「比企・外秩父の山徹底研究」第7回「笠山前衛の山々」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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(略図)笠山前衛の山々全体図

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概要

 比企・外秩父を代表する名峰・笠山(837㍍)。

 その笠山から北や北東に槻川の方向に3つの顕著な尾根が延びている。

 これらの尾根上には個性的な山が存在し、かつては、もちろん指導標はなく、地形図にのみに頼るマニア向けの山域であった。

 山頂や鞍部には信仰の跡を示す祠や馬頭尊などが残り、何もない山も実は秘めた伝説を残していた。

 3つの尾根は、左から(1)仙元山から観音山(中山)の尾根、(2)リュウゴッパナ(竜ヶ鼻)から物見山(複数)をめぐる尾根、(3)秩父郡東秩父村と比企郡小川町との郡界尾根(笠山郡界尾根)で、尾根上には「タカハタ」(高畑山・高畑山)、石舟山など伝説や信仰のある山々がある。

 (1)と(2)の間には御堂(萩平)川が流れ、(2)と(3)の間には帯沢川が流れ、(3)の右側を流れる館川とともに、いずれも槻川に注いでいる。

 以上3つの尾根上の山々を「笠山前衛の山々」と呼びたい。

 これらの尾根や山々は、ヤブ山好きの領域として長年にわたり楽しみを与えてくれた。

 ところが、開発の波はこれらの山々にも押し寄せ、観音山の尾根は、肝心の観音山が珪石採掘の結果、山自体が消滅。

 今は観音山は広大な珪石採掘場となり(秩父鉱業(株)御堂鉱業所)、採掘はまだまだ続いている。

 観音山を失うのと同時に、尾根は広範囲にわたり途切れ、尾根自体が登山価値を失ってしまった。

 リュウゴッパナの尾根も、林道御堂笠山線が尾根を乗っ越したり、尾根に沿って延びたりしているため、静かな踏跡をたどる楽しみは大幅に減少してしまった。

 最後まで残ったのが笠山郡界尾根で、いまのところ以前のままの姿を保っている。

 その結果、採石場を避け、いったん麓まで戻り、登り返し、再度途切れた尾根に取り付いたり、林道を歩いたり、尾根に移るなどの面倒を厭わない物好きな方以外は、腰越から笠山郡界尾根を登り、リュウゴッパナを往復したあと、観音山の尾根を仙元山までたどり、仙元山先の鞍部から東秩父村の皆谷(かいや)におり、バスで小川町に戻るコースを勧めたい。

 だが、消滅したとはいえ観音山(中山)は古い地誌にも記録され、地形図にもいまだに山名が記載されている名山であった。

 山名の起源となった古い伝説や信仰を秘めた観音山に対する鎮魂の意を込め、在りし日の観音山の姿を描きたい。

 観音山を採石業者に売り払い、消滅させてしまったことがいかに取り返しのつかない行為であったのかを再認識して欲しいものである。

 それでは北から観音山の尾根をたどり、次にリュウゴッパナの尾根、笠山郡界尾根をそれぞれ北し、最後に石舟山の雨乞い信仰を記録することで、この項を閉じたい。

393.2㍍三角点峰

 観音山の尾根は、東秩父山坂本の393.2㍍3等三角点峰(点名「坂本」)から始まる。

 山頂は、3等三角点標石以外何もない樹木に覆われた展望のない平凡な場所である。

 この何の特徴もない平凡な山に、いつ頃からか「地蔵岳」(じぞうだけ)なる名称がつき、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』にも記載されたことにより、今では一般のハイカーの間に広まって、既に固定した観がある。

 何と言っても、奥武蔵研究会の元会長であり、奥武蔵・秩父の山名採集や山名考証の第一人者であった藤本一美氏が自身の著書(『比企(外秩父)の山々』2018年6月1日 私家版)でも地蔵岳の名を採用していることが、393.2㍍三角点峰=地蔵岳の説得力を増している。

 藤本氏は、地元呼称を丹念に採集し、その一方で地元の呼称を無視したハイカーの勝手な命名(とくに奥武蔵に顕著)に対し、最後まで異議を申し立てていた。

 そんな藤本氏が採用しているくらいだから、何かの根拠があるのではないか。

 そう思いたいのだが、いくら考えても393.2㍍三角点峰=地蔵岳には無理がある。

 まず、私が1986年に山麓の大字坂本や山向こうの坊庭(大字御堂)で行った山名調査でも、地元では三角点峰は無名であった。

 ごく少数「三角点」と呼んでいる人がいたくらいであった。

 また、比企・外秩父の山域で地蔵岳以外に「岳」のつく山は、慈光寺周辺の「金嶽」と長瀞町井戸の「金ヶ嶽」以外存在しない。

 慈光寺裏の「金嶽」はあとで詳細を述べるが、慈光寺の僧の修験場となったことが山名と関係しているという特殊事情がある(狭義の奥武蔵には伊豆ヶ岳など「岳」のつく山があるが)。

 何の変哲もない300㍍強の里山に、あえて「岳」をつけるのだろうか。

 さらに『新編武蔵風土記稿』や『武蔵国郡村誌』『武蔵通志』など江戸期~明治期の地誌に「地蔵岳」の名はない。

 そして、山頂に地蔵はおろか、地蔵の跡さえ存在しない。

 要するに、地蔵岳の根拠は今のところないし、私が調査した範囲でも「地蔵岳」の名は地元で採集できなかった。

 それ以上にどのような経緯で地蔵岳の命名がされたのか、その経緯を知りたいものだ。

 可能なら藤本氏に直接伺いたいと思っていたが、残念ながら私が岩手から東京に戻る前年の2019年に藤本氏は急逝されてしまった。

 手がかりがないので、今のところ「地蔵岳」の名称は採用せず、393.2㍍3等三角点峰のままにし、括弧書きで「三角点」としておきたい。

 どなたか命名の経緯を知る方がおられたら、ご教示願いたいと思う。

 命名に説得力があると判断したら、本文や略図を修正したい。

坂本の坊主日待

 393.2㍍三角点峰の登り口にあたる東秩父村坂本で古くから行われている行事が、「坊主日待」である。

 その由来は以下のような伝説にもとづいている。

 江戸時代の文化年間(1804~1818)の頃、坂本の地に一人の雲水が現れ、堂ノ入の地にお堂を設けた。

 ところが、この坊主が村内の後家や娘に手を出すなど悪事を働いた。

 そこで思いあまった村人が新井ノ入と呼ばれる沢の奥に誘い込み、斬り殺してしまった。

 この坊主の殺された場所には、今でも坊主岩と呼ばれる大岩があるという。

 しかし、坊主が殺されたのち、村に凶事が続いたので、坊主のたたりとして恐れられた。

 そこで村人は殺された坊主の霊を慰めるため坂本の名家・田中家宅の大ケヤキの奥に若宮八幡を勧請し、毎年8月16日に「坊主日待」と称して、神官を頼んでお日待を行っている。

 もっとも、実際には坊主は悪事を働いたのではなく、地域にあるお堂に住みついたことを村人が許したことから、村人は坊主の人格を認めていた。

 むしろ、坊主が美男であったことから、村内の後家や娘が放っておかず、坊主のもとに入り浸っていた。

 そのため、この後家と娘に思いを寄せる男二人が私怨で殺したのが事実ではなかったかと田中家の当主の方(私が調査を行った1987年3月当時)は語ってくれた。

 そして、坊主を悪とすることにより、村内から殺人者が出たことに対し、正当防衛を図ったのではないかと述べておられた。

 その後、昭和の初めに殺された坊主が身に着けていたものが埋められているのではないかと、坊主岩付近を掘り返した人がいたが、何も出てこなかったという。

 坂本の人々は「坊主日待」と称して、殺された坊主の霊を欠かさず供養していたが、戦後の一時期、たまたまお日待の「宿」(当番)に当たっていた家がこのような迷信を嫌い、お日待をやめてしまった。

 ところが、その翌年、止めた家中が赤痢にかかってしまったので、坊主のたたりと恐れ、その人が言い出して、坊主日待は再開された。

 なお、坂本の鎮守・八幡大神社は建久2年(1191)創建とされるが、実のところ定かではない。

 例祭は当初旧暦の10月1日に行われていたが、昭和30~40年代に旧暦の10月15日に変更され、さらに新暦の11月第一日曜をへて、1987年現在、11月3日の祝日に行われている。

 当日、八幡大神社では、里神楽である岩戸神楽が舞われる。20座あるが、普通祭礼に付随し、決まった座だけ行う。

 この神楽は、話を聞いた当時の田中家の当主の祖父(冨士請の御師でもあった)が持ち込んだものという。

観音山(中山)

(略図)在りし日の観音山(1987年3月) 

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 393.2㍍3等三角点峰(地蔵岳?)は、坂本の分だが、その南の尾根上にあった観音山は大字皆谷(かいや)の分である。 

 現在、393.2㍍三角点峰から尾根を南下すると、まもなく広大な珪石の採石場(秩父鉱業(株)御堂鉱山所)にぶつかり、この先立ち入り禁止となってしまうようだ。

 御堂鉱業所は、393㍍3等三角点峰の次のピーク先あたりから始まり、460㍍独標付近まで広がっている。

 460㍍独標は後で詳しく述べるように、観音山の山頂に属しているとはいえない。

 しかし、採石範囲が観音山の北寄りから、観音山以南の460㍍独標手前まで広がっているということは、観音山は完全に消滅し、無残な採石現場が残るのみになっているということである。。

 御堂鉱業所の広大な採石場へは393.2㍍三角点峰側からくだるにしても、採石場から460㍍独標側に登るにしても、切り立った断崖であり、不可能であるといわざるを得ない。

 今後、珪石採掘対象となる「観音山鉱床」が残っている限り、採石は際限なく進むことになろう。

 そうなると、460㍍独標付近も安心とはいいがたい。

 現時点では、観音山の尾根を歩く場合、仙元山以南のみということになろう。

観音塔 

観音塔(写真)(1985年)

 ここで私が1985年から87年にかけて行った調査を踏まえ、当時の観音山の姿と観音山の名の由来となった観音塔とそれにまつわる伝説を述べ、今は亡き名峰・観音山への鎮魂としたい。

 幸い、最新の2万5千分の1地形図「安戸」(2016年測量、同年5月1日発行)を見ると、観音山とその周辺は前のとおり記載されており、珪石採掘により山が消滅し、平地化している現況は反映されていない。

 つまり、ありし日の観音山の姿を地形図上から想像することができる。

 これに私が1985~87年に訪れ、山麓で地名調査をした当時のかすかな記憶を加えて、観音山があった頃の山稜の姿を再現してみよう。

 観音山は特定のピークの名称ではなく、南北に細長い山稜の総称名であることを、まず理解しておこう。

 その上で、観音山の(かつての)範囲に入る前に山名の由来と観音岩について記しておく。

 観音山は地形図にも山名がずっと明記されているうえ、その他の市販地図類にも名が記されている。

 さすがに昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』では、正しく「観音山」について、「消滅した観音山付近は採石場通行不可。ほとんど平坦地形となっている」と正しく記載している。

 それはともあれ、これほど有名な山でありながら、観音山について具体的に記した文献は全く見当たらない。

 東秩父村役場ですら、何の記録も残していない。

 さて、存在していた頃の観音山には観音像はもちろん、観音像の名残り(例えば、台座の石積みや小祠など)すら全くなかった。

 では、なにゆえ観音山と呼ぶようになったのだろうか。

 さしあたり、いつものやり方として、古い地誌をひもといてみたい。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡皆谷村の条では、「観音山 岩山にして、村の東北なり。字中山にある」と簡単に記す。

 『武蔵通志』には、「中山(なかやま) 高八百九十尺。同上東は大河原村御堂に跨る。山頂に巨岩聳立す。高さ六丈余形。観音に似たり故に又観音山と云」とある。

 『武蔵国郡村誌』秩父郡皆谷村の項は、「中山 一名観音山。高さ八十九丈。周回本村限り。四町村の東方にあり、嶺上より二分し、東は御堂、西は本村に属す。樹木茂生す。北方より上る五町五十間。頂上に六丈余の巨岩聳立し、形状観音に彷彿たり。よって昔時より中山馬頭観音と称し、尊崇祈願する者多し」とかなり詳しい。

 3つの古い地誌からの引用から、観音山は別名・中山ともいい、中山という名称の由来は、山のある場所の小字(山字)名「中山」に由来すること。

 岩山であり、山頂に巨岩が屹立し、その形状が観音に似ていたために、古くから信仰を集めていたことが理解できる。

 しかし、南北に長い山稜の一番北にある展望の良い岩(二本木峠・大霧山方面の展望が素晴らしかった)以外、目立った岩はない。

 疑問を感じながら地元の皆谷(かいや)で尋ねてみると、観音の形状に似た岩(観音塔)は山頂ではなく、山頂より西側にくだった林のなかにあり、今では登拝する人も全くいないので、岩の所在は定かではないという。

 そこで、岩の所在を尋ねるべく、皆谷一の旧家である関口家を訪れた。

 その関口家で見せていただいた大正14年(1925)刊の関口児玉之輔著『松山城とその城主』には、観音山に関するもっとも詳しい記述がある。

 少々長いものの、全文を引用しておきたい。

 「中山というても今の人は知る人も稀であるが、観音山と言えば知らぬ人はない。この山の山腹に自然の奇岩が石碑のごとく突屹し、その岩上に南蛮鉄で出来た馬身一尺位の駒形と小社が安置されていた。これが中山馬頭観世音菩薩で、天正年間に松山城主上田能登守朝広が豊臣の軍勢に打破られ松山開城後御堂の浄蓮寺に隠れていたが、更に徳川の天下となり探索が厳しいので坊庭(御堂)から山越しにこの地に遁れた。その時に祈願を込められたということである」(引用者注:読みやすくするため句読点を入れるとともに、常用外漢字をカナに変えたところもある)

 関口家での聞き取りでは、戦前まで年に1回、旧正月の初午(はつうま)の祭りにあたって、神官が岩まで登拝し、祈願が行われていたという。

 その岩(=観音塔)は、「中山観音」と刻まれた古い石碑(中山馬頭観音入口の碑か?)のある小安戸バス停から人家の脇を抜け、小沢(観音山沢)に沿ってジグザグに登ること約40分。

 稜線に出るすぐ手前の樹林内に赤いチャート(角岩)の岩を屹立させていた。

 高さは約5㍍。岩上や周囲には赤松が茂り、岩の頂上からは大霧山方面が臨まれる。

 大岩の上に1.5㍍ほどの小さな岩を乗せ、横から眺めると岩の上に観音像を安置したように見えなくもない。ただし、岩上に小社や鉄製の駒形は見当たらなかった。

 観音塔は、下から見上げるよりも、むしろ上から見下ろした方が観音像が祀っているように見えると話してくれた皆谷の古老の言葉を思い出した。

 山中で出会った山仕事の古老によると、松山城主上田能登守朝広が観音塔上に見張りを立て、追っ手が来ないことを確認して小安戸に邸を築いたという。

 その邸跡が、県指定天然記念物「皆谷のサカキ」のある駒形稲荷(関口家敷地内)であるという。

 皆谷の関口家当主(1986~87年当時)によると、かつて皆谷は秩父への通りに当たっており(皆谷~粥新田峠~三沢~秩父)、馬方が多く、物資を大量に運ぶ役馬をたくさん飼育していた。

 そのため、馬を大事にしたことが中山馬頭観音の信仰へとつながっていったのではないかという。

 戦前まで、旧正月に初午の祭りとして祭礼が行われ、神官が観音塔まで参拝し、祈願が行われていた。

 参拝者は参拝の証として、観音塔近くの松に紙を結んだという。

 だが、当時から道が悪く、地元の10人くらいが先頭に立って、道普請をしながら登ったともいう。

 観音山(観音塔)には、戦国時代の松山城主・上田能登守朝広にまつわる伝説が残されている。

 先の記述と重複するが、あえて掲載しておこう。

 かつて小田原の後北条氏の重臣であった松山城主・上田能登守朝広が、豊臣秀吉の小田原征伐の折、居城である松山城も落城の憂き目を見、逃れることとなった。

 御堂(東秩父村)の浄蓮寺にしばらく潜んでいたものの、そこを引き払い、御堂の坊庭から観音山を越え、皆谷に落ち延びた。

 その途中、観音塔に見張りを立て、追っ手が来ないことを確認したうえで、皆谷の小安戸に館を建てて住み着いた。

 この館跡が、皆谷のサカキのある駒形稲荷である。

 その後、上田氏は徳川家康のきびしい追っ手から逃れるため、もともとこの地に住み着いていた松山城の城代家老・関口氏の姓を引き継ぐこととなった。

 現在の皆谷の名家・関口家は上田氏の末裔であるという。

 関口家の当主によると、「中山」の名称については、「皆谷の中ほどにあるからではないか」ということであった。

 次に、観音山の範囲について考察しよう。

 観音山は小字(山字)名であり、観音塔付近を指す。

 そして南の460㍍独標付近には高畑山の小字(山字)名があることなどから、県指定の天然記念物ヒカゲツツジの群落(1987年当時、盗抜のため、一株しか残っていないとのこと。観音山が消滅する以前に、ヒカゲツツジの群落は全滅していたのかも知れない)のある岩壁を北の端とし、458㍍独標のある細長い山稜を頂上としつつ(頂上の北端が先の展望の良い岩。ヒカゲツツジ群落のある岩壁は、それよりやや北の御堂側にある)、地形図の観音山の「山」付近までと暫定的に定義しておきたい。

 つまり、2016年2月測量、2016年5月1日発行の2万5千分の1地形図「安戸」(最新版:2024年11月現在)で「観音山」と書かれた範囲が、縦に細長い観音山の範囲をほぼカバーしているといえる。

 といっても、ヒカゲツツジ群落のあった観音山最北の岩壁、展望の良い岩(展望岩と暫定的に仮称)、458㍍独標、山頂南端の岩場すべてが珪石の採掘により破壊され、消滅した現在、観音山の範囲を定めること自体、所詮むなしいことである。

 1985~87年の皆谷での聞き取りでは、観音山について、さらに興味深い話を聞くことができた。それから40年近く経ち、観音山が消えた現在、地元でも覚えている方が少なくなったので、以下記しておきたい。 

カアブリ山

 観音山の展望岩下の斜面付近の総称名。

 北風の吹きさらしとなっていて、あまりにも寒く、思わず顔を振ったので、この付近を「カアブリ山」と呼ぶようになったという。

 ただし、カアブリ山の名称が先にあり、それに付会した話であろう。

 奥武蔵の有名な顔振峠(かあぶり峠)と同じ呼称である点が興味深い。

鷲の巣

 展望岩のさらに北にある観音山の最北にあたる珪石の絶壁(ヒカゲツツジの群落があった)には「鷲の巣」と呼ばれる大きな穴があいていた。しかし、不気味なので、誰一人入ったことがなかったという。

駒形稲荷

 月影が煌々と冴えわたる深夜、突然静寂のなかを村人の夢を破って鈴の音が響いた。

 それは、あたかも一群の旅人が月光を頼りに山越えをするかのような光景だった。

 しかし、それは鈴の音のみで、人馬のそれらしい声は聞こえなかった。

 不審しつつ夜が明けて起き出てみれば、馬蹄の跡もなければ、馬の姿もなかった。

 益々不思議に感じて、隅々まで調べたら、観音山の観音塔の上にあった南蛮鉄製の駒形が関口家の邸内稲荷の祠の横に鎮座していた。

 ここから駒形稲荷の名が生れた。

 以上の伝説について、関口家に残る関口児玉之輔氏の著書『郷土誌 外秩父槻川村』(日本深勝倶楽部、1928年)所収の「駒形の夜雨」(馬頭稲荷の森)によると、以下のように書かれている(引用者注:文意を変えない範囲内で、現代風に表現を言い換えている箇所が多々ある)。

「駒形は中山の岩上にあったのであるが、昔ある月煌々たる真夜中に人声がしないが、駅馬の鈴の音高くシャンシャンと聞こえたので、付近の人の眼を驚かせた。その翌朝、村人はここぞと思う所を調べたが、馬の足跡はあるが、影もない。不思議にも中山の岩上に御座された駒形が稲荷神社の脇に安置されていたという。以来、霊験ありと村人の信仰を受けている。

 この口碑は古老のよくするところであるが、事実はこの時に上田能登守朝広が浄蓮寺から遁れてこの地に隠れた時であったのである。以上は元和年間(1615~24)のことで、彌太郎屋敷はここにできたもので、享保頃(1716~36)には庭園も広く、稲荷社の横に小書屋を置き、自芸軒という名を付けてあった」

天狗松

 皆谷の茗ヶ平の屋号のある家の上にあった大きな松。

 松山城の落武者が隠遁してきた当時、この大松の眺望を利用して追手の来るのを見張ったという。

 また、この松の近所に飯野某という屈強の剛者があって、中山観音の付近に数百年を経た大松があったのを、この剛者が苦もなく切り倒した。

 しかし、その晩のこと。自宅で寝ていると真夜中に痛いと悲鳴をあげた。

 家族は何事かと起きてみると、股下が血みどろになって倒れている。

 手当をしているうちに夜は明け、煙抜けから裏の畑を通って天狗松まで血が続いている。

 天狗松には赤いものが釣り下がっている。

 近寄ってみると、その男の陰部であった。

 これは中山観音の松を切ったので、天狗の仕返しだということになり、ますます天狗松の名は高くなったというのである。

仙元山(浅間山)(せんげんやま)

 観音山の南にある465㍍独標。御堂側の萩平、皆谷側の新田(あらた)ともに、「せんげんやま」と呼称。

 山頂には浅間神社の木製の小祠が祀られている。

 ところが、この山は1980年代半ばまで「薬師山」(やくしやま)と表記されてきた。

 薬師山の表記が採用された最初は、戦前の岩根常太郎氏のガイド記事(ハイキング・ペンクラブ著『奥武蔵(増訂版)』登山とスキー社、1940年)である。

 その後、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8奥武蔵』(朋文堂、1954年)所収)を経て、1980年代後半頃まで昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』まで引き継がれてきた。

 山と高原地図で、山名が「仙元山」に訂正されたのは1980年代終わりである。

 それでは、なぜ地元呼称でもない薬師山なる名称が長く継がれてきたのだろうか。

 罪作りな犯人こそ、『武蔵通志』にほかならない。そこには「薬師嶽 皆谷の東」というごく簡単な記述がある。

 この記述にしたがって、十分な地元での山名の聞き取りを行わないまま、薬師山の名称を465㍍独標に与えてしまったのである。

 ところが、『新編武蔵風土記稿』秩父郡皆谷村の条には、「浅間山 村の東にあたり、字藤山にある」と明確に記されているのである。

 薬師山という誤称を採用した先駆者は、『風土記稿』の「浅間山」記載を見ていなかったのであろうか。

シノハ峠

 仙元山南の400㍍圏鞍部。

 萩平(大字御堂)と新田(大字皆谷)を結ぶ旧道が乗っ越す。

 「シノハ」は、新田側の登り口に当たる梅沢家の屋号である。

 かつては「馬入り」とも呼ばれ、馬二頭が行き来できる六尺幅の立派な峠道であった。

 しかし、かつては迂回路であった新田~萩平の新道が舗装されたため、今では通る人とてなく、峠の皆谷側は草に埋もれている。

 ところで、大石真人氏は新道の乗っ越す峠に「岳ノ平坂」の名を冠している(大石真人監修「外秩父概念図」『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年)。

 だが、この峠名を萩平で確認することはできなかった。

 むしろ地元では、峠近くにある御岳山座王大権現の碑をさす「御嶽様」の呼称が、峠の俗称として広く通用している。

萩平の神送り場

 萩平(東秩父村御堂)から栗山(比企郡小川町腰越)への林道が「ツルキリ」の尾根を乗っ越す付近。

 萩平の方によると、毎年1月15日に豆を炒って家族全員の体にこすりつけ、その豆を神送り場にまき、厄除けと家族全員の健康を祈願する風習が60年ほど前まで(1986年の聞き取りなので、2025年から起算すると、100年近く前まで)行われていたという。

ツルキリ(ツルキリ山)

 前出の大石真人氏監修「外秩父概念図」や観音山・仙元山(薬師山の名称で)・ツルキリ山を初めて紹介した浦野要氏(元奥武蔵研究会会長)のガイド『新ハイキング』89号、1963年3月)などでは、ツルキリ山は493.8㍍3等三角点峰(リュウゴッパナ=竜ヶ鼻)の萩平側呼称としてきた。

 しかし、1986年の調査で、ツルキリがリュウゴッパナよりも左に寄った主尾根上の490㍍圏ピークをさしており、ツルキリとリュウゴッパナが隣り合わせているとはいえ、別の山であることが確認された。

 現在の昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)でも、ツルキリ山と竜ヶ鼻(リュウゴッパナ)は別の山として記載されている。

 萩平(東秩父村大字御堂)では単に「ツルキリ」というだけで、「ツルキリ山」とは言っていない。そのため、ここでは「ツルキリ」をメインとし、ハイカーになじみの「ツルキリ山」を併記するかたちをとった。

 もともとツルキリは、同峰西面の沢付近の小字(山字)名であり、きわめて珍しい地名である(私の知る限り、わずかに御坂山塊西部の滝戸山の南西に同名の山があるのみ)。

 萩平の古老は、昔この辺は雑草のツルが伸び放題になっていて、それを鉈で切りながら進んだからこの地名が付いたというが、山頂西面の深い谷や竜ヶ鼻の岩場などから判断し、沢や岩場、断崖などに由来する地形語彙かも知れない。

 なお、ツルキリ南の鞍部には、明治38年(1905)9月吉日の銘を刻む馬頭尊が安置されている。

 かつて、この地で刈った草を馬で運んでいたところ、道が急峻なため、何頭もの馬が谷に落ちて死亡した。

 死んだ馬の霊を慰めるため、萩平の人々がこの地に馬頭尊を建立したという。

リュウゴッパナ(竜ヶ鼻)

(略図)リュウゴッパナ付近拡大図

 主尾根上に位置するツルキリから東に少し進んだところにある493.8㍍3等三角点峰(点名は「竜ヶ鼻」)。東秩父村安戸の山である。

 「帯沢」(東秩父村安戸)や「松ノ木平」(東秩父村安戸)から眺めると、山頂付近の岩場が竜の鼻を連想させるところから竜ヶ鼻と呼ばれたが、呼称は「リュウガハナ」ではなく、「リュウゴッパナ」である。

 当所「竜ヶ鼻」(リュウガハナ)が訛って「リュウゴッパナ」の呼び名が一般化したのかと思っていたが、住民は素朴に「リュウゴッパナ」と愛称し、これに漢字の「竜ヶ鼻」が当て字されたのではないか。 

 リュウゴッパナは、比企・外秩父の孤高な名山の雰囲気を醸し出す岩峰だったが、現在は林道が取り囲み、雰囲気を台無しにしているのが残念。

 ところで、東秩父村御堂の萩平からは、ツルキリが邪魔になって、リュウゴッパナの岩峰を望むことができない。ただし、リュウゴッパナの呼び名は、萩平でも通用している。

 また、リュウゴッパナには、岩松を採りに来た村人が山頂の岩場から転落して死亡したという話が残っている。

 さらに、リュウゴッパナ山頂の岩場には大きな穴があり、能気神社近く出身の相撲取り・豊田川が登ったところ、穴の中に大蛇がいるのを見て、驚いて帰宅したのち、発熱してしまい、そのまま亡くなったとの逸話もある。

物見山二題

 萩平では、ツルキリから北に尾根を進んだ460㍍圏のピークを物見山と呼んでいる。

 かつては、山頂から四方が望見できたという(今は樹林ため、何も見えず)。

 また、安戸の寺岡や帯沢の人々は同じツルキリの尾根の411㍍独標から東に派生する支尾根上のピーク(送電鉄塔が建っている)を物見山と呼称している。

 もしかしたら、松山城の支城であった腰越城ないし安戸城の物見櫓が、いずれの山にも築かれていたのかも知れない。そういえば、後述する笠山郡界」尾根上「タカハタ」(高旗山・高畑山)同様の話が潜んでいる。

タカハタ(高旗山・高畑山)

(略図)笠山郡界尾根拡大図

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 帯沢川をはさんでリュウゴッパナ~ツルキリ~物見山の尾根と対峙する笠山郡界尾根上の407.6㍍4等三角点峰(点名は「腰越」)。

 このあとの278.2㍍4等三角点とともに、平成に入ってから建てられた新しい三角点である。

 タカハタの山名由来となっている次のような伝説がある。

 昔、鉢形城の出城であった安戸城では、ツルキリからの尾根上にある「物見山」(おそらく460㍍圏ピーク)に見張り櫓を置き、異変があったときには旗を立てて、安戸城に連絡していた。

 あるとき、旗が風で飛ばされ、タカハタ山頂の立ち木にひっかかった。

 それ以来、この山を人々は「タカハタ」と呼ぶようになったという(帯沢で採集した話)。

 以前腰越に在住されていた小川町の郷土史家・内田康男氏も、似たような昔話を採集している。以下、引用しておきたい。

 「高畑(たかはた) 前述の旧字マルツブリの奥に高畑山という小高い山がある。この山の山頂付近を高畑と呼んでいる。小貝戸並びに館の集落から登山道がある。この山は、付近に高い山がない為眺望絶好の地である。口碑によると、戦国の頃見張りの兵が置かれ、連絡の手段として、のろしや旗をあげたところであるという。このことから「高旗」とも書かれるようになったようである」(内田男夫『腰越地名誌』未定稿)

とんび岩

 タカハタの山腹に「とんび岩」と呼ばれる巨岩がある。

 高さ9.55㍍、周囲約28.3㍍もある(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤「小川町の山々・巨石・名石ーその歴史と伝説ー」講座資料、令和4年2月19日作成」)。 

308㍍独標と278.2㍍4等三角点

 昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)では、タカハタから郡界尾根をくだった308㍍独標に「花水山」(かすいざん)の山名を記している。

 ところが、308㍍独標から郡界尾根主稜と分かれ、小貝戸(こがいと)の集落付近に落ち込む顕著な小尾根がある。

 その小尾根を308㍍独標からわずかにくだった地点に278.2㍍4等三角点がある。

 「タカハタ」の三角点同様、平成に入って設置された新しい三角点で、点名は「花水山」。

 ここに「花水山」なるピークと「花水山」という点名の三角点が別の場所(山頂とそこから支尾根をくだった尾根上)にあるという奇妙な状態になっていることが分かった。

 しかし、『小川町土地宝典』(1975年)および内田康男『腰越地名誌』(未定稿)を見ると、「花水山」は308㍍独標東側斜面の小字名である。

 ちなみに、花水山北側の小字名は「峰山」である。

 おそらく4等三角点の点名は、小字名の花水山を借用したものであろう。

 つまり、花水山が稜線直下の山腹斜面の小字名であるとすれば、その小字の最高点である308㍍独標を花水山と呼んでもかまわないという理屈となる。

 要するに、花水山を308㍍独標の名称としても良いし、278.2㍍4等三角点の点名にするのも妥当であるということになる。

 ただし、山字名を山名とする場合、本当に地元で308㍍独標の山(山頂)を花水山と呼んでいるかどうかを確認する必要がある。

 この確認がとれるまでは、当面308㍍独標のままとし、花水山の名は山腹の山字名のままとして、両者を区別したい(もっとも、今では308㍍独標の山頂立ち木に「花水山」の名の山名表示板が打ち付けられており、308㍍独標=花水山が次第にハイカーの間で定着しているようだ)。

石舟山(いしぶねやま)

 長大な笠山郡界尾根が槻川河原に尽きる前の最後の盛り上がりが石舟山である(標高230㍍圏)。

 山頂は樹木に覆われ、展望はないが、石舟神社の祠があり、その前に石舟が2基安置されていた。

 石舟は大小2つあり、藤本一美氏が巻き尺で測ったところ、大きい方は長さ50センチ、高さ20センチ、小さい方は長さ44センチ、高さ14センチほどであるという(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。

 これが『新編武蔵風土記稿』比企郡腰越村の条が記す「石船明神社」に間違いないと思い、どのように信仰されているのかどうか腰越で尋ねてみたくなった。

 山をおりたあと、腰越の集落で聞き取りをするなかで、幸いに石舟山の所有者である関根家を訪ね当て、ご神体をみせていただくとともに、祭りの模様について詳しい話を聞かせていただいた(1986年5月当時)。

 石舟神社は関根家の氏神であり、雨乞いに霊験のある神様として腰越の人々の信仰を集めていた。

 もっとも、雨乞いが実際に行われたのは昭和の初め頃までで、聞き取り当時から60年近くも前、今よりも100年近くも前のことであった。

 夏に日照りが続き、草畑に被害が出るようになると、腰越では村中総出で雨乞いを行った。

 まず村社である氷川神社の神官を先頭に集落の人々がご神体の大小2つの棒を持ち、山に登り、大小2つの石舟にご神体の2つの棒をそれぞれ乗せたあと(おそらく、ご神体の棒は舟を漕ぐ櫓(ろ)を意味していたと思われる)、石舟様の前で神官が祝詞(のりと)を奏上。

 そのあと、山をくだる。

 そのとき、地元の力持ちが石舟様をかつぎおろし、切通橋付近の槻川の河原に安置し、石舟が川に流されないように鎖で固定したのちに祈祷が始まる。

 やがて神官が川に入ると、祝詞を奏上する神官めがけて氏子たちが水をひっかけ、神官が逃げるのを全員で追いかけ、びしょぬれにさせた。

 先に書いたように、石舟神社のご神体は2本の石の棒で、1986年当時では関根家に所蔵されていた。

 ご神体が納められている木の箱には「岩船大権現」と書かれていた。

 また、ご神体と一緒に納められていた和紙に書かれていた文面によると、宝暦14年(1764)、明治2年(1869)の2回にわたってご神体の由緒が調査されており、少なくともご神体の大小2つの棒が江戸中期にまでさかのぼることができると推定されている。

 関根家の話では、石舟神社のご神体は当所、山頂の石舟神社に石舟とともに置かれていたが、神社の祠が何者かによって壊されてしまったので、1952年9月12日、神社を再建した。

 そのときまでご神体の棒は山頂の祠の中にあったが、それ以来盗まれないように自宅で所蔵することになったという。

 なお、石舟神社は山向こうの集落である東秩父村安戸の寺岡や帯沢などの集落でも、雨乞い信仰の対象になっていた。

 山麓の寺岡や帯沢では、やはり60年程前(今からさかのぼると100年近く前)まで、日照りが続いたときに、安戸にある能気(のうけ)神社の神官を先頭に石舟山に登り、祝詞を奏上した。

 安戸側でも雨乞いの形式はほぼ同一で、山をくだったあと、槻川の河原で「水かけ」の儀式を行った。

 ただし、石舟山は腰越の持ち山だったので、安戸では石舟を下に下ろすことはできなかった。

 それでも、雨乞いの儀式後には不思議に雨が降ったという。

 ところで、雨乞いとは別に、石舟様の例祭が腰越を中心に安戸の寺岡や帯沢の人々も参加して、例年4月4日に盛大に行われていた。

 例祭は当所、関根家の周囲の人々によって始められ、昭和8年(1933)頃まで続いていた。

 当時は山頂に露天も出て、ラムネや菓子を売っていた。

 その後、祭りは小川町の紙問屋の人々が石舟様のお祭りを名目に直来(なおらい)を行うという形に変質してしまった。

 それもすたれてしまい、雨乞いは長い間、忘れ去られていた。

 ところが、昭和50年(1975)になって復活したのである。

 安戸の帯沢、寺岡の人々が組合をつくって、石舟山にテレビの共同アンテナを建てることになり、地主の関根家と交渉したところ、土地を借りる代わりに石舟様のお祭りを復活させることになった。

 祭りの日時、形式は組合に任されており、1986年は5月25日に行われるということだった。

 当日は組合長が関根家を訪れ、ご神体の棒を借り受け、それを山頂の神社まで背負い上げる。

 祭りは能気神社の神官が祝詞を上げ、玉串を奉納する儀式を行ったあと、直来となる。

 祭りは午前中で、午後は組合の総会となる。

 祭りのときには、「峰山石舟神社」の札を配るという(ここに「峰山」とあるのは、石舟山付近の腰越の小字名「峰山」に由来するのだろうか)。

 以上は1986年当時の聞き取りの再録である。

 果たして復活した寺岡や帯沢による石舟神社のお祭りは、今でも続いているのだろうか。

小川町飯田の石舟神社

 小川町で石舟神社が祀られ、雨乞いの儀式を行っていたのは腰越と飯田である。

 偶然にも隣り合った大字(旧村)が同様の儀式をしていることに興味を覚えたので、1986年に飯田にも訪れて聞き取りを行った。

 飯田の石舟神社については、『新編武蔵風土記稿』比企郡飯田村の条に詳しい説明がある。

 すなわち、「石船権現社 昔の身体は船の形をなせる一尺五寸ばかりの石なり。旱魃の時はこの神体を社前の御手洗へひたして雨を祈れば必験ありしが、何の頃か失ひて、今は幣束のみを置けり」と、経緯を詳細に記録している。

 以下は、1986年当時、飯田の天台宗の名刹、高勝山長福寺の住職から聞いた話である。

 飯田の石船神社は今では存在していない。

 石船神社は、かつて長福寺持ちで、寺の前にあった。

 神社跡は一面の桑畑で、わずかに「石船谷」という小字名にその名を残すのみである。

 雨乞いの儀式は、真夏に日照りが続いたときに、御水洗(おみたらし)と呼ばれる小さな水たまり(湧き水)に水を入れた石船を浮かべ、長福寺の住職が雨乞いの祝詞を奏上した。

 ところが、明治の神仏分離により、石船神社は長福寺からきり離され、金比羅神社に合祀された。

 しかし、金比羅神社は山上にある無人の神社であったため、ご神体の石船は何者かによって盗まれてしまった。

 そこで地元では二代目の石船を奉納したものの、もはや霊験はなかったという。

 その二代目の船も紛失し、現在では三代目の石船が金比羅神社内に納められているという。

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