2025年7月から8月にかけて5回にわたって連載した「比企・外秩父山名・峠名・巨石名等小辞典」。
今回、検索しやすくするために、全部をまとめて一挙掲載するとともに、タイトルを「比企・外秩父山名等小辞典」に変更しました。
内容についても、誤字脱字を修正したほか、一部加筆しました。
目次には膨大な山名や峠名などが並んでいますが、該当の山名等をクリックすると、説明文にジャンプしますので、簡便に比企・外秩父の関心のある山の概要や山名の由来、山にまつわる伝説や信仰などを知ることができます。
山行の前に、これから行く山の山名をクリックすると、事前に必要な情報を得ることができます。
比企・外秩父には「物見山」「愛宕山」など同じ名称の山がいくつもありますが、目次では標高の高い順に並べるとともに、市町村名に加え、大字名を明記し、検索しやすくしました。
例えば,武蔵嵐山駅から大平山(嵐山町遠山・千手堂)→小川町・嵐山町境界尾根の物見山(嵐山町遠山・小川町下里:214㍍独標)→寺山(遠山寺の裏山)→寒沢山→観音山(大聖寺裏山の200㍍独標)→愛宕山(小川町下里)→瑞光寺跡→遠ノ平山(東野平山)と歩く場合、それぞれの山名等をクリックすれば、地元呼称の山名と山名由来を知ることができるとともに、山にまつわる信仰や歴史など必要にして十分な事前情報を得ることができます。
もちろん、帰ってきてから振り返る場合にも役立ちます。
帰りの電車内で、スマホで検索する際にも便利です。
地域別にさらに詳しい情報を網羅した「比企・外秩父の山徹底研究」14回連載とあわせて、比企・外秩父の山を是非深く知っていただきたいと思います。
また、各項目をカバーする国土地理院発行2万5千分の1地形図を挙げておきますので、2万5千分の1地形図および昭文社・山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(奥武蔵研究会調査執筆)を見ながら読み進めると、良く分かるでしょう。
とくに山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(なるべく最新版を使って欲しい)は、あらかじめ山名や峠名が地図に細かく記載されているので、小辞典を活用するために必携です。
次に凡例を示します。
(凡例)
見出し
かさやま 笠山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町腰越・秩父郡東秩父村白石(所在する市町村大字名)
第8回「笠山と堂平山」(比企・外秩父の山徹底研究の該当回)
2万5千分の1地形図「安戸」
説明文
○○○・・・
それでは、比企・外秩父のディープなワールドを十分堪能してください。
最後になりますが、比企・外秩父のヤブ山には、地元呼称を無視した勝手な命名をした私設山名表示板が目立ちます。そのまま信じずに、山行記録を投稿する際には、是非とも本小辞典を照会してくださいますようお願いいたします。
- あ
- い
- お
- か
- かごやまのたる 籠山のタル(東秩父村・小川町・ときがわ町)
- かさやま 笠山(小川町・東秩父村)
- かざはややま 風早山(小川町・ときがわ町)
- かなおとうげ 金尾峠(寄居町)
- かなおやま 金尾山(寄居町)
- かなたけ 金嶽(小川町・ときがわ町)
- かなやま 金山(東秩父村・寄居町)
- かねがたけ 金ヶ嶽(長瀞町)
- かなばのたいら 金場の平(東秩父村・皆野町)
- かまぶせとうげ 釜伏峠(寄居町・皆野町)
- かまぶせやま おがま・めがま 釜伏山(男釜・女釜)(男釜:寄居町)(女釜:皆野町)
- かゆにたとうげ 粥新田峠(東秩父村・皆野町)
- からすもりやま 烏森山(小川町・東秩父村)
- かわきざわのあたま 川木沢ノ頭(東秩父村・秩父市・ときがわ町)
- かんざわやま 寒沢山(小川町)
- かんのくらやま 官ノ倉山(小川町・東秩父村)
- かんのくらとうげ 官ノ倉峠(小川町・東秩父村)
- かんのんやま 観音山(東秩父村皆谷・御堂)
- かんのんやま 観音山(小川町下里)
- かんのんやま 観音山(熊谷市小江川)
- かんむりいわ 冠岩(ときがわ町・小川町)
- き
- く
- け
- こ
- さ
- し
- す
- せ
- そ
- た
- ち
- つ
- て
- と
- な
- に
- は
- ひ
- ふ
- ほ
- ま
- み
- む
- め
- も
- や
- よ
- ら
- り
- わ
あ
あきばさんじゃくぼうあと 秋葉三尺坊跡(寄居町)
大里郡寄居町大字富田字上郷
第3回「金勝山とその周辺」
地形図2万5千分の1地形図「寄居」
小川町の金勝山(きんしょうざん)北側にあった鷲丸山(わしまるさん)を造成してできた「ホンダ埼玉製作所 完成車工場」(寄居町富田谷津地区)の北にある天神山丘陵(寄居町富田上郷地区)のピークにある「秋葉三尺坊」の跡地。
山稜の東にある180㍍独標の西側ピーク上。
丸太のベンチのある山頂には「大山祇命(オオヤマヅミノミコト)の小さな碑が立ち、その背後に約1メートルの盛り土がある。
これが「秋葉三尺坊跡」であり、かつて火伏せの神である秋葉三尺坊大権現を祀った社殿ないし大きな石碑が建立されていたと思われる。
あたごやま 愛宕山(東秩父村坂本・皆野町三沢)
秩父郡東秩父村坂本・秩父郡皆野町三沢
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」「寄居」
二本木峠のすぐ北にある654.9㍍3等三角点峰(点名は「二本木」)。
純林が茂って展望のない山頂には、愛宕神社の石碑がたたずんでいる。
あたごやま 愛宕山(小川町勝呂・東秩父村安戸)
比企郡小川町勝呂・秩父郡東秩父村安戸
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉峠から西に延びる官ノ倉西尾根と入山川に沿って城山(安戸城址)から西に延びる尾根が合流する410㍍圏ピーク。
細窪山(421.2㍍三角点)のすぐ東側のピークである。
愛宕山は小川町勝呂側の呼称。
南北に細長い山頂の北肩に勝呂の宮沢家が明治18年(1885)4月に奉納した瓦屋根の愛宕神社の小祠があったが、今は破損しているのが残念である。
あたごやま 愛宕山(東秩父村大内沢・寄居町西ノ入)
秩父郡東秩父村大内沢・大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
「金山」(かなやま)の別称→「金山」の項を参照
あたごやま 愛宕山(東秩父村安戸)
秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村安戸から小川町腰越の小瀬田に越える峠である「小瀬田越え」のすぐ西にあった250㍍圏ピーク。
山頂に愛宕神社の小祠が祀られていた。
安戸の宿地区の人々により火伏せの神として信仰され、4月29日が例祭だったが、東秩父カントリークラブ造成工事にともない、小瀬田越えとともに造成され、消滅した。工事は途中で中止となり、周辺は広大な草原となっている。
あたごやま 愛宕山(小川町下里)
比企郡小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
観音山(大聖寺の裏山:200㍍独標)から西に延びる尾根上にある170㍍圏ピーク。
山頂には下里下分(下里1区・2区)の信仰を集める愛宕神社が鎮座。
信仰の盛んなときには、旧暦の8月25日に祭りが行われ、神社の前で老若を問わず相撲好きの人々が集まって祈願相撲が行われ、餅も配られたという。
あたごやま 愛宕山(ときがわ町本郷)
比企郡ときがわ町本郷
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
八高線明覚駅のすぐ北西にある160メートル独標。
かつて山頂には愛宕神社の小祠があったが、明治末に山麓の春日神社に合祀され、今は山頂には何もない。
あたごやま 愛宕山(寄居町鉢形)
大里郡寄居町鉢形
初出
2万5千分の1地形図「寄居」
東武東上線鉢形駅南方の小ピーク。
約300段の石段を登った山頂には愛宕神社が祀られている。
愛宕神社の鐘は明治の文人・田部里風(たなべりふう)の「鉢形八景」にも「愛宕山晩鐘」として描かれるほど有名だったが、太平洋戦争末期、軍に徴用され亡失した。
現在の鐘は、地元出身の実業家・雨宮三兄弟が昭和33年(1958)に寄進したものである(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』さきたま出版会、2004年)。
愛宕山は、豊臣軍による鉢形城攻撃の際に、車山とともに攻撃の要衝となった。
現在は、寄居町のハイキングコース「愛宕山コース」として良く整備されている。
あまごいやま 雨乞山(小川町)
比企郡小川町勝呂
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東武東上線の線路をはさんで「金勝山」(きんしょうざん)の南に対峙する山。
2万5千分の1地形図「安戸」では、「勝呂」の表記のすぐ下にあった山。
地形図での変遷を見ると、当初は採石場の上にかろうじて250㍍独標が残っていたが、徐々に採石場の範囲が拡大。
最新の地形図では250㍍独標は姿を消し、山は完全に削平されており、調整池らしきものができている。
雨乞山は完全に消滅したといってよい。
山麓には津島神社がある。
悲しい最期を遂げた雨乞山だが、戦前まではその名のとおり小川町勝呂の雨乞いの山であった。
田植え前に日照りが続いたとき、上勝呂・下勝呂から2名ずつの計4名の代表が榛名神社に行き、一升樽に御水をもらい、地元に運んで戻ったあと、待っていた集落の代表と一緒に雨乞山に登り、水を撒いて降雨を祈願し、一同酒を飲んだ。
代表たちが下山したのち、村人たちは津島神社の祭神である「素戔鳴尊」(スサノオノミコト)、「天照太神」(アマテラスオオミカミ)の二体の木造のご神体を山車に乗せ、蓑笠をつけて太鼓・鉦(かね)を叩き、総出で夜遅くまで練り歩いたという。
い
いしぶねやま 石舟山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町腰越・東秩父村安戸
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
比企を代表する名山「笠山」から北東に延々と延びる長大な比企郡・秩父郡の郡界尾根が槻川河原に尽きる最後の盛り上がりの山。標高230㍍圏。
山頂は樹木で覆われ、展望はないが、石舟神社の祠があり、その前に大小の石舟が2基奉納されている。
石舟神社は山麓にある腰越の関根家の氏神であり、雨乞いに霊験のある神様として、腰越の人々の信仰を集めていた。
雨乞いが行われたのは昭和の初め頃までで、夏に日照りが続き、畑に被害が出るようになると、腰越では村中総出で雨乞いを行った。
まず腰越の村社である氷川神社の神官を先頭に集落の人が関根家にあるご神体の大小2本の棒(舟を漕ぐ櫓)をもち、山に登り、大小2つの石舟にご神体の大小2つの坊をそれぞれ乗せたあと、山をくだり、地元の力持ちが石舟様を,担ぎ下ろし、切通橋付近の河原に安置。
そののち祈祷が始まり、やがて神官が川に入ると、祝詞を奏上する神官めがけて氏子たちが水をひっかけ、降雨を祈願した。
長らく腰越では行われなかった石舟神社の雨乞いを、東秩父村安戸の帯沢・寺岡の人々が1975年5月25日に復活させたが、今でも続いているだろうか。
お
おおいぬあな 大犬穴(寄居町)
大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
『武蔵国郡村誌』『武蔵通志』は、いずれも「大犬穴山」と記載。
しかし山ではなく、山中にある巨岩である。
場所は、西ノ入の五ノ坪川に沿った林道をつめ、ヒノキの山林を登るようになったら、山腹の斜面に高さ8㍍ほどの石灰岩の巨岩がのしかかるように周囲を圧倒している。
これが「大犬穴」である。
昔オオカミが棲んでいたという「大穴」があることから、「大犬穴」と呼ばれるようになったという。
そのまま山林をつめて小尾根に出たら、さらに登り切ると、官ノ倉西尾根の「細窪山」西にある比企郡・秩父郡・大里郡三郡の境界にあたるピーク(「三郡境」と便宜的に呼称。現地には東秩父・寄居・小川の三境界を示す小さな標柱が埋め込まれているという)に出る。
おおぎりやま 大霧山(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村皆谷・秩父郡皆野町三沢
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
粥新田峠(かゆにたとうげ)の南にある766.7㍍3等三角点峰(点名は「大霧山」)。
山頂からは360度の大展望が得られる。
山名の由来は、『新編武蔵風土記稿』秩父郡三沢村の条に「ややもすれば雲霧を含み、頂を蔵せり」とあり、『武蔵通志』でも、「山頂雲霧常に絶えず、故に大霧の名あり」とあるように、霧が立ち込めることが多い山ということに由来するというのが定説である。
しかし、周囲には標高が同じ程度の山もあり、気象条件的にも大霧山だけに霧が発生しやすいというわけではない。
この説はむしろ「大霧山」という漢字表記に付会した説であろう。
むしろ、「キリヤマ」が「開墾地」「焼畑」を意味することと、山の東側が秩父高原牧場であり、その前身の大規模な開墾地があったことから「大キリ山」の名が生まれ、それに「大霧山」の字をあてたことから、「山頂がつねに雲や霧に包まれている」という山名由来伝説が付会したのではないだろうか。
なお大霧山の山頂には、小川町下古寺の「古寺鍾乳洞」に続くといわれる深い穴があるという。
おおだてやま 大立山(滑川町)
比企郡滑川町中尾
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
「二ノ宮山」「高根山」とともに、比企郡滑川町を代表する山。
滑川町大字中尾加田(がだ)集落のため池「両頭庵沼」の背後にある。
山頂には南から112.7㍍4等三角点(点名は「大立山)標石、安永4年(1775)2月吉日記銘の山ノ神の小祠、冨士浅間太神・小御嶽神社の石碑がある。
山名は、山麓の加田集落にある加田薬師付近から眺める堂々たる山容によるという。
以前は山頂に松の大木があり、良く目についた。
男松2本、女松1本が、女松を真ん中にしてそびえたっており、大立山のシンボルとなっていたが、残念ながら台風で倒壊してしまった。
大立山の山ノ神は、加田集落の信仰を集めている。
毎年1月17日が山ノ神の祭り(初詣)で、加田集落のうち昔から住む15軒の人々が登拝する。
当日は午前10時頃に山頂に登り、山ノ神の祠に餅を2つ供える。
拝んだあと、供えた餅のうち、1つを残し、他の家が供えた餅のうち1つをもらって帰り、餅の取り替えっこを行う。
もらってきた餅を食べると、山仕事をしていてもマムシにかまれないという。
しかし、大立山から二ノ宮山にかけての一帯が、西武鉄道の「滑川嵐山ゴルフコース」(現・おおむらさきゴルフ倶楽部)の計画地になってしまった。
大立山は残存樹林として残ったものの、ゴルフ場内になり、地元・加田集落の人々も、年に1回、1月17日の初詣のときにしか登ることができなくなった。
おおびらやま 大平山(長瀞町岩田・寄居町風布)
秩父郡長瀞町岩田・大里郡寄居町風布
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
葉原峠の北にある538.6㍍3等三角点(点名は「小林山」)ピーク。
山頂のすぐ北側はゴルフ場(長瀞カントリークラブ)。
寄居町の風布から眺めると、台地状の堂々たる山容が印象的である。
この山容と風布、金尾、岩田、井戸などにまたがる根張りの大きな山容から大平山(おおびらやま)と命名されたと推察される。
すぐ南の葉原峠にはハイキングコースが通っているが、そこから外れた不遇な山。
「小林山」と呼ぶ向きも多いが、「小林山」は寄居町風布の小林地区みかん山の総称名であろう。
むしろ『武蔵通志』で「土鍋山」(つちなべやま)あるいは「指山」(さすやま)と呼ばれている山が「大平山」であろう。
「指山」の「サス」は焼畑をさす地名であり、昔この付近が焼畑であったことを想像させる。
「土鍋山」(つちなべやま)は、長瀞町岩田付近から望む土鍋(どなべ)に似た山容によるものと思われる。
おおひらやま 大平山(嵐山町遠山・千手堂)
比企郡嵐山町遠山・千手堂
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
嵐山渓谷の北側にある179㍍独標。
山頂一帯は武蔵嵐山公園として整備されており、四方から山頂に遊歩道から登っている。
山頂からの展望は素晴らしく、眼下に嵐山渓谷を一望できる。
山頂には、かつて小倉城の物見櫓があったと伝えられるほか、雷電神社が祀られていることから、雨乞いが行われた場所でもあった。
ところで、『武蔵通志』は「雷電山 高五百尺菅谷村千手堂の西にあり、頂に雷電社あり・・・」と記している。
位置的にも、山頂に雷電神社を祀り、雨乞いの山であったことからも、ここでいう「雷電山」は大平山のことを指すのではないか。
おおみね 大峰(ときがわ町)
比企郡ときがわ町日影
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
ときがわ町大字日影の小北(こぎた)集落北にあり、小川町境界にかけて広がる山の総称。
最新の2万5千分の1地形図「武蔵小川」(2017年10月調製、2018年1月1日発行)では、小川町境界上にある293㍍独標に「大峰山」の名が記されており、旧玉川村教育委員会編集の『玉川村植物誌』(1994年3月)でも「大峰山」の名を使っているが、山の所有者に確認したところ、正しくは「大峰」である。
また「大峰」は、293㍍独標単独の名称ではなく、小川町境界の同峰を北峰とし、283㍍独標を南峰とし、中間のピークを中峰とするおおむね3つのピークの総称である。
『玉川村植物誌』(玉川村教育委員会、1995年)によると、大峰の写真を載せ、その説明として「日影の集落から見た大峰山です。なだらかな山で、昔から山腹にたくさんの切畑や山畑が作られ、利用されてきたようです。山頂部は採草地として草地に利用されてきたことが、明治の地図からわかります」とある。
大峰の山頂部が草地で展望が良かったことは、かつて大峰の所有者にインタビューしたときにも、「空気の澄んだときには、山頂から東京タワーまで望見できた」との言葉からも裏付けられる。
所有者によると、大峰の名称は、村(日影村)の北境にそびえる雄大な山容によるもの(ひときわ目立つもの)であろうということであった。
なお、大峰から北に尾根続きの小川町側の丘陵(福寿山と総称)も、大峰と同じく山頂部は草地で展望が良く、大峰のすぐ北側は「富士見平」(字名)と呼ばれるほど富士山の眺望が良かったという。
しかし、小川町側の福寿山(総称)は、最高点の御岳山を除き、「(仮称)武蔵台カントリークラブ」(現・アドニス小川カントリー倶楽部」)の造成により完全に破壊されてしまった。
大峰北峰(293㍍独標)にも山頂直下までゴルフ場が迫り、景観は一変してしまった。
おぐらとうげ 小倉峠(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町下里・比企郡ときがわ町田黒
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町青山の仙元山から城山をへて、252.4㍍4等三角点で直角に右に折れ、槻川右岸に沿って東に延びる丘陵を通称・仙元丘陵と呼ぶ。
この仙元丘陵の東部にある下里の仙元山から南に八高線・明覚駅付近にくだる尾根と分かれ、東に主尾根をくだると、鞍部に出る。
鞍部は十字路になっていて、進行方向から左に下りると、小川町下里1区の東坂下。右にくだると、ときがわ町の小倉集落(大字田黒)。正面に尾根を登ると、小倉城址に出る。
小川町の下里からときがわ町の小倉へ越える峠という意味で、「小倉峠」と呼ばれていた。
おぐらじょうし 小倉城址(ときがわ町・小川町)
比企郡ときがわ町田黒・比企郡小川町下里
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小倉峠から登りに転じる仙元丘陵が槻川の曲折部に急激に落ち込む手前に、尾根に忠実に沿って遺構のある城跡。
小倉城の城主としては、小田原北条氏の家臣・遠山右衛門太夫光景という説が有力である。
近くの遠山寺(嵐山町遠山)には光景の墓があり、小倉城の大手門入口にあたる大福寺(ときがわ町田黒)には、光景内室の位牌が保管されているという。
豊臣秀吉の小田原征伐のとき、小田原城の重要な支城であった松山城が落城したとき、小倉城も運命ともにしたという。
だが、小倉城の城主については、松山城主の上田氏とする説もあり、確定していない。
2008年3月28日、既に国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)、松山城址(吉見町)、杉山城址(嵐山町)に小倉城址も追加され、4城館一括で「比企城館跡群」の名で国指定の史跡になった。
それ以降、小倉城址の整備も進み、今では麓の大福寺横に駐車場のある立派な入口と遺構図およびその説明があり、山に入ると、道が整備され、要所要所に説明書きがある。
小倉城は天然の要害を最大限利用している。
仙元丘陵の地形に沿って郭(くるわ)が築かれ、北の槻川への急崖は天然の要害になっている。
そのため弱点である西側、つまり小倉峠側からの侵入に備えたつくりになっている。
おしゃもじやま お杓母子山(鳩山町)
比企郡鳩山町今宿
初出
2万5千分の1地形図「越生」
鳩山町大字今宿にある62.7㍍4等三角点(点名「今宿」)のある小山。
中腹にお杓母子神社があり、大きなしゃもじのご神体が2体奉納されている。
風邪に効能のある神様で、10月15日夜の縁日に例祭が行われる。
山頂には「おしゃもじ山公園展望台」が設けられている。
天気の良い日には遠く筑波山や新宿の高層ビル群、そしてスカイツリーも見えるという(藤本一美「比企の『おしゃもじ山』探検」『新ハイキング』379号、1987年5月)。
駅から歩くと遠いのが難だが、東武東上線坂戸駅北口から大橋行きのバスに乗車。
「公園前バス停」(所要時間約20分)で下りると、「お杓母子山」が目前である。
おだいにちさま お大日様(大日山)(ときがわ町)
比企郡ときがわ町日影・雲河原
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
ときがわ町日影の雀川砂防ダムから雀川(行風川)を忠実につめると、雷電山と御岳山を結ぶ尾根に出る。
この地点は行風山(332㍍独標)左のCATVアンテナのあるピーク(320㍍圏)と行風山南西の330㍍圏ピークとの鞍部である。
後者の330㍍圏ピークは小広い台地状の山で、雑木の茂る山頂の中央には石塚(石積み)が築かれ、その上には古い石碑が寂しくたっている。
東側山麓の小北(大字日影)で尋ねると、かつて「お大日様」(大日如来)を祀った跡であるという。
地元の古老のなかには、お大日様を祀った山として、転じて山自体を「お大日様」と愛称する方もおられたが、今はどうだろうか。
大日山と呼ぶ家老もいる。
おんたけさん 御岳山(小川町)
比企郡小川町青山
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」「安戸」で、「大峰山」と記載のある小川町・ときがわ町境界の293㍍独標(「大峰」が正しく、293㍍独標は大峰北端のピークである)北西にある297㍍独標。
小川町青山上にあり、山頂には木造の鳥居の奥に石の台座に乗った明治19年(1886)建立の「御嶽様」(正式には「御岳山蔵王大権現」)の石像がある。
この石像はサイズこそ異なるとはいえ、木曽御岳山の本尊と姿形とも同一であるともいう。
御岳神社(御嶽神社)は「御岳山蔵王大権現」の名が示すように、神仏習合の名残をとどめており、山号は「福寿山」である。
つまり、「福寿山御岳山蔵王大権現」が御岳神社(御嶽神社)の本尊である。
御岳山の例祭は4月18日。かつては例祭時に青山上(小川町)だけではなく、上古寺(小川町)、日影(ときがわ町)から、さらに東京からも参拝者があったという。
青山上では、ときがわ町境までに及ぶ南部の丘陵全体を「福寿山」と呼んでいた。
この広義の「福寿山」は、小字「福寿」や「富士見平」を含む一帯である。
福寿山の最高点が御岳山であり、物見山の別称もあったという。
往時の御岳山周辺は灌木が草地に混じる一帯で、展望が良く、御岳山から三笠山(ゴルフ場造成前の1986年測量・同年4月30日発行の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で大峰山の名をつけている289㍍独標)、その北の八海山へと御岳山にちなんだ名が付けられ、三笠山・八海山の山頂には同じ形状の石像(三笠山様・八海山様)が祀られていた。
青山上から八海山・三笠山を経由して御岳山に登る道が参道だった。
信仰の厚かった御岳山も、山頂だけを残し、周囲の丘陵は「仮称・武蔵台カントリークラブ」(現・アドニス小川カントリー倶楽部)造成のため、すべて破壊されてしまった。
今残っているのは、御岳山頂と、その北にある神社記号(八坂神社)だけである。
なお、御岳山の南西山腹(小川町上古寺)には、奥ノ院的な存在である「サネ山の奥ノ院」の祠がある。
か
かごやまのたる 籠山のタル(東秩父村・小川町・ときがわ町)
秩父郡東秩父村白石・比企郡小川町腰越(腰上)・比企郡ときがわ町大野
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
笠山と堂平山との鞍部について、東秩父村白石から小川町腰越(腰上)へ越える峠と、白石からときがわ町大野の七重集落へ越える峠とは位置が少しずれている。
従来、前者を笠山峠、後者を七重峠(七重越え)などとガイドブックや登山地図類は記載していた。
しかし、笠山峠・七重峠(七重越え)は、いずれも地元呼称ではない。
先駆的な登山者が便宜的につけた名称である。
東秩父村白石では、鞍部を「籠山のタル」あるいは単に「籠山」と呼んでいる。
「籠山」の名は、白石側からタル(鞍部)に突き上げる大日向沢の奥入(オクリ)にあったとされる「釈禅寺(釈伝寺)の山号「加護山」に由来する。
なお、「籠山のタル」は白石側の呼称で、腰越側の腰上では栗山の集落から鞍部へ突き上げる沢である「平ノ沢」からとった「平ノ沢の峠」を呼んでいる。
できれば、地元呼称を踏まえ、白石~腰上への峠、白石~七重(大野)への峠の総称として、「籠山のタル」ないし「平ノ沢の峠」に直したいと思っている。
かさやま 笠山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町腰越(腰上)・秩父郡東秩父村白石
第8回「笠山と堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
比企・外秩父を代表する名山。
小川盆地から仰ぐ笠山は、その名のとおり笠を立てたような美しい形状の上に、まるで乳首のような山頂(東峰)をちょこんと突き上げ、そのかたちから「乳首山」の愛称がある。
山頂は東峰と西峰からなる。
東峰(837㍍独標)が主峰で、山頂は鬱蒼とした森林に囲まれ展望はないが、腰上・白石双方に氏子をもつ笠山神社がある。
東峰は完全に小川町腰越(腰上)の領分だが、東峰の肩のような存在の西峰(810㍍圏)は標高こそ東峰に譲るが、北側が開け、展望に恵まれている。
西峰は小川町腰越と東秩父村白石との境界である。
西峰から北東に槻川の河原まで長大な比企郡と秩父郡との「郡界尾根」が延びる。
郡界尾根は比企・外秩父の山のなかでも、人と出会うことのほとんどない静かな山歩きが楽しめる貴重な領域であり、途中に「タカハタ(高旗山・高畑山)や「石舟山(石船山)」など、伝説や信仰を秘めた山を擁している。
東峰に祀られた笠山神社の氏子は小川町腰越の腰上(小貝戸・館・赤木・栗山の4集落)と東秩父村白石の鎮守である(ただし、腰上の小貝戸のみ半数の世帯)。
腰上・白石双方とも笠山神社への参道が整備されている。
腰上側は「下の笠山」(笠山神社下社)から鳥居松跡をへて、笠山神社に登るが、かつては下の笠山が女人結界であった。
笠山神社(笠山大権現)は腰越村の領域にあるが、長らく白石村が神社を維持管理していた。
これに腰越村側が異議を唱えるなど、白石村・腰越村間の境界争いが絶えなかった。
最終的に明治4年(1871)秋に笠山神社は腰越村社となり、それ以降は神社の管理は白石村から腰越村に移された。
しかし、笠山神社の例祭は腰越(腰上)・白石の氏子が共同で行う。
例祭は年2回で、春が5月3日、秋が11月20日。
春の祭典(毎年5月3日)は腰上・白石からそれぞれ氏子が20名ずつ登り、最も盛大に行われる。
当日(5月3日)は山頂で花火が打ち上げられるが、それは午前6時頃と午後の3時頃である。
祭典が終わったのち、春の祭典にかぎり、氏子に「お猫様」と呼ばれる猫の絵を刷った護符(お札)が配られる。
これは、養蚕地帯である笠山の山麓において、繭(マユ)を食べるネズミの天敵である猫を描いているので、養蚕家に珍重され、蚕室や倉の入口などに貼られたという(内田康男『ふるさと腰上-その歴史と伝説-』1999年)。
また笠山神社には「猫石」という小さな石があり、この石をいただいて1年間ネズミの被害が出ないと、翌年2つを返したという。
その他、笠山神社にはもぐら除けの信仰、雨乞い信仰などもあったという。
笠山の別名は「見性山」(けんしょうざん)という。
「見性」(けんしょう)とは、仏教用語で、「本来固有の真性を見極めること」をいう。
慈光寺では、かつて笠山・堂平山・金嶽(鐘岳)を「慈光三山」と呼び、それぞれ「見性山」(=笠山)、「遠一山」(おんいつさん)(=堂平山)、「與地の峰」(よちのみね)(=金嶽)と呼んでいた。
この三山は、慈光寺修験者の修行の場であったと思われる。
かざはややま 風早山(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町腰越(腰上)・比企郡ときがわ町西平
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
慈光寺・霊山院裏の小川町・ときがわ町境界尾根を西に進んだ539.4㍍3等三角点(点名「平萱」)のあるピーク。
昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(奥武蔵研究会調査執筆)では、2025年版でも「金嶽」の名を付している。
しかし、金嶽の項目で述べるように、上記の金嶽の位置は間違っている。
では、539.4㍍3等三角点峰を地元では何と呼んでいるのだろうか。
北側の小川町腰上(赤木)では、赤木の小字名「平萱(たいらがや)」に由来する名称「平萱の三角点」と呼称している。
では、南側のときがわ町西平ではどうなのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』比企郡平村では、「風早山 西北なり」と記している。
西平の西北という点では、「平萱の三角点」と合致している。
そのうえ、『都幾川村史資料1 地誌Ⅰ』(都幾川村、1990年)所収の「都幾川村小字地図」の「平地区」を見ると、平萱の三角点南側(ときがわ町側)小字名が「風早」となっている。
古い地誌の記述が小字名と合致していることを踏まえ、町田尚夫氏は「平萱の三角点」のときがわ町側の呼称を「風早山」としても無理がないだろうとされている(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』さきたま出版会、2004年)。
2023年3月に刊行された小川町教育委員会の「古寺鍾乳洞調査報告書」でも、「古寺鍾乳洞は、小川盆地の南西、ときがわ町との境にある標高463㍍の都幾山(鐘嶽)や標高539.4㍍の三等三角点のある山(平萱、風早山と呼ばれる。)・・・」と書かれている」ように、風早山は、593.4㍍3等三角点の呼称の1つとして認知されたといってよい。
かなおとうげ 金尾峠(寄居町)
大里郡寄居町金尾
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
大平山(おおびらやま:538.6㍍3等三角点)から北東に続く尾根が「長瀞カントリ-クラブ」を経由して、県道82号長瀞玉淀公園線にぶつかる地点が「新金尾峠」である。
新金尾峠は、2万5千分の1地形図「寄居」からも分かるように切り通しになっている。
ここは「長瀞カントリ-クラブ」からの道が県道長瀞玉淀公園線に合流する地点である。
旧金尾峠へは、いったん「長瀞カントリ-クラブ」への道を少し入り、すぐに右の山道に入る。
まもなく、大きな馬頭観世音像のたつ旧峠につく。
この旧峠は金尾村と岩田村の境に当たっていた。
かなおやま 金尾山(寄居町)
大里郡寄居町金尾
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
金尾峠北東の229㍍独標。
外秩父主稜の掉尾を飾る山であり、この山を最後に笠山・堂平山に発し、白石峠・定峰峠・大霧山・粥新田峠・二本木峠・皇鈴山・登谷山・釜伏峠・塞ノ神峠・仙元峠(浅間峠)・葉原峠・大平山をへて延々と続いてきた外秩父主稜は荒川に消える。
金尾山は別名「要害山」といい、金尾砦の跡がある。
金尾砦を築いた人物については見解が分かれているが、近年の見解では次のような説が有力である。
小田原の後北条氏の関東進出にともない、後北条氏と対立関係にあった山内上杉家に属した藤田氏はいったん後北条氏の軍門に下ったが、のちに再度、後北条氏に対し反旗を翻した。
この時期に、藤田氏の本拠である末野(寄居町末野)と藤田の城である天神山城(長瀞町岩田)を結ぶ軍事上の要衝(とくに後北条氏の鉢形城への監視役)として、藤田氏が最初に金尾山に「番小屋」を築いたのではないか。
その後、北条氏邦による天神山城攻略などにより、藤田氏が再々度後北条氏の軍門にくだったのち、今度は鉢形城主・北条氏邦が家臣の岩田氏の所領とし、岩田氏が現在の砦(城)を築いたのではなかろうか(梅沢太久夫『埼玉の城-127城の歴史と縄張-(改訂版)』まつやま書房、2023年)。
さて、金尾山は1959年4月5日の植樹祭で、当時の天皇・皇后両陛下が6本のヒノキを御手植されるとともに、参会者が計1万5千本のヒノキを付近一帯に植樹した。
このことを記した「行幸記念の歌碑」と「行幸啓記念碑」がある。
現在、金尾山一帯は公園として整備され、ツツジが植えられ、5月には山頂一帯が一面ツツジの山となる。
また、山頂には「仰ぎ見つ俯し見つあかぬ金尾山」と刻まれた句碑が建てられている。
かなたけ 金嶽(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町上古寺・比企郡ときがわ町西平
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
鐘嶽・鐘岳とも表記され、この場合、「かねだけ」と呼ばれる。
別名は「與地の峰」(よちのみね)。
與地の峰は、笠山(見性山:けんしょうざん)、堂平山(遠一山:おんいつさん)とともに「慈光三山」と呼ばれ、慈光寺の僧の修行場であったという。
昔、金嶽(鐘嶽・鐘岳)の山頂には源頼朝の寄進した鐘楼があり、鐘が吊り下げられていた。
ところが、ある時、鐘が転がり落ちて、北側の金嶽川の上流・金嶽沢に埋まってしまったという(沈鐘伝説)。
問題の金嶽の所在地だが、小川町上古寺とときがわ町西平の境界尾根上にあるという。
ときがわ町西平側の霊山院北側の小字名は「鐘嶽」。
境界尾根北側(上古寺)一帯の山林には「金嶽」の小字名があり、金嶽川の上流となっている。
小川町側の「金嶽」、ときがわ町側の「鐘嶽」という2つの小字、および金嶽が霊山院の裏山であり、慈光寺のある山(=都幾山:ときさん)の最高点であるという点を考慮すると、位置的に2万5千分の1地形図「安戸」で都幾山の名が表記されている小川町・ときがわ町境界尾根上の463㍍独標こそ「金嶽」(鐘嶽・鐘岳)であると推定できる。
上古寺の小門(こかど)集落から金嶽川をさらにさかのぼると、前方左側に高い山がみえてくる。
この山こそ金嶽であるという内田康男氏の記述(氷川の里上古寺編集委員会編著『氷川の里上古寺』氷川神社、1985年)も、位置的に463㍍独標と一致する。
奥武蔵研究会調査執筆の山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、小川町・ときがわ町境界尾根をさらに西に進んだ539.4㍍3等三角点峰を金嶽としているが、これは誤りで、正しくは「風早山」(平萱の三角点)である。
最後になるが、最近、金嶽(463㍍独標)北のピークに410.3㍍4等三角点が新たに設置された。
ところが、この三角点の点名が何と「金嶽」となっている。
本当の「金嶽」(463㍍独標)山頂には「都幾山」と書かれた私設の山名表示板が設置されているようで、これらが金嶽の位置をめぐる混乱にさらに拍車をかけそうだ。
かなやま 金山(東秩父村・寄居町)
秩父郡東秩父村大内沢・大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村大内沢の居用集落のすぐ上にある330㍍圏ピーク。別名「愛宕山」。
官ノ倉峠から西に続く官ノ倉西尾根上のピークで、秩父郡東秩父村と大里郡寄居町との境界に位置している。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内村の条に、「金山 村の東にて上り二十町ばかり、芝山にて秣場なり」と書かれている山である。
金山という山名は、鉢形城落城のときに、埋蔵金をこの山に埋めたことによるという。
ところで、 金山山頂の西端には、居用集落(大字大内沢)の信仰の厚い愛宕神社が祀られている。
そこから居用の人々は金山を愛宕山とも呼んでいる。
現在山頂に立つ立派な愛宕神社の石碑は、大正10年(1921)3月に建立したものである。
例祭は正月14日と7月24日の年2回である。
かねがたけ 金ヶ嶽(長瀞町)
比企郡長瀞町井戸
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
外秩父主稜の仙元峠(浅間峠)・葉原峠間の505㍍独標から西に派生する支稜上の神社記号のある山。
380㍍独標の北西側の山である。
秩父鉄道野上駅付近から見ると、屹立する三角形の山容が印象的。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡井戸村の条を見ると、「金嶽 村の東の方、山峯屹立し、登ること十五六町。頂上に春日神社を祀る」とある。
金ヶ嶽へは、南側の臨済宗法善寺から登るのが表参道が一般的である。
道は長瀞ハイキングコースのうちの1つなので、良く整備されている。
山頂には、『風土記稿』の記述のとおり、立派な春日神社の社殿が祀られている。
ところで、金ヶ嶽から東に尾根伝いにたどると、まもなく植平(うえびら)耕地から登ってくる道に合流。
まもなく外秩父主稜上の505㍍ピーク北に出る。
この地点について、奥武蔵研究会調査執筆の山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、「植平峠」(うえびらとうげ)と表記している。
しかし、これは誤りで、植平峠なる名称は長瀞町がハイキングコースを整備するにあたり、地元呼称に関係なく、勝手に命名したものだ。
かなばのたいら 金場の平(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村大内沢・皆野町三沢)
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」
皇鈴山(みすすやま)からグミの木峠へ向かうと、それまでののびやかな尾根とは打って変わって、手すりのある痩せた尾根に変わる。
進行方向右下の大内沢側は岩稜となっている。
この岩稜の上にあるやせた尾根一帯を大内沢では「金場の平」と呼んでいる。
なお、大内沢側の岩稜のなかに、「とんび岩」と呼ばれる大岩がある。
かまぶせとうげ 釜伏峠(寄居町・皆野町)
大里郡寄居町風布・秩父郡皆野町三沢
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
寄居町風布から皆野町三沢へ越える峠である。
峠は「杉木立に囲まれた静かな峠であったが、今は広い駐車場のようになっている」(飯野頼治『山村と峠道-山ぐに秩父を巡る-』エンタプライズ、1990年)
「釜伏」という峠名は、峠の西北に聳える釜伏山(男釜)の釜を伏せたような山容によっている。
釜伏峠のすぐ脇に釜山神社がある。
当初は峠から寄居側に少しくだった場所(釜伏地区)に神社があったが、その後、神社を現在の場所に移すとともに、名称を「釜山神社」に変えた。
神社の神主は当初から「岩松姓」である。
江戸時代、江戸と秩父との往来が盛んだったが、当時中山道を熊谷に向かい、さらに寄居に着いたあと、秩父へは2つのコースがあった。
一つは寄居より荒川に沿って波久礼(はぐれ)→野上→三沢→秩父へとたどる「本通り」。
もう一つが、寄居から釜伏峠に登り、三沢におり、そこから秩父に向かう「山通り」である。
「本通り」がメインルートであったが、そこには「波久礼の難所」があった。
荒川が大きく蛇行すると同時に、北と南の両側から山がせり出し、川幅が極端に狭くなり、川は急流という難所であった。
しかも、荒川の岸辺の岩壁に道が付けられていたので、悪天候により川が増水すると、通行できず、足止めになることが多かった。
そこで、多くの人々は難所である本通りを避け、釜伏峠に登る「山通り」を選択した。
釜伏峠の賑わいは、荒川沿いに秩父鉄道が開通するまで続いた。
かまぶせやま おがま・めがま 釜伏山(男釜・女釜)(男釜:寄居町)(女釜:皆野町)
男釜:大里郡寄居町風布、女釜:秩父郡皆野町三沢
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
『新編武蔵風土記稿』秩父郡風布村の条に、次の一文がある。
「釜伏山 峠(注;釜伏峠)の傍らに釜を伏せたる如くの山二つ相雙へり。是を釜伏山という」
ここから分かるように、釜伏山は一般に「釜伏山」と呼ばれる釜山神社背後の「男釜」(おがま)だけでなく、釜山神社をはさんで相対している「女釜」(めがま)を含む総称である。
釜伏山の名は、「日本武尊が東征の途次、神籬(ひもろぎ)をたて粥を煮て、日の太神、神武天皇を遙拝し、釜を伏せて戦勝を祈願したとか、大太坊(だいだらぼう)という巨人が釜を伏せていったところから山名になったとの説があるが、北東方の男釜の山容から名づけられたと思われる」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)。
しかし、女釜も男釜に負けず釜を伏せたような形の山容をしており、一概に男釜の山容から釜伏山の名がついたとは言い切れないようだ。
男釜(582㍍独標:寄居町風布)の山頂は樹林に覆われ、展望はきかないが、釜山神社の奥の院が祀られている。
女釜(皆野町三沢)は、男釜よりも9㍍高い標高591㍍。
「荻根山」(おぎねやま)の別称がある。
かゆにたとうげ 粥新田峠(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村皆谷・秩父郡皆野町三沢
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村皆谷から皆野町三沢へ越える峠。
大霧山の北にある。
「粥仁田峠」とも「皆新田峠」とも書く。
江戸時代、「この峠道は盛大に利用された。この峠を越えて小川より秩父への米が移出され、秩父から紙の原料である楮(こうぞ)が運ばれた」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)
「粥新田峠」は「かゆにたとうげ」と一般に発音されるが、地元ではむしろ「かいにたとうげ」と呼ぶ人が多い。
「けーにた」と呼ぶ古老もおられた。
ここに粥新田峠の名前の由来を解く鍵がありそうだ。
昔、日本武尊がこの地で粥を煮たので、粥新田峠とつけられたといわれるが、これは「かゆにた」の呼び方ないし「粥新田」の漢字表記に付会した説である。
むしろ「かいにた」の呼び方から地名の由来を考えてみよう。
地形語彙で「カイ」には「狭間」の意味がある。
つまり、山と山にはさまれた狭間=峠を指すと考えることができる。
一方、「ニタ」は「ヌタ」ともいい、「湿地」を指す語彙である。「イノシシが身体をこすりつけた湿地」という意味である。
以上を総合すると、イノシシが好きな湿地や沼地のあった峠という意味で「カイニタ」が使われ、それに「粥新田」「皆新田」などの漢字があてられたと考えることができる。
からすもりやま 烏森山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町木部・秩父郡東秩父村安戸
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉峠から西に延びる官ノ倉尾根上の366㍍独標の西にある370㍍圏ピーク。
樹林に覆われ展望のない山頂には、「烏森山」と書かれた私設の山名表示板。
山頂には安戸の人が祀った虚空蔵様の小さな祠がある。
烏森山は小川町木部側の呼称。
『武蔵国郡村誌』の木部村の条、『武蔵通志』にも「烏森山」の記載がある。
上勝呂の「吉田家住宅」付近から見ると、366㍍独標および一段と高い烏森山が左右に並んでいる。
烏森山の名因は、樹木の茂った「烏=鳥」の多い山というところにあるのだろう。
烏森山には「虚空蔵山」という別名がある。
前述したとおり、山頂には瓦屋根の虚空蔵様(虚空蔵菩薩)の祠が祀られている。
木部で1986年頃、烏森山の山名を採集した折、古老から次のような話を聞かされた。
かつて木部の不動入(木部川の上流)には北向不動から始まる十三仏があり、沢のツメにあたる烏森山の頂上に最後の虚空蔵菩薩が安置されていたという。
この話の真偽は定かではないが、現在、十三仏は木部の北向不動(不動入上流)に祀られている。
その意味では、十三仏が祀られている木部の北向不動と、不動入のツメにあたる烏森山との間には何らかの関係があったのではないかと推測される。
かわきざわのあたま 川木沢ノ頭(東秩父村・秩父市・ときがわ町)
秩父郡東秩父村白石・秩父市・比企郡ときがわ町大野
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
白石峠から稜線を西に急登した874㍍独標。
現在、電波施設が山頂を占拠している。
槻川源流部の総称「川木沢」(かわきざわ、かわぎざわ、かーぎざわ)は、このピークの名称として、その名をとどめている。
ところで、「川木沢ノ頭」は地元(白石・定峰・大野)の呼称ではなく、登山者がつけた仮称であったのである。
藤本一美氏によると、松本善二氏が『山岳』第20巻第1号(1926年7月号)所収の「秩父笠山より丸山」にて「仮称」として紹介したのが最初であるという。
地元白石では全くの無名峰であるが、比企郡ときがわ町、秩父郡東秩父村、秩父市の3つの自治体の境となる山である。
なお、大石真人氏、藤本一美氏とも白石峠西の874㍍独標を「川木沢ノ頭」としたのち、そこから北西に定峰峠(新定峰峠)に向かう尾根上の828㍍独標を「ハギノソリ」(萩ノソリ)している。
しかし、それは誤りであり、「ハギノソリ」は秩父市定峰側の小字名で、「川木沢ノ頭」の定峰側部分にあたる(『高篠村誌』秩父市高篠公民館、1980年所収の「高篠村略図より)。
問題は、秩父市定峰側で、「川木沢ノ頭」を小字名にちなむ「ハギノソリ」と呼んでいるかどうかであり、今後地元で聞き取りを行う必要がある。
かんざわやま 寒沢山(小川町)
比企郡小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町下里・大聖寺の裏山(200㍍独標:観音山)から南西に愛宕山に延びる尾根がある。
それとほぼ並行して、南側に小川町と嵐山町との境界尾根が延びている。
この町境尾根こそ物見山(214㍍独標)から寺山(180㍍圏)へと南西に延び、寺山から槻川に落ち込む尾根である。
ところで、町境尾根の物見山と寺山との中間よりやや前者(物見山)に寄った地点から左に延びる支尾根があり、支尾根のすぐ先に220㍍圏の根張りの大きな山容の山がある。
この山こそ「寒沢山」である。
大石真人氏は寒沢山について、「寒沢山(220㍍)武蔵嵐山の西、遠山部落の脊稜をなす山容の豊かな山である」と紹介している(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収の「奥武蔵辞典-山名編-」)。
ここで寒沢山と紹介されているのは物見山(214㍍独標)であることは明らかである。
その後、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社)時代に入ってからも、奥武蔵研究会は大石氏の説を踏襲。
町境尾根の214㍍独標(物見山)を寒沢山としてきた。
しかし、現在の山と高原地図では、物見山(214㍍独標)の南西から西に派生する支尾根上の220㍍圏ピークに寒沢山が表記され、正しい位置になっている。
ただし、山と高原地図では、寒沢山の表記のすぐ上に「和具山」の表記があり、これでは和具山(わぐやま)が寒沢山の別名であると誤解されやすい。
和具山は大聖寺のある山(観音山)から愛宕山に延びる尾根北側の小字名である。
ところで、寒沢山は字「内寒沢」に位置し、寒沢集落のオクリ(奥)に聳える山であることから、その名が生まれたと思われる。
あるいは「寒沢ヤツ」のオクリにある山の意かも知れない。
寒沢山は、小川町において板碑の原料である石材(緑泥片岩や結晶片岩)を採掘・加工した遺跡19ヶ所のうち、国指定遺跡になった3ヶ所のうちの1つである「内寒沢遺跡」のある山でもある。
小川町下里には、国指定遺跡がもう1つ割谷(わりや)にもあること(割谷遺跡)を付記しておきたい。
現在、寒沢山山頂には「八頭山」という誤った山名を記した私設山名表示板(地元呼称を無視した設置者による勝手な命名)があるので、「八頭山」の名を安易に広めないよう(山行記録などで)要注意。
ヤマレコやYAMAPの山行記録では、誤った山名(八頭山)が垂れ流され、寒沢山という正しい山名が誤った場所(物見山214㍍独標の位置)に表記されているのは残念である。
かんのくらやま 官ノ倉山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町木部・笠原、秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東武東上線東武竹沢駅の南に聳える見事な双耳峰。
東峰(小川町笠原)は山頂に笠原の信仰を集める阿夫利神社(官ノ倉の石尊様)を祀ることから「石尊山」と俗称されている。
西峰(344㍍独標:小川町木部と東秩父村安戸との境界)も、山頂に安戸在家1区・2区の信仰を集める浅間神社(上の浅間様)が祀られている。
2万5千分の1地形図「安戸」では、西峰に官ノ倉山の表記があるが、正しくは、官ノ倉山や東峰・西峰の総称である。
『武蔵国郡村誌』男衾郡木部村の条では、「神の倉」、『武蔵通志』では、「神倉山」と表記。
そこから官ノ倉山の山名について、「官ノ倉とは神の蔵、すなわち神の祀ってある岩の意味」(大石真人氏)、あるいは「神の祀ってある岩穴(岩蔵)が石尊山にあることから山名になる」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)というのが通説になっている。
それ以外に以下の3つの説があり、通説を含め計4つの説がいずれも決定打を欠くのが現状である。
・北アルプスの「乗鞍山」は馬の鞍形の山容に由来した山名である。官ノ倉の「倉」を「鞍」に読み換え、竹沢付近から眺める双耳峰の山容を美しい馬の鞍になぞらえ、神聖視するにいたったとする説。
・かつて笠原は江戸幕府の天領で代官所が置かれており、年貢を納めた代官所の倉から官ノ倉の名が生まれたとする説(勝呂の故・宮沢貞夫氏が提唱)。
・官ノ倉山の周辺に「金属」関連地名や鉄を掘った穴、そして朝鮮から渡来した人々に関連する地名・神社名が集中することから、官ノ倉を「古代より製鉄業に従事した渡来人が鉄穴のあった製鉄場を表現した言葉」ではないかとする金属地名説(故・塚越正佳氏が提唱)。
塚越氏の説をさらに掘り下げた金属地名説については、「比企・外秩父徹底研究」第1回「官ノ倉山とその周辺」を参照していただきたい。
東峰(石尊山)の阿夫利神社(官ノ倉の石尊様)の例祭(小川町笠原)は、7月下旬の日曜日。
当日は一番暑い盛りなので、子どもをはじめとした元気の良い人だけが阿夫利神社まで登り、笠原地区内の神官が祝詞を奏上。その後、山頂まで行けない老人たちを交えて中腹の北向不動尊(笠原)で直来(なおらい)が行われ、酒がふるまわれた。
石尊様の横には「忠七めし」で有名な小川町の二葉が寄進した献灯台がたっているが、毎年例祭の夜には二葉から差し入れがあるという。
祭りの終わった翌日から笠原地区では、2人1組で阿夫利神社の灯籠に灯をともしに行った。
笠原は60戸ほどなので、約1ヶ月で一回りするという。
しかし、今では山頂まで行かず、ロウソクを北向不動尊(笠原)に供えにいくのみであるという。
西峰(344㍍独標)山頂直下に東秩父安戸在家1区・2区の信仰を集める浅間神社が祀られている。
安戸では、山頂直下の浅間神社を「上浅間」といい、官ノ倉峠からハイキングコースを安戸の在家1区にずっとくだったところにある小御嶽石尊大権現の石碑(下浅間)と合わせて例祭を行っている。
例祭は毎年4月の第一日曜。当日は山麓の在家1区・2区の約70戸の人家から各戸1人ずつ登拝するという。
官ノ倉山では、1980年代末から1990年代にかけて、小川町側、東秩父村側の両方でゴルフ場の造成が行われた。
しかし、小川町側の木部・原川・笠原・飯田・増井の5地区にわたって計画された「プリムローズカントリー倶楽部」の造成工事は、1995年に進捗率38.7%で会社倒産のため中止。
その後、プリムローズカントリー倶楽部造成跡地で、2019年、「さいたま小川町メガソーラー」建設計画が浮上。
国の環境影響評価法にもとづく環境影響評価手続きが行われたが、事業者の作成した準備書への経済産業大臣勧告(2022年1月)以後、手続きは停止状態にある。
東秩父村側の安戸在家1区・2区、宿にまたがる「東秩父カントリークラブ」も造成が進み、地形改変規模はプリムローズ以上で、東峰西肩から城山(腰越城址)にいたる尾根のうち、安戸から飯田に越える「山ノ神越え」のすぐ南から249.3㍍三角点のすぐ北におよぶ尾根が削られた。
その結果、安戸の愛宕山、尾根上の小瀬田越え、桜山などが造成により消失した。
東秩父カントリークラブ造成事業は、2000年に母体企業の緑営グループの経営破綻と(株)東秩父カントリークラブの倒産により中止。
現在、安戸の宿地区裏山から小川町腰越の小瀬田沼付近に及ぶ広大な山域が無残な造成跡地となって放置されたままである。
プリムローズカントリー倶楽部、東秩父カントリークラブ、さいたま小川町メガソーラー建設計画についての詳細は、本ブログへの2025年4月29日投稿記事「官ノ倉山のゴルフ場造成問題とメガソーラー設置問題」を参照。
かんのくらとうげ 官ノ倉峠(小川町・東秩父村)
比企郡小川町木部・秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
小川町木部から東秩父村安戸の在家に越える峠。
もともと無名の峠で、「官ノ倉峠」名は、官ノ倉山に因んで登山者が便宜的につけた名称。
ただし、東秩父村安戸と小川町木部を結ぶ峠として、昔から盛んに往来があった。
とくに木部には東秩父村出身のお嫁さんが多かった。
花嫁さんは婚礼の前夜、花嫁衣装をたくしあげ、歩いて峠を越えたという。
現に、1986年当時、東秩父村の大内沢や坂本から嫁いできた方もおられた。
かんのんやま 観音山(東秩父村皆谷・御堂)
秩父郡東秩父村皆谷・御堂
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
かつて東秩父村皆谷(かいや)と同村御堂(みどう)の境にあった山。
「中山」(なかやま)とも呼ばれていた。
2万5千分の1地形図「安戸」では、東秩父村坂本の393.2㍍3等三角点(点名「坂本」)の南にある458㍍独標付近に「観音山」と記載されているが、今ではこの山は存在しない。
観音山の周辺(御堂側)にある珪石の採石場(秩父鉱業(株)御堂鉱山所)の範囲が次第に広がり、ついに観音山全体を掘り崩し、現在は無残な採石現場が残っているだけとなった。
飯野頼治「東秩父村風土記」(『飯野頼治著作集2』まつやま書房、2922年に所収)では、2009年当時、「観音山は地元では歴史のある象徴的な山なので、周囲に緑を残すようにしていますよ」という御堂鉱山所の方の声を載せているが、この言葉は全くの空証文であった。
その結果、393.2㍍3等三角点ピークから観音山をへて、仙元山にいたる尾根は、中心部の観音山が消滅。
さらに観音山跡の南北が断崖となり、393.2㍍三角点ピークから南下するにしても、仙元山から北上するにしても、いずれも断崖で行く手を遮られてしまう。
消滅した観音山は、古い地誌にも名の残す名山であった。
観音山の名称由来について、『武蔵通志』は「山頂に巨岩聳立す。高さ六丈余形。観音に似たり故に又観音山と云」とある。
『武蔵国郡村誌』秩父郡皆谷村の条は、「中山 一名観音山 (中略)頂上に六丈余の巨岩聳立し、形状観音に彷彿たり。よって昔時より中山馬頭観音と称し、尊崇祈願する者多し」記している。
だが、観音山の名前の由来となった観音に似た巨岩(=観音塔)は山頂にあったのではなく、山頂から南西にくだった林の中にあった。
関口児玉之輔著『松山城とその城主』(1925年)には、「この山(=観音山)の山腹に自然の奇岩が石碑のごとく突屹し、その岩上に南蛮鉄で出来た馬身一尺位の駒形と小社が安置されていた。これが中山馬頭観世音菩薩で、天正年間に松山城主上田能登守朝広が豊臣の軍勢に打破られ松山開城の後御堂の浄蓮寺に隠れていたが、更に徳川の天下となり探索が厳しいので坊庭(御堂)から山越しにこの地に隠れた。その時に祈願を込められたということである」と記されてある。
かつて観音山の山持ちであった皆谷の関口家で聞くと、戦前まで年に1回、旧正月の初午の祭りにあたって、神官が観音塔まで登拝し、祈願が行われていたという。
観音塔は、「中山観音」と刻まれた古い石碑(中山馬頭観音の入口の意味か)のある小安戸バス停から人家の脇を抜け、小沢(観音山沢)に沿ってジグザグに登ること約40分。
稜線に出るすぐ手前の樹林内に赤いチャート(角岩)の岩を屹立させていた。
高さ約5㍍。岩上や周囲にはアカマツが茂り、岩の頂上からは大霧山方面が望まれた。
大岩の上に1.5㍍ほどの小さな岩を乗せ、横から眺めると岩の上に観音像を安置したようにみえなくもない。
だが、岩の上に小社や鉄製の駒形は見当たらなかった。
観音山(観音塔)には、先の引用にもあるように、戦国時代の小田原北条氏の家臣である松山城主・上田能登守朝広にまつわる伝説が残されている。
先の引用と重複するが、あえて掲載しておこう。
かつて小田原北条氏の重臣であった松山城主・上田能登守朝広は、豊臣秀吉の小田原征伐の折、居城である松山城も落城の憂き目を見、逃れることになった。
御堂(東秩父村)の浄蓮寺にしばらく潜んでいたものの、そこを引き払い、御堂の坊庭から観音山を越え、皆谷に落ち延びた。
その途中、観音塔に見張りを立て、追っ手が来ないことを確認したうえで、皆谷の小安戸に館を構えて住み着いた。
この館跡が皆谷のサカキのある駒形稲荷である。
伝説を秘め、信仰の対象であった観音塔(中山馬頭観世音菩薩)も、そして観音山も、秩父鉱業(株)御堂鉱山所の拡大により、消滅した。
関口家によると、「中山」という別名は、「皆谷の中央にあるからではないか」ということだった。

観音山の「観音塔」(1985年12月撮影)
かんのんやま 観音山(小川町下里)
小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
下里観音あるいは子育観音の名で親しまれている小川町下里の名刹・石青山大聖寺が中腹にある山(200㍍独標)。
観音山は、大聖寺一帯の小字名でもある。
かんのんやま 観音山(熊谷市小江川)
熊谷市小江川
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
比企郡滑川町福田にある高根山(105.1㍍3等三角点)の西峰ともいうべき「ポンポン山」(約95㍍:熊谷市小江川)の南尾根一帯は、「四季の湯温泉ホテルヘリテイジ」の敷地内になっているが、そのなかにかつて「小江川石」(おえがわいし)を切り出した石切場の跡が残されている。
小江川石は地元では「ゴンベ岩」とも呼ばれ、水に強いので、建物の土台や井戸の側壁用に重用されたようだが、この石切場のテッペンが観音山である。
昔、観音山の山頂には、観音像を掘った高さ5㍍のほどの小江川石の石柱があったという。
『武蔵通志』も、「観音山 高さ百五十尺。男衾郡小原村小江川の東南にあり。中腹以下列巌楯の如く、(中略)頂上石柱峭立す、周七尺ばかり。南面に観音像を彫す。登路五盤して、およそ二町三十間」と記す。
もっとも石柱に彫られた観音像も、それらしく見える程度の余りはっきりした姿のものではなかったようでもあり、刻んであったのは観音像ではなく、単に文字だけだったと証言する古老もいるなど、記憶も混乱している。
石柱は大正12年(1923)の関東大震災のときに谷に落ちてしまい、その後谷底に放置されていたが、「ホテルヘリテイジ」の前身である「ポンポン山ヘルスセンター」建設の際、何の変哲もない石だったので、土砂で埋められてしまったという。
かんむりいわ 冠岩(ときがわ町・小川町)
ときがわ町西平・小川町上古寺
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
小川町腰越の赤木にある「ショウジバ」(精進場)の屋号のある家から霊山院に向かう古道「巡礼街道」が「平萱の三角点」(風早山:539.4㍍3等三角点)を北から巻き、堂平山と慈光寺を結ぶ「ときがわトレッキングコース」に出たところにある岩。
慈光七石の1つ。
都幾川村教育委員会編「慈光寺と伝説」(金井塚良一編『慈光寺』人物往来社、1986年所収)によると、「かつて慈光寺の修験僧のうちの行徒、すなわち修験の僧たちは、秩父の峰を廻り、富士山頂を跋渉して行を修めた。それらの僧たちは、回峰を終わって帰山するとき、この冠岩で法螺を吹き鳴らし帰山を告げるのを習わしとした。これを聞いた宗徒たちが、この岩まで出迎えに行き、そこではじめて行徒たちは、冠を解いて帰坊した」とある。
き
きゅうさだみねとうげ 旧定峰峠(東秩父村・秩父市)
秩父郡東秩父村白石・秩父市定峰
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
今では「旧定峰峠」となってしまったが、こちらが本来の「定峰峠」である。
車道こそ通じていないが、東秩父村白石から秩父市定峰へ越える古い峠であり、峠道が今でも明瞭に踏まれている。
峠には山ノ神の小祠が祀られているだけで、今では人々が越える峠ではなく、大霧山に登る(あるいは大霧山からくだる)際の通過地点としてのみ歩かれているに過ぎない。
だが、『新編武蔵風土記稿』秩父郡定峰村の条に、「定峰峠 村の東寄りの嶺なり(中略)頂上に山神社あり・・・」と書かれている歴史のある峠である。
『武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条にも、「村の西南間にあり、登り半里ばかり。頂を村界とす。定峰へ下り一里程なり」と書かれている。
1955年5月、定峰峠の南々東の「マジノタワ」を開削した新定峰峠を主要地方道熊谷小川線が通るようになった。
その際に記念として新峠を中心に11キロにわたり吉野桜2,000本が植えられ、今では桜の名所となっている。
そして、いつしか車道のとおる「新定峰峠」(マジノタワ)が「定峰峠」となり、それまでの「定峰峠」が「旧定峰峠」になった。
きんしょうざん 金勝山(小川町)
小川町靭負・勝呂・木呂子
第3回「金勝山とその周辺」2万5千分の1地形図
2万5千分の1地形図「安戸」
八高線の線路をはさんで官ノ倉山と対峙する丘陵。
小川町の靭負・勝呂・木呂子の3つの大字にまたがっている。
2万5千分の1地形図「安戸」では、263.4㍍2等三角点(点名は「勝呂」)のある主峰の「裏金勝」に金勝山の表示があるが、これが金勝山をめぐる山名混乱の始まりである。
現地にある公設の山名表示板が混乱に拍車をかけている。
現地の山名表示板は、三角点峰を「金勝山」、その南のピークを「前金勝」、三角点峰北の小ピーク(三角点峰の一角?)に「裏金勝」、そして「埼玉県立小川げんきプラザ」の施設館(プラネタリウム)東の一角を「西金勝」としている。
しかし正確にいうと、金勝山は、三角点のある「裏金勝」、その南のピーク「前金勝」、プラネタリウムのある「西金勝」という3つのピークの総称なのである。
このような事実を無視して、現在でも「裏金勝」に「金勝山」の山名表示板がたち、その北の間違った位置に「裏金勝」の標識があり、「西金勝」の山名表示板も間違った位置にあるというのは理解に苦しむところである。
現在、靭負側の東登山道、勝呂側の南登山道など正規のルートを登れば、30分強で主峰の裏金勝に達する。
しかも、北側の木呂子からは「小川げんきプラザ」にいたるつづれ折りの車道が西金勝近くまで延びており、ハイカーからは公園化した手軽な山という受け止められ方をされているようだ。
そのため、せいぜい官ノ倉山に登る前の足慣らしに立ち寄る程度の扱いを受け、金勝山を徹底的に極める人が少ないのは勿体ないというしかない。
金勝山は、複数のピークを連ね、正規のルート以外にも多数のバリエーションルートがあるなど、一度はまってしまうと抜けられない魅力を秘めた山である。
若干の例を挙げると、裏金勝から第一避難所をへて、南東に金比羅神社経由で勝呂にくだるルートがある。
途中にある金比羅神社は火伏せに霊験あらたかな神様として、山麓の字池ノ入(いけのいり)や字大楽稚(だいらくじ)(いずれも下勝呂)で信仰が厚い。例祭は春(4月10日)と秋(10月10日)の2回である。
また、沢沿いの南登山道左の尾根は浅間神社を経由して「西金勝」にダイレクトに登るバリエーションルートである。
途中にある浅間神社は上勝呂の字片瀬の約15軒の人々により信仰されている。
浅間神社は、もともと尾根を20㍍ほど登ったところにあったが、採石計画がもちあがったため、今の場所に移転した。
社殿の左手前に高さ1㍍以上もの立派な金精様があることから分かるように、安産の神様であった。
例祭は毎年4月第一日曜。
妊婦のいる家では、例祭の際に供えられるロウソクが燃えて短くなったとき、それをいただいて持ち帰るとお産が軽く済むといい伝えられてきた。
このロウソクが短ければ短いほど、お産が早く終わるといわれる。
金精様も「おがわ元気プラザ」の前身である「県立小川少年自然の家」の職員が寄贈したものである。
さらに山麓の下勝呂にある津島神社は、もともと牛頭天王で、昔は西金勝山頂付近にあったといわれる。
現在の南登山道が参道であったという。
このように金勝山にはさまざまなバリエーションルートがあるほか、山中・山麓にいくつもの神社があり、信仰は現在も地元で続いている。
金勝山の「山体は石英閃緑岩で土木建設用の砂利を採る目的で採取計画されたが、試掘結果が悪く計画が中止された」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)という経緯がある。
金勝山に今でも「第一避難所」「第二避難所」などがあるのは、かつての採掘計画の名残である。
ところで、前記の『角川地名大辞典11 埼玉県』は、「南東側尾根に金比羅神社があり、かつて巨大な松があり、風に吹かれて琴に似た音をたてたので琴松山と名づけられた」とし、これが金勝山の山名由来であるとしている。
大石真人氏も、「前金象にむかし巨松があり、風のふくたびに琴に似た音を出したので、琴松山と名づけられたという」としている(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版)。
前者は巨大な松の所在を金比羅神社、後者は前金勝としているが、巨松は前金勝にあった。その名は「金勝の松」あるいは「日本松」という。
残念ながら「金勝の松」(日本松)は落雷で倒壊してしまい、幹は空洞になって使い物にならなくなったが、幸い残った枝の部分で臼を13基つくったという。
江戸期の『新編武蔵風土記稿』男衾郡勝呂村の条は「ケンシャウ山」と表記。
明治期の『武蔵国郡村誌」男衾郡勝呂村の条は「金笙山」の表記を採用。
同じく明治期の『武蔵通志』は「金笙山」の漢字表記を採用しながら、「キンシャウ」のルビをふっている。
これらを踏まえ、「日本松」(金勝の松)の言い伝えから生まれた「琴松山」が「琴笙山」「金笙山」と書き換えられ、さらに明治20年頃の地名改正のとき、当時の竹沢小学校の校長であった柴崎という方が勝呂の「勝」の字をあてて「金勝山」としたという。
以上の「日本松」にちなむ山名由来は説得力があるが、「琴松山」→「琴笙山」→「金笙山」→「金勝山」などの漢字表記に付会した説であるとの感を拭えない。
むしろ、「ケンシャウ山」という『風土記稿』の呼び方を重視したい。
というのは、私が金勝山周辺で山名の採集をしていた1988年頃、地元・勝呂の一部の古老は金勝山を「けんしょうざん」と呼んでいた。
「けんしょう」は「きんしょう」のなまったものという人もいるが、古い地誌に「ケンシャウ」の呼称が採録されている事実は重い。
この疑問が決定的になったのは、勝呂の鎮守・白鳥神社の隣に昔あった西光寺という寺の山号が「琴笙山」であることを知ってからである。
前金勝にあった老松が山名の由来であるという説は、琴笙山西光寺の山号に付会した説ではないだろうか。そう考えると、『角川日本地名太神11 埼玉県』と大石氏の説との齟齬(前者は老松が西光寺にあるといい、後者は前金勝にあったという)も説明できる。
そうなると、金勝山の名の起りは、「風土記稿」の「ケンシャウ山」(けんしょうざん)の方にこそ求められるのではないか。
つまり、「ケンシャウ山」は「見性山」のことではないか。
ちなみに、比企の名峰・笠山の別名は「見性山」であり、「見性山」は「慈光三山」のひとつである。
では、同じ「見性山」である笠山と金勝山との間に関係はないだろうか。
実は慈光寺の影が金勝山周辺随所に見られる。
まず西光院は慈光寺と同じ天台宗の寺であった。
今でも勝呂には天台宗の檀家が多いという。
しかも、金勝山と慈光寺との関係を示すように、北東山稜の靭負には「慈光平」なる小字名がある。
伝承によると、慈光寺は昔この地にあったが、消失したあと現在のときがわ町西平に移ったという。
しかし、釣り鐘だけは消失を免れ、今でもこの地に埋まっているという。
金嶽(鐘嶽・鐘岳)の沈鐘伝説と似たような伝説が竹沢地区に残っているのである。
伝承とはいえ、これだけの「状況証拠」があると、金勝山=見性山という説は、かなり有力な説といえるのではないだろうか。
慈光寺が昔「慈光平」にあったというのは伝説であろうが、慈光寺と関係が深かった西光院の檀家が背後の山を笠山(見性山)に見立て、「見性山」(けんしょうざん)と呼んで、神聖視し、熱心に登拝していたのではないだろうか。
ぎょうふうとうげ 行風峠(ときがわ町・小川町)
比企郡ときがわ町日影・比企郡小川町上古寺
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
雀川砂防ダム上流から小川町上古寺との境界尾根付近までの一帯の小字名が「行風」である。
雷電山(ときがわ町日影・雲河原)から小川町青山上の御岳山にいたる長大な尾根が、大日山(お大日様)、行風山すぐ西のCATVアンテナのある小ピークを経由してくだりきった鞍部が「行風峠」である。
行風峠の名称は小字名「行風」にちなむものである。
行風峠は、日影から上古寺に越える峠であるが、上古寺へくだる道が2つあるほか、県道西平小川線(273号線)の松郷峠経由で雲河原、あるいは直接雲河原に出ることができるなど、交通の要衝であったことが分かる。
日影側の雀川砂防ダム公園からは、林道雀川上雲線を登ると、延々と遠回りしたあげく、ようやく道は最高点で峠に最接近する(峠を乗っ越すことはない)。
林道から右手の鞍部に飛び乗れば、そこが何の地名表示版もない行風峠である。
それでは旧道はどうだろうか。
町田尚夫氏の貴重なレポートによると、「林道雀川上雲線の起点広場の奥に天明6年(1786)の石の道標があり、『右安戸、左古寺道』と刻まれている。安戸への道はすぐ脇から始まり、林道を二度短絡するところまで道形があるが、その先は確認できない。
古寺へは、入口から約200㍍先の林道ヘアピンカーブ地点を直進する。沢沿いの道は昼でも薄暗く所々ぬかり、進むにつれて荒れてくる。間もなく右上に林道が近寄ってきたので、踏み跡を探してよじ登った」とある(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』(さきたま出版会、2004年)。
林道雀川上雲線ができたため、旧道の峠道はかなり荒れているようだ。
他方、上古寺から行風峠へは2つの道がある。
ひとつは、滝ノ入から滝ノ入不動をへて、不動尊の先で2つに分かれるヤツの右側のヤツをつめて行風峠に出る。
これは上古寺からの行風峠道の間道で、本道よりもはるかに短時間で日影につくことができた。
本道は上古寺の清水地区にある「的場」(松葉)の屋号のある荒井家の脇から登る道。
最初は掘割状で歩きづらく、両側から小枝が張り出して煩わしいが、明瞭な踏み跡で、20分あまりの登りで、ときがわ町との境界である行風峠に到着する。
ところで、日影から上古寺に抜ける道(行風街道)は、もとは鎌倉街道から分岐して慈光寺に立ち寄るための裏街道であったという伝承がある。
日影には、行風街道についての次のような伝説がある。
かつて新田義貞は日影から上古寺に越えて、慈光寺に立ち寄った。
その折、日影の鎮守である小北の日影神社に一晩の宿をとった。
そこで、この地を上宮(かみのみや)と呼ぶようになった。
また、現在公民館のある付近には下宮があったが。
下宮は日影神社には下宮があったが、それは下宮には副将が泊まったので、その名が生まれたのである。
ぎょうふうやま 行風山(ときがわ町)
比企郡ときがわ町日影
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
雀川ダム砂防ダム公園から雀川の奥を眺めると、堂々たる山容の山が目をひく。
これが行風山(332㍍独標)である。
山名は、行風峠と同様、小字名の「行風」から来ている。
雷電山と御岳山とのほぼ中間地点にある行風山は、雀川源流の谷を挟んで南に対峙する大日山(お大日様)とともに、比企・外秩父のなかでももっともアプローチの難しい山であった。
日影からは雀川砂防ダム公園奥から林道雀川上雲線を延々と登り、主稜線の行風峠から南下。
CATVアンテナのある小ピークに登り、そこから東に主稜から少しはずれた行風山を往復するのがもっとも一般的である。
ただし、雀川砂防ダム公園から行風峠までの旧道が廃道化しているのが残念。
これに対し、最近では雀川砂防ダム公園から山道に入り、いったん林道にでたあと、林道を行風山南に出たところから、正面の山に向かって直登するルートが良くとられているようだ。
行風山からCATVアンテナのある小ピークに出たのち、行風峠とは反対側の南に尾根をたどり、大日山(お大日様)から雷電山に向かう主稜線コースは、途中林道を歩いたり、踏み跡がほとんど消える部分、尾根が広くて位置把握の難しい地点があるなど、難易度が高いうえ、熊の出没が聞かれるコースなので、避けた方が良いだろう。
く
ぐみのきとうげ グミの木峠(茱萸ノ木峠)(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村大内沢・秩父郡皆野町三沢
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」「寄居」
二本木峠から皇鈴山に登り、素晴らしい展望が楽しめる皇鈴山からくだりにかかると、東側の大内沢側がガレ場となり、尾根もヤセて、一気に緊張感が高まる。
ヤセ尾根を手すりにつかまっておりると、相変わらずのヤセ尾根ながら傾斜が緩む「金場の平」を過ぎ、車道が稜線を横断する鞍部に出る。
正面には登谷山が高々と聳えている。
この鞍部が「グミの木峠」(茱萸ノ木峠)である。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内村の条では、「村の西よりにて三沢村へ行く峠なり。登ること二十町ばかりもありて、頂を境とし、三沢村へ約十町くだるなり」と記されているように、古くからの生活の道であった。
今では、大内沢から三沢へ越える林道が通り、釜伏峠方向から稜線と並行して延びる県道三沢坂本線が峠で先の林道と合流するなど、味気ない峠になってしまった。
昔の面影を偲ばせるのは、四角の石積みをした上に祀られている山ノ神神社の小祠のみである。
大内沢側で祀ったもののようだが、建立した経緯は地元でも分からないようだ。
なお、峠には「防ぎ」がある。
「防ぎ」とは、隣の地区との境界付近にしめ縄を張り、疫病神が入ってこないようにワラジを吊したもので、大内沢(東秩父村)・三沢(皆野町)との境界に、こちらも大内沢側が設置したもののようだ。
くるまやま 車山(寄居町)
大里郡寄居町(立原・三品)
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「寄居」
寄居町三品の北にある山(立原・三品)で、三品の石尊山(高山)と向かい合っている。
『武蔵通志』を読むと、車山に関する興味深い記述がある。
「車山 高さ三百尺。三品の北にあり。山頂凹處あり、二峰をなし東車山、西車山といい、上に琴平社あり」
たしかに2万5千分の1地形図「寄居」に車山の表記されている226.8㍍3等三角点峰の山頂には金比羅神社が祀られている。
しかし、3等三角点峰は双耳峰ではなく、東車山・西車山の表現を三角点峰付近にのみあてはめるのには無理があり。
では、どう考えるべきか。
むしろ車山と表記された三角点峰だけではなく、車山山稜西端の194㍍独標までの丘陵全体の総称を「車山」と考えると、先の東車山・西車山の記載は容易に理解できる。
車山丘陵には全体で5つほどのコブがあるが、ほぼ中央部の南山麓にある「永光院」(大字三品)奥の谷をはさんで、東側の山稜に「東車山」、西側の山稜に「西車山」の小字名がある。
車山を、3等三角点峰を含む丘陵全体の総称名、凹處を永光院奥の谷とそれぞれ解釈し、小字名をあてはめると、東車山は3等三角点峰を中心とする永光院東側の山稜、西車山は194㍍独標を西端とする永光院西側の山稜と理解することができる。
車山のすべてを味わい尽くすためには、単に226.8㍍3等三角点峰に登るだけでなく、西に進み、永光院奥の鞍部をへて、西端の194㍍独標まで縦走すべきである。
なお、226.8㍍3等三角点峰の金比羅神社は、山麓に住む三品や立原の数戸により信仰されており、毎年1月10日には信仰している人々が登拝している。
さて、車山を語るうえで避けることができないのが山名由来である。
近くに後北条氏(小田原北条氏)の重要な城であり、北の上杉氏に対する要衝であった鉢形城があるだけに、車山の山名も鉢形城落城にまつわるものが多い。
寄居町のホームページを見ると、「その山頂(注:226.8㍍3等三角点)からは鉢形城の曲輪(くるわ)がよく見えることから『くるわやま』と呼び、車山になったとする説と、鉢形城攻めの際、本多忠勝(ほんだただかつ)が28人持ちの大砲(おおづつ)を山頂に据え付け、鉢形城の大手門を破壊したといわれていますが、その際に轍ができたということから、その名が付いたといわれています」と記載されている。
車山の山名由来は上記の通説で決まりといいたいところだが、それ以外にも寄居町鉢形と折原の境にある荒川に架かる落合橋付近から眺めると、車山山稜は双耳峰に見え、荷車の二輪の車を連想させることから、車山の名が生まれたという異説もある。
しかし、これらの説を検証していくと、二番目の大砲を引いた荷車の轍説は、当時の大砲の性能では玉が車山から鉢形城まで届かないという点を無視している。
一番目の「くるわ」説、三番目の荷車の二輪の車説は、いずれも「車山」という山名・山容に付会した説の域を出ない。
とくに定説とされる最初と2番目の説は、いずれも天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにまつわる逸話から来ている。
しかし、車山の名が1590年以前からあったのではないかと考えると、3番目の説に加え、別の説も浮上してくる。
それが渡来系の人々に関する説である。
いつも山名考証の際に使っている鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)をひもとくと、「クルマ」の項目のところに、「織部の部民」という意味があるという記述が目を引いた。
そこには養蚕や織物、耕作などの技術をもたらした渡来人の存在が感じられるのである。
とくに三品村が属していた男衾郡の開発には渡来人が大きな役割を果たした。
なかでも9世紀前半に男衾郡の大領という高い政治的地域を保有し、巨大な財力を誇った壬生吉志福正は、6世紀末の屯倉(大和政権の直轄地)設置とともに武蔵国に移住した渡来系氏族壬生吉集の末裔であると考えられている(金井塚良一『吉見の百穴』教育社、1986年)。
事実、旧男衾郡には「勝呂」「牟礼」など、渡来系の人々と関連した地名が残っている。
しかも、三品の鎮守である白鬚神社が高麗神社の系統であることにも注目したい。
このように見ていくと、古代この地に移住してきた渡来系の人々は、養蚕や織物の部民として定着し、白鬚神社等を氏神として信仰した。
そして、集落のシンボルとしである山に「クルマヤマ」の名前を与えたと考えることができないだろうか。
くんぱちやま 君八山(勳八山)(東秩父村・寄居町)
東秩父村大内沢 大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
秩父郡東秩父村大内沢居用地区のすぐ右手に聳える359㍍独標。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内村の条では、金山(愛宕山)の次に、「勳八山 是も周辺にて、登り十町ばかり」と、ごく簡単に記され、金山の近くの山であることが明示されている。
山名の「君八」「勲八」については不詳であるが、昔の山持ち(山の所有者)の名前なのであろうか。
最新の2万5千分の1地形図「安戸」(2016年年2月調製、2016年5月1日発行)を見ると、巨大な採石場(秩父鉱業(株)寄居鉱山所)がどんどん広がり、君八山の東半分が採掘で削り取られている状態にもみえる。
もはや風前の灯火といった状況だ。
け
けんのみね 剣ノ峰(東秩父村・ときがわ町)
秩父郡東秩父村白石・比企郡ときがわ町大野
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
堂平山からの稜線を白石峠に向け進み、峠東にある876㍍独標。
標高は堂平山とほぼ同じだが、堂平山の陰に隠れ、不遇な存在であるのは惜しい。
しかし、古い地誌にも記載のある名山である。
『武蔵国郡村誌』秩父郡大野村の条にある「飯森山(めしもりやま)は。剣ノ峰の別名である。
遠望すると、「飯を盛ったようにみえる形状」にその名が起因している。
『武蔵国郡村誌』秩父郡白石村の条にも「剣の峯山」の名で記載がある。
『武蔵通志』にも「剣峯山(けんのみね) 一に飯盛山と云い、高さ三千六百尺。白石の南にして、大椚村大野にまたがり、草山にして樹林に乏し。東に堂平山あり、高八百八十尺、また大野に界し、東は比企郡大河原村腰越にまたがる」と記す。
ところで、山名について、一般に通用している「剣ヶ峰」を使わず、「剣ノ峰」としたのには理由がある。
『武蔵国郡村誌』や『武蔵通志』など明治期の地誌でも、漢字表記の違いはあるものの、原則「剣の峰」を使っており、「剣峯山」としている『武蔵通志』でもあえてルビを振って、「けんのみね」としている。
地元であるときがわ町大野でも、「けんのみね」の発音の方が一般的である。
そこで、古い地誌、地元呼称を優先し、剣ノ峰とした。
山頂には大正6年(1917)に建てられた「剣ノ峰大明神」の大きな石碑があり、中央に剣峯大神、右に摩利支天、左に大山祇命が刻まれ、古くから信仰を集めた山であることが分かる。
残念ながら、山頂は大きな無線中継所に邪魔され、展望は期待できない。
さて、剣ノ峰南に「勝負平」という名の平地がある。
ここには次のような伝説がある。
「(勝負平は)昔、平将門が藤原秀郷と最後の勝負をした所という。この戦いに勝利を得た秀郷は、勝負平北側の頂に、戦勝記念として剣を立てたので『剣の峰』の名が生まれたのだという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』エンタプライズ、1990年)
最後になるが、新井良輔氏は剣ノ峰の山名について、「剣ノ峰は奥武蔵には珍しい鋭い突起で、どこからも目立つ存在ですから、その姿から槍ヶ岳のように、この名が生まれたのであろうと思われます」と述べておられる(神山弘・新井良輔『増補 ものがたり奥武蔵 伝説探訪二人旅』金曜堂出版、1984年)
こ
こせだごえ 小瀬田越え(東秩父村)
秩父村東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村安戸から小川町腰越の小瀬田へ越える峠。
官ノ倉山東峰(石尊山)西肩から南東に腰越城址(城山)へ延びる長い尾根(前半は比企郡小川町と秩父郡東秩父村との郡界尾根)上にあり、北の「山ノ神峠」、南の「桜山」とともに、古くから東秩父村と小川町を結ぶ交通の要衝であった。
しかし、槻川沿いの県道の開通とともにすっかりさびれ、途中の2ヶ所にある小さな道しるべが往時の往来を氏の偲ばせるのみ。
1990年代に、東秩父カントリークラブ造成工事により、すぐ西の愛宕山(安戸)、尾根南の桜山とともに切り土され、峠は消滅した。
工事は、その後中止され、現在に至るが、今は峠の面影は全くなく、造成跡の広大な草原が残るのみ。
さ
さいのかみとうげ 塞ノ神峠(長瀞町・寄居町)
秩父郡長瀞町風布・大里郡寄居町風布
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
「塞神峠」とも表記。ただし、「塞ノ神峠」「塞神峠」とも、読み方は「さいのかみとうげ」である。
「さえのかみとうげ」とも読むが、「塞神峠」を「さいじんとうげ」とは読まない。
長瀞町風布(ふうっぷ)の大鉢形耕地と寄居町風布の扇沢耕地を結ぶ峠。
釜伏峠を経由して延々と延びる外秩父主稜は塞ノ神峠付近から一部を除き平坦な尾根とあり、その間、塞ノ神峠、仙元峠(浅間峠)、葉原峠など長瀞町と寄居町を結ぶ峠が並び、葉原峠北の大平山(おおびらやま)から北東に方向を変え、金尾峠、金尾山をへて、荒川にいたる。
「塞ノ神」とは、集落の入口に祀られ、他の集落からの疫病の侵入を防ぐ神のことである。
この塞ノ神を祀る峠が「塞ノ神峠」である。
実際に、長瀞町風布と寄居町風との境にある峠にも、「塞神」と刻まれた高さ60センチ、幅50センチほどの石碑が石積みの土台の上に立てられている。
ここに、昔は「防ぎ」のワラジが置かれていたという。
ところで、大字名「風布」が長瀞町、寄居町の両方にあることからも分かるように、現在、風布は葉原峠~塞ノ神峠の尾根を境に長瀞町と寄居町に二分されている。
寄居町の風布やその北にある小林はみかんの産地として有名だが、明治22年(1889)から昭和18年(1943)まで、両側の風布とも白鳥村の一部として同じ行政区画内になった。
そのため、学童にとっては、峠を越えて向こう側の学校に通うという事態が生じた。
「風布の小学校は、寄居側の中組耕地にあったため、葉原は葉原峠、蕪木(かぶらぎ)は浅間峠、大鉢形、阿弥陀ヶ谷の子どもたちはこの塞ノ神峠を越えて通学した。そして分教場の課程を終え高等科になると、今度は、天神山城址の麓の白鳥尋常高等小学校まで、寄居側の風布の子供たちが峠を越えて通った。このように塞ノ神峠などは、学童たちの峠道でもあった」(飯野頼治『山村と峠道-山ぐに・秩父を巡る-』(エンタプライズ、1990年)
阿弥陀ヶ谷、蕪木、大鉢形などの耕地の人々は鉢形城落城にともない、この地に移ってきた人々の子孫であった。
「大鉢形」という集落名は、移ってきた人々が鉢形城をしのび、大鉢形と名付けたといわれる。
しかし、地形的には大鉢形は「円すい形の大鉢の中腹の傾斜地に位置し、大鉢の形に似ている」と『ながとろ風土記』(長瀞町教育委員会、1974年)は記している。
その大鉢形をはじめ、阿弥陀ヶ谷、蕪木の3つの集落では、今でも毎年1月16日と8月16日、「回り念仏」と呼ばれる鉢形城の祖先供養の行事を行っている。
1月16日、8月16日の年2回、阿弥陀ヶ谷、蕪木、大鉢形の順に、信者達が3集落の全戸を回り、庭先や小祠の前で大太鼓、小太鼓、鉦を打ち鳴らし、長い数珠を5回まわして念仏を唱え、祖先の霊をなぐさめる。
さくらやま 桜山(東秩父村)
秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村安戸の宿(しゅく)の集落から井泉水(いせんすい)と呼ばれる名水の誉れ高い小沢をさかのぼり、小川町小瀬田の小瀬田沼へ越える峠。
官ノ倉山東峰(石尊山)西肩から城山(腰越城址)に延びる尾根上の249.3㍍三角点ピーク(点名は「安戸」)の北にある。
名称の由来となった桜の木が3本植えられていたが、落雷のため焼失してしまい、現存していない。
安戸の宿から桜山を越え、小川町腰越に出る峠道は、同じ尾根上にある山ノ神越え、小瀬田越えとともに、かつて東秩父村安戸と小川町を結ぶ交通の要衝であった。
しかし、東秩父カントリークラブ造成工事により、尾根が切り土され、削平されてしまい、消失した。
現在は広大なゴルフ場造成地跡の草原が残るのみである。
ささやま 笹山(小川町)
比企郡小川町腰越(腰上)
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
笠山と堂平山の鞍部である「籠山のタル」(平ノ沢の峠)から栗山川支流の平ノ沢右岸に沿って栗山(小川町腰越)に延びる支尾根上の740㍍圏ピーク。
籠山のタル(平ノ沢の峠)からたどると、3つめのピークが笹山。
笹山への尾根上で笹林を過ぎるところがあるが、笹山という山名も、笹の多い山に由来するのだろうか。
現在、笹山山頂は「笹山RCグライダークラブ」というラジコングライダー愛好家のグループが地権者から有償で土地を借り、これも地権者の許可を受け、立ち木を伐採してラジコングライダー滑降場として整備している。
おかげで、山頂からは360度近い眺望が得られ、笠山や堂平山を間近に見る展望台として格好の場所となった。
ただし、ラジコングライダーを飛ばすため、危険があるので、無人機航空法により、同クラブ関係者以外は立入禁止となっている。
笹山に登るためには、事前に同グループに連絡し、許可を得る必要がある。
なお、栗山集落から南方に大きく仰がれる笹山だが、笹山の斜面の小字名が悪戸沢(あくとざわ)である。
悪戸沢は、栗山川支流で笹山に突き上げる沢の名称でもある。
この名称が物語るように、悪戸沢は笹山山腹にあたり、急傾斜で岩場の多いところである(内田康男『腰越地名誌』未定稿)。
さだみねとうげ 定峰峠(東秩父村・秩父市)
秩父郡東秩父村白石・秩父市定峰
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
白石峠から「川木沢ノ頭」(874㍍独標)、「高谷山」(たかがいやま:828㍍独標)をへて、くだりきったところが、車道となっている「定峰峠」である。
ここは、もとは「新定峰峠」と呼ばれていた。
なぜ「新」がつくのかというと、ここは本来の定峰峠ではなかったからだ。
本来の定峰峠は、いまは「旧定峰峠」と呼ばれているずっと北寄りの白石から定峰へ越える峠である。
ところが、1955年に定峰から白石への車道が本来の定峰峠ではなく、それから1.2キロ南に寄った地点を通るようになってから、車道の通る乗っ越しを「新定峰峠」と呼ぶようになり、本来の定峰峠は「旧定峰峠」となった。
そして、いつしか「新定峰峠」から「新」の文字が消え、「定峰峠」として2万5千分の1地形図「安戸」に記載されるようになった。
2万5千分の1地形図「安戸」には、旧定峰峠の表記すらない。
それでは、車道が通る前の新定峰峠(現在の定峰峠)は地元で何と呼ばれていたのだろうか。
白石側・定峰側ともに、いずれも峠を定峰側の小字に因み「マジノタワ」ないし、それが訛った「マジンタ」と呼んでいた。
「マジノタワ」の名は、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980年)所収の「高篠村略図」にも、峠附近の小字名として明記されている。
新定峰峠(現在の定峰峠)を通る車道が開通する前の1954年に出版された大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の「外秩父概念図」でも、新定峰峠(現在の定峰峠)を「マジノタワ」、旧定峰峠を「定峰峠」と正当に記載している。
できれば、もともとの峠名を尊重し、「定峰峠」(マジノタワ)と括弧書きで併記して欲しいものだ。
さねやまのおくのいん サネ山の奥ノ院(小川町)
比企郡小川町上古寺
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」「安戸」
小川町青山上の「御岳山」(297㍍独標)の奥の院的な存在の石祠。
「御岳山のサネ山」ともいう。
御岳山から南西斜面をくだった山腹上の小平地に、コンクリート製の台座のうえに古い石の祠(無銘)がある。
距離的には御岳山からわずかだが、全く踏跡のない山林なので、正確な読図力がないと迷ってしまう。
御岳山は大字青山にあるが、サネ山の奥ノ院は大字上古寺にある。
御嶽神社の例祭は毎年4月18日だが、当日にはかつて上古寺からも参拝に行ったという。
その上古寺からの参拝路が、上古寺の滝ノ入ヤツをさかのぼり、滝ノ入不動をへて、サネ山の奥ノ院に御幣を上げてから御岳山に登るというものであった。
少しアプローチは長いが、上記の上古寺ルート(滝ノ入ルート)を経由して登った方がサネ山の奥ノ院にスムーズにたどり着ける。
ところで、滝ノ入不動は滝ノ入りのオクリにあり、3㍍ほどの滝の岩上に不動尊が祀られている。
昔、僧空海がこの地に来たときに、滝を見てあまりにも見事なので、そのかたわらに自ら不動尊の形をツメで刻み、滝の脇の岩上に創建したと伝えられている。
この不動尊は、もともと滝ノ入の新井家が信仰していたが、開運に霊験があるとされ、一時は近在の多くの信者がいた。
当時は毎月28日になると、20~30人の信者が列をなして不動尊に参詣に向かった。
とくに小川町飯田に信者が多かったので、今でも10月28日は新井家が中心になって飯田から住職を呼び、不動尊まで団子や菓子、果物などを供えにいったという。
「行風峠」の項目で、新田義貞の伝説を紹介したが、峠の上古寺側の滝ノ入の新井家は新田義貞の子孫(あるいは家臣の子孫)とも伝えられている。
さて、滝ノ入不動の先でヤツ二俣になるが、左俣をどんどんつめると、ヤツは右俣のジイガヤツと左俣のバアガヤツ(いずれにも姥捨て伝説がある)に分かれる。
この2つのヤツにはさまれた小尾根の上に「サネ山の奥ノ院」の石祠がある。

サネ山の奥ノ院(内田康男氏撮影)
さんのくらやま 三ノ倉山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町木部・笠原・秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
比企郡小川町飯田では、官ノ倉山を昔、三ノ倉山と呼んでいたという。
「三倉山」の名は、明治期の『武蔵国郡村誌』比企郡飯田村の条に登場する。
次いで、同じく明治期の『武蔵通志』では、山名を「神倉山(かむのくら)としながらも、「飯田にて三倉山という」としている。
さらに、明治20年(1887)の「飯田村地誌控」は、「比企男衾秩父三郡にまたがり(中略)往昔は三ノ倉山という。三郡境界にして呼称すと言い伝えるなり。今は四隣にてかんの倉と称す」(小川町教育委員会所蔵旧大河村行政文書2)と詳しく記している。
東峰・西峰の総称である官ノ倉山は、男衾・比企・秩父の三郡にまたがることから、昔、とくに飯田村(現在の比企郡小川町飯田)では三ノ倉山と呼んだという。
三ノ倉山の名称由来は分かるにしても、なぜ西峰に隣接している木部や安戸、東峰の山頂が属する笠原ではなく、山頂に隣接していない飯田で「三ノ倉山」と呼ばれたのか、その理由は不詳である。
しかし現在、飯田でも官ノ倉山を三ノ倉山と呼ぶ人は、ほとんどいない。
し
ししいわ 獅子岩(東秩父村)
秩父郡東秩父村白石
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
定峰峠(新定峰峠・マジノタワ)から登り切った「ゾンゲ山」(701㍍独標)からくだった鞍部東側(右手)の林のなかにある大岩。
ゾンゲ山からくだると分かりにくいが、反対に旧定峰峠からゾンゲ山に向かうと、立派なたてがみのある獅子(ライオン)が寝そべっている姿に酷似している大岩が左手(東秩父村白石側)にあるのがすぐ分かる。
じぞうだけ 地蔵岳(東秩父村坂本・御堂)
秩父郡東秩父村坂本・御堂
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
比企の名山・笠山から北に続く尾根のなかに、槻川上流と槻川の支流・萩平川にはさまれた観音山(皆谷)から仙元山(皆谷)につづく尾根がある。
この尾根の北部にある393.2㍍3等三角点ピークは、1980年代後半に私が山麓の坂本や御堂で聞き取りをしたときには無名であった。
ごく一部の方が「三角点」と呼んでいた程度である。
ところが、2000年代になって突然、奥武蔵研究会調査執筆の山と高原地図23『奥武蔵・秩父』において、この山に対し、「地蔵岳」の表記がなされた。
藤本一美氏も、『比企(外秩父)の山々』(私家本、2018年)で「地蔵岳」(三角山)と記している。
藤本氏さえ、地蔵岳の名称を採用しているところから、俄然信憑性が増すのだが、なぜ無名峰に突然「地蔵岳」なる名称が付与されることになったのか、その経緯が定かでない。
比企・外秩父に「岳」の名がつく山は、「金嶽」と「金ヶ嶽」の2例だけである。
まして400㍍弱の何の変哲のない低山に、あえて地蔵岳なる名称を与える必然性があるのだろうか。
古い地誌に「地蔵岳」の名が全く現われないうえ、山頂に地蔵尊やその跡さえもない。
それ以上に私の古い聞き取りをふまえると、やはりこの山に地蔵岳の名を与えるのは無理があるのではないか。
残念ながら、藤本氏が亡くなられたので、どのような経緯で地蔵岳の命名がなされたのか、その経緯を知るすべがなくなってしまった。
今後地元(坂本)での再度の聞き取りが必要だが、決定的な証言が得られるまでは、393.2㍍3等三角点峰を地蔵岳とするのは誤りであるとしたい。
しのはとうげ シノハ峠(東秩父村)
秩父郡東秩父村皆谷・御堂
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
笠山の前衛にあたる槻川と萩平川にはさまれた尾根(393.2㍍3等三角点ピークから観音山をへて仙元山にいたる尾根)上の仙元山南の400㍍圏鞍部。
萩平(大字御堂)と新田(大字皆谷)を結ぶ旧道が乗っ越す。
「シノハ」は、新井側の登り口にあたる梅沢家の家号である。
かつては「馬入り」とも呼ばれ、馬二頭が行き来できる六尺幅の立派な峠であった。
しかし、かつては迂回路であった新田~萩平の新道が拡幅舗装されたため、今は通る人もなく、峠の皆谷側は草に埋もれている。
ところで、大石真人氏は新道の乗っ越す峠を「岳ノ平坂」(たけのだいらざか)と表記。
次のように説明を加えている。
「笠山から北走して観音山へつらなる尾根の上の、新田から萩ノ平へ越す峠。峠といっても、すぐ下の萩ノ平奥の人家の見える畑のはしのような明るいところである」(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年)
だが、この峠名を萩平で確認することはできなかった。
むしろ、地元(新田・萩平)では、峠近くにある御岳山座生大権現の碑をさす「御嶽様」の呼称が、峠の俗称として広く通用している。
しほうざん 士峰山(小川町)
比企郡小川町上古寺・腰越
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽(鐘岳)・士峰山」」
2万5千分の1地形図「安戸」
小川町下古寺の古寺鍾乳洞付近から南西に延びる尾根がある。
いずれも槻川の支流である館川と金嶽川にはさまれた尾根は、大字上古寺と大字腰越の境界尾根でもあり、途中で方向を南に変え、小川町・ときがわ町境の「風早山」(平萱の三角点)にいたる長大な尾根である。
この尾根上の289.8㍍4等三角点峰(点名は「西ノ谷」)が士峰山(しほうざん)である。
山麓には士峰山高福寺がある。
高福寺は禅宗臨済宗派、西平の霊山院の末寺で、山号は前記のように士(侍)峰山である。
山麓の寺の山号を山名としていることから分かるように、士峰山高福寺の裏山として密接な関係があり、高福寺から明瞭な道が山頂まで通じている。
ところで、士峰山の山頂には、瓦屋根の木造の堂宇があり、そのなかには高さ1㍍弱の畠山重忠の墓といわれる五輪塔が祀られている。
堂宇の前には2本の石碑があり、そのうち1つには「秩父六郎荘司畠山重忠之墓」と刻まれている。
堂宇のなかの五輪塔は、権現塚ないし六郎荘司塚と呼ばれ、山麓の小久保家により祀られた。
『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)は、「上古寺村村誌」(1886年)の次のような記事を引用している。
「畠山重忠の祖父重広の弟、重遠は、最初秩父郡高山に住んで高山三郎と称した。後当地上古寺に移って小久保晏関入道と称したという。その後元久2年(1205)重忠戦死により重忠三男重慶は、密に重忠の遺髪を携え、重遠をたよって上古寺上古寺の地に至り、丁寧に埋葬し五輪塔を築いて菩提をともらい供養したという。(中略)又一説には重忠の遺髪を携えたのは、重忠の一従者であったともいわれている」(氷川の里上古寺編集委員会編著『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)
なお、289.8㍍4等三角点標石は畠山重忠墓の西側にあるが、ヤブのなかに埋もれているので探しづらい。
じゅんれいかいどう 巡礼街道(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町腰越・比企郡ときがわ町西平
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽(鐘岳)・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
槻川の支流・館川に沿った腰上(腰越の館・小貝戸・栗山・赤木の4地区を総称して「腰上」と呼ぶ)最奥の集落・赤木に「ショウジバ」という屋号の家がある。
廃屋になっているが、「ショウジバ」の名は「精進場」から転訛したものであろう。
このショウジバが、赤木から霊山院に登る「巡礼街道」という古道の入口である。
昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)にも「巡礼道」と表記され、破線路が記されているが、「悪路」との注記がある。
私が歩いた1987年当時は、明瞭な踏跡があり、迷うことなく霊山院に到着したが、今はどうだろうか。
七曲りと呼ばれる急坂を過ぎると、風早山(平萱の三角点:539.4㍍3等三角点)の北を巻き、まもなく林道に出て、慈光七石のひとつである「冠岩」のところで、「ときがわトレッキングコース」に出る。
霊山院まではわずかだ。
巡礼街道は、50年ほど前まで腰上地区と霊山院を結ぶ最短路として利用されていた。
腰上地区は小貝戸を除き、大半が霊山院の檀家であった。
赤木では。毎年8月17日に行われる霊山院のお施餓鬼法要を前に、檀家の人々が巡礼街道とときがわ町大野の七重地区へ超える峠(従来、ハイカーの間では「碑原峠」と誤称されてきたが、実際は無名の峠)からの二手に分かれ、霊山院に向かった。
そこで、お施餓鬼の1ヶ月程前にあたる7月15日に、赤木の集落総出で道の草刈りを行った(戦後は5~6人が当番となって草刈りをした)。
正月4日は年始参りの日で、この日、霊山院の住職が巡礼街道をくだって腰上の檀家を回ったという。
しょうやま 塩山・正山(嵐山町・ときがわ町)
比企郡嵐山町鎌形・比企郡ときがわ町田黒
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
嵐山渓谷をはさんで大平山(おおひらやま)と対峙する164.8㍍4等三角点峰。
同じく嵐山渓谷に近い山でありながら、登山道が整備され、山頂が公園化されて賑わっている大平山とは対照的に、「塩山」(正山)は不遇な山である。
山頂も灌木が茂って展望は得られない地味な山である。
今までの記述でお分かりのように、「塩山」と「正山」の表記が併用されている。
2万5千分の1地形図「武蔵小川」での表記は正山だが、点名は「塩山」など錯綜している。
私の1980年代後半の調査だが、嵐山町鎌形でも、旧玉川村(現・ときがわ町)田黒でも、「しょうやま」と発音。
『新編武蔵風土記稿』比企郡田黒村の条では、「塩山 村の東にあり」と記載。
同じく『武蔵風土記稿』比企郡鎌形村の条でも、「塩山 西方にあり上り四五町」などと、「塩山」の表記が優勢である。
『武蔵国郡村誌』比企郡鎌形村の条は、「塩山 村の西北にあり、嶺上より西は田黒村、東は本村に属す。孤立樹木生せす。字塩沢より上る三町。嶮にして近し」と記す。
このように古い地誌では「塩山」が圧倒している。
登山口にあたる北東集落「塩沢」(嵐山町鎌形」)は「しょうざわ」と発音。
面白いのは、聞き取りの結果、嵐山町・旧玉川村とも「しょうやま」と発音していたが、漢字表記となると、嵐山町側では「塩山」、旧玉川村側では「正山」が圧倒的だった。
また、山頂西側(旧玉川村側)の小字名が「正山」であることも分かった。
気になる「塩山」(正山)の名の由来だが、鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)を読むと、「シオ」には川の曲流部の意味があり、これが塩山(正山)の地形に符合していることが分かった。
つまり、槻川の屈曲部に面した山ということから、「シオヤマ」の名が生まれ、「塩」の字を当てたのではないだろうか。
塩山には、山名の由来をめぐり、いくつかの伝説がある。
最初に、神山弘『ものがたり奥武蔵』(岳(ヌプリ書房、1982年)では、「都幾川、槻川合流点にある武蔵嵐山の塩山(しおやま:原文はルビ)は将軍(征夷大将軍:坂上田村麻呂」が山容秀抜な山名なので、山上に宇佐八幡を祀って守護神とし、またその折、塩の出るのを発見したといわれます」とある。
次に、鎌形付近から眺めると、塩を盛ったように見える。
その山容により、「塩山」と呼ばれるようになった。
だが、これらの山名由来伝説は、槻川の曲流部(嵐山渓谷)に面した山ということから「塩山の漢字表記が生まれ、それに付会した説の域を出ない。
さらに「シオ」の呼び名が「しょう」となまり、それに対し「正」の漢字を与え、それにより、「正山」の表記も生まれたと考えられないだろうか。
もっといえば、これはあくまでも仮説だが、旧玉川村がショウヤマに「正山」と当て字したのは、あくまでも「塩山」の漢字表記にこだわる嵐山町への対抗心だったのかも知れない。
しろいし 白石(ときがわ町)
比企郡ときがわ町田黒
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
仙元丘陵南東部にある224.9㍍3等三角点ピーク。
あくまでも「白石」であり、「白石山」とはいわない。
仙元丘陵の主稜は物見山から仙元山(小川町下里とときがわ町田黒の境)をへて、小倉峠・小倉城址へと続く。
その他、仙元山から玉川カントリークラブに沿って南にくだり、「昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉」に出る尾根がある。
かつて、後者の尾根をくだる途中で東に向かい、白石の三角点(点名は「菅沢」)を踏んで、田黒に出るルートがあった。
しかし、1991年から緑営開発による「玉川スプリングスカントリー倶楽部」(現・玉川カントリークラブ)の造成が始まり、白石は残存樹林として保全されたが、完全にゴルフ場内となり、ハイカーの入れない山となってしまった。
白石の山頂から東に少しくだった付近に白い岩石(「米石:こめいし」と呼ばれる)が露出していた。
このことから「白石」(しろいし)の名が生まれたという。
果たして、現在「米石」は無事だろうか。
しろいしとうげ 白石峠(東秩父村・ときがわ町)
秩父郡東秩父村白石・比企郡ときがわ町大野
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
東側の剣ノ峰(876㍍独標)、西側の川木沢ノ頭(874㍍独標)との鞍部。
峠は、東秩父村白石とときがわ町大野を結ぶ要衝である。
2万5千分の1地形図「安戸」(2016年2月調製、2016年5月1日発行)にも白石峠の名が表記され、昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)をはじめ、ガイドブックや都市地図などにも白石峠の名が明記されている。
もはや当たり前になった白石峠だが、私が1980年代後半に白石で地名の採集を行っていたとき、古老の多くは白石峠を「かわきざわ」「かーぎざわ」などと呼んでいた。
「川木沢」(かわきざわ)は、槻川源流部の総称名である。
「籠山」(かごやま)が大日向沢オクリ一帯の総称名であったように、「川木沢」も槻川源流部一帯の総称名であり、「籠山」が峠名(籠山のタル)に転化したように、「川木沢も峠名に転化したものである。
しかし、のちに比企・外秩父ハイキングコース開拓期に「白石峠」の命名がされて以降、地元呼称の「かわきざわ」「かーぎざわ」は忘れ去られてしまったのである。
せめて「白石峠」(かわきざわ)と括弧書きで併記して欲しいものだ。
しろやま 城山(青山城址・割谷城址:小川町青山・下里)
比企郡小川町青山・下里
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」で、仙元山の南にある267㍍独標。
小川町指定史跡の青山(下里)城址である。
以下、町田尚夫氏の秀逸な文章を引用しておこう。
「小川仙元山の山頂から南の尾根に入ると、急に人影が途絶える。だらだらと下って行くと、西に青山へ、次いで東に割谷への道を分ける。
登りにかかると稜線は逆S字にぐにゃりと曲がる。地図上でも顕著な捩れ尾根だ。右折して登り着いた267㍍標高点の山頂一帯が青山城跡である。頂上からは多くの支稜が派生し、谷が複雑に入り組んでいる。その地形を巧みに利用して構築された山城だ。順路を進むと先ず三の郭、次いで本郭に至る。ここで南南西に120度向きを変え、やや下ると二の郭となる。各郭の間には土塁や堀切の遺構も多く見られ、城郭研究の資料として評価も高い」(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』さきたま出版会、2004年)
『関八州古戦録』には永禄5年(1562)に「小田原より松山城には上田案礫斎、同上野介朝広を置き、青山、腰越の砦と共に守らしむ」とあることから、戦国時代、松山城の支城であったことが分かる。
城山へは仙元山から尾根通しにたどるほか、山麓の青山、割谷(下里)のいずれからも登路がある。
このうち割谷には「板碑製作遺跡が発見され、国指定史跡となっているが、これに関わった石工集団として考えられるのは、近世以降、下里の石屋で有りながら、同所の田中氏と共に上田氏の菩提寺浄蓮寺の旦那であった」(梅沢太久夫『埼玉の城-127城の歴史と縄張-(改訂版)』まつやま書房、2023年)
口碑によると、青山城(割谷城)は塩山(正山:しょうやま)から石火矢が放たれ、城が焼かれたという。
東山麓の割谷(下里1区)では、「鉄砲場」「金屋敷」「オハヤシ殿ヤツ」「千騎沢」(千木沢:せんぎさわ)など、城址と関連した地名が残っていて、伝説も残されている。
「鉄砲場」は、現在の「し尿処理場」のある付近で、この地から弾丸が見つかったという。
「金屋敷」も、青山城(割谷城)の配下であった鍛冶集団が住んでいた場所であったと伝えられている。
しろやま 城山(安戸城址:東秩父村安戸)
秩父郡東秩父村安戸
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根上の愛宕山(細窪山東のピーク)から南走し、やがて東に方向を変え、入山川に沿って官ノ倉西尾根と対峙する長い尾根の末端にある239㍍独標。
安戸は松山城主・上田氏の本領である「大河原・西ノ入筋」の奥で、安戸耕地の奥である御堂には、上田氏の菩提寺・日蓮宗浄蓮寺がある(梅沢太久夫『埼玉の城-127城の歴史と縄張り-(改訂版)』。
このように安戸は上田氏にとって重要な地でありながら、安戸城址は一の郭を中心とした小規模な形態であり、腰越城や青山城(割谷城)などの複雑な構造に匹敵しえない。
そう考えると、安戸城は腰越城の出城ないし「小屋掛場」であると考えられる。
城跡には城山大権現の碑が建ち、廃城になったあとにも神聖視されたことがうかがわれる。
しろやま 城山(腰越城址:小川町腰越)
比企郡小川町腰越
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉山東峰(石尊山)の西肩から南下する尾根は「半島状」に突き出し、小川町から東秩父村に向かう道は、この尾根の南をぐるっと迂回している。
まるで小川町から東秩父村へ入ることを邪魔しているような(言い換えると、安戸を敵の侵入から守るような)半島状の尾根の基部にある216㍍ピークこそ、城山(腰越城址)である。
城山(安戸城址)の解説で、安戸は松山城主・上田氏の本拠地であると述べた。
それだけ重要な安戸への入口を上から監視する位置にある腰越城は、上田氏にとって戦略上きわめて重要な位置にあった。
それだけに複数の郭を配置し、防衛のための堅堀を多用するうえ、同じく防衛に対する備えとして小口を工夫するなど、きわめて複雑な作りをしている見事な遺構が残されている(梅沢太久夫『埼玉の城-127城の歴史と縄張-(改訂版)』まつやま書房、2023年)。
城山の南方尾根では、昭和30年頃まで石灰岩の採掘が行われていた。
当時は採掘した石灰岩をケーブルで東秩父村の御堂まで運んでいたが、現在では荒々しい採掘跡の岩峰に当時の名残を残すのみ。
腰越城址は、採石により破壊された南側部分を除き、ほぼ戦国時代の遺構をそのまま残している。
城山へはバス停「木落し」から短時間で達することができるが、官ノ倉東峰(石尊山)から山ノ神越え、ゴルフ場造成跡地になった草原(小瀬田越え、桜山跡)を経てたどるルートを勧めたい。
北から尾根をたどると、2つの堀切を抜け、一の郭のある山頂につく。
樹林のなかで展望は得られないが、往時は南方が開けていたことが想像される。
山頂からは二の郭(小祠が祀られている)を経て、三の郭との間の堀切から木落しにくだる。
この下山路が、かつての大手道であったようだ。
腰越城は、小川町青山の仙元山南方尾根上にある青山城(割谷城)と同様、後北条氏が松山城を攻略し、手に入れたあと、松山城の西の守りとして重要な位置を占めていた。
『新編武蔵風土記稿』比企郡腰越村の条によると、腰越城は松山城主・上田喰礫斎(あんれきさい)の家臣である山田伊賀守家定の居城であったという。
最後に、腰越城の戦略的な位置づけについて、元・小川町文化財保護委員である塚越正佳氏の適切な記述を引用しておきたい。
「この山域は、戦略上よりみると、松山城主上田氏の本拠東秩父谷の入口を守る極めて重要な拠点であり、また後北条氏にとっても川越・松山・鉢形を結ぶ軍事路線の後背地に位置し、裏手を守る重要拠点の1つでもあった。しかも、後北条氏が最も恐れていた慈光寺の山伏たちの動向をさぐる格好の拠点でもあったので、南古寺地区に砦を設け警戒した形跡がある」(広報おがわ№304、1984年1月)。
しょうじいわ 障子岩(東秩父村・小川町)
秩父郡東秩父村奥沢・比企郡小川町木呂子
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根上の「細窪山」(421.2㍍3等三角点)とその西側の秩父郡・比企郡・大里郡三郡の境界ピークとの鞍部にある石灰岩の巨岩。
北側がすっぱり切り落ちていて、素晴らしい展望が得られる。
す
ずいこうじあと 瑞光寺跡(小川町)
比企郡小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町下里の名刹・大聖寺(下里観音・子育観音)のある山(観音山)から南西に延びる尾根は、途中、愛宕山をへて、その西にある160㍍圏ピークを最後に、槻川屈曲部に落ち込む。
この最後の160㍍圏ピークについて、大石真人氏は「外秩父概念図」(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収)で、「瑞光寺山」と表記。
しかし、地元では「瑞光寺山」の呼称はなく、160㍍圏ピーク南山麓(大字下里字北根ないし字徳寿山)の個人宅にかつて「瑞光寺」のあった跡がある。
瑞光寺は江戸期の『新編武蔵風土記稿』比企郡下里村の条にも「今は荒廃し未だ再建に及ばず」とある。
小川町在住の郷土誌家・内田康男氏からの情報提供でも、「明治初期に廃寺となり」とある。
内田氏によると、瑞光寺の仏像は個人が保存していたが、近年大聖寺に預けたところ、そのなかに慶長年代(1596~1615)の」年号のあるものがあったという。
本寺であった寄居町普光寺の文書によると、「隋光寺」、地元島田家の文書には「隋光寺」あるいは「徳寿山地蔵院瑞光寺」、天台宗本末帳には「瑞光寺」とあるという(内田氏による)。
大石氏が「瑞光寺山」と記載した160㍍圏ピークの山頂に、現在「徳寿山164m」と記された私設の山名表示板が設置されている。
「徳寿山」(とくじゅさん)は160㍍圏ピークを最高点とする南山腹の小字名である。
同時に、かつて山麓にあった瑞光寺の山号でもある(徳寿山瑞光寺)。
ただし、小字名である「徳寿山」を160㍍圏ピークの名称として良いのかどうかには疑問がある。
たしかに、「観音山」「愛宕山」など近くの小字名には山名を兼ねているものもある。
だからといって小字名徳寿山=山名とするのは早計である。
まずは、地元でこの山を本当に徳寿山と呼んでいるかどうかを確認することが先決である。
せ
せきそんさん 石尊山(小川町笠原)
比企郡小川町笠原
第1回「官ノ倉山とその周辺)
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉山東峰の通称。
山頂に笠原の信仰の厚い「阿夫利神社」(官ノ倉の石尊様)の祠が祀ってあることによる。
詳細は(ア行)の「官ノ倉山」を参照されたい。
せきそんさん 石尊山(寄居町三品)
大里郡寄居町三品
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺)
2万5千分の1地形図「寄居」
官ノ倉西尾根の西端にある277㍍独標。
寄居町三品の鎮守「白鬚神社」(「畠山重忠の乗り上げ石」で有名)の奥にある山。
正式名称は「高山」(たかやま)だが、山頂に石尊神社の奥社が祀られているため、通称「石尊山」あるいは「高山石尊山」と呼ばれる。
詳細は(タ行)の「高山」(たかやま)を参照されたい。
せんげんとうげ 仙元峠(浅間峠:長瀞町・寄居町)
秩父郡長瀞町風布・大里郡寄居町風布
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
長瀞町風布の植平(うえびら)耕地から寄居町風布の扇沢耕地へ越える峠。
「浅間峠」とも表記される。
塞ノ神峠から北に仙元峠、葉原峠、大平山(おおびらやま)にいたる尾根は、釜伏峠より尾根続きであり、長瀞町と寄居町との境界尾根である。
二本木峠~登谷山~釜伏峠への起伏のある尾根とは違い、塞ノ神峠から北の尾根は、ほとんど平坦ともいえるようなゆるい尾根であり、500㍍圏の快適な尾根散策が楽しめる。
途中、塞ノ神峠道、仙元峠道、葉原峠道などが頻繁に横切るように、この尾根は長瀞町の風布や井戸と寄居町の風布を結ぶ生活の道が通っていた。
仙元峠は、峠北の505㍍独標と南の塞ノ神峠のほぼ中間に位置する450㍍圏の鞍部である。
峠には、峠名の由来となった浅間神社(仙元さま)の社殿が建っている。
ひなびた峠にしては立派な浅間神社の社殿の裏には、「仙元宮」と刻まれた石碑があり、慶応2年(1866)11月建立の古い碑である。
先にも書いたが、仙元峠道は長瀞町風布の蕪木や植平などの耕地と寄居町風布の扇沢耕地を結ぶ生活の道であり、峠の東西風布の住民にとっては不可欠の交流の道であった。
4月上旬にはカタクリの咲く峠は、かつて秩父困民党のなかでも最強の軍団として活躍した風布組の農民が超え、白鳥尋常小学校へ通学するために扇沢の学童たちが超えた峠である。
仙元峠を越えると、長瀞側の蕪木の耕地。
ここは、大野苗吉(大鉢形耕地出身)とともに風布組の蜂起を組織した指導者のひとり、大野福次郎が育ったところだ。
せんげんやま 仙元山(浅間山・東秩父村皆谷・御堂)
秩父郡東秩父村皆谷・御堂
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
槻川上流と萩平川にはさまれた尾根上の一峰。
「浅間山」とも表記。
この尾根は笠山前衛の尾根のなかでも変化に富み、しかもまとまった尾根歩きのできる貴重な山域であったが、観音山が採石のために消滅し、登山価値を失ったしまった。
観音山の南にある465㍍独標が仙元山である。
皆谷側の新田(あらた)、御堂側の萩平ともに、「せんげんやま」と呼称。
山頂には浅間神社の木製の小祠が祀られている。
ところが、この山は1980年代後半まで「薬師山」と誤称されてきた。
薬師山の表記が採用された最初は、戦前の岩根常太郎氏のガイド記事(ハイキング・ペン・クラブ著『奥武蔵(増訂版)』登山とスキー社、1940年)である。
その後、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収)、同氏の「奥武蔵辞典-山名編-」(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)で踏襲。
ちなみに、1960年の「奥武蔵小辞典-山名編-」で、大石氏は「薬師山」について、「東秩父村の中央観音山と岳ノ平坂の間にある。頂上に薬師があるかどうかは未調査」としている。
これら先駆者の誤りが、奥武蔵研究会調査執筆の昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』にも引き継がれ、1980年代末にいたり、ようやく仙元山(浅間山)に訂正された。
それでは、なぜ地元呼称でもない薬師山の名称が長く引き継がれてきたのだろうか。
罪作りな犯人こそ、『武蔵通志』の「薬師嶽 皆谷の東」というごく簡単な記述である。
この記述にしたがい十分な地元での聞き取りをしないまま、皆谷の東にある仙元山の名称を薬師山として、50年近く引き継いできたのである。
ところが、『新編武蔵風土記稿』秩父郡皆谷村の条に、「浅間山 村の東にあたり、字藤山にある」との的確な記載があったのである。
薬師山という誤称を採用した先駆者やそれを継承した方々は、『風土記稿』の「浅間山」の記事を見ていなかったのだろうか。
せんげんやま 浅間山(寄居町西ノ入)
大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根の「君八山」(勲八山:くんぽちやま:359㍍独標)を過ぎたあたりから、右手の採石場の先に突然、乳首状の山が現われる。
その乳首に酷似したユニークな山容に誰もが息を飲むのは必至である。
そして、山名を知りたがるだろう。
この山こそ、官ノ倉西尾根から北東に派生する支尾根上の322㍍独標であり、浅間山(仙元山)である。
釣鐘状の山体の上にちょこんと乳首が乗ったように見える山容は、乳首山の別称で有名な比企・外秩父随一の名山・笠山以上に乳首山の名にふさわしい。
浅間山の山麓で、この山の名を採集した結果、山麓の山居(さんきょ)集落(寄居町西ノ入)でこそ「乳首山」等の別名を採集できなかったが、むしろ離れた寄居駅の陸橋から眺めると、びっくりするほど乳首状に見えるという(藤本一美氏のご教示)情報を得た。
私も鐘撞堂山へのハイキングの帰りに、寄居町の北部で遠くに見える見事な乳首状の浅間山を指し、「乳首山」の愛称はないかと聞き取りしたところ、寄居町の北部や花園町(現在は深谷市)で「おっぱい山」の愛称が使われていることを確認した(「乳首山」の愛称はなし)。
それにしても、これほど見事な乳首状の山容の山が、私が歩いた当時(1985~86年頃)、不遇のヤブ山であったというのが信じられなかった。
そこで、浅間山の麓にある臨済宗・明善寺(寄居町西ノ入の山居地区)を訪ねてみた。
最初に明善寺から寄居町西ノ入りの平倉地区に抜ける鞍部から直接、浅間山に登ってみた。
当時、官ノ倉西尾根の主稜から浅間山への枝尾根は、ブッシュがひどく、とても歩けたものではなかった。
ブッシュがうるさいながらも、か細い踏跡を忠実に登り、山頂に着いたが、展望のない何の変哲もない頂上だった。
ただし、木立のなかに建立されている浅間神社の社殿は小さいながら、しっかりとつくられており、何と扉は新しいスチール製だった。
誰も登らないような不遇な山の山頂の小さな社殿に一体誰が真新しい扉をつけたのだろうか。
その一方で、慶応元年(1865)の銘を刻む古い鐘は、往時の信仰を偲ばせるものだった。
再度、明善寺に戻ると、ちょうど寺は屋根の改修中だった。
明善寺といえば、秩父困民党の甲大隊長・新井周三郎が捕虜にしていた県警巡査・青木与一に切りつけられ、瀕死の重傷を負ったあとにかくまわれた寺である。
周三郎は西ノ入の出身で、幼児、明善寺に通って和尚に読み書きを習った。
当時から非凡な逸材であったという。
その後、単身で東京に出て学び、教員の資格を取得。
上州鬼石の浄法寺小学校に赴任した。やがて、秩父事件の波に巻き込まれていく。
明善寺に逃れた周三郎を、密告を受けた警官隊が取り巻いたが、東京の逸見道場で取得した剣のわざに皆恐れをなし、誰ひとりとして踏み込めなかった。
周三郎は、かつての御師の説得で、ようやく折れて投降したと伝えられている。
彼は秩父事件の半年後の明治18年(1885)5月17日、22歳の若さで熊谷監獄の絞首台の露と消えた。
浅間山は明善寺と関係はないのだろうか。
あるいは神仏分離以前には、明善寺の奥ノ院的な存在では無かったのか。
こんな疑問を抱きつつ、山居地区から振り返って望む浅間山を見て驚いた。
地元の山居(大字西ノ入)からは乳首状の突起が消え、均整のとれた富士形に見えるではないか。
しかも山居には浅間山と明善寺との関係を物語る次のような伝説が伝えられていた。
明善寺の改組となった僧は駿河の国の出身だが、ある日、山居の地を訪ね、正面に仰ぐ富士型の山(=浅間山)を見て、故郷から眺める富士山を思い出し、この地に明善寺を建立したという。
住職は、かつては修行のために、毎日、浅間山に登っていた。
浅間山も、山麓の平倉や山居、大内沢などに住む明善寺の檀家の人々が信仰していたという。
そして以前の屋根瓦が取り払われ、立派な銅屋根への張り替えが終わった寺で、本堂左手の釈迦堂の扉を見て驚いた。
それは先に見た浅間山山頂の浅間神社の新しい扉と同一のもの(スチール製)であったからである。
幸い、改修に立ち会っていた檀家の方がおられたので、聞いてみると、明善寺は寄居町西ノ入や東秩父村大内沢の檀家の人々がお金を出し合って管理しているという。
浅間神社の扉を改修したのも明善寺の檀家の方々だったのである。
明善寺とせんげんやまとのつながりは、寺が無住になった今でもきちんと生きていたのである。
私は1986年以降、40年近く浅間山を訪れていないが、1989年に明善寺の檀家が浅間神社の傍らに「摩利支天」と刻字された青石の碑(明治35年4月)、「せんげん様」(浅間様)の碑を遷座したという。
さらに、山頂に寄居町二級基準点が新たに設置されているという。
また、大内沢から送電線巡視路を使い官ノ倉西尾根に出、枝尾根を浅間山に向かう踏跡も、猪ノ倉・仙元名水から山頂に登る道とともによく歩かれているという。
最後に、最近ハイカーの間では、浅間山は「西ノ入仙元山」と呼ばれているようだ。
しかし、浅間山にも秩父鉱業(株)寄居鉱山所の採掘が迫っている。
浅間山すぐ南の沢沿いの車道が、採掘現場の北限である。
採掘期間は2028年3月までだが、採掘許可が更新され、2028年4月以降も採掘が認められ場合、沢を越え、浅間山が採掘の対象になる恐れが十分ある。
何とかこのユニークな山容の山を守りたいのだが、大企業の利潤追求の前には無力なのだろうか。
せんげんやま 仙元山(小川町青山)
比企郡小川町青山
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町青山の東にある298.2㍍2等三角点峰(点名は「青山」)。
2万5千分の1地形図「武蔵小川」にも「仙元山」の名が明記され、古い地誌にも記されている文字通り小川町青山を代表する名山である。
『武蔵国郡村誌』比企郡青山村の条は、「仙元山 高さ周囲不詳。村の東方にあり、嶺上より二分し、東は下里村、西は本村に属す。孤立にして樹木疎立す。村の北方より上る十町」と記す。
『武蔵通志』で「浅間山 同村(注:青山村)の東」とわずかに言及しているのも、仙元山のことである。
仙元丘陵には、本山以外にも物見山(286㍍独標)東に同じ名の仙元山がある。
2つの仙元山を区別するために、それぞれが位置する大字の名を冠して「青山仙元山」「下里仙元山」と便宜的に区別する人もいる。
1993年に小川町が5億円の資金を投じ、仙元山東中腹に「仙元山見晴らしの丘公園」を建設。
公園は、その名のとおり、小川町の中心部をはじめ赤城、榛名などの北関東の山々、さらに比企の名峰・笠山などを一望できる360度の眺望を誇る展望台となった。
見晴らしの丘公園は、全長203㍍と埼玉県で第2位の長さの「ローラー滑り台」をメイン施設とし、東屋やトイレ、観光休憩所、駐車場などを備え、公園から仙元山山頂まで遊歩道が延びる。
それまでは笠山や大霧山、官ノ倉山などの陰に隠れ、ヤブ山好きがわずかに訪れる程度の地味な存在だった山が一変。
過剰なほどの指導標と良く整備された遊歩道の山となった。
仙元山への登路も、従来の北山麓・天満宮から直線的に登る道から、見晴らしの丘公園から遊歩道を登るコースが主流になった。
見晴らしの丘公園から仙元山山頂まで約30分の良く整備されたルートである。
見晴らしの丘公園から遊歩道を山頂に向け登ると、以前からの天満宮からの道に合流する。
ここで指導標にしたがい左(南)に行くと、展望台を経て山頂に達するが、天満宮への道を少したどり、西に分かれる急坂を登ると、小平地に出る。
ここが仙元山の名の由来になった冨士浅間信仰の対象である浅間社のあった場所である。
さらに、ずらっと並んだ緑泥片岩の庚申塔が目を引く。
これが小川町指定史跡の「青山の百庚申」である。
万延元年(1860)は富士山御縁年の年にあたり、同年12月にこの地に冨士講の一集団である「丸三講」により「庚申大神」(親庚申)の碑が建てられた。
そのほか同年のものと思われる「庚申碑」が丸三講の講員により百基以上建てられた。
建立者は小川町以外に東秩父村、ときがわ町、熊谷市など広範囲に及んでいる。
万延元年(1860)12月、山麓にある円城寺入口に浅間大神宮と百庚申礼道の道標を兼ねた石碑も建立。
これ以降、地元青山下分の人々だけでなく、丸三講の多数の人々が登山し、浅間神社・百庚申を拝礼した(以上は、『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい、いきいきサロン、2024年3月)による。
百庚申の隣には、青山村の浅間講が信仰した浅間神社跡の石積みが残されている。
浅間神社は、明治41年(1908)に青山村の鎮守である氷川神社に合祀されたが、それまでは毎年4月の例祭は大いに賑わったという。
このように、仙元山の山名由来は、山頂の北にくだった百庚申隣に昔あった浅間神社に由来する。
そのため、仙元山山頂には浅間信仰の名残は存在しない。
さらに元禄8年(1695)の書類に、円城寺が富士山に浅間社の宮を新造したとあることから、仙元山はもともと富士山と呼ばれており、当時から浅間社が祀られていたことが分かる。
また、明治初年の地租改正の際に、仙元山付近の小字名を「浅間山」に変更。
そのため、小字名は「浅間山」、山名は「仙元山」という状態が現在まで続いているという(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい、いきいきサロン、2024年より)。
せんげんやま 仙元山(小川町下里・ときがわ町田黒)
比企郡小川町下里・比企郡ときがわ町田黒
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
仙元丘陵の東部。
物見山(286㍍独標)の東にある鋭峰。
古い玉川村(現・ときがわ町)役場発行の1万分の1地形図によると、標高270.8㍍。
山頂は小川町下里とときがわ町田黒の境界である。
仙元丘陵は、仙元山から東に嵐山町とときがわ町の境界尾根を小倉峠~小倉城址へとたどるコースと、南に玉川カントリークラブに沿って、「昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉」にくだるコースに分かれる。
後者のコースの途中から東に分かれ、白石(しろいし)→道元平(どうげんびら)とたどるコースが玉川スプリングスカントリー倶楽部(現・玉川カントリークラブ)建設により、廃止になってしまったのは残念。
北側の小川町下里から眺めると、ぼってりした物見山の右手に一際目立つ鋭峰を突き上げた仙元山は、その山容だけからも、神聖視されたことが想像される。
名称が、仙元丘陵のスタートの山である青山の仙元山と同じ名称なので、混乱を避けるため、298.9㍍のある2等三角点峰を「青山仙元山」、下里と田黒境界の仙元山を、「下里仙元山」あるいは「大日仙元山」と便宜的に呼ぶこともある。
「青山仙元山」は、その名の由来になった浅間神社が山頂になく、北側に少し離れた「百庚申」のある小平地にかつて存在していた(現在は青山の鎮守・氷川神社へ遷座)。
これに対し、「下里仙元山」の狭い山頂は、浅間信仰を物語る明治19年(1886)12月吉日建立の「仙元大日神」の大きな石碑をはじめ、小御嶽社の石碑、庚申塔、石灯籠などにより埋めつくされている。
それにしても、樹林に覆われた狭い山頂に、多くの石碑が無秩序に立ち、それに雑草が巻き付いている現況には寂しさを禁じ得ない。
下里での聞き取り(1989年)によると、下里1区に浅間講の先達がいたことから、この地に浅間様や小御嶽神社を勧請して祀ったという。
浅間講の範囲は下里だけではなく、山を越えたたまがわ村(現・ときがわ町)にも及んだ。
戦前は武運長久の神として特に「出征兵士」とその家族の信仰が厚く、出征兵士の家族のなかには、夫や息子の無事を祈って、仙元山にお百度を踏んだ人もいたという。
例祭は4月17日。
下里1区は5つの組に分かれていて、各組の当番の家で団子をつくって、割谷の千木沢沿いの道から登ったり、東坂下から小倉峠をへて登り、山頂で田黒の人々と合流した。
例祭(4月17日)のときには、下里から割谷奥の千木沢沿いの道、さらに東坂下から登る人たちがそれぞれ登り、山頂で田黒の人々と会い、山頂で団子を配るなど盛大な祭りを執り行った。
しかし、その浅間信仰も1060年半ばを最後に途絶え、山頂は荒れるに任せている。
そ
ぞんげやま ゾンゲ山(東秩父村・秩父市)
秩父郡東秩父村白石・秩父市定峰
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠
2万5千分の1地形図「安戸」
現在は定峰峠と呼ばれる新定峰峠(マジノタワ)から旧定峰峠方面に向け急登を喘ぎ登った先にある大きな山容の701㍍独標。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条にも、「ゾンゲ山 村の西にある」と記されている。
だが、古くからの呼称が登山地図類に記載されていないのはなぜなのか。
「ゾンゲ」は、西側の定峰側の小字名である(高篠村誌編集委員会編『高篠村誌』秩父市高篠公民館、1980年所収の「高篠村略図」を参照)。
ところが、大石真人氏は、「外秩父概念図」(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収)で、701㍍独標を「ゾンゲ山」でなく「岩久保」と記載。
大石氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典―山名編―」でも、「岩久保(698㍍) 旧定峰峠と新定峰峠の間にあるヤブ山。山頂に道はない」としている。
「岩久保」(698㍍)=「ゾンゲ山」(701㍍)であることは明らかである。
藤本一美氏も、大石氏の採集した「岩久保」の名を701㍍独標の山名としている(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。
しかし、「岩久保」は前記の「高篠村略図」によると、マジノタワ(現在の定峰峠=新定峰峠)から白石峠(カワキザワ)に寄った付近、つまり高谷山南西面付近の小字名であり、ゾンゲ山と位置が離れすぎている。
ゾンゲ山は、定峰側の小字名「ゾンゲ」が山名に転化したものであるが、そもそも「ゾンゲ」なる変わった名はどのような意味なのだろうか。
そこで、いつも参照している鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)に「ソギ=傾斜地」とあるのを発見した。
ソギはソゲとも関連あると指摘されている。
ここから推測すると、急傾斜地を意味する「ソギ」が「ソゲ」へ、さらに「ソンゲ」「ゾンゲ」へと転訛したのではないだろうか。
つまり、「ゾンゲ山」は急傾斜の山」「急傾斜地のある山」という意味ではないだろうか。
た
だいにちやま 大日山(ときがわ町日影)
比企郡ときがわ町日影
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
ときがわ町日影の雀川源流域にあり、源流北側の行風山(332㍍独標)の南に対峙している330㍍圏ピーク。
昔、山頂に大日如来様(お大日様)が祀られていたことから、大字日影の小北(こぎた)集落の古老のなかには、この山を「お大日様」あるいは「大日山」と呼ぶ人もいる。
現在、山頂には石積みの上に石碑が残されているが、これが「お大日様」の名残りである(「お大日様」の項目を参照)。
だいにちやま 大日山(小川町下里)
比企郡小川町下里
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町青山の仙元山から城山(青山城址・割谷城址)へ南に続く仙元丘陵。
その仙元丘陵が槻川の流れに沿ってL字型に東に方向を変える付近の北東山麓に、小川町下里1区の割谷(わりや)地区がある。
下里側からは、まず割谷橋で槻川を渡る。
割谷は支流の沢名であり、同時に集落名でもある。
槻川から離れて仙元丘陵に深く食い込んでいる沢(割谷)の下流沿いに6軒(1987年当時)の人家が点在する。
さて、割谷橋を渡り、割谷集落に入って、最初に右岸(左手)から流入する千木沢(千騎沢)添いの道を割谷沿いの林道から分かれて少し登ると、まもなく右手に巨大な岩壁が現われる。
この岩壁こそ「大日山」(だいにちやま)である。
この付近には珍しい大きな岩場で、基部から3㍍ぐらいのところに「猿田彦太神」の石碑が祀られている。
さらに、30㍍ほどの岩場上部の穴に大日如来像が祀られている。
大日如来像はオーバーハングした岩場上部の穴に安置されているので、近づくのは容易ではない。
岩場の上からザイルで確保してくだって探るしかないが、実際に見た方の話によると、粉をひく引き臼ぐらいの大きさの蓮の花を台座にとした座高50センチほどの可愛らしい石像であったという。
大日山は、岩壁がオーバーハングしたようになっていて、今にも上から落ちてきそうだが、逆に山仕事で急な雨に降られたとき、雨宿りするのに絶好の隠れ場所であった。
大日様(大日如来)が守ってくれるので、岩が崩れ落ちることはないと信じられていた。
割谷の集落では、暮れには門松、小正月(1月4日)には削り花を大日山に供えていた。
かつては門松、削り花を各戸について二本ずつ、一つは猿田彦太神に、もうひとつを大日如来様に供えていた。
しかし、岩場を登るのが命がけなので、今では(1987年当時)、千木沢の入口に門松や削り花を二本ずつ供えるように簡略化されている。
なお、昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)では、仙元尾根が東に方向を変えたところにある252.6㍍4等三角点(点名「下:しも」)に「大日山」と表記している。
また、252.6㍍4等三角点峰には「大日山」と書かれた大きな私設の山名表示板が建てられている。
しかし、いずれも誤りである。
たいらがやのさんかくてん 平萱の三角点(小川町・ときがわ町)
小川町腰越、ときがわ町西平
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
慈光寺・霊山院裏の金嶽(463㍍独標)から冠岩を経由する小川町とときがわ町との境界尾根上の539.4㍍3等三角点峰(点名「平萱」)。
昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)では「金嶽」と表示しているが、これは誤りである。
小川町側の赤木(腰越)では、小字名の「平萱」(たいらがや)から、文字通り点名どおり、「平萱の三角点」と呼称。
ときがわ町西平では、三角点付近に「風早」の小字名がある。
『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条に、「風早山 西北にあり」と記され、位置的に「平萱の三角点」と一致する。
その意味で、「平萱の三角点」の西平側の名称を「風早山」として構わないだろう(風早山の項を参照)。
たかがいやま 高谷山(東秩父村・秩父市)
秩父郡東秩父村白石・秩父市定峰
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
白石峠から定峰峠(新定峰峠・マジノタワ)に向かうと、2つの大きな山がある。
最初が「川木沢ノ頭」(874㍍)。
次の大きな山容の828㍍独標が「高谷山」(たかがいやま)である。
大石真人氏は828㍍独標を「ハギノソリ」と呼び、「新定峰峠から川木沢の頭つらなる尾根上の明るい一峰で、将来、定峰峠・堂平山ハイキングコースでなじみになるところであろう」とされている(大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収の「奥武蔵辞典-山名編-」)。
藤本一美氏も大石氏を踏襲し、828㍍独標を「萩ノソリ」としている(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。
だが、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980年)所収の「高篠村略図」(同村の小字の地図)によると、「萩のソリ」(高篠村略図の表記名)は、山田村・栃谷村・定峰村の三村が明治22年(1889)に合併してできた高篠村(1957年に秩父市と合併)の東端(旧定峰村の区域)で、川木沢ノ頭~白石峠の小字名である。
そうなると、「萩のソリ」は、828㍍独標と距離が離れすぎているため、同峰の名称とするのには無理がある。
それ以上に重要なのは、東秩父村白石での聞き取りで、地元の古老が828㍍独標を「タカガヤ」と呼んでいた点である。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条でも、「高谷山 村の南にあり」と記している。
以上をふまえ、828㍍独標は無名峰でも「ハギノソリ」(萩ノソリ:萩のソリ)でもなく、地元呼称と古い地誌を重視し、高谷山(タカガヤ)と記載すべきであろう。
たかはた タカハタ(小川町・東秩父村)
比企郡小川町腰越・秩父郡東秩父村安戸
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
高旗山・高畑山とも表記(読み方は、いずれも「たかはたやま」)。
帯沢川をはさんでリュウゴッパナ~ツルキリ~物見山の尾根と並行する笠山郡界尾根上の407.6㍍4等三角点ピーク(点名は「腰越」)。
笠山西峰から北に延びる比企郡と秩父郡の郡界尾根は、途中で方向を西に変え、さらに北東に変える。
「タカハタ」は最後の北東に方向を変えた郡界尾根上にある。
笠山郡界尾根は、同じく笠山に発する前衛の尾根のうち、観音山の尾根、リュウゴッパナの尾根が、前者は珪石の採掘、後者は林道の開通などにより、登山価値を失ってしまったなか、ハイカーに残された静かな尾根である。
タカハタの山名由来となっている次のような伝説がある。
昔、鉢形城の出城であった安戸城では、リュウゴッパナからの尾根上にある「物見山」に見張り櫓を置き、異変があったときには旗を立て、安戸城に知らせていた。
あるとき、旗が風で飛ばされ、タカハタ山頂の立ち木に引っかかった。
それ以来、この山を人々は「タカハタ」と呼ぶようになったという(東秩父村安戸の帯沢で採集)。
たかねやま 高根山(滑川町)
比企郡滑川町福田
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
比企丘陵最北端に位置する105.1㍍3等三角点峰(点名「高根山」)。
大立山(滑川町中尾)、二ノ宮山(滑川町伊古)とともに、滑川町を代表する山である。
比企郡滑川町福田に属するが、旧大里郡江南町(現:熊谷市)小江川(おえがわ)との境界にも近い。
西側を除き、三方を高根カントリー倶楽部に囲まれている。
『武蔵通志』は、「高さ一千二百尺、福田村の北にあり、奮松林なりしが近時剪伐して、頂上に一叢を残す。四顧爽潤にして北は行田・熊谷等の市街を(中略)望むべし」と記す。
西面に刻まれた参道を登ると、中腹に「小高根さま」の小祠。
山頂の岩盤の上には「高根さま」(たかねさま)の祠がある。
藤本一美氏は、「超低山であっても周辺からみれば、ひと際目立つ高い尾根、峰の山ということで、滑川町上福田の人々に信仰され」と、山名を考察しておられる(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。
東山麓の円正寺前ヤツ(約10戸)、円正寺後ヤツ(約10戸)、榎ヤツ(約5,6戸)(いずれも滑川町上福田)の人々が信仰。
高根さまの例祭は毎年4月24日。
役員は祭りの指図をする大役(数年間務める)と団子をつくる当番(一年交替)に分かれ、各ヤツごとに一名ずつ。
当日の朝8時頃に各ヤツの当の家に集まって、あらかじめ各戸から3合ずつ集めておいた米で団子をつくる、
なお、榎ヤツは山頂までの距離が遠いので、山頂に最も近い円正寺後ヤツの当番の家で一緒に団子をつくる。
つくった団子は昼過ぎに山頂に運びあげて、子どもが学校から帰ってくる14時頃から祭礼が始まる。
ところで昔、高根山の所有をめぐって、大里郡小江川村と比企郡福田村が争った。
しかし、円正寺不動庵の坊さんの計略で、高根山は福田村の分になった(現に、熊谷市と滑川町との境界よりもやや滑川町に入ったところが高根山頂)。
その争いの場が今でも「論証場」(ろんしょうば)の名で残っている(高根カントリー倶楽部内)。
熊谷市小江川の鎮守である高根神社は「古くは元高根(注:ヘリテイジゴルフコース南の高台付近)に鎮座したいたのを享保年間(1716~36)に現在地に遷座したものと伝えられる」(高根神社の説明板による)とある。
だが、小江川の古老のなかには、高根神社はもともと高根山にあったものを、福田村との境界争いに敗れ、現在地に移転したという人もいる。
その真偽のほどは定かではないが、境界騒動にまつわる逸話が今日でも上福田、小江川双方に伝わっているのは興味深い。
たかやま 高山(寄居町)
大里郡寄居町三品
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「寄居」
官ノ倉山から延々と続いた官ノ倉西尾根の終点(西端)に当たる277㍍独標。
寄居町三品(みしな)の背後に聳える山であり、麓には三品の鎮守・白鬚神社がある。
そして、三品をはさんで、車山と対峙している。
高山の名は、明治期の地誌『武蔵国郡村誌』『武蔵通志』にも見られる。
高山の名は、その名のとおり、寄居町三品付近では一番高い山という意味であろう。
『武蔵国郡村誌』男衾郡三科村の条に、「山上に高山社あり」とされているのが、高山石尊神社である。
高山石尊神社が祀られていることから、高山を石尊山とも呼ぶ。
最近、ハイカーの間では、高山を「三品石尊山」と読んでいるようである。
『武蔵国郡村誌』の高山社に関する記述を要約すると、「日本武尊が東征の際にこの山頂で憩い、石に腰掛けて四方を見渡した。その石を高山石尊神社として祀った」とある。
町田尚夫氏によると、「近世は願い事を叶えてくれる神様として信心され、戦前まで数多くの講が参拝した」という(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』さきたま出版会、2004年)。
高山石尊様(高山石尊神社)の山開きは例年8月18日で、この日から当番が2人1組で山頂の灯籠に灯をともしに行った。
高山石尊神社の例祭は8月28日だが、山開き(8月18日)から世話人は講元の家に集まり、祭りの準備を進めた。
まず、前年度に記帳した人すべて(約100人)に呼出状を出す。
例祭の当日には「高山石尊神社神璽」と刷られたお札を配る。
祭りの当日、最後の準備として、山頂が狭いので、世話人は「お棚掛け」と呼ばれる桟敷をつくる。
当日には、白鬚神社境内につくられた公民館に収納された祭りに使われる道具一式をリレー方式で山頂に持ち上げた。
例祭の当日8月27日は午後2時から4時頃までがもっとも賑やかになるが、過去90年間で雨に降られたことは2回しかなかったという。
祭りには三品以外にも、西ノ入、秋山など近隣から多数の参拝者が訪れ、氏子以外にお金を出して祈願を申し込む人は100人近くにのぼったという。
平倉地区(寄居町西ノ入)では、梵天講が組織され、例祭(8月27日)の当日、石尊神社の御神木に幣束をつけた梵天を取り付けて祈願を行う習わしになっていた。
祭りが終了すると、世話人をはじめ氏子の人々は、一杯ひっかけながら山をくだり、公民館で夫日待ちを行った。
そして、お日待ちをしてもお金を毎年積み立て、昭和60年(1965)に高山山頂の石尊神社社殿を改修した。
これが現在の石尊神社奥社である。
では、なぜ山頂の神社が奥社になってしまったのか。
それは、住民の多くが高齢になり、高山山頂まで登るのが大変なので、麓の白鬚神社境内の「畠山重忠の乗り上げ石(ひずめ石)」に高山石尊神社を遷座しようという声が住民の間で強くなった。
いったんは「あくまでも高山山頂の高山石尊神社で祭りを行いたい」とする講元の主張がとおり、祭りは引き続き高山山頂で実施された、
しかし、その後再度「高山山頂の石尊神社で例祭を続けるのか、それとも住民の高齢化にともない、白鬚神社境内の「畠山重忠の乗り上げ石」に石尊様の本尊を移し、里で例祭を行うべきか」をめぐる論争が始まった。
その結果、最終的には1990年代になって、石尊神社本尊を白鬚神社境内の「畠山重忠の乗り上げ石」の上に遷座し、毎年8月27日の例祭は里で行われるようになった。
このときから、高山山頂の高山石尊神社は「奥社」に降格したのである。
なお、高山山頂からは北側に「ラクダの背のような」(町田尚夫氏)コブを連ねた車山の特異な山容が印象的に望まれる。
たかんど たかんど山(寄居町)
大里郡寄居町富田(とみだ)
第14回「四ツ山(四津山)・物見山・堂ノ入山・たかんど」
2万5千分の1地形図「寄居」
2万5千分の1地形図「寄居」の右下に、東武東上線をはさんで巨大な「本田技研工業(株)埼玉製作所 完成車工場」(鷲丸山跡地)の東に対峙し、南は寄居カントリークラブ、そして北は押し寄せる住宅地に囲まれた丘陵地帯が存在している。
それが、北の「堂ノ入山」(171㍍独標:寄居町富田)と南の「たかんど」(193㍍独標:寄居町富田を結ぶ丘陵である。
このうち堂ノ入山は。「男衾自然公園」として、男衾桜(アーコレード)の名所として整備され、「たかんど」東側の湿地に「おぶすまトンボの里公園」がビオトープとして整備された。
「たかんど」は「たかんど山」ともいい、標高わずか193㍍の超低山だが、本田技研工業(株)寄居工場の建設により消失した「鷲丸山」(標高216㍍)に代わり、男衾地区の最高地点に躍り出た。
「たかんど」という名称は、文字通り、この付近でもっとも高いところを意味している
これまで未整備のヤブ山だったが、「おぶすまトンボの里公園」を整備した「寄居にトンボ公園を作る会」の手により、トンボの里公園からたかんどをへて、「男衾自然公園」へと回遊する道が整備された。
残念ながら、たかんど山頂は雑木に覆われ、展望は得られない。
しかし、「おぶすまトンボの里公園」から「たかんど」経由で堂ノ入山を中心とする「男衾自然公園」にまで歩けば、素晴らしい展望に加え、桜やカタクリなどの花を堪能することができる。
ち
ちくびやま 乳首山(東秩父村・寄居町)
秩父郡東秩父村坂本・大内沢・大里郡寄居町西ノ入
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根の「細窪山」(421.2㍍3等三角点)西の比企郡・秩父郡・大里郡の三郡境界のピークと金山・君八山との中間にかつて存在していた364㍍峰。
山頂は凹地をはさんで二峰に分かれていて、それがあたかも女性の胸を連想させることから、東秩父村の坂本や大内沢では「乳首山」(ちくびやま)と呼ばれていた。
「チチクビヤマ」と発音する人もいる。
この山は鉢形城からみると、鬼門の方向にあたる。
そこで昔、ある人が鉢形城の財宝が埋まっていないかと掘ってみたところ、何も出てこなかった。
ところが、帰りに大雨に降られ、そのために病を得て亡くなってしまったという伝説が大内沢では残されている。
そういえば、乳首山から尾根続きの「金山」も、その山名由来について、鉢形落城のとき、埋蔵金をこの山に埋めたという伝説に起因している。
私が最初に乳首山を踏査した1986年当時、既に364㍍の山頂は削られ、削平された広大な広場と化していた。
その後、秩父鉱業(株)寄居鉱山所によるセメント用の砂岩の採掘はどんどん進み、2万5千分の1地形図「安戸」にも広大な採石場が広がり、官ノ倉西尾根は完全に寸断されてしまった。
ところで、韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成(中・歴史編)』(北辰図書出版、1973年)には、「チツクビ山」(埼玉県東秩父村坂本)の項で、先に述べたものと似た内容の伝説を収録している。
「大内沢の入口、坂本分にチツクビ山という高い山がある。虎岩のあるところである。このチツクビ山は忍城(あるいは鉢形城)が落城した時宝物を埋めたところといい、掘ると血の雨が降るという」
ちごいわ 稚児岩(寄居町)
大里郡寄居町西ノ入(五ノ坪地区)
初出
2万5千分の1地形図「寄居」「安戸」
官ノ倉西尾根北側の山林にあるヒスイ輝石(ジェダイト)を含む岩石の露頭。
「稚児岩」と呼ばれる伝説を踏めた大岩である。
場所は、寄居町西ノ入の五ノ坪地区。
八高線・折原駅から線路に沿って小川町方面に戻り、五ノ坪の集落に入る。
すぐに五ノ坪川に進行右側から支流(馬込と呼ばれる)が合流する。
ここで本流から分かれ、支流(馬込)に沿った林道を進み、舗装が切れた先で森林のなかに大きなヒスイ輝石(ジェダイト)を含む岩石の露頭が現われる。
これが稚児岩である。
ヒスイ輝石を含む岩石の露頭があるのは珍しいが、ここの岩石は、ヒスイ輝石50%、石英50%なので、ヒスイ輝石の純度は50%。
「ヒスイ」として宝石になるためには、ヒスイ輝石の純度90%以上が必要とされるので、残念ながら純度50%の稚児岩のヒスイ輝石・石英混合岩は「宝石」としての価値はない。
さて、五ノ坪で採集した稚児岩にまつわる伝説を紹介したい。
豊臣氏の総攻撃により鉢形城が落城したとき、当主・北条氏邦の側室が逃げてきて、この地で子どもを産み、その子に乳を飲ませたことから稚児岩と呼ばれるようになったという。
しかし、「広報よりい」(2010年10月号)を見ると、「稚児岩」にまつわる伝説はもっと複雑な内容である。そこで「正統説」を引用しておこう。
「昔、小河原城主・北条氏政(鉢形城主・北条氏邦の兄)の側近の青年武士が氏政夫人の美しい腰元の女性と心を通わせるようになり、女性は武士の子を身ごもりました。
2人のうわさを聞いた氏政は『不義はお家のご法度』ということで、2人は弟の氏邦が城主を務める鉢形城に預け幽閉することとしました。
生み月がせまった2人は密かに鉢形城を抜け出し、深沢川をさかのぼり、山中をさ迷っていたところ、女性は大きな岩の上で急に産気づき、そこで人知れず赤ん坊を産み落としました。
3人は産着も食べものもなく、途方に暮れていたところ、一人の農婦が通りかかりました。子細を聞いた農婦は深く同情し、家に招いて赤ん坊の世話から、2人の世話まで面倒を見てくれました。おかげで3人は元気を取り戻し、いずこへともなく旅立って行きました。
この赤ん坊が生まれたという岩は今でも『稚児岩』と呼ばれています」(「広報よりい」2010年10月号)
ちゃたてば 茶立場(茶屋跡:皆野町)
秩父郡皆野町三沢
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
大石真人氏は、「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収)で、大霧山南の724㍍独標に「茶立場」と表記。
同氏は、『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」において、「茶立場 大霧山頂のすぐ南につらなる一峯であるが、現在ここには二子山という名の入った指導標が立っている」と、茶立場の山名を維持しつつ、「二子山」の別名に言及している。
同じ「奥武蔵辞典-山名編-」の「二子山」の項で、「二子山 大霧山の南方、里称茶立場の上に二子山と書いた指導標が立っている。大霧主峰とともに、二子状をなすのであろうか。あまり適当な名とは思えない」と、茶立場を地元呼称としつつ、二子山の「別称」については、疑問を呈している。
ところが、大石氏があとがきを書いている奥武蔵研究会『ブルーガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)では、「茶立場」の名は消え、代わりに「二子山」の名が採用されている。
藤本一美氏は、『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)において、724㍍独標に対し、「茶立場」(二子山)と表記し、前記の大石氏、奥武蔵研究会の表記を併記している。
大石氏は大霧山南の724㍍独標を「茶立場」というのは、地元呼称(里称)とされているが、果たしてどうだろうか。
ところが、私の古い聞き取りノートを再読していると、1987年3月に東秩父村皆谷の旧家・関口家で観音山(中山)について聞き取りをしているとき、たまたまご当主が大霧山に触れ、「大霧山を越えて、粥新田峠から三沢にくだる途中に茶立場という小平地がある」と語っていたのをメモしていたのである。
私としても、当時聞き取りの主眼が観音山だったため、茶立場については単にメモしただけで、それ以上深く聞くこともなく、結局38年間も放置してしまった。
地元・関口家のご当主(当時)から「茶立場は山名ではなく、粥新田峠を越えた三沢側の地名である」という「茶立場は里称」とする大石氏の見解を根底から覆す指摘がなされたのである。
では、どちらが正しいのだろうか。
最近、小川町在住の郷土史家・内田康男氏からお借りした伊豆野輝氏編集の『栗和田風土記』(1977年)のなかに、問題を解く鍵があった。
記述を引用しておこう。
「伝うる処による旧三沢村の上の沢部落の大霧山の裾野に台地があって、茶屋跡といわれる処に昔茶屋があったとか、古老が語っているのは、いつの時代か不明でありますが、たびたび盗賊におそわれたので、ついに引き払ったといわれています」
注目したいのは、「茶立場」と「茶屋跡」、「粥新田峠から三沢にくだる途中の小平地」と「大霧山の裾野の台地」など表現の差はあれ、全体としてみるとおおむね同じような場所を指しているように思われてならない。
つまり、粥新田峠をくだった三沢側の小平地(大霧山裾野の台地)に「茶立場」(茶屋跡)という地名があり、そこに上記のような昔話が残されているとは考えられないだろうか。
最初の関口家で聞いた話だけでなく、こうして栗和田(東秩父村坂本)でも、それに近い昔話が採集されているとなると、「茶立場」(茶屋跡)は粥新田峠道にあり、具体的には東秩父村側からみると、峠を越え、三沢側にくだった最初の小平地ないし台地、さらにいうと上の沢集落にあるという説の有力性が一層高まった。
逆にいうと、大石説(茶立場=大霧山南のピーク名)は誤りという可能性が高い。
では、もっと具体的に茶立場(茶屋跡)があったという台地ないし小平地はどのあたりだろうか。
皆野町三沢から粥新田峠に登る場合、上三沢の広町から三沢川を渡って登り始め、峰の集落を過ぎたあたりに榛名神社がある。
榛名神社は、たしかに広町から粥新田峠に向かうときに登りつめたところにあり、ここからはいったんくだったあと、再度登ると峠につく。
まさに、小平地ないし台地といわれる地形である。
実際に榛名神社の鳥居をくぐった社殿付近には、昔ここに茶店があったと、飯野頼治氏が述べている(飯野頼治『山村と峠道-やまぐに・秩父を巡る』エンタプライズ、1990年)。
要するに、茶立場が山名であるという大石説が誤りである可能性が高くなり、むしろ上三沢と栗和田(坂本)を結ぶ粥新田峠道の三沢側の榛名神社付近という可能性が高まった。
だが以上は私の推測であって、坂本や皆谷、そして峠を越えた上三沢で「茶立場」(茶屋跡)なる地名がどこを指しているのかについての聞き取り調査を行わなければならない。
しかし、結果的には位置が誤ったとはいえ、大石真人氏が今から70年以上も前に「茶立場」という地名を採集してくれたおかげで、このように話を展開することができたのであり、故人(大石氏は2004年に逝去)には感謝したい。
なお、大霧山南のピークの名称を「二子山」とする説についても、もし大石氏が述べておられるように、一片の私設山名表示版に記された勝手な名称であるならば、信憑性はきわめて低いといわざるを得ない。
よって大霧山南の724㍍独標から茶立場、二子山両方の名称を当面消去することにしたい。
つ
つるきり ツルキリ(東秩父村)
秩父郡東秩父村御堂(萩平地区)
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
ツルキリ山ともいう。
御堂川(萩平川)と帯沢川にはさまれた尾根(笠山前衛の尾根)上にある。
前記の尾根から少し東に外れたところにある岩峰・リュウゴッパナ(493.8㍍3等三角点:点名「竜ヶ鼻」)の西寄りにある主稜線上の490㍍圏ピーク。
昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)では、「ツルキリ山」と表記されているが、萩ノ平では単に「ツルキリ」と呼ばれている。
もともと「ツルキリ」は同峰西側の沢付近山腹の小字名であり、特定の山の名称というより、山の萩ノ平側一帯の総称である。
ともあれ、かつてはツルキリ(山)=リュウゴッパナとされていた。
例えば、大石真人氏は「奥武蔵辞典-山名編-」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)において、「ツルキリ山 493.8㍍三角点 笠山の北、帯沢の奥にある岩山である。観音山・薬師山などとつなげればハイキングコースができそうである。宛て字、名因とも不明」と記し、明らかにツルキリとリュウゴッパナを同一の山とみなしている。
それが誤りであり、両者が別の山であることが、地元での聞き取りで分かったのは前進である。
大石氏はツルキリの名因を不明としているが、たしかにきわめて珍しい名称である。
私の知る限り、わずかに御坂山塊西部の滝戸山の南西に同名の山があるのみ。
萩平の古老は、昔この辺には雑草のツルが伸び放題になっていて、それを鉈で切りながら進んだから、この地名が付いたというが、山頂南面の深い谷やリュウゴッパナの岩場などから判断し、沢や岩場、断崖などに起因する地形語彙かも知れない。
ツルキリ南の鞍部には、明治38年(1905)9月吉日の銘を刻む馬頭観音が安置されている。
かつて、この地で刈った草を馬で運んでいたところ、道が急峻なため、何頭もの馬が谷に落ちて死んだ。
死んだ馬の霊を慰めるため、萩平の人々がこの地に馬頭観音を建立したという。
て
てらやま 寺山(嵐山町・小川町)
比企郡嵐山町遠山・比企郡小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
嵐山渓谷を見下ろす好展望の山・大平山(179㍍独標:嵐山町遠山・千手堂)から北に延び、やがて南西に方向を変える尾根がある。
この尾根は、「物見山」(214㍍独標)付近から嵐山町・小川町の境界尾根となるが、境界尾根が槻川に落ち込む最後の180㍍圏ピークが「寺山」である。
寺山の名は、古い「菅谷村の沿革」(昭和3年写本、原著作者・年不詳)にも登場している。
「菅谷村の沿革」は寺山について、以下のように記している。
「北に物見山を負い、この山脈があたかも屏風のように連り左右に開いて東は大平山、西は寺山で止っている。南は小倉城址から山脈が東の方に延びて、槻川がその裾を流れている。この山々に囲まれた平坦地は民居や耕地となっている。槻川は平常舟が通じないで、出水の時筏が通るだけである」(『嵐山町史』嵐山町役場、1968年より)
東は大平山、西は寺山、その間に物見山がある「山脈」という表現は、実際の大平山・物見山・寺山の位置関係と見事に符合する。
寺山の南麓には名刹・遠山寺(嵐山町遠山)がある。遠山寺の裏山に当たることから、寺山の名がついたという。
なお現在、物見山(214㍍独標)には「寒沢山」という誤った山名表示板がある。
さらに、物見山西の四辻(下里観音山[200㍍独標]からの尾根、および西から寒沢山[220㍍圏ピーク]からの尾根がそれぞれ境界尾根に合流する四辻)に「寺山」と書かれた誤った位置の山名表示板がある。要注意。
てんじんやま 天神山(寄居町)
大里郡寄居町富田(上郷地区)
第3回「金勝山とその周辺))
2万5千分の1地形図「寄居」
鷲丸山(216㍍)を中心とする丘陵をつぶして完成した本田技研(株)埼玉製作所 完成車工場の広大な敷地北にある小丘陵。
180㍍独標を東端とし、その西に「秋葉三尺防跡」のあるピークを連ね、西端が173.8㍍3等三角点(点名「天神山」)のある天神山。
秋葉三尺防跡から天神山にいたる尾根上には、ソフトバンクモバイル、NTTドコモの2つの携帯中継塔が設置され、それに向かう車道が秋葉三尺防跡経由で中継塔まで延びている。
中継塔から天神山までもよく整備された道だが、以前の静けさが失われたのは残念である。
それでも丘陵をたどると、鞍部をへて、3等三角点のある天神山山頂。
小広い山頂には、北山麓の上郷(大字富田)にある「上郷天神社」の社殿が昭和16年(1941)まで建てられていた。
「上郷天神社の概要」によると、「創建年代は不詳ながら、当地(注:現在の上郷天神社)より南方に聳える天神山に鎮座。富田の上郷地区で祀られていました。明治維新後の神格制定に際し、当社は無格社とされたものの、明治時代後期に実施された神社整理令に際しては、当社が充分な資産を有していたことから小被神社(注:大字富田の鎮守)に合祀されず独立した社として存続したものの、昭和16年に社地天神山が陸軍用地として接収されたことから、当地へ遷座しました」とある。
昭和16年に遷座されるまで社殿のあった山頂には社殿の基石が残されるのみだが、北側の展望が開け、寄居の町並みから北関東の山々などが一望できる。
山頂の西端から200段もの滑りやすい木段を下りると、住宅地に出る。
北に行けば、すぐに里に遷座された「上郷天神社」につく。
てんのうざん 天王山(ときがわ町)
比企郡ときがわ町別所・日影
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」(今回新事実を加筆)
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
雷電山(418.2㍍3等三角点「点名:日影」から明覚方面に延びる長い尾根上にある250㍍独標。
2万5千分の1地形図「武蔵小川」には「堂山」(どうやま)と表記。
堂山は北側の日影(旧玉川村日影)の呼称である。
名称は、台地状の平らな山容によるものであろう。
堂山は、北側山腹(日影側)の小字名でもある。
これに対し、南側の別所(旧都幾川村別所)では、「天王山」(てんのうざん)と呼称している。
別所の鎮守・八剣神社(やつるぎじんじゃ:明神様)は、もともと天王山に祀られていた。
しかし、「氏子の間で生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の目に触れてはおそれ多いので、氏子区内を一望できる山上から麓の現在地に降ろしたという。
口籠とは馬の口にはめる道具で、その材料に用いる竹の平を並べて干す様が一面真っ白に見えることを明神様は嫌ったのである。その遷座の年代は伝えていないが、明治の初めまでは祭礼の度に神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたとの興味深い話が伝えられている」(「埼玉の神社」による)
ただし、「天王山」の山名を、昔山頂に「八剣神社」が祀られていたことから説明することはできない。
「天王山」は「天王様」を祀る神社のある山を指す。
「天王様」は「牛頭天王」(ごずてんのう)を祭神とする神社であり、祇園社、八坂神社、天王社などの神社がある。
明治政府の「神仏分離令」以後、全国の八坂神社や祇園社等は祭神を牛頭天王から素戔嗚尊(すさのおのみこと)に改めているが、人々は親しみを込め、天王様と呼んでいる。
ところが、『新編武蔵風土記稿』比企郡都幾川村大字別所の条では、別所八剣神社の創建年代は不詳としているものの、天正16年(1588)の棟札には経木前司吉信の霊を祀り、加藤隼人宗正が再建したと記されている。
『風土記稿』は、加藤隼人宗正について、源義賢・木曽義仲の家臣団が当地に土着した加藤家の末裔ではないかと記している(ブログ「猫の足あと」埼玉神社案内を参照)。
同社の祭神は日本武尊であり、八剣神社には天王様(牛頭天王)とのつながりは見られない。
とすると、八剣神社が山頂に創建される前から天王山の山名があったのではないか。
それならば、八剣神社以前に山頂に八坂神社(ないし祇園社・天王社)があったのではないか。
それが八剣神社に合祀されたのかどうかなど解明されていない点が多い。
ところで、『武蔵国郡村誌』比企郡都幾川村大字別所の条に以下のような興味深い記述がある、
「東福寺山 高三十丈、周囲不詳、村の東方にあり、嶺上より三分し、東は本郷村、北は日影村、西南は本村に属す。山脈日影雷電山に連なる樹木鬱葱(うっそう)す。南方阿部ノ田より上る七町。山の東を本郷村にて高尾根(たかおね)山という」
同じく『武蔵国郡村誌』比企郡本郷村の条には「高尾根山」に関する記述がある。
「高尾根山 高三十丈五尺、周囲不詳。村の西方にあり、嶺上より三分し、南は別所村、西北は日影村、東は本村に属す。山脈日影村雷電山に連なる。樹木鬱葱(うっそう)登路一条。東方字堅街道より上る六町十二間。山の南を別所村にては高福寺山という」
『武蔵通志』にも「高尾根山」に関する説明がある。
「一高福寺山という。高三百五尺。明覚村本郷の西にあり」
さらに、天王山の山頂は別所と日影の境だが、南東山腹(本郷分)には「高尾根」の小字名がある。
以上をまとめると、天王山(別所の呼称)には、日影の呼称である「堂山」以外に、高福寺山(別所の呼称)、高尾根山(本郷の呼称)もあるということになる。
位置的にも、高福寺山は天王山と一致する。
「高尾根」は本郷側の山腹の小字名であり、必ずしも山名とはいえないかも知れないが、逆に本郷側では、西に仰ぐ山を山腹の小字名に因み、高尾根山と呼んでいた可能性も捨て切れない。
ともあれ高福寺山・高尾根山という2つの山名が明治期の2つの地誌に記されていた事実は重い。
今、別所で天王山と言えばすぐに指呼してくれるだろうが、もはや高福寺山の名は人々の記憶から消えている可能性は大であり、もともと「高福寺」が何を指すのか不明である。
最後に、天王山(堂山)山頂には「天王山元旦登山記念」の標柱が立っている。
山麓の別所では、鎮守の八剣神社を麓に遷座したあとも天王山を神聖視し、元旦に登山する習慣が残っているのであろうか。
天王山は、その名の由来をはじめ、別名と推察される高福寺山の山名由来を含め、250㍍の低山ながら謎の多い山である。
てんのみね 天ノ峰(東秩父村・小川町)
秩父郡東秩父村安戸・比企郡小川町勝呂
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根上の烏森山(虚空蔵山)西にある390㍍圏ピーク。
「天ノ峰」は、安戸側の呼称である。
入山川から眺めると、周囲のなかで一際高く聳えているので、この名がついたという。
天ノ峰西側の中腹から鞍部にかけて、この地域には珍しい見事な竹林が広がっている。
ところで、小川町側の勝呂から鎮守の白鳥神社経由の西山林道が十石沢沿いに延びており、林道終点から天ノ峰まで明瞭な道が踏まれているようだ。
西山林道を使うと、官ノ倉峠まで迂回せずに、勝呂の吉田家住宅からそのまま天ノ峰に登り、そこから東に烏森山に行くなり、西に愛宕山に行くなり、西尾根の主要な山に容易に行けるようになった。
と
どうげんびら 道元平(ときがわ町)
比企郡ときがわ町田黒
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
「白石」(しろいし)から東に延びる尾根北側の岩場(天狗岩)の上付近の総称。
天狗岩は、埼玉県指定天然記念物「道元平ウラジロ群落」の自生地。
道元平は、標高200㍍ほどの丘陵北面の急崖地(天狗岩を中心とする)からなっている。
斜面は赤松駿およびコナ林によって覆われているが、林のなか暖帯に生育するウラジロ、ツルグミ、ツルアリドウシのほか、温帯のアブラツツジ等がみられる。
このように道元平一帯は、暖帯および温帯に生育しているには植物が共存しており、植物分布上、特徴のある地域となっている。
さらに、これら暖帯性の植物の生育地としては北限に近い。
このような理由で、旧玉川村(現ときがわ町)田黒の道元平約2ヘクタールは、埼玉県により「ときがわ町道元平自然環境保全地域」に指定されている。
道元平こそ、ウラジロ群落が県指定の天然記念物に指定され、それを含む一帯が県自然環境保全地域に指定された結果、玉川スプリングスカントリー倶楽部(現・玉川カントリークラブ)の区域から外れた。
しかし、上流の山や沢がゴルフ場造成により切り土・盛り土されなどの大きな生態系の変化の結果、それが道元平にどのような影響を与えているのだろうか。
それについて果たしてちゃんとした調査がなされているのかどうか不明である。
なお戦前、仙元丘陵が紹介され始めた頃は、八高線明覚駅から道元平・白石に登り、(下里)仙元山・物見山・城山などをへて、(青山)仙元山にいたる「逆コース」が主流だった。
どうだいらさん 堂平山(小川町・ときがわ町・東秩父村)
比企郡小川町腰越、比企郡ときがわ町大野、秩父郡東秩父村白石
第8回「笠山・堂平山」
2万5千分の1地形図「安戸」
比企の名山・笠山から南に籠山のタル(平ノ沢の峠)にくだり、再度登り詰めると、「堂平山」(875.9㍍)山頂につく。
山頂は比企郡小川町腰越、比企郡ときがわ町大野、秩父郡東秩父村白石の境界である。
堂平山の三角点(点名「堂平山」)は、比企・外秩父唯一の1等三角点である。
山頂にある東京天文台(現・国立天文台)の「堂平天文台」は1962年に建設され、1等三角点とともに、堂平山を象徴する存在であった。
堂平天文台は2000年に、当時の比企郡都幾川村に移管され、2005年に新たに都幾川村村営(現・ときがわ町営)の「星と緑の創造センター」の中核施設としてリニューアルされた。
もはや天文台は観測活動を行っていないが、営業期間(12月・1月の冬期休業期間を除く)の毎月第1・第3金曜に「星空観望会」が実施されている。
堂平山頂一帯は、「星と緑の創造センター」として、ときがわ町の一大観光拠点となっている。
センターは、宿泊可能なドーム施設(旧天文台)サイト(山頂)と、林業体験施設・ログハウス・テント・バンガローなどを含むテントサイト(山頂直下)の2つのサイトに分かれ、いずれのサイトにも駐車場が設けられている。
ドームサイトのある山頂は広い芝地の広場で、周囲にはさえぎるものがなく、360度の展望が堪能できる。
堂平山の山名については、山頂から少しくだった平地付近(現・大野共有林)に昔、慈光寺の奥の院があったことから、堂平山と呼ばれるようになったとの説が有力である。
だが、奥の院は鎌倉時代にはなくなっていたという(内田康男『ふるさと腰上-その歴史と伝説-』(1999年)。
ただし、内田氏によると、「2006年、堂平山からは平安時代のものとみられる鉄鉢形土器などが発見され、仏教関係遺跡の可能性が高まってきた。付近の七重集落では、堂平山は慈光寺の奥の院があったと伝えられていて、この鉄鉢によりその可能性が高まったと言える」(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤「小川町の山々・巨石・名石ーその歴史と伝説-」講座資料、2022年2月19日作成)
もっとも、堂平山の山名由来については、慈光寺の奥の院説のほか、小川盆地から眺められる特有のドーム状の山容に由来するとの説もある。
なお、堂平山は「慈光三山」の一峰である。
慈光三山とは、慈光寺の修験僧が修験の場としていた三山を指す。
三山とは、「與地ノ峰(よちのみね)」(=金嶽・鐘岳)、「遠一山(おんいつさん)」(=堂平山)。「見性山(けんしょうざん)」(=笠山)である。
堂平山へのルートとしては、先の笠山→籠山のタル(平ノ沢の峠)を経由するもののほかに、白石から籠山のタル(平ノ沢の峠)を経由するルート、白石から白石峠、剣ノ峰を経由するルートが知られている。
それらの従来からのルートに加え、都幾川村(現・ときがわ町)が「ときがわトレッキングルコース」として、慈光寺・霊山院から大野の七重集落をへて、山頂の東側にいたるルートを開拓した。
コースの途中で、「七重峠」や「松の木峠」など、ときがわ町が勝手に命名した峠が現われ当惑するが、堂平山から七重、霊山院、慈光寺へ向かうコースが整備されたのは嬉しい限りである。
どうのいりやま 堂ノ入山(寄居町)
大里郡寄居町富田(とみだ)
第14回「四ツ山(四津山)・物見山・堂ノ入山・たかんど」
2万5千分の1地形図「寄居」
2万5千分の1地形図「寄居」の右下を見ると、巨大な本田技研寄居工場(寄居町富田:鷲丸山跡)と、こちらも巨大なワンビシアーカイブズ関東第5センター(寄居町牟礼:物見山跡)にはさまれ、南には2つのゴルフ場(「寄居カントリークラブ」「森林公園ゴルフ倶楽部」)、北は住宅地に囲まれた里山地帯がある。
それが堂ノ入山と「たかんど」(たかんど山)の尾根である。
実は、この2つの山を含む一帯は、寄居町の2つの民間ボランティア団体の手により保全・再生された。
まず、「寄居にトンボ公園を作る会」が寄居町牟礼に「おぶすまトンボの里公園」という名のビオトープを整備した。
その後、「(財)男衾自然公園管理組合」が、雑木とヤブの荒廃した山になっていた堂ノ入山一帯の刈り払いとハイキング道の整備、指導標の設置などを行い、さらに紅山桜と小彼岸桜との交配種であるイギリス生まれの桜アーコレード(和名・男衾桜)を堂ノ入山山頂付近に約千本も植林。
2011年、かつてのヤブ山・堂ノ入山は、「男衾自然公園」の名で寄居有数の桜の名所兼展望ハイキングコースとしてデビューした。
さらに、「男衾自然公園」と「おぶすまトンボの里公園」を結ぶ「たかんど山ハイキングコース」を「寄居にトンボ公園を作る会」が整備中である。
奇蹟的に残された里山が民間団体(もちろん寄居町も支援しているが)のイニシアティブで保全・再生され、寄居町民をはじめ多くの人々に親しまれているのは嬉しい限りである。
とくに「男衾自然公園」の「男衾桜」は春と秋の二部作。
春には桜祭りも開かれるほか、3月下旬にはカタクリも咲くなど、花一杯の里山に変貌した。
堂ノ入山は、早くも大石真人氏監修の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8『奥武蔵』朋文堂、1954年所収)に「堂ヶ入山」(197㍍)と記載。
大石氏は、前著の1960年全面改訂版(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」において、「堂ノ入山(197㍍) 寄居町谷津と牟礼の間にある小山。東上線東武竹沢駅と男衾駅のまん中辺の東側にある」と記している。
標高197㍍とあることから、171㍍の堂ノ入山よりも193㍍のたかんどを指している可能性もあるが、こんな早い時期にヤブ丘陵「堂ヶ入山」の地名採集をされた大石氏の慧眼には感服せざるを得ない。
さかのぼると、『新編武蔵風土記稿』男衾郡富田村内谷津村の条に、「堂之入山 村(富田村)の東の方にあり」との簡単な記述があり、昔から知られた山であったことが分かる。
「男衾自然公園」となった現在、山頂には堂々たる立ち木をバックに立派な山名表示注が建てられ、笠山・堂平山方面の展望が良い。
その他、堂ノ入山周辺には、金比羅宮、仙元大神の両碑が祀られるピークにそれぞれ展望台が設けられ、堂ノ入山以上の360度の眺望を得ることができる。
金比羅宮、仙元大神などの碑が周辺にあることから、堂ノ入山は、古くから地元の信仰を集めた山であったことが想像できる。
さて、堂ノ入山の山名だが、「ドウ」「ド」には、「水量の小さな枝沢が本流に合する」「川の合流点」などの意味がある(岩科小一郎『山村滞在』岳書房、1981年、鏡味味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、1977年)。
「枝沢が本流に合流」「川の合流点」という語彙を堂ノ入山周辺の地形に当てはめると、見事に符合することが分かる。
堂ノ入山西山麓で、谷津川が新吉野川に合流するのである。
谷津川は新吉野川の支流であり、「枝沢が本流に合する」ことを意味する「ドウ」そのものの地形である。
ここから、堂ノ入山は、「谷津川が新吉野川」に合流する地点付近にある山の意ではないだろうか。
とおのひらやま 遠ノ平山・東野平山・東ノ平山(小川町・嵐山町)
比企郡小川町中爪・下里、比企郡嵐山町志賀
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
遠ノ平山は、東を嵐山町志賀(しが・しか)、北を小川町中爪、西から南を小川町下里に囲まれた3つの大字(昔は3つの村)にまたがる山(200㍍独標)である。
それだけに、各大字からは、それぞれ山頂にいたる登路が良く踏まれている。
小広い山頂に御岳信仰の跡を残す低いながらも名山といえる。
交通の便を考えると、武蔵嵐山駅から国道254線を小川町方向に進み、まもなく現れる水坂沼(灌漑用の人工沼)の2つの沼のうち、小川町寄りの上沼の先から取り付く志賀ルートが最も手軽である。
ちなみに、嵐山町志賀は、『新編武蔵風土記稿』比企郡志賀村の項によると、昔は村名を四ヶ村と書いたという。
私の訪れた1989年当時も、地元の古老は志賀を「しか」と発音していた。
上沼からの登り始めこそ明瞭な道も、まもなくヤブっぽい踏跡になる。
だが、灌木の中に放置された「朝日大神」の石碑(裏に志賀講中の銘ががある)が往時の信仰を偲ばせる。
遠ノ平山は2万5千分の1地形図「武蔵小川」でこそ「遠ノ平」の表記だが、『小川町土地宝典』によると、南面のヒラ(下里側)に「東平山」の山字(小字)名がある。
志賀・中爪・下里での聞き取りでは、「とおのひら」の発音は一致していたが、漢字表記となると、「遠ノ平」よりも「東平」「東ノ平」の方が圧倒的だった。
古い地誌をひもとくと、『武蔵国郡村誌』比企郡志賀村の条に「遠平山」、中爪村の条に「東野平山」と記載。
この記載の混乱は『武蔵通志』にも引き継がれ、「遠平山」と「東野平山」をあたかも別の山のように記載している。『通志』では丁寧にも「ヒガシノタヒラ」というルビを振っている。
『武蔵通志』の記載内容は、「遠平山」については、「高さ四百六十尺。志賀の西にあり」とごく簡単だが、「東野平山」となると、「高さ二百五十尺。八和田村中爪の南にあり、東は菅谷村志賀、南は下里村に跨がる。中爪字内洞より上る二町。頂に石碑を建て御岳社遙拝所となす。明治十五年(1882)壬辛新たに之を設け、近村登拝する者多し」と、かなり詳しい。
さらに詳しいのが、明治19年(1886)の「中爪村地誌」である。
「山嶽 東野平山 形状 村中の高山にして扇面を逆建てにしたる形様をます。山脈は左右に分かれ、雀峠・七曲及び日向山等に連る。その他接近の山林起伏し一大山岳をなせり。高 二十五尺。周囲六町三十四間。登路 一条あり。険なり。その程は四町五間。樹林雑樹繁茂せり。景致 頂上に一老松あり。東野平松と号く。その様は一大傘を開しごとく。山中桜ツツジ等多々開花の風景眺望等最も愛すべし。西は遙かに秩父郡諸山と相望む。雑項 明治十五年中、頂上に御嶽神社の石碑を建立す。地方信徒多し。本山名号を里伝にいう日本武尊の東夷征伐の時、当時概征付し後、本山に登賜いて東方を望み、東野平けりと宣いり。号して東野平山名けしといえり」(小川町教育委員会所蔵旧八和田村行政文書336)、山名由来伝説を含め、細かく技術している
『武蔵通志』「中爪村地誌」の記述のとおり、山頂には「御岳山太神 八海山太神 三笠山太神」の巨大な石碑が建っている。
かつて中爪・下里・志賀の三ヶ村で御嶽講が組織されており、三村の境である遠ノ平山(東野平山)山頂に碑を建立した。
現在でも遠ノ平山のことを「御岳山」(おんたけさん)と呼ぶ古老がいる。
なお、明治15年に石碑を建立した頃、山頂に小屋を建て、そこに籠もって太鼓を叩き続けた行者(橋本某)がいたという。
「中爪村地誌」にある「東野平松」かどうかは定かではないが、山頂には立派な男松があり、麓からも一目で分かるほどのものであった。
しかし、落雷で中が空洞になったうえ、数年前にマツクイムシのために枯れてしまった。
現在切り株だけが残されているが、幹回り3㍍ほどの立派な木であったことが想像される。
「トオノヒラ」の山名については、「トオ」「トー」が尾根や山腹を指す山岳語彙であることから、「平らな山頂をもつ山」(山頂が小平地になっている山)とするのが、山頂の形状からみて妥当だと思われる。
「遠ノ平」や「東野平」「東ノ平」「東平」」(人によっては「堂ノ平」)は、「トオノヒラ」への当て字であろう。
山頂から平坦な尾根を西に向かうと、左手に梵字を刻んだ石碑をみて、周囲の展望が開ける(遠ノ平山頂は樹木に覆われ、展望は得られない)。
北側(中爪側)はすぐ近くまで住宅が迫っているが、南側(下里側)は蛇行を描く槻川と周囲の丘陵がぐるりと見渡せる。
ところで、小川町中爪からの登り口にあたるのが、国道254号小川バイパス・中爪橋の下付近から遠ノ平山の北面に突き上げる内洞沢である。
内洞川沢は、典型的な丘陵の谷津地形をなしている。
とくに人工のため池である内洞沼付近は休耕田で荒れ果てていたが、かつて棚田としてコメが生産された土地であった。
この貴重な棚田を復活させるため、現地に住む個人やそれを支援する中爪の有機農業家、市民グループ「遠ノ平山棚田を守る会」などが活動。
数年の努力の結果、十数枚の棚田でコメが生産できるようになり、周辺の環境も整備。
復活した棚田には夏は蛍が舞い、棚田周辺は4月初旬には桜や菜の花が咲き乱れる桃源郷となった。
「遠ノ平山棚田を守る会」の尽力により、遠ノ平山の中爪側登山路(小川町町道)も整備され、志賀側、下里側と合わせ、遠ノ平山への三方の登山路が歩けるようになったことも特筆すべきである。
「内洞沢棚田と蛍の里」へは、遠ノ平山山頂から北に中爪側に下っても行けるし、小川町駅から「パークヒル」行きのバスに乗り、五丁目バス停で降りて直接向かうこともできる。
桜咲く4月初旬に内洞沢の棚田経由で中爪から遠ノ平山に登り、下里側にくだったあと、大聖寺→愛宕山→寒沢山→物見山→寺山→小倉峠→小倉城址→大平山と周回するコースを歩いてみたいものだ。
なお、遠ノ平山の南側(下里側)には既に太陽光発線設備が設置されており、北側(中爪側)にも太陽光発電設備の設置が計画されている。
このままでは、遠ノ平山は南北2つの太陽光発電所にはさまれ山になってしまう。
遠ノ平山の太陽光発電設備設置問題については、現地踏査のうえ、改めて報告したい。
どうやま 堂山(ときがわ町)
比企郡ときがわ町日影・別所
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
雷電山から明覚駅近くの愛宕山まで延々と延びる尾根上にある250㍍独標の旧玉川日影側(北側)の呼称。
堂山北側のかなり広い山腹に、同名(「堂山」)の小字名がある。
堂山の名称は、台地状の平らな山容によるものであろう。
南側のときがわ町別所(旧都幾川村)側では「天王山」(てんのうざん)と呼称している(「天王山」の項を参照)。
どうやまざか 堂山坂(比企郡ときがわ町)
比企郡ときがわ町五明・日影・本郷
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
堂山(天王山)東側の鞍部。
ときがわ町日影と五明との境であると同時に、日影・五明の境界からときがわ町本郷へ越える峠である。
現在は、埼玉県道30号飯能寄居線が通る。
ときさん 都幾山(ときがわ町)
比企郡ときがわ町西平
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
2万5千分の1地形図「安戸」の最新版(2016年2月調製、同年5月1日発行)では、慈光寺裏山(北西)、霊山院北北東側に当たる小川町とときがわ町との境界尾根上の463㍍独標が「都幾山」に当たるかのように見える表記をしている。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』最新版(2024年版)でも、地形図にしたがい463㍍独標を都幾山としている。
しかし、都幾山は慈光寺裏の単独のピーク名であろうか。
否である。
慈光寺の山号が都幾山(都幾山慈光寺)というように、都幾山は特定のピーク名ではなく、慈光寺山域一帯の総称名なのである。
その根拠として、古い地誌をひもといてみよう。
『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条を見ると、「慈光寺」「慈光山」の2つの項目があり、少々戸惑ってしまう。
それでも、慈光寺の解説の最初に「慈光山の上にあり、麓より登ること九丁余なり・・・」とある。
「慈光山」の項目を引用すると、「往古より観音安置の山なれば、慈光の名を得たりしならん。山上よりの眺望殊によくして、東には筑波山を望み、東南は江戸を打越て安房・上総の山々を見渡し、西は秩父ガ岳及び浅間山連り、近く郡内笠山・雲瓦の山々手にも取るべきさまにて、勝景いうばかりなし。山上に与地峯・遠一山など名を得し所あり、及び彼の笠山の内なる見性山を合わせて慈光ノ三山と称すという」と非常に詳しい。
『武蔵風土記稿』の説明から、慈光寺のある山=慈光山=今の都幾山であることが分かる。
そして、与地峯(=與地ノ峰(よちのみね)=金嶽)、遠一山(おんいつさん:堂平山)、見性山(笠山)の三山が「慈光三山」であり、「慈光山」の山上にあるとしている。
慈光山が都幾山と同一であることは、『武蔵国郡村誌』比企郡平村の条からも分かる。
そこでは、都幾山の説明で「都幾山 一名遠一山或いは慈光山と云う」とある。遠一山は堂平山の別名であるから間違っているが、都幾山=慈光山であると明確に述べている
最後に『武蔵通志』の慈光山の説明を見ると、「慈光山 又都幾山遠一山と称す。高一千二十尺。平村西平の北にあり、北は大河村上古寺にまたがる。頂上少平の地を與地峯と云い、其南やや降り観音堂あり。又西に霊山院、東南に慈光寺及釈迦堂あり。登路三條。一は字宿より上る凡九丁。一は日尺より上る十一町。一は上古寺より上る十八町、奈良坂と称し険岨なり・・・」と、非常に情報量豊かである。
慈光山の別名が都幾山であるほか(遠一山は間違い)、頂上が與地ノ峰と呼ばれているということは、都幾山中の一ピークが與地の峰=金嶽ということが分かる。
その他、上古寺からの裏参道である「奈良坂」にも触れており、参考になる。
結論として、繰り返しになるが、都幾山は慈光山ともいい、特定の突起でなく、慈光寺のある山の総称名である。
そして金嶽(與地ノ峰)は都幾山(慈光山)の頂上にある。
そうなると、都幾山の表記は慈光寺のすぐ上にすべきであって、都幾山の最高点である463㍍独標(現在の2万5千図「安戸」、昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』で、都幾山と表記している山)を金嶽と表記すべきである。
現在463㍍独標に「都幾山」の私設山名表示板があるというが、これは誤りである。
とやさん 登谷山(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村大内沢・秩父郡皆野町三沢
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山)
2万5千分の1地形図「安戸」「寄居」
皇鈴山からヤセ尾根をくだり、グミの木峠から登り返した668㍍独標。
『武蔵国郡村誌』秩父郡大内沢村は、「登谷山 高八十丈。周回不詳。村の西にあり、嶺上より二分し、東は本村(注:大内沢村)に属し、西は三沢村に属す。村の西より上る十八町五十間。即ち、三沢道なり」と記す。
『武蔵通志』は、「登谷山 高八百尺槻川村大内沢の西にあり」と解説している。
山頂からの展望はそれなりだが(東側の展望は良好)、皇鈴山の大展望には遠く及ばない。
東秩父村大内沢を象徴する名山だが、山頂のマイクロウェーブ中継所が使用を中止した後そのまま放置され、今や廃墟状態。
かえって展望を邪魔し、山頂の雰囲気を害する存在になっていて残念な限りだ。
それでは登谷山の山名は何に由来しているのだろうか。
皇鈴山南の二本木峠には、日本武尊(たまとたけるのみこと)にまつわる伝説がある。
「日本武尊は東夷征伐の折、この峠(=二本木峠)で食事をされた。その時使った杉の箸をさしておいたところ、根がはえて峠名の起こりの二本の大杉になったという。尊は峠より北に連なる稜線を腰に鈴をつけて歩かれた。その鈴の音を聞いた鈴草がいっせいに開花したので、その山は「皇鈴(みすず)山」と呼ばれるようになった。皇鈴山を越えると日が暮れてしまい、次の峰は夜登られたことから、その山は「登夜(とや)山」になったという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』(エンタプライズ、1990年)
だが、この伝説は「登谷山」(登夜山)の漢字表記に付会したものであり、「トヤ山」の発音から推測していくべきだ。
「トヤ」には山の鞍部や山中で鳥をとる人の小屋」などいろいろな意味がある。
大石真人氏は「奥武蔵辞典-山名編-」『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)で、「山名はおそらく鳥家(とや)のあった山から出たのであろう」とされているが、これが「鳥家説」の代表的な見解である。
ここでは、やや違った視点から考えてみたい。
もう少し「トヤ」の意味を探ると、「草刈場」の意味もあることが分かった(鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)。
登谷山からグミの木峠の山稜の東側は大内沢共有地であり、江戸時代以降、草地で秣場として利用していた。
その後、杉や檜を植林したが、「草地=秣場」のテッペンにある大内沢の象徴的な山として「トヤサン」の呼称が生まれ、それに「登谷山」の漢字を当てたと考えることができる。
なお、登谷山のことを、大内沢の人々は「雨乞山」とも呼んでいた。
真下通雄氏は、1980年出版の自著のなかで、子供の頃経験した大内沢の雨乞いの模様を再録している。
全文引用すると長いので、簡潔にまとめておこう。
大正12年(1923)の夏の終わりの頃、既に1ヶ月も雨らしい雨がなかった。
農作物の被害は著しく、こんな旱魃は経験したこともないと人々がこぼすようなった。
そこで大内沢でも雨乞いを催すことになり、ある日の午後、昔から雨乞山といわれている登谷山の頂上へ百余人の村人が大太鼓三、小太鼓八個を担いで参集した。
やがて山頂の適当な場所に太鼓が据えられ、八大竜王を呼ぶことになった。
雨乞いの経験のある長老の指導で、彼が先ず音頭をとり、皆さん大声で復唱することになり、大太鼓、小太鼓のたたき方も長老が指導した。
長老が大空に向かい「なーむ、なんだあ、りゅうじんおう」と叫ぶと、大勢が復唱し、間髪を入れずに、小太鼓が、続いて大太鼓が力強く叩かれ、さらに長老が「南無、跋難陀竜神王」と音頭をとると、大勢が復唱し、大小の太鼓を叩く。
八大竜王を呼び終えると、また、これを初めから繰り返し行った。
夕方になって雨乞いが効いたのか、にわかに雲が出てきた。
やがて雲は山頂にまで広がった。
そして、雨乞いの効果てきめんで細かい雨が降ってきたので、雨乞いは夕方5時半頃やめ、皆は下山し、自宅に急いだ。
だが自宅に戻ると雨がやんでしまった。それから3日ほど経ってから大雷雨があり、翌日・翌々日も雷雨になり、ようやくにして十分な雨に恵まれた(真下通雄『銀河縹渺-大内沢の歴史考-』(1980年)
登谷山北西の657.7㍍2等三角点峰の点名は「雨乞山」である。
三角点峰で雨乞いをした記録がないことから、おそらく登谷山の別名である「雨乞山」を何らかの事情で採用したのではなかろうか。
したがって、657.7㍍2等三角点に、三角点の点名をもとに、雨乞山と命名するのは誤りである。
なお、657.7㍍2等三角点峰について、日下部朝一郎氏は『秩父路の峠道』(木馬書館、1981年)33頁の略図において、「ヨロイ山」の名をあてている(説明はない)。
とんびいわ とんび岩(東秩父村大内沢)
秩父郡東秩父村大内沢
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」
皇鈴山からグミの木峠へ向かう途中にあるヤセ尾根(金場の平)東側山腹にある巨岩
とんびいわ とんび岩(小川町腰越)
比企郡小川町腰越
初出
2万5千分の1地形図「安戸」
笠山西峰から北に延び、やがて東に方向を変えたあと、帯沢川と館川の間を北西に延びる「笠山郡界尾根」上にある「タカハタ」(高旗山・高畑山:407.6㍍4等三角点)の山腹にある巨岩。
高さ約9.55㍍、周囲約28.3㍍あるという(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤ 小川町の山々・巨岩・名石-その歴史と伝説-」令和4年2月19日)
な
なかやま 中山(東秩父村)
秩父郡東秩父村皆谷・御堂
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
珪石採石のため消滅した東秩父村皆谷の名峰「観音山」の別名。
詳細は「観音山」(東秩父村)の項を参照。
ななえとうげ 七重峠(ときがわ町)
比企郡ときがわ町大野
初出
2万5千分の1地形図「安戸」
最近、堂平山から東に延びる小川町とときがわ町の境界尾根を林道栗山線が乗っ越す付近に、ときがわ町は「七重峠休憩所」を設けている。
「七重峠休憩所」は、ときがわ町が整備した「ときがわトレッキングコース」(西平~七重~堂平)の休憩ポイントである。
ときがわトレッキングコースは、慈光寺入口バス停(西平)→霊山院→七重休憩所→七重峠休憩所→森の広場→松の木峠→堂平山を3時間で結ぶ新設のコースである。
問題は「七重峠休憩所」について、ときがわ町が「七重峠休憩所は『七重休憩所』と区別するための便宜的な名称です。『七重峠』はここではなく、堂平山~笠山にあります」とマップに明記していることである。
つまり、トレッキングコース上に、「七重休憩所」と「七重峠休憩所」があり、前者と名称を混同しないように、後者について便宜的に「七重峠休憩所」と命名した。
そして、本当の七重峠は、そこから遙かに離れた笠山・堂平山の鞍部ということである。
しかし、昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)では、ときがわ町がトレッキングコース上の「七重峠休憩所」は便宜的な名称であると注意を促しているにもかかわらず、「七重峠休憩所」のある地点を「七重峠」と表記。
ときがわ町が本当の「七重峠」としている笠山・堂平山の鞍部から笠山峠の名を残しながら、もう1つの七重峠(七重越)の名を消してしまった。
従来、笠山・堂平山の鞍部には2つの峠があるとされてきた。
北側が笠山峠で、東秩父村白石と小川町腰上を結ぶ峠。
南側が七重峠(七重越)で、東秩父村白石とときがわ町大野を結ぶ峠とされてきた。
ときがわ町の「ときがわトレッキングコース」マップも、笠山峠・七重峠の区別を踏襲している。
しかし、笠山・堂平山鞍部の「笠山峠」「七重峠」(七重越)は、いずれも先駆者(大石真人氏をはじめとする)が地元呼称と関係なく便宜的に付けた名称がハイカーの間で定着したものである。
『奥武蔵・秩父』を調査執筆した奥武蔵研究会は、七重峠(七重越)を白石側呼称の「籠山のタル」と改めているが、なぜか笠山峠の名は残している。
これも間違いで、白石ではハイカーの言う「笠山峠・七重峠」をひっくるめて「籠山のタル」としているのであり、小川町の腰上では「平ノ沢の峠」と読んでいるのである。
繰り返すが、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』から七重峠(七重越え)を消し、籠山のタルとしたのだから、笠山峠も消すべきであり、両者(笠山峠・七重峠)をまとめて、籠山のタル(平ノ沢の峠)とすべきである。
同時に「七重峠休憩所」に七重峠と表記してしまった誤りを訂正すべきである。
に
にのみやさん 二ノ宮山(滑川町)
比企郡滑川町伊古
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
滑川町の最高点で、131.7㍍2等三角点(点名「伊古」)。
その優美な山容から、古くから信仰の対象になってきた。
『秩父群村誌』比企郡伊古村の条は、「二の宮山 高さ四十丈、周回二十五町。村の乾の方に孤立す。嶺上に伊古乃速御玉姫の小祠あり。老松数株及び雑樹繁栄し、風景奇絶。字の上より上る七八町」と記す。
『武蔵通志』も、「高さ四百尺。宮前村伊古の西北にあり。頂に伊古乃速御玉姫神社古祠あり。老松数株を存す」と記している。
これらの古い地誌にも書かれているように、滑川町伊古の鎮守であり、比企郡の総社ともいわれる伊古神社(伊古乃速御玉比売神社:いこのはやみためひめじんじゃ)は、当初、二ノ宮山山頂に祀られていたという。
「仁賢天皇の時、蘇我石川宿禰の子孫が当地を開き、君祖三韓征伐の応徳を仰いで、当地二ノ宮山頂に弓箭の祖、安産の祖と崇徳して3柱の神霊を祭ったのに始まると伝えられる」(『角川地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)
その後、伊古神社は文明元年(1469)、現在の中伊古に遷座され、二ノ宮山頂の社殿は奥の院とされた。
二ノ宮という山名は、中伊古の伊古神社が一ノ宮、二ノ宮山頂の奥の院が二ノ宮ということに由来するのであろうか。
伊古神社の奥の院(榛名神社を合祀)のある広い山頂は、1989年当時は雑木が邪魔になってしまったが、東方の関東平野方面の展望が得られる。
ただし、「おおむらさきゴルフ倶楽部」に三方から囲まれてしまったのは残念。
2004年12月の藤本一美氏による山行記録によると、「その二ノ宮山へは、南西側参道を巻き気味にゴルフ場柵越しに登れば、あっけなく131.8㍍2等三角点標石のある山頂に達した。芝地の広場の中央に平成6年(1994)完成の鉄骨製展望台(全高23.7㍍、展望台21㍍)が建ち、みんなで登ってみた。標高差153㍍地点からの何のさえぎるもののない360度の大展望があったが、ラフな展望説明板にはちょっと物足りなかった。(中略)眼下のゴルフ場の先には、堂平山、笠山、大霧山を始めとする奥武蔵の山並みが続き、その裏には両神山も現出。登谷山の右手後方には雪雲をかぶった浅間山の白い峰が見え、榛名・赤城山方面の火山群も名称に見えた」(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)
私が最後に登った1989年の5年後に展望台が完成。
『群村誌』が「風景奇絶」と賞賛した展望が戻ったようだ。
だが、眼下のゴルフ場だけはいただけない。
伊古神社の祭神でもある竹内宿禰(すくね)が東国巡視の際に、この山上より村里の状況を視察したといわれる。
山頂の伊古神社奥の院に合祀される榛名神社の例祭は春日待ちといわれ、毎年4月15日に行われる。
当日は滑川町伊古の各地区の氏子総代が山頂に登拝。子どもには団子が配られる。
この日は「ふせぎ」(防ぎ)といって、伊古の各地区(組)では、他地区との境の道の両側にしめ縄を張り、そこにワラジを吊して疫病神が入らないようにした。
団子は、各組ごとに当番(用番)を決めて、当日は用番の家に各戸から米を集めて団子を作り、山上に運び上げた。
また、山頂に八大竜神の碑が祀られていることからも分かるように、二ノ宮山は伊古の雨乞いの山であった。
雨乞いは敗戦直後の頃まで行われていたが、まず伊古神社で、藁でヘビを作って(中に生きたヤマカガシを入れる場合もある)、拝んだあと、滑川の堰(伊古堰)でもむ。
次に、新沼の水でもう一回もんで二ノ宮山に登り、山頂の松に縛り付けて、八大竜神に降雨を祈願したという。
にほんぎとうげ 二本木峠(皆野町・東秩父村)
秩父郡皆野町三沢・秩父郡東秩父村坂本
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」
粥新田峠と登谷山のほぼ中間にある峠。
秩父郡皆野町三沢と秩父郡東秩父村坂本を結ぶ峠である。
現在の峠は、山稜を走る県道三沢坂本線と、峠に登る林道和地場線が合流する車道の一地点に過ぎず、ひなびた峠を想像すると、あまりの落差に驚かれるだろう。
峠の端にたたずむ石積みの上に安置された石宮がわずかに往時の峠の面影を残している程度。
この石宮には「大正七年三沢村玉川耕地一同」の銘が刻まれている。
峠にはヤマツツジが植えられており、5月上旬に一斉に開花するときは見事の一言。
さて、二本木峠にはダイダイボウと日本武尊にまつわる伝説が残されている。
(デイダボウの足跡)
「昔、デイダボウ(デイラボウ・ダイダボウ)という巨人があらわれた。腹が空いたので、笠をぬいでおき、粥新田峠に腰をかけて休んだ。笠をぬいでおいたところが今の笠山である。荒川の水を口にふくみ山に向かってふいたところ霧がかかった。これが今の大霧山である。それから粥を煮て食べた。そこが今の粥新田峠である。また持っていた二本の箸を立てた。これが今の二本木峠である。腰をおろしたところはやすみ石という。デイダボウの足跡は大霧山の頂上や粥新田峠の下にもあるという」(韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成 上・自然編』(北辰図書出版、1973年)
(日本武尊に因む伝説)
「日本武尊は東夷征伐の折、この峠で食事をされた。その時使った杉の箸をさしておいたところ、根がはえて峠名の起こりの二本の大杉になったという。尊は峠より北に連なる稜線を腰に鈴をつけて歩かれた。その鈴の音を聞いた鈴草がいっせいに開花したので、その山は「皇鈴(みすず)山」と呼ばれるようになった。皇鈴山を越えると日が暮れてしまい、次の峰は夜登られたことから、その山は「登夜(とや)山」になったという」(飯野頼治『山村と峠道-山ぐに・秩父を巡るー』(エンタプライズ、1990年)
いずれも、地名の漢字表記に付会した伝説の域を出ない。
『武蔵国郡村誌』秩父郡坂本村の条では、「二本木峠 坂本村の西北にあり、嶺上より二分し、東は本村、西は三沢村に属す。村の東方字内手より上る一里。即ち小鹿野道なり」と記す。
『武蔵通志』でも「二本木嶺 粥新田峠の北にして、西は三沢村に属す。坂本字内手より上る一里。小鹿野に至る支道なり」とほぼ同様の内容を記載している。
いずれの地誌にも書かれているように、二本木峠は、小川町から坂本村に出て、峠から三沢村におり、小鹿野町に向かう古い峠道であった。
なかでも、「和紙の原料コウゾを秩父から小川へ運ぶ峠として賑わっていた」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)
は
はっかいざん 八海山(小川町)
比企郡小川町青山(青山上地区)
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町青山・青山上(あおやまかみ)地区の南(八高線西側)に広がる丘陵を、地元では「福寿山」(ふくじゅさん・ふくじゅやま)と総称している。
福寿山の最高点が「御岳山」(御嶽山)(297㍍独標)である。
御岳山の山頂には、御岳山座生大権現の像と姿・形の同じ石蔵(サイズは小さいが)が祀られている。
江戸時代に木曽御嶽山の王滝口登山道を開山した普寛上人が開山したのが八海山・三笠山であり、御嶽山・八海山・三笠山は御嶽三太神として祀られている。
御嶽信仰が盛んだった小川町でも、中爪と下里、志賀の境にある遠ノ平山(東野平山)では、御嶽三太神一体の石碑が山頂に祀られている。
これに対し、青山の御岳山では、青山上からの参道にあたる2つの山をそれぞれ八海山、三笠山と呼び、それぞれの山頂に「八海山様」「三笠山様」の石像が、八海山の北肩には「半蔵坊霊神」が祀られていた。
八海山は、御岳山北東の260㍍圏の平頂稜で、その南の289㍍独標(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、大峰山と表記)が三笠山である。
八海山、三笠山は南の大峰(ときがわ町小北)とは尾根続きであり、御岳山・八海山・三笠山・富士見平・大峰一帯は、かつて秣場で、草地に灌木が混じる好展望の丘陵であった。
残念ながら、八海山・三笠山・富士見平は「(仮称)武蔵台カントリークラブ」(現・アドニス小川カントリー倶楽部)の造成により消滅し、八海山様の石像は御岳山頂に遷座された。
はなやま 花山(寄居町)
大里町寄居町風布
第13回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
釜山神社の奥宮がある釜伏山(男釜)から北に岩稜をくだると、日本水入口(日本水は現在立ち入り禁止)。
さらに相変わらずの岩尾根を約10分ほど進むと、「花山」(はなやま)につく。
埼玉県の天然記念物に指定されている「ゴヨウツツジ」(アカヤシオ・シロヤシオ)自生地で、開花期には、岩場にアカヤシオのピンクの花が、それに少し遅れシロヤシオの白い花が栄え、実に美しい光景だった(1985年の訪問時)。
山頂中央に、「埼玉県指定天然記念物ゴヨウツツジ自生地」と書かれた昭和40年(1965)10月建立の石碑があり、もう一つの古い石碑(大正13年(1924年)3月の銘)には「釜伏山名物花山」と刻まれている。
はばらとうげ 葉原峠(長瀞町・寄居町)
秩父郡長瀞町井戸・大里郡寄居町風布
第13回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
釜伏峠から延びる外秩父主稜線が塞ノ神峠、仙元峠(浅間峠)をへて達する峠。
南の505㍍独標と北の大平山(538.6㍍3等三角点峰)とのちょうど中間の鞍部にある峠。
寄居側の風布から来た林道が峠を越え、長瀞側の井戸へ乗っ越している。
峠には古い石の道標があり、「左小林、右扇沢、植平、左井戸、右風布」と刻まれている。
名前からは、草原の明るく開けた峠を想像するが、1985年(約40年前)に訪れたときには、明るく開けた仙元峠とは対照的に植林と雑木に覆われ、山稜が迫っているせいか、暗く感じられる峠だった。
今はどうだろうか。
葉原峠は、この山稜では釜伏峠に次いで有名な峠で、古い地誌にもその名が見える。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡井戸村の条では、「葉原峠 村(井戸村)の東にあり、隣村風布村へ越ゆる峠にして、登ること十五六町ばかり。山上にて風布村と界限せり」と記す。
『武蔵国郡村誌』秩父郡井戸村の条では、「葉原峠 (中略)高さ七十五丈。村(井戸村)の東にあり。嶺上より三分し、東は風布村に属し、西は本村に属し、北は岩田村に属す。村の北方より上る三十五町険岨」と記述されている。
さらに『武蔵通志』には、「葉原山 高さ七百五十尺。白鳥村井戸の東北にあり。風布岩田にまたがる」と記している。
葉原峠から長瀞側の岩根神社に向かってくだると、1985年当時は進行方向右に一軒家があった、
この家が通称「テッペン金サン」と呼ばれる家である。金さんは村の一番高いところに住んでいるので、近所の人々はそう呼んでいるという。
果たして、40年後の今、家は残っているのだろうか。
もう少しくだった岩根神社(大字井戸)はツツジ群落で有名。
「岩根神社の境内、社務所前の山林一帯、参道の両側に樹齢百年を越す見事なツツジが千株もの大群落をつくり、満開の時には全山花で埋まり壮観を呈する。
4月17日の春祭のころが満開で、巨木となったツツジのトンネル、境内からの眺望などの素晴らしさは、関東でも例を見ないほどである」(長瀞町教育委員会・長瀞町文化財審議委員会『長瀞ひとり歩きー文化財・名所を訪ねてー』長瀞町教育委員会、1984年)
再度葉原峠に戻り、反対側の寄居町風布方面にくだると、大字風布の小林地区に出る。ここは、みかんの北限で、みかん畑が一杯に広がる。
長瀞側・寄居側の風布が白鳥村のもと一体だった頃(1889~1943)、分教場の小学課程を終えた学童たちが、井戸(現在の長瀞町井戸)の白鳥尋常小学校の高等科に通った道が葉原峠道でもあった。
葉原峠には悲しい歴史もある。
葉原峠を寄居側にくだった小林地区は秩父困民党のなかでも一番勇猛であった風布組の人々が小林の金比羅山に集まり、夜になり、葉原峠を越えて吉田町の椋神社の本隊と合流した(明治17年10月31日)。
これが秩父事件の勃発である。
風布組は「団結力が強く、終始先頭に立って戦ったので犠牲者も多く出たという」(飯野頼治『山村と峠道―山ぐに・秩父を巡る』(エンタプライズ、1990年)
ひ
ひとついわ 一ツ岩(小川町)
比企郡小川町木部
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉山の北を流れる木部川は、天王沼の先で不動入(本流)とイラ沢に分かれる。
イラ沢は官ノ倉峠に登るハイキングコースに沿っているが、不動入(上流にある「北向不動」に由来)はさらに右俣の本流と左俣の「ウス入」に分かれる。
ウス入をつめると、山林のなかに高さ数十㍍もの大岩にぶつかる。これが「一ツ岩」である。
「一ツ岩」から急な山腹を登ると、官ノ倉西尾根に出る。
西尾根に出て、少し西に進んだところが、官ノ倉峠と烏森山とのほぼ中間地点。
この地点に、安戸の方が祀ったという山ノ神の小祠がある。
ひのきだいら 檜平(東秩父村・皆野町)
秩父郡東秩父村皆谷・秩父郡皆野町三沢
第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」
2万5千分の1地形図「安戸」
旧定峰峠から北に大霧山に向け、最初に登り詰めた700㍍圏ピーク。
西に大きな支尾根が分かれる。
このピークについて、奥武蔵研究会著『ブルーガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)では、「桧平」(ひのきだいら)と表記。
寺田政晴『アルペンガイド17 奥多摩・奥武蔵』(山と渓谷社、1983年)でも、「桧平(ひのきだいら)と呼ばれる小広いピーク」と記している。
ただし、同じ奥武蔵研究会調査執筆の昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)には「桧平」「檜平」の記載は無い。
しかし、ヤマレコ、YAMAPなどの山行報告、その他のネットの山行記録には「檜平」の名が頻出するので、現在、現地に「檜平」の名を記した公設の山名表示板が設置されている可能性がある。
今後、地元である東秩父村皆谷や白石を中心に、秩父市側の定峰などで呼称の確認を行う必要があるだろう。
ひばらとうげ 碑原峠(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町腰越・比企郡ときがわ町大野
初出
2万5千分の1地形図「安戸」
小川町腰越の最奥の集落「赤木」から館川の上流・梅沢ヤツに沿って、ときがわ町大野の七重集落に越える峠。
現在は林道が通っている。
この峠名について、大石真人氏が「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収)で「碑原峠」(ひばらとうげ)と表記して以来、この名称がハイカーの間で定着してきた。
大石氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」においても、「碑原峠(420㍍)都幾村(注:都幾川村が正しい)七重から小川町赤木へこえる峠。字にこう書くが、名因は檜原であろう」としている。
しかし、「碑原」(ひばら)は七重地区のあるときがわ町大字大野の小字名ではなく、大字西平の小字名である。
小川町とときがわ町との境界上の593.4㍍3等三角点峰(風早山・平萱の三角点)付近(南のときがわ町側)の小字名「風早」のさらに南側の小字名が「碑原」である。「脾原峠」から直線距離で500㍍以上も離れており、赤木から七重に越える峠名とするのは無理がある。
実際、赤木、七重両集落で峠名の聞き取りを行ったが、両集落とも峠名は無名であった。
結論として、碑原峠なる峠名は、地元呼称ではなく、大石氏をはじめとする先駆者がたまたま採集した小字名を峠名とした誤称であろう。
ふ
ふくじゅさん、ふくじゅやま 福寿山(小川町)
比企郡小川町青山(青山上地区)
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
福寿山という場合、「狭義」と「広義」の2つの範囲がある。
「狭義」の福寿山は、小川町大字青山の小字「福寿」にある山の意味である。
具体的には御岳山(297㍍独標)と、その前衛である三笠山周辺を指す。
これに対し、「広義」の福寿山は、青山の南にあり、南端は旧玉川村(現・ときがわ町)日大字日影となる八高線西側の丘陵一帯の総称名である。
「広義」の福寿山が御岳山を含むことはいうまでもない。
地元・青山では、福寿山については、広義の意味で呼称しているようだ。
さらに、古い地誌で「福寿山」という場合も、広義の意味で使っている。
例えば、『武蔵国郡村誌』(明治8年調査)比企郡青山村の条では、「福寿山 村の南にあり、東西百五十間、南北二百間」とある。
『武蔵通志』(明治24~25年)はさらに詳しく、「大河村青山の南にあり、山頂円形にして御嶽神社あり、松檜の間、ツツジ多し」と記す。
両者の記事から、「広義の福寿山」を説明していることは明白である。
さらに『通志』は、福寿山に御嶽神社があると述べ、御岳山が福寿山に含まれるとしている。
もっと詳しく「広義の福寿山」について述べているのが、明治19「青山村地誌」(小川町教育委員会所蔵旧大河村行政文書2)である。
そこでは、「福寿山 中央円形にして、突出し、四囲小丘陵羅列す。景致 ツツジ満山松柏疎々風景絶佳なり。雑項 頂上に松下に御嶽神社の石像あり。ツツジ満開の候は風流才子観山の徒山上群をなす。里俗物見山と称するは則ちこの処なり」と、実に詳しく記している。
福寿山の頂上に御嶽神社の石像があるということは、福寿山の最高点が御岳山(297㍍独標)であるということを意味している。
その周囲に小丘陵羅列す」という表現も、御岳山の周囲に「三笠山」「八海山」などの前衛の丘陵があるというかつての丘陵の姿を彷彿とさせる。
「ツツジ満山松柏疎々風景絶佳なり」という描写も、ツツジこそ見ることはできなかったが、かつての秣場の名残を残す草原に灌木が混じり、小川町方面の展望はもちろん、「富士見平」の小字名が表すように、富士山を望むことができたという地元の古老の話と一致する。
御岳山こそが福寿山と総称される丘陵の最高点(頂上)であり、地元の人々は「物見山」と呼んでいたというのは初耳だが、この一帯ではもっとも標高が高く、1980年代当時、北側の展望が開けていた御岳山に、昔、物見櫓が築かれていたとしても何の不思議はない。
これまでの記述から、広義の福寿山についてまとめると、青山の南(八高線の西側)にあり、南端が旧玉川村日影の丘陵の総称が福寿山。
福寿山の最高点(頂上)が御岳山で、その周囲には八海山、三笠山などの小山があった。
三笠山(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」では、大峰山と表記されていた289㍍独標)の南にあり、旧玉川村境界まで続く草原「富士見平」(小字名でもある)を含め、眺望の良い草原(灌木を含む)であったということである。
「八海山」の項目でも書いたが、八海山・三笠山・富士見平へと続く尾根は、旧玉川村との境界を越えると「大峰」となる。
つまり、福寿山と大峰とは尾根続きであり、大峰(現在の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で大峰山の表示がある293㍍独標を含む旧玉川村日影の丘陵一帯の総称。こちらもかつては秣場であった)は福寿山の旧玉川村日影分の総称である。
福寿山を小川町青山奥(八高線西側)の丘陵総称名であるという認識は、1940年代以降この山域を紹介していた先駆者の一致した見解でもあった。
例えば、神山弘氏は『ハイキング』119号(1943年)で、「地図に日影-青山の破線路の通る峠を中心とする丘陵の総称は、福寿山である」と記している。
大石真人氏も、「奥武蔵辞典-山名編-」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)のなかで、「福寿山(ふくじゅさん)(290㍍)明覚駅から小川町駅にいたる、八高線を中にして仙元丘陵と相対する山一帯をいう」と解説されている。
神山氏・大石氏の説明は福寿山を広義の意味で使っているという点で、おおむね妥当な内容だが、肝心の御岳山について一言も触れていない。
大石氏の「奥武蔵辞典-山名編-」には御岳山の項目さえない。
このような認識が、大石氏の影響が色濃く表れた奥武蔵研究会調査執筆の昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』に反映された。
1980年代半ば頃までの『奥武蔵・秩父』には御岳山・大峰の表記はなく、福寿山の表記しかなかった。
その後、2万5千分の1地形図「武蔵小川」で289㍍独標(本当は,三笠山)に大峰山の名が記載され、御岳山が「発見」されると、『奥武蔵・秩父』から福寿山の名は消え、御岳山が297㍍独標名に、大峰山が289㍍独標名として記載された。
『奥武蔵・秩父』(2025年版)では、2万5千分の1地形図「武蔵小川」の変更にともない、小川町・ときがわ町境界の293㍍独標に大峰山の表記をしているが、「大峰山」ではなく、「大峰」であり、293㍍独標だけでなく、それを含む小北地区(大字日影)の北側一山の総称名であるということは、「大峰」の項目で触れたとおりである。
福寿山は御岳山・三笠山・八海山・八坂神社・サネ山の奥ノ院など信仰に彩られ、とくに八海山・三笠山・富士見平から日影分の大峰へと続く山稜は明るい草原で、眺望にも恵まれていたという点で、仙元丘陵に匹敵する素晴らしい丘陵であった。
雷電山~大日山(お大日様)~行風山~行風峠~御岳山の尾根も、今とは違い1980年代は、多少のヤブや踏跡の不明瞭な部分はあったとはいえ、スムーズに歩ける快適な縦走路だった。
しかし、大成建設による「(仮称)武蔵台カントリークラブ」(現・アドニス小川カントリー倶楽部)造成により、福寿山は御岳山と八坂神社を除き、すべて破壊されてしまった。
もちろん、三笠山(289㍍独標)・八海山は消滅した。
今さら地図に「福寿山」の名を復活させようにも、そこには変わり果てたゴルフ場しかないというのは、かつての福寿山の姿を知る者にとって悲しい限りである。
開発を免れた尾根続きの大峰が残ったというだけでも、幸いというべきだろうか。
しかし、大峰もすっかり荒れ果ててしまい、かつて山頂部分が草原だった面影は全くない。
最後になるが、「福寿山」(ふくじゅさん)は、神仏習合時代の御嶽神社の本尊「御嶽山座生大権現」の山号であった(=福寿山御嶽山座生大権現)。
ふじみだいら 富士見平(小川町)
比企郡小川町青山
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
「富士見平」は小川町大字青山の小字名であり、小字「福寿」の南に当たり、「富士見平」の南は旧玉川村(現・ときがわ町)日影の「大峰」である。
「福寿山」(前項を参照)を広い意味で考えると、大字青山の南にある御岳山を最高点とする八高線西側丘陵の総称である。
その福寿山の最南端にあるのが、富士見平である。
御岳山前衛の「八海山」「三笠山」(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で大峰山と表記された289㍍独標)から「富士見平」、そして旧玉川村日影分の大峰は尾根続きであり、かつての秣場の面影を残す灌木混じりの草原であった。
なかでも富士見平は茅戸の草原で、天気の良い日は富士山も眺望できたことから、この名がついたという。
残炎ながら、富士見平はゴルフ場(仮称・武蔵台カントリークラブ→現・アドニス小川カントリー倶楽部)造成により破壊されてしまった。
ふじやま 富士山(小川町)
比企郡小川町高谷・角山
初出
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町駅北口から至近距離にある182.1㍍3等三角点峰(点名「高谷」)。
山頂は大字高谷分だが、大字角山と境を接する。
大石真人氏は「奥武蔵辞典-山名編-」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)において、「東上線小川町駅真北の山。戦時中は高射砲陣地が設けられて登山禁止となっていた」と述べている。
現在は高射砲の代わりに電波塔が山頂を占拠していて、その囲いの外側に「富士浅間大菩薩」と刻まれた石碑が祀られている。
ただし、高谷・角山を中心に古くから冨士浅間信仰の山として親しまれていたことは、古い文献から読み取れる。
内田康男氏からご教示いただいた万治2年(1659)5月「角山村大塚村秣場取極絵図」に「富士山」の名が見える。
内田氏の講座資料によると、「『天保巡見日記 亨』国立公文書館所蔵に『天保9年(1838)三月廿六日)高見・能升二村を過て山合谷道に入り高谷村にいたる。この村に高谷富士といえる山あり、眺望絶妙なりと聞ゆへに、村人に案内させて登り見るに、凡十丁余も登り漸頂に至る。松四五本ありて下には蕨を生し、又かたくり・あおばらん杯夥ありて、いつれも花をひらき、四方之眺望言葉に尽かたし、則矢立取出て二図を写すといえとも遠き秩父の峰々はうす霞みをふくみ、近き山々松の梢には桜の咲盛りて、去年の雪の消え残るや、また霰の集りしかと疑れぬ。挿図は、『高野村富士山上より秩父諸山眺望之景』」としている(リリック学院 静かなる小川町03~⑤小川町の山々・巨石・名石-その歴史と伝説』(令和4年2月19日講座資料より)
明治19年の「高谷村地誌」は富士山について、以下のように記している。
「山嶽 富士山 所在 本村(注:高谷村)西南字芹ヶ澤。形状 其形状不二山に似たるを以て、その名称を附せり、山頂平坦にして緑樹繁茂し山脈左左右に分れて村中諸山に連る。高 三拾五丈。周回 拾五町三十間。登路 一條あり。本山ノ東北麓より登る甚険なり。その程五町拾三間。樹木雑樹繁茂せり。景致 頂に浅間神社あり、松樹繁茂し、眺望は山下一目すれば小川の市街、次て槻川流水を望む等その景甚美なり、遙に秩父諸山と相望む。本山及近接の諸山桜多く、花時の風景も美なり」
ふるてらとりであと 古寺砦跡(小川町)
比企郡小川町上古寺
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
小川町上古寺とときがわ町雲河原との境で、県道273号線西平小川線が通る「松郷峠」。
小川町側の上古寺から松郷峠に向かう県道の西側に無残な姿を見せているのが光兆産業(株)古寺砕石工場。
この砕石工場により削られ、消え去ってしまった山が「古寺砦跡」。
古くは「城山」とも呼ばれていた山だが、1988年に採掘前の発掘調査が行われた。
それによると、慈光寺裏街道を見下ろす山頂部に小規模な郭(くるわ)を2つ南北に並べ、南の郭先の尾根の先端に掘切があり、北の郭には「のろし台」とみられる焚火土壌が発見された。
きわめて単純なつくりで、急ごしらえでつくった砦であることは歴然であった。
小田原の後北条氏は、天文15~20年(1546~1551)にかけて、当時勢力を誇っていた慈光寺を攻略した。
この慈光寺攻略は、後北条氏の重臣であった松山城主・上田能登守朝直(暗礫斎)により行われ、慈光寺は重要文化財の開山塔が被害に遭うなど深刻な打撃を受け、勢力を失った。
以上から、古寺砦跡は上田氏の慈光寺攻略の最前線の砦として急造されたと考えられる。
そして、天正15年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻略の際、上田氏の居城・松山城も落城。
出城の古寺砦も機能を失い、荒廃したのであろう(梅沢太久夫『埼玉の城-270城の歴史と縄張-(改訂版)』まつやま書房、2023年)。
また、内田康男氏は古寺砦とその北方の腰越錠(城山)を結ぶ間道の存在を確認し、古寺砦は腰越錠の出城的性格をもっていたのではないかと推測している。
2つの城を結ぶ間道は、上古寺の東光寺付近から雷電山~士峰山の尾根(峠)を越え、腰越の矢岸にいたっている。
この峠の入口に「木の城」という屋号をもつ吉田家がある。
昔、古寺砦から腰越城への移動は昼を避け、夜のみであったという。
暗闇では歩行が困難なので、いつも使者は吉田家でかはり火をもらい、無地に腰越城にたどりつくことができたという。
この功績により、吉田家は古寺砦の主から「木の城」の屋号をいただいたという。
腰越城は松山城主・上田氏の慈光寺攻めにあたって最前線をなしており、腰越城主・山田氏は松山城主・上田氏の重臣であった。
こうした関係からも、松山城→腰越城→古寺砦という命令系統で慈光寺攻略を行ったと考えられる。
そして、腰越城とその出城である古寺砦との間には頻繁な往来があったと想像できる(氷川の里上古寺編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
松山城主・上田氏の慈光寺攻めの北側の拠点が「古寺砦」であったとするなら、南方の最前線は、ときがわ町西平字大築の「大築城」であった。
ほ
ほそくぼやま 細窪山(小川町・東秩父村)
比企郡小川町木呂子・秩父郡東秩父村奥沢
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉西尾根はもちろん、官ノ倉丘陵全体の最高点である421.2㍍3等三角点峰(点名は「奥沢」。
「細窪山」は北東側の小川町木呂子における呼称。
「山頂北東側(木呂子側)の小字名「細窪」にもとづく山名である。
細窪山は小川町木呂子と東秩父村奥沢の境界にあるので、奥沢で山名を聞き取りしたが、おおむね無名で、一部の人が「三角点」と呼んでいた。
そのため、小川町側、東秩父村双方の呼称を尊重すると「細窪山」(三角点)と表記するのが正解ということになる。
しかし、この山は長年、ハイカーの間で「臼入り」あるいは「臼入山」なる誤った名称で呼ばれていた。
今でも山頂には「臼入り」「臼入山」などと書かれた私設の山名表示板が、「細窪山」の山名表示板に混じって建てられていて、ヤマレコやYMMAP等ネットの山行記録でも、「臼入り」あるいは「細窪山(臼入山)」などと表記する人が多い。
では、なぜ「臼入り」「臼入山」なる誤った山名が約80年以上にわたってハイカーの間で使われてきたのだろうか。
それを説明する前に、まず「臼入り」について解説しよう。
「臼入り」は正確に書くと「ウス入」である。
「ウス入」は、木部川の支流で、天王池の先で本流(不動入と名を変える)から分かれ、南西に官ノ倉西尾根に突き上げる沢である。
それと同時に、「ウス入」は沢の名称であるとともに、沢の周辺から官ノ倉西尾根にかけての山腹の小字名である。
木部川の上流である不動入(木部の北向不動が沢に沿ってあることからこの名がついた)は「烏森山」に突き上げている。
烏森山は、細窪山よりもかなり官ノ倉峠に寄っており、烏森山と細窪山の間には、天ノ峰、愛宕山などの山々がある。
ウス入は「一ツ岩」を越え、西尾根上に突き上げるが、その突き上げた地点から少し西に寄った地点に山ノ神の小祠がある。
2万5千分の1地形図「安戸」をみても、ウス入が官ノ倉西尾根上の烏森山の東にある366㍍独標のさらに東に突き上げていることが良く分かる。
この地点は、細窪山とは直線距離で1.5キロも離れており、ウス入を421.2㍍三角点の山名とするのには無理がある。
この時点で、既に421.2㍍三角点を「臼入り」「臼入山」と呼ぶことは破綻している。
では、どのような経緯で、誤った山名がついてしまったのだろうか。
詳しくは、「比企・外秩父の山徹底研究」第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」の「細窪山」の項で書いたので、ここでは要約にとどめたい。
官ノ倉西尾根を最初にハイキング雑誌に紹介したのが岩満重孝氏と岩崎京二郎氏であり、ともに1941年であった。
両氏の記事では、ウスイリ(岩満氏)、臼入り(岩崎氏)などと呼んでいるが、いずれも沢名・小字名ではなく、西尾根上のピーク名として用いている。
だが、それは421.2㍍三角点峰ではなく、それと官ノ倉峠の間にあるピーク(正確な場所は不明)として使っており、アバウトな位置としては、ウス入のツメに使い山を指している。
おそらく両者は地元(小川町木部)で小字名である「ウス入」を採集し、それを特定のピークの名称として転用したのではないだろうか。
ところが、その後、新ハイキングペンクラブ著『新しき山の旅』(昭和17年、昭和書房)所収の坂倉登喜子氏(岩根登喜子名)執筆の「官ノ倉山、小瀬田越え」で、事態は一変した。
上記の記事では、略図に三角点は記載されていないが、ガイド文では官ノ倉山に登ったあと、再び官ノ倉峠に戻り、西尾根を「臼入山」までたどっている。
そして、文中に「臼入山からは、北へ八王子を経て、中郷部落へ降るなり、或は奥沢へ降ってバスに乗るなり」とあるように、ここでは「臼入山」は明らかに3等三角点峰と同一視されている。
この坂倉氏の誤りを大石真人氏も踏襲。
大石氏監修の「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版所収」)では、421.2㍍三角点に「臼入り」と表記。
1960年版の『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」でも、「臼入り頭」とし、「官ノ倉丘陵中の最高峰。官ノ倉峠から不動入頭をへて細経が尾根上にあるが、夏秋にはかなりヤブがわずらわしい」と記している。
坂倉氏・大石氏の影響下にあった奥武蔵研究会(大石氏は同会2代目の代表、坂倉氏は三代目の代表)が昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』で、両氏の誤りをそのまま踏襲し、421.2㍍三角点峰に長年「臼入り」と表記し続けたことは当然の成り行きであった。
現在でこそ、同会も誤りを訂正し、細窪山と表記するとともに、「誤った臼入山の標識あり」と注記している。
それでも、同じ昭文社発行の「都市地図 埼玉県12 東松山市 小川・嵐山・滑川・吉見町 ときがわ町 東秩父村」では、相変わらず421.2㍍三角点峰を「臼入山」としている。
おそらく421.2㍍三角点峰をめぐる山名の混乱は今後も続くだろう。
最後に、三角点から奥沢にくだる途中にある石尊様(2万5千分の1地形図「安戸」で421.2メートル3等三角点から南に延びる尾根途中の神社記号。奥沢から石尊様まで破線路が記入されている)についても簡単に言及したい。
阿夫利神社(石尊様)の例祭は以前、4月12日に行われ、奥沢の集落総出で登拝した。
しかし、その例祭も久しく行われておらず、社殿もすっかり傷んでしまった。
ぽんぽんやま ポンポン山(熊谷市小江川)
熊谷市小江川
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
滑川町福田の高根山(105.1㍍3等三角点)北西にある小山。
こちらは熊谷市小江川(おえがわ)(合併前は、大里郡江南町小江川)で、山頂にはコンクリート製の高区配水池が占拠している。
その上に鉄骨の小展望台がある。
高根山は「四顧爽潤」という『武蔵通志』の過去の表現に反し、樹林に覆われ、山頂からの眺望はゼロ。
それを補って余りあるのがポンポン山の小展望台からの大展望。
北に山が何もなく、関東平野に直接面する丘陵というだけあって、関東北部の山々の眺望をはじめ、360度のワイドな展望が素晴らしい。
100メートルに満たない標高を忘れるひとときだ。
ポンポン山というと、吉見丘陵の玉鉾山(たまぼこやま)が有名だが、ここ小江川のポンポン山は玉鉾山と違って山頂の地面を踏んでもポンポンと音がするわけではない。
山頂直下に開口1.5㍍、奥行2㍍ほどの横穴が存在する。
これは古墳時代の高根横穴群のひとつと考えられているが、この穴で手を叩いたり、足を踏みならすとポンポンという反響音がすることから、ポンポン山の名がついた。
横穴の奥壁に観音像が埋め込んであったとは、小江川の古老の話。
ぽんぽんやま ポンポン山(比企郡吉見町田甲)
比企郡吉見町田甲(たこう)
初出
2万5千分の1地形図「東松山」
比企丘陵の東端にあたる吉見丘陵の末端にある。
大字田甲の鎮守・高負比古根(たかおひこね)の域内裏に標高38㍍の小さな岩山がある。
これがポンポン山である。
標高は低いが、東側は荒川の河川敷が広がるので、天気に恵まれれば、好展望が得られる。
岩場の基部にあたる山腹を踏みならすと、ポンポンと音がすることから、この名がある。
ポンポン山については、『新編武蔵風土記稿』横見郡田甲村の条に「玉鉾山」として、次のような詳しい解説がある。
「社(注:高負比古根神社)の後背は高さ十一間ばかりなる巌石の丘にて、その内社によりたるあたりを踏み鳴せば鼓のごとく響きあるところあり。そこを玉鉾石と称す。また通じて玉鉾山とも号せり」と詳しい。
これによれば、ポンポンと音がする山腹を「玉鉾石」といい、岩山全体を玉鉾山(ポンポン山)という。
「この響は地下に洞窟があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはね返るので音がするという2説がある」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1980年)。
私が最初に訪れた1970年代当時は、たしかに踏むとポンポンという音が確認できた。
しかし、最近の山行記録を読んでいると、踏んでも音がしないという報告が圧倒的に多い。
ところで、ポンポン山(玉鉾山)には、次のような伝説が残されている。
「その昔、ある長者が財宝の隠し場所を捜していました。長者はある日、高負彦根神社(高負比古根神社)に詣で、『いちばんいい財宝の隠し場所を教えてください』とお伺いをたてました。すると神様のお告げがあり、『この岩山に埋めろ。私が守ってやろう』というものでした。そこで長者は大変安心して、財宝をこの山に埋めたそうです。
それからしばらくして、長者の隠した財宝を盗もうと盗人が山に入り込みました。すると突然、山がポンポンと山鳴りを起こしたので、盗人は恐れおののき、震えながら山をおりました。それ以降だれも、財宝を盗み出しに行くものはいなかったということです。あまりにも古い話なので、その後の財宝の行方は、近在の人たちの間でも知る者はいなくなったということです。こうした話の名残として、岩山はポンポン山と呼ばれており、山には神霊がいるといわれています」(吉見町役場ホームページより)
ま
まくいわ 幕岩(小川町)
比企郡小川町下里(割谷地区)
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
2つの仙元山(青山の仙元山、下里の仙元山)にはさまれた仙元丘陵が槻川に沿ってL字型に曲がるちょうどその地点の山麓にあたる下里1区割谷(わりや)集落。
割谷集落奥の千木(千騎)沢沿いの岩場「大日山」の向かいに、幕を張ったように横幅の広い岩場がある(高さ数十㍍、幅数十㍍)。
これが「幕岩」である。
幕岩には大蛇が棲んでいるとの伝説があり、大蛇が岩の上で昼寝をしているのを見た人もいたという。
まつごうとうげ 松郷峠(小川町・ときがわ町)
比企郡小川町上古寺・比企郡ときがわ町雲河原
第9回「慈光寺・都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
右に小川町上古寺の鎮守・氷川神社の森をみて、車の通りが激しい県道西平小川線を登っていくと、右手に光兆産業(株)古寺砕石工場の広大な採石場が広がってくる。
荒涼とした光景で、目を覆いたくなるが、車道が砕石工場寄りに大きくカーブする個所で、かつての旧道が近道として辛うじて残っている。
旧道を歩き、再び車道に飛び出す少し手前の林のなかに芭蕉句碑が寂しく建つ。
内田康男氏によると、この芭蕉句碑は幕末の弘化3年(1846)に上古寺の三氏が建てたものであるという。
句碑の表には「蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな」と刻まれている。
興味深いのは、句の下に「右山王天寺左八王寺大山道」とあることだ。
町田尚夫氏は「山王」をときがわ町西平の萩日吉神社、「天寺」を子ノ権現、「八王寺」を竹寺、「大山」を神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社であろうと推測している(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』(奥武蔵研究会、2004年)。
そこから、この句碑が寺社への道しるべを兼ねていたことが分かる。
松郷峠は、かつて各神社仏閣への交通の要衝として栄えた場所であったのであろう。
道しるべの文字は思い切って太い字、対照的に句は上部にさりげなく彫られており、見事なコントラストを見せている。
句の選定も、かつてのこの地にふさわしい。
『芭蕉の句を歩く』(さきたま出版会、1983年)の著者・小林甲子男氏も、「この碑は埼玉でも名碑の中に入るであろう」と賞賛されている。
しかし、新道ができ、車の通行量が増えたうえ、巨大な砕石工場の広がる荒涼たる光景に、往時の松郷峠の面影は全くない。
ちなみに、松郷峠は、芭蕉句碑から再度車道に出て、少し登った小川町とときがわ町との境である。
まつのきとうげ 松の木峠(ときがわ町)
比企郡ときがわ町大野
初出
2万5千分の1地形図「安戸」
ときがわ町が整備した「ときがわトレッキングコース」の一地点。
ときがわトレッキングコースは、ときがわ町西平の慈光寺入口バス停から始まり、慈光寺・霊山院・七重峠休憩所・森の広場をへて、急な木階段を登り切ると、「松の木峠」である。
堂平山南東山腹上の標高約800㍍圏。
峠名は地元(大野)呼称ではなく、トレッキングコース設置にともない、町が新たに命名したもの。
み
みかさやま 三笠山(小川町)
比企郡小川町青山
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
小川町大字青山の八高線西側丘陵である「福寿山」(ふくじゅさん・ふくじゅやま)の一峰。
福寿山のなかでは、主峰・御岳山(297㍍独標)に次ぐ、289㍍独標(ゴルフ場造成前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で「大峰山」と表記)。
三笠山の北には「八海山」があり、八海山には「八海山様」の石像、三笠山には「三笠山様」の石像が祀られていた(現在は、ゴルフ場造成にともない、いずれも御岳山山頂に遷座)。
青山上→八海山→三笠山→御岳山が「参道」となっていて、御嶽講の人々は八海山様・三笠山様に拝礼したあと、御嶽山座生大権現の石像にお参りをした。
三笠山の南に広がる小平地が「富士見平」であり、八海山・三笠山・富士見平一帯は秣場だった面影を残す小灌木と草地が混じる展望の良い明るい山だった。
富士見平の南が旧玉川村(現・ときがわ町)日影分の「大峰」(現在の2万5千分の1地形図「武蔵小川」で「大峰山」と表記されている293㍍独標)を含む日影側の丘陵)である。
残念ながら、1989年に始まる大成建設の「(仮称)武蔵台カントリークラブ」(現・アドニス小川カントリー倶楽部」)造成により、福寿山は御岳山以外すべて消失。
三笠山も、八海山・富士見平とともに姿を消した。
みすずやま 皇鈴山(皆野町・東秩父村)
秩父郡皆野町三沢・秩父郡東秩父村坂本
第11回「二本木峠・皇鈴山・登谷山」
2万5千分の1地形図「安戸」
二本木峠から登谷山にいたる尾根上の679㍍独標。
広い山頂は、外秩父主稜中最も展望が楽しめる場所である。
県道からの車が満載の駐車場は目障りだが、山頂には東屋やベンチもある、
さらに展望が良いのが、山頂東側の「展望台」である。
端には手すりが設けられ、手すりにつかまりながら、何も遮るもののない大展望を満喫できる。
展望台の下にはベンチが一つあり、一見、山頂から下に転げ落ちそうな感もあるが、こちらも展望台以上の臨場感のある眺望を楽しめる。
このベンチを「天空のベンチ」と呼んでいる。
さて皇鈴山の山名について、古い地誌にも記載が全くないので、どのような由来で、この大仰な名がつけられたのか疑問をもっていた。
それが氷解したのが、関口洋介氏の奥武蔵研究会会報『奥武蔵』第350号(2006年7月)の次の一文に接したときである。
「皇鈴山は、昭和11年、当時の三沢村の福田唯一村長がこの峰を初めて『皇鈴山』と命名し、山頂に皇鈴神社を祀ったと言われる」
念のために『三澤村誌』(三澤村誌刊行委員会、1977年)を古書店から取り寄せ確認したところ、次の一文があった。
「皇鈴山は昭和11年。時の村長福田唯一氏の発議により三沢公園として誕生し、皇鈴神社を祭り、春秋の二季に日を定めて全村民相寄り一日の融和を楽しんだという」
村誌の一文では、皇鈴山の名を福田村長が命名したとは明言していないが、山頂に三沢公園を設置するにあたり、村の象徴として山名を同時に命名したと考えて無理はないだろう。
皇国思想が反映されたような皇鈴山という山名も、昭和11年(1936年)という太平洋戦争に向かう時代の雰囲気を感じさせる。
ところで、戦後の昭和25年(1950年)、皇鈴山頂に皆野町(旧三沢村)出身の夭逝の俳人・持田紫水(もちだしすい)(1917~1943)の句碑が建立された。
紫水はようやく新進の俳人として頭角を現した矢先の昭和15年(1940年)、23歳で応集を受け、南方に派遣された。
応集中の昭和17年(1942年)、5つの句により馬酔木賞を受賞したが、昭和18年(1943年)戦地で胃腸カタルにかかり、故郷の三沢村に戻り療養していた。
だが同年11月8日、26歳の若さで他界した。
皇鈴山山頂に建立された紫水の句碑には、表に「いっしんに鷹みてありぬ萱は穂に 紫水」と彼の句が刻まれた。
碑の裏には、彼の師であった金子伊昔紅による次のような紫水の略歴が刻まれている。
「持田紫水は大正6年1月29日三沢村に生まれ、俳句を好み、伊昔紅、かけいに学び水原秋桜子先生の馬酔木に寄稿して馬酔木賞を受く、昭和18年11月8日病没す」
毎年5月5日が山開きであり、当日は皆野町主催の行事が盛大に行われている。
みつごいわ 三つ児岩(小川町)
比企郡小川町高見
第14回「四ツ山(四津山)・物見山・堂ノ入山・たかんど」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
高見地区・四ツ山(四津山)の二の沢にあるという三つに割れた大岩。
この岩については、いろいろな伝説があるが、そのうちの2つは以下のとおりである。
「3歳になる神様(大男)が、どこからか頭の上に岩を乗せてきて、四津山で一休みした時、その岩を放り投げたのが、この三つ児岩という。今でも岩に頭と手のついた跡(後刻か)がある。大岩が3つに割れたという。一休みした時、足をついたのが、足っこ沼(一の字沼)と牟礼の足っこ沼といわれ、両方足の形をしている。この三つ児岩のところに小さなお宮があり(今は確認できない)、正月飾りを持って行ったという」
「昭和55年作成の『八和田地区郷土かるた』によると、「奇石で残る三つ児岩」の説明に高見地区四津山の二の沢にある巨大な岩を三つ児岩という。伝説によれば、戦国時代、四津山城の築城祝いに、石井九郎左衛門の家来の中から、七・五・三の兄弟が選ばれて、舞を奉納中、突風が起こって春雷となり、山を下りることができなくなった。年下の七歳、五歳の子供は、家来たちに助けられたが、三歳の子供は風に飛ばされて岩まで吹き飛ばされてしまった。それ以来、大正の末期までの約300年の間、三歳の子供は山に登らせない風習が残っていた」とある」(いずれも、内田康男「小川町の山々・巨岩・名石ーその歴史と伝説ー」リリック学院 懐かしき小川町 03ー⑤、2022年2月19日作成より引用)
みどうやま 御堂山(嵐山町)
比企郡嵐山町太郎丸
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
太郎丸の入口にある80㍍前後の小山。
そんな小山ながら興味深い伝説や信仰を秘めている。
登り口には馬頭観音があり、石段を登った中腹には堂宇がひっそりとたたずむ。
かつて、この堂宇内に金箔の聖観音像が納められ、近在の信仰が厚かった。
だが、1960年代末に、何者かに盗まれてしまった。
堂宇の左手から登りつめた山頂は小平地で、金比羅神社、秋葉神社、愛宕神社の三つの小祠が鎮座。
聖観音が健在だった頃には、金比羅神社を合わせて1月10日に祭礼を行っていた。
また、8月12日には村中の人々が聖観音の前に集まり、酒を酌み交わしたという。
ところが、聖観音が盗まれてしまってからは祭礼も簡素化され、1月3日に淡州神社の新年祭の時、ついでにしめ縄を張り、幣束をあげる程度。
山頂を公園化するという話もいつしか立ち消えになってしまった。
御堂山にまつわる巨人伝説を、ひとつを紹介しておこう(韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集成 上・自然編』(北辰図書出版、1973年)。
「嵐山町広野に大田坊(ダイダンボウ)というところがある。伝えるところによると、昔ダイダン坊という大男が土をたくさん入れた籠を背負ってここを通った。そのときの足跡の一つが広野のダイダン坊堰付近に残り、もう一つの足跡は滑川町羽尾付近にある。また、籠のメド(すき間)から土がこぼれ、太郎丸の御堂山になった。メド山が、いつの間にか御堂山になったのである」
む
むじないわ ムジナ岩(東秩父村)
秩父郡東秩父村奥沢
第2回「官ノ倉西尾根とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
細窪山東側鞍部より奥沢に少しくだった山林中にある。
大きな穴が空いていて、そこにムジナが棲んでいたので、戦前子どもたちは、煙でいぶしてムジナを捕えようとしたことあったという。
め
めがいわ 女鹿岩(ときがわ町)
比企郡ときがわ町西平
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」「安戸」
雷電山から南に下がる尾根が女鹿岩の集落にぶつかる付近にある大岩。
天王山(堂山)から縦走する場合は、途中で女鹿岩にくだるのではなく、雷電山まで登り、雲河原からの林道をくだる方が分かりやすい。
林道から少し入ったところにある墓地からくだったところが女鹿岩の岩上である。
高さ10㍍ほどの大岩が2つに割れた状態にあり、割れ目にはチョックストーンがはさまっている。
雷電山の女鹿岩は、都幾川をはさんで向かい合う奥武蔵の「弓立山」(ゆみたてやま)北側のハイキングコース上にある男鹿岩(おがいわ)と対の関係にあり、次のような大蛇伝説が有名である。
「昔女鹿岩には雌の大蛇が棲み、弓立山の男鹿岩に棲む雄の大蛇と毎年1回、7月7日の夕方になると、都幾川のほとりで逢瀬を楽しんでいた。
しかし、ある夏激しい日照りが続き、雌の大蛇が姿を消してしまった。
これを悲しんだ雄の大蛇は涙を流し、雌の後を追って行って姿を消してしまったという。
も
ものみやま 物見山(東秩父村御堂・安戸)
秩父郡東秩父村御堂・安戸
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村御堂の萩平では、リュウゴッパナ(493.8㍍3等三角点:点名「竜ヶ鼻」)西の「ツルキリ」(ツルキリ山」から尾根を北に進んだ460㍍圏ピークを「物見山」と呼んでいる。
今は展望なしの山だが、かつては四方を望見できたという。
飯野頼治氏も、同山について、「展望はないが、以前は赤城山も見えたほど見通しが良かったという」との昔話を萩平にて採集している(飯野頼治『東秩父村風土記』(『飯野頼治著作集2』まつやま書房、2022年に所収)。
ものみやま 物見山(東秩父村安戸)
秩父郡東秩父村安戸
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
東秩父村安戸の寺岡や帯沢などの集落の人々は、ツルキリから北に延びる稜線上の411㍍独標から東に派生する支稜上の300㍍圏ピーク(送電線鉄塔がたっている)を物見山と呼んでいる。
前項の萩平(御堂)の物見山と同様、帯沢(安戸)の物見山も、松山城の支城にあたる腰越城の物見櫓が山頂に築かれていたのかも知れない。
そういえば、この付近には笠山郡界尾根上の「タカハタ」(高旗山・高畑山:山頂に旗を掲げて腰越城に合図をしたという)など、城跡と関連した地名が残されている。
ものみやま 物見山 東秩父村大内沢・寄居町西ノ入
秩父郡東秩父村大内沢・大里郡寄居町西ノ入
金山・君八山を過ぎると、官ノ倉西尾根は右に乳首状の特異な浅間山(仙元山)を眺めながら、送電線の下を歩くようになる。
いくつかのピークがあるが、「東京電力西上武幹線181号鉄塔」のあるピークを大内沢(東秩父村)では、物見山と呼んでいる。
名称は、比企・秩父・大里地方に多い「物見山」と同じ。北条氏の主要城の物見の砦ないし櫓があった(大内沢の物見山の場合、距離的に近い鉢形城の物見砦)と想像される。
官ノ倉西尾根は、物見山の次のピークで方向を90度右に変え、286.6㍍4等三角点峰(点名は「大内峠」)をへて、寄居町三品の高山(石尊山)にいたる。
ものみやま 物見山(比企郡小川町・比企郡ときがわ町)
第4回「仙元丘陵」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
仙元丘陵のほぼ中央にある286㍍独標。
2万5千分の1地形図「武蔵小川」でも「物見山」と表記しているのにすぐ分かるだろう。
顕著なピークではなく、単なる尾根上の小平地という印象で、「物見山」と書かれた山名表示板がなければ、気づかず通りすぎてしまうだろう。
そんな平凡な山容の物見山だが、西側の青山城(割谷城)と東側の小倉城との中間地点にあり、戦術上重要な役割を果たしていた。
さらに、槻川に落ち込む断崖という自然の要塞をもつ北側、急な尾根が落ち込む東側・南側にくらべ、緩やかな尾根が続く南西側は、小倉城の防御上の最大の弱点であった。
そのために、西側から尾根を伝って押し寄せる敵兵の到来を、小倉城に伝えるための最前線こそ物見山であった。
あるいは、青山城(割谷城)からの知らせで、尾根を伝って敵兵が押し寄せることを小倉城より前に知り、敵兵の侵攻を一時阻止し、時間稼ぎを図るための防御線をなしていたかも知れない。
残念ながら山頂は樹林に覆われ、展望はない。
そんな平凡な山頂の物見山だが、古くは『武蔵通志』に「高さ九尺六十尺。玉川村五明の北にあり」と記されている。
それ以外にも、『武蔵國郡村誌』比企郡五明村の条では、「物見山 高さ九十六丈。周囲不詳。村の北方にあり、嶺上より二分し、北は下里村東西南は本村(=五明村)に属す。山脈雷電山に連る樹木鬱葱。字赤坂より上る九町四十八間三尺」と、かなり詳しい。
『郡村誌』比企郡田黒村の条にも「物見山」の名が見られ、次のように説明されている。
「高さ及周囲不詳。村の西北にあり、嶺上より三分し、東南本村に属し、西は五明村、北は下里村に属す。村の中央より上る十三町。芝のみ生す」とある。
ここでいう「物見山」が、果たして2万5千分の1地形図り「武蔵小川」の286㍍独標、すなわち物見山を指すのかについては、町田尚夫氏の指摘するように疑問がある(町田尚夫『奥武蔵をたのしむ』さきたま出版会、2004年)。
何より、物見山は小川町下里とときがわ町五明(ごみょう)の境にある山であり、ときがわ町田黒とは接していない。
町田氏はそれを根拠に、『郡村誌』田黒村の「物見山」は、右隣にある「仙元山」を指すのではないかと考察されているが、私もそれに同意したい。
なぜ田黒に属さない「物見山」の名が田黒村の条に記載されることになったのか、その経緯については、不明である。
ちなみに、物見山の山名は旧玉川村(現ときがわ町)五明側の呼称であり、小川町側の下里では無名峰である。
ものみやま 物見山(比企郡嵐山町・比企郡小川町)
比企郡嵐山町遠山・比企郡小川町下里
第5回「遠ノ平山とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
武蔵嵐山公園のある大平山から北上する尾根は途中で急激に方向を南西に変え、嵐山町と小川町との境界尾根となり、観音山(下里観音山)から愛宕山の尾根の南に並走。
遠山寺(嵐山町遠山)の裏山にあたる寺山を最後に槻川に落ち込む。
この境界尾根上で最も目立つピークが214㍍独標である。
このピークを、南側の嵐山町遠山では「物見山」と呼んでいる。
『武蔵通志』に「物見山 高さ五百尺。菅谷村遠山の北にあり。西は寺山及下里観音山、愛宕山に連なる」と記されている山は、下里・遠山の境界尾根上の214㍍独標、すなわち「物見山」であろう。
「寺山」の項でも引用した「菅谷村の沿革」でも、遠山村の地形に触れ、「北に物見山を背負い、この山脈があたかも屏風のように連り左右に開いて東は大平山、西は寺山で止まっている」と記している。
以上の描写だけからも、遠山集落の北に屏風のように連なり、東の大平山、西の寺山に挟まれた物見山の位置が、214㍍独標であることには疑う余地はない。
山名由来は、比企に多数ある同名の山と同様、山頂に物見櫓ないし物見砦があったことによる。
小倉城が至近距離であることから、遠山の物見山(214㍍独標)は、仙元丘陵の「物見山」と同じく、南西側の尾根からの攻撃に一縷の不安のある小倉城の北側至近距離の物見櫓として、敵の西からの来襲を城に告げる役割を果たしていたと思われる。
ところで、『山と高原地図23 奥武蔵・秩父』(昭文社)では、長年、物見山(214㍍独標)のことを「寒沢山」と記載していた、
大石真人氏は「奥武蔵辞典―山名編―」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版所収)において、「かんざわやま 220㍍ 武蔵嵐山の西、遠山部落の脊稜をなす山容のゆたかな山である」としているが、ここで「寒沢山」とされているのは、明らかに「物見山」である。
寒沢山は、物見山(214㍍独標)西の尾根上の四辻(そのまま西に寺山に行く道、北西に観音山~愛宕山の尾根に行く道、西に寒沢山に行く道の3つの道と、物見山に戻る道の4つの道が交差する四辻)から西に進んだ下里寒沢集落の奥にある220㍍圏ピークである(詳しくは、寒沢山の項目を参照)。
残念ながら、大石氏の誤りを『山と高原地図23 奥武蔵・秩父』で踏襲しつづけた。
214㍍独標に寒沢山と表記し続けたため、現在でも物見山山頂に「寒沢山」と記された私設の山名表示板があるなど、山名位置の混乱を招いてきた。
現在では、昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(2025年版)で、寒沢山の表記が正しい位置に記載されているので、是非214㍍独標に物見山の名を記載して欲しいものである。
ものみやま 物見山(小川町木呂子・寄居町三ヶ山)
比企郡小川町木呂子・大里郡寄居町三ヶ山
第3回「金勝山とその周辺」
2万5千分の1地形図「寄居」
寄居町三ヶ山との境である小川町大字木呂子字群窪にある197㍍独標。
かつて鷲丸山のあった「ホンダ埼玉製作所 完成車工場」の西側。
山の北側は土砂砕石場跡、東側はホンダ寄居工場の駐車場、西側は埼玉県廃棄物最終処分場を含む「彩の国資源循環工場」など開発が進み、そのなかで孤軍奮闘のかたちで山を死守している物見山も、北山稜が土砂採掘により一部削られている。
それでも北側の展望に恵まれ、寄居町の市街が一望できる。
木呂子の物見山は、その名称から単なる鉢形城の物見櫓跡かと思っていたが、山頂には祠の基石らしきものが転がっており、堀切と小平地の城郭の遺跡が残っていることなど、物見櫓より規模の大きい「砦」ないし「城」の可能性もある(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家本、2018年)。
実際、中田正光氏は、『埼玉の古城址』(有峰書店新社、1983年)において、小川町木呂子の物見山について、吉野城とし、「伝えの城であろう」としている。
しかし、「吉野城」(吉野砦)」の所在地と比定される場所については3説あり、いずれも小川町大字木呂子の字群窪(物見山)のほかに、八高線北の字万所、八高線南の字下万所の説もある。
私は1986年、小川町勝呂の宮沢貞夫さんに「下万所」(しもまんどころ)の吉野砦跡と呼ばれる場所にご案内いただいた。
現地は八高線脇の高台にあり、振り返ると小川町方面が一望される。
したがって、かつての鉢形城の見張りの砦が築かれていたことが想像される。
宮沢氏によると、何か異変があったときは、ここから1キロほど北に進んだ寄居町境の物見山(本稿の197㍍独標:眼下に鉢形城が望まれる)まで伝令が走り、烽火を上げて鉢形城に連絡したのではないかという。
宮沢氏に前記の中田氏の説(吉野砦跡=物見山)を説明したところ、それは間違いで、物見山と吉野砦は別物であると語っておられたのが記憶に残っている。
ともあれ、吉野砦(吉野城)の所在地に関する3説は、いずれも決定打を欠くのが現状のようだ。
なお、吉野砦(吉野城)の城主については、松山城主・上田能登守朝直(暗礫斎)の家臣・木呂子丹波守と伝えられるが、真偽のほどは定かではない。
ものみやま 物見山(寄居町牟礼)
大里郡寄居町牟礼
第14回「四ツ山(四津山)・物見山・堂ノ入山・たかんど」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
小川町高見の四ツ山(四津山)(高見城址)から北西に延びる尾根の最後を飾る山。
かつて物見山山頂には190.1㍍3等三角点(点名は「牟礼」)が埋設されていたが、(株)NXワンビシアーカイブス関東第3センターの建設にともない、山の北半分と山頂が削り取られた。
現在、山頂がない状態ながら、山の南半分はかろうじて残されている。
四ツ山からの縦走路は、現在、物見山南山腹を通る踏跡に付け替えられており、牟礼の集落にくだることができる。
造成により、山頂の三角点は四ツ山へ尾根から北東に派生する支尾根上に移設され、標高は168.6㍍に変わった(点名「牟礼」はそのまま)。
移設された3等三角点のある地点に「愛宕山」なる私設の山名表示板があるが、地元名称かどうか確認できていない。
物見山山頂に祀られていた小祠は、山麓の熊野神社に遷座されたという。
「物見山」の名称は、鉢形城の物見櫓が山頂にあったことによる。
ものみやま 物見山(東松山市・鳩山町)
東松山市岩殿・比企郡鳩山町石坂
初出
2万5千分の1地形図「武蔵小川」」
東松山市岩殿と比企郡鳩山町石坂との境界にある134.9㍍2等三角点峰(点名「石坂」)。
山頂には展望台が建てられ、360度の眺望が楽しめる。
ツツジの名所でもある。
県道343号岩殿岩井線をはさみ、北側には板東三十三観音霊場第十番札所「巖殿山正法寺」(いわどのさんしょうぼうじ)がある(東松山市岩殿)。
正法寺は「岩殿観音」の俗称で親しまれているが、物見山・岩殿観音のある丘陵一帯を「岩殿山」という。
岩殿山は、「かつて四十八峰九十九谷といわれたほど起伏に富み、関東平野が一望できる景勝地として県名勝地物見山観音の勝として指定されている」(『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店、1980年)。
物見山には、坂上田村麻呂の東征にまつわる伝説が残されている。それによれば、「(坂上田村麻呂は東征のとき、)この山に登り、四囲を眺めたとことによる山名といわれています。また、このとき北方の雪解沢に潜む悪竜を退治したともいわれています」(東松山市ホームページより)。
東松山市ホームページによると、「(物見山)山頂に立てば、遠くは箱根、足利、大山、富士山、秩父、信越、上野、下野、常陸の諸山から東京湾まで望むことができるといわれています」という。
や
やまとみず 日本水(寄居町)
大里郡寄居町風布
第12回「釜伏峠・葉原峠・大平山・金ヶ嶽・金尾山」
2万5千分の1地形図「寄居」
釜伏峠の釜山神社から奥宮のある釜伏山(男釜)に登り、そこから岩尾根をくだった鞍部より左に断崖をへずるようにして進んだところにある。
古い地誌にも複数登場する昔からの名水である。
『武蔵国郡村誌」秩父郡風布村の条でも、「峯(引用者注:男釜)より北方一町を下り、岩の間より清水湧出し旱魃淫雨の候といえども、かつて増減せざるをもって、土人これを一盃水と呼ふ』と記述している。
『武蔵通志』でも、「(釜伏嶺の)頂上に釜山神社あり。日本武尊を祭る。その北に下る一町ばかりに一盃水あり。岩隙より湧出し」とある。
これらの記述から想像されるように、日本水はかつて「一盃水」(一杯水)と呼ばれていたことが分かるうえ、大岸壁の間から湧き出る様子が手にとるように分かる。
実際に「日本水」は、百畳敷岩と呼ばれる30㍍もの高さの岸壁の下部の岩の割れ目から水がこんこんと湧き出ている。
日本水は涸れなかったため、旱魃路の雨乞い行事の「もらい水」になったという。
つまり、「一般には、この水を汲み、若者たちがリレー式に村まで運び、畑にまいて降雨を祈った。そこで水をもらいに来るのは遠方の村々で、地元の村では、わざと遠方の城峰山方面等にもらいに行ったという」(飯野頼治『山村と峠道-山ぐに・秩父を巡る』(エンタプライズ、1990年)
飯野氏は続けて、次のように書いている。
「この日本水は、日本武尊が岸壁に剣を刺して、戦勝を祈願したところたちまち湧出し、あまりの冷たさから一杯しか飲めなかったところから『一杯水』とも言われている。また、不老長寿や子授けなどの願いごとにご利益のある霊水としても、古くから近在には知られていた。環境庁が選定した名水百選にも風布川源流『日本水』として選ばれた(飯野頼治、前掲書)。
このように昔から霊水として有名で、名水として有名な日本水だが、現在では、百畳敷岩が崩落する危険があるため、立ち入り禁止となっている。
やまのかみごえ 山ノ神越え(小川町・東秩父村)
比企郡小川町飯田・秩父郡東秩父村安戸
第1回「官ノ倉山とその周辺」
2万5千分の1地形図「安戸」
官ノ倉山西峰(石尊山)西肩から城山(腰越城址)へ続く尾根上にある峠。
東秩父村安戸の宿から小川町飯田の飯田ダム奥に越える峠。
昭文社山と高原地図23『奥武蔵・秩父』にも「山ノ神越」と表記されている。
ただし、地元・飯田では単に「山ノ神」と言っている人の方が多い。
山ノ神越えには、安政6年(1859)5月に比企郡飯田村で建てた山ノ神の小祠が祀られている。
ここも、かつて安戸から笠原や飯田、腰越への「花嫁の越えた峠」であった。
現在でも、毎年1月17日に山ノ神を信仰している飯田の人たちが登拝している。
石尊山西肩から城山(腰越城址)への尾根には、このように東秩父村安戸から小川町へ越える峠が、山ノ神越え(山ノ神)以外にも、「小瀬田越え」「桜山」などいくつも存在する。
小川町笠原から東秩父村安戸に出るためには、急峻な官ノ倉山を越えるよりも、いったん飯田や腰越に回り、山ノ神越え、小瀬田越え、桜山などの峠を越えた方がずっと楽だったという。
なお、山ノ神越え(山ノ神)は、小川町・東秩父村の町村界尾根上にあるため、東秩父カントリークラブの造成を免れ、現存している。
しかし、山ノ神越え(山ノ神)の先で尾根は町村界を外れ、腰越城址北の249.3㍍三角点峰まで完全に東秩父村に入ってしまうので、この間の小瀬田越え、桜山(いずれも東秩父村安戸)は東秩父カントリークラブ造成にともない消失してしまった。
山ノ神越えの安戸側登路も、東秩父カントリークラブの造成により消滅した。
今は、飯田側からの道が残るのみである。
よ
よつやま 四ツ山(四津山)(小川町)
比企郡小川町高見
第14回「四ツ山(四津山)・物見山・堂ノ入山・たかんど」
2万5千分の1地形図「三ヶ尻」
小川町の北部。寄居町との境界に近い大字高見に位置する四ツ山(四津山)。
『新編武蔵風土記稿』比企郡高見村の条は、「増田重富蹟」に続き、その場所について以下のように記している。
「坤(ひつじさる)の方にあり、そこを四ツ山と呼ぶ」
『武蔵国郡村誌』比企郡高見村の条は、「四ツ山 高さ三十六丈。周囲不詳。村の西方にあり、山脈西方今市に村に連なる。樹木鬱蒼。字深田谷より上る五町十五間」と記す。
『武蔵通志』も『郡村誌』の記事を一部踏襲。
「四(ヨツ)山 高さ三百六十尺。男衾村今市の南にして、比企郡八和田村高見に属す。四峯並立するをもって四山の称あり。高見字深田谷より上る五町余。頂に愛宕社あり。北は荒川を望み、景勝の地なり」と記す。
明治19年(1886)の「高見村地誌」はさらに詳しい。
「山嶽 四ツ山。所在 本村(注:高見村)西南字四ツ山。形状 その様、山を四個並立したりごとくなるをもって四ツ山の称を付せりという。村中の一大高山にして、山派左右に分かれて、南麓は全郡高谷村に境し、西は男衾郡今市村境なり、平地中より突立し、岩石峩々とし、高谷村の旗峠と相対す。高さ 三十六丈。周囲 十七町五十五間。登路 一条あり、本山の東北字深田谷より登る。屈曲険岨なり。その程は五町十五間松樹多し。景到 頂上は一平坦をなし、愛宕社祠あり。山中ツツジ多く、花時の風景最も愛すべし。四方の眺望実に眼を驚かせり。北方流水は荒川にして、布白を延かごとく地方眺望一等地と称せり。雑項 頂上愛宕社は毎年3月24日をもって祭る。地方人民群参す。当山昔時城跡なり。城主増田四郎重富という人住みせしと言い伝う。豊臣秀吉関東征伐の際に廃城の由を里伝す。その証誌なし」(小川町教育委員会所蔵八和田村行政文書336)
これらの地誌が述べるように、関越自動車道と市野川にはさまれた寄居町今市付近から遠望すると、台地状の山の上に四つの小さな突起が確認できる。
まさに「四峯並立」「四個並立」する山容である。
ここから「四ツ山」の名が生まれたということがよく分かる。
現在では「四津山」の表記が一般的だが、もともとは「四ツ山」と表記されていた。
四ツ山(四津山)の山頂には、大字高見の鎮守・四津山神社が祭られている。
『通志』や「高見村地誌」に記述されているとおり、もともと四ツ山山頂に祀られていたのは「愛宕神社」(愛宕社)であった。
愛宕神社は、もとは麓の明王寺の境内鎮守で、氏神として寺に祀られていた。
その後、現在の鎮座地である四ツ山山頂に遷座された。
当時の神社は、寺が奥ノ院として京都から遷座した愛宕様の本体を祀っていた。
それが現在四津山神社の社殿内に安置されている勝軍地蔵である。
勝軍地蔵は、高さ30センチほどの白馬に乗った見事なものである。
その後、明治40年(1907)の政府による神社統合により、村内の11社を四ツ山の愛宕神社に合祀。高見村の村社(鎮守)とした。
このとき、神社名を愛宕神社から、地名(四ツ山)にもとづき「四津山神社」に改称した。
本来は神社名が「四津山神社」で、神社のある山名は「四ツ山」であるが、「四津山」の表記が神社名、山名として定着した感がある。
しかし、本ブログでは、もともとの山名表記である四ツ山を尊重。「四ツ山」(四津山)と併記することにしたい。
四津山神社参道入口の石鳥居を抜けると、山頂までは162段の石段となる。
石段は下と上に分かれ、下の47段は比較的緩やかだが、上の115段はかなり急な石段である。
参道入口から約20分。
急な石段を登り切ると、芝生の山頂に比較的新しい四津山神社の社殿が鎮座する山頂一角につく。
現在の社殿は、1997年11月に建立された新社殿である。
山頂からは北側の展望が開け、眼下には荒川の向こうの深谷・熊谷の市街。さらに冬なら雪をまとった榛名、赤城、谷川、日光白根など北関東の山々が一望でき、時間を忘れるくらいである。
「高見村地誌」のいう「地方眺望一等地」の名がふさわしい山頂からの好展望である。
ところで、四津山には中世の山城・高見城が築かれていた。
『新編武蔵風土記稿』比企郡高見村の条は、「増田重富居蹟 坤(ひつじさる)の方にあり、其所を四ツ山と呼ぶ。ここは増田四郎重富といいし人の居蹟といい伝うるのみ。その事蹟詳ならず。されど男衾郡野原村文珠寺に重富の塚あり」と記す。
『武蔵国郡村誌』比企郡高見村も、ほぼ同じ内容で、「増田四郎重富居蹟 方十五間ばかり。村(高見村)の西方四ツ山の嶺上にあり、四囲土手の遺形猶存す。古昔増田四郎重富といいし人の居蹟と云い伝うるのみ。其の事蹟詳ならず。されど男衾郡野原文珠寺に重富の塚あり」と記している。
増田四郎重富といえば、熊谷市(旧大里郡江南町)野原の文珠寺を再建した人物であり、彼の塚が文珠寺にあるというのも頷ける。
『郡村誌』には、増田四郎重富は「長享元年(1487)二月三日卒せしといえり」とある。
中田正光氏は、築城者については明確には分からないとしつつも、高見城の位置づけとして、鉢形城と松山城の中間地点にあり、杉山城などとともに、当時の街道を押さていたとしている(中田正光『埼玉の古城址』有峰書店新社、1983年)。
遺構図と2万5千分の1地形図「三ヶ尻」を照合すると、現在の四津山神社付近が高見城の本郭、神社参道が大手口に当たっている。
広い山頂の神社北北西に堀切をはさんで二の郭。
さらに山頂一帯では一番標高の高い(200㍍圏)地点に三の郭が尾根に沿ってつくられ、三の郭北端の堀切は高さが5メートルを超えている。
最北端の堀切を抜けると、尾根は急なくだりとなり、小川町・寄居町の境界鞍部に落ち込む。
内田康男氏は「増田家文書」を解読し、文明10年(1478)、古河公方足利氏家臣の増田四郎重富は、深谷市上増田からこの地に移り、高見城を築いたとしている(小川町遺跡調査会『四津山』1997年)。
その2年前の文明8年(1476)、山内上杉氏家臣の長尾景春が鉢形城に立てこもって、主君に離反する事件(長尾景春の乱)が起きた。
これに対し、扇谷上杉氏は重臣の太田道灌を派遣し、文明12年(1480)、太田道灌の軍勢は一時、高見城に布陣したといわれる。
文明18年(1486)、扇谷上杉氏の当主・上杉定正が家臣の太田道灌を暗殺するという事件が起こった。
太田道灌の死後、太田氏は山内上杉氏に属するようになり、扇谷上杉氏は古河公方と結びつき、両上杉氏は激しく敵対するようになった。
古河公方方の扇谷上杉氏(上杉定正)は河越城に、そして山内上杉氏(上杉顕定)は鉢形城を拠点とし、各地で争いを起こした。
そして、長享2年(1488)11月3日から15日の間、両者が激突する高見原の合戦が行われた。
「増田家文書」によると、高見原合戦の時、高見城は古河公方方家臣(扇谷上杉側)の増田四郎重富が城主で、その翌年、高見城は山内上杉顕定に攻められ、落城。それとともに、増田四郎重富も自害したと伝えられている(『郡村誌』では、増田四郎重富の死亡年を長享元年(1486)としているが)(以上の記述は、小川町遺跡調査会『四津山』1997年にもとづく)。
ところで、小川町高見に鎮座する四津山神社の春祭りは、毎年4月24日に行われる(現在はそれに近い日曜。2004年は4月21日・日曜)。
この春祭りのことをお日待ちといい、神楽が奉納される。
四津山神社の氏子の区域は、大字高見1区と2区、大字能増の旧2区である。
祭りにあたっての役割は、総代(5名)・用(10名)が中心になり、祭事・神礼・神楽・炊事などを分担して行う。
祭りの前日は氏子の人たちが総出で、祭りの準備を行う。
神社の境内にたてる万灯の花づくりを集会所に集まって作る。
万灯に飾る花は、紅白の色紙でつくる。これは女の人たちの役割である。
男たちは、竹を鉈で小割りにして節を削り取り、花をつける枝に使うヒゴ作りを行う。
万灯には「風雨順時」「五穀豊穣」「交通安全」「○○氏子中」と四面に文字が書かれ、農耕を始めるにあたり豊作を祈願する意味が込められている。
さらに祭りに来る参詣者に振る舞われる紅白の三角餅を作る。
餅は、白二、紅二の四臼をたく。
これらの作業は祭りの前日に行われる。
祭りの当日になると、朝早く、幟旗をたてたり、若い人たちは、神楽の道具の前日に作った万灯、飯台に入った三角餅などの重いものをもって急な石段や斜面を登り、山頂の神社まで運びあげる。
午前10時頃になると、神楽殿から神楽の笛や太鼓の音があたりの山々に響きわたる。大里郡花園町永田の金鑚神社永田組(現在は深谷市金鑚神社永田組:深谷市無形文化財)の人たちが奉納する神楽。
この神楽は、児玉郡神川町の金鑚神社の名前に由来し、児玉郡から大里郡にかけての県北部に伝承されてきた。
当日奉納される神楽は、神々を題材にした一座形式で、禊(みそぎ)、岩戸開き(いわとびらき」の演技が午前中に奉納され、午後からは氷の川(ひのかわ)、湯探(ゆさぐり)、そして最後に種蒔(たねまき)などの演目が行われる。
最後の神楽である「種蒔」の最後に、天狐、アシライ、豊受大神たちが参詣者に紅白の三角餅を神楽殿から蒔く。
この餅を食べると、一年間無病息災でいられるとされ、とても縁起の良い餅である。
このとき、境内に立てられた万灯の花も氏子たちをはじめ多くの参詣者が競って大事に持ち帰る(以上は、小川町遺跡調査会『四津山』1997年にもとづく)。
2024年4月21日(日)に行われた四津山神社祭典では、午前10時から神楽殿で、金鑚神楽永田組(深谷市無形文化財)による神楽が奉納。
午後2時からの祭典後には三角餅を蒔いて見物客に差し上げるほか、中学生以下の子どものために、クイズに答えると景品やジュース・焼きそばなどがもらえる催しを準備した。
ら
らいでんやま 雷電山(ときがわ町日影・雲河原)
比企郡ときがわ町日影・雲河原
第6回「雷電山・御岳山・大峰とその周辺」
2万5千分の1地形図「武蔵小川・安戸」
ときがわ町日影(旧玉川村日影)と、ときがわ町雲河原(旧都幾川村雲河原)の境に位置する3等三角点峰(点名は「日影」)。
山名は、各地の雷電山・雷電神社と同様、雨乞いを祈願した雷神を祀ることを由来する。
一時期樹林の一部が伐採され、展望の良くなった時期もあったが、今は樹林に覆われた展望の得られない暗い雰囲気の山頂である。
山頂には、日影の信仰の厚い雷電様の木の祠が日影を向き、そして雲河原の信仰を集める金毘羅様の木の祠が、まるで競い合うかのように雲河原を向き、祀られている。
つまり、雷電山という山名は、日影の雷神様に由来するもので、日影側の呼称である。
雲河原では、雷電山の名称がメジャーになったが、今でも「金毘羅山」と呼ぶ人もいる。
なお、山頂には雷電様。金毘羅様の小社以外に、2つの石の祠が祀られている。
それでは、古い地誌を見てみよう。『新編武蔵風土記稿』比企郡日影村の条では、小字名として「雨乞尾根」の名が挙げられ、「雲瓦村の境にある山をいへり」と記されている。
『風土記稿』の比企郡雲瓦村の項に「雷電山 村の南の方、平村との境にあり」と書かれてが、これは日影との境にある雷電山を指しているとは思えない。
ときがわ町の瀬戸元下(せともとしも)には、山頂に瀬戸雷電神社を祀る雷電山があるが、こちらでもない。果たして、どこを指しているのだろうか。
次に『武蔵国郡村誌』はもっと具体的に雷電山・金毘羅山について記している。
『郡村誌』比企郡日影村の条では、「雷電山 五十七丈六尺。周囲本村限り、一里八町。村の西方にあり、嶺上より三分し西は雲河原村に属し、南は別所村に属し、北は上古寺村に属す。山脈上古寺村雲河原村に連る。樹木鬱蒼。村の東方字高谷より上る三十町。険岨」と詳しく記述されている。
『郡村誌』比企郡雲河原村の項を見ると、「金毘羅山 高さ及び周回不詳。村の東北にあり、嶺上より二分し、東北は日影村に属し、西南は本村に属す。村の東北字入口より上る三町。雑樹生す。大樹なし」と、金毘羅山が雷電山の雲河原側の呼称であったことを示している。
なお、『武蔵通志』も金毘羅山、雷電山を別々に記述し、前者は「平村雲河原の東北にあり」、後者は「高さ五百七十六尺。玉川村日影の西にあり」と、それぞれ短い説明にとどまっている。
ところで、1989年2月の玉川村(現ときがわ町)日影の小北(こぎた)集落での聞き取りで、雷電山における雨乞いの様子が分かってきたので、以下記すことにしたい。
小北の古老によると、昔、雷電山に雲がかかったときには、必ず雨が降ると、父親が口癖のように言っていたという。
実際に、田植え時前に雷電山に雲がかかると、大抵雨が降ったという。
小北の別の古老によると、村社である日影神社に奉納されている太鼓を叩きながら、雷電山に登拝し、日影神社の神官が山頂の雷電神社に祝詞をあげたという。
また、榛名山に水をもらいにいき、もらってきた水を日影神社にあげたあと、太鼓を叩きながら、雀川の三つの堰(上流から大堰・中堰・下堰)に少しずつ注いで降雨を祈ったとも。
中堰は小北の日影神社付近。下堰は日影公民館付近である。
現在(といっても、1987年当時だが)、日影では雷友会(らいゆうかい)という老人会の人々が正月の初日の出を見に、雷電山に登る程度であるという。
玉川村教育委員会編「玉川村植物誌」(玉川村、1995年)によると、「旧日影村には、雷電山から行風山にかけての山並みに、広い村持山と呼ぶ共有林がありました。享保5年(1720)の日影村の古文書の中に、田畑肥(こやし)所の草を刈って肥料にしていることが記されています。村持山の中に田畑肥所という採草地が広く存在していたのでしょう。現在、村持山であった所は皆森林になっていますが、中にかつて草地であったことを想像させる所も残っています」と記されている。
同じく「玉川村植物誌」によると、日影から雷電山を経て、旧雲河原村へ、さらに慈光寺へと通じる道」が記録されている。
現在、雀川砂防ダムから雷電山へ登る道が良く整備されている。
この道が、日影から慈光寺へ向かう古道であったことを示している。
らいでんやま 雷電山(小川町上古寺・腰越)
比企郡小川町上古寺・腰越
第9回「慈光寺と都幾山・金嶽・士峰山」
2万5千分の1地形図「安戸」
金嶽川とそれに沿って走る県道西平小川線の西側に、上古寺の雷電山から士峰山にいたる顕著な尾根がある。
しかも、この尾根筋は何と風早山(平萱の三角点)まで延々と延びている。
雷電山(280.1㍍4等三角点。点名は「向山」)に登るためには、小川町駅前から東秩父村方面に行くバスに乗り、「パトリアおがわ」バス停で下車。
小川町総合福祉センター(パトリオおがわ)から矢岸橋で槻川を渡り、眼前の腰越と下古寺境界尾根の末端に取り付けば良い。
もっとも、雷電山~士峰山~ショウジバ(赤木)に行くだけなら行程に余裕があるので、松岡醸造を経由して、下古寺の鎮守・天神天満宮をへて、今は入口が鉄柵で閉鎖されている下古寺の古寺鍾乳洞開口部を見てから、その先で尾根にとりつく小道を探しても構わない。
雷電山(上古寺池田)は既に上古寺の領域である。
山頂には山名から想像される雷電神社の痕跡は何もない。
しかし、もともと山頂には落雷を防ぐ目的のための雷電神社の小祠が祀られ、江戸末期には雨乞いも行われていたようである。
だが、明治の神社統合により、雷電神社は村社(鎮守)の氷川神社に合祀され、雷電山の小祠は取り払われた。
今は雷電山の名のみ残る展望のない寂しい山だが、ハイカーの間では雷電山よりも「古寺山」の名の方が一般的である。
山頂にも古寺山なる山名表示版があるようだ。
しかし、古寺山なる呼称が果たして雷電山の別称として地元で通用しているかどうかとなると、極めて疑わしい。
かつて雷電神社が祀られていたからといって、何の変哲もないヤブ山に果たして「古寺山」なる名をつけるだろうか。
おそらく「古寺山」はハイカーのつけた便宜的な仮称で、「古寺山」の私設山名表示板の写真がネットを通じて拡散した結果、「古寺山」の名が広がったのではないだろうか。
らいでんやま 雷電山(東松山市大谷)
東松山市大谷
初出
2万5千分の1地形図「東松山」
東松山市北部の大字大谷(おおや)にある標高97㍍ほどの小山。
山頂に大谷の鎮守である「大雷神社」の立派な社殿が建てられている。
『新編武蔵風土記稿』比企郡大谷村の条に、「雷電社 雷電山と号せる山の上にあり。村内の鎮守なり。村持」と記録されている由緒ある神社である。
「大雷神社の祭神は人神命で、水の神様である。大谷地区は水利が悪く、人雷命を祀って降雨祈願を行っていた。江戸時代、豊作の祭礼には江戸から力士を招いて奉納相撲が盛大に行われていたという」(現地の案内板による)。
雷電山(大雷神社)へのルートは2つある。
1つは、古くからの参道である。雷電山南側の県道福田鴻巣線を中内出バス停で下り、荒川の支流・角川を石の橋(神橋)で渡ると、一の鳥居と灯籠がある。
鳥居を抜けると、すぐに車道になり、左は川越カントリークラブである。
まもなく、クラブハウスへの広い車道にぶつかり(これが2番目のルートである)すぐに車道右側の小道の入口に「雷電山古墳」(大雷神社)の標柱、大雷神社の社号標と幟立てがたち、その奥に二の鳥居が見える。
これが参道である。
二の鳥居を抜けると、すぐに石段となり、石段を登り切ると、大雷神社の社殿が建つ雷電山の山頂につく。
2番目のルートは、雷電山東側の県道大谷材木町線の大岡小バス停で下り、大岡小学校の向かいにある川越カントリークラブのクラブハウスへの進入路に入る。
すぐに、入口に「雷電山古墳」の標識、大雷神社の社号標、幟立てのある先の参道が右に分かれる。
最初のルート(一の鳥居からのルート)が正規の参道だが、後者の方が距離が短いし、分かりやすい。
ともあれ、今や大雷神社(雷電山)は川越カントリークラブの敷地内(残存樹林)となっていて、自由に入ることはできるが、すぐそばからゴルファーの声が聞こえるなど、昔の深遠な雰囲気は失われている。
最後に、雷電山周辺の丘陵には、大雷神社のある雷電山古墳をはじめ、三千塚古墳群と呼ばれる古墳群があったが、川越カントリークラブ造成により、大半の古墳が破壊されてしまった。
り
りゅうごっぱな リュウゴッパナ(東秩父村)
秩父郡東秩父村安戸
第7回「笠山前衛の山々」
2万5千分の1地形図「安戸」
笠山から北に延びる尾根の1つである「ツルキリ」(ツルキリ山)~物見山の尾根。
このうち「ツルキリ」から東に少し進んだところにある493.8㍍3等三角点峰(点名は「竜ヶ鼻」)。東秩父村安戸の山である。
「帯沢」(東秩父村安戸)や「松ノ木平」(東秩父村安戸)から眺めると、山頂付近の岩場の形が竜の鼻に似ているところから竜ヶ鼻と呼ばれたが、呼称は「リュウガハナ」ではなく、「リュウゴッパナ」である。
「竜ヶ鼻」(リュウガハナ)が訛って「リュウゴッパナ」の呼び名が一般化したのかと思っていたが、住民は素朴に「リュウゴッパナ」と愛称していた。
竜の鼻に似た岩場の山から「リュウゴッパナ」の山名が生まれ、それに漢字の「竜ヶ鼻」を宛て字し、それが三角点の点名にも採用されたのではないだろうか。
リュゴッパナは、比企・外秩父の孤高な奇峰の雰囲気を醸し出す岩峰だったが、現在は林道が取り囲み、雰囲気を台無しにしているのが残念。
ところで、東秩父村御堂の萩平からは、ツルキリが邪魔になって、リュウゴッパナの岩峰を望むことができない。ただし、リュウゴッパナの呼び名は、萩平でも通用している。
また、リュウゴッパナには、岩松を採りに来た村人が山頂の岩場から転落して死亡したという話が残されている。
りょうとうあんぬま 両頭庵沼(滑川町)
比企郡滑川町中尾(加田地区)
第13回「大立山・二ノ宮山・高根山」
2万5千分の1地形図「武蔵小川」
比企郡滑川町東部を代表する山のひとつ大立山(112.7㍍4等三角点:点名「大立山」)。
その大立山東山麓にある滑川町大字中尾の加田(がだ)集落。
大立山頂の山ノ神を信仰している集落である。
加田集落から大立山に登る手前に大小2つの灌漑沼がある。
これが「両頭庵沼」(りょうとうあんぬま)である。
この沼には竜神(双頭の大蛇)が棲んでいるので、水が絶えたことがなかったという。
沼は二つからなるが、東側の大きな沼(下沼)の奥に気になる二つの碑がある。
右の碑は表面に「真龍軒信道居士 静龍軒妙家大姉 胎児」、裏面に「大正5年9月8日 小高常五郎 小高豊吉建立」とある。
そして、左の碑面には「心中妙真倦」(裏面には、大正4年5月15日 施主小高豊吉)とあるではないか。
この心中碑の由来を加田の集落で尋ねるうちに、両頭庵沼(用土庵沼)にまつわる以下のような悲話(伝説)を採集することができた。
昔この碑のある場所の奥に、若い僧が「用土庵」という名の庵を建てて住んでいた。
この僧と村の娘が恋仲になり、娘は僧の子を身ごもってしまった。
しかし、娘は慶徳寺の方丈と婚約していたので、僧と娘は将来をはかなんで沼に身を投げ、心中してしまった。
心中碑は、二人の悲恋を憐れんで、その霊をなぐさめるために昔、用土庵があったところに建てたという。
また、「両頭庵」の名称由来となっている次のような伝説もある。
昔、沼のほとりに坊さんが「用土庵」という庵を建てて、村人の信望を集めていた。
ある時、ひどい旱魃があり、村人は坊さんに降雨の祈願をお願いした。
坊さんは祈願を引き受けたが、「これから七日七夜の間、絶対にお堂に近寄ってはならない」といった。
ところが、五日目の晩に五兵衛さんという村人がしびれをきらしてお堂の中を覗いてみると、頭が二つある大蛇がとぐろを巻いているではないか。
覗かれたことを知った大蛇は、怒って庵を壊して外に飛び立ってしまった。
それから三日三晩降雨が続いたため、村人は用土庵を両頭庵と名付けるようになった。
心中悲話や竜神伝説を秘めた両頭庵沼であったが、大立山を含むゴルフ場(おおむらさきゴルフ倶楽部)の造成にともない、ゴルフ場の調整池(灌漑池を兼用)に造り変えられてしまった。
わ
わしまるさん 鷲丸山(寄居町)
大里郡寄居町富田(とみだ)
第3回「金勝山とその周辺」
2万5千分の1地形図「寄居」
2万5千分の1地形図「寄居」の右下をみると、国道254号と東武東上線にはさまれた巨大な工場用地がある。
「本田技研工業(株)埼玉製作所 完成車工場」である。
ここが、2008年までこの地に存在していた「鷲丸山」(わしまるさん)の跡地である。
鷲丸山は、金勝山から北に続く尾根の最北端に存在していた山。
標高は216㍍(以前の寄居町地図による)で、『新編武蔵風土記稿』男衾郡富田村や『武蔵通志』にも記載のある浅間信仰の山であった。
小川町勝呂から寄居町富田まで延びる金勝山丘陵は、六反田の沼と炭窯の沼(いずれも水田用の灌漑沼)を結ぶ道を境に北部と南部に分かれる。
南部はもちろん前金勝・裏金勝・西金勝などの金勝山一帯(小川町)。
それに対し、規模や標高において南部に劣るとはいえ、それでも95㌶(東京ドーム20個分以上)規模の丘陵が北部(寄居町)で、北部の頂点が鷲丸山であった。
鷲丸山は、早くも江戸期の『武蔵風土記稿』男衾郡富田村の条に、「鷲丸山 山上に富士浅間の小祠あり」と記録されている。
明治期の『武蔵通志』は以下のように詳細に記している。
「鷲丸山 高さ二百九十尺。男衾郡富田村の南にあり、一峰突兀として聳へ、中腹に小御嶽社あり。社左に烏帽子岩右に亀岩あり。字西小林より上八町四十間。路に釈迦岩あり、頂に浅間神社を安ず。途上富嶽を望むを以てなり」と、山頂の浅間神社や中腹の小御嶽神社、さらに山頂や山中にある奇岩や浅間信仰の由来などが、細かく記録されている。
ここからも分かるように、鷲丸山はその特異な山容や山中にみられる奇岩などにより、古くから地元・寄居町富田の人々により神聖視され、それに浅間信仰が加わり、長くにわたり、親しまれた山であった。
山麓の寄居町富田や北側の金勝山から眺める鷲丸山は、周囲の丘陵のなかで一際高く聳え、さらに山頂部の岩場を突き上げた独特な山容で、一度見たら忘れることのできないインパクトをもっていた。
もし金勝山から鷲丸山を経て、天神山から男衾駅に至るハイキングコースが整備されたならば、穏やかな金勝山と岩場やヤセ尾根など変化に富んだ鷲丸山とのコントラストが楽しめるコースとして、多くのハイカーを迎えたかもしれない。
それこそ先祖代々守ってきた信仰の山を、本田技研工業(株)埼玉製作所寄居工場(2013年7月稼働。2022年1月に閉鎖された狭山完成車工場の分を統合し、埼玉製作所完成車工場として、ホンダの四輪車制作の全国の拠点化)建設のためにいとも簡単に破壊してしまう行為には言葉がない。
ホンダ誘致の計画は工場建設が始まった2007年秋より前から本格化していた。
鷲丸山の破壊と工場用地の整備、工場の建設等を担当した清水建設は、1991年年3月に既に環境影響評価準備書を埼玉県に提出している(「寄居町富田地区工業用地造成事業に係る環境影響評価準備書」清水建設、1991年3月)。
というのは、環境アセス前の事前協議やそれ以前の埼玉県や寄居町による誘致ははるか前から行われていたことが分かる。
準備書の記述を要約すると、埼玉県は県北地域において先端技術を導入して産業の発展を図ることをめざした「テクノグリーン構想」を策定。
これを受け、寄居町は第3次寄居町振興計画基本構想中で、優良企業を誘致し、雇用の場の確保と産業の活性化により、21世紀には5万人都市になることをめざした。
寄居町はさらに1987年に「グリーンバレー構想」を県の協力を得て策定。
その具体化の一環として、清水建設が工業用地の開発計画を町に提案。
寄居町は清水建設による提案を検討し、様々な観点から協議を行ったうえ、地元住民(富田)の強い希望と積極的な賛同が得られ、「グリーンバレー構想」に合致するとの結論が出され、清水建設の工業団地造成計画が寄居町により採用されることになった。
私が鷲丸山を最初に訪ね、おそらく同山を最初に紹介した記事(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』241号、1988年3月所収の山行報告「金勝山・鷲丸山」、『新ハイキング』1988年4月号所収の「金勝山から鷲丸山」)を発表した1988年3~4月当時に、既に開発に向けての動きが始まっていた。
そう思うと、やり切れない心境である。
それでは、在りし日の金勝山か鷲丸山へのコースを1988年3~4月当時の記事を要約しながら、まとめてみよう。
小川げんきプラザのある西金勝横の広場から北によく整備された道をくだる。
国道254号線へ下る車道と分かれ、小川バイパス金勝山トンネルの上を通り、金勝山と鷲丸山との鞍部である六反田の沼と炭窯の沼を結ぶ道に出る。
ここまでは明瞭な道だったが、鷲丸山に向け登り始めると、すぐに踏跡が不明瞭になる。
それでも高みをめざして急登すると、鷲丸山の南肩。北には鷲丸山の山頂が、ひときわ高く聳え、登高欲をそそる。
狭い山頂の北側は一気に切れ落ちた崖で、この方向だけが立ち木が消えて眺望がきく。
前に低くうずくまる上郷(大字富田)の天神山の向こうに熊谷の市街が広がり、はるか彼方には榛名、赤城、日光連山から筑波山までの大パノラマが展開する。
鷲丸山の山頂中央には北に面して「鷲丸山浅間神社 谷津郷中」と彫られた高さ約70センチの石碑(幅は最も広いところで約50センチ、厚さは7センチ)が立っている。
山麓の谷津や塚越(いずれも寄居町大字富田)から仰ぐ鷲丸山は、台地状に盛り上がった基部の右端にピラミダルな岩峰を突き上げた特異な山容で、いかにも神宿る山のイメージにふさわしい。
そう考えると、鷲丸の「マル」は聖なる山を形容する言葉であり、まるでワシが翼を広げたような特異な山容とあいまって、山頂直下の岩壁こそ神が天から降りてくる岩座(いわくら)に見立てられ、ワシマル山の名が生まれたのではなかろうか。
そして、「マル」が朝鮮語にルーツをもっているとするなら、寄居町富田の鷲丸山の名は、寄居町立原の車山と同様、古代この男衾の地に移住してきた渡来系氏族によって命名された可能性も出てくる。
浅間信仰の盛んな時代、例祭の日になると山頂の直下には露天も出て大いに賑わったという。
谷津の集落から沢沿いに山頂の東側鞍部に登る道が鷲丸山の「本通り」とされ、小川町木呂子との境付近から登る「裏通り」と合わせ、多数の登拝者を迎えた。
鷲丸山の周辺には炭窯の沼や六反田の沼など大小いくつもの灌漑用の沼が散在するが、これらの沼を総称して「富士五湖」と呼んでいたという。
いずれも、1988年から遡って40年以上前(現在=2024年から遡ると、80年以上前)の話だ。
山頂をあとに、東に岩混じりの急降下。
途中に「薬師嶽薬王神社」の石碑もみられ、神域の雰囲気が伝わってくるようだ。
鞍部から戻り気味に山頂直下の岸壁の基部を巻く。この付近で東側の谷から登ってくる「本通り」が合流するはずだが、廃道になって久しいせいか、路形すら見当たらない。
山頂から北に延びる尾根に出ると、やせ尾根の急下降になり、200㍍そこそこの山とはとても思えない高度感だ。
まもなく自然地形を利用した小高い富士塚の上に、高さ約1.3㍍の細長い石碑が立つ。表面には「朝日浅間大神」とあり、裏面に「明治17年3月 富田村吉田恵輔」の銘があり、かつてこの地にあった社を再建し、養蚕や安産の神様として祀った経緯が判読できる。
この「朝日浅間」が『武蔵通志』のいう「小御嶽社」に当たるものかどうかについては、残念ながら確認するにいたっていない。
再び急激にくだり、最後の登りを終えたところが167㍍独標で、真新しいコンクリート製の山ノ神の小社が祀られている。
祠の前からくだる明瞭な道を急降下5分で、沢沿いの「本通り」と合流。
谷津の集落に出る。
ところで、奥武蔵研会員会員の町田尚夫氏は、ホンダ技研工業が鷲丸山一帯の約95㌶もの用地を買収し、工場を建設することが明らかになって以降、2006年10月から2007年10月までの1年間に5回も鷲丸山を訪れ、かつての浅間信仰の山の終焉と山中の石碑群のその後を記録した(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』409号、2016年5月所収の「懐想の鷲丸山」)。
同記事によると、2007年10月には、鷲丸山山頂にあった「鷲丸山浅間大神」の石碑が抜き去られ、跡にポッカリと穴があいている状況を撮影している。
そして、山中の石碑群の最初の移設地を訪ねている。
さらに、2016年1月に最終的に石碑群を遷座した地(鷲丸山山域跡の本田技研(株)埼玉製作所 完成車工場の北の一角)を確認して、入口に立つ黒御影の碑に刻まれた遷座の記を忠実に書き写している。下に引用しておこう。
「遷座の記 武蔵の國男衾郡富田の地に太古より聳え立つ鷲丸山は山頂に浅間社の祠を建立し江戸時代より現在に至って来たがホンダ技研工場寄居工場の立地計画により山中に散在した鷲丸山浅間社を始め数祠と供養塔を平成21年4月当所に遷座した
谷津地区の海抜212米の霊山は其の姿を消し再び見る事はないが誠に痛惜の念を禁じ得ない
祭神の氏子達の末永き御加護を祈願する
平成21年7月吉日
小被神社宮司 持田倫武撰文」
江戸時代より浅間信仰の山として親しまれてきた「オラが山」を、雇用や税収のためとはいえ、現在の住民だけの意思でデベロッパーに売り渡し、後生の人々が再び見ることができない状況を生む権利が果たして私たちにあるのだろうか。
そんなこと考えさせる「前座の記」である。

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