「比企三山」は地元(小川町)の呼称ではなかった!

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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 ブログ「比企・外秩父の山徹底研究」の立ち上げをきっかけに、26年ぶりに交流が復活した小川町在住の郷土史家・内田康男氏から次のようなメールが寄せられた。

 「かねてから、比企三山について疑問をもっています。現在、『比企三山とは笠山、堂平山および大霧山の総称』と紹介されていますが、大霧山は比企郡ではないのになぜ比企三山に入っているのでしょうか」

 実は、私も長年何も考えずに「比企三山」という総称名を使っていた。

 事実、本ブログでも2ヶ所「比企三山」の名称が登場する。

 しかし、ガイドブックや登山雑誌でよく登場し、私を含むハイカーが当然のこととして用いていた「比企三山」という総称名に対し、地元の専門家が疑問を呈したのである。

 要するに、少なくとも小川町では「比企三山」という総称に違和感をもっている人が多いのである。

 このことに、図らずも気づくことになった。

 たしかに、笠山は比企郡小川町と秩父郡東秩父村との境界。

 堂平山は比企郡小川町、比企郡ときがわ町、秩父郡東秩父村の境界。

 つまり、笠山と堂平山は比企の山でもある。

 これに対し、大霧山は秩父郡皆野町と秩父郡東秩父村の境界。

 大霧山は、笠山・堂平山と異なり、完全に秩父郡の山である。

 この大霧山を含めた「比企三山」という総称名に対し、比企郡小川町の方が疑問を感じるのは当然だろう。

 それでは、いつ頃から「比企三山」なる総称名が使われるようになったのか。

 そして、果たして誰がこの言葉を使い始めたのだろうか。

 以上の2つの疑問を解決するのは容易だった。

 戦前の登山雑誌『ハイキング』の常連執筆者で構成されるハイキング・ペン・クラブが、武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)の支援のもとで、奥武蔵の山の紹介やコース整備等を始めたのが昭和10年頃。

 それから数年遅れ、ハイキング・ペン・クラブのメンバーのうち、岩崎京二郎、澤田武志、岩根常太郎、坂倉登喜子の各氏が東武鉄道の支援を得て、東上線沿線の比企・外秩父の山々の紹介やコース整備に尽力し始めたのが昭和14年以降。

 その昭和14年(1939)に出版されたハイキング・ペン・クラブ著『奥武蔵』(博山房、1939年)は、奥武蔵・秩父・比企・外秩父の最初のガイドブックとして画期的な書である。

 同書は、翌15年(1940)に大石真人氏が新たな執筆者として加わり、熊倉山や谷津川本谷、川浦谷本谷などを追加し、増訂版として登山とスキー社から出版された。

 私の手元にあるのは昭和14年発行の初版本(増訂版は入手できず)である。

 目次をみると、「大霧山を中心として」という章がある。

 執筆者は澤田武志氏である。

 澤田氏は戦後、新ハイキング社を創立し、戦前の『ハイキング』の後継誌『新ハイキング』を創刊した方である。

 その澤田氏執筆の「大霧山を中心として」の章に「比企三山(大霧山、堂平山、笠山)」という節がある。

 「比企三山」は次のような文章から始まる。

 「『東京から見える山々』の中で馴染の深い秩父山塊が武甲山の金字塔で一先づ休止符を打ち、その右に一段低い丘陵が連なるのに気がつく人が多いだろう。この一連の起伏の最右端に笠を開いた様な形の山が指差される。即ち、笠山(独立標高点842米)である。ここに云ふ比企三山とは比企と秩父の郡界をなす笠山・堂平山と之にほぼ平行して釜伏峠から南進した丘陵の最高点大霧山とを白石峠で結ぶU字型のコースである。比企三山の名称につき大霧山は比企の山に非ざるを以て不当とせらるる方もある様だが『奥秩父』なる総称が甲信国境を越えて遙か信州峠附近にまで及ぶ事が山岳人に常識化されている今日『比企の奥にある三山』と云った漠然とした意味でこの名称にはご賛同を願い度いと思ふ」

 澤田氏は、内田氏が今日提起した疑問(なぜ秩父郡の山である大霧山を含め、比企三山と呼ぶのか)を当時から意識しながらも、大霧山→白石峠→堂平山→笠山のU字型縦走路を東上線沿線のメインコースとして広く宣伝するため「比企三山」という総称を使ったのである。

 澤田氏は同じ昭和14年3月発行の『ハイキング』第81号に、「比企の山旅紹介」として3コースを紹介しているが、2番目のコースが「比企三山」(大霧山・堂平山・笠山)である。

 戦後、大石真人氏や坂倉登喜子氏などにより地域山岳会として奥武蔵研究会が発足。

 奥武蔵研究会が執筆した奥武蔵の最初のガイドブックが『奥武蔵』(山と渓谷社、1951年)である。

 同書でも「比企三山を中心として」との章が設けられている。

 この章を担当した大石氏は次のように書いている。

 「比企三山とは大霧、堂平、笠の三山を言いこれを一日で馬蹄形に縦走するコースは、戦前比企地帯一の健脚向日帰り優秀コースであったが、戦後は道も荒れて草もかぶったので、一日では到底縦走出来ぬ時間のかかるところとなってしまったので強いて縦走するためには二本木峠のバンガローに一泊しなければならなくなった。従って、特志家以外にはあまり勧めることは出来ないコースである」

 これ以降、奥武蔵研究会が執筆したガイドブック等をとおし、大霧山・堂平山・笠山の三山の総称名として、「比企三山」は広がっていき、今ではハイカーの間でこの名称に疑問をもつ人はいないといっても過言ではない(私を含め)。

 要するに、地元の呼称とは全く関係なく、戦前この山域の開拓・整備・紹介に尽力したハイキング・ペン・クラブと東武鉄道により「宣伝用に」生まれ、それが奥武蔵研究会と東武鉄道により踏襲され、広がり、定着していったのである。

 内田氏が指摘するように、山名や総称名などの命名は相当慎重に行うべきである。

 地元の呼称でない命名(比企三山)を、特定のコース(大霧山→白石峠→堂平山→笠山あるいはその逆)を宣伝するために行うことは論外であろう。

 「比企三山」という総称名は既に定着しており、いまさら使用を自粛しようといっても無理な話かも知れない。

 しかし、まず本ブログから「比企三山」なる総称名を消すことにしたい。

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