秩父「三合落」なる山

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。
2025年7月下旬頃から、14回連載した「比企・外秩父の山徹底研究」をベースに、そこでは取り上げられなかった地域の山を加え、コンプリートな「比企・外秩父の山と峠・巨岩等小辞典」(仮題)を連載する予定です。乞うご期待。

高橋秀行をフォローする

はじめに

 秩父西北に位置する両神山(りょうかみさん)。

 穏やかな山容の山が多い奥武蔵・秩父の山のなかで、鋸歯状の岩峰を屏風のように連ねる山稜は異色の存在で、多くの登山者を惹きつけている。

 その一方で、交通の便が極めて悪いことが登山者にとって大きなネックとなっている。

 登山口でいえば、表口にあたる日向大谷(ひなたおおや)に向かうためには、西武秩父駅からバスを乗り継いで行かなければならない。

 南口の白井指(しろいざす)も、西武秩父駅からお花畑駅まで歩き、秩父鉄道に乗り換え、三峰口駅で下車。そこからバスに乗り換えるという手間がかかる。

  それに加え、山からくだったあとの帰りのバスの本数も少なく、最終バスの時間も早いので、日帰りの場合、山中での行動時間が限定される。

 日向大谷→両神山剣ヶ峰→白井指というもっとも一般的なコースを回るだけでも、日帰りでは精一杯の行程である。

 このような交通の便の極端な悪さが、知名度がありながらも登山者が減少するという状況の原因になっているのだろう。

 私も奥武蔵や比企・外秩父・秩父の主な山を歩いたあと、当然、両神山をめざした。

そして八丁尾根や白井指峠から中双里にくだるコース、さらに奈良尾沢峠から天理ヶ岳を往復するコース(現在、天理ヶ岳は、動植物の保全のため入山禁止)など一般コースを集中的に歩いた。

 1980年代前半。私が20代後半の頃だった。

 両神山の主稜や主な支尾根(天理ヶ岳)を歩いたのち、次に注目したのが両神山周辺の2つの不遇な尾根である。

 その一つは、剣ヶ峰から南東に三笠山・逸見ヶ岳(へんみがたけ:辺見ヶ岳・二子山))・三合落をへて、四阿屋山(あずまやさん)まで延々と延びる尾根。

 もう一つが、白井差峠から南東に芋掘ドッケン(芋堀トッケン)・茂萩山をへて、延々と秩父御岳山まで延びる梵天尾根である。

 いずれも長大な尾根で、前者の中間には「三合落」、後者の中間には「芋掘ドッケン」(芋掘トッケン)という三角点のあるピークがある。

 両ピークとも変わった山名で、その名称ゆえにどうしても登りたいという欲求を抑えるのが難しかった。

 しかし、当時はインターネット時代以前の1980年代半ば。

 2万5千分の1地形図や昭文社山と高原地図にも破線路さえ記載されず、『新ハイキング』のバックナンバーを当たっても、登山記録は全く見いだされなかった。

 最初にターゲットとしたのが三合落である。

 2万5千分の1地形図「長又」をみると、1115.2㍍3等三角点のある(点名は「小森」)山頂北側は岩崖記号がびっしりと広がり、まるで登山者を寄せ付けない障壁のように張りめぐらされ、道のない難路とあいまって、登頂が至難な山のように思えた。

 そこで、北東山麓にある浦島の集落から浦島沢の沿った林道を終点まで歩き、そこからは沢を登って尾根に出、三合落に登頂。

 帰路は、三合落から北東に浦島口奥の寺社記号のある地点にくだる尾根を利用するプランを考え、1984年10月21日、同年11月23日の2回三合落に登頂した。

(図1)両神山周辺図(出典:両神村史編さん委員会編著『りょうかみ双書3 両神山』両神村、1990年より)

DSC_0817

1115.2㍍3等三角点峰は「両見山」なのか、それとも「三合落」なのか?

 今まで、「三合落」と書いてきたが、実は1984年当時、昭文社山と高原地図では、1115.2㍍3等三角点峰は、「両見山」と記載されていた。

 昭文社山と高原地図27『雲取山・両神山』の2025年版でも、相変わらず両見山(両現山)と記載され、「両現山」という別名が括弧書きで添付されただけである。

 ただし、2025年版の山と高原地図では、「山頂に三合落と記すプレートがある」と注意書きがしてある。

 果たして、1115.2㍍3等三角点峰の名称は「三合落」なのか、それとも「両見山」(両現山)なのか。

 そもそも、なぜ登山界では長年、1115.2㍍3等三角点峰を「両見山」としてきたのだろうか。

 その混乱の原因は江戸期の『新編武蔵風土記稿』秩父郡薄村の条にある。

 それによると、「両見山 村(引用者注:薄村)の南寄にて小森村の境にあり、麓より山上までおおよそ十五町ばかり。両神権現を遙し祭り別当遙拝する處とせり。金剛院の持なり」とある。

 原典の前半は、「両見山は、薄村の南寄りにあり、小森村との境にある。麓より山頂まで約十五町余り」と解釈できる。

 後段はやや難解で解釈に苦労するが、かなり意訳すると、「両神山剣ヶ峰の山頂直下に両神神社本宮と並んで祀られている御嶽神社(昔は両神権現社と呼ばれていた)を遠くから仰ぎ見る(遙拝する)ところであり、御嶽神社(両神権現社)の分霊をここにもってきた場所でもあった。両見山は、浦島の御嶽神社里宮の神仏金剛時代の寺号である金剛院の所有する山である」となろうか(解釈にあたり、飯野頼治『両神山』実業之日本社、1975年)を参考にした)。

 この『風土記稿』の前半の記述より、両見山の位置は薄村と小森村との境界尾根上にある1115.2㍍3等三角点峰等三角点峰ということになる。

 これを忠実に踏襲したのが、原全教氏である。

 原全教氏は『奥武蔵続編』(復刻版:初版は1935年)(木耳社、1975年)所収の「両神山の地図」で、薄村・小森村境界尾根上の1,115㍍三角点峰に「両見山」と記載し、「りょうげん」とルビを振っている。

 さらに本文中でも、「(南の小森側の)井戸沢奥の1115米の三角点を有する峯を両見山(りょうげんざん)と云ひ、両神権現を此處に遷して、別当であった浦島の金剛院で遙拝したさうだ。浦島口両神登山の発足点とも云ふべき重要な所であった」と述べている。

 以上の『新編武蔵風土記稿』薄村の条、および原全教氏の『奥秩父続編』の記事により、1115.2㍍3等三角点峰=両見山(りょうげんざん)という理解が登山界で定着してしまった。

 昭文社版山と高原地図27『雲取山・両神山』(2025年版)は、今でもこの誤った山名を踏襲しているのである。

 もちろん、これらをふまえながらも、両見山の本当の位置は、1115.2㍍三角点峰ではなく、金剛院(現・御嶽神社)の裏山にあたる748㍍独標ではないだろうかとの疑問が提起され始めた。

 その先駆けが、戦後、両神山に関するまとまった最初の地域研究である飯野頼治『両神山』(実業之日本社、1975年)である。

 飯野氏は、1115.2㍍三角点峰を「両現山の三角点」として、従来の解釈を前提としつつも、748㍍独標こそ本当の「両現山」ではないかという推論を次のように提起している。

 やや長くなるが、関係する全文を引用しておきたい。

 「浦島にある御岳神社の裏山を20分ほど登った尾根には、杉木立にかこまれて小社が安置されている。これは御岳神社(両神権現)の分霊をここに持って来て、金剛院の僧が両神山を遙拝した所である。今はすっかり荒れているが、昔は建物があったという。草に埋もれて古株があり、往時の面影がしのばれる。

 ここよりはるかに仰ぐ両神山は、まことに堂々たる威厳をそなえて、その全貌をさらけ出している。この尾根は南に高まりつつのびて、両現山の三角点(1115㍍)を起こしている。両現山とは、両現権現を祭る山という意味でつけられたのであろう。したがって、もとはこの小社のある遙拝所を両現山と呼んでいたのだと思われる」(飯野頼治『両神山』実業之日本社、1975年)

 さらに進んで、「1115㍍三角点峰=両見山」という従来の見解を完全に覆したのが、地元・両神村(現在は小鹿野町と合併)が1990年に発行した『りょうかみ双書3 両神山』である。

 同書では、地図で浦島の御岳神社(金剛院)裏山を「両見山」(653㍍)、両神山剣ヶ峰から三笠山・逸見ヶ岳をへて四阿屋山にいたる長大な尾根上の1115㍍三角点峰を「三合落」とはっきり明記している(図1を参照)。

 さらに本文で、両神山への「浦島コース」について次のように説明している。

 「浦島コースは、御嶽神社(金剛院)の前から開かれている。

 神社を出発するこのコースは、神社の裏の両見山(りょうげんざん)へと登る。ここに遙拝所があり、両神山を望むことができる。神社からは、約20分の道のりである。

 遙拝所(引用者注:両見山)からは、尾根沿いに三合落(さんごうつ)へと登る。三合落からは、薄川と小森川の分水嶺となっている稜線を進んでいく。両見山から三合落までは、約1時間半の距離となっている。

 この稜線は、大小数々のピークを経て、逸見ヶ岳へと続く。逸見ヶ岳は、山腹が二峰に分かれていることから『二子山』とも呼ばれている(以下略)」(『りょうかみ双書3 両神山』(両神村役場、1990年)

 浦島に里宮がある御嶽神社は、神仏習合時代には「金剛院」という寺名で知られていた。

 金剛院は修行寺院として本山派に属し、両神山を行場として、修練する修験者たちの山入の先達として、そして宿坊としての役割を果たしていた。

 そして慶応2年(1866)正月に、両神山頂奥の院に、木曽御岳山の御嶽神社を勧請した。

 同じく1866年に浦島から峰通りの参道を開拓した。

 だが、金剛院から両見山~三合落~逸見ヶ岳~三笠山をへて御嶽神社奥社にいたる峰通りは、金剛院から御嶽神社奥社にいたるまで約5時間半近くかかる長大なルートであり、とくに三合落から三笠山までの山稜にはザイルが必要な岩場など悪場が連続する大変な難路でもある。

 そのため、神仏分離以降、山岳修験がすたれるとともに、参道は荒廃し、三合落~両神山の山稜はほとんど歩かれていない。

 以上まとめると、両神村役場が発行した『りょうかみ双書3 両神山』(1990年)以降、1115.2㍍3等三角点峰の名称は「両見山」ではなく「山合落」であり、両見山は浦島の御嶽神社(金剛院)裏の748㍍独標であるという見解が定着した。

 もっと厳密にいうと、748㍍独標南の「両現宮両神神社奥社」をはじめ2つの木製の小さな神社のある730㍍圏ピークこそ両見山であるというべきであろう。

 しかし、神社のある730㍍圏ピークは単独峰というよりも、748㍍独標の南肩ともいうべき存在である。その意味で、730㍍圏ピークおよび748㍍独標の総称名として「両見山」の名称を使うべきだろう。

 「両見山」の呼び方については、『りょうかみ双書3 両神山』(1990)は「りょうげんざん」としている。

 だが、私が1984年に浦島で聞き取りをしたときには、多くの方が「りょうげんやま」と呼んでいた。

 そのため、「両見山」(りょうげんやま・りょうげんざん)と、呼び方については併記したい。

 さらに「両見山」の名称由来については、両神山を望む遙拝所であったということ(つまり、両神山を見る山)に由来するのではないだろうか。

三合落の呼称は「サンゴツ」なのか「サンゴウツ」なのか? そして、気になるサンゴツ、三合落、サンゴウツの名称由来は? 

 現在でこそ、1115.2㍍3等三角点峰の山名は「三合落」、読み方は「サンゴウツ」ということで、ほぼ一致している。

 だが、『りょうかみ双書3 両神山』が出版されるよりも6年前の1984年に私が浦島で山名の聞き取りをしたときには、「サンゴツ」という呼び方をする方が多かった。

 念のためにその直後、両神村役場に問い合わせてみたが、1115.2㍍3等三角点峰の名称は「サンゴツ」であった。

「サンゴツ」は、実は三角点のある西峰と両見山への尾根が派生する東峰の双耳峰であり、山麓からも分かるそのゴツゴツとした岩山という山容から「サンゴツ」の名称が生まれたと考えていた。

 この考えを発展させたのが藤本一美氏である。

 藤本氏は、2010年代の1月に私の歩いたルートを忠実にトレースした。

 そして、帰路振り返ってサンゴツを眺めたとき、双耳峰の間に小さなピークを発見し、岩峰が3つ横に並ぶ姿が印象的であったとしている。そのうえで、3つのゴツゴツとした岩峰が並ぶ特異な山容ゆえに、昔から地元では「サンゴツ」と呼んでいたのではないかと推察している(私への私信による)。

 私も「サンゴツ」という山名と、藤本氏の山名考証で、名称問題はほぼ決着したと思っていた。

 ところが、ずっと以前に入手していた両神村役場出版の『りょうかみ双書3 両神山』(両神村、1990年)を改めて読むと、山名は「三合落」、読み方は「サンゴウツ」となっているではないか。

 ネット記事も、ほぼ「三合落」(サンゴウツ)で一致している。

 昭文社山と高原地図27『雲取山・両神山』のみが、2025年版になっても「両見山」に固執しているという状況である。

 ところで、無視できないのが、原全教氏が『奥秩父続編』(朋文堂、昭和10年。1975年に木耳社から復刻)所収の地図において、1115.2㍍3等三角点峰よりも西に両神山に寄った1195.2㍍3等三角点峰(点名は「大谷」)の南東にある1199㍍独標に「サンゴーツ」の名を付けているということである(昭文社山と高原地図27『雲取山・両神山』では、1199㍍独標を「ワニグチの頭」と表記している)。

 つまり、原氏は昭和初期に既に地元での聞き取りにより、「サンゴーツ(サンゴウツ)」の山名を採集していたが、その位置を誤ったのである。

 このことは、サンゴツだけでなく、サンゴウツも古くからの地元呼称ということになり、話がややこしくなってくる。

 では、サンゴツ、サンゴウツ、三合落の三者はどのような関係にあるのだろうか。

 まず、サンゴウツはどう考えても、サンゴツがなまったものとは考えにくく、漢字表記の三合落の読み方と理解した方が良い。

 となると、サンゴツ、三合落(サンゴウツ)のいずれも古くからの地元呼称であり、両者がどのような関係にあるのかが問われるだろう。

 ここで興味深いのが、両神山主稜の前東岳から天理ヶ岳、奈良尾峠をへて東に延々と延びる長大な尾根の最東端にある峠である「権五郎落峠」(ごんごろうおとしとうげ)のことである。

 なお、昭文社山と高原地図27『雲取山・両神山』(2025年版)では、「権五郎落峠」ではなく、「五合落峠」と記載している。

 また、ヤマレコのまとめ記事では、「五合落峠」の名は、「権五郎落峠」の旧名であるとしている。

 いずれも真偽のほどは定かではないが、地元での呼称を再確認すべき課題ではある。

 ところで、「権五郎落峠」は、小鹿野町上飯田と旧両神村(現・小鹿野町)長又を結ぶ峠で、今でこそ平凡な車道のとおる峠だが、昔は急坂で知られる大変な難路であったという。

 このことから、「権五郎落峠」という名称の由来となった以下のような伝説が生まれた。

 一つは、昔、権五郎さんが馬を引いて峠を越えようとして足を踏み外し、谷底へゴンゴロ、ゴンゴロと落ちて行ったということから権五郎落としの峠→権五郎落峠という名称が生まれたというもの。

 もうひとつは、昔、村人が峠を越えようとして悪路に足をとられ、もっていた大切な五合の品物(米?)を谷底に落としてしまったことから、五合落し峠の名が生まれたというもの。

 いずれの伝説も、「権五郎落峠」の名に付会した説の域を出ないが、要は、権五郎落峠は、あえて「落」という言葉を付け加えるほど急な難路であったことである。

 ここからサンゴツ→三合落→サンゴウツの名称由来を解く鍵を見いだすことができる。

 この点について、最近「三合落」の山行記録を多く載せている「ヤマレコ」のまとめ記事は、「三合落の名称の由来であるが、近くにある五合落峠(ゴンゴーストウゲ、現:権五郎落峠)の由来から推察すると、『両神山より三合低い山』という意味から来ていると思われるが、どうだろうか・・・」と記している。

 興味深い見解であるが、やや飛躍した推察であるという感を禁じ得ない。

 むしろ、ともに「落」がつく地名が近くに2つあるという点から地形的な両者の共通点を探った方が良いように思う。

 つまり、三合落も権五郎落峠も、ともに急な悪路であり、人が滑り落ちかねない難所であるという点が共通している。

 三合落については、両見山から三合落をへて、尾根伝いに逸見ヶ岳(二子山)~三笠山~一位ケタワ(一位ガタワ)→御嶽神社本社にいたる尾根は急峻かつ岩場のある大変な難路であるという指摘を思い起こしていただきたい。

 もともと、この長大で険しく人を寄せ付けない難路は、浦島の金剛院に属する修験者の山岳修験の場であった。

 修験の場は険しければ険しい方が良いのであり、修験者にとって両神山の御嶽神社をめざすうえで、最初の難所こそ、現在でも有名な両見山から三合落へのあのヤセ尾根の岩の出た極度の急登である。

 進行方向右手は断崖絶壁、左手は樹林ながら急な斜面。

 この両者にはさまれた見上げるようなヤセた急な岩稜を木の幹をつかみ、草をつかみ、まさに這い上がるように一歩一歩登るというのは大変な苦行である。

 もちろん、一歩足を踏み外したり、滑ったりしたら、転げ落ちてしまう。

 つまり、山の合目に例えると、一歩足を踏み外すと、三合分ぐらい転がり落ちる急坂のある山ということで、昔からの地元呼称の「サンゴツ」(3つのゴツゴツとした岩峰を連ねる山容に由来する村民の素朴な呼称)を修験者の宿坊であった金剛院が漢字で表記する際、それを「三合落」と表記し、その読み方として「サンゴウツ」の名称も広がったのではないだろか。

 サンゴツ(もともとの名称)から三合落、サンゴウツにいたる経緯を説明するうえで、この山特有の地形、そして山岳修験の場という両者を踏まえて行うべきであると思う。

 もっとも、ここで提示した説(サンゴツ→三合落とし→サンゴウツ)もあくまでも「仮説」の域を出ない。

 今後、より一層の地元・浦島での聞き取り、浦島・御嶽神社所蔵の古文書等の解読など「三合落」の名がいつ頃から現われるようになったのか、そして地元ではサンゴツ、サンゴウツのどちらがより一般的なのか等を調べるべきだろうが、既に70歳を過ぎた私にはそのエネルギーはない。

 「三合落」の名称由来を解く作業は、次の世代に引き継ぎたい。

三合落(サンゴツ・サンゴウツ)登山記録(1984年10月21日・11月23日)

(図2)三合落周辺略図(高橋秀行「秩父・サンゴツ」『新ハイキング』360号、1985年10月を一部修正)

DSC_0818

 三合落への登路は、北側の浦島沢をとった。

 西武秩父駅から小鹿野車庫行きのバスに乗り、小鹿野役場で両神村営バス・出原上行きに乗り継ぎ、浦島口で下車。

 バス停の脇の林道入口には、元治2年(1865)の銘を刻む「金剛院入口」の大きな石碑がたっている。

 金剛院は、神仏習合時代における御嶽神社の寺名で、2万5千分の1地形図「長又」にも御嶽神社が寺記号で記載されているのも当時の名残である。

 林道の左手には浦島沢が流れている。

 この林道を上流に向かって進む。

 正面に高く仰がれる双耳峰がめざす三合落だ。

 集落を抜け、車道が右にカーブを切って沢から離れる地点で、沢沿いの踏跡に入る。

 踏跡は沢を左右に渡し返し、10分ほどで不動滝の下に出る。

 高さ5㍍ながら、美しい淵をつくっている。

 滝壺近くには、二体の石像を安置する不動堂がたてられている。

 不動滝を右から巻くと、左下に沢を見下ろしながら進むようになる。

 まもなく右から沢が合流する。

 ここが最初の二俣。

 踏跡は本流(左俣)の右岸につけられている。

 涸れ沢を一本渡り、今度は左から沢が合流する。

 ここが上部二俣で、本流に沿って奥に進むと踏跡は消え、完全に沢登りになる。

 幸い水量はごくわずかで、1㍍の小滝を右から越えると、ガレ場になってしまった。

 やがて傾斜が増し、源頭が近いことを思わせる。

 そのまま詰めると、前方にみえる岩壁に突き当たってしまうので、右の山腹に逃げ、足場の不安定な崩れやすい灌木の斜面をトラバース気味に登って行く。

 頭上を仰ぐと、三合落から東に四阿屋山に延びる主尾根が間近に見える。

 しかし、灌木のブッシュに行く手を遮られる。

 ようやく稜線上に登りつくと、ブッシュがうるさいながら細々とした踏跡が左右に続いていた。

 展望が開け、毘沙門山が無残に削られた白い岩肌をさらしている。

 西に尾根をたどり、980㍍圏峰を越えると、待望の三合落の突峰が間近に迫る。

 南東からの支尾根を合わせ、わずかな登りで三合落東峰につく。

 そこは素晴らしい展望台だった。

 両神山こそ西峰に遮られてみえないものの、それ以外の名だたる山々が、すべて一望のもとである。

 とくに西上州の山々の彼方に、すっかり雪化粧をした姿をのぞかせる浅間山が印象的だ。

 十分に展望を堪能したら、3等三角点のある西峰を往復しよう。

 ヤセた尾根を慎重にたどり、5分ほどの登りで西峰の頂に立つ。

 細長い山頂の北端に3等三角点の標石がポツンとたたずんでいた。

 山頂の東側は檜林、西南は雑木に覆われ、樹間から両神山が遠藤できる程度だ。

 今では山頂に私設の山名表示板が2つ設置さているようだが、登山者皆無の当時(1984年)、山頂に私設の山名表示板の類いは皆無だった。

 再び東峰に戻り、北東に延びる両見山(りょうげんやま)への支尾根を下降する。

 のっけから足元がすくんでしまいそう急下降だ。

 しかも左側はすっぱりと切れ落ちた断崖、右側も急斜面で、一瞬たりとも息を抜くことができない。

 ようやく傾斜が緩んだ頃、伐採地に出て、一息ついた。

 振り返ると、三合落の双耳峰が逆光で黒々と見えた。

 展望のない893㍍独標を過ぎると、再び急なくだりとなり、両見山手前の鞍部につく。

 ここに荷物をおいて両見山を往復する。

 10分ほどの直線的な急登の末に達した両見山山頂(小さな神社が2つある730㍍圏ピークの方)は、杉林のなかに小社が2つ寂しく朽ち果てようとしていた。

 ここは、かつて両神山頂直下の御嶽神社の分霊をもってきて祀り、両神山を遙拝した場所であった。

 しかし、今では(1984年当時)往時の面影はなく、一面に茂った雑草が荒涼感を募らせていた。

 帰路は鞍部まで戻り、踏跡のない窪地状の山腹を東にくだる。

 やがて竹林にさしかかると踏跡が現われ、浦島沢沿いの林道に出た。

 時間に余裕があれば、是非とも御嶽神社の里宮に立ち寄っていきたい。

 里宮は林道の終点にあたる浦島の山上集落にある。

 一見しただけでは、民家と区別のつかないような質素なたたずまいだ。

 ここは、かつて両神山の浦島登山口として栄え、両見山から三合落をへて尾根伝いに御嶽神社本社(両神山剣ヶ峰直下に両神神社本社と並んで建てられている)にいたる参道が開かれていたという。

 あとは、登ってきた林道を浦島口バス停に戻るだけだ。

〈参考タイム〉

池袋6:30=西武秩父8:00~8:15=小鹿野役場8:55~9:00=浦島口9:20~25ー林道カーブ地点9:50~55ー不動滝10:05~10ー最初の二俣10:25ー上部二俣10:40~50ー稜線12:05ー三合落東峰12:25~13:35(西峰往復10分)ー伐採地14:05~25ー鞍部14:50ー両見山(730㍍圏ピーク)15:00ー鞍部15:05ー林道15:25ー御嶽神社15:30~35ー浦島口16:05~25=役場前16:35~40=三峰口17:00

〈地図〉2万5千分の1地形図「長又」

(付記)両神村は2005年10月1日に旧小鹿野町と合併。新小鹿野町が誕生した。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました