(略図)雷電山・御岳山・大峰付近全体図
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概要
2万5千分の1地形図「武蔵小川」を見ると、八高線をはさんで、仙元丘陵と対峙して西から北に続く顕著な尾根が存在する。
尾根は、八高線・明覚駅付近の「愛宕山」(ときがわ町本郷)から始まる。踏跡は忠実に稜線上を通り、人家が迫るなか、途中で左右を横断する道をいくつかやり過ごし、166.74㍍4等三角点峰(点名「本郷」)に到着する、
その先で尾根は ゴルフ練習場にぶつかってしまうので、それを避けてくだると、県道30号線に出る。
県道30号線が愛宕山~天王山(堂山)(ときがわ町別所)に突き当たるあたりを「堂山坂」と呼んでいる。
天王山を過ぎ、しばらく西に進む尾根は「雷電山」と女鹿岩集落(ときがわ町西平)を結ぶ踏跡にぶつかる。
ここで北に直角の方向を変えた尾根は雷電山への急登となる。
雷電山(ときがわ町雲河原と日影との境)は、418.2㍍3等三角点(点名「日影」)。
西山麓の雲河原、東山麓の日陰双方の信仰を集める名山である。
雷電山から小川町青山上の「御岳山」にいたるルートは尾根ルート、沢ルートの2つに分けられる。
いずれも指導標もなく、一部は踏跡も消える読図力が要求される難ルートである。
とくに雷電山から「行風山」「行風峠」をへて御岳山につづく尾根ルートは、当初は雲河原・日影の境界、後半は小川町上古寺とときがわ町日影との境界で、なかでも雷電山~行風峠までが難路である。
最近ネットに載っている雷電山~御岳山の登山報告を見ても、ほとんどが沢ルートで、尾根を忠実にたどったものはほとんどない。
雷電山から行風峠までは、踏跡が全くない部分やブッシュがひどい一帯があり、一部林道を歩く部分もあるなど、相当な読図力と忍耐力を要求されるコースである。
この山域を訪れる篤志家の多くは、雷電山から日影におり、雀川ダムの手前から沢沿いに御岳山に直登するルート、あるいは雀川ダムの奥から行風峠に出て、あとは稜線伝いに御岳山にいたるコースをとっているようだ。
ただし、日影からの沢ルートは、尾根コースよりも難易度は低いが、指導標などは全くなく、やはり読図に頼るもの好きコースに変わりはない。
ようやくたどり着いた「御岳山」山頂(297㍍独標)には、山頂近くまでゴルフ場(アドニス小川カントリー倶楽部:旧名は仮称・武蔵台カントリークラブ」)が迫り、ゴルフを楽しむゴルファーの声が近くで聞こえるのに驚くだろう。
御岳山から尾根続きの「三笠山」(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、大峰山と誤記されていた289㍍独標)への山稜は、私が通った1980年代半ばから末頃まではほんの10分程度の快適な草原の尾根歩きだった。
草地と低灌木の茂る明るい雰囲気の三笠山から「富士見平」と呼ばれる緩やかな草尾根を南下すると、小川町・旧玉川村の境界。
ここから南の山稜(玉川村側)が「大峰」である。
大峰は玉川村日影の呼称だが、南北に並ぶ3つのピークの総称であり、最北の小川町との境界にある293㍍ピークが最高点である(最新の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、293㍍独標に大峰山の名が記されている)。
昔は秣場であり、茅戸の草原であったという大峰から小川町側の富士見平、三笠山、そして三笠山北の平頂稜の「八海山」まで尾根続きであり、同じく展望の良いのびやかな草尾根の縦走が楽しめたものだった。
しかし、大成建設による「武蔵台カントリークラブ→アドニス小川ゴルフ倶楽部」建設により、三笠山・八海山は消滅し、辛うじて残った御岳山はゴルフ場に三方から囲まれることになった。
もともと八海山、三笠山は御岳山にちなんだ山名であり、御岳山から三笠山~八海山を経由して青山上にくだるのが、御岳山の参道であった。
だが、ゴルフ場ができたことにより、御岳山から三笠山に向かう尾根も消滅。
御岳山から大峰最北の293㍍独標に向かおうとすると、大峰最北のピーク直下にまで造られているゴルフ場のフェンスにより阻まれるとともに、猛烈なヤブやブッシュに阻まれ、さらにゴルフ場の巨大な調整池により邪魔され、突破は至難の業である。
大峰もすっかり荒れてしまい、以前の展望の良かった草原の面影は全くない。
さらに悪いことに、小川町青山上からの登路がゴルフ場建設のため消失したため、日影側から大峰へ直接踏跡をたどろうとすると、日影側地権者による「私有地のため立ち入り禁止」の標識が随所に建てられていて、歩く意欲をなくさせる。
かつては、比企・外秩父最後の秘境として残されていた雷電山~御岳山~大峰も、ゴルフ場造成のため、肝心の御岳山の雰囲気が台無しになった。
大峰にいたっては、尾根続きの小川町側の三笠山、八海山が消滅した結果、御岳山と組み合わせた縦走が不可能になったうえ、地権者の入山禁止措置により、山歩きの対象とならなくなったのは残念というほかない。
なお、小川町在住の郷土史家・内田康男氏のご厚意で参照できた明治19年(1886)「青山地誌」(小川町教育委員会所蔵旧大可村行政文書2)に「福寿山」に関する記述がある。
それによると、御岳山・三笠山・八海山の一帯が「福寿山」と総称され、福寿山の最高点が御岳山とされていることが判明した。
そのため、御岳山、福寿山、大峰の関係についても新たな資料を踏まえて整理しておきたい。
愛宕山(あたごやま)
八高線明覚駅すぐ北西にある160㍍独標(ときがわ町本郷)。
山名から山頂に愛宕神社の小祠があるかと思ったら、小広い山頂に、その痕跡すらない。
その理由が分かったのは、町田尚夫氏の著書『奥武蔵をたのしむ』(奥武蔵研究会、2004年)を読んだ時である。
それによると、昔頂上にあった愛宕神社は明治末に山麓の春日神社に合祀されたとのこと。
ところで、近くには愛宕山と呼ばれる山がもう1つある。それが、本郷の愛宕山より南西にある関堀(せきぼり)の愛宕山(183㍍独標)である。
こちらは、山頂に小さな愛宕神社の社殿があり、毎夏「あたご祭り」が盛大に行われるらしい(町田氏の著書による)。
近くに桃ノ木の「金毘羅山」(213.5㍍3等三角点:点名は「桃ノ木」)がある。
こちらは、明瞭な参道が踏まれている関堀の愛宕山と異なり、不遇なヤブ山のようだが、両者を結べば、軽いハイキングになるだろう。
天王山(堂山)(てんのうざん・どうやま)
ときがわ町・別所集落の上にある250㍍独標。
2万5千分の1地形図「武蔵小川」には「堂山」の山名が明記されている。
堂山は北側の旧玉川村の呼称。
登り口に当たる旧都幾川村側では「天王山」と呼んでいる。
なぜか地形図は旧玉川村の呼称「堂山」しか採用しなかったが、旧都幾川村側で堂山といっても通じないので注意が必要。
都幾川側では、あくまでも天王山なのである。
もともと堂山は、山頂北側(旧玉川村日影)の山腹斜面に命名されている小字(山字)名である。
天王山というと、疫病を防ぐ神である牛頭天王を祀った神社のある山と思われるが、山頂にはその痕跡はない。
1990年頃、天王山の周辺一帯(旧都幾川村別所・本郷ほか)にゴルフ場計画(仮称・天王山ゴルフクラブ)が持ち上がった。
住民の知らない間に、当時の都幾川村村長の賛成意見を付けて事業者が造成事業申出書を県に提出。
環境アセスメントに向けた事前協議の終了間近だった。
これを知った住民有志が反対グループを設立。
計画を知った住民の賛成を集め、ついには「ゴルフ場建設に反対する都幾川村民大集会」(1990年11月18日)を開催。
会場である旧都幾川村中央公民館には250人を超す村民が集まり、熱気に包まれるなか、①地権者に同意書の取り消しを求める、②村長の賛成意見書の取り消しを求める、③都幾川村の緑と清流を守るの3点を大会決議。
翌11月19日、要望書を村長・村議会議長・埼玉県知事に提出した。
当時この村民大集会にオブザーバー参加した私も、35年経った今でも会場の熱気を鮮明に覚えている。
村長は村民総決起集会の決議を無視することができず、県に対し意見書の撤回と反対の申し入れを行った。
幅広い村民の意見が村長を動かし、計画の中止(事業者と県の事前協議打ち切り)にいたった数少ない事例である。
女鹿岩(めがいわ)
雷電山から南に下がる尾根が女鹿岩の集落にぶつかる付近にある大岩。
天王山から縦走する場合は、途中で女鹿岩にくだるのではなく、雷電山まで登り、雲河原からの林道をくだる方が良い。
林道から少し入ったところにある墓地からくだったところが女鹿岩の岩上である。
高さ10㍍ほどの大岩が2つに割れた状態にあり、割れ目にはチョックストーンがはさまっている。
雷電山の女鹿岩は、都幾川をはさんで向かい合う奥武蔵の「弓立山」(ゆみたてやま)北側のハイキングコース上にある男鹿岩(おがいわ)と対の関係にあり、次のような大蛇伝説が有名である。
「昔女鹿岩には雌の大蛇が棲み、弓立山の男鹿岩に棲む雄の大蛇と毎年1回、7月7日の夕方になると、都幾川のほとりで逢瀬を楽しんでいた。
しかし、ある夏激しい日照りが続き、雌の大蛇が姿を消してしまった。
これを悲しんだ雄の大蛇は涙を流し、雌の後を追って行って姿を消してしまったという」
雷電山(金比羅山)(らいでんやま・こんぴらさん・こんぴらやま)
ときがわ町雲河原と旧玉川村(現・ときがわ町)日影の境に位置する3等三角点峰(点名は「日影」)。
山名は、各地の雷電山・雷電神社と同様、雨乞いを祈願した雷神を祀ることを由来する。
一時期樹林の一部が伐採され、展望の良くなった時期もあったが、今は樹林に覆われた展望の得られない暗い雰囲気の山頂である。
山頂には、日影の信仰の厚い雷電様の木の祠が日影を向き、そして雲河原の信仰を集める金毘羅様の木の祠が、まるで競い合うかのように雲河原を向き、祀られている。
つまり、雷電山という山名は、日影の雷神様に由来するもので、日影側の呼称である。
雲河原では、雷電山の名称がメジャーになったが、今でも「金毘羅山」と呼ぶ人もいる。
なお、山頂には雷電様。金毘羅様の小社以外に、2つの石の祠が祀られている。
それでは、古い地誌を見てみよう。『新編武蔵風土記稿』比企郡日影村の条では、小字名として「雨乞尾根」の名が挙げられ、「雲瓦村の境にある山をいへり」と記されている。
『新記』の比企郡雲瓦村の条に「雷電山 村の南の方、平村との境にあり」と書かれているが、これは日影との境にある雷電山を指しているとは思えない。
ときがわ町の瀬戸元下(せともとしも)には、山頂に瀬戸雷電神社を祀る雷電山があるが、こちらでもない。果たして、どこを指しているのだろうか。
次に『武蔵国郡村誌』はもっと具体的に雷電山・金毘羅山について記している。
『郡村誌』比企郡日影村の条では、「雷電山 五十七丈六尺。周囲本村限り、一里八町。村の西方にあり。嶺上より三分し、西は雲河原村に属し、南は別所村に属し、北は上古寺村に属す。山脈上古寺村雲河原村に連る。樹木鬱蒼。村の東方字高谷より上る三十町。険岨」と詳しく記述されている。
『郡村誌』比企郡雲河原村の条を見ると、「金毘羅山 高さ及び周回不詳。村の東北にあり。嶺上より二分し、東北は日影村に属し、西南は本村に属す。村の東北字入口より上る三町。雑樹生す。大樹なし」と、金毘羅山が雷電山の雲河原側の呼称であったことを示している。
なお、『武蔵通志』も金毘羅山、雷電山を別々に記述し、前者は「平村雲河原の東北にあり」、後者は「高さ五百七十六尺。玉川村日影の西にあり」と、それぞれ短い説明にとどまっている。
1987年2月の玉川村(現ときがわ町)日影の小北(こぎた)集落での聞き取りで、雷電山における雨乞いの様子が分かってきたので、以下記すことにしたい。
小北の古老によると、昔、雷電山に雲がかかったときには、必ず雨が降ると、父親が口癖のように言っていたという。
実際に、田植え時前に雷電山に雲がかかると、大抵雨が降ったという。
小北の別の古老によると、村社である日影神社に奉納されている太鼓を叩きながら、雷電山に登拝し、日影神社の神官が山頂の雷電神社に祝詞をあげたという。
また、榛名山に水をもらいにいき、もらってきた水を日影神社にあげたあと、太鼓を叩きながら、雀川の三つの堰(上流から大堰・中堰・下堰)に少しずつ注いで降雨を祈ったとも。
中堰は小北の日影神社付近。
下堰は日影公民館付近である。
現在(といっても、1987年当時だが)、日影では雷友会(らいゆうかい)という老人会の人々が正月の初日の出を見に、雷電山に登る程度であるという。
なお、雷電山から尾根伝いに進むと、雑木の合間から正面の谷越しに行風山がよく見える台地状のピーク(330㍍圏)につく。
ピークの頂上中央には。、石の積まれた塚が寂しく建っている。
一帯何が祀られていたのだろうか。
(付記)のちの調査で、この塚が日影の人々が祀った大日如来の跡であることが判明した。詳しくは、「お大日様」の項を参照して欲しい。
小北(大字日影)の北向不動
以下は、1988年2月と1990年1月の記録である。当時、雀川砂防ダムはまだ工事中であったことをご了承願いたい。
日影の最奥にある小北(こぎた)集落上サ組(23戸)の人々が信仰する北向不動へは、ダム工事を行っている現場(ちょうど雀川本流に支流の不動ヤツが合流する地点)から左岸の車道をしばらく不動ヤツに沿って進む。
まもなく最初の橋(右から不動ヤツに流入する焼山沢にかかる焼山橋)手前で、右に登る急な道をつめる。
すぐに橋で沢を渡るが、この橋のすぐ上流に不動ノ滝がある。
水量こそ少ないが、2段4㍍ほどのナメ滝。
橋を渡って沢沿いの道から分かれ、左に崖をへずると、不動尊の石碑が崖の下に祀られている。天明年間(1781~89)の建立。
この石碑からさらに急崖を5㍍ほど登ったところに、「大天狗、石尊大権現、小天狗」(明治2年(1869)7月の記銘)の石碑が不安定な形で鎮座している。
ダム工事が始まる前は、現地でお祭りをしていたが、今では当番の家やダムの手前で行っている。
かつて、この地で疫病が流行していたとき、この不動様を祀ったところ、霊験あらたかであったので、以降、信仰が続いている。
現在残っている石碑もかなり古いものなのだが、現在のような形で祭りをするようになったのは明治になってからであるという。
北向不動の例祭は旧暦の1月28日だが、今ではそれに近い休日(日曜)に行われ、私が訪ねた1987年は2月22日(日)。
祭りは上サ組のうち4戸が当番になって、順番に担当する。
担当者は当日の朝、東光寺の住職が持ってきたしめ縄を不動様に張りに行く。
祭りは午後1時頃から始まり、東光寺の住職が祈祷をあげ、上サ組の人々が次々にやってきて、祈願をする。
参拝者には団子と、青と赤の二色刷りで「徳永山北向不動尊」と刷られた半紙を付けた旗(ササラ)が渡される。
旗刷りは、当番の家で祭りの前日に行われる。
この例祭は、小北上サ組23戸の結束を強める意味があるという。
お大日様(おだいにちさま)
雀川上流(行風川)を忠実につめると、行風山(次項)と行風山南西の330㍍圏ピークとの鞍部に出る。
この330㍍圏ピークは小広い台地状の山で、雑木の茂る山頂の中央には、石塚(石積み)が築かれ、その上には古い石碑がある。
雷電山から向かう場合、北西に御岳山への稜線をたどると、いきなり林道に出る。
林道を北に忠実に登り、最高点から右の山に取り付き、ヤブこぎわずかで先の330㍍圏ピーク頂上に達する。
さて、石積みと石碑の正体だが、山麓の小北(日影)で調べると、かつてお大日様(大日如来)を祀った跡であるという。
日影の東光寺の住職によると、お大日様も北向不動尊も真言密教とつながりがあるといい、かつて日影にあった長勝寺(ちょうしょうじ)と関係があったのではないかという。
長勝寺は、三代目の住職が教育熱心で、寺小屋を開いたりして、とうとう還俗してしまい、廃寺になったという。
行風山南西の330㍍ピーク山頂のお大日様跡は、訪れる人もなくすっかり荒れてしまったが、それでも小北の古老の記憶には残っていて、彼らは親しみを込め、かつて「お大日様」の祀られた330㍍圏ピークを「お大日様」と呼んでいる。
行風山(ぎょうふうやま)
2万5千分の1地形図「武蔵小川」「安戸」の332㍍独標。
「行風」は雀川上流一帯の小字(山字)名で、その最高点にあたる山という意味の便宜的な呼称。
雷電山と御岳山との間のほぼ中間点に当たるピークで、雀川の上流・行風川の源流に当たるため、もっともアプローチの難しい山だった。
しかし、南側は森林管理道「雀川上雲線」が行風山南の主稜線を乗越し、北は雀川砂防ダムから「行風峠」を乗越す林道が整備されたため、格段に近づきやすい山になった。
とくに北側の行風峠から南にCATVアンテナのある地点まで登り、主稜線のやや東側に外れた行風山を往復するコースが最も容易である。
行風山往復地点から南に「お大日様」をへて雷電山に向かう尾根は、途中林道を歩いたり、踏跡がほとんど消える部分があるなど難易度の高い読図コースなので、いったん雀川砂防ダムまで戻り、改めて雷電山に登り直した方が分かりやすい。
行風峠(ぎょうふうとうげ)
行風山北の主稜線上にある250㍍圏の鞍部。
「行風」は日影側の小字名であり、雀川源流域を指す。
日影と交流が深かった小川町上古寺から日影側の行風に乗っ越す峠の意味。
上古寺から行風峠には主に2つのルートがある。
メインルートは清水地区にある「的場」(松葉)の屋号のある荒井家の脇から登る道。
サブルートは滝ノ入をさかのぼり、滝ノ入不動から登る道。
清水地区から越える峠を探ってみよう。
道は「的場」の屋号のある荒井家の脇から始まる。
最初は掘割状で歩きづらく、両側から小枝が張り出して煩わしいが、明瞭な踏跡で、20分あまりの登りで、旧玉川村境界の行風峠に到達する。
反対側の日影から登る場合、ダム完成後の情報がなかったが、幸い町田尚夫氏が貴重な記録fを残している(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』奥武蔵研究会、2004年)。
それによると、林道雀川上雲線の起点広場の奥に天明6年(1786)の石の道標があり、「右安戸 左古寺道」と刻まれている。
上古寺・安戸とも日影の西側で同一方向なので、左右に分かれるのはおかしいと思い、古い聞き取りノート(ダム完成前の)を調べると、「安戸へは、いったん青山に出た方が(上古寺に出るよりも)早かった」との古老の話が拾ってあった。
しかし、青山に出るとなると、御岳山~大峰の山稜を越えなければならず、登りは険しいはずだ。
町田氏は先の古い道標からすぐに始まる安戸への道をたどってみたが、「林道を二度短絡する所まで道形があるが、その先は確認できない」としている(町田尚夫、前掲書)。おそらく、ゴルフ場造成により廃道化したのであろう。
上古寺へは「入口から約200㍍先の林道ヘヤピンカーブ地点を直進する。沢沿いの道は昼でも暗く所々ぬかり、進むにつれて荒れてくる。間もなく右上に林道が近寄ってきたので、踏み跡を探してよじ登った」という(町田尚夫、前掲書)。
残念ながら、歴史のある上古寺から行風峠を越え、日影に出る峠道は、日影側が林道工事の影響などもあり、
旧道が入口の道標だけを残し廃道化したようだ。
さて、日影と上古寺を結ぶ行風峠道には、次のような伝説が残されている。
行風峠道は、もとは鎌倉街道から分岐して慈光寺に立ち寄るための裏街道であったとの伝承がある。
かつて新田義貞は日影から上古寺に越え、慈光寺に参拝にいったが、その折、日影の鎮守である日影神社に一夜の宿をとった。そこで、この地を「上宮」(かみのみや)と呼ぶようになった。
また、現在公民館のある付近には「下宮」(しものみや)があった。
下宮は日影神社に合祀されたが、ここは副将が泊まったので、その名が生まれたという。
サネ山の奥ノ院(おんたけ山のさね山)
小川町上古寺から青山上の御岳山へ登る道は、上古寺の滝ノ入に沿った道をつめるものだった。
滝ノ入の奥に行くと、「滝ノ入不動」がある。
3㍍ほどの滝の脇の岩上に不動尊が祀られている。
『上古寺村誌』(1886年)によると、昔、僧空海がこの地を訪れたとき、滝を見て、あまりにも見事だったの で、滝のかたわらに自ら不動尊の形を爪で刻み、滝の脇の岩上に創建したと伝えられている(「氷川の里 上古寺編集委員会編『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
この不動尊は、もともと滝ノ入地区の新井家が信仰していたが、開運に霊験があるとされ、一時は近郷に多くの信者がいた。
当時は、毎月28日になると、20~30人の信者が列をなして不動尊まで参詣に行った。
とくに小川町飯田地区に信者が多かった。
今でも、10月28日には新井家が中心になって、飯田から住職を呼び、不動尊まで団子や菓子・果物などを供えに行くという。
滝ノ入は古来、行風峠を越えて旧玉川村日影との日常的な往来があった。
もっとも、滝ノ入からの道は行風峠道の間道で、不動尊の奥で二分するヤツの右側のヤツをつめて村界の尾根(雷電山~御岳山の主稜線)に出た。
もちろん、今では廃道同然だが、往時は行風峠道よりもはるかに短時間で日影に出ることできた。女性の足でも、日影最奥の集落である小北まで30分とかからなかった。
先に日影に残された新田義貞の伝説を紹介したが、滝ノ入の新井家が新田義貞の子孫(または家臣の子孫)とも伝えられていることは、行風峠をはさんだ2つの集落(小川町上古寺と旧玉川村日影)の密接なつながりを物語っているように思われる。
さて、本題に戻ろう。
滝ノ入不動の裏から左側のヤツをつめると、小川町青山上の御岳山に出る。
御岳山の詳細については、次に譲るが、毎年4月18日の御岳山の例祭は大変な賑わいをみせたが、上古寺からの参道が滝ノ入ヤツであった。
ところで、御岳山に登る途中に、右のジイガヤツ、左のバアガヤツ(いずれも姥捨ての伝説がある)という2つの谷にはさまれた「サネ山の奥ノ院」なる場所があり、そこには石の祠が祀られているという。
滝ノ入では、御岳山に参拝する途中、この祠にも御幣を上げたという。
「サネ山の奥ノ院」は、「サネ山」とも「奥ノ院」とも呼ばれ、御岳山の奥の院的な存在であった。
私も「サネ山」のことを聞いてから、是非訪ねたいと思いながらも、その機会を逸したまま40年近くが経過してしまった。
改めて、2万5千分の1地形図「安戸」から場所を特定してみよう。
上古寺の滝ノ入に沿った実線の道を遡ると、道が大きく屈曲した先で、滝ノ入が二股に分かれる。これが「ジイガヤツ」「バアガヤツ」ではなかろうか。
しかも、それぞれに沿って破線路がある。
残念ながら、破線路は途中で終わっているが、右は御岳山に直登する道、左は御岳山から北西に青山上にくだる破線路に出る。
そして、二つの谷の間に、先の説明と同様に急峻な小尾根がある。
小尾根から直線を引くと、ちょうど御岳山にぶつかる。
となると、小尾根上に「サネ山の奥ノ院」があることは、ほぼ間違いない。
「サネ山の奥ノ院」の場所を特定化するという課題はほぼ解決できたが、いざ行くとなると、30年以上山歩きをやめていた体力と脚力の低下がネックとなる。
二つの沢にはさまれた急峻な道なき岩尾根をつめる体力が今ないのが残念である。
いつの日か、サネ山の奥ノ院を経て、御岳山に登る日が来ることを信じ、体力回復に励む毎日である。
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長くなって申し訳ないが、「サネ山の奥ノ院」を囲む二つの沢である「ジイガヤツ」「バアガヤツ」には、それそれ姥捨ての伝説があると言ったが、小川町在住の郷土史家・内田康男氏は、姥捨て伝説を採集している(「氷川の里 上古寺」編集委員会編集『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
全文を引用すると、長文になるので、以下ごく概略だけをまとめておこう。
600年も昔の室町時代初期の頃、長きにわたった戦乱で疲弊した古寺の山里は、野武士の群れに乗っ取られてしまった。
野武士による年貢の取り立ては過酷を極め、さらに「働けない者に食う物はいらない。働けないやつは捨ててしまえ」と言い出す始末だった。
古寺の人々は抗議をしたが、それに対し野武士の頭(かしら)は、「命令を聞かないヤツは切り捨ててしまうぞ」と逆に脅かす有様だった。
結局、年老いた母を捨てなければならなくなった甚左(じんざ)は、母を捨てる運命を嘆いたが、老母は逆に「私のような足手まといがいなくなれば、おまえもいくらかは楽になるだろうし、私のことは何も心配はいらないよ」と逆に甚左を慰めた。
いよいよ甚左が母を捨てる日が来た。
捨てに行くと決められた場所は、人里離れた嶮しい岩山の谷間。甚左は母を背負って、岩山をしばらく登り、滝ノ入不動の滝についた。
この滝の断崖を登ったところが、通称「おんたけ山のサネ山」といわれるところだった。
サネ山の右側が「ぢいが谷(やつ)」といってお爺さんの捨て場、左側が「ばあが谷(やつ)」といってお婆さんの捨て場と決められていた。
どちらの谷も両側が岩の絶壁だったので、二度と人家に戻ることができないようば場所だった。
甚左はそこの少しばかりの平らなところに立ち木の皮をむいて雨露をしのげるわずかな場所をつくり、乾飯と塩を残して後ろ髪を引かれながら、泣く泣く谷を下りた。
次の日に曲田(わだ)の弥五(やご)が年老いた父親を背負ってこの谷を登ったという。
サネ山の「ジイガヤツ」「バアガヤツ」には、上記のような悲しい「姥捨て伝説」が秘められているのである。
ついに発見「サネ山の奥ノ院」(2025年2月16日加筆)
タイトルからは、私が念願の「サネ山の奥ノ院」を自ら踏査して発見したと思われそうだが、実は本ブログを読んだ小川町在住の郷土史家・内田康男氏より「奥ノ院」の位置図と写真をお寄せいただいた。
位置図と写真は以下のとおりである。
位置は前記の略図「サネ山の奥ノ院はどこか?」で予測した位置とほぼ同一だった。
上古寺の滝ノ入を遡り、滝ノ入不動からほぼ直角に沢が曲がった先で、滝ノ入の源流は二俣になる。向かって右が「ジイガヤツ」、左が「バアガヤツ」である。
この2つの沢にはさまれた小尾根上の●が奥の院である。
そのまま尾根をつめると、青山の御岳山(下の神社記号。上の神社記号は八坂神社)に達する。
写真を見ると、コンクリート製の基礎の上に古い石祠(無銘)がある。内田氏の計測によると、台座幅約28センチ、奥行27.5センチ、高8センチ。
祠幅19センチ、奥行10.5センチ、高32.5センチ。
屋根幅26センチ、奥行26.5センチ、高16.5センチ。
コンクリート基礎は、幅約39センチ、奥行60センチ、高53センチであったという。
内田氏によると、写真撮影時(2014年5月)には幣束が新しかったので、祭典が行われていたと推測されている。
祭典というと、4月18日の御岳山の例祭がすぐに思い浮かぶが、それから2、3週間あとであれば、幣束はそのまま残っているかも知れない。
「サネ山の奥ノ院」の位置づけについては、御嶽講のある青山ではなく、上古寺にあるので(内田氏は上古寺字滝ノ谷106番地12、あるいは同番地1か同番地9との境界付近かと推定)果たしてどうなのかという点が問題となる。
あくまでも上古寺の方々が御岳山の例祭時に途中にある奥の院に参拝するにとどまるのか、それとも「奥ノ院」の名のとおり、「御嶽講」の方々も「サネ山の奥ノ院」を「御岳山の奥ノ院」的な存在として参拝しているのだろうか。
恐らく後者(御岳山の奥ノ院的存在)だと思われるが、是非とも青山の御嶽講の方々に取材してみたいものである。それ以上に私もこの目で「奥ノ院」の石祠を見てみたいものだ。
最後になるが、「サネ山」の「サネ」は「サヌ」(=狭い土地)の転訛で、「狭く急峻な山」の意ではないかと勝手に考えている。
改めて貴重な情報を提供され、ブログへの転載をご快諾くださった内田氏には深く感謝したい。
「サネ山の奥ノ院」位置図(内田康男氏提供)

「サネ山の奥ノ院」(内田康男氏撮影:2014年5月)

御岳山(おんたけさん)と福寿山(ふくじゅさん)(2025年3月8日加筆)
(略図)御岳山・福寿山・大峰位置関係図
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御岳山は、2万5千分の1地形図「武蔵小川」に「大峰山」の記載のある293㍍独標北西の297㍍独標。
山頂には木造の鳥居の奥に石の台座に乗った明治19年(1886)建立の「御岳様(正式には「御岳山蔵王大権現」の石像がある。
この石像はサイズこそ異なるとはいえ、木曽御岳山の本尊と姿形とも同一であるという。
山頂は1980年代後半頃は芝地で、眼下には丘陵の向こうに小川町の市街が良く見えた。これから向かう予定の三笠山~八海山の山稜も同じ草地で、往時は明るい尾根が御岳山から八海山まで続いていた。
行風峠から向かうとき、御岳山手前に「半蔵坊霊神」の石碑を目にするが、これは、もともとはゴルフ場(アドニス小川ゴルフ倶楽部)建設により破壊された「八海山」にあったものだ。
それ以外にも御岳山近傍や山頂には「日本武尊」「八海山」「三笠山」などたくさんの石像や石碑があるが、これらはゴルフ場造成にともない、御岳山に移されたものである。
御岳山の例祭は毎年4月18日盛大に行われ、東京方面からも参拝者があるとのことだ(1987年当時の聞き取り)。
同じく1987年当時の小北(旧玉川村日影)での聞き取りでは、毎年4月18日の御岳山の例祭には、以前は小北からも老人たちが参拝に行ったという。だが、今はほとんど行かなくなったという。
地形図で、御岳山から北に少しくだったところに神社記号があるが、これが「八坂神社」。
ゴルブ場造成により、御岳山の参拝路をはじめ多くの道が失われたが、八坂神社だけ辛うじて区域外になり、神社までの踏跡が残された。
御岳神社(御嶽神社)は「御岳山蔵王大権現」の名が示すように、神仏習合の名残をとどめており、山号は「福寿山」(ふくじゅさん)である。つまり、「福寿山御岳山蔵王大権現」が御嶽神社の本尊である。
「福寿」は御岳山から三笠山(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」の289㍍独標)、八海山(三笠山北の平頂峰)附近にかけての字名である。
三笠山の南から旧玉川村村境にいたる山稜には「富士見平」の字名がある。
つまり、「福寿山」の名称は、字名である「福寿」から来たものであろう。
そして青山上では、御岳山、三笠山、八海山付近を「福寿山」と総称していることが古い地誌の記事から明らかになった。
まず『武蔵国郡村誌』(明治8年調査)の比企郡青山村の条には、「福寿山 村の南にあり、東西百五十間、南北二百間」と」ある。
『武蔵通志』(明治24~25年)はさらに詳しく、「大河村青山の南にあり、山頂円形にして御嶽神社あり。松檜の間、ツツジ花多し」と記す。
ここからは、福寿山と総称される山域の最高点が御岳山であるという両者(福寿山と御岳山)の位置関係が分かる。
最も詳しい記述で、おそらく『通志』が参考にしたと思われるのが、明治19年「青山村地誌」(小川町教育委員会所蔵旧大河村行政文書2)である。
そこには「福寿山 中央円形にして、突出し、四囲小丘羅列す。景致 ツツジ満山松柏疎々風景絶佳なり。雑項 頂上に松下に御嶽神社の石像あり。ツツジ満開の候は風流才子観花の徒山上群をなす。里俗物見山と称するは則ちこの処なり」と実に詳細に記している。
上記の「青山地誌」の記述をよく読むと、「中央円形にして、突出し、四囲小丘羅列す」との描写は、御岳山とその周辺の三笠山・八海山などの関係を見事に言い当てている。
「ツツジ満山松柏疎々風景絶佳なり」の描写も、ツツジこそは見ることはできなかったが、草原に灌木が混じり、小川町方面の展望はもちろん、富士山も遠望できたという隣の「富士見平」も合わせ、かつて私が歩いた頃の「御岳山・三笠山・八海山・富士見平」一帯の雰囲気のおおむね一致する。
御岳山こそが福寿山の頂上(最高点)であり、地元では「物見山」と呼んでいたという記述は所見だが、この一帯では最も高く、1980年代当時も南側の展望が開けていた御岳山に昔物見櫓が築かれていたとしても何ら不思議ではない。
これまでの記述をまとめると、青山上の南部にある丘陵の総称、あるいは字名「福寿」およびその周辺にある山の総称として「福寿山」の名称が古くから用いられていたこと。
「福寿山」の頂上(最高点)には御嶽神社が祀られ、石像が造立されているとともに、もとは物見山と呼ばれていたこと。
さらに、福寿山と総称されていた山域の頂点である御嶽神社を祀る御岳山にいたる山々に石像が祀られ、それぞれ御嶽講の人々により「八海山」「三笠山」と命名されたと考えることができる。
福寿山の一角である三笠山から南東に走る主稜線は小川町と旧玉川村の境界を越えて延び、ちょうど境界にあたる293㍍独標とその南の山稜を旧玉川村日影では「大峰」と総称していたということになるだろう(福寿山・御岳山・八海山・三笠山・大峰の位置関係については、地図を参照)。
ところで福寿山という名称は、比企・外秩父の山の開拓期である1940年代以降、しばらくの間、先駆者の間でも使われていた。
例えば、神山弘氏は『ハイキング』119号(1943年)で、「地図に日影-青山の破線路の通る峠を中心とする丘陵の総称は、福寿山である」と記している。
また、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8奥武蔵』朋文堂、1954年)でも、福寿山を単独峰としてではなく、総称として扱っている。
大石氏は「奥武蔵辞典ー山名編ー」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8奥武蔵』朋文堂、1960年」で、福寿山(ふくじゅさん)について、「明覚駅から小川町駅にいたる、八高線を中にして仙元丘陵と相対する西側の山一帯をいう」と解説されている。
おおむね妥当な表現だが、「八高線西側の山一帯」というのは、あまりにも漠然としている。
御岳山にも触れていない。
さらに、1980年代半ば頃までの奥武蔵研究会調査・執筆の山と高原地図「奥武蔵」でも、御岳山の表記はなく、むしろ現在の八海山~三笠山~大峰付近の総称扱いで「福寿山」の表記が残されていた。
神山氏、大石氏、奥武蔵研究会三者に共通するのは、福寿山が御岳山を含み、むしろ御岳山が福寿山の最高点であるという点を見落としていることと、小川町側の福寿山と旧玉川村側の大峰は尾根続きであり、大峰が単独ピークの名称ではなく、総称名であることを見落としているという点である。
このように福寿山と大峰を同一視し、福寿山の名のもとにまとめてしまうという先駆者の誤りは、1986年測量・同年4月30日発行の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で、御岳山右隣の289㍍独標に大峰山の山名が記されたことにより、解消された。
だが、289㍍独標を大峰山としてしまったことが、今でも解消されない重大な誤りを生んでしまったのである。
詳しくは「大峰」の項で述べよう。
ところで、「アドニス小川カントリー倶楽部」の前身である「仮称・武蔵台カントリークラブ」建設のための環境アセスメント評価書を大成建設が提出した折(1086年12月)、御岳山はゴルフ場の区域から外された。
しかし、三方をゴルフ場に囲まれ、御岳山頂を除く福寿山がすべてゴルフ場の計画地内だった。
御岳山はゴルフ場外となったものの、ゴルフ場が山頂間近まで迫っていることは間違いない。
そのため、御岳山山頂の雰囲気、山頂からの展望は一変してしまった。
かつての神域にふさわしい静寂な雰囲気はゴルファーの歓声により消え去り、肝心の山頂からの展望も、ゴルフ場のグリーンや調整池などに変貌した。
大峰(おおみね)(2025年3月8日加筆)
(略図)ゴルフ場により破壊された福寿山(八海山・三笠山)と富士見平

ゴルフ場造成前の1986年測量・同年4月30日発行の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、御岳山「東方」の小川町分の289㍍独標に「大峰山」の名が記されていた。
ゴルフ場が造成されたのちの最新の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、御岳山「南東」の小川町・旧玉川村境界の293㍍独標に「大峰山」の名を記している。
地形図に大峰山の名が記されたことにより、「大峰山」の名はハイカーの間に広まることになった。
そこで問いたいのは、同じく「大峰山」の名が記された289㍍独標と293㍍独標は同じ山なのだろうか。
否である。
ゴルフ場造成前後の地形図を比較すると、両者が別の山であることがよく分かる。
まず後者の小川町・旧玉川村境界上の293㍍独標は、日影で「大峰」と呼ばれている山稜の一番北のピークである。
大峰は293㍍独標だけでなく、その南に連なる2つのピークを含めた3つのピークの総称である。
大峰の北峰が293㍍独標、南峰が283㍍独標、その間にある中峰も北峰と同程度の標高である(大峰の北峰、中峰、南峰という表記は、町田尚夫氏にしたがった(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』(奥武蔵研究会、2004年)。
実は、1987年2月15日、小北(旧玉川村大字日影)在住の大峰の所有者に話を聞いたことを思い出した。
当時のノートを引っ張り出してみると、次のような話をしておられた。
●大峰は小北の奥にある山で、山頂部分はかなりの範囲にわたり平坦地になっている。御岳山は小川町の青山の分で、大峰には含まれない。大峰の名の由来は、村(日影村)の北境に聳える膨大な山容によるものであろう(ひときわ目立つ山という意味で)。
●大峰の小川町側(青山)の福寿山や富士見平は既にゴルフ場用地として買収され、測量も行われている。自分の家にもデベロッパーが来たが、大峰の土地は売らなかったという。
●かつて、大峰の山頂からは空気の澄んだときには、東京タワーまで望見できた。
●「大峰」(おおみね)が呼称であり、「大峰山」(おおみねさん・おおみねやま)などのような「山」を語尾につけない。
●昔から大峰付近では旧玉川村と小川町との間に境界争いがあった。この記録は大峰の地権者宅に保存されているという。それによると、小川町分が本来の境界を越えて、少し玉川村分に入り込んでいるという。
以上の貴重な証言からも、地形図記載の「大峰山」は誤りで「大峰」が正しい。
しかも、293㍍独標(北峰)だけの名称ではなく、中峰、南峰を含む小北の北に連なる山の総称である。全域が旧玉川村(現在はときがわ町)に含まれる。
別の方は、大峰の名因について、「峰が長くつながっているからこの名が付いた」と語ってくれた。
次に、ゴルフ場造成前の地形図の289㍍独標と造成後の地形図の293㍍独標との関係である。
多くの方が両者は同じ山であると勘違いしているが、それは誤りである。
両地形図を比較するときに、御岳山との位置関係がカギとなる。
旧地形図の289㍍独標は、御岳山とほぼ水平の位置にあり、両者は尾根でつながっている。
しかも、289㍍独標から御岳山に向けて小川町と旧玉川村の境界線が走っている。つまり、当時の地形図では御岳山が町村界に当たっている。
しかし、新しい地形図の293㍍独標は、旧地形図の289㍍独標よりも南東に約300㍍ほど移ったピークであり、御岳山との関係でも水平ではなく、御岳山よりも南に下がっている。
しかも新地形図では、小川町と旧玉川村との境界は293㍍独標からほぼ水平に西に走り、御岳山ではなく、その南約250㍍の地点で御岳山から南走する尾根(行風峠からの尾根)に合流している。
つまり、新地形図では御岳山は境界尾根から外れているのである。
先の大峰の地権者証言、すなわち「御岳山は小川町分の山であり、(玉川村分の)大峰には含まれない」は正しいのである。
以上をまとめると、小川町青山と旧玉川村日影の境界がゴルフ場造成前の地形図と造成後の地形図とでは変わっている。
これを、ゴルフ場造成にともない、境界も変更されたと見るべきだろうか。
決してそうではない。むしろ、旧地形図の境界の位置が誤っていたのである。
何度も言うが、大峰の地権者の言葉を思い出していただきたい。
御岳山は青山の山であり、日影との境界にある山ではない。
しかも、旧地形図の289㍍独標と新地形図の293㍍独標の位置を比較すると、後者が前者より南東に約250㍍下がった位置になる。
つまり、両は別の山であり、289㍍独標は青山(小川町)の山である。
ゴルフ場は小川町とときがわ町との境界ある293㍍独標(=大峰北峰)直下まで迫り、小川町の区域に属する289㍍独標はその北にある260㍍圏の平頂稜とともに、造成により消滅した。
小川町側の260㍍平頂稜~289㍍独標は、大峰と稜線続きであり、北から260㍍平頂稜・289㍍独標・大峰と続いている。
このうち、小川町側の前二者は姿を消し、旧玉川村側の大峰は北峰のみ山頂直下までゴルフ場が迫っているものの、地権者の頑張りで開発を免れた。
つまり、新地形図の境界線こそ正しいのである。
それでは、消えてしまった小川町側の山稜の姿を回想するために、私の訪れた頃の風景を記してみたい。
1980年代後半、芝地の御岳山からは、かつての秣場の面影を残す草地に小灌木が点在する大峰山稜が間近に眺められ、約10分の気分の良い天上の散策で289㍍独標(三笠山)に達することができた。
大峰の小川町側(福寿山)は289㍍独標を「三笠山」、その北にある260㍍圏の南北に細長い山頂のピークを「八海山」と、御岳山にちなんだ命名をしていた。
三笠山・八海山山頂には、ぞれぞれよく似た三笠山様・八海山様の石造が祀られており、八海山山頂北肩には半蔵坊霊神の石碑が祀られていた。
これらの石碑は、ゴルフ場造成により御岳山山頂やその近傍に移された。
なお、山麓の小川町青山上では、前記の半蔵坊霊神にちなんで、この付近の丘陵を「半蔵坊様」とも呼んでいた。
八海山から三笠山、さらにその南稜にあたる旧玉川村分の大峰は、かつては秣場であった。その姿はゴルフ場造成が始まった1990年初めまで残っていた。
三笠山の南に広がり、大峰の北にあたる緩やかな山稜には「富士見平」の字名がついている。この付近がかつては茅戸の原で富士がよく見えたということによる。
先の大峰の地権者が語った「大峰の山頂からは、以前、東京タワーまで見えた」という言葉とも符合する情景である。
富士見平から大峰にかけては、茅戸の原で秣場であった。
御岳山やその北方の八坂神社はかろうじてゴルフ場の区域から外れたが、八海山・三笠山(289㍍独標)・富士見平は完全に破壊され、消滅した。
そしてゴルフ場の範囲は富士見平を超え、大峰の北峰直下まで迫っている。
何とか残った大峰とそれとは対照的に御岳山頂だけを残し、それ以外は徹底的に破壊され、ゴルフ場に姿を変えた大峰の北側(小川町側山稜=福寿山)。
峰続きでありながら、小川町側(福寿山)と旧玉川村側(大峰)とで、これほどくっきりと明暗を示すというのも残酷な話である。
以前は気持ちの良い草原の尾根を御岳山から三笠山まで散策し、富士見平をへて大峰経由で小北にくだることができたのである。
残された大峰は今どうなのだろうか。
SNSに寄せられた情報提供によると、大峰の至るところに、地権者による「入山禁止」の標識がつけられ、入山するのも気が引けるというのが近況のようだ。
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