コワタの地名を追うー飯能市深沢周辺の山と山上集落ー

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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はじめに

 西武池袋線の東吾野駅から国道299号線を武蔵横手駅方面に進むと、深沢ヤツが高麗川に流入。

 この深沢ヤツに沿った深沢集落は、周囲を山に囲まれ、山とヤツの狭間のわずかな耕地に15戸ほどの人家が点在している。

 集落の中心は中流域にある西光院近くだが、深沢ヤツの東は飯能市大字白子分。西は飯能市平戸(ひらっと)分。

 さらに深沢ヤツの上流はスカリ山に突き上げるが、ユガテ(飯能市虎秀)にも近い。

 スカリヤツと名を変える深沢ヤツ最上流は飯能市大字虎秀分。

 このように深沢は3つの大字にまたがっている。

 周囲の山々は、ユガテを除けば、多くのハイカーが訪れる山域にあって、人に出会うことも少ない静かな山歩きを楽しめる一帯である。

 私が深沢集落を訪れたのは2回。

 1986年6月と1988年10月の2回である。

 最初は深沢集落すぐ右手の山である「コワタ」の山名を確認するため。

 もう1回は、西光院から滝坂(たきざか)と呼ばれる坂道を登り、毛呂山町権現堂の土山集落にいたる山道を踏査するため。

 2回の山行で、深沢を囲む山や峠などについて、地元(深沢、土山、中野、ユガテなど)で呼称を確認することができたが、それから40年近くが経過した。

 この間、古くからの山名や峠名を知っていた明治生まれの古老は亡くなり、今では地名収集も難しくなっているかも知れない。

 その一方で、40年前にはほとんど入らなかったハイカーが深沢周辺の山に入るようになった。

 なかでも池田和峰作成・解説・踏査『新装版奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2022年)は、深沢を囲む山や峠にことごとく勝手に名称をつけ、「飯能百名山」グループによる「飯能百名山」リスト(現在112山)と合わせ、地元で山名や峠名に関する古くからの名称に関する記憶がなくなる一方、山々には地元呼称ではない山名や峠名の表示版が乱立するという由々しき状況が生まれている。

 残念なのは、本来なら奥武蔵・秩父を対象に地元呼称の山名や峠名などを採集すべき地域山岳会である奥武蔵研究会が、なぜか深沢周辺に限り、同会の調査執筆である山と高原地図『奥武蔵・秩父』に『奥武蔵登山詳細図』等が勝手に命名した山名をそのまま記入していることである。

 なぜ奥武蔵研究会が同会の会報『奥武蔵』バックナンバーに掲載されている先行研究を参考にせず、しかも地元での聞き取りをしないで、安易に『奥武蔵登山詳細図』等が勝手に命名した山名等を取り入れてしまったのか。

 「地元呼称無視の山名は改称できないか」と早くから主張され、山名・峠名の命名に当たって、誰よりも古い地誌を踏まえた地元での聞き取りを重視されていた奥武蔵研究会の前会長・藤本一美氏がもし生きておられたら(2019年10月逝去)、この現状を見て、どう思われるだろうか(藤本氏が生前、『奥武蔵登山詳細図』の地元呼称無視の勝手な命名を批判した論考として、「『奥武蔵登山詳細図』に物申す』日本山書の会『山書月報』第638号、「再び『奥武蔵登山詳細図』批判」『山書月報』678号)。

 そこで、あえて40年近く前のわずか2回の山行のみだが、そこで採集できた地名のみを表記することにして、最近の地元呼称無視の山名・峠名の氾濫に対し、警鐘を鳴らしたい。

 もちろん、比企や外秩父のように体系的・集中的に地名採集をしたわけではなく、わずか2回の山行だけなので、見落としや誤りも多々あるかもしれない。

 そこは、今後皆さんに補っていただきたい。

 安易に登山地図の記載名や現地の山名表示板や指導標などを盲信するのではなく、まずそれを疑うことから始めていただきたい。

 それでは、読者を深沢集落へ案内しよう。

 ルートは東吾野駅→深沢→西光院→滝坂→コワタ往復→土山・愛宕地蔵堂→長坂→ユガテ→雨乞塚→熊野平ノ嶺→吾那神社→東吾野駅の周回コースである。

高麗丘陵略図(出典:神山弘『ものがたり奥武蔵』岳(ヌプリ)出版、1982年)

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(略図)深沢付近略図

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弁天岩(べんてんいわ)

 深沢ヤツが高麗川に注ぐ付近の高麗川河原にある高さ5㍍ほどの岩。

 岩上に小祠と鳥居がある。

 飯能市大字白子(しらこ)字平山の都築家の氏神。

 ご神体は、もとは小祠のなかにあったが、流されては困るということで、都築家の神棚に移された。

 旧正月(1月14日)が弁天様のお祭りで、以前は祠に幣束を上げたりしていたが、今では神棚に繭玉や赤飯を供える程度。

 かつて岩上は藤の木が一面に茂り、花期になると、岩が藤の花一色に染まったというが、すべて盗伐されてしまった。

 『飯能市史(資料編11) 地名・氏姓』(飯能市、1986年)の大字白子字平山の項には、「河原に弁天岩があり、筏師の信仰が厚かった」と記載。

 ちなみに、吾野駅の近くの河原にも弁天岩がある。

深沢入口の道しるべ

 国道から分かれ、深沢に入る入口に大正15年(1926)に平戸青年団が建てた古い道しるべがたたずみ、山根村(1889年に滝ノ入村・権現堂村・阿諏訪村・大谷木村・宿谷村・葛貫村が合併。滝ノ入村が誕生。その後、2年後の1991年に滝ノ入村が山根村に改称。1939年に旧葛貫村の一部以外の山根村が毛呂山村に編入。同年毛呂山村が毛呂山町になり、現在にいたる)指していた。

 これからたどる深沢ヤツ沿いの道は戦前の5万分の1地形図「川越」にも記載され、東吾野村と山根村を結ぶ古い生活の道であった。

 ところで、白子や平戸、虎秀では大山詣でが盛んで、各地区で大山講をつくって、抽選で参拝者を選んで相州大山まで参詣に行った。

 『ものがたり奥武蔵』では、権現堂の北向地蔵(岩舟地蔵)の道しるべに記された「大山道」について、毛呂山町の烏峠(石尊山)を指すものと解釈されている。

 しかし、東吾野村で大山講があったとことから、生活上の交流の深い山根村側の権現堂でも大山講が組織されていたと考えても不思議ではない。

 つまり、北向地蔵(岩舟地蔵)の「大山道」は相州大山を指すものであり、関ノ入ヤツから横手に出たり、深沢ヤツから東吾野に出て、大山へ行ったのではないだろうか。

西光院

 深沢ヤツに沿った道に入ると、新築の家が目に付く。

 最初の目標は、2万5千分の1地形図「飯能」の寺記号。

 その安葉山西光院は、車道から右に少し登った小沢沿いの小平地に建っていた。

 西光院の本尊は阿弥陀如来。

 本堂は元禄13年(1700)春、俊覚僧都により建立。

 その後、老朽化したため、昭和31年(1956)に建て替えた。

 無住の寺で、日高市の龍泉寺の住職が管理している(宇山清太郎氏からの私信による)。

 深沢集落は1988年当時、15戸。

 深沢ヤツを境に東が白子分、西が平戸(ひらっと)分(深沢ヤツのオクリ西側が虎秀分)。

 このうち白子分が4戸。それ以外が平戸分である。

 西光院は白子分の4戸が檀家となっている。

ショウジ渕(ぶち)

 西光院から戻って深沢ヤツ沿いに進んだ最初の橋の下付近。

 高さ5尺ほどの滝があったといい、かつて精進場だったという。

 今では滝の名残もなく、言われなければ気づかずに通り過ぎるところであった。

鍛冶太郎ヤツ

 ショウジ渕からさらに深沢ヤツを進み、飯能市と毛呂山町との境界となるヤツが左岸から注ぎ込んでいる。

 このヤツが「鍛冶太郎ヤツ」(かじたろうヤツ)である。

 鍛冶太郎ヤツが流入する先で、二俣になり、左俣(本流のスカリヤツ)が飯能市大字虎秀と毛呂山町大字権現堂との境になっている。

 スカリヤツをつめると、ユガテに出るハイキングコースに突き当たる。

 右俣はヒカリヤツである。

 鍛冶太郎ヤツは、ヤツに沿ったヒラである「鍛冶太郎」がその名の由来である。

 『飯能市史(資料編11) 地名・氏姓』(飯能市、1986年)は、「鍛冶太郎は沢に沿った平(ヒラ)で、今は林になっているが、住居があったとみられる場所の下に、小さな水田跡と思われるところさえある。今は人気の全くない深沢のまた奥地だが、鍛冶の太郎さんがトンテンカンと農具や刀を鍛えていたのであろう」と述べている。

 2万5千分の1地形図「飯能」には、鍛冶太郎ヤツに沿って権現堂の土山集落へ続く破線路が記されているが、廃路になっているので要注意。

浅間神社

 再び深沢集落中心の西光院まで戻る。

 西光院の横に浅間神社が祀られている。

 浅間神社の例祭は、以前は7月1日だったが、現在(1988年当時)はそれに近い日曜に行っている。

 例祭は、かつては深沢以外にも白子や虎秀、平戸からも参拝者があり、盛大に行われた。

 その頃は、深沢ヤツ沿いに灯籠がたてられ、露天も出て、大いに賑わいを見せた。

 今では深沢集落の人々が集まるだけの、ささやかな祭りとなっている。

滝坂(たきざか)

 西光院前の小沢沿いの道を登ると、まもなく二俣。

 右俣をつめると、土山集落から白子の愛宕山への尾根上のピーク「コワタ」に出るが、廃道。

 左俣に沿った明瞭な踏跡が小字名でもある「滝坂」(たきざか)。

 滝坂は、毛呂山町権現堂と東吾野を結ぶ古くからの道だった。

 昭和20年代までは、土山(大字権現堂)の学童たちが東吾野小学校に通う通学路だった。

 当時、土山から滝坂をへて深沢に出て、飯能高校に通った学生もいたという。

 この道は旧山根村(現・毛呂山町)から東吾野に嫁ぐときに、花嫁が通り、実家に里帰りするときに通った道でもあった。

コワタ

 深沢の西光院オクリ右俣一帯の山ヒラをツメた最高点。

 2万5千分の1地形図「飯能」(2016年7月調製、2016年11月1日発行)によると、350㍍圏ピーク。

 白子の愛宕山から北に延び、土山集落(毛呂山町権現堂)に達する尾根上のピークで、山頂から南西に派生する小尾根上に313.1㍍4等三角点(点名「深沢」)がある。

 私が「コワタ」なる山名を知ったのは、神山弘『ものがたり奥武蔵』(岳(ヌプリ)書房、1982年)の「高麗丘陵」の概念図を見たときである。

 概念図では、深沢集落のすぐ東の343㍍ピーク(戦前の5万分の1地形図「川越」による)に「コワタ」なる特異な名がつけられていて、妙に印象に残った。

 しかし、コワタの名称が記載されているのはそれだけで、たしか当時(1980年代半ば)の奥武蔵研究会調査執筆『山と高原地図 奥武蔵・秩父』にはコワタの名がなかった記憶がある。

 神山弘氏と並ぶ奥武蔵研究の先駆者・大石真人氏は「コワタ」の名を採集していなかったようで、同氏執筆の『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂)1954年版所収の「奥武蔵概念図」にも、『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂)1960年版所収の「奥武蔵辞典―山名編―」にも「コワタ」の名は見られない。

 つまり、「コワタ」なる山名を記載していたのは当時『ものがたり奥武蔵』だけであり、それも概念図に山名が記載されただけで、本文での言及はない。

 とすると、もしや「コワタ」の名は、神山氏が誤って採集された可能性もゼロではない。

 そんな疑問をもって、飯能側の白子やユガテで尋ねても「聞いたことがない」の一言。

 毛呂山町側の権現堂で聞いても、「分からない」

 それなら、一番近い深沢で聞くしかないと思い立ち、深沢を訪ねたのが1986年6月だった。

 はじめ西光院近くの棚倉喜重さん宅に伺い、ご夫妻にいろいろ貴重な話を聞かせていただいた(本投稿の隅々に反映)が、コワタに関しては「コワタテクチ」(コワタノクチか?)という言葉を聞いたことがあるだけで、それ以上は分からないという。

 棚倉さん宅を辞したあとも、コワタのことを諦めきれず、仕事中の青年に声をかけた。

 青年によると、川向こうに、このあたりに詳しい老人がおられるという。

 その棚倉浦吉老こそ、かつてのコワタの山持ちであった。

 浦吉老は当時(1986年)86歳。

 お元気だが、耳が遠いので、奥様に「通訳」をお願いした。

 棚倉老の話を要約すると、深沢から三角点(313.1㍍)に登り、そのまま小尾根をツメると愛宕山からの尾根に出る。

 そこから北に寄った、この付近で一番高い山がコワタであるとのこと。

 地形図上から推測したコワタの位置とぴったり合った。

 神山氏が採集された山名とその位置が正しいことが、ようやく確認できた感激の瞬間であった。

 ちなみに、棚倉喜重さんのいう「コワタテクチ」は、コワタの登り口を意味するらしい。

 棚倉浦吉老は、以前コワタとその周辺の山林を所有していたが、昭和27年の台風で植林に被害が出たため、虎秀の浅見隆二郎氏に売ってしまったという。

 棚倉浦吉老の話で特に印象に残ったことが一つある。

 それは棚倉老がコワタのことを「吊るさり山」と呼んでいたことだ。

 老によると、コワタは山頂を除き他所の人の土地に囲まれていたので、木を切り出すときに、他所の人に一言断って、その土地を通っていかなければならなかった。

 そこで人の土地に乗っている山、すなわち「吊るさり山」と呼ぶようになったという。

 ようやくコワタの山名が地元呼称であることが確認できたが、当時(1986年)でも、コワタに一番近い深沢でも、コワタの名を知っていたのは、元山持ちであった棚倉浦吉老のみ。

 それから40年近く経った今(2025年)、深沢でコワタの名を知る人は果たしておられるのだろうか。

 コワタおよび313.1㍍4等三角点は、いずれもコナラ類などの雑木に囲まれ、展望はゼロ。

  私が「コワタの地名を追う」という小文を投稿して以降、奥武蔵研究会調査・執筆『山と高原地図 奥武蔵・秩父』(昭文社)にようやく「コワタ」の山名が載るようになった。

 現在はどうだろうか。

 山と高原地図『奥武蔵』2024年版では、コワタの名称を採用。

 ただし、313.1㍍4等三角点ピークを「深沢山」と記載。

 しかし、深沢では、三角点ピークを深沢山と呼んでいない。単に三角点と言っているだけである。

 他方、『新装版 奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2022年)では、コワタを「深沢山東峰」(コワタ)、三角点を「深沢山西峰」と記載。

 飯能百名山リスト(現在112山)では、それぞれ「深沢山東峰」「深沢山西峰」と呼んでいる。

 現在では、山頂の山名表示板も含め、コワタ=深沢山東峰、313.4㍍4等三角点峰=深沢山西峰という呼称が、ハイカーの間で定着しているが(ヤマレコ、YAMAPへの投稿もすべて深沢山東峰・西峰の呼称を採用)、繰り返すが、深沢山は地元(深沢集落)呼称ではないし、まして「深沢山東峰」「同西峰」は、もちろん地元呼称ではない。

 コワタの名称で統一するとともに、313.1㍍三角点は無名峰のままで良いと思う。

 最後に、コワタの山名について一言。

 「コワタ」のうち、「ワタ」→「ワダ」に着目し、「河の曲流部などの、やや広い円みのある平地で、そこが必ずしも田である必要は無い」(鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、1977年)とする向きもある。

 だが、これは巾着田や日和田山にはあてはまっても(日和田山の山名考証は、いずれ取り上げたい)、深沢のコワタには地形的に全くあてはまらない。

 鏡味氏たちは「ワダ」にもう1つの意味があるという。

 「最初の意味と同じような地形だが、同じような形の入り江のことをさし、全国各地に存在する地名としているが、これも最初の意味以上に「コワタ」にはあてはまらない。

 藤本一美氏によると、313.1㍍4等三角点峰を「小和田山」と呼ぶ人もいるというとされているが、それではその方はコワダを何と呼んでいるか(あるいは無名なのか)述べていない(藤本一美「コワタ・スカリ山」奥武蔵研究会会報『奥武蔵』273号、1993年9月)。

 あくまでも私の勝手な私見であるが、コワタは「コハタ」(小端)の訛ったもの、つまり深沢の端にある狭い土地の意味ではないだろうか。

 もちろん、「樹林の茂ったところ」「小畑」「古畑」などの意味も考えることができるので、確定するまでにはいたっていない。

愛宕山(あたごさん・あたごやま)

 2万5千分の1地形図「飯能」(2016年7月調製、2016年11月1日発行)では、白子の記載の下にある寺記号が清流山長念寺である。

 その裏側から踏跡を登ると、急登の末、山頂に神社記号のある愛宕山山頂に出る。

 山頂は、1986年当時は南側が伐採されて見晴らしが良かったが、1993年の藤本氏の山行当時は「桜の木が伸びてさえぎりつつあるのは、残念だった」という。

 山頂には愛宕神社の小さなお堂が建っており、火伏せの神を祀っている。

 この神社は麓の長念寺の守護神のような位置にあり、昔から例祭(かつては7月25日。現在はそれに近い日曜)には長念寺の住職を先頭に、白子集落総出で山に登り、お経を唱えて参拝したあと下山して直来(なおらい)を行っているという。

 白子では愛宕山のことを「白子富士」と呼ぶ人もいるという。

 おそらく、武蔵横手付近から眺める富士山型の山容によるものであろう。

 だが、地元でも愛宕山の呼称ほど一般化していないという。

 愛宕山から尾根を北上すると、コワタをへて毛呂山町権現堂の土山集落にいたる。

 なお、『新装奥武蔵登山詳細図』『山と高原地図 奥武蔵』では、愛宕山からコワタに向かう尾根の途中にある260㍍圏ピークに「水晶山」なる名をつけている。

 水晶山は「飯能百名山」リストでも、103番目に挙げられている。

 しかし、水晶山は地元呼称ではなく、登山者が勝手につけた名称である。

 それが登山地図や飯能百名山リスト、山名表示板、さらにヤマレコやYAMAPへの投稿(山行報告)で、すっかり一般化してしまった。

土山の愛宕地蔵堂

 コワタからの尾根道は、大峰峠(大峰)を巻き、まもなく毛呂山町権現堂の土山集落につく。

 すぐに土山の愛宕地蔵堂に出る。

 なお、『新装奥武蔵登山詳細図』では、大峰峠を巻き始める地点付近を「沢山峠」と呼んでいるが、これも地元呼称無視の勝手な命名である。

 土山の愛宕地蔵堂は、中野の「薬師堂」、東組の「観音堂」(現存せず)と並ぶ権現堂の三堂のひとつ。

 『ものがたり奥武蔵』は、「薬師堂」「観音堂」と堂庭の「不動堂」を権現堂の三堂としているが、「新編武蔵風土記稿」入間郡権現堂村の項をみると、薬師堂、観音堂、愛宕地蔵堂が三堂であるとしている。

 愛宕地蔵堂は、昔はもう少し高いところに祀られていたが、昭和10年(1935)に集会場ができたときに、そのなかに移された。

 その後、集会場が台風のために壊れてしまったとき、集会場跡地に現在の堂宇を建て直した。火伏せ信仰がある。

 土山は取材した1988年当時わずか2世帯(2戸)になってしまったが(権現堂全体でも14世帯。内訳は鎌北4、東組3、中野5、土山2。2015年10月1日当時11世帯)、毎年6月24日のご開帳の日だけは、町に出た人も帰ってきて、午前中はユガテや北向地蔵へ行く道の草刈りをして、午後は愛宕地蔵堂の前で酒を酌み交わすという。

大峰峠・大峰(おおみねとうげ・おおみね)

 土山の愛宕地蔵の上にある山。

 『ものがたり奥武蔵』の「高麗丘陵」略図では「大峰高峰」、『新装奥武蔵登山詳細図』では「西大峰」(大峰高峰)としているが、『山と高原地図 奥武蔵・秩父』にあるように「大峰」が正しい。

 ただし、より正確には大峰峠(大峰)とすべきである。

 「大峰」は文字通り大きな山容に由来するもの。

 小川町青山とときがわ町日影の境から南に日影側に延びる大峰と同様の地形由来の名称。

 大峰峠の「峠」はトッケ、ドッケで、とんがりの意味をもつ。

 地元では、単に「大峰」と略称される。

長坂(ながさか)

 土山集落を抜けると、北向地蔵・ユガテ分岐。

 右に行けば北向地蔵、左に行けばユガテ。

 この付近に「長坂」の字名がある。

 今回は長坂からユガテに向かう。

ユガテ(湯ガテ・湯ヶ天・湯ヶ手)

 標高300㍍の山上に落合家を含め2軒の農家と畑がある。

 南に向いた山中の広々とした明るい平地で、季節の折々に花が咲き乱れる光景などは、まさしく桃源郷。

 ただし、落合家を含め住人は山をおりてしまい、今では無住。

 ユガテというと、かつて訪れるハイカーを温かく迎えてくれた落合正三・裕子ご夫妻のことが思い浮かぶ。

 私がユガテに最初に訪れたのは1980年代はじめの頃だったと思う。

 最初は落合家を訪れず、ユガテの一角でひとり休憩をしていた程度だった。

 しかし、ユガテ周辺の地名に関心を持ち始めた頃から、積極的に落合家を訪れ、話を聞くようになった。

 ご夫妻に顔を覚えてもらってからは、ユガテにつくとすぐに落合家を訪ねることが当たり前になった。

 正三さんは山仕事やハイキングコースの整備などで忙しく、家を留守にしていることもあった。

 そんなときは気さくな裕子さんにお茶や自家製の漬物をごちそうになり、雑談をしながら正三さんの帰りを待った。

 そして正三さんが戻られると、ユガテ付近の地名を尋ねたり、昔話を聞かせてもらった。

 正三さんは「生き字引」のような方で、周辺の地名に精通していた。

 時を忘れて正三さんに質問をし、流れるように話す地名や昔話を必死にメモしているうちに、気づくと数時間経っていたということも珍しくなかった。

 さすがに長居しすぎたと裕子さんに謝りながら、腰をあげると、正三さんからノートを差し出され、お礼や感想を書くのが常だった。

 このノートは『湯ヶ天 思いで帳』と題され、ノート14冊、総頁数728頁、記入者数(姓・名のみを含む)延約4,716名に及ぶ膨大なものである。

 それだけユガテの落合夫妻とハイカーとの交流は深く、ハイカーにこれほど愛された方は他に例をみない。

 私が最後に訪れたのは1990年5月だった。

 このときは2時間もの長時間お邪魔し、ノートへの一言の最後を次のような文で締めた記憶がある。

 「また伺って昔の話を聞きたいと思います」

 しかし、正三さん、裕子さんご夫妻と会ったのは、これが最後だった。

 正三さんは1991年12月に77歳で亡くなられ、その後13年にわたり一人でユガテを守ってこられた裕子さんも2004年12月に亡くなった。

 ご子息の落合久明さんは既に山を下りておられたので、以後、ユガテの落合家は無人となった。

  だが、正三さんご夫妻の子孫が定期的に山に登って畑の手入れをしたり、家の修繕をするなど手を入れておられるので、昔のままの風景が残っているようだ。

 『湯ヶ天 思いで帳』やそれをめぐる落合ご夫妻とハイカーとの交流については、町田尚夫氏の「『湯ヶ天 思いで帳』に拾うユガテを訪れたハイカー達」(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』401号、2015年1月)に詳しい。

 町田氏の前記論考に正三・裕子ご夫妻のご子息である久明さんが寄せた言葉が引用されている。

 落合ご夫妻の生き方を表現した感動的な文章であるので、引用させていただきたい。

 「落合家は林業と養蚕を主に、農業で自給していました。正三の生き方は清く貧しく正しく、清貧そのものでした。その生き方・精神が多くの皆さんに慕われていたと考えます。両親もさぞ喜んでいると思います」

 改めて、正三・裕子ご夫妻のご冥福を祈るとともに、1990年5月以降全く訪れなかった不義理をお詫びしたいと思う。

 さて、ユガテは「湯ヶ手」「湯ヶ天」などとも表記されるが、大字虎秀にはユガテ以外にも、ユガテの西に「タガテ」(田ヶ天・高ヶ天)、その南に「ショガテ」など「ガテ」が語尾につく地名が集中している。

 『飯能市史(資料編11) 地名・氏姓』(飯能市、1986年)では、ユガテ、タガテ、ショガテなどの場所の地形を考慮に入れると、「高い場所」を指す地形語彙であるとしているが、その可能性がもっとも高い。

 ユガテの項を締めるにあたり、落合正三さんから採集したユガテの伝説を1つ紹介しておこう。

 昔、ユガテでは湯が湧いていた。ある時、役ノ行者と土地の行者が争って土地の行者が負けてしまった。悔しがった土地の行者は念力で湧いていた湯を止めてしまった。そこで湯の神が草津に飛んでいってしまったという」

橋本山(はしもとやま)

 ユガテから南に東吾野駅近くの吾那神社まで延びる長い尾根上の321㍍独標。

 私が落合正三さんから話を聞いた1980年代後半当時、この尾根付近には「雨乞塚」以外に名のある山はないとのことだったが、いつの頃からか「橋本山」の名がガイドブックや登山地図に記載されるようになった。

 現在入手できるガイドブックや登山地図では、打田鍈一『分県登山ガイド10 埼玉県の山』(山と渓谷社、2016年)、池田和峰作成・解説・踏査『新装奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2022年)、奥武蔵研究会調査執筆『山と高原地図 奥武蔵・秩父』(昭文社、2024年版)などが橋本山と記載。

 「飯能百名山リスト」でも、85番目に橋本山を載せている。

 地元・虎秀でも橋本山なる山名を聞いたことがないので、地元呼称ではないと切って捨てることもできるが、肝心なのは山一帯が小字名「橋本」になっている点だ。

 そこから、小字名「橋本」にある山として、便宜的に登山者その他に呼称されていたのが広まったと考えるのが妥当なところか。

 小字名が山名を兼ねる例は多いので、間違いではないが、果たして虎秀では本当に「橋本山」と呼んでいるのかどうか?

 それが確定されないかぎり、いくらガイドブックや登山地図に記載されようが、現地に山名表示板や指導標が建てられていようが、疑問は消えない。

 とりあえず括弧書きということにしておきたい。

 2016年時点の打田鍈一氏の記事では、「尾根筋を北へ進むと好展望の橋本山に出る。武甲山、大持山・小持山、蕎麦粒山、大高山などを見わたす」(『分県登山ガイド10 埼玉県の山』山と渓谷社、2016年)とある。

 それから10年。植林が延びた山は、果たして好望が期待できるだろうか。

 今でも好望が期待できれば、おおむね植林や雑木に覆われ、展望のない尾根上では例外的な場所であり、休憩には絶好であるのだが。

雨乞塚(あまごいづか)

 321㍍独標から南西にくだりきった地点から主尾根と離れ西に延びる小尾根上の270㍍圏ピーク。

 名称から昔、虎秀ではこの地で雨乞いを行っていたのではないかと考え、落合さんに聞いたところ、虎秀・平戸・白子の雨乞いは東吾野の吾那神社で行ったという。

 現在では跡形もないが、吾那神社の境内には池があって、池の真ん中に榛名神社の小祠が祀られていた。

 麦の芽吹きどきに日照りが続いたとき、吾那神社の氏子(虎秀・平戸・白子)代表が集まって、池の水を棒でかきまぜた。

 これと前後して神官による祝詞の奏上が行われ、雨乞いのあと、参加者全員でお神酒を飲んで一杯気分で引き上げたという(大正の半ば頃まで)。

熊野平ノ嶺(くまのだいらのみね)

 ユガテから321㍍独標(橋本山)をへて吾那神社まで延びる長い尾根を末端にある260㍍圏ピーク。

 吾那神社の裏山に当たる。

 ユガテから南下する尾根中、熊野平ノ嶺のみ大字平戸(ひらっと)の分。

 それ以外および現在、吾那神社のある小山(こやま)も大字虎秀分。

 吾那神社は、もともと熊野神社で、現在の神社裏の熊野平ノ嶺(大字平戸分)に祀られていた。

 その後、寛政年間(1460~65)に現在の地(小山=大字虎秀分)に遷座。

 当時の熊野社は『新編武蔵風土記稿』高麗郡虎秀村の条に「熊野社 天正十九年社領九石の御朱印を附せられる、当村及び平戸村の鎮守なり」とあるように、「飯能では最も石高が多い大社」(『飯能市史(資料編11) 地名・氏姓』(飯能市、1986年)で、平戸・虎秀の鎮守として信仰された。

 大正4年(1915)、白子の白鬚神社を合祀し、神社名を熊野神社から吾那神社に改称した。

 現在は大字虎秀・平戸・白子の鎮守である。

深沢周辺の山名・峠名の混乱

 既に何度も指摘したが、深沢をめぐる山と峠の名称について、『新装奥武蔵登山詳細図』『山と高原地図 奥武蔵・秩父』、そして「飯能百名山リスト」などでは、登山者等が勝手につけた名称を採用しており、既にそれに即した山名表示板や指導標が建てられ、山名等が混乱している。

 そこで、まとめとして地元呼称なき登山者の勝手な命名を列挙し、警鐘を鳴らしたい。

○関ノ入ヤツとヘバラヤツとの間にある尾根(日高市と飯能市との境界尾根)上のピーク

 ・306㍍独標(五常山)→「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名山リスト」→登山者等の勝手な命名

 ・273㍍独標(長尾根山)→「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名リスト」「山と高原地図 奥武蔵・秩父」→登山者等の勝手な命名

○愛宕山~土山の尾根上のピークと峠

 ・愛宕山北の260㍍圏ピーク(水晶山)→「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名山リスト」「山と高原地図 奥武蔵・秩父」→登山者等の勝手な命名

 ・313.1㍍4等三角点ピーク(深沢山)→「山と高原地図 奥武蔵・秩父」→登山者等の勝手な命名

 ・313.1㍍4等三角点ピーク(深沢山西峰)→「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名山リスト」→登山者等の勝手な命名

 ・350㍍圏ピーク(コワタが正しい)→(深沢山東峰)→「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名山リスト」→登山者等の勝手な命名

 ・「沢山峠」→「奥武蔵登山詳細図」→登山者等の勝手な命名

 ・地元呼称「大峰峠(大峰)」を「西大峰」と記載→「奥武蔵登山詳細図」→登山者等の勝手な命名

○ユガテ~吾那神社の尾根

 ・321㍍独標(橋本山)→『分県登山ガイド10 埼玉県の山』「奥武蔵登山詳細図」「飯能百名山リスト」「山と高原地図 奥武蔵・秩父」→小字名にもとづく便宜的な呼称(本稿の略図では括弧書きで表記)

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