遠ノ平山(東平山・東ノ平山・東野平山)・観音山・愛宕山・物見山・寒沢山概説
(略図)遠ノ平山・観音山・愛宕山・物見山・寒沢山・寺山付近略図
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概説
2万5千分の1地形図「武蔵小川」を見ると、中央やや左上に「遠ノ平山」と書かれた200㍍独標が目に入る。
200㍍という丘のような低標高の山だが、ほぼ独立峰をなしており、槻川の北側に立つ山の雄の資格十分である。
これだけ開発が進み、山の北側や西側には住宅団地がびっしりと立ち並ぶなか、かつての姿を保っている遠ノ平山は貴重な存在である。
その遠ノ平山とは国道254号線をはさんでいるが、南側に名刹・石青山大聖寺のある観音山から愛宕山にかけての小さな尾根がある。
さらにその南にもう1つ尾根があり、観音山南東に当たるピークが214㍍独標である。
214㍍独標のある小川町・嵐山町境界尾根は地味な存在であるが、これまで登山地図などで山名の混乱があった(今もある)。
そのため、小川町の大字別に小字名(山字名)を網羅した地図である『小川町土地宝典』(1975年)を参照にしつつ、1980年代末の小川町下里(しもざと)での聞き取り結果も交え、再検証を試みてみたい。
それでは、小川町下里の槻川北側の丘陵に招待することにしたい。
遠ノ平山(東平山・東ノ平山・東野平山:とおのひらやま)
遠ノ平山は、東を嵐山町志賀(しが・しか)、北を小川町中爪、西から南を小川町下里に囲まれた3つの大字(昔は3つの村)にまたがる山である。
それだけに、各大字からは、それぞれ山頂にいたる登路が良く踏まれている。
小広い山頂に御岳信仰の跡を残す低いながらも名山といえる。
交通の便を考えると、武蔵嵐山駅から国道254線を小川町方向に進み、まもなく現れる水坂沼(農業用のため池)の2つの沼のうち、小川町寄りの上沼の先から取り付く志賀ルートが最も手軽である。
ちなみに、嵐山町志賀は、『新編武蔵風土記稿』比企郡志賀村の項によると、昔は村名を四ヶ村と書いたという。
私の訪れた1989年当時も、地元の古老は志賀を「しか」と発音していた。
上沼からの登り始めこそ明瞭な道も、まもなくヤブっぽい踏跡になる。
だが、灌木の中に放置された「朝日大神」の石碑(裏に志賀講中の銘がある)が往時の信仰を偲ばせる。
さて、遠ノ平山は2万5千分の1地形図「武蔵小川」でこそ「遠ノ平」の表記だが、『小川町土地宝典』によると、南面のヒラ(下里側)に「東平山」の山字(小字)名がある。
志賀・中爪・下里での聞き取りでは、「とおのひら」の発音は一致していたが、漢字表記となると、「遠ノ平」よりも「東平」「東ノ平」「東野平」の方が圧倒的だった。
古い地誌をひもとくと、『武蔵国郡村誌』比企郡志賀村の条に「遠平山」、中爪村の条に「東野平山」と記載。
この記載の混乱は『武蔵通志』にも引き継がれ、「遠平山」と「東野平山」をあたかも別々の山のように記載している。
『通志』では丁寧にも「ヒガシノタヒラ」というルビを振っている。
『武蔵通志』の記載内容は、「遠平(トウノヒラ)山」については、「高さ四百六十尺。志賀の西にあり」とごく簡単だが、「東野平(ヒガシノタヒラ)山」となると、「高さ二百五十尺。八和田村中爪の南にあり、東は菅谷村志賀、南は下里村に跨がる。中爪字内洞より上る二町。頂に石碑を建て御岳社遙拝所となす。明治十五年(1882)壬辛新たに之を設け、近村登拝する者多し。一老松あり、大傘を張る如し、東野平松と云う」と、かなり詳しい。
さらに詳しいのが、明治19年「中爪村地誌」である。それによると、「山嶽 東野平山 形状 村中の高山にして扇面を逆建にしたるの形様をなす。山脈は左右に分かれ、雀峠・七曲及び日向山等に連る。その他接近の山林起伏し一大山岳をなせり。高 二十五丈。周囲六町三十四間。登路 一条あり。険なり。その程は四町五十間。樹木雑樹繁茂せり。景致 頂上に一老松樹あり。東野平松と号く。その様は一大傘を開しごとく。山中桜ツツジ等多々開花の風景眺望等最も愛すべし。西は遙かに秩父郡諸山と相望む。雑項 明治十五年中、頂上に御嶽神社の石碑を建立す。地方信徒多く参拝登山者多し。本山名号を里伝にいう日本武命東夷征伐の時、当時概征伏し後、本山に登賜いて東方を望み、東野平けりと宣いり。号して東野平山名けしといえり」(小川町教育委員会所蔵旧八和田村行政文書336)と、山名由来伝説を含め、細かく記述している。
『通志』や「中爪村地誌」の記述のとおり、山頂には「御岳山大神 八海山大神 三笠山大神」(明治15年4月建立」の巨大な石碑が建っている。
かつて下里・中爪・志賀の三ヶ村で「御岳講」が組織されており、三村の境である遠ノ平山頂に碑を建立した。
現在でも遠ノ平山のことを「御岳山」(おんたけさん)と呼ぶ古老がいる。
なお、明治15年に石碑を建立した頃、山頂に小屋を建てて、そこに籠もって太鼓を叩き続けた行者(橋本某)がいたという。
『通志』の記事にある「東野平松」かどうかは定かではないが、たしかに山頂には立派な男松があり、麓からも一目で分かるほどのものであった。
しかし、落雷で中が空洞になったうえ、(1989年調査時の)数年前にマツクイムシのために枯れてしまった。
現在切り株だけが残されているが、幹回り3㍍ほどの立派な木であったことが想像される。
「トオノヒラ」の山名については、「トオ」「トー」が尾根や山腹を指す山岳語彙であることから、「平らな山頂をもつ山」(山頂が小平地になっている山)とするのが、山頂の形状からみて妥当だと思われる。
「遠ノ平」や「東ノ平」「東平」「東野平」(人によっては「堂ノ平」)は、「トオノヒラ」の当て字であろう。
昭和55年作成『八和田地区郷土カルタ』に「のろしをあげた東の平」とあり、その説明に「中爪地区にある。戦国時代、関東各地で戦った上杉顕定(あきさだ)と上杉定正(さだまさ)は、高見が原で有名な合戦をした。このとき、東の平は上杉定正の陣した所で、戦闘開始ののろしをあげた所という」とある(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町 03ー⑤「小川町の山々・巨石・明石ーその歴史と伝説ー」講座資料、令和4年2月19日作成)。
山頂から平坦な尾根を西に向かうと、左手に梵字を刻んだ石碑をみて、周囲の展望が開ける(遠ノ平山頂は樹木に覆われ、展望は得られない)。
北側(中爪側)はすぐ近くまで住宅が迫っているが、南側(下里側)は蛇行を描く槻川と周囲の丘陵がぐるりと見渡せる。
石青山大聖寺(下里観音)と観音山(下里観音山)
遠ノ平山からは、いったん山をおり、下里3区から正面丘陵(観音山ないし下里観音山)の中腹に赤い屋根をみせる石青山大聖寺(だいしょうじ)をめざして舗装路を登る。
200㍍独標の中腹にある大聖寺は、「下里観音」「子育観音」の名で親しまれ、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵国郡村誌』にも詳細に記されている名刹である。
4月20日と10月20日の観音例祭は参詣客で賑わう。
境内にある法華堂には、国指定文化財である石造法華供養塔(六石塔婆)が保存されている。
6枚の緑泥片岩を組み合わせたもので、康永3年(1344)の造立と刻印。
本堂上の高台にある朱塗りの観音堂まで登り、眼下の田園風景を眺めながら、悠久のときを刻んできた名刹を改めて振り返ったみたい。
観音堂の左手に芭蕉の句碑が建ち、「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」と刻まれている。
ところで先に述べたように、大聖寺は200㍍独標の中腹にある。
そのため、200㍍独標を「観音山」と呼ぶ向きがある。
これは間違いとはいえないが、より正確にいうと、観音山(あるいは下里観音山)は、大聖寺一帯の総称名
であり、大聖寺付近の小字名でもある(『小川町土地宝典』1975年による)。
字観音山の北西(大聖寺入口付近の集落)が字和具(わぐ)であり、今は住宅地である字和具(わぐ)の東南が字和具南、さらにその南が字和具山である。
いずれにしても、「和具」「和具南」「和具山」は「観音山」の左に縦三段に並ぶ小字であることを明記しておきたい。
愛宕山(あたごやま)
観音山(大聖寺のある山一帯の小字名)中腹の墓地を抜け、尾根続きの愛宕山へ。
途中の分岐に古い道しるべがある。「左 山道 右 下分(しもぶん)」とある。
道しるべのとおり、観音山から愛宕山に続く尾根は、「上分」(下里3区・4区)から「下分」(下里1区・2区)への近道であった。上分から下分に抜けるためには、槻川に沿って迂回するよりも、山道を通ったほうがずっと早かったのである。
標高170㍍圏の愛宕山山頂には下分の信仰を集めた愛宕神社が鎮座。
現在、愛宕神社は下里の鎮守・八宮神社に合祀され、残された社殿も荒れるに任せている。
信仰の盛んな頃には、旧暦の8月25日に祭りが行われていた(25年前まで:1989年調査だから、25年前までというのは、1960年代初頭までということ)
当日は、神社の前で老若を問わず相撲好きの人が集まって祈願相撲が行われ、団子も配られたという。
下里の下分(1区・2区)に面して鳥居が建てられ、ヤブに覆われた参道がくだっている。
おりついた場所が下里1区の北根(集落名兼小字名)。
愛宕山~観音山のなだらかな尾根とは反対に、槻川の南には仙元山の鋭鋒が一際目立っている。
下里の万作
下里では古くから「万作」が伝えられている。大聖寺の大祭をはじめ、おめでたい席で舞われた。
かつては近在の村祭り(例えば、旧玉山村の田黒)にも出かけていって(坂下橋で槻川を渡り、小倉峠をへて)舞った。
そのときは、相手の村を褒める「ほめ歌」から始めた。
このあたりに、万作の原型である「伊勢音頭」とのつながりがみられて面白い。
その万作も、今では(1989年当時には)、数人の老人によって細々と伝えられているのみ。
あれから36年も経った今では果たして伝承されているのだろうか。
万作の歌詞は10番まであるが、1番の歌詞は「一つとや、一夜明けたら賑やかに、門松建てたり注連縄はり」、最後の10番は「十とや、とっくにお前さんとこうなれば、こんな苦労はしやしない」
八宮神社の獅子舞
小川町下里の鎮守・八宮神社の大祭は、昔は7月13日から15日にかけて行われたが、現在はそれに近い日曜1日で行われ、ささら(獅子舞)が奉納される(下里・八宮神社の位置については、「比企・外秩父の山徹底研究」第4回「仙元丘陵」の略図「仙元丘陵全体図」をご覧いただきたい)。
以前は、14日に八坂神社(天王様)の御神体を担ぎ下ろして決まった場所に安置したのち、神輿(みこし)が練り歩き、翌15日にささらを八宮神社に奉納した。
今は獅子舞のみ。
午前中は公民館を出て、獅子舞の一行は八宮神社に向かい、午後は1年交代で大聖寺と八宮神社のどちらか一方に向かう。
寒沢ヤツ
愛宕山山麓の北根から東に山裾を進んだ集落が下里1区の寒沢地区。
寒沢地区の人家は、愛宕山山裾から物見山(214㍍独標)より延びる尾根の末端山裾まで散在しているが、そのちょうど真ん中に観音山(下里観音山)を水源とし、槻川に注ぐ「寒沢ヤツ」がある。
寒沢ヤツこそ、かつて「コリンズカントリークラブ」造成計画が起こったとき、調整池の位置をめぐって、寒沢地区の地権者と事業者側が激しく対立。
最終的に土地を売らないことにより、ゴルフ場計画を撤回させた場所でもある(後述)。
瑞光寺跡(ずいこうじあと)
愛宕山西のピーク山麓(大字下里字北根あるいは字徳寿山)の個人宅がかつて瑞光寺のあった跡。
瑞光寺は江戸期の『新編武蔵風土記稿』比企郡下里村の条にも「今は荒廃して未だ再建には及ばず」とある。
小川町在住の郷土史家・内田康男氏からの情報提供でも、「明治初期に廃寺となり」とある。
内田氏によると、同寺の仏像は個人が保存していたが、近年大聖寺に預けたという。そのなかに慶長(1596~1615)の年号のあるものがあったという。
本寺であった寄居町普光寺の文書によると「隋光寺」、地元島田家の文書には「隋光寺」あるいは「徳寿山地蔵院瑞光寺」、天台宗本末帳には「瑞光寺」とあるという(内田氏による)。
私が「瑞光寺跡」に関心をもったのは、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年所収)に、観音山から愛宕山に延びる尾根の末端の山に「瑞光寺山」の名が記載されていたことによる。
調べてみると、「瑞光寺山」ではなく「瑞光寺跡」であり、山麓に今でも個人宅として残されていることが分かったことは大きな収穫であった。
内田氏によると、瑞光寺跡の東側のヤツ(大字下里字寒沢あるいは字愛宕山)に「妙楽寺」という寺跡もあるという。
さらに坂の下集落には「宝性寺跡」もあるという。
「妙楽寺」「宝性寺」ともに、「新編武蔵風土記稿』比企郡下里村の条に記載があり、そこでは「宝性寺」は「宝正寺」と表記されている。
物見山(ものみやま)
武蔵嵐山公園のある大平山から北上する尾根が途中で急激に方向を南西に変え、嵐山町と小川町との境界尾根となり、観音山(下里観音山)から愛宕山の尾根の南に並走。
最終的に境界尾根のまま槻川に突入する。
境界尾根上で目立つ最初のピークが214㍍独標である。
このピークを、南側の嵐山町遠山では物見山と呼んでいる。
『武蔵通志』に「物見山 高さ五百尺。菅谷村遠山の北にあり。西は寺山及下里観音山。愛宕山に連なる」と記されている山は、下里・遠山の境界尾根上の214㍍独標、すなわち「物見山」であろう。
山名由来は、比企に多数ある同名の山と同様、山頂に物見櫓があったことによる。
小倉城が至近距離である頃から、下里の物見山(214㍍独標)は、仙元丘陵の「物見山」と同じく、南西側の尾根からの攻撃に一縷の不安のある小倉城の西側至近距離の物見櫓として、敵の西からの来襲を告げる役割を果たしていたと思われる。
寒沢山(かんざわやま)
観音山から愛宕山の尾根とほぼ並行して、南側に小川町と嵐山町との境界尾根が延びている。
この尾根こそ、物見山(214㍍独標)から寺山(180㍍圏)に南西に延び、寺山から槻川に落ち込む尾根である。
町界尾根の中間から左にも大きな支尾根が分かれ、すぐに220㍍圏のピークが現れる。
この220㍍圏ピークこそ、「寒沢山」(かんざわやま)である。
現在、奥武蔵研究会調査執筆の山と高原地図『奥武蔵・秩父』では、同ピークに寒沢山の名を記している。
寒沢山は、字「内寒沢」に位置し、下里の寒沢集落のオクリにあることから、その名が生まれたと考えられる。
古い『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年)所収の大石真人氏監修「外秩父概念図」では、大平山から続く境界尾根上の(おそらく)214㍍独標が寒沢山とされているように見える。
そのうえ、寒沢山から続く境界尾根の途中に観音山を位置づけるという信じられないミスを犯している。
さらに尾根末端の山には「瑞光寺山」の名を与えている。
大石氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』1960年版所収の「奥武蔵辞典ー山名編ー」にて、「寒沢山(220㍍) 武蔵嵐山の西、遠山集落の脊梁をなす山容ゆたかな山である」と述べている。
ここで寒沢山とされているのが、物見山(214㍍独標)であることは明らかである。
その後、「山と高原地図」の時代に入ってからも、奥武蔵研究会は大石氏の説を踏襲し、町境尾根の214㍍独標(物見山)を寒沢山としてきた。
現在の「山と高原地図」(2024年版)では、寒沢山は214㍍独標(物見山)ではなく、214㍍独標のある尾根が槻川に落ち込む手前の180㍍圏ピーク(寺山)でもなく、この尾根の途中から西に派生する支尾根上の220㍍圏ピークを指しているとされる。
これが寒沢山の正確な位置であり、奥武蔵研究会はようやく寒沢山の正しい位置にたどり着いたといえる。
しかし、山と高原地図『奥武蔵・秩父』2024年版では、寒沢山には和具山の別名もあるとしている。
これは正しいのだろうか。
まず「和具山」の名称だが、『小川町土地宝典』(1975年)によれば、観音山(大聖寺)から愛宕山にいたる尾根付近(主に尾根北側斜面)の字名である。
220㍍圏ピーク(寒沢山)とはかなり離れているといわざるを得ない。
したがって、次回の改訂からは「和具山」は消すべきであろう。
ところで寒沢山は、小川町において板碑の原料である石材(緑泥片岩や結晶片岩)を採掘・加工した遺跡19ヶ所のうち、国指定遺跡になった3ヶ所のうちの1つである「内寒沢遺跡」のある山である。
下里には、国指定遺跡がもう1つ割谷にあること(割谷遺跡)を付記しておきたい。
寺山(てらやま)
物見山から南西に延びる小川町・嵐山町の町界尾根最後の180㍍圏ピーク。
同ピークを最後に、尾根は急激に槻川に落ち込んでいる。
寺山の名は、古い「菅谷村の沿革」にも登場している。「沿革」では、遠山村について次のように記している。
「北に物見山を負い、この山脈があたかも屏風のように連り左右に開いて東は大平山、西は寺山で止っている。南は小倉城址から山脈が東の方に延びて、槻川がその裾を流れている。この山々に囲まれた平坦地は民居や耕地となっている。槻川は平常舟が通じないで、出水の時筏が通るだけである」(『嵐山町誌』1968年より)
寺山の麓には遠山寺(えんざんじ)があり、遠山寺の裏山に当たることから、その名が付いたという。
検証「徳寿山」「和具山」「寺山」「八頭山」「寒沢山」等の私設山名表示板について
(略図)観音山~愛宕山の尾根、物見山~寺山の町界尾根のピーク、そして寒沢山に設置された私設山名表示版①~⑥

上の略図をご覧いただきたい。
YAMAPの山行記録やヤマレコの山行記録を閲覧すると、最近、観音山~愛宕山、物見山~寺山付近はヤブ丘陵好きにかなり歩かれているようだ。
それは良いのだが、写真を見ると、略図の主要ポイント6ヶ所(略図の①~⑥)に立派な山名表示板が設置されているものの、6ヶ所のうち、4ヶ所の山名が間違っている。
しかも、この間違った山名がネットをとおして「正式な山名」として流通・定着してしまっていることが大問題である。
今では、例えば「小川町、八頭山」と検索すると、①~⑥の周回コースの踏査記録が多数出てくる有様である。
そこで、地元呼称を無視して勝手に山名表示板を付けることの危うさとそれを無批判に信じ、安易に山行報告をネットに上げることに警鐘を鳴らすためにも、①~⑥の山名表示板(前身は立ち木に貼った赤テープへのマジック書き)に記された山名を検証してみたい。略図と照合させながら読み進んで欲しい。
なお、①~⑥の山名表示版はすべて同一人物が設置したものである。
①徳寿山(とくじゅさん)
大聖寺裏山の観音山(2万5千分の1地形図「武蔵小川」の200㍍独標)から愛宕山(170㍍圏)をへて槻川沿いの集落に落ち込む尾根の末端にある160㍍圏のピーク。
山頂の立ち木に「徳寿山164m」と書かれた私設の山名表示板が結びつけられている。
このピークを大石真人氏は「瑞光寺山」と呼称(「外秩父概念図」)。
しかし、瑞光寺山ではなく、正しくは瑞光寺跡であり、寺跡はこのピーク山麓の集落にあることは既に述べたとおりである。
では、「徳寿山」はどうだろうか。
「徳寿山」とは、①の山名表示板のあるピークを最高点とする山腹の小字名である。
同時に、かつて山麓にあった瑞光寺の山号でもある。
「徳寿山」の東隣の小字が「愛宕山」であり、「愛宕山」北側の小字名が「和具山」、「愛宕山」北東の小字名は「観音山」である。
小字名である「徳寿山」の最高点という意味でピーク名としても良いかも知れないが、問題は地元の方々がこの山を徳寿山と呼んでいるかどうかである。これが確認されるまでは、暫定的に括弧書きでピーク名としておくにとどめたい。
②愛宕山
既に述べたとおり、愛宕神社を祀る愛宕山は山名であると同時に、その一帯の小字名でもある。
②の私設山名表示版には問題はない。
③和具山
大聖寺裏山である観音山山頂に③の「和具山200m」と記された私設山名表示版が設置されている。
「和具山」は愛宕山と観音山を結ぶ尾根北側のヒラ(山腹)の小字名である。
200㍍独標とは距離が離れているうえ、200㍍独標のある小字名は「観音山」である。
したがって、「和具山200m」の記載は誤りであり、「観音山200m」とすべきである。
④寺山
観音山から南西に延びるl小尾根が物見山~寺山の小川町・嵐山町の町界尾根に接続する地点。
そして、ここから西に220㍍圏ピークに派生する小尾根が交差する「四辻」のピークに④「寺山220m」なる山名の私設表示版が設置されている。
「寺山」は、物見山(214㍍独標)から南西に延びる町界尾根の末端に当たるピークである。
したがって、四辻の位置に「寺山」なる全く別の山の表示板を付けること自体由々しい行為であり、山名表示版は即刻撤去すべきであろう。
⑤八頭山
四辻から西に延びる小尾根上にある220㍍圏ピーク。ここに「八頭山220m」と書かれた私設山名表示版が設けられている。
この220㍍圏ピークこそ、寒沢山(かんざわやま)である。
寒沢山に「八頭山」なる勝手に付けた名称の山名表示板を設置することなど論外の所業である。
即刻撤去すべきであろう。
⑥寒沢山
四辻から220㍍圏ピーク(寒沢山)を往復したあと、物見山~寺山の町界尾根に戻り、北東に向かった214㍍独標に⑥の「寒沢山214m」と書かれた私設山名表示板が設置されている。
214㍍独標は物見山が正式名称であり、寒沢山は八頭山なる間違った山名表示版のある220㍍圏ピークである。
したがって、⑥の山名表示版も誤りである。
以上検証した結果、②の「愛宕山」のみ正しく、①の「徳寿山」は小字名と重なっているので、地元での呼称確認が必要という条件付きでぎりぎりセーフ。③の「和具山」は字名と場所が離れており、「観音山」の表記が正しい。④は無名のピークであり、遙かに離れた「寺山」の山名表示をするのは誤りである。⑤の「八頭山」にいたっては設置者の勝手な創作山名であり、正しくは「寒沢山」である。⑥の「寒沢山」は「物見山」が正しい。
結局①~⑥のうち、正しい山名表示は②のみという結果だった(①は条件付き)。
即時、③~⑥は撤去すべきだろうが、そんなことは誰もしないため、地元呼称とは無縁の登山者による勝手な命名や誤った位置の山名が今後も広がり、やがて定着するのをただ傍観するしかないのだろうか。
今後も「物見山」「寒沢山」「寺山」周辺の山名の混乱は続くのだろうか。
ヤブ山好きのハイカーにお願いしたいのは、無名のヤブ丘陵のピークに設置された私設山名表示版がいかに立派なものであろうと、それを信じないでほしい。
そしてYAMAPやヤマレコなどは、山行記録の投稿を掲載するにあたり、事前にスクリーニングを行い(この段階で山域の山名に詳しいボランティアの助言を受けるという方法もある)、無名丘陵の疑わしい山名については、投稿者に書き直しを求めるなり、書き直しを求めない場合は「この名称は正式名称ではない可能性があります」と注記して掲載するべきではないか。
それをしないで、ただ投稿者の山行記録をそのまま掲載し、垂れ流すかぎり、山村民俗や文化の破壊に加担しているという批判を受けても仕方ないだろう。
コリンズカントリークラブ建設計画の顛末
(略図)コリンズカントリークラブ予定地(1990年)
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1988年9月26日、この一帯の山域を一変させかねないゴルフ場造成計画が埼玉県知事により立地承認された。
それが「コリンズカントリークラブ」造成計画である。
事業者は地上げ企業のコリンズグループだが、実際には住友金属の系列会社である「住金鋼材工業」(現在は紆余曲折をへて、日鉄建材(株)に会社名を変更)が100%出資をしている。
予定地は小川町下里と嵐山町遠山・平沢であり、面積は137.1ヘクターール。
18ホールのゴルフ場としては、当時埼玉県内で最大の規模であった。
割合は小川町側約33%、嵐山町側67%。
計画地をみると、観音山~愛宕山の尾根、物見山~寒沢山の町界尾根のすべてが含まれ、嵐山町側の範囲は遠ノ平山の登り口にあたる水坂沼を北限とし、南限は大平山北側の道路までを含む。
これにより、槻川北側の小川町下里、嵐山町遠山・平沢の丘陵地帯すべてがゴルフ場に一変するという驚くべき計画であった。
立地承認(事前協議)が終わったあと、事業者は開発許可申請をするための前提である環境アセスメント手続きに入ったが、ここで事業者と下里側の地権者との対立が明確になった。
もともと、町ぐるみで事業者と癒着して地権者に土地を売却・賃貸するよう迫り、土地の取得がスムーズに運んだ嵐山町側と異なり、小川町下里では地権者の同意を得ること自体が難しく、土地の売買、賃貸契約にいたっては困難をきわめた。
まさに小川町側地権者の実質的な同意がなく、事業者が手続きを進めてきたのである。
なかでも、問題になったのが、下里の寒沢地区の谷(寒沢ヤツ)に設ける調整池の位置であった。
事業者は当初、谷の奥に設置すると説明し、寒沢地区の地権者や住民の同意を得て、造成事業計画書の申請にこぎ着けた(第一の設計図)。
ところが、事業者は寒沢地区住民に何の説明もなく、勝手に設計を変えた「第二の設計図」に設計変更し、それで県の立地承認を得た。
「第二の設計図」によると、当初谷の奥に設置予定だった調整池の位置を寒沢の民家に大幅に近づけ、それにより下里側に設置するコースを当初の2ホールから6ホールに広げる。
しかも調整池の規模も拡大するというものであった。
巨大調整池と一番近い民家までの距離は、わずか150㍍しかない。
このように住民の生活や生命に大きな影響と脅威を与える設計変更を住民への説明なく勝手に変えたことに対し、寒沢地区の住民が反発したのは当然だった。
さらに、この事実を知った寒沢地区の地権者が第二の設計図に反対する申し入れ書を提出したのに対し、事業者からは8ヶ月間なしのつぶてであり、ようやく届いた回答書は驚くべき内容だった。
その内容は「いったん第二の設計書のとおり、民家の近くに巨大な調整池をつくるが、10年後にこの調整池を他地区に移転する」というデタラメなもので、了承するなら各戸に1,000万円ずつ配るという条件をつけ、第二の設計書に対する同意を得ようとした。
結局、設計変更に対する下里側地権者の同意を得ない「第二の設計書」にもとづく環境アセスメント手続きを事業者は強行し、環境影響評価準備書の縦覧が行われた(1990年5月18日~6月16日)。
準備書に対する関係地域住民(嵐山町・小川町住民)からの意見書は提出期限の1990年7月2日には708通という空前の数にのぼった。
ところが、事業者は第二の設計図に対する反対の姿勢を崩さない寒沢地区の地権者に対し、環境アセス準備書への関係地域住民の意見募集中の1990年6月18日、「下里地区調整池位置変更案(第三の設計書)」を提案した。
第二の設計書にもとづく環境アセス手続きが進んでいるなか、勝手に設計変更を行うというのは前代未聞である。
当然、第三の設計図にもとづくアセスのやり直しを県は事業者に対し指導すべきである。
ところが、県は今や過去のものとなった第二の設計図にもとづくアセス手続きを強引を進め、第二の設計図のままアセス手続きは終了した。
事業者は、いよいよ最終段階である開発許可の申請になって、またまた奇策を弄してきた。
下里地区の地権者同意、そして土地の売却・賃貸が不可能と判断し、計画区域から小川町側を外し、嵐山町側のみで計画を進めることにしたのである。
これにより、小川町側に予定されていた6ホールができなくなり、コリンズカントリークラブ造成事業は12ホールという異例な計画のまま開発許可申請を行うことになった。
しかし、ミニゴルフ場なら分かるものの、単体のゴルフ場として12ホールというのは致命的である。
結局事業者は県の指導要綱にある「立地承認から3年以内に着工」することができず、計画は頓挫した。
下里・寒沢地区の地権者が最後まで粘り強く反対し続けたことにより、この一帯の丘陵を完全に飲み込む巨大ゴルフ場計画を中止させることができたのである。
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