「比企・外秩父の山徹底研究」第1回「官ノ倉山とその周辺」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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(略図)官ノ倉丘陵全体図

官ノ倉山(かんのくらやま) 

概説

 東武東上線東武竹沢駅から三光神社に向かう道すがら、左をみると、見事な双耳峰が視界に入る。 右のずんぐりとした山が2万5千分の1地形図「安戸」の344㍍独標(官ノ倉山西峰)。左の鋭峰が「石尊山」(官ノ倉山東峰)である。

 こう書くと、多くの方々は異論を唱えるかも知れない。

 なぜなら、前記2万5千分の1地形図「安戸」、そして5万分の1地形図「寄居」のいずれも334㍍独標の方に「官ノ倉山」の名称を表記しているからである。

 山頂から北に少し降りたところに、小川町笠原の信仰の厚い阿夫利神社(官ノ倉の石尊様)を祀ることから、東峰は笠原では石尊山と呼ばれてきた。

 ここから官ノ倉山と石尊山(一時期「展望台」と便宜的に表記されたことも)をあたかも別々の山とする通説が一般的になり、現在にいたっている。

 実際、現在では東峰山頂に「石尊山」、西峰山頂に「官ノ倉山」の公式の山名表示柱が建てられている。

 しかし、『小川町土地宝典』(1975年)によると、「官ノ倉」は西峰・東峰双方の北側斜面の山字名である。

 しかも、先に書いたように東峰(石尊山)の阿夫利神社を信仰している笠原の住民も、親しみを込めて阿夫利神社を「官ノ倉の石尊様」と呼んでいるのである。

 つまり、「官ノ倉山」は344㍍独標(西峰)と石尊山(東峰)の総称名である。

 地図に山名を記載する場合は、山と高原地図『奥武蔵・秩父』(昭文社、2024年度版:奥武蔵研究会調査・執筆)のように、双耳峰の上に大きく官ノ倉山の名称を記すべきである。

 ところで、1988~91年頃、官ノ倉山の小川町側に「プリムローズカントリークラブ」(116.9㌶)、東秩父村側に「東秩父カントリークラブ」(114.6㌶)という2つのゴルフ場建設計画が起きた。

 「プリムローズカントリークラブ」は、当時ゴルフ場錬金術で莫大な政治資金を得ていた山口敏夫元衆院議員の実弟が社長を務める会社が計画。

 範囲は小川町の木部・原川・笠原・飯田・増井の5つの大字にまたがり、官ノ倉山東峰(石尊山)の北から東、さらに南側の山腹が計画地。

 東峰山頂は計画地に入っていないが、眼下に見る景色は一変。

 しかも、東峰から北向不動にいたるハイキングコースの一部がゴルフ場に入る恐れがあった。

 「東秩父カントリークラブ」は、埼玉県庁ゴルフ場汚職事件の舞台になった「玉川スプリングスカントリー倶楽部」(現・玉川カントリークラブ)の贈賄側企業「緑営開発」の関連会社が計画。

 ハイキングコースへの影響は「プリムローズ」以上で、官ノ倉山の西峰と東峰から官ノ倉峠をへて官ノ倉西尾根の366㍍独標付近までがすっぽりと計画地に入る。

 さらに、東峰(石尊山)から南に延び、小瀬田越え付近から東に方向を変える比企郡小川町・秩父郡東秩父村の郡界尾根の東秩父村側がすべて計画地に入る。

 計画地の東端は小瀬田池の手前。

 官ノ倉峠から安戸の在家1区にくだるハイキングコースが完全にゴルフ場の中に含まれてしまう。

 このように、一時期2つのゴルフ場によるサンドイッチ状態になりかねない危機にあった官ノ倉山だが、プリムローズカントリークラブは埼玉県の開発許可が下り、造成が始まったものの、1995年11月に会社が経営破綻し、工事が中断した。この時点での進捗率は38.7%だった。

 東秩父カントリークラブは、環境影響評価準備書の公告・縦覧に入ったのちに計画が中止になった(詳しくは、高橋秀行「あの官ノ倉山がゴルフ場に」奥武蔵研究会会報『奥武蔵』253号、1990年5月、高橋秀行「奥武蔵のハイキングコースをむしばむゴルフ場開発の現状」『山と渓谷』1991年1月号を参照)。

山名考

 官ノ倉山の東峰(石尊山)山頂は、比企郡小川町の笠原にあり、山頂の西肩が笠原と秩父郡安戸の境界である。

 西峰(344㍍独標)山頂は比企郡木部と秩父郡安戸の境界である。

 山名考に入る前に、古い地誌をひもといてみたい。

 まず、『武蔵国郡村誌』(明治8年調査)では、男衾郡木部村の条で、「神の倉 高さ百九十丈、周回三十五町。村の南隅にあり(後略)」と記す。

 『武蔵通志』(明治24~25年頃)は山名を「神倉山(かむのくら)」とし、次のように記している。「高さ千九百尺。木部の南にあり、南は秩父郡安戸村、東は比企郡大河村飯田またがる。飯田にて三倉山という」としている。

 両地誌で「神の倉」「神倉山」と呼ばれている山は、木部の南にあるという点から、官ノ倉山西峰のみを指していると思われるかも知れない。

 しかし、「東は比企郡大河村飯田にまたがる」との記述を読むと、西峰だけでなく、東峰を含む総称とも考えることもできる。

 しかも、『通志』の最後に「飯田にて三倉山という」としている点に注意したい。

 それでは、「三倉山」の記事がないかと確認すると、『武蔵国郡村誌』比企郡飯田村の条に「三の倉山 高さ六十五丈六、周回本村限り九十間。村の西北境にあり、比企男衾秩父の三郡にまたがり、嶺上より四分し、西は安戸村、西北は木部村、東北は笠原村、東南は本村に属す」との記述がある。

 さらに詳しい記述は明治20年(1887)の「飯田村地誌控」である(この文献は、小川町在住の郷土史家・内田康男氏のご教示による)。

 それによると、「かんのくら山 景致 東は大里郡熊谷宿及び上野下野諸山を遠見す。西は秩父郡山嶺遙見 雑項 比企男衾秩父三郡にまたがり(中略)往昔は三ノ倉山という。三郡境界にして称呼すと言い伝えるなり。今は四隣にてかんの倉と称す」との重要な記述が見られる(小川町教育委員会所蔵旧大河村行政文書2)。

 先にみたように、官ノ倉山の西峰山頂は木部と安戸の境界であり、東嶺(石尊山)西肩は笠原と安戸の境界である。

 その点から、官ノ倉山の西峰・東峰双方の山頂に接しない飯田村の条に「三の倉山」「三倉山」などとして取り上げられているのにはやや違和感がある。

 逆にいえば、飯田で「三の倉山」「三倉山」と呼称されてきた事実はきわめて重要であり、飯田から正面に大きく仰がれるのは、東峰(石尊山)の方である。

 しかし、「三の倉山」の名称由来が比企男衾秩父の三郡の境界であることに由来するなら、山頂西肩が比企郡(笠原)と秩父郡(安戸)の境界でしかない東峰(石尊山)も、そして山頂が男衾郡(木部)と秩父郡(安戸)の境界でしかない西峰も、単独では三ノ倉山(三の倉山・三倉山)と呼ぶにはふさわしくない。

 そうなると、三ノ倉山(三郡の境界にある神聖な岩座のある山の意)は東峰・西峰の双方をあわせた総称である官ノ倉山(神ノ倉山)の飯田における昔の呼称であり、今では飯田を含む四隣の村では「神ノ倉山」ないし「官ノ倉山」と称するようになったと解釈すべきであろう。

 総称である「官ノ倉山」こそ、かつては比企・男衾・秩父の三郡の境界の山(=三ノ倉山)といえるのである。

 すなわち、飯田の古い呼称である「三ノ倉山」の名称由来を考えるところから、官ノ倉山=東峰・西峰の総称であるという説を改めて裏づけることができる。

 次に東峰・西峰をあわせた呼称である官ノ倉山の山名考に移りたい。

通説

 官ノ倉山の西峰山頂直下には東秩父村安戸在家一区・二区の信仰を集める浅間神社の小祠(上浅間)が祀られ、東峰山頂北側には小川町笠原の信仰を集める「官ノ倉の石尊様」の小祠が祀られている。

 古い文献では越生町の「大高取山」(神ノ倉山)と同じく、官ノ倉山も「神ノ倉山」と記している。

 例えば、『武蔵通志』(明治24~25年頃)では、「神倉(カムノクラ)山」、『武蔵国郡村誌』(明治8年調査)の男衾郡木部(きべ)村の条には「神の倉」とある。

 『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1980年)は、「神倉山」「神の倉」などの古地名をもとに、「神の祀ってある岩穴(神の蔵)が石尊山にあることから山名になる」としている。

 これが官ノ倉山の地名由来の通説である。

 たしかに、岩場の上にある「官ノ倉の石尊様」だけでなく、西峰(344㍍独標)の「上浅間」も、岩稜を登った上にある。

 こうして官ノ倉山の山名由来は、古い名称を手がかりにした通説で決まりの様相を呈している。

 しかし、異論(官ノ倉=神ノ鞍説、代官所の倉から官ノ倉の名が生まれたとする説)と有力な対案である「金属地名説」がある。

 それぞれを説明しよう、

官ノ倉=神ノ鞍説

 官ノ倉の「倉」を「鞍」に読み換えた説である。

 北アルプスの「乗鞍岳」は馬の鞍形の山容に由来した山名である。

 この説を官ノ倉山にあてはめてみよう。

 竹沢付近から眺める双耳峰の山容を美しい馬の鞍になぞらえ、神聖視するにいたったと考えられないだろうか。

 ただし、難点は官ノ倉山に関係の深い笠原や安戸(在家)からは、前者では東峰が、後者では西峰が大きく聳えて双耳峰に見えないという点である。

官ノ倉=代官所の倉から官ノ倉の名が生まれたとする説

 かつて笠原(勝呂という説もあり)は江戸幕府の天領で、代官所が置かれており、年貢を納めた代官所の倉から官ノ倉山の名が生まれたとする説。勝呂の故・宮沢貞夫氏が提唱。

金属地名説

 官ノ倉をめぐる信仰の跡を古代・中世にまでさかのぼっていくと、そこには渡来系の人々と山岳修験(大峰・吉野系統)の影がちらついている。

 両者は時代こそ異なるものの、ともに鉱山師として鉱物資源を求めて上州や秩父に入り込んでいる。

 そういえば、官ノ倉の周辺には金属関連地名が集中している。

 笠原の小字に「釜ノ入」があるが、これは元・小川町文化財保護委員の塚越正佳氏によるとタタラという製鉄所を意味した言葉であるという。

 官ノ倉山に上る途中の木部に三光神社がある。

 三光神社は明治の神仏分離以前は妙見宮と呼ばれていた。

 その妙見宮は聖徳太子の頃、朝鮮から渡来した人々の間で信仰されていた星の神である。

 それ以降、とくに採鉱・製鉄技術をもった修験者の間で流行し、彼らの東方への移動とともに伝播した。

 三光神社を過ぎ、天王沼手前の分岐で右に行くと、沢(不動入)の奥に木部の人々の信仰を集める北向不動の堂宇がある。

 この仏を信仰すると籤(くじ)運が良くなるという結構な仏様だが、北向不動手前の山中に「カナッポリ」と呼ばれる古代の採鉱跡らしき穴がある。

 北向不動からさらに沢をつめると、官ノ倉丘陵上の「烏森山」(からすもりやま)に達する。

 烏森山の別名を虚空蔵山と呼ぶように、以前、山頂には虚空蔵様が祀られていたという。

 虚空蔵様も「福の神」として、採鉱業者の信仰を集めた仏である。

 また、官ノ倉峠に登る途中の天王久保では、かつてマンガンが採掘されていた。

 木部の隣の勝呂(すぐろ)は、その名前自体が帰化人中の有力者がつけた姓である「スグリ」に由来している。

 勝呂の鎮守は白鳥神社だが、祭神である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にまつわる白鳥伝説が、古代産鉄族関係の伝承である可能性が濃いことは谷有二氏が指摘するところである(谷有二『日本山岳伝承の謎』未来社、1983年)。

 勝呂の地で金属地名を探していくと、まだまだ興味深い伝承がある。

 十一面観音も金堀師により祀られることの多い仏だが、勝呂では室町時代に十一面観音が掘り出されたとの伝承が残っている。

 しかも、勝呂の奥に高々と聳える官ノ倉西尾根上の「愛宕山」は火伏の神である。

 勝呂の隣である木呂子(きろこ)にも金属関連地名が集中している。

 集落名(大字名)である木呂子は、タタラ製鉄において、フイゴから溶鉱炉に風を送る送風管を指す「木呂」を連想させる。

 木呂子は昔「吉野の里」とも呼ばれたが、これは吉野修験(=鉱山師・鍛冶集団)の足跡を物語るものではなかろうか。

 そこで注目できるのが、鎮守である吉野神社は伝承によると、山伏であった武藤家の氏神であったという点である。

 かつて山伏の修験場であったときがわ町西平の多武ノ峰(とうのみね)は大和の多武峰と宗教的なつながりをもっている。

 この多武ノ峰神社の神官も武藤姓であるというのは偶然の一致なのか。

 以上、官ノ倉山山麓の金属関連地名を笠原・木部・勝呂・木呂子の各集落について執拗に追いかけてきた。

 では、肝心の官ノ倉山はどうだろうか。

 塚越正佳氏は、官ノ倉の地名由来を次のように説明されている。

  すなわち、官ノ倉はもともと「カンナノクラ」であったという。

  「カンナ」は「鉄穴」とも書くが、鉄(山砂鉄)を採集したところを指している。

  次の「クラ」は朝鮮語で谷を意味する「KOL」にルーツをもち、日本に入った渡来人は採鉱・製鉄に従事した谷のことを「クラ」と称した。

  そして、官ノ倉は「古代より鉄穴のあった製鉄場を表現した言葉ではないか」とされている(塚越正佳「埼玉県小川地方の地名・信仰をめぐって」奥武蔵研究会会報『奥武蔵』230号、1986年7月)。

 塚越氏はこの説の根拠を官ノ倉山山麓に今でも残っている「鉄穴」(木部の「カナッポリ」もその1つ)に求めている。

 だが、官ノ倉山麓の鉄穴はいずれも小規模なもので、それが金属地名の集中を説明する根拠となるかどうか疑問がある。

 古い地誌や記録類に産鉄関係の記事がないにのも気にかかる。

 この疑問を解く鍵を探しているうちに、谷有二氏が次のように書かれているのを思い出した。

 「大河原(おおがわら)は青河原(あおかわら)で、砂鉄が河砂に青く堆積するさまをいい、現在の埼玉県東秩父村大河原も、砂鉄堆積のさまから、昔は青河原と呼ばれていたことは、まぎれもない事実である」(谷有二『悪魔のため息』未来社、1986年)

 官ノ倉丘陵には東秩父村と小川町を結ぶ峠道が数多くあり、今でこそ大半が廃道になっているが、以前は頻繁な往来があった。

 しかも小川町側の竹沢地区は、鉢形城と松山城を結ぶ交通の要衝に位置していたことに注目しなければならない。

 以上をまとめると、名栗川中流のタタラ製鉄が下流の阿須(あず)砂鉄帯に負っているように、竹沢地区でも、阿須砂鉄同様、槻川の砂鉄(川砂鉄)に目をつけた北条氏(後北条氏)の支配のもとで、製鉄技術をもつ修験者によってタタラ製鉄が行われていたのではなかろうか。

 もちろん、それ以前に渡来系の人々が住みつき、採鉱・製鉄の素地があったのかも知れない。

 しかし、北条氏の滅亡とともに鍛冶集団も四散してしまい(松山城主上田氏の重臣であった木呂子氏も同時にこの地を去り、北海道や群馬県館林市などに散在しているという)、現在その記録もほとんど残されていないといえないだろうか。

 官ノ倉山(=カンナノクラヤマ)は、槻川の川砂鉄や山麓の鉄穴から採取される山砂鉄を使って北条氏のもとで製鉄業に従事していた渡来人・修験者の末裔にとって象徴的な山であったと考えることも可能ではなかろうか。

 金属地名説を詳しく述べてきたが、①~④のいずれも今のところ決定打を欠くといわざるを得ない。  

(略図)官ノ倉山山頂付近拡大図

官ノ倉山の信仰をめぐって

官ノ倉山東峰(石尊山)の「笠原の阿夫利神社」(官ノ倉の石尊様)

 相州大山は武運長久の神様として広く庶民の信仰を集めていた。

 とくに江戸時代に入ると、大山詣でが盛んに行われるようになり、各地に阿夫利神社(石尊大権現)を勧請した小祠が祀られた。

 そして、どうしても相州大山に行けない場合は、近くにある石尊様にお参りすれば、大山に登ったことになった。

 小川町笠原の阿夫利神社は、官ノ倉東峰(石尊山)から少しくだった広場に安置されている。

 ここの石尊様は阿夫利神社の名前を残しているように、今でも相州大山との信仰上のつながりが意識されている。

 例祭は旧暦の6月28日だったが、現在では7月か8月下旬の日曜日に行われる。

 当日は一番暑いさかりなので、子どもをはじめ元気の良い人たちだけが阿夫利神社まで登り、笠原地区内の神官が祝詞(のりと)を奏上し、その後、山頂にまで行けない老人たちなどを交えて中腹の北向不動で直会(なおらい)が行われ、酒がふるまわれた。

 石尊様の横には忠七めしで有名な小川町の二葉が寄進した献燈台が建てられているが、毎年例祭の際には、二葉から差し入れがあるという。

 祭りの終わった翌日から笠原地区では2人1組で灯篭に灯をともしに行く。現在、笠原は60戸ほどなので、約1か月で一回りするという。

 以前は官ノ倉の石尊様まで登り、東峰山頂の灯は麓からも見えるほどだった。

 だが、今では山頂まで行かず、ロウソクを北向不動に供えに行くのみである。

 ついでに、笠原における雨乞いに触れておこう。

 笠原の北向不動の下には不動滝と呼ばれる小滝がかかっている。

 この滝の奥にカワズ穴(カラスの穴という説もある)という大きな穴があったという。

 このカワズの穴は寄居町の象ヶ鼻とつながっているというが、それはさておき、日照り続きのとき、竹筒を持って群馬県の榛名山、あるいは熊谷の雷電神社に行き、水を借りてくる。この水をカワズ穴に注いで雨乞いをしたという。

官ノ倉山西峰(344㍍独標)の浅間神社

 官ノ倉西峰の山頂直下には、東秩父村安戸在家一区・二区の信仰を集める浅間神社が祀られている。

 山頂の浅間神社を「上浅間」といい、官の倉峠からハイキングコースを安戸の在家一区にずっとくだったところにある小御岳石尊大権現の石碑(下浅間)と合わせて例祭を行っている。

 例祭は4月第一日曜。当日は山麓の在家一区・二区の約70戸の人家から各戸1人ずつ遠拝するという。

天王沼の雨乞い(小川町木部)

 東武東上線東武竹沢駅から官ノ倉山に向かい、三光神社を過ぎ、人工の灌漑沼である「天王沼」にさしかかる。

 天王沼が昔、木部で雨乞いが行われた場所であった。

 晴天続きで沼の水が枯れてくると、木部では群馬県の榛名山に水をもらいに行って、その水を天王沼に注いで雨乞いを行った(神山弘『山と伝説の旅』金曜堂、1985年による)。 

(略図)官ノ倉山付近略図

  

官ノ倉峠(かんのくらとうげ)

 小川町の木部から東秩父安戸の在家に越える峠。

 もともと無名の峠で、「官ノ倉峠」名は、官ノ倉山に因んで登山者が便宜的につけた名称。

 ただし、東秩父村安戸と小川町木部を結ぶ峠として、盛んに往来があった。とくに木部には東秩父村出身のお嫁さんが多かった。

 花嫁さんは婚礼の前夜、花嫁衣装をたくしあげ、歩いて峠を越えたという。現に、1986年当時、東秩父村の大内沢や坂本から嫁いで来た人もおられた。

城山(しろやま)

 官ノ倉山東峰(石尊山)から南下する郡界(比企郡と秩父郡との郡界)尾根が槻側に落ち込む手前にある216㍍峰(小川町役場発行1万分の1地形図による)。

 腰越城址がある。

 小川町駅から白石車庫行きバスに乗り、約10分。

 木落しの停留場にさしかかるあたりで前方右手に見える台地状の山。

 城山の南方尾根では昭和30年頃まで石灰岩の採掘が行われていた。

 当時は採掘した石灰岩をケーブルで東秩父村の御堂まで運んでいたが、現在では荒々しい採掘跡の岩峰に当時の名残を残すのみ。

 腰越城址は、採石により破壊された南側部分を除けば、ほぼ戦国時代の遺構をそのままの形で残している。

 詳細な遺構図については、小川町教育委員会作成の実測図、中田正光著『秩父路の古城址』有峰書店新社、1982年)にも掲載されているので、参照していただきたい。

 城址には木落しのバス停から短時間で達せられるが、官ノ倉山東峰(石尊山)から山ノ神、小瀬田越え、桜山を経てたどる静かな郡界尾根をくだるコースを勧めたい。

 北から尾根をたどると、2つの堀切を抜け、急登の末、一の郭(くるわ)のある山頂に達する。

 植林の中で展望は得られないが、往時は南方が開けていたことが想像される。山頂からは二の郭(小祠が祀られている)を経て三の郭との間の堀切から木落しにくだる。

 この下山路が、かつての大手道であったようだ。

 腰越城は、小川町青山の仙元山南方にある青山城(割谷城)と同様に、小田原の北条氏が松山城を攻略し、手に入れたあと、松山城の西の守りとして重要な位置を占めていた。

 『新編武蔵風土記稿』(文化7年(1810)~文政13年(1830))比企郡腰越村の条によると、腰越城は松山城主・上田暗礫斎(あんれきさい)の家臣である山田伊賀守直定の居城であったという。

 腰越城の戦略的な位置づけについては、元・小川町文化財保護委員である塚越正佳氏の適切な記述を引用しておきたい。

 「この山域は、戦略上よりみると、松山城主上田氏の本拠東秩父谷の入口を守る極めて重要な拠点であり、また後北条氏にとっても、川越・松山・鉢形・上州平井の諸城を結ぶ軍事路線の後背地に位置し、裏手を守る重要拠点の1つでもあった。しかも、後北条氏が最も恐れていた慈光寺の山伏たちの動向をさぐる恰好の北の拠点でもあったので、南方古寺地区に砦を設け警戒した形跡がある」(広報おがわ№304、1984年1月)。

桜山(さくらやま)

 東秩父村安戸の宿(しゅく)から井泉水(いせんすい)と呼ばれる名水の誉れ高い小沢をさかのぼり、小川町腰越の小瀬田(こせだ)にくだる峠。

 249.3㍍3等三角点(点名「安戸」)の北にある。

 名称は「桜山」であるが、実際には峠。

 名称の由来となった桜の木が植えられていたが、落雷のため焼失してしまい、現存していない。

 桜山を越えて、安戸の宿から小川町腰越の小瀬田に出る峠道は、かつて東秩父村と小川町を結ぶ交易の要衝でもあった。

小瀬田越え(こせだごえ)

 桜山北方の郡界尾根上の峠。

 安戸の在家から小瀬田(大字腰越)に越える峠である。

 桜山と同様、安戸から小川町に抜ける交易の要衝として、以前は賑わっていたという。 

 しかし、槻川沿いの県道が出来てからは、すっかりさびれ、途中の2か所に残る小さな石の道しるべに往時の面影を残すのみ。

愛宕山(あたごやま)

 小瀬田越西の250㍍圏ピーク山頂に愛宕神社の小祠が祀られている。

 安戸の宿地区の人々により火伏せの神様として信仰され、例祭は、かつては4月25日だったが、その後、祝日の4月29日(1986年時点)に変更された。

山ノ神越え(やまのかみごえ)

 小瀬田越えより郡界尾根を北に寄った峠。

 安政6年(1859)5月に比企郡飯田村の建てた山ノ神の小祠が祀られている。

 昭文社の山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年年版)でも、「山ノ神越」と表記されている。

 ただし、地元・小川町飯田では単に「山ノ神」と言っている方が多い。

 ここも、かつて安戸から笠原や飯田、腰越への「花嫁の越えた峠」であった。現在でも、毎年1月17日に山ノ神を信仰している人たちが登拝している。

 上記の「山ノ神」「小瀬田越え」「桜山」は、いずれも郡界尾根上の峠である。

 小川町の笠原から東秩父村安戸に出るためには、急峻な官ノ倉山を超えるよりも、いったん飯田や腰越に回って、これらの峠を越えた方がずっと楽だったという。

雨乞山(あまごいやま)→消滅

 東武東上線の線路をはさんで「金勝山」(きんしょうざん)と対峙する山。

 2万5千分の1地形図「安戸」では、「勝呂」(すぐろ)の大字名の下。

 地形図の変遷を見ると、当初は採石場の上にかろうじて250㍍独標が残っていたが、徐々に採石場の範囲が拡大。

 最新の地形図では250㍍独標は姿を消し、調整池ができているなど、雨乞山は完全に消失したといってよい。

 麓に津島神社がある

 『武蔵通志』に「雨乞山 竹沢村勝呂の南にあり」と、ごく簡潔に記されている山こそ、悲運の山・雨乞山である。

 悲しい最期を遂げた雨乞山だが、戦前までは、その名のとおり小川町勝呂の雨乞いの山であった。

 田植え前に日照りが続いたとき、上勝呂(かみすぐろ)・下勝呂(しもすぐろ)から2名ずつ計4名の代表が榛名神社に行き、一升樽に御水をもらい、地元に戻ったあと、待っていた集落の代表と一緒に雨乞山に登り、水を撒いて祈願し、一同酒を飲んだ。

 代表たちが下山したのち、村人たちは津島神社の祭神である「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)・「天照大神」(アマテラスオオミカミ)の二体の木造を山車に乗せ、蓑笠をつけて太鼓・鉦(かね)を叩き、総出で夜遅くまで練り歩いたという。

 なお、津島神社の先のホリ(矢ノ入)が上勝呂・下勝呂の境である。 

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