はじめに
両神山の主峰・剣ヶ峰から南走する尾根は梵天ノ頭で南東に向きを変え、小森川と中津川の分水嶺となり、秩父御岳山まで延々と続いている。
この長大な尾根は旧両神村(現・小鹿野町)と旧大滝村(現・秩父市)との境界でもあり、梵天ノ頭にちなみ、「梵天尾根」(あるいはバラモミ尾根)と呼ばれている。
梵天尾根のほぼ中央に、芋掘ドッケン(芋掘トッケン)(1464.2㍍3等三角点:点名「浜平」)という変わった名の山がある。
その特異な名称や当時登山記録が皆無であった未知の魅力があいまって、いつか登ってみたいと、かねてから機会をねらっていた。
(図1)両神山周辺図(両神山~梵天ノ頭~芋掘ドッケン~茂萩山~御岳山の尾根が「梵天尾根」)(出典:両神村史編さん委員会編『りょうかみ双書3 両神山』秩父郡両神村役場、1988年)

前回取り上げた三合落(サンゴツ、サンゴウツ)と同様、芋掘ドッケンや梵天尾根についても、それをめぐる状況は、この40年間の間に全く変わってしまった。
現在では、「芋掘ドッケン」「梵天尾根」などのキーワードをPCやスマホの検索に入力すれば、登山記録がいくつも出てくる。
たしかに今でも難路であることには変わりはないが、未知の魅力という点では、薄れてしまった感は否めない。
そのため、40年前の登山記録を挙げても、今更という感は否定できないだろう。
だが、40年前のインターネットはもちろんのこと、パソコン通信(懐かしい!)以前の紙媒体の時代に、全く先行記録がない状況のなか、どのように芋掘ドッケンや梵天尾根に挑んだのか、その記録をお読みいただくことも全く無意味ではないと確信している。
もちろん記事は、あくまでも参考程度にすぎない。
最近の状況については、ネットの山行記録を参照していただきたい。
さて、芋掘ドッケンに照準をあてたものの、当時は登山記録も発見できず、2万5千分の1地形図や昭文社の山と高原地図にも破線路さえ見いだせなかった。
そこで古い文献に当たっていると、原全教『奥秩父続編』(1935年、朋文堂。1977年に木耳社から復刻)に「瀧越ノ澤の奥から中津に抜けられるさうである」との一文を発見した。
そこで2万5千分の1地形図「中津峽」を見ると、名爆・丸神ノ滝のある滝越沢は、芋掘ドッケン東側の梵天尾根上に突き上げている。
もしかすると、滝越沢に沿って仕事道があり、仕事道の消えた地点から沢を遡行すれば梵天尾根にたどりつけるかも知れないとの希望が湧いた。
ちょうど1年前に、不動滝のある浦島沢沿いの仕事道から沢の遡行をへて、三合落東の尾根上に達した経験(前回の記事を参照)が背中を押した。
そして、1985年10月26日、丸神ノ滝から滝越沢をつめ、梵天尾根に出、芋掘ドッケン~白井差峠まで縦走し、中双里におりた(単独)。
さらに1年後の1986年11月1日に白井差口の民宿に泊まり、翌2日、今度は4人パーティで同じく丸神ノ滝~滝越沢をへて、梵天尾根に達した。
今度は芋掘ドッケンとは反対に御岳山をめざし、日帰りでの縦走を試みた。
ところが、落石の多い滝越沢のツメで、4人パーティが裏目に出て難渋。
後続への落石を避けるため慎重に行動した結果、前回単独で遡行したときの5割増しの時間を要し、梵天尾根への到着時間が大幅に遅れた。
いよいよ秩父御岳山をめざし縦走に入ったが、その距離は白井指峠への距離の2倍以上。
しかも、予想以上のピークの登降、小さな岩場の通過、さらに予想もつかなかった茂萩山西面の大きな岩場の突破にザイルを使うなどかなりの時間を使うことになり、茂萩山山頂到着時点で既に周囲は薄暗くなってきた。
その後、日没までに御岳山に到着しようと焦ったが、茂萩山と御岳山とのほぼ中間地点である山ノ神の祠のある鞍部で時間切れで、ついにビバーク。
結局、寝ずに一夜を過ごしたあと、翌3日、御岳山をめざしたが、ビバーク地点(山ノ神のある鞍部)から御岳山まで1時間40分を要することになった。
梵天尾根は、剣ヶ峰から白井差峠までは整備された登山道で、その部分は私も1980年代前半に歩いていた。
こうして3回にわけて、ようやく梵天尾根を完全に縦走したのだが、とくに3回目は予期せざるビバークとなり、参加者はもちろん、心配していた家族の方々にとっても大変な心配をかけてしまい、私にとっては達成感と同時に苦い思い出となっている。
以下では、丸神ノ滝~梵天尾根~芋掘ドッケンから白井差峠の記録を中心に、そのあとにごく簡潔に丸神ノ滝~梵天尾根~茂萩山~秩父御岳山の山行記録を記すことにしたい。
だが、本題(参考記録)に入る前に、梵天尾根上の主要なピークや峠について、若干の考察を加えたい。
梵天尾根の山と峠
(図2)梵天尾根付近略図(北側:小鹿野町両神小森側を中心に)(出典:山行記録「梵天尾根~秩父御岳山」奥武蔵研究会会報『奥武蔵』233号、1987年1月)
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(図3)梵天尾根付近略図(南側:秩父市中津川側を中心に)(出典:飯野頼治「第5章 交通・運輸・通信」『秩父 滝沢ダム水没地域総合調査報告書下巻 人文編』滝沢ダム水没地域総合調査会、1994年)
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芋掘ドッケン(芋掘トッケン)
梵天尾根のほぼ中央に位置する1464.2㍍3等三角点(点名は「浜平」)。
点名の「浜平」は、芋掘ドッケン南山麓(中津川側)の集落「浜平」の名称をそのまま転用している。
浜平集落の住民は、滝沢ダムとそれにともなう「奥秩父もみじ湖」の建設にともない、移転を余儀なくされた。
現在、芋掘ドッケンに直接登るルートはなく、北側(小森側)の丸神ノ滝から滝越沢をつめ、梵天尾根に達するのが唯一のルートである。
だが、滝越沢の遡行は沢歩きの経験がなくても大丈夫だが、沢から離れ、梵天尾根に達するまでの急なガレ場の登りが危険で、到底一般向きとはいいがたい。
ところが調べているうちに、中津川沿いの浜平から入波沢沿いの仕事道をつめ、芋掘ドッケンから南西に張り出す尾根に出たのちに、尾根をつめ山頂に直接登るルートがあることを発見した(図3を参照)。
もっとも、浜平集落自体、ダム湖の建設にともない集落が湖底に沈んだため、前記のルートも廃道化しているが実情であろう
さて芋掘ドッケン(芋掘トッケン)という変わった山名について、「トッケ」「ドッケ」「トッケン」「ドッケン」は、とくに秩父地方における尖った山の俗称である。
岩科小一郎氏が書かれているように、「秩父の一円で、尖った山を芋掘トッケン、三ツドッケ、高ドッケ、芋ノ木ドッケ、黒ドッケと呼ぶ」という(岩科小一郎著、藤本一美編『山ことば辞典』(百水社、1993年)。
「芋掘ドッケン」(芋掘トッケン)の名は、『新編武蔵風土記稿』秩父郡小森村、中津川村の条、『武蔵国郡村誌」秩父郡小森村、中津川村の条、そして『武蔵通志』など古い地誌のいずれにも見いだされない。
初めて「芋掘トッケン」の名が登場したのが、原全教『奥武蔵続編』(朋文堂、1935年)所収の両神山の地図である。
おそらく原氏が地元(旧両神村小森ないし旧大滝村中津川)で採集した名称であろう。
原氏の山名、沢名、峠名などの採集は貴重な仕事であり、それなくして現在の秩父地域の山名研究はありえないほどの功績だが、その一方で「三合落」を「両見山」としたり、せっかく「サンゴーツ」の名を採集しながら、逸見ヶ岳方面に寄った1199㍍独標にするなど誤りも少なくない。
それゆえ、芋掘ドッケン(芋掘トッケン)が本当に地元呼称であるのかについては、北側の小森、南側の中津川双方で再調査を行う必要がある。
しかし、中津川に沿った集落中、もっとも近い浜平が廃村になったのは痛い。
さて、原氏は『奥武蔵続編』において、あくまでも山名を「芋掘トッケン」としているが、その後いつの間にか「トッケン」が「ドッケン」に変わり、「芋掘ドッケン」と表記する例が圧倒的である。
先に引用した岩科氏も「トッケン」との表記を採用するなど、原氏、岩科氏など先行の研究者が「トッケン」としていることを重視し、今回の記事ではなるべく「芋掘ドッケン」(芋掘トッケン)と併記させてもらうことにした。
次に、肝心の「芋掘」が何に由来しているのかに注目してみよう。
よく似た山名として挙げられるのが、雲取山から北に続く都県界尾根上の「芋ノ木ドッケ」(芋木ノトッケ)である。
それでは「芋掘ドッケン(トッケン)」の「芋」は、「芋ノ木ドッケ(芋木ノトッケ)」の「芋」と同じ意味なのだろうか。
まずは回り道になるが、「芋ノ木ドッケ(芋木ノトッケ」の「芋」について見ていきたい。
実は、現在「芋ノ木ドッケ」の名が当たり前のように用いられているが、名著『奥多摩』(昭和刊行会、1944年。百水社が復刻版を1992年に出版)において、著者・宮内敏雄氏は「芋木(いもぎ)ノトッケ」の名称が正しいと主張している。
木暮理太郎氏が述べておられるように、古くは『多摩郡村誌』では「イモギ」、『武蔵通志」では「イモノキ」と呼称が分かれていたところに混乱のルーツがある。
では「イモギ」は何を指すかというと、「タカノツメ」「コシアブラ」などの俗称があるが、通常「イモギ」という場合、「コシアブラ」を指すことが多い。
これに対し、「イモノキ」は一般的に「タカノツメ」である。
もちろん、両者が混同されている可能性があるが、「コシアブラ」「タカノツメ」のいずれもウコギ科の植物だが、大木になるのは「コシアブラ」の方である。
これらの木暮理太郎氏の説を踏まえ、さらに地元古老への聞き取りを踏まえながら、宮内氏は『奥多摩』において、「イモギ」を「三峰方面の古老の謂う山名由来は、今でもイモギと発音しているから、木暮先生のお説の如くコシアブラの大木としてよいであろう」とし、「芋木ノトッケ」(イモギノトッケ)の呼称を採用している。
だが、その後現在にいたるまで木暮理太郎氏や宮内敏雄氏の説(イモギノトッケ)は無視されてしまい、「芋ノ木ドッケ」(イモノキドッケ)の名が一般化してしまった。
では、「芋掘ドッケン(トッケン)」の「芋」も「コシアブラ」なのだろうか。
むしろ、「芋掘ドッケン(トッケン)」の場合、「芋」を「鋳物」と解釈したい。
そう考えると、「芋掘ドッケン(トッケン)」は、、鉱物を掘った山を意味する可能性が出てくる。
現に、両神山系には「金山」「金山沢」「神流(かんな)川」「寒野(かんの)岩」「芋平沢」「蛹(さなぎ)沢」など金属地名が集中している。
山名、沢名、峠名などの地名を従来とは全く違った「金属地名」の視点から解明した谷有二氏は、両神山周辺に集中する金属地名について、次のように述べている。
「サナギ沢は場合によっては鉄のサナキかも知れないし、芋平沢の芋(いも)は鋳物、寒野岩は金穴(カンナ)か、鉱山師に信仰の厚い観音の可能性が強い。中津川上流の神流(かんな)川は鉱物のために茶色ににごった金川であることは間違いないし、現にその上流には金山鉱山があって金が掘られている。第二次大戦直後は日本有数の鉄鉱山でもあった」(谷有二『日本山岳伝承の謎』未来社、1983年)
小岩峰(こいわみね)
芋掘ドッケン(トッケン)東の1331㍍独標は、最近登山者の間では「小岩峰」と呼ばれ、ヤマレコの山名紹介ではご丁寧にも「こいわみね」とのルビが振ってある。
たしかに岩峰であることには間違いないが、「小岩峰」なる名称は、おそらく登山者が勝手につけたものであり、地元呼称ではないだろう。
もちろん、「こいわみね」なる発音も、漢字表記にあえてそれらしくルビを振ったものであろう。
現地に私設の山名表示板があるのかどうかは未確認だが、一体いつ頃から「小岩峰」なる呼称を登山者が使うようになったのか、むしろそちらを調べたいくらいだ。
倉明山(くらけやま)
梵天尾根の1331㍍独標と長井屋峠間にある1333.6㍍3等三角点峰。
三角点標石は、山頂よりも少し南に寄った場所に設置されている。
私が歩いた1986年当時は全くの無名峰だったが、滝沢ダム資料館(レイクビューハウス)に展示された「中津渓谷景勝地マップ」で、中津川側の滝之沢から小森側の煤川に越える峠(長井屋峠)をはさんで、2つの山が左右に対峙しており、右側が茂萩山、左山が倉明山となっている。
倉明山には「くらけやま」とのルビが振ってある。
倉明山の山頂東には雨乞岩が明記されているが、たしかに雨乞岩も現地で確認できる。
中津川から小森に越える峠(長井屋峠)の西側にある大きな山といえば、1333.6㍍3等三角点峰しかなく、中津川側の旧集落の聞き取りを反映したマップであるだけに、倉明山(くらけやま)の呼称は説得力をもって一気に広まった。
その後、新ハイキングクラブ浦和支部選定の埼玉百山に倉明山が選ばれたこともあり、今では登山者の間でこの名は当たり前のものとなっている。
ただし、『新編武蔵風土記稿』『武蔵国郡村誌』『武蔵通志』など古い地誌には、「倉明山」なる山名は登場しない。
ヤマレコでは、倉明山の別名として、『武蔵国郡村誌』の小森村の条、および『武蔵通志』に記載のある「高見倉山」を挙げている(もっとも、高見倉山は梵天尾根の総称名であるかも知れないとしているが)。
「高見倉山」についての詳細は、後で述べることにしたい。
ところで、昭文社山と高原地図『雲取山・両神山』(2025年版)では、1333.6㍍3等三角点峰を「滝ノ沢」としており、ネットの山行記録でも「倉明山」(滝ノ沢)などと併記する例が多い。
だが「滝ノ沢」は、1333.6㍍3等三角点の「点名」であり、山名ではない。
「滝ノ沢」(滝之沢)は、1333.6㍍三角点峰(倉明山)南麓にあたる中津川側の滝之沢という集落名に由来している。
長井屋峠(ながいやとうげ)
(図4)長井屋峠道(中津川側)(出典:飯野頼治「第5章 交通・運輸・通信」『秩父 滝沢ダム水没地域総合調査報告書下巻 人文編』滝沢ダム水没地域総合調査会、1994年)

倉明山と茂萩山との鞍部。
小森側の煤川と中津川側の滝之沢とを結ぶ古い峠。
長井屋峠の名も、原全教氏の採集によるものである(原全教『奥秩父続編』(朋文堂、1935年)。
ところで、長井屋峠については、『両神山』(実業之日本社、1975年)の著者である飯野頼治氏が、滝之沢が滝沢ダム建設にともない集団移転する前に、以下のような貴重な聞き取りの記録を残されている。
やや長くなるが、全文を引用しておきたい。
「この峠(引用者注:長井屋峠)は、中津川の谷から滝之沢集落の北側に連なる尾根を越えて両神村小森の煤川集落への峠道である。中津川からは、蛹(さなぎ)沢と芋平(いもだいら)沢をつめて、峠の頂で合流する2つの道とがあった(図4を参照)。蛹沢から峠までの道は谷が長いところから「長谷(ながいや)」、地元では『ナゲエヤ』と呼んでいた。峠名はこれに長井屋の文字を当てたのだろうという。古くは『煤川峠』とも呼んでいた。毎年7月の祇園の頃に滝之沢、煤川の両集落から人が出て峠道の道普請をしていたが、今は行っていない。
両地域の交流は、この峠道を利用して親戚同士の付き合い等が行われていた。行商人達も峠を越えて商いをしていた。中津川の人達が両神側へ博打を打ちに通った道であったともいう。しかし距離の長い険しい道なので、昔からそれほど利用はされていなかったようである(飯野頼治「第5章 交通・運輸・通信」『秩父滝沢ダム水没地域総合調査報告書下巻 人文編』滝沢ダム水没地域総合調査会、1994年)
茂萩山(しげはぎやま)
長井屋峠を挟んで倉明山(くらげやま)の東に対峙している1188.3㍍2等三角点峰。
『武蔵通志』にも、「茂萩(しげはぎ)山 大瀧村に属す」との簡単な記述がある(『新編武蔵風土記稿』『武蔵国郡村誌』には茂萩山の記載なし)。
2万5千分の1地形図「三峰」でも、山頂の西側尾根の北に岩崖記号が並んでいて、長井屋峠から尾根伝いに登る際の険しさが想像できる。
しかし、実際の険しさは地図上から想像するよりもよりもはるかに上で、山の西側は大きな岩場が2つ連続する梵天尾根最大の難所である。
フリークライムに慣れた方なら、ホールド、スタンスを慎重に探し、ノーザイルで登頂できるだろうが、それでも登頂するまで気が抜けない。
ましてや岩登りになれていない方が同行する場合は、ザイルで確保すべきである。
今では、この難所の存在は山行記録から誰でも知っているだろうが、登山記録がなかった1986年に私たちのパーティが、この大岩壁に直面したときの驚きは想像を絶するものがあった。
登るのも大変だが、逆にくだる場合にも懸垂下降などの準備をした方がよいかもしれない。
このように山頂西側は険しい岩壁のある茂萩山だが、反対の東側は尾根幅の広い緩いくだりとなり、今度はルートを外しやすいという別の意味での難所である。
昭文社山と高原地図『雲取山・両神山』では、茂萩山の代わりに「四期萩」と記載しており、今でも「四期萩」を使う登山者もいる。
だが、「四期萩」は「茂萩山」2等三角点の点名である。
興味深いのは、点名の「四期萩」は「しきはぎ」ではなく「しぎはき」と読むという点である(「四期萩」の点の記」)。
ところで、「茂萩山」の山名由来について、文字どおり「萩の生い茂る山」とするのでは、あまりにも当たり前すぎる。
それ以上に、おそらく地元(とくに中津川側)でも有名であったであろう西側の急な岩壁が山名由来の1つになっていると考えないわけには行かない。
そう考えて、茂萩山の「茂」(しげ)の語源を、鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)で当たってみると、茂には「茂み」の意から「開拓の遅れた傾斜地」などという」との記述を発見した。
この説をやや強引にあてはめると、萩の生い茂る山でありながら、急斜面(=岩壁)のために容易に近づくことができず、そのため開発(開墾)が遅れた(=手つかずになっている)山とは考えられないだろうか。
もちろん、相当強引な説であり、やはり無難に「萩が自生する山」と単純に考えるべきかもしれないが、さらに考証を要とする山名である。
謎の高見倉山
いずれも明治期の地誌『武蔵国郡村誌』秩父郡小森村の条、そして『武蔵通志』を見ると、気になる山名が記されている。
それが「高見倉山」である。
『武蔵国郡村誌』秩父郡小森村の条によると、「高見倉山 高五百四十丈、周囲二里町。村の西に峙つ(そばだつ)。嶺上より三分し、東北は本村に属し、西は薄村に属し、南は中津川村に属す。登路一條煤川より上る。高三十余町」とある。
『武蔵通志』はさらに詳しく、「高見倉(タカミクラ)山 高四千八百尺。同村字煤川より上る凡二里。全山岩石多く、上は古杉老松稠茂して、其の間奇石錯立し、眺め頗る佳なり」とある。
以上の古い地誌の記述を見ると、果たして梵天尾根のどこに、西が薄村に属する場所があるのかという疑問点が湧いてくる。
梵天尾根に隣接するのは、あくまでも小森村(東~北)と中津川村(西~南)である。
そこで「西は薄村に属し」との『郡村誌』の記述を外して考えてみたい。
ヤマレコでは、「煤川より上る」「南は中津川に属す」との『郡村誌』の記述をもって、高見倉山=倉明山と同定しているが、果たしてそうだろうか。
注目したいのが、小森側の支流で、梵天尾根に突き上げる「高見倉沢」の存在である。
高見倉沢は、煤川集落よりももっと上流の広河原付近(白井差口バス停付近)から白井差峠~芋掘ドッケン間の1441㍍独標と1424㍍独標との間に突き上げる沢である。
原全教『奥秩父続編』(朋文堂、1935年)所収の両神山地図によると、高見倉沢よりも一本南の芝小屋沢の別名として括弧書きで「高御座」の名が記載されている。
前者の場合、高見倉山は高見倉沢の源頭である1441㍍独標から1424㍍独標付近ということになる。
後者(原氏の地図)では、芝小屋沢=高見倉沢となり、芝小屋沢を突き上げた芋掘ドッケンこそ高見倉山ということになる。
しかし、この両者とも沢の出合が煤川よりもはるかに上流という難点がある。
以上かなりややこしい議論をしたが、高見倉山をめぐり、4つの仮説があることがお分かりになったと思う。
①煤川から登るという点に重点を置いた高見倉山=倉明山という仮説。
②煤川よりもはるか上流にある高見倉沢を突き上げた梵天尾根上の1441㍍独標から1424㍍独標付近の総称を高見倉山とする仮説。
③原全教氏の『奥秩父続編』所収の地図記載の芋小屋沢=高御座との説に従い、芋小屋沢を突き上げた芋掘ドッケンを高見倉山とする仮説。
④ ①~③のいずれも決定打といえないことから、高見倉山=梵天尾根の総称とする仮説(ヤマレコの「倉明山」の解説でも、倉明山を高見倉山であると考えられているとしながら、「高見倉山は梵天尾根全体を指している可能性がある」と付け加えている)。
①については、現に高見倉沢が存在するのに、それを突き上げた梵天尾根上の一帯よりもずっと東の御岳山寄りの倉明山を高見倉山とするのには無理があるという疑問点が投げかけられる。
かといって、②③は、いずれも「煤川から登る」という地誌の記述とは矛盾する。
ただし、『郡村誌』では小森村の字名として、「煤川」「大谷」「大堤」「間庭」「白沢」「野沢」「桜木」「原沢」「山田」「小花輪」の10を挙げているが、もっとも西の字が「煤川」である。
そのため、字「煤川」が現在の煤川集落だけでなく、それより西側の小森川上流の集落全てを指している可能性が高い。
そのため、「煤川より登る」は、必ずしも現在の煤川集落から中津川境の「長井屋峠」に登る道(廃道)だけを指すとは限らないといえなくもない。
さらに③の場合(高見倉山=芋掘ドッケン)、原氏が高見倉沢と芝小屋沢を同一視するという誤りを犯している点で間違いの可能性が高い。
そして④の高見倉山=梵天尾根の総称名とする説については、あまりにも漠然としすぎているという反論が提起できるだろう。
以上を踏まえると、現時点では小森川支流の高見倉沢を突き上げた梵天尾根の1441㍍独標と1424㍍独標付近一帯とする仮説がもっとも妥当ではないかとの結論に達する。
芋掘ドッケンから白井差峠に向かうと、最初のピークである1424㍍独標を過ぎ、1441㍍独標が近くなると、山稜はにわかに痩せた岩尾根となり、2つの小さな岩場が現われる。それを過ぎると、1441㍍独標に達する。
繰り返しになるが、この痩せた岩尾根や2つの岩場付近を中核とする1424㍍独標~1441㍍独標付近の総称名こそ、高見倉沢源頭の山稜という意味で「高見倉山」にもっとも近いのではなかろうか。
しかし、以上はあくまでも仮説である、今のところ高見倉山の所在について確固たる結論が出ているわけではない。
その意味で、高見倉山は「謎の山」というほかない。
丸神ノ滝から芋掘ドッケン(トッケン)、白井差峠へ(1985年10月26日)
(図5)芋掘ドッケン(芋掘トッケン)付近略図(出典:高橋秀行「丸神ノ滝から芋掘ドッケン」『新ハイキング372号、1986年10月』)

1985年10月は秋の長雨が続き、26日も天気予報に反し、今にも雨の降り出しそうな曇り空であった。
それにしても、当時の旧両神村営バスの接続の悪さはどうだろうか。
三峰口発白井差口行きの村営バスは、午前中は9時42分の1本のみ。
丸神ノ滝バス停まで約45分。
さらに丸神ノ滝まで徒歩15分をみると、その先の未知のルートに入るのは11時近くになる。
滝越沢を遡行して梵天尾根に登り、芋掘ドッケンを経て白井差峠にいたり、中双里にくだるのが予定のルートだが、中双里発の最終バスは17時37分。
つまり、休憩を除き行動時間は5時間30分程度しかとれないことになる。
このような訳で、未知のコースへの不安と時間との闘いという二重のハンデを背負っての出発となった。
丸神ノ滝バス停に10時30分着。
ここから丸神ノ滝をへて滝前のキャンプ場まで両神村(当時)の手で遊歩道が設置されている。
15分ほどの登りで、滝の全容が眺められる東屋についた。
手元にある村のパンフによると、丸神ノ滝は、1段目12㍍、2段目14㍍、3段目50㍍、全長76㍍の秩父郡随一の雄大な滝とある。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡小森村の条にも、挿絵付きで次のように詳細に紹介されているほどだ。
「丸神瀧 稼山の内にあり、水元は西南方十五町ばかり。字滝越の奥入より灌ぎ、盤巖凹みて薬研の如なる所を伝わり来て、三級の瀧となる。その第一級は六間ほど。第二級は七間ほど注ぎ落る所に淵あり。深さ四、五尺ばかりに四間四方ばかり。夫より灌て下なるものを第三級とす。その高さ二十五、六間、巖に懸て飛瀑となり、下流は北向して、白井差より来る所の谷川に入。一級より二級までの間は幅五、六尺、三級に至ては漸ひろく四、五間に及べリ。およそ郡中山谷の間瀧多しといえども、この滝のごとく景観奇絶なるは又少し」
このように絶賛されている丸神ノ滝だが、白糸のような水流のためか、あるいは滝の落ち口と同じ高さの対岸から眺めるようになるためもあるのか、迫力の点で今ひとつの感は否めない。
紅葉には10日ほど早かったようだ。
遊歩道は東屋の先で滝壺にくだってしまうが、東屋の先から滝越沢の奥に分け入っていく仕事道があるのを発見した。
原全教氏が記録した中津川へ抜ける道がこの道なのだろうか。
とにかく幸先の良いスタートに意を強くしてガレ場をへずっていくと、間もなく丸神ノ滝の落ち口に出ることができた。
下流に大きな滝をかける沢の例にもれず、滝越沢もその先は平凡な流れで、沢に沿って仕事道が明瞭に刻まれている。
そのおかげで苦労することなく、わずか20分あまりで標高900㍍の二俣についてしまった。
もっとも仕事道があるのはここまでで、いよいよ左俣を遡行することになる。
しばらくの間は穏やかな沢だったが、15分ほど遡行すると、傾斜が俄然急になってくる。
すぐに1㍍の小滝を越え、左から涸れた窪が合流する地点に出る。
ここで沢から離れ、沢と窪との間の急な山腹に取り付く。
何気なく取り付いてみたものの、ものすごい急斜面で、立ち木にすがって身体を持ち上げる感じだ。
一歩踏み出すたびに落石がガラガラと音をたてて崩れ落ちていく。
単独行なので後続を気にしないで登れるが、グループ山行の場合を考えると、冷や汗ものだ。
25分ほど苦しい急登を続けると、前方に巨岩が現われる。
左から巻いて岩の上に立つと、さしもの傾斜も緩み、気分の良い雑木林の斜面となる。
右手の滝越沢は凄まじい岩壁となって梵天尾根に突き上げている。
そこから20分の登りで、待望の梵天尾根に出た。
尾根上は北側が雑木林、南側が植林に覆われ、展望は得られないものの、両神村(現在は小鹿野町)と大滝村(現在は秩父市)との境界だけあって、踏跡は明瞭に踏まれている。
尾根を西に向かい、傾斜が緩むと尾根幅が広くなり、白樺が目立ってくる。
左に回り込むように登りつめたところが、芋掘ドッケン(芋掘トッケン)の山頂だ。
3等三角点の標石を確認し、久遠の山を踏んだ灌漑に浸るひとときを過ごした。
その芋堀ドッケン(芋掘トッケン)の山頂だが、展望の得られない寂峰との予想は外れ、山頂の南面はすっかり伐採されていた。
正面に和名倉山の巨大な山容を望みながら、時間が経つのも忘れていた。
40分ほどの休憩のあと、山頂から伐採林のへりに沿って道なりにくだると、中津川に落ちる尾根に入ってしまうので、コンパスで方向を確認して戻り気味に進む。
梵天尾根上は、伐採された灌木が散乱していて歩きにくい。
ほとんど上下のない平坦な尾根が続き、いつの間にか1424㍍峰を通り過ぎてしまう。
くだりに移ると尾根幅が広がるうえに、踏跡も不明瞭の度合いを強めてくる。
しかもブッシュが山稜の覆っているので前進しようとしても、前進もままならない。
さらに案じていた天候も急速に悪化の兆しをみせていた。
急にガスが立ち込み、たち込んだため、視界が完全に閉ざされてしまう。
やがて山稜はヤブ臭い岩尾根となり、ガスに霞むなか、前方にいきなり岩場が立ちはだかった。
右からその岩根をへずって通過すると、またしても岩場に突き当たる。
2番目の岩場を通過し、急な岩稜をブッシュを払いながら喘ぎ登り、1441㍍独標につく。
前にも書いたが、『武蔵国郡村誌』『武蔵通志』に記載されている「高見倉山」は、文字通り高見倉沢源頭にある山と解釈すれば、この2つの岩場を中核とする1441㍍独標、1424㍍独標間の山稜一帯となるのだが、どうだろうか。
1441㍍独標からのくだりでは、このコース最悪のブッシュ帯に突入する羽目になった。
とにかく全身で体当たりするように突っ込んでブッシュ帯を突破する以外に手はない。
さらに悪いことに、登りにかかると今度はスズタケが現われ、踏跡も完全にかき消されてしまう。
しかし、そのスズタケの中に山ノ神の小祠を見つけたのは驚きだった。
いつ、どんな人たちがこの小祠を祀ったのだろうか。現在でも信仰が続いているのだろうか。そんな疑問が一瞬脳裏をかすめた。
だが、ゆっくり休んでいる暇はない。
凄まじいスズタケの密叢をかき分けながら1420㍍圏ピークに登り着くや、前方にベンチがチラッと見えた。
そのベンチをめざして逃げるようにヤブから抜け出したところが、白井差峠だった。
ようやくハイキングコースに飛び出した安心感からベンチに倒れるように座り込んでしまった。
時刻は既に16時近く。
中双里発の最終バスまでには、一刻の猶予もない。
疲れた身体にむち打って、休憩もそこそこに中双里に向かってくだらざるを得なかった。
中津川の中双里と小森の白井差を結ぶ生活の道としての役目を果たし終え、ハイキングコースとしてのみ命脈を保っている峠道は、眼下にみえる中双里の集落目がけてぐんぐん高度を落としていく。
途中、川後岩と呼ばれる巨岩を過ぎ、畑の中を抜けると、中双里は間近だ。
バス停に着いたのは17時05分。
ペースを上げたためか、最終バスまで30分の余裕があった。
中双里にくだりつくと同時に日没。
日が暮れるとともに急に寒気の厳しくなったなか、真っ暗なバス停で唯一人バスを待つのは寂しいものだ。
しかし、念願のコースを無事に踏破できた達成感は、そんな孤独感を凌駕するものだった。
次は歩き残した御岳山までの尾根を踏査しようと地形図をみながら計画を練っているうちに、最終バスがやってきた。
【参考タイム】
池袋7:10=西武秩父8:52-御花畑8:55~57=三峰口9:20~42=丸神ノ滝バス停10:27-東屋10:40-二俣11:10~30ー遡行終了12:00-大岩上12:30-梵天尾根12:50~13:10-芋掘ドッケン13:35~14:15-1441㍍独標15:08~15-白井差峠15:45~50-川後岩16:23-中双里17:06~37=三峰口18:32
【地図】2万5千分の1地形図「三峰」「中津峽」
丸神ノ滝から梵天尾根~秩父御岳山(1986年11月2・3日)
(図2:再録)梵天尾根付近略図(北側:小鹿野町両神小森側を中心に)(出典:山行記録「梵天尾根~秩父御岳山」奥武蔵研究会会報『奥武蔵』233号、1987年1月)
-1-1024x693.jpg)
前年(1985年10月)の丸神ノ滝~梵天尾根~芋掘ドッケン~白井差峠踏破成功に続き、1986年11月の連休を利用して、残る御岳山までの縦走を計画した。
今回は単独ではなく4人のパーティ。
しかも、滝越沢をつめた梵天尾根上から御岳山までの距離が、芋掘ドッケンを経て白井指峠にいたる距離の2倍以上という点を考慮し、初日の11月1日は午後発で、白井指指口の民宿に宿泊。
翌2日、早朝発の日帰りで一気に梵天尾根を御岳山まで縦走するという計画をたてた。
結果は縦走の途中、御岳山を前にして時間切れになり、やむなくビバークを余儀された。
日帰りの予定だったので、テントやツェルトはもちろんのこと,寝袋もなく、食料・水も1日分しかなく、結局寝ずに飲まず食わずという状態で、ようやく3日朝、御岳山に到着するという苦い経験となった。
当時の山行記録をもとにごく簡潔に2日間の行程を再現してみたい。
1986年11月1日16時に白井差口の民宿に到着。
翌11月2日、民宿の車で丸神ノ滝バス停まで送ってもらい、昨年単独で登った滝越沢をつめるルートで梵天尾根到達をめざした。
ところが、沢に沿った仕事道を登り、仕事道が消えたあとは沢を遡行したのち、いよいよ沢を離れ、左側の急なガレ場を登る際に、4人パーティならではの困難に直面した。
以下、参加者それぞれの山行記録を再編集し、私が若干加筆したものを掲載したい。
丸神ノ滝を見て滝越沢をつめる。
道はとっくになくなっている。
大きな岩場が行く手に見える。
あれを左から巻いて登るのだ。
急斜面で落石の危険がある所なので、全員一致の行動はとれない。
稜線まで実に長く苦しい登りだった
丸神ノ滝の東屋を出発したのが8時05分で、梵天尾根に達したのが11時05分。
この間、休憩時間を含め、3時間を要した。
梵天尾根を東に向かうと、意外にも踏跡があった。
古い赤テープもところどころについていた。
だが、このテープも途中で消えてしまった。
小さな岩峰(現在、「小岩峰」と呼ばれる1331㍍独標)をへて、倉明山(くらけやま)に到着。
少し南にある3等三角点を確認し、戻って北東に続く稜線の入口には立ち木に赤ペンキで矢印があったが、ここは迷いやすいところだ。
ここから踏跡なのか獣道なのか分からないようになり、全く道らしくない。
かなりの登降を繰り返して、地形図にたった一本だけ記されている両神村小森(現在は小鹿野町両神小森)の煤川から中津川側(当時は大滝村中津川。現在は秩父市中津川)の芋平沢に越える破線路(長井屋峠)に14時05分到着。
煤川への道が完全に廃道と化しているのに対し、中津川側の滝之沢にくだる道が明瞭に踏まれていたのが意外だった(滝之沢が滝沢ダム建設により廃村になったため、長井屋峠~滝之沢の道も廃道に)。
右手に和名倉山や三峰山方面を望みながら伐採地のへりに沿った登降を続けていると、前方に突如として大きな岩山(茂萩山:1188.3㍍2等三角点:点名「四期萩」)が現われた。
左右とも険しい岩壁だ。
果たして登れるのか不安になってきた。
とても巻くことはできない。
もはや、この岩へ取り付くしかない。
岩場の通過には十分な時間が必要だった。
なんとなく踏跡に見えたところを慎重に登る。
ひとつ登ると、また次の岩壁が出てくる。
ザイルを出して確保するなどして、ようやく茂萩山の山頂に着いた。
時刻は既に15時50分を過ぎ、あたりは薄くなってきた。
御岳山までは、まだかなりの距離があり、もはや日没までに御岳山につくことは不可能に近い時間帯になった。
それでも御岳山に着けば、整備されたハイキングコースになるので、ライトをつけてくだれば大丈夫と、気を取り直して茂萩山からさらに尾根を東に進んだ。
茂萩山の東側は岩もない普通の山だった。
かなり時間も遅い。早く御岳山に着かねばと焦ってくるが、いかんせん滝越沢のガレ場の急登、茂萩山までの登降、そして茂萩山西面の岩登りなどで疲れた身体がもはやいうことを聞いてくれない。
相変わらずの登降を続け、中で山ノ神の新しい祠が祀ってある鞍部にさしかかった。
日も落ちて、あたりが俄に暗くなってきた。
尾根が広くなり、踏跡がはっきりせず、しかも暗い状況。
尾根を外しやすく、外したと気づいた場合、すぐに尾根に戻らなければならないが、暗くて尾根も見えない。
とにかく稜線伝いだと思われる方向にライトをつけて降りる。
途中で左の方にはっきりした尾根が見え、尾根を外したと思って、かすかに見える尾根をめざして急登する。
ライト頼りに道のないところを登るのだから、恐ろしい。
登ってみると、何と先ほどの山ノ神の祠についていた。
リング・ワンデリングをやってしまったのだ。
ここで今日の行動を中止する。
先に進みたい(今日のうちに帰宅したい)気持ちは誰にもあったが、話し合ってビバークすることを了承してもらう。
全員もっているものをすべて着て、一番上に雨具をつけ、リュックに足を入れて寝る。
少しウトウトしたが、どうも皆がゴソゴソしている。
声をかけると、皆寒いといっている。
これでは全員風邪をひいてしまうので、焚き火をする。
そのため、一晩中、起きて薪探しをすることになってしまった。
街の灯が遠くに見えている。
両神村(当時)の小森(現在は小鹿野町両神小森)付近だろうか。
人家の灯は良いものだ。
翌朝(3日朝)5時過ぎから明るくなってきた。
コーヒーを回し飲みして6時30分出発。
昨日(2日)迷った地点を確認し、今度は前方にはっきり見える御岳山へ何度も登降を繰り返し、8時10分ようやく山頂に立った。
早朝の澄んだ冷気は遠望がきき、遥かなビバーク地点付近まで目に入り、越えてきた尾根を眺めて感無量だった。
とうとう御岳山についた。誰の顔も昨夜一睡もしなかった顔ではない。輝いている。
この長大な梵天尾根を御岳山まで通して歩けたのだ!
【参考タイム】
11月1日
池袋11:44=西武秩父13:23―お花畑13:30~58=三峰口14:21~15:05=白井差口(民宿泊)15:50
11月2日
丸神ノ滝バス停7:30ー東屋7:50~8:05―二俣8:50~9:00―沢を離れる9:50~10:00―岩場上10:30~50―梵天尾根11:05~15―1333.6㍍三角点(倉明山)12:10~20―昼食13:05~55―長井屋峠14:05―1125㍍独標14:55-重萩山(1188.3㍍2等三角点)15:50~16:00)―1010㍍圏ピーク先の鞍部(山ノ神)18:00(ビバーク)
11月3日
1010㍍圏ピーク先の鞍部(山ノ神)6:30ー1010㍍圏ピークに戻ってコース確認6:50―1026㍍独標7:15~25―落合分岐8:0―ー秩父御岳山(1080.4㍍3等三角点:点名「落合」)8:10~20ー落合9:45~10:21=三峰口10:55
【地図】2万5千分の1地形図「三峰」「中津峽」

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