「比企・外秩父の山徹底研究」第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。

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(略図)大霧山付近略図

定峰峠(新定峰峠)(マジノタワ・マジンタ)

 白石峠からの尾根上の「高谷山」(たかがややま)からもう1つの突起を越えてくだりつくと、いまは車道の通る新定峰峠(しんさだみねとうげ)だ。

 なぜ「新」かというと、ここは本来の定峰峠ではなかったからだ。

 本来の定峰峠は、いまは「旧定峰峠」とされているずっと北寄りの白石から定峰への乗越しである。

 ところが、1955年に定峰から白石への車道が本来の定峰峠ではなく、それから約1.2キロ南に寄った地点を通るようになってから、車道の通る乗越しを「定峰峠」と呼ぶようになり、本来の定峰峠は「旧定峰峠」へと「降格」した。

 2万5千分の1地形図「安戸」でも、車道の通る峠に定峰峠の名をつけ、本来の定峰峠には名称の表記すらない。

 当初、本来の定峰峠を「旧定峰峠」、車道の通る新たな峠を「新定峰峠」として使い分けていたガイドブックや登山地図等も、次第に「新定峰峠」から「新」を外し、定峰峠と表記するようになっている。

 では、いまの「定峰峠」、つまり「新定峰峠」は地元では何と呼ばれていたのだろうか。

 車道が通る新峠を行政側が「定峰峠」と命名する前に、白石側(東秩父村側)、定峰側(秩父市高篠側)のいずれも峠を定峰側の小字(山字)名に因み「マジノタワ」ないし、それが訛った「マジンタ」と呼んでいた。

 「マジノタワ」の名は、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980年)所収の「高篠村略図」にも、峠付近の小字名として明記されている。

 以上をまとめると、現在の呼称は定峰峠(新定峰峠)だが、もともとの名称は「マジノタワ」ということになる。

 新定峰峠(定峰峠)を通る林道が開設する前の1954年に出版された『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8奥武蔵』(朋文堂)所収の大石真人氏監修の「外秩父概念図」では、新定峰峠(定峰峠)を「マジノタワ」、旧定峰峠を定峰峠と正当に記載している。

 つまり、新旧定峰峠は、それぞれ以下のような名称の変遷をだとった。

〇定峰峠→旧定峰峠

〇マジノタワ→新定峰峠→定峰峠

 既に定峰峠の名が定着した感があるが、地元呼称を生かす立場から、定峰峠(マジノタワ)と、地元呼称を括弧書きで併記して欲しいものだ。

 なお、今では車道(県道)が通り、すっかり「定峰峠」としてリニューアルした「マジノタワ」の定峰(秩父市高篠側)から白石(東秩父村側)にかけて、約11キロにわたり、約2千本のソメイヨシノが植えられ、春には見事な桜のトンネルとなる。

ゾンゲ山

 マジノタワ(新定峰峠)から急登を喘ぎ登った大きな山容の701㍍独標。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条にも、「ゾンゲ山 村の西にあり」と記載している。

 古くからの呼称が登山地図等に記載されていないのは何故だろうか。

 「ゾンゲ」は西側の定峰側の小字(山字)名でもある(『高篠村誌』所収の「高篠村略図」を参照)。

 ところが大石真人氏は「外秩父概念図」で、701㍍独標を「ゾンゲ山」でなく「岩久保」と記載。

 大石氏は、『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年)所収の「奥武蔵辞典ー山名編」でも、「岩久保(698㍍) 旧定峰峠と新定峰峠の間にあるヤブ山。山頂に道はない」と、岩久保の名を繰り返している。

 藤本一美氏も「岩久保」の名を踏襲(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。

 しかし、「岩久保」は「高篠村略図」(『高篠村誌』所収)によれば、マジノタワ(現在の定峰峠=新定峰峠)から白石峠に寄った付近、つまり高谷山南西面付近の小字名であり、ゾンゲ山と位置が離れすぎている。

 ゾンゲ山は、定峰側の小字名「ゾンゲ」が山名に転化したものであるが、そもそも「ゾンゲ」という変わった小字名はどのような意味なのだろうか。

 そこで、いつも参照している鏡味完二・鏡味名克著『地名の語源』(1977年)に「ソギ=傾斜地」とあるのを発見した。ソギはソゲとも関連あるとの指摘もなされている。

 ここから推測すると、急傾斜地を意味する「ソギ」が「ソゲ」へ、さらに「ソンゲ」→「ゾンゲ」へと転訛したのではないだろうか。

 つまり、「ゾンゲ山」は急傾斜の山という意味ではないだろうか(あくまで仮説であるが)。

獅子岩

 ゾンゲ山から下りきった鞍部東(右手)の林の中にある大岩。

 ゾンゲ山から向かうと分かりにくいが、反対に旧定峰峠からゾンゲ山に向かうと、立派なたてがみのある獅子(ライオン)が寝そべっている姿に酷似している大岩が左手にすぐ分かる。 

 ところで、皆谷で獅子岩について聞いたとき、地元の方は「定峰峠(引用者注:旧定峰峠)から白石山(しろいしやま)に向かう尾根上の鞍部にある」と語ってくれた。

 まさに、旧定峰峠から見てゾンゲ山への鞍部という「獅子岩」の位置に符合する。

 問題なのは「白石山」(しろいしやま)が何を指すのかということである。

 これについては、「皆谷方面から見て、槻川の奥に大きく望まれる山」という表現をされていた。

 たしかに、ゾンゲ山の大きな根張りの堂々たる山容は、先の表現にふさわしい。

 そこでゾンゲ山(秩父市高篠側の小字名にもとづく)が高篠側の呼称であるのに対し、東秩父村白石や皆谷では白石山と呼んでいる(ゾンゲ山=白石山)と考えてしまうが、そう簡単ではない。

 「白石山」は、槻川源流域の山の総称という可能性もある。

 そこで、いまのところゾンゲ山の別称が「白石山」であるという点については、可能性を認めつつも、留保したい。

旧定峰峠

 見出しには「旧定峰峠」とつけたが、こちらが本来の定峰峠である。

 車道こそ通じていないが、秩父市高篠側の定峰と東秩父村側の白石を結んだ峠道が明瞭に踏まれている。

 峠には山ノ神の小祠が祀られているだけで、今では人々が越える峠ではなく、大霧山に登る(あるいは大霧山からくだる)際の通過地点としてのみ歩かれているだけに過ぎない。

 だが、『新編武蔵風土記稿』秩父郡定峰村の条に、「定峯峠 村の東寄りの嶺なり・・・頂上に山神社あり・・・」と書かれている歴史のある峠である。

 『新記』秩父郡白石村の条にも、「村の西南間にあり、登り半里ばかり。頂を村界とす。定峰村へ下り一里程なる」と記す。

 峠の山神社が今でも無事なのは、定峰・白石両側の住民により現在でも愛されている証である。

檜平(桧平(ひのきだいら))

 旧定峰峠から北に大霧山に向けて最初に登りついた700㍍圏ピーク。

 西に大きな支尾根が分かれる。

 最近復刻された奥武蔵研究会『ブルーガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)131頁の「定峰高原・笠山・堂平山付近」図においては、「桧平」の表記を採用している。

茶立場(ちゃたてば)

 大石真人氏は、「外秩父概念図」(『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年所収)で、大霧山南(檜平北東)の724㍍独標に相当するピークについて、「茶立場」と記載。

 大石氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年)所収の「奥武蔵辞典ー山名編-」においても、「茶立場 大霧山頂のすぐ南につらなる一峯であるが、現在ここには二子山という名の入った指導標が立っている」と書いていいる。

 大石氏があとがきを書いている奥武蔵研究会『ブルー・ガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』では、茶立場の代わりに「二子山」と表記。

 さらに二子山から北西に派生する支尾根に「長尾根」の名を与えている。

 藤本一美氏は、前二者を総合する形で、724㍍ピークの名前を「茶立場」(二子山)と併記(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。

 私もこれまでの踏査研究を踏襲し、ブログ開設当時は、茶立場(二子山)と記載していた。

 ところが、1987年3月に東秩父村皆谷の旧家・関口家で観音山(中山)や観音塔について話を伺ったとき、たまたま大霧山に触れ、「大霧山を越えて、粥新田峠から三沢へくだる途中に茶立場という小平地」があるという話を聞いた。

 だが、聞き取りの主眼が観音山にあったため、私は上記の発言を単にノートにメモしただけで、そのまま38年も放置してしまった。

 痛恨の極みとはこのことである。

 当時もう少し突っ込んで、茶立場の場所とか名前の由来について質問していたら、一層の成果があがっていたと思うと、後悔の念で一杯である。

 それでもメモしていただけでも、幸いというしかない。

 ここで、茶立場の位置にについて二説が出てきた。

 果たしてどちらが正しいのだろうか。

 ブログでは両論併記としたが、このたび小川町在住の郷土史家・内田康男氏からお借りした文献のなかに、伊豆野輝氏編集の『栗和田風土記』1977年があり、ページをめくっていくと、以下のような記述があった。

 「伝うる処による旧三沢村の上の沢部落の大霧山の裾野に台地があって、茶屋跡といわれる処に昔茶屋があったとか、古老が語っているのは、いつの時代か不明でありますが、たびたび盗賊におそわれたので、ついに引き払ったといわれています」とある。

 注目したいのは、「茶立場」と「茶屋跡」、「粥新田峠から三沢にくだる途中の小平地」と「大霧山の裾野の台地」など表現の差こそあれ、全体で見るとおおむね同じような場所を指しているように思われてならない。

 つまり、粥新田峠を越え、くだった小平地(大霧山裾野の台地)に「茶立場」(茶屋跡)という地名があり、そこに上記のような昔話が残されていると考えられないだろうか。

 最初の関口家で聞いた話だけならまだしも、こうして栗和田(東秩父村大字坂本)でもほぼ同じ昔話が採集できたとなると、「茶立場」(茶屋跡)は粥新田峠道にあり、具体的には峠を越えて三沢側にくだった最初の小平地ないし台地、さらにいうと上の沢集落にあるという説の有力性が一層高まってきた。

 逆にいうと、大石説(茶立場=大霧山南のピーク名)は誤りであったという可能性が高い。

 では、もっと具体的に、茶立場(茶屋跡)があったという台地ないし小平地は一体どこのあたりだろうか。

 以下は推測に過ぎないが、皆野町三沢から粥新田峠に登る場合、上三沢の広町から三沢川を渡って登り始め、峰の集落を過ぎたあたりに榛名神社がある。

 榛名神社は、たしかに広町から粥新田峠に向かうときに登りつめたところにあり、ここからはいったんくだったあと再度登ると粥新田峠につく。

 まさに、「小平地」「台地」といわれる地形にある。

 実際に,榛名神社の鳥居をくぐった社殿付近には、昔はここに茶店があったと、飯野頼治氏が述べている(飯野頼治『山村と峠通-山ぐに・秩父を巡る-』エンタプライズ社、1990年)。

 要するに、茶立場が山名であるという大石説が誤りであるという可能性は高くなり、むしろ上三沢と栗和田(坂本)を結ぶ粥新田峠道の三沢側の榛名神社付近という可能性が高まった。

 だが、具体的な場所については、まだ私の推測の域に過ぎない。

 早く坂本や皆谷、そして峠を越えた上三沢で地名調査を再度行いたいものである。

 しかし、結果的に位置が誤ったとはいえ、大石真人氏が今から70年以上前に「茶立場」という地名を採集してくれたおかげで、このように話を展開することができたのであり、故人には改めてお礼を申し上げたい。

 なお、大石氏が茶立場と呼んだ大霧山南の724㍍独標の別名とされる「二子山」についても、ブルー・ガイドブックスやそれを踏襲した藤本氏の著書以外、名称を使用している文献を見ない。

 そこで「二子山」なる別名も誤りであり、地元呼称ではない可能性がある。

 そのため、略図では724㍍独標から茶立場の名を消すとともに、二子山の名を括弧書きとすることにしたい。

(付記)先に書いたように、大石真人氏著『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年)所収の「奥武蔵辞典ー山名編ー」で茶立場を大霧山のすぐ南に連なるピークとしながらも、「現在ここには『二子山』という名の入った指導標が立っている」と記している。

 この指導標は地元呼称を無視したハイカーによる私設のものである可能性が強く、そうなると二子山という名称にも疑ってかかる必要性がある。

大霧山(おおぎりやま)

 旧定峰峠(本来の定峰峠)から約50分の急登で登りつく766.7㍍3等三角点峰(点名「大霧山」)。

 登る途中から右側に有刺鉄線が現れるが、それは右の草原が秩父高原牧場になっているからで、牛が放し飼いにされている。

 秩父高原牧場は稜線東側の緩い草原に設けられており、「茶立場」付近から始まり、二本木峠まで続き、牧場を前景として東側に好展望が広がる。

 牧場と好展望という広々とした明るく開放的な雰囲気は、比企・外秩父ならではの、もっといえば大霧山~二本木峠付近の魅力となっている。

 まもなく登り着いた大霧山頂は360度の好展望が堪能できる。

 とくに北北西から北北東の展望が素晴らしい。

 多くのハイカーで賑わう山頂には、かつて「寂峰大霧山」といわれた戦前の面影は全くない。

 さて、大霧山について、古い地誌に目を通しておこう。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡三沢村の条を見ると、「大霧山 村の巽(たつみ)にあり、最も高き山にて、ややもすれば雲霧を含み、頂を蔵せり」とある。

 『武蔵国郡村誌』秩父郡皆谷村の条では、「大霧山 一名高鳥山。高二百五十八丈二尺。周回本村限り三十町。村の西方にあり、嶺上より三分し、東南は本村に属し、西は三沢村に属し、北は坂本村に属す。村の東方より上る五十一町三十間」と記す。

 『武蔵通志』は、「秩父郡槻川村・白石村・皆谷村に西、三沢村の東南にあり、南は高篠村・定峰村にまたがる。高二千一百六十尺登路二條あり、三沢村中組より上る三十五町余。皆谷より上る一里十二町。山頂雲霧常に絶えず、故に大霧の名あり」と記している。

 3つの古い地誌のうち、『郡村誌』で注目したいのは、大霧山の別名を高鳥山と明記している点である。

 『風土記稿』『通志』では何と言っても、山名の由来に触れている点である。

 『風土記稿』は「ややもすれば雲霧を含み、頂を蔵せり」と記し、『通志』にいたっては「山頂雲霧常に絶えず、故に大霧山の名あり」と明確に山名の由来を述べている。

 その後、「山頂雲霧常に絶えず」が大霧山の山名由来として定着して、現在にいたっている。

 ただし、大霧山は標高766.7㍍で、笠山(837メーオル)、堂平山(857.9㍍)、剣ノ峰(876㍍)などと比較してとくに高いわけではない。

 たしかに、マジノタワ以北の山稜では最も高いもいのの、この地域で断然高い山ともいえない。

 細かい点レベルの気象条件は分からないが、大霧山だけがとくに「山頂雲霧常に絶えず」というわけではないだろう。

 鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(角川書店、1977年)を見ると、「キリヤマ」の語源として、たしかに「霧」もあがっているが、「開墾地」「焼畑」があがっていることに注目したい。

 山の東側は秩父高原牧場であり、その前身に大規模な開墾地があったのではないか。

 秩父高原牧場の歴史を知らないため、詳しい方には一笑に付されるかも知れないが、大規模な開墾地がある山から大キリ山の名が生まれ、それに大霧山の字をあてたことから、「山頂がつねに雲や霧に覆われている」という名因が付会したのではなかろうか。

 秩父高原牧場のある一帯(とくに西側の秩父市側は、古くから三沢村・大野原村・黒谷村の入会で、秣場でもあったという(『角川地名大辞典 埼玉県』(角川書店、1980年)。

 入会地で秣場(草原)であったという事実から「オオキリ山・オオギリ山」の呼称が三沢村側で生まれたといえないだろうか。

 ちなみに、同じ山稜の「萩ノソリ」(小字名)も焼畑地名である。

 ところで、今や大人気のハイキングコースである粥新田峠だが、戦前、東武鉄道の後援で、岩崎京二郎、沢田武志、岩根常太郎、坂倉登喜子の各氏らがコースの開拓や道標の設置などに尽力した昭和10年代にあっても、粥新田峠~大霧山間は最後まで残された秘境であり、猛烈なヤブとブッシュが進路を阻んでいた。

 今では信じられない話だが、大霧山へのブッシュを刈るため、岩崎京二郎氏が秘蔵の日本刀を使ったという逸話が残っている。

 ガイドブックとして、初めて大霧山を紹介したハイキングペンクラブ『奥武蔵』(博山房、1939年)の「大霧山を中心として」という記事の冒頭で、筆者である沢田武志氏(新ハイキングクラブ社初代社長)は次のように書いている。

 当時の大霧山の様子が良く分かるだろう。

 「地学的研究の対象としての大霧山は夙に地学者間に命名が高かったが登山乃至は丘陵漫歩の目的としては何故か今まで忘れられてゐた様である。それは地形図に路形の記入のない事と最近迄ボサに災いされてゐた事が一般人に敬遠された理由でもあった様だが、最近東武鉄道旅客課と一般有志ハイカーの協力のうちに山道の手入れが行はれ華やかにデビューした」

 最後に大霧山と山麓の東秩父村皆谷について、皆谷で収集した昔話や山麓の行事などをいくつか記しておこう。

●大霧山の山頂には、小川町下古寺の古寺鍾乳洞に続いているといわれる深い穴がある。

 地元の人は子どもの頃、この穴に小石を投げ込んで遊んだが、いつまでも石の転がる音が反響して、怖がって入らなかったという。

●皆谷では、以前旧暦の4月8日に厄除けの神事である神送りを行った。

 今は行われていないが、坂本との境の道の両側の木にしめ縄を張って、穴のあいた大きなわらじを吊るして厄除けを行った。

 わらじに穴があいているのは、一つ目の巨人がいるので、疫病神が皆谷に入らないという「ふせぎ」である。

●皆谷では、天児安神社にあった杉の巨木のてっぺんに御幣を立てて降雨を祈願したという。

 地元の古老のなかには、大正7年(1918)の雨乞い神事を記憶していた方もおられた。

粥新田峠(かゆにたとうげ・かいにたとうげ)

 大霧山から北にくだると、今では車道の通る粥新田峠に出る。

 『新編武蔵風土記稿』秩父郡三沢村の条では「皆新田峠」と表記。

 秩父郡三沢村(現・皆野町三沢)と秩父郡坂本村(現・東秩父村坂本)を結ぶ古い峠である。

 飯野頼治氏は、粥新田峠の意義について以下のように述べている。少し長いが、引用しておきたい。

 「秩父へ入る小川米や、逆に、小川和紙原料のコウゾの樹皮を秩父から小川宿に運ぶ重要交通路として、毎日七、八十頭の駄馬が往来していた。秩父に入る物資の第一位はやはり「小川米」と呼ぶ米であったが、大宮郷に月六日ある市に立つ日には、小川町方面より一日に、二、三百頭前後の小荷駄が通ったという。

 江戸の人たちが秩父に入るには、川越を越えて釜伏峠やこの粥新田峠を越えて三沢の谷に下り、さらに曽根坂峠より黒谷に出て秩父へ至った。これを「河越通り」と呼び、川越・秩父間は、河越~高坂~小川~安戸~坂本~粥新田峠~三沢~秩父大宮というルートであった。秩父からはさらに志賀坂峠より上州・信州へと通じていた」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡るー』(エンタプライズ、1990年)

 肝心の粥新田峠の名称だが、昔、日本武尊がこの地で粥を煮て食べたがゆえに粥煮田→粥新田峠の名が生まれたというが、これはあくまでも伝説の域を出ない。

 ところで、粥新田峠は、皆新田峠(『風土記稿』秩父郡三沢村)、粥熟田峠(『武蔵国郡村誌』秩父郡坂本村)など、様々な漢字表記をされている。

 しかし、いずれにおいても、地元の呼称は「カユニタ」ではなく「カイニタ」である。

 「ケーニタ」と訛って呼ぶ古老もおられた。

 この「カイニタ」に「粥新田峠」の名の由来を説く鍵がありそうだ。

 地形語彙で「カイ」には「狭間」という意味がある。つまり、山と山にはさまれた狭間である峠を指すと考えることができる。

 一方、「ニタ」は「ヌタ」ともいい、「湿地」を指し語彙である。「イノシシが身体をこすりつけた湿地や」という意味でもある。

 以上を総合すると、イノシシが好きな湿地や沼地のあった峠という意味で「カイニタ峠」が使われ、それに「皆仁田」「皆新田」「粥新田」などの漢字があてられたと考えることができるのではなかろうか。

 1987年3月の東秩父村皆谷における聞き取りで、「坂本から粥新田峠の旧峠に登る途中に『休み石』という名の巨岩がある」という話を採集したことがある。だが、その後確認できていないのは残念だ。

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