概要
これまで何回も触れてきた比企・外秩父の名刹・慈光寺。
この項では、慈光寺の概要をいくつかの文献にもとづき、なるべく簡潔にまとめるとともに、慈光寺付近の山を語るうえで、いつも問題となる「都幾山」と「金嶽」(鐘岳)の位置について自論を述べたい。
あわせて、北側の小川町側の慈光寺への古い参道である上古寺からの「裏参道」(奈良坂)、腰上(腰越)赤木からの「巡礼街道」を紹介し、古道にまつわる伝説も紹介する。
なお、慈光寺裏参道の入口である上古寺には、館川と金嶽川にはさまれた顕著な尾根がある。
この尾根には雨乞信仰のあった雷電山や畠山重忠の墓と伝えられる五輪塔が山頂にある士峰山など、信仰や伝説を豊富に秘めた山がある。
しかも、雷電山~士峰山の尾根は、338㍍独標で腰上赤木のショウジバ(巡礼街道の入口)に下りる尾根と分かれて南に方向を変え、328.4等三角点峰(点名「千本立」)をへて、平萱の三角点(風早山)に達している。
最近のネット記事によると、雷電山~士峰山~平萱の三角点(風早山)のコースは、ヤブ山好きの読図コースとして注目されているようだ。
しかし、記事や写真を見ると、誤った山名を記した私製の山名表が立ち木に打ち付けられたり、テープが貼られているなど、山名について混乱を引き起こしている。
平成の後半に増設された4等三角点の点名もこの混乱に拍車をかけている。
そこで、慈光寺周辺の山、およびそれと一体的に歩かれている雷電山~士峰山の尾根、そして雷電山・士峰山の尾根周辺の氷川神社、松郷峠、芭蕉句碑、古寺砦跡、古寺鍾乳洞についても言及しておきたい。
なお本項をまとめるにあたり、小川町在住の郷土史家・内田康男氏の著書『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)、『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』(1999年)に多くを負っていることをお断りしておきたい。
慈光寺(じこうじ)
ときがわ町西平にある慈光寺は、天台宗都幾山慈光寺といい、板東三十三観音のうちの第9番札所として、多くの人が集まる名刹である。
正式な名称は、都幾山一乗法華院という。本尊は千手観音菩薩。
寺蔵の『都幾山慈光寺実録』(江戸後期)によると、天武天皇の白鳳2年(673)に慈訓が千手観音を祀ったのが初めで、その後、役行者が来遊し、西蔵坊を建て修験の道場を開き、さらに鑑真の高弟・道忠が宝亀元年(770年)堂宇を建て、開山したという(『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条にも同様の記述がある)。
当所は台・密・禅三宗を兼ねていたが、平安時代に清和天皇の勅願により天台別院と称されることになり、天台宗寺院として繁栄した。
鎌倉時代には源頼朝の信仰が厚く、多大の寄進を行った。
とくに頼朝が巨大な鐘を寄進したことは有名である。
建久8年(1197)には栄朝禅師が霊山院を創建した。
霊山院は臨済宗の寺であったが、慈光寺の禅道場を担っていた。
この頃(鎌倉時代)が慈光寺の最盛期で、慈光寺は衆徒七十五坊を擁していたという。
その後、室町・戦国時代になり、寺は衰微したが、天正19年(1591)、徳川家康により寺領百石を与えられ、上野寛永寺末になってから再び勢力を取り戻した。
ときが町西平からの参道(車道)が表参道とされ、北側の小川町上古寺からの参道(奈良坂)が裏参道とされる。
表参道から山を登ると、最初に開山堂と鐘楼が現れ、続いて天台宗慈光寺宝仏殿をへて、山上の観音堂につく。
観音堂から西に山中を進むと、霊山院につく(以上の慈光寺に関す記述は、『角川日本地名大辞典 埼玉県』(角川書店、1980年)、氷川の里 上古寺編集委員会編『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年、内田康男『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』(1999年)、藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)などに負っている)。
(略図)都幾山・金嶽付近略図
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都幾山(ときさん)
慈光寺付近の山をめぐって争点となっているのが、「都幾山」(ときさん)と「金嶽(かなたけ)」「鐘岳」(かねたけ)との関係である。
まず都幾山について、地図でどのように表記されているか見てみよう。
2万5千分の1地形図「安戸」の最新版(2016年測量、同年5月1日発行)では、慈光寺裏山(北西)、霊山院北北東側に当たる小川町とときがわ町との境界尾根上の463㍍独標が「都幾山」に当たるかのように見える表記をしている。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』最新版(2024年版)でも、地形図にしたがい463㍍独標を都幾山としている。
しかし、都幾山は慈光寺裏の単独のピーク名であろうか。
否である。
慈光寺の山号が都幾山(都幾山慈光寺)というように、都幾山は特定のピーク名ではなく、慈光寺山域一帯の総称名なのである。
その根拠として、古い地誌をひもといてみよう。
『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条を見ると、「慈光寺」「慈光山」の2つの項目があり、少々戸惑ってしまう。
それでも、慈光寺の解説の最初に「慈光山の上にあり、麓より登ること九丁余なり・・・」とある。
「慈光山」の項目を引用すると、「往古より観音安置の山なれば、慈光の名を得たりしならん。山上よりの眺望殊によくして、東には筑波山を望み、東南は江戸を打越て安房・上総の山々を見渡し、西は秩父ガ岳及び浅間山連り、近く郡内笠山・雲瓦の山々手にも取るべきさまにて、勝景いうばかりなし。山上に与地峯・遠一山など名を得し所あり、及び彼の笠山の内なる見性山を合わせて慈光ノ三山と称すと云う」と非常に詳しい。
『風土記稿』の説明から、慈光寺のある山=慈光山=今の都幾山であることが分かる。
そして、与地峯(=與地ノ峰(よちのみね)=金嶽)、遠一山(おんいつさん:堂平山)、見性山(笠山)の三山が「慈光三山」であり、「慈光山」と尾根続きであることが読み取れる。
慈光山が都幾山と同一であることは、『武蔵国郡村誌』比企郡平村の条からも分かる。
そこでは、都幾山の説明で「都幾山 一名遠一山或いは慈光山と云う」とある。遠一山は堂平山の別名であるから間違っているが、都幾山=慈光山であると明確に述べている。
最後に『武蔵通志』の慈光山の説明を見ると、「慈光山 又都幾山遠一山と称す。高一千二十尺。平村西平の北にあり、北は大河村上古寺にまたがる。頂上少平の地を與地峯と云い、其南やや降り観音堂あり。又西に霊山院、東南に慈光寺及釈迦堂あり。登路三條。一は字宿より上る凡九丁。一は日尺より上る十一町。一は上古寺より上る十八町、奈良坂と称し険岨なり・・・」と、非常に情報量豊かである。
慈光山の別名が都幾山であるほか(遠一山は間違い)、頂上が與地ノ峰と呼ばれているということは、都幾山中の一ピークが與地の峰=金嶽ということが分かる。
その他、上古寺からの裏参道である「奈良坂」にも触れており、参考になる。
結論として、繰り返しになるが、都幾山は慈光山ともいい、特定の突起でなく、慈光寺のある山の総称名である。
463㍍独標に「都幾山」の山名表示板があるというが、これは誤りである。
では、金嶽(鐘嶽・與地ノ峰)はどこだろうか?
金嶽(かなたけ)・鐘岳(かねたけ)・與地ノ峰(よちのみね)
「慈光三山」は與地ノ峰(金嶽・鐘岳)、遠一山(堂平山)、見性山(笠山)の三山で、往時、慈光寺や霊山院の修験者の修験の場所となっていた。
このうち堂平山と笠山はよく分かるが、『武蔵通志』が「慈光山の頂上小平地」という與地ノ峰(金嶽)は一体どこなのだろうか。
藤本一美氏は、都幾山を慈光寺単独の一突起ではなく、慈光山域の総称と的確にとらえている。
だが、金嶽となると、沈鐘伝説を紹介していながら、その位置を都幾山の主稜(小川町とときがわ町の境界尾根)西端にある539.4㍍3等三角点であるとしている(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。
なぜ慈光寺や霊山院からかなり離れた3等三角点峰を「金嶽」としているかについては、藤本氏は明記していない。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)が都幾山を慈光寺のある山の総称、金嶽は539.4㍍3等三角点としているのも、藤本氏の見解を踏襲しているものと思われる。
539.4㍍3等三角点は、小川町腰越と上古寺、そしてときがわ町大野との境をなしている。点名は、三角点の位置する腰越側の小字(山字)名をとって「平萱」(たいらがや)としている。
平萱は腰越(腰上)の赤木集落の小字であることから、赤木の集落では「平萱の三角点」と便宜的に呼ばれている。
なお、いつも参照している大石真人氏監修の「外秩父概念図」でも、539.4㍍3等三角点峰を金嶽としている(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 『奥武蔵』(朋文堂、1954年所収))。
しかし、『武蔵郡村誌』や『武蔵通志』などによると、與地ノ峰(=金嶽)は都幾山(慈光山)の山上ないし頂上であり、繰り返しいうが、「平萱の三角点」では位置が離れすぎている。
前記の古い地誌による記述に加え、「金嶽」が都幾山頂上付近の上古寺側の小字(山字)名であること、そして、上古寺小門集落からさらに谷を深くに入ると、左側に高い山が見え、それが金嶽であり、地形図上の「都幾山」の表記上にある463㍍独標を指しているという内田康男氏の指摘などを踏まえ、以下のように結論づけたい(「氷川の里 上古寺」編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
金嶽(鐘岳・與地ノ峰)は、都幾山のピークのうち、霊山院(地形図の慈光寺西側の寺記号)北北東の463㍍独標である。
町田尚夫氏は、古く明治2年(1868年)の霊山院文書「霊山院境内菩提樹植附絵図」にまでさかのぼり、絵図では霊山院の裏に聳える山に「鐘岳」(かねたけ)と明記していることをつきとめている。
さらに、霊山院一帯の小字(山字)名が「鐘岳」であることも調べ上げ、霊山院背後の463㍍独標を「金嶽」(鐘岳)であろうと推察している(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』(奥武蔵研究会、2004年)。
町田氏の調査結果は、私の説を裏付ける強力な証拠であり、今後「平萱の三角点」を金嶽とする通説は撤回して欲しいものだ。
ついでに紹介すると、2023年に公表された「埼玉県指定天然記念物 古寺鍾乳洞調査報告書ー地質・動物・植物」(小川町教育委員会)でも都幾山と金嶽(鐘嶽)を混同しているのは問題だが、霊山院背後の463㍍独標を「金嶽」であるとしている。
すなわち、「古寺鍾乳洞は、小川盆地の南西、ときがわ町との境にある標高463㍍の都幾山(鐘嶽)や標高539.4㍍の三等三角点のある山(平萱、風早山と呼ばれる)付近から流れる沢水を集め北側に流れ下る金嶽川に沿った谷に開口している」(「古寺鍾乳洞調査報告書」5頁)。
ところで、金嶽と漢字表記する場合、読み方は「かなたけ」であるのに対し、鐘岳と記するときは、読み方が「かねたけ」となるのは興味深い。
最後に、金嶽の沈鐘伝説を紹介しておくことにしたい。
先の『氷川の里 上古寺』(1985年)によれば、金嶽の上古寺側の沢を金嶽沢ないし釣鐘沢と呼んでいる。
昔、金嶽の頂上には慈光寺の鐘楼があり、鐘が釣ってあったという。
ところが、あるとき、この釣鐘が落ちて、金嶽沢に埋まってしまったと伝えられている。
また落ちた鐘は、源頼朝が寄進したもののようであったという。
このような伝説は各地に伝えられており、「沈鐘伝説」の一つといわれる。
最後になるが、最近のネット記事によると、境界尾根上の463㍍独標(=金嶽)に「都幾山」の私設山名表示板があると同時に、その西側の462㍍独標山頂の立ち木に「育代山」(いくよやま)の名を書いたテープが貼られているようだ。
「育代山」の名は、ネットを通して急速に広がっているようだが、これはハイカーのつけた仮称であり(命名の根拠を知りたいものだ)、地元の呼称ではないことに注意喚起しておきたい。
さらに、金嶽(463㍍独標)北のピークに410.3㍍4等三角点が新たに設置された。
この三角点の点名が何と「金嶽」である。
このような安易な点名が、金嶽の位置混乱をさらに加速化するのではないかと懸念している。
平萱の三角点(風早山)(たいらがやのさんかくてん・かざはややま)
小川町とときがわ町との境界尾根をさらに西に進むと、冠岩で腰上の赤木からの巡礼街道が合流する。
なおも境界尾根を西走すると、539.4㍍の3等三角点峰に到達する。
ここは、小川町腰越(腰上)・上古寺と、とときがわ町西平との境界である。
この山について長年、金嶽の命名がハイカーの間で広く流通していたが、それが誤りであることは既に述べてきた。
では、正しい山名は何だろうか。
まず北側の小川町腰越の腰上(赤木)では、三角点のある付近(小川町側)の小字名が「平萱」(たいらがや)であることにもとづき、「平萱の三角点」と呼んでいる(三角点の点名も「平萱」)。
では、ときがわ町西平ではどうなのだろうか。
町田尚夫氏は『新編武蔵風記稿』比企郡平村の条に「風早山 西北なり」とあるのを踏まえ、三角点所在地のときがわ町側の小字名を調べたところ、「風早山」であったことを突き止めている。
町田氏は、ここから平萱の三角点の呼称を「仮称・風早山」としても無理はないのではないかと慎重に述べておられる(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』奥武蔵研究会、2004年)。
しかし、古い地誌と小字名が一致すれば、もはや仮称と謙遜する必要はない。
既に「平萱」「風早山」の名は、公文書でも使用されている。
「古寺鍾乳洞調査報告書」(2023年)で、「標高539.4㍍三等三角点のある山(平萱、風早山と呼ばれる)」と明記されているのである。
こうなると、539.4㍍3等三角点峰は、小川町側(腰上)では「平萱の三角点」、ときがわ町西平側では「風早山」と呼称してると考えて間違いないようだ。
とくに、古い地誌に当たり、さらに西平の小字名まで調べて照合した町田氏の功績は高く評価されるべきである。
山名を確定するということは、これほど重いものであり、古い地誌、小字名、地元での呼称調査にもとづき慎重に行うべきである。
ハイカーが好き勝手に名称を付けて、広めることなどあってはならないことなのである。
碑原峠・七重峠(いずれも地元呼称なし)
「平萱の三角点」(風早山)西の梅沢ヤツをつめ、小川町腰上の赤木からときがわ町大野の七重に越える峠は、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(1954年)以来、碑原(ひばら)峠と記載されていた
しかし、「碑原」は「平萱の三角点」(風早山)南方斜面(ときがわ町西平)の小字名であるが、赤木から七重に越える峠とは位置がやや離れている。
赤木(腰上)から七重(大野)に越える乗越しの大野側の小字名は「赤岩」である、
さらに赤木(腰上)・七重(大野)の両集落で聞き取りを行っても、峠名は無名だった。
これらの事情をふまえ、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』から碑原峠の名も消去されている。
それに代わり、七重と赤木を結ぶ峠道を都幾川村では「林道七重峠線」と呼んでいた。
この「七重峠」はどこを指すのか当時(1987年)は不明だった。
しかし、それが七重と赤木との峠よりも、ずっと西側の堂平山からの支尾根上の峠を指すとは、当時は想像さえできなかった。
新「七重峠」への布石は、同峠がトレッキングコースの重要ポイントとしてデビューする2005年の遙か前に打たれていたということなのだろうか。
それは考えすぎで、都幾川村(現・ときがわ町)は当初、赤木から七重に乗っ越す峠に「七重峠」の名を暫定的に与え、「ときがわトレッキングコース」(慈光寺→霊山院→七重→七重峠→松ノ木峠→堂平山)ができた2005年以降、現在の位置に七重峠の名を移したのだろうか。
ときがわ町役場に経緯を聞きたいものである。
慈光寺裏参道(奈良坂)
先に述べたように、ときがわ町西平にある慈光寺は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に全盛を迎えた。
今でこそ、西平からの参道が表参道とされているが、小川町上古寺は慈光寺の北側からの登り口に当たっていた。
金嶽川に沿って沿って上古寺の集落を奥に進むと「出口橋」があり、ここから慈光寺にいたる16丁の山道が慈光寺の裏参道「奈良坂」である。
出口橋を渡った右手の人家が薬師堂跡とされている。
出口には慈光寺登山を前にして身体を清めた際に衣服を掛けたという「袈裟掛岩」が残されていたが、河川改修のため、取り払われてしまった。
柳沢に沿った道から道から離れ、右に登り始める分岐に「右 都幾川村慈光寺及霊山院に至る約千六百米、左 都幾川村石打橋に至る山道約千米」と記された道しるべがある。
昭和30年(1955)2月に古寺青年団の建てたものだが、毎年春になると、白装束の巡礼が列をなして奈良坂を登っていったという。
『武蔵国郡村誌』の比企郡平村の条に、「北方上古寺より登るを奈良坂と云う。往時数千株の桜あり、花時爛漫美観を極むと云う」とあるように、この坂道には昔、桜並木があったと伝えられている。
内田康男氏は、このことから奈良坂の名称についても、奈良の吉野の桜を模したものかも知れないとし、奈良坂の名もそれに起因するものかも知れないと推察されている(『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
私は、むしろ「なるい(緩やかな)坂」から転訛してして「ならさか」の名が生まれ、それに「奈良」の名を当て字したと考えている。
奈良坂を登りつめ、ときがわ町との境界尾根に飛び出したところに「比丘尼塚」(びくにづか)と呼ばれる塚が現存している。
現在は慈光寺方面から延びてくる林道の終点にあたるが、薄暗い森林のなかに塚の跡があり、三基の庚申塔等がさびしく並んでいるに過ぎない。
この塚には、比丘尼にまつわる次のような秘話が伝えられている。
上古寺に伝えられている伝説はおおむね以下のような内容である。
慈光寺に昔ある高僧がいた。
あるとき、この僧をたよって比丘尼が慈光寺に登っていった。
だが、慈光寺は女人禁制だったので、いままでの晴天がうそのように悪天となり、たちまち黒雲となって火の雨が降ってきた。
やむをえず、比丘尼は今のところまでようやくたどりついたが、そこで力尽き、命が絶えてしまったという。
そこで塚を築き、祀ったのが今の比丘尼塚であるという。
ある説によれば、比丘尼は、その高僧の母であったという(『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)より。
巡礼街道
館川に沿った腰上(腰越)最後の集落・赤木に「ショウジバ」と呼ばれる屋号の家がある。
1987年当時既に廃屋になっていたが、「ショウジバ」という名は精進場から転訛したものであろう。
このショウジバが、赤木から霊山院にいたる巡礼街道の入口である。
はじめは草地の急坂であるが、樹林帯に入ると、やや勾配が緩んでくる。
途中、上古寺小門に越える古い峠道を左に分け、右に「七曲り」と呼ばれる急坂を登る。
まもなく右から合流する涸沢(「滝尾」の名がある」に出て、掘り割り状の道を急登するようになる。
「平萱の三角点」(風早山)北側の鞍部に出ると、林道および士峰山からの尾根道と合流する。
ここでは、「平萱の三角点」(風早山)に直登する尾根道から離れ、同山を北から巻く林道を進む。
林道を少したどれば、小川町上古寺とときがわ町西平の境界尾根である。
境界尾根の北側をほぼ水平に巻きながら進み、「慈光七石」の1つである「冠岩」付近で境界尾根から離れ、南東に霊山院に進むハイキングコースに合流する。
都幾川村教育委員会編「慈光寺と伝説」(金井塚良一編『慈光寺』人物往来社、1986年所収)によると、「かつて慈光寺の修験僧のうちの行徒、すなわち修験の僧たちは、秩父の峰を廻り、富士山頂を跋渉して行を修めた。それらの行徒たちは、回峰を終わって帰山するとき、この冠岩まで来て法螺を吹き鳴らし帰山を告げるのを習わしとした。これを聞いた宗徒たちが、この岩まで出迎えに行き、そこではじめて行徒たちは、冠を解いて帰坊した」とある。
巡礼街道は、つい15年ほど前まで(調査は1987年であるので、2025年からは53年前)腰上地区と霊山院を結ぶ道として利用されていた。
腰上地区は小貝戸を除き、大半が霊山院の檀家であった。
赤木では、8月17日に行われる霊山院のお施餓鬼の法事に際し、檀家の人々が巡礼街道と旧都幾川村大野の七重地区と結ぶ峠(従来、ハイカーの間では碑原峠と誤称されてきた。実際には名称なし)からの二手に分かれて霊山院に向かった。
そこで、お施餓鬼の1ヶ月程前にあたる7月15日に、赤木の集落総出で道の草刈りに出かけた(戦後は5~6人が当番となって行った)。
正月4日は年始参りの日で、この日、霊山院の住職が巡礼街道をくだって檀家を回ったという。
(略図)士峰山・雷電山付近略図
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雷電山(らいでんやま)
金嶽川とそれに沿って走る県道西平小川線の西側に、上古寺の雷電山から士峰山にいたる顕著な尾根がある。
しかも、この尾根筋は何と平萱の三角点(風早山)まで延々と延びている。
私が1986~87年頃に上古寺や腰越、青山、そして旧玉川村日影などの丘陵に注目したときにも、関心はもっぱら御岳山や大峰、行風山、雷電山、さらに巡礼街道などに集中していた。
上古寺の雷電山や士峰山は関心の対象外であったというしかない。
ところが最近では雷電山は「古寺山」と呼ばれ、士峰山から平萱の三角点(風早山)にいたる長大な尾根がヤブ山好きにより頻繁に歩かれ、山名表示板や山名を書いたテープが付けられているようである。
その中には平気で誤った山名を書いたものが少なくない。
そこで、以下主に『氷川の里 上古寺』を参考にしながら、雷電山・士峰山について述べるとともに、古寺砦跡(現存していない)や松郷峠、松郷峠旧道の芭蕉句碑、上古寺の鎮守・氷川神社と神事「エンエンワ」、さらに雷電山の登り口に近い下古寺の「古寺鍾乳洞」について解説を加えたい。
雷電山(280.1㍍4等三角点。点名は「向山」)に登るためには、小川町駅前から東秩父村方面に行くバスに乗り、「パトリアおがわ」バス停で下車。
小川町総合福祉センター(パトリオおがわ)から矢岸橋で槻川を渡り、眼前の腰越と下古寺境界尾根の末端に取り付けば良い。
もっとも、雷電山~士峰山~ショウジバ(赤木)に行くだけなら行程に余裕があるので、松岡醸造を経由して、下古寺の鎮守・天神天満宮をへて、今は入口が鉄柵で閉鎖されている下古寺の古寺鍾乳洞開口部を見てから、その先で尾根にとりつく小道を探しても構わない。
雷電山(上古寺池田)は既に上古寺の領域である。
山頂には山名から想像される雷電神社の痕跡は何もない。
しかし、もともと山頂には落雷を防ぐ目的のための雷電神社の小祠が祀られ、江戸末期には雨乞いも行わていたようである。
だが、明治の神社統合により、雷電神社は村社(鎮守)の氷川神社に合祀され、雷電山の小祠は取り払われた。
今は雷電山の名のみ残る展望のない寂しい山だが、ハイカーの間では雷電山よりも「古寺山」の名の方が一般的である。
山頂にも古寺山なる山名表示版があるようだ。
しかし、古寺山なる呼称が果たして雷電山の別称として地元で通用しているかどうかとなると、極めて疑わしい。
かつて雷電神社が祀られていたからといって、何の変哲もないヤブ山に果たして「古寺山」なる名をつけるだろうか。
おそらく「古寺山」はハイカーのつけた便宜的な仮称で、「古寺山」の私設山名表示板の写真がネットを通じて拡散したのではないだろうか。
その意味で、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』が雷電山(古寺山)とせず、雷電山のみの記載しているのは正しい判断といえる。
士峰山(しほうざん)
雷電山から西南にいくつかのピークを越え、達した289.8㍍4等三角点峰。
三角点の点名は「西ノ谷」である。
山麓に士峰山高福寺がある。
高福寺は禅宗臨済宗派、西平の霊山院の末寺で、山号は前記のように士(侍)峰山である。
山麓の寺の山号を山名としていることから分かるように、士峰山は高福寺の裏山として密接な関係があり、高福寺から明瞭な道が山頂まで通じている。
そのため、霊電山から士峰山にたどり、高福寺へ下りたあと、上古寺の里をのんびり散策し、鎮守・氷川神社に寄りながら、下古寺をへて小川町駅まで歩いても良い。
ところで士峰山の山頂には、瓦屋根の木の堂宇があり、そのなかに高さ1㍍弱の畠山重忠の墓といわれる五輪塔が祀られている。
堂宇の前には2本の石碑があり、そのうちの1つには「秩父六郎荘司畠山重忠之墓」と刻まされている。
堂宇の中の五輪塔は、権現塚ないし六郎荘司塚と呼ばれ、士峰山山麓の小久保家により祀られてきたという。
内田康男氏が引用している『上古寺村村誌』(1886年)には次のような記事がある。
「畠山重忠の祖重広の弟、重遠は、最初秩父郡高山に住んで高山三郎と称した。後当地上古寺に移って小久保晏関入道と称したという。その後元久2年(1205)重忠戦死により重忠三男重は、密かに重忠の遺髪を携え、重遠を頼って上古寺の地に至り、丁重に埋葬し五輪塔を築いて菩提をとむらい供養したという。(中略)又一説には重忠の遺髪を携えたのは、重忠の一従者であったともいわれる」(『氷川の里 上古寺』155頁)
なお、289.8㍍4等三角点標石は、畠山重忠墓の西側にあるが、ヤブの中に埋もれているので探しづらい。
士峰山の隣のピークは315㍍独標で、標高は士峰山よりも高い。
その後、縦走を続けるが、枝道や枝尾根が縦横に派生する。
ようやく平頂稜の338㍍独標につくと、そのまま西に尾根伝いに赤木のショウジバに下りる踏跡(尾根の途中で南にくだり、赤木のショウジバと上古寺小門を結ぶ古い峠道に出る踏跡が分かれる)と、南に折れ、328.4㍍4等三角点(点名「千本立」)をへて、平萱の三角点(風早山)に登る尾根とに分かれる。
一般には尾根道ないし沢道経由でショウジバに下り、赤木から館川に沿って館、小貝戸など腰上の集落をへて、切通橋のバス停に向かった方が無難である。
氷川神社と神事「エンエンワ」
下古寺から県道西平小川線を登っていくと、進行右手にこんもりとした小高い森が見える。
そこに上古寺の鎮守(かつての上古寺村の村社)氷川神社(上古寺宮ノ平)が祀られている。
神社入口の鳥居を抜け、参道を登ると、境内に入るが、まず右手に社務所があり、正面奥に拝殿と本殿がある。
神社は杉や檜の林に覆われ、荘厳な雰囲気で神域に入った感を深くさせる。
地元では、氷川神社を「明神様」と呼び、親しまれているが、明治初年の社名改称の前には「氷川大明神」と称していたからであるという。
起源は定かではないが、7世紀の中頃(759年)、役小角(えんのおずぬ)が初めて関東に下向したとき、足立郡氷川神社(現在の大宮市の氷川神社)の分殿として祀ったのが始まりであるという。
氷川神社では、オクンチの日(10月17日)に例大祭が行われる。
この日に行われる神事「エンエンワ」は非常に珍しい行事であり、以下、内田氏の説明にしたがい、神事の流れを追っていこう。
オクンチの日(10月17日)に例大祭の神事が行われ、それが終了すると、次に午後3時頃にエンエンワに移る。
まず白装束の男児2人に神饌の膳が手渡される。
神饌は、榊(または青木)の葉にひとつまみの赤飯とシトギをのせ、洗米と塩、カヤの箸を添えたもの。
次に2人の男児は、氷川神社本殿や合祀された18の神社やその他の神社に神饌の献膳を行う。
神饌の献膳が終わると、いよいよ「中道(なかみち)廻り」の儀式になる。
氏子一同が集まり、神社に拝礼を行ったあとに、先達を先頭に列をなして神社を取り巻く中道に入る。
そして全国60余州の神々の名を唱えるたびに「エンエンワ」と唱和して、神饌を投げ入れる。
中道を一周すると、神事が終了して、例大祭とエンエンワが終わったあと、氏子は直来を行い、酒を酌み交わす(以上、『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年、33~36頁にもとづく)。
松郷峠(まつごうとうげ)と芭蕉句碑
右に氷川神社の森をみて、車の通りが激しい県道西平小川線を登っていくと、右手に光兆産業(株)古寺砕石工場の広大な採石場が広がってくる。
荒涼とした光景で、目を覆いたくなるが、車道が砕石工場寄りに大きくカーブする個所で、かつての旧道が近道として辛うじて残っている。
旧道を歩き、再び車道に飛び出す少し手前の林のなかに芭蕉句碑が寂しく建つ。
内田康夫氏によると、この芭蕉句碑は幕末の弘化3年(1846)に上古寺の三氏が建てたものであるという。
句碑の表には「蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな」と刻まれている。
興味深いのは、句の下に「右山王天寺左八王寺大山道」とあることだ。
町田尚夫氏は「山王」をときがわ町西平の萩日吉神社、「天寺」を子ノ権現、「八王寺」を竹寺、「大山」を神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社であろうと推測している(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』(奥武蔵研究会、2004年)。
そこから、この句碑が寺社への道しるべを兼ねていたことが分かる。
松郷峠は、かつて各神社仏閣への交通の要所として栄えた場所であったのであろう。
道しるべの文字は思い切って太い字、対照的に句は上部にさりげなく彫られており、見事なコントラストを見せていいる。
句の選定も、かつてのこの地にふさわしい。
『芭蕉の句を歩く』(さきたま出版会、1983年)の著者・小林甲子男氏も、「この碑は埼玉でも名碑の中に入るであろう」と賞賛されている。
しかし、新道ができ、車の通行量が増えたうえ、巨大な砕石工場の広がる荒涼たる光景に、往時の松郷峠の面影は全くない。
ちなみに、松郷峠は、芭蕉句碑から再度車道に出て、少し登った小川町とときがわ町との境である。
古寺砦跡(ふるてらとりであと)
松郷峠へ向かう県道の西側に無残な姿をみせている光兆産業(株)古寺砕石工場。
この砕石工場により削られ、消え去ってしまった山が「古寺砦跡」である。
古くは「城山」とも呼ばれていた山だが、1988年に採掘前の発掘調査が行われた。
それによると、慈光寺裏街道を見下ろす山頂部に小規模な郭を2つ南北に並べ、南の郭先の尾根の先端に堀切があり、北の郭には「のろし台」とみられる焚火土壌が発見された。
きわめて単純なつくりで、急ごしらえでつくった砦であることは歴然であった。
後北条氏は天文15~20年(1546~1551)にかけて、当時勢力を誇っていた慈光寺を攻略した。
この慈光寺攻略は後北条氏の重臣であった松山城主・上田氏により行われ、慈光寺は重要文化財の開山塔が被害に遭うなど深刻な打撃を受け、勢力を失った。
以上から、古寺砦は上田氏の慈光寺攻略の最前線の砦として急造されたと考えられる。
そして、天正15年(1590)の豊臣秀吉によ小田原城攻略の際、上田氏の居城・松山城も落城。
出城の古寺砦も機能を失い、荒廃したのであろう(梅沢太久夫『埼玉の城 改訂版』(まつやま書房、2024年)。
また、内田康男氏は古寺砦とその北方の腰越城(城山)を結ぶ間道の存在を確認し、古寺砦は腰越城の出城的性格をもっていたのではないかと推測している。
2つの城を結ぶ間道は、上古寺の東光寺付近から雷電山~士峰山の尾根(峠)を越え、腰越の矢岸にいたっている。
この峠の入口付近に「木の城」という屋号をもつ吉田家がある。
昔、古寺砦から腰越城への移動は昼を避け、夜のみであったという。
暗闇では歩行が困難なので、いつも使者は吉田家でかがり火をもらい、無事に腰越城にたどりつくことができたという。
この功績により、吉田家は古寺砦の主から「木の城」の屋号をいただいたという。
腰越城は松山城主・上田氏の慈光寺攻めにあたって最前線をなしており、腰越城主・山田氏は上田氏の重臣でもあった。
こうした関係からも、松山城→腰越城→古寺砦という命令系統で、慈光寺攻略を行ったと考えられる。そしえ腰越城とその出城である古寺砦との間には頻繁な往来があったと想像できる(『氷川の里 上古寺』氷川神社)。
松山城主・上田氏の慈光寺攻めの北側の最前線が「古寺砦」であったとするなら、南方の最前線は、ときがわ町西平字大築の「大築城」であった。
古寺鍾乳洞(ふるてらしょうにゅうどう)
以下の古寺鍾乳洞に関する記述は、「埼玉県指定天然記念物 古寺鍾乳洞調査報告書」(埼玉県比企郡小川町教育委員会、2023年)にもとづいている。
古寺鍾乳洞の洞口(開口部)は、県道西平小川線に沿い、金嶽川の左岸の標高116㍍、平野(小川盆地)と山地との境界である小川町下古寺字坂下地内に存在する。
近くに下古寺の鎮守である天神天満宮があり、外秩父山地の末端である士峰山~雷電山の尾根が平野に落ち込む部分の東側にある。
古寺鍾乳洞をつくる石灰岩塊の大きさは、南北約250㍍、東西約50㍍。
石灰岩塊の周囲は砂岩、泥岩などが取り囲んでいる。
同じ規模の石灰岩塊は上古寺周辺や腰越、金嶽川の上流にもみられるが、洞窟として発見されているのは古寺鍾乳洞だけである。
鍾乳洞の入口には1基の石灯篭があるだけで、開口部は鉄格子で閉ざされ、今では訪れる方もいない寂しい有様であるが、最近の調査によれば鍾乳洞の内部はかなり広く、しかも複雑である。
開口部(入口)は天井高約2㍍、幅約1㍍しかなく、鍾乳洞内も天井高2~4㍍と比較的狭いものの、幅は広いところでは15㍍もあり、横穴型の形状である。
総延長も約220㍍もあり、最新の調査によれば、洞内は標高の高さにより、3つのレベルに分けられることが判明した。
もっとも標高の高い第1面は入口から続く面で、標高約115.0~118.2㍍。
入口から東北東に延びる洞と西南西に延びる洞の2つとその間に位置する南北に延びる平坦な洞がある。
第2面は標高約112.4~115.0㍍の最も発達した部分で、洞の入口から最奥手前にかけてほぼ平行に北東ー南西に延びる3つの洞がある。
もっとも標高の低い第3面は標高約110.7~112.4㍍で、洞の最北端(最奥部)に当たり、ここに水が溜まったプールがある。
これらの3つのレベルから構成される洞内の各部分には固有の名称がつけられていて、その数は23にのぼる(詳しい構内図は報告書の25頁を参照)。
このように、入口の小ささからは想像もつかない広大で複雑な構成の鍾乳洞だが、さらに洞内には「鍾乳管(ストロー)」(天井や洞壁から下に向かって成長するもので、管状で細長い)、「石柱」(断面が丸い形状の石柱)、「流れ石(フローストーン)」(洞壁や洞床を流れる水から炭酸カルシウムが沈殿し、成長した二次生成物)など石灰岩の生成物がいたるところにみられ、鍾乳洞特有の奇観を呈している。
これまで駆け足で紹介したところからも、一見する価値十分な鍾乳洞だが、既に江戸時代から注目されていたようで、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』(文政11年(1828)完成)比企郡下古寺村の条には、「岩窟」(がんくつ)として紹介されており、異例の長文を要している。
幸い、「報告書」では新字体を用い、カタカナをひらがなに改め、句読点等をつけている。さらに「報告書」ではルビを振った難読漢字をあえて常用漢字やひらがな等に書き直し、以下引用しておきたい。
「村(引用者注;下古寺村)の西方の麓にあり。窟の口はいとせまく、幅三四尺(約0.9㍍~1.2㍍)ばかりなり。その内へ四五間(約7.3㍍~9.1㍍)程も入れば、やや広くして立することを得、そこに窓のごとき小なる横穴ありて日光を漏せり。又下の方に一の横穴あり。そこはいと暗くしてその深さ知るべからず。又四五間歩すればようやく広き所に至る。左右に岩そばだちておよそ三四間(約5.5㍍~7.3㍍)四方もあるべし。かの岩石の間には石鍾乳多く生ず。又岩間より清水したたり出て盆地の如き所あり。土人これを窟中の池という。これより岩窟又せばまり屈曲して三十間(約54.6㍍)程入れば鍾乳殊に多し。それより先の止まりを極めしものもなしと。この窟は銅鉛な掘りし穴ならんと土人等いへり。このほかこれに類せる小窟近村に一二所あれど、させるものにあらざれば省きてのせず」
微に入り細をうがつ描写で、先に紹介した洞内の様子と比較しても、一致する点が多々ある。
明治期に入ると、明治23年(1890)の内国博覧会に地元住民が石筍を出品するため、入口を広くした頃から有名になったという。
大正期には大正2年(1913)に刊行された大河尋常小学校が教材としてまとめた大河村の郷土誌の一節に、「岩穴」として紹介され、「近年見物の徒甚だ多し」と書かれている。
また、大正6年(1917)年の『小川案内』でも、鍾乳洞として掲載されている。
昭和9年(1934)には、旧大河村に古寺鍾乳洞保存会が設立され、同会がその後、保存・観覧に向けた活動を長らく担ってきた。
昭和11年(1936)3月、埼玉県の天然記念物に指定されたが、指定理由は以下のとおりである。
「洞窟内は高低屈曲多く、且洞窟中には鍾乳石及石筍の存するのみならず、水蝕による岩壁の状況奇異にして、すこぶる変化に富めり。学術研究の資料として保存価値を認めたるによる」
これを受け、保存会には埼玉県から保存奨励金が交付され、入口前の脱衣場・敬鎮門(入口)・灯篭・鳥居・寄付連名標示板・指導標などが建設されている。
その他、洞内の整備も行われ、三寸角の松材210本が購入されている。
「報告書」では前記の木材の使用先(具体的な工事内容)は不詳としながらも、「通路のぬかるむ箇所に設置して木道状に整備したと考えられる」と指摘している。
戦後になっても、昭和35年(1960)に県費・町費の補助を受け、県道脇に石製の標示板が設置されるとともに、洞入口にコンクリート製の門扉がつくられ、その他観覧人心得と解説板、内部概要図と注意看板などが設置された。
それ以降は基本的には整備等に伴う大きな現状変更はなかったという。
昭和45年(1970)に保存会が解散し、管理権が地主に返還された。
しかし当時の状況は報告書を引用すると、「昭和17年に作製した階段、はしご等がくさったり、ヘドロ状のものがたまったりしている所がある」というかなり劣悪なものだった。
結局、管理上の問題や観覧者への対応が難しいとして、一般の縦覧が中止となった。
こうして古寺鍾乳洞は1970年以降、長きにわたって閉鎖されてきたが、地権者の逝去により、遺族から鍾乳洞の土地が小川町に寄贈され、2019年度の予備調査を皮切りに、2020年度から3年かけて地質・動物・植物に関する本格的な調査がなされ、ようやく鍾乳洞の全貌と現状が明らかになった。
今後、部分的な公開と閲覧開始が期待されるが、洞内の施設の多くは戦前・戦中のもので、相当傷んでおり、洞内にもヘドロがたまるなど、かなり荒れている。
まずは現状の保存が最優先で、そのうえでかなりの大修繕を行い、見学者の安全対策を万全にするなどの措置をとらないと、部分公開にさえ到達できないだろう。
だが、修繕や安全確保対策は町の財政負担をはるかに超えるものである。
また、地元の保存会が解散して半世紀近くが経ち、人口減少と高齢化のなかで、地元の協力を得るのも難しいだろう。
そう考えると、鍾乳洞をせめて一目だけでも見たいと思いながらも、それはそう簡単にはかなわないという諦観にも浸っている。
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