 『新編武蔵風土記稿』比企郡下里村の条にも「古城蹟・・・」とあるが、位置や名称の記述がなく特定できない。

 築城年代について確実なことは不明だが、町指定史跡の説明では、「・・・『関八州古戦録』には永禄6年(1563)、松山城へは上田案楽斎、同上野介朝広を遷住なさしめ青山、腰越の両砦と共に堅固に相守らせ・・・」とあることから、戦国時代、松山城の支城であったことが分かる、と記されている。」(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』奥武蔵研究会、2004年)

 青山城(割谷城)は口碑によると、塩山(正山:しょうやま)から石火矢が放たれ、城が焼かれたという。

 東麓の小川町下里(しもざと)1区の割谷地区では、「鉄砲場」「金屋敷」「オハヤシ殿ヤツ」「千騎沢」(千木沢:せんぎさわ)など、城址と関連した地名があり、伝説も残されている。

 「鉄砲場」は、現在の「し尿処理場」のある付近で、この地から弾丸が見つかったという。

 「金屋敷」も、青山城(割谷城)の配下であった鍛冶集団が住んでいた場所であったと伝えられている。

252.6㍍4等三角点峰

 城山から続く尾根は、252.6㍍4等三角点峰で急激に東に方向を変え、小川町と旧玉川村(現・ときがわ町)との境界尾根となる。

 樹林の中の展望のない平凡な山頂には4等三角点の標石、それに「大日山」と書かれた大きな山名表示板がある。

 昭文社山と高原地図『奥武蔵と秩父』最新版(2024年版)でも、4等三角点峰に大日山の名を記している。

 結論を先に述べると、「小川町下里に大日山は存在する。しかし、この位置ではない」

 さらにいうと、4等三角点峰は、小川町側の下里でも、ときがわ町側の五明でも無名である。

 では、なぜ大日山の位置を間違い、その間違いがずっと続いてしまったのだろうか。

 仙元丘陵の252.6㍍三角点について、「大日山」の名をつけて紹介した最も古い文献は、戦前の岩根常太郎氏のガイド文(『ハイキング』90号、1940年)である。

 そこでは、「大日神峯」と記載している。

 さらに2年後の1942年に出版された『新しき山の旅』(昭和書房)で、坂倉登喜子氏(岩根登喜子名)が、以下のような記述をしている。

 仙元山~物見山~仙元山~小倉峠コースのガイド文中である。

 「・・・雑木林に覆はれた尾根が、やがて東へ直角に曲折する地点の峯を大日神峯と謂ひ、左に一寸降った所には石切場があって、芒深い斜面からは、越えてきた仙元山附近の展望が、いとも美しく繰り広がっている」

 「東へ直角に曲折する地点の峯」という表現からも、252.6㍍4等三角点峰であることは明らかである。

 坂倉氏が岩根氏の採集した「大日神峯」の名を踏襲していることは明らかである。

 さらに、大石真人氏が二代目会長、坂倉登喜子氏が三代目会長を務めた奥武蔵研究会著『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年)所収の大石真人氏監修の「外秩父概念図」では、「大日神峯」から「神峰」がとれ、「山」に置き換えた「大日山」の名がつけられている。

 ここにおいて、4等三角点峰=大日山の説が定着し、その後の奥武蔵研究会調査・執筆のガイドブックや昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』でも継承されていく。

 ようやく4等三角点峰=大日山の誤りが指摘された1980年代半ばになって、大日山の名が消されたが、最新版(2024年版)ではまた復活している。

 理解に苦しむところである。

 それでが、本当の大日山はどこにあるのだろうか?

大日山(だいにちやま) 

(略図)大日山付近詳細図

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本当の大日山

 本物の大日山は、山名ではない。大きな岩場の名称である。

 その大日山は4等三角点峰~物見山山稜の北山麓である下里1区の割谷集落の奥にある。

 下里側からは、まず割谷橋で槻川を渡る。

 割谷(わりや)は槻川支流の沢名であり、同時に集落名でもある。

 槻川から離れて仙元丘陵に深く食い込んでいる沢(割谷)の下流沿いに6軒の人家が点在。

 「割谷(ワレダニ)」は、岩科小一郎著・藤本一美編『山ことば辞典』(星雲社、1993年)によると、「薬研(やげん)の如くに狭く深く割れ込んでいる谷」を指す語彙だ。

 岩科氏は例として北アルプス黒部渓谷の「割谷」を挙げているが、下里の割谷もそれに符合する地形だ。

 割谷の源流は「大谷」(おおやつ)と名称を変えるが、この割谷沿いの林道(252.6㍍4等三角点峰の東側鞍部が終点)は、槻川下流の下里1区の東坂下から旧玉川村の小倉(大字田黒)に越える「小倉峠」とともに、下里と旧玉川村を結ぶ古くからの生活道であった。

 割谷の古老によると、割谷沿いに登り、玉川村境の尾根(252.6㍍4等三角点)東鞍部に出る林道は、木材の切り出し用につくられたが、林道ができる前から山道があった。

 子どものとき、この道を通り、山を越えて五明から平村(現・ときがわ町西平)の山王様(萩日吉神社)のお祭りに行ったと語ってくれた古老がおられた。

 割谷橋を渡り、割谷集落に入って、最初に右岸(左手)から流入する千木沢沿いの道を林道から分かれて少し登ると、まもなく右手に巨大な岩壁が現れる。

 この岩壁こそ、大日山である。

 この付近には珍しい大きな岩場で、基部から3㍍位のところに「猿田彦大神」の石碑が祀られている。

 さらに、30㍍ほどの岩場上部の岩穴に大日如来像が安置されている。

 猿田彦大神の横に、以前は本家の大日如来像のミニチュア版ともいうべき小さな大日如来像の石像が安置されていたが、盗まれてしまったのか、あるいは落ちてしまったのか、現存していないのが残念だ。

 私の最初の調査時(1987年2月1日)には確認できず、残念だったが、その翌週(2月8日)、再度割谷を訪ねてみると、話を伺った方の息子さんが実際に岩場上部の穴まで登り、大日如来像を確認したという。

 像は、オーバーハングした30㍍近い岩壁上部の岩穴に祀られていて、近づくのは容易ではない。

 岩壁の頂上からザイルで確保しながらくだって、探るほかないが、息子さんは何とザイルなしに基部から岩場を登ったというから驚きだ。

 実際に見た大日如来像は、粉をひく引き臼ぐらいの大きさの蓮の花を台座とした座高50センチほどの可愛らしい石像であったという。

 息子さんの話では、大日如来まで岩場を何とか登ることができたが、くだるときは難儀し、それこそ命からがらだったという。

 大日山は、岸壁がオーバーハングしたようになっていて、今にも上から落ちてきそうだが、逆に山仕事で雨に降られたとき、雨宿りをするのに格好な逃げ場であった。

 大日様が守ってくれるので、岩が崩れ落ちることはないと信じられていた。

 割谷の集落では、暮れには門松、小正月(1月14日)には削り花を大日山に供えていた。

 正月に供える門松は、しめ縄に松の枝をつけたもの。

 小正月に供える削り花は、もとは「にわとこ」の木を1㍍ほどの長さに切って、節の間をほぼ30センチ間隔で削って花をつくり(普通は3カ所)、にわとこ一本に「オッカド」(ヌルデ)二本を添え、先に大日如来様に奉納した「しめ縄」の残りで結んだ。

 その縄を縫うときは、正月のお供えの鏡餅を柔らかくするためにつけた水に浸しながらつくったという。

 そうしてつくった削り花を各戸につき二本ずつ、一本は大日如来様、もう一本は猿田彦大神様に供えた。

 今では(1987年当時)、オッカドを付けることはせず、にわとこの削り花だけを二本ずつ供えている。

 しかも、岩場を登るのが命がけなので、門松や削り花を大日如来様や猿田彦大神に供えるのではなく、千木沢の入口に各戸それぞれ二本ずつ供えるように簡略化されている。

 なお、削り花は大日山だけではなく(今は千木沢入口)、各家の祭神・神棚にも飾っており、家の中に飾る削り花は長いものを使っているという。

 この削り花をつくるとき、山で「にわとこ」の木を切ってから二日間干してから削っているという。

 なお、大日山と向かい合って、幕を張ったように横幅の広い「幕岩」(まくいわ)がある。

 幕岩には大蛇が棲んでいるとの伝説があり、大蛇が岩の上で昼寝をしているのを見た人もいたという。

 割谷集落はは、私の調査時(1987年2月)、6軒。

 今、し尿処理場のある場所は、もと鉄砲場と呼ばれ、この地から弾丸が見つかったという。

 また、千木沢出合付近には「金屋敷」の地名がある。

物見山(ものみやま)

 4等三角点峰から仙元丘陵の主稜線を東に進むと、まもなく物見山。

 緩やかな尾根筋の一角を少し登ったところにある何の変哲もない山頂なので、「物見山」の山名表示板がなければ知らずに通り過ぎてしまうこと必定だ。

 「物見山」という名称は、比企・外秩父に多い同名の山と同じく、山頂に「物見櫓」がつくられていたことによると思われる。

 近くに小倉城や青山城(割谷城)があることから、両城を連絡する要としての役割を担っていたことが想像される。

 残念ながら山頂は樹林に覆われ、展望はない。

 そんな平凡な山頂の物見山だが、古くは『武蔵通志』に「高さ九百六十尺。玉川村五明の北にあり」と記されている。

 それ以外にも、『武蔵国郡村誌』比企郡五明村の条では、「物見山 高さ九十六丈。周囲不詳。村の北方にあり、嶺上より二分し、北は下里村東西南は本村(=五明村)に属す。山脈雷電山に連る樹木鬱葱。字赤坂より上る九町四十八間三尺」と、かなり詳しい。

 『郡村誌』比企郡田黒村の条にも「物見山」の名が見られ、次のように説明されている。

 「高さ及び周回不詳。村の西北にあり、嶺上より三分し、東南本村に属し、西は五明村、北は下里村に属す。村の中央より上る十三町。芝のみ生す」とある。

 ここでいう「物見山」が、果たして2万5千分の1地形図「武蔵小川」の286㍍独標、すなわち物見山を指すのかについては、町田尚夫氏の指摘するように疑問がある。

 何より、物見山は小川町下里とときがわ町五明の境にある山であり、ときがわ町田黒とは接していない。

 町田氏はそれを根拠に、『郡村誌』田黒村の「物見山」は、右隣にある「仙元山」を指すのではないかと考察されているが、私もそれに同意したい。

 なぜ田黒に属さない「仙元山」が「物見山」のでが田黒村の条に記載されることになったのかについては、不明である。

 ちなみに、物見山の山名は旧玉川村(現ときがわ町五明)側の呼称であり、小川町側の下里では無名峰である。

 ところで、明治時代の地誌に物見山の名があるのに、1980年代半ばまで、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』では、同山は「表山」(おもてやま)と表記されていた。

 「表山」記載の歴史は長い。

 初出は前記の岩根常太郎氏による踏査記録(『ハイキング』第90号、1940年)である

 そこでは「地図(注:旧陸測図「熊谷」)に数字のあるあたりは下里で表山という総称をつけている」としている。

 坂倉登喜子氏(記事は岩根登喜子名)も、これを踏襲。

 『新しき山の旅』(昭和書房、1942年」)の「仙元山」案内で、前記引用文に続き、「ささやか乍らも実に変化に富んだ趣のある一鞍部を経て、里称表山(地図の標高線手前の峰)を過ぎる辺りへ来ると、徑は疎林の中を分け乍ら、細くとぎれ勝となるが、南側のあるともなき踏跡を辿れば、最東端の大日仙元山に登り着く」と書かれている。

 岩根氏・坂倉氏の「表山」説に対し、当時異論がなかったわけではない。

 『ものがたり奥武蔵』の著者・神山弘氏は、『ハイキング』第117号(1942年)で「物見山」の表記を採用しながらも、「表山」に言及。

 「表山というのは此の物見山の南に派出された山である」としている。

 物見山の表記を採用した点は評価できるが、表山を物見山南陵の一ピーク名というのには疑問が残る。

 田黒には「表山」の山字名があるが、物見山とは位置が離れすぎている。

 何よりも、「物見山」は五明の山であり、田黒の山ではない。

 神山氏の異論にもかかわらず、「物見山」という古い地誌にも記録されている名称を無視し、「表山」なる距離的に離れた田黒の山字名を山名とした坂倉氏などの説を奥武蔵研究会も採用。

 同会執筆の『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年)所収の「外秩父概念図」(大石真人氏監修)でも、表山の名が採用されている。

 以後、2万5千分の1地形図「武蔵小川」286㍍独標に物見山の名が記載され、研究会会員の中からも調査研究の結果、表山が誤った名称であると指摘されて以降、ようやく物見山に訂正された。

 当時は、ヤブ山歩きや中高年ハイキングブーム前だったので、物見山の名はスムーズに受け入れられ、表山の名は今や忘れ去られた。

 その意味では、官ノ倉丘陵西尾根の421.2㍍3等三角点や仙元丘陵の252.6㍍4等三角点のような今にも続く山名混乱には至らなかった。

 しかし、ルーツは一緒である。

 実は、先駆者による誤った山名表記が、その後長く引き継がれた事例は、「雷電山・御岳山・大峰」の山稜にもある。それは後で触れることにしたい。

滝不動尊

 仙元丘陵の物見山に発する小沢は「不動滝」(『武蔵国郡村誌』にも記載)をかけて槻川に注ぐ。

 不動滝の脇に不動尊が祀られ、「滝不動」もしくは「北向不動」と呼ばれている。

 下里1区・下田中の10戸ほどの人々が信仰。例祭は4月28日。

 不動尊は槻川の対岸にあるので、祭りのときには臨時に橋を渡す。

 だが、そのままにしておくと流されてしまう。

 そこで、祭りが終わると橋板を外してしまう。

 不動滝左手の自然石が、芭蕉の句碑で、「蛇くふときけば恐ろし雉の声」の文字がかろうじて判読できる。

 この句がイメージさせるように、不動滝周辺は夏でも日の差さない薄暗い場所で、避暑地としても有名であった。

 昔は、槻川河原に納涼殿が築かれ、芸者なども呼んで大変な賑わいをみせたという。

仙元山(せんげんやま)

 物見山東にある鋭峰。古い旧玉川村発行の1万分の1地形図によると、標高270.8㍍。

 下里から眺めると、ぼってりとした物見山の左手に一際目立つ鋭峰を突き上げた「仙元山」は、その山容だけからも、神聖視されたことが想像されるに難くない。

 仙元丘陵のスタートにあたる「仙元山」と同一の山名であり、混乱を避けるために298.9㍍2等三角点のある「仙元山」を「青山仙元山」、小川町下里とときがわ町田黒との境の「仙元山」を「下里仙元山」あるいは「大日仙元山」と便宜的に呼ぶこともある。

 「青山仙元山」は、その名の由来となった浅間神社が山頂になく、北側に少し離れた「百庚申」のある小平地に神社跡があった。

 しかし、青山の氷川神社に合祀され、今は存在しない。

 これに対し、下里仙元山の狭い山頂は浅間信仰を物語る明治19年(1886)12月吉日建立の「仙元大日神」の大きな石碑をはじめ、小御嶽山の石碑、庚申塔、灯籠などにより埋めつくされている。

 仙元山の別名「大日仙元山」は、「仙元大日神」の石碑に由来する。

 樹林に覆われた狭い山頂に、多くの石碑が無秩序に建つ有様には、寂寥感を感じざるを得ない。

 それだけ山頂が荒れている(私が訪れた1980年代前半から半ば当時。現在はどうだろうか)感は否めない。

 下里での聞き取り(1989年)によると、下里1区に浅間講の先達がいたことから、この地に浅間様や小御嶽神社を勧請して祀ったという。

 浅間講の範囲は下里1区のみならず、山を越えた旧玉川村田黒にも及んだ。

 戦前は武運長久の神として特に出征兵士やその家族の信仰が厚く、出征兵士の家族のなかには、夫や息子の無事を祈って仙元山にお百度を踏んだ人もいたという。

 例祭は4月17日。下里1区は5つの組に分かれていて、各組の当番の家で団子をつくって、割谷の千木沢沿いの道から登ったり、東坂下から小倉峠をへて登り、山頂で田黒の人々と合流した。

 先に「大日山」の項で述べた割谷の支流「千木沢」沿いの道は、かつて下里から仙元山に登る道であった。もともとは沢沿いの道ではなく、幕岩のある尾根道から登っていた。

 毎年4月17日の例祭には、下里からはこの道を登る人々と坂下から登る人々、そして玉川村側から登る人々の三手に分かれて登り、山頂で団子などを配るなど盛大な祭りであった(1960年代まで)。

 しかし、その浅間信仰も1960年代半ばを最後に途絶え、山頂は荒れるに任せている。

白石(しろいし)

 仙元山から尾根は二分する。

 主稜伝いに小川町とときがわ町の境界尾根を東進すると、小倉峠をへて、小倉城址。

 これに対し、南に向かう支尾根をくだり、途中から東に田黒に向かう尾根を進むと、かつては「白石」の山頂。

 当時の2万5千分の1地形図では、225.0㍍3等三角点(点名「菅沢」)。

 1991年に始まる緑営開発による「玉川スプリングスカントリー倶楽部」(現・玉川カントリークラブ)の造成工事によって切り土され、山は消滅したと思っていたが、最新の2万5千分の1地形図「武蔵小川」を見ると、224.9㍍3等三角点は無事らしい。

 おそらくコース間の残存樹林として残されたのであろうが、ゴルフ場内でもあり、立ち入りできない山となってしまった。

 山頂より東に少しくだった付近に白い岩石(「米石」と呼ばれる)が露出している。

 このことから、「白石」(しろいし)の名が生まれたという。

 果たして「米石」は無事だろうか。

 それとも削り取られてしまったのだろうか? 確かめようがないのが歯がゆいかぎりだ。

道元平(どうげんびら)

 白石から東に延びる尾根北側の岩場(天狗岩)の上付近の総称。

 天狗岩は、埼玉県指定天然記念物「道元平ウラジロ群落」の自生地。

 道元平は、標高180㍍ほどの丘陵の北面の急崖地(=天狗岩を中心とする)からなっている。

 斜面は赤松林およびコナラ林によって覆われているが、林の中には暖帯に生育するウラジロ、ツルグミ、ツルアリドウシのほかに、温帯のアブラツツジ等が見られる。

 このように、道元平一帯は、暖帯および温帯に生育している植物が共存しており、植物分布上、特徴のある地域となっている。

 さらに、これら暖帯性の生息地としては北限に近い。

 このような理由で、旧玉川村(現ときがわ町)田黒の道元平約2ヘクタールは、埼玉県により「ときがわ町道元平県自然環境保全地域」に指定されている。

 道元平こそ、ウラジロ群落が県指定の天然記念物に指定され、それを含む一帯が県自然環境保全地域に指定された結果、玉川スプリングスカントリー倶楽部の区域から外れた。

 しかし、上流の山や沢などがゴルフ場造成により、削られたり、埋められたりするなどの大きな生態系の変化の結果が、道元平にどのような影響を与えているのだろうか。

 それについて果たして調査されているのかどうか不明である。

 なお戦前、仙元丘陵が紹介され始めた頃は、道元平から白石に登り、(下里)仙元山・物見山・城山などをへて(青山)仙元山にいたる「逆コース」が主流だった。

小倉峠(おぐらとうげ)

 仙元山からしばらくくだると、鞍部に出る。

 ちょうど十字路になっていて、進行方向から左に降りると、小川町下里1区の東坂下。右にくだると、旧玉山村(現ときがわ町)の小倉集落(大字田黒)。正面に尾根を登ると、小倉城址に出る。

 小川町の下里から旧玉川村田黒の小倉に越える峠を意味で、「小倉峠」と呼ばれてきた。

 下里からは、1区の割谷林道をつめて、252.6㍍4等三角点に出たあと、同峰東鞍部から旧玉山村五明にくだる道、割谷から大日山のある千木沢沿いの道をつめ、仙元山から南に大字玉川にくだる道、そして小倉峠など、下里と旧玉川村(とくに五明・玉川・田黒)を結ぶ生活の道が複数ある。

 それだけ交流が深かったのであり、婚姻や信仰の共有も盛んであったことが想像される。

小倉城址

 小倉峠から登りに転じる仙元丘陵が槻川の曲折部に急激に落ち込む手前に、尾根に忠実に沿って遺構のある城跡。

 城主については、『新編武蔵風土記稿』比企郡田黒村の項に、「北の方にて小名小倉の内にあり。遠山右衛門太夫光景が居城の蹟なりと云ふ。四方二町許りの地にして東北の二方は都幾川、槻川の二流に臨み、西南は山に添いて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺開基檀越にして、天正15年5月卒せし人なれば・・・」とあるように、遠山右衛門太夫光景という説が有力である。

 中田正光氏によると、近くの遠山寺(嵐山町遠山)には光景の墓があり、小倉城の大手門入口にある大福寺には、光景の内室であった大福御前の位牌が保管されているという。

 「遠山氏は、小田原北条氏に属し、北条市が武蔵に侵入したとき、上杉家から奪い取った江戸城の城代を任ぜられた一族であり、光景は小倉城をゆずられというのである。そして松山城が落城したとき、小倉城も運命を共にしたと伝えられている」(中田正光『埼玉の古城址』(有峰書店新社、1983年)。

 ただし、城主は松山城址の上田氏とする説もあり、確定していない。

 2008年3月28日、既に国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)、松山城跡(吉見町)、杉山城跡(嵐山町)に「小倉城跡」も追加され、4城館跡一括で「比企城館跡群」の名で国指定の史跡に指定された。

 私の訪れた1980年代半ば頃はヤブに埋もれた状態で、何とか郭(くるわ)や土塁、そして特徴的な緑泥片岩の石積みなどがかろうじて確認できる程度であった。

 しかし、国指定の史跡になった2008年以降急速に整備が進み、今では麓の大福寺横に駐車場のある立派な入口と遺構図およびその説明があり、山に入ると、道が整備され、要所要所に説明書きがあり、小倉城址のみで十分戦国時代にタイムスリップできる場所となっている。

 小倉城は天然の地形を最大限利用している。

 仙元丘陵に沿って郭が築かれ、北の槻川への急崖は天然の要害になっている。

 そのために、弱点である西側、すなわち小倉峠側からの侵入に備えたつくりになっている。

 郭1が本郭となっているが、それが最も槻川沿いに控え、郭1を守るようにその手前(小倉峠側)に郭2、そしてさらに郭2の手前(小倉峠方向)に防御戦の最前線である郭4,郭1(本郭)右下には、こちらも南東からの侵入に備えた郭3が築かれている。

 しかも、郭の間には大堀切がつくられ、各郭は緑泥片岩の石積みにより防御されており、なかでも郭3を囲む石積みは総延長120㍍、高さ5㍍にも及ぶ。

大平山(おおひらやま)

 小倉城址を十分探索したら、そのまま仙元丘陵の尾根を忠実に辿り、尾根末端から槻川の曲折部を渡る。右に行けば、武蔵嵐山公園の真ん中にある「大平山」の登り口である。

 大平山は2万5千分の1地形図「武蔵小川」の179㍍独標。三方から遊歩道が登ってくる山頂は広大な展望台。

 これまで歩いてきた仙元丘陵を懐かしく眺めることができるし、嵐山渓谷が眼下のもとに一望できる。

 大平山の山名は、根張りのあるどっしりとした山容によるものであろう。

 山頂にはかつて小倉城の物見櫓があったと伝えられるほか、雷電神社が祀られていることからも分かるように、かつては雨乞いが行われた場所であった。

 ところで、『武蔵通志』には、「大平山 高八百五十尺菅谷村鎌形の西北」とあり、位置的にも現在の大平山に該当する。

 『通志』はさらに続けて「雷電山 高五百尺菅谷村千手堂の西にあり頂に雷電社あり・・・」と記している。位置的にも、山頂に雷電神社を祀り、雨乞いの山であったlことからも、ここでいう「雷電山」も大平山のことを指すのではなかろうか。

正山(塩山:しょうやま)

 嵐山渓谷をはさんで大平山と相対する164.8㍍峰。山頂は嵐山町と旧玉川村(現ときがわ町)の境。

 同じく嵐山渓谷に近いものの、登山道が良く整備され、公園化して賑わっている大平山とは対照的に、「塩山」(正山)は不遇な山である。

 ちゃんと2万5千分の1地形図に山名が明記され、4等三角点の標石(点名は「塩山」)があるにもかかわらず、麓からは踏跡程度の道しかなく、もちろん指導標はない。

 山頂はは灌木が茂って展望が得られない。

 実に地味な山である。

 ときがわ町役場がもっと力を入れ、登山道を整備し、山頂の立ち木を伐採して、嵐山渓谷や大平山などと結ぶコースとして宣伝すれば、俄然注目される山になること確実である。

 ところで、今までの記述で既に気がついた方も多いだろう。

 「塩山」「正山」の漢字表記が併用されている。

 2万5千分の1地形図では「正山」の表記だが、点名は「塩山」など錯綜している。

 私の1980年代半ばの調査だが、嵐山町側、旧玉川村側双方が「しょうやま」と発音。

 『新編武蔵風土記稿』比企郡田黒村の項では、「塩山 村の東にあり」。

 同じ『新記』の比企郡鎌形村の項でも、「塩山 西方にあり上り四五町」と、「塩山」の表記が優勢である。

 『武蔵国郡村誌』比企郡鎌形村の項でも、「塩山 村の西北にあり、嶺上より西は多黒村、東側は本村に属す。孤立樹木生せす。字塩沢より上る三町。嶮にして近し」と記す。

 このように、古い地誌では「塩山」の表記が圧倒している。

 また、登山口に当たる北東集落「塩沢」(嵐山町鎌形)も、「しょうざわ」と発音している。

 面白いのは、地元の方々への聞き取りの結果、嵐山町・旧玉川村とも「しょうやま」と発音する人が圧倒的だったが、漢字表記となると、嵐山町では「塩山」が圧倒的。逆に旧玉川村では「正山」が圧倒的という現象だった。

 さらに、山頂部南西山麓(旧玉川村側)の山字名が「正山」であることも分かった。

 ところで気になる「塩山」(正山)の名の由来だが、鏡味完二・鏡味明克著『地名の語彙』(角川書店、1977年)を読むと、「シオ」には川の曲流部の意があることがあり、塩山(正山)の地形に符合していることに気がついた。

 つまり、槻川の屈曲部に面した山ということから、「シオヤマ」の名が生まれ、「塩」の字を当てたのではなかろうか。

 塩山には、山名をめぐり「塩」に関するいくつかの伝説がある。

 最初に、神山弘著『ものがたり奥武蔵』(岳書房、1982年)では、「都幾川、槻川合流点にある武蔵嵐山の塩山(しおやま:原文はルビ)は、将軍(引用者注:征夷大将軍坂上田村麻呂)が山容秀抜な山なので、山上に宇佐八幡を祀って守護神とし、またその折、岩塩の出るのを発見したといわれます」とある。

 次に、鎌形付近から眺めると、塩を盛ったようにみえる。その山容により、「塩山」と呼ばれるようになったもいう。

 これらの山名伝説は、川の屈曲部に面した山=シオヤマ名に「塩山」の漢字表記を与えたことに付会するものであろう。

 つまり、槻川の曲琉部(嵐山渓谷)に面した山ということから、「シオヤマ」の名が生まれ、塩の字を当てたため、坂上田村麻呂伝説が付会したのではなかろうか。

 また、シオがショウと訛って、旧玉川村では正の当て字がなされ、山字名・山名にも転化したとは考えられないだろうか(嵐山町側では、シオヤマがショウヤマと訛っても、当初の漢字表記である塩山が守られた)

 もっといえば、これはあくまでも仮説だが、旧玉山村がショウヤマに「正山」と当て字したのは、あくまでも「塩山」の漢字表記にこだわる嵐山町に対する対抗心だったのかもしれない。 

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