御嶽山(小川町青山上)を深掘りする

2025年に70歳になったシニアです。
若い頃通いつめた東上線沿線の比企・外秩父の山について、地元で取材した山名・峠名・お祭り・伝説などの資料を再編集してブログ「比企・外秩父の山徹底研究」を立ち上げました。
比企・外秩父の山域を14のブロックに分け、今後順次各ブロックの記事を投稿していきます。
2025年3月より姉妹編「奥武蔵・秩父豆知識」を月1~2回程度投稿します。
こちらもよろしくお願いいたします。
2025年7月下旬頃から、14回連載した「比企・外秩父の山徹底研究」をベースに、そこでは取り上げられなかった地域の山を加え、コンプリートな「比企・外秩父の山と峠・巨岩等小辞典」(仮題)を連載する予定です。乞うご期待。

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(図1)御嶽山周辺図
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御嶽山・福寿山・大峰

 八高線をはさんで仙元丘陵と対峙する小川町青山奥の丘陵を、総称で「福寿山」(ふくじゅさん)と呼ぶ。

 その福寿山の最高点が御嶽山(おんたけさん:297㍍独標)である。

 残念ながら福寿山は御嶽山を除き、その大半がゴルフ場(アドニス小川カントリー倶楽部)になってしまった。

 ゴルフ場造成前の福寿山には御嶽山を含め3つの主要なピークがあった。

(図2)ゴルフ場造成以前の福寿山(出典:(仮称)武蔵台カントリークラブ建設事業に係る環境影響評価書(大成建設株式会社、1986年12月)より作成)

 八海山、三笠山(ゴルフ場造成以前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」には289㍍独標で、大峰山と表記)、そして御嶽山である。

 山名から分かるように、御嶽山山頂には「御嶽山座王大権現」の石像、八海山山頂には「八海山刀利天」の石像、三笠山山頂には「三笠山大頭羅神王像」の石像がそれぞれ祀られていた。

 これら御嶽山三太神の石像のほかにも福寿山の山中には、各所に石碑や石像が建立されていて、これらはゴルフ場造成にともない、現在では御嶽山山頂に移設されている。

 このように福寿山は地元・青山をはじめ、南西側の上古寺などを含め人々の信仰を集めた山であった。

 八海山から三笠山に続く尾根は三笠山で2つの方向に分かれた。

 南に延びる尾根は三笠山(289㍍独標)から富士見平をへて、旧玉川村(現・ときがわ町)日影の小北(こぎた)の領域に入り、「大峰」(おおみね)と総称される山稜を最後に、小北の集落に落ち込んだ。

 三笠山から西に延びる尾根は福寿山の最高点である御嶽山(物見山)を立ち上げ、今度は御嶽山から南西に小川町と旧玉川村との境界尾根が延び、それは行風峠、行風山、大日山(お大日様)などをへて、現・ときがわ町の雷電山に達した。

 とくに福寿山から大峰一帯の山頂部分は草地で、御嶽山山頂からは北に三笠山から八海山にいたるなだらかな草尾根が見渡せた。

 小川町の福寿山から旧玉川村の大峰にいたる草尾根は、展望は絶好であり、遠く富士山を遠望できたほか、東京都心まで見えたという証言も残っている。

 初夏にはヤマツツジが全山を覆い、ツツジ目当てに登る人々も多かったという。

 もし、今福寿山が無傷で残っていたなら、仙元丘陵にひけを劣らない人気の丘陵になったことは確実である。

 残念ながら、福寿山の大半は1988年頃に始まる大成建設による「(仮称)武蔵台カントリークラブ」建設事業により破壊され、八海山、三笠山も残っていない。

 ゴルフ場は1994年10月30日に開城したが、名称は「アドニス小川カントリー倶楽部」に変更された。

 この名がついたのには、次のような逸話がある。

 「ゴルフ場造成地のうちに福寿山という字名があり、それから発想される福寿草の英名がアドニスであることから、それに因んでゴルフ場名に使われたとも推測されます」(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい・いきいきサロン、2024年2月)。

 福寿山を破壊したゴルフ場の名前に、福寿草の英名がつけられたというのは、ブラックジョーク以外の何物でもない。

 このように福寿山は、最高点である御嶽山を残し、消え去ってしまったが、残った御嶽山の登山価値は決してゼロになったわけではない。

 青山上(あおやまかみ)からの登山道は、八海山→三笠山→御嶽山という参道こそ破壊されたが、それ以外の2つのコースである八坂神社経由のコース、慈眼寺(じげんじ)からのコースの2つは、いずれも歩き甲斐のあるコースである。

 御嶽山の南西側である小川町上古寺の滝ノ入からのコースは古くから歩かれていたが、林道や仕事道が御嶽山山頂近くまで延びたことにより、一気に脚光を浴びることになった。

 上古寺滝ノ入側はゴルフ場開発の影響を受けていないため、昔からの面影を残しているのみならず、滝ノ入不動尊や石尊山、サネ山の奥の院など上古寺側の信仰の跡を残す秘境的な興味もある。

 滝ノ入の集落や滝ノ入不動尊などを経由するなど、青山上からのコースとは違った雰囲気がある。

 最後に、旧玉川村日影から小川町上古寺に乗っ越す「行風峠」から雀川砂防ダム公園にくだる林道も、御嶽山からの帰路には十分使える。

 御嶽山から行風峠へは、尾根伝いにたどるコース以外に、滝ノ入不動尊付近から沢沿いの道をつめ、峠にいたる古い峠道もある。

 さらに、雀川砂防ダムやダム湖の上流で雀川本流から分かれる焼山沢(焼山川)には、不動滝の上に古い北向不動尊の石祠があり、小北の一部の人々の信仰対象であった。

 今では信仰もすたれ、祠を見つけることは困難だが、滝は十分見応えがあるし、こんな秘境が御嶽山付近にあったのかと驚かされるに違いない。

 以上駆け足で述べたが、ゴルフ場造成にともない登る価値がなくなったわけでは決してなく、今でも御嶽山とその周辺は興味のつきない山域である。

 もちろん指導標は皆無の山域で、300㍍未満の丘陵といえども初心者向けではない。

 しかし、地図読みができ、山慣れた人にとっては、誰にも出合わない静かな山歩きが堪能できる貴重な山域であろう。

 以下、2026年4月18日から5月17日までの間に4回訪れた際のメモをベースに、皆様を御嶽山に案内したい。

 なお、ときがわ町日影(小北集落)から大峰をへて御嶽山にいたるコースについては、小北の地権者が大峰周辺への立ち入りを禁止しているため、紹介を見送った。

青山上(あおやまかみ)からのコース①「八坂神社から御嶽山」

(図3)青山上から御嶽山(その1)
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 青山上から途中、八坂神社・琴平神社に寄り、御嶽山に登るコースは、御嶽山へのメインルートである。

 小川町駅からバスを使わずに歩き出せることからも、もっとも手軽なコースである。

 登り・下りどちらにも使えるコースである。

 小川町駅から駅前どおりを歩き、国道254号線に出る。

 右に進み、相生町の十字路のところで、左の槻川に下る道に入る。

 槻川を相生橋で渡るが、この付近は笠山・笹山・堂平山を眺める絶好の場所である。

 橋を渡り終え、左に青山会館をみながら進むと、信号に出る。

 信号の向かい側左手は小川町郵便局である。

 信号を渡り、右に進むと、まもなく地形図に記載のない新しい広い車道に出る。

 この車道を右に行くと、前方に鎮守の森がみえ、まもなく青山の鎮守である氷川神社につく。

(写真1)青山上の集落から御嶽山を望む
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 大字青山は青山上(略称青上:あおかみ)と青山下(青下:あおしも)に分かれるが、氷川神社のある字根木(ねぎ)は青山上である。

 青山下(青下)は、さらに青山一区(田島・畑中・見田=ケンダ)と二区(大原・矢ノ口)に分かれる。

 氷川神社は、これらすべての青山の地区の総鎮守である。

 氷川神社で広い車道と分かれ、神社およびその隣の歯科に沿った車道に入る。

 この付近から見ると、前方にめざす御嶽山が一段と高く聳えている。

 まもなく速度制限30キロの看板とカーブミラーのある場所から左に入る小道を見つける。

 集落内の小道は頻繁に分岐するが、基本左をとり、山に向かって行けば間違えることはない。

 やがて左の畑、右の宅地にはさまれた道となり、右手に「青山上地区土地改良記念碑」を見れば、正解である。

(写真2)青山谷上地区土地改良記念碑
(写真3)青山上から八坂神社の登り口に向かう

 そのまま進み、突き当たったら、右手のヤブのかかった道に入る。

 左は森林、右は畑。しかも入口に土のうが積まれ、ヤブが覆っているので、この先が案じられるスタートである。

 この八坂神社入口まで、小川町から約45分程度。

 土のうを越えてヤブのかかった道に入ると、ヤブがうるさいのは入口のみで、すぐにはっきりとした道となる。

(写真4)ヤブの茂った八坂神社の登り口

 ただし、道は掘割状で、真ん中が沢状にえぐられており、そこに落ち葉が積もり、深いところでは足首まで落ち葉の中にズボッと入ってしまう。

 なるべく真ん中の落ち葉の積もった部分を避けて側面を拾って登るが、歩きにくいことこのうえない。

 その上、頻繁に現われる倒木が通行の障害となる。

 やがて左手にゴルフ場のフェンスが現われ、しばらくの間、フェンス沿いに登ることになる。

 フェンスが消えると、今度は周囲が広くなり、右手に岩壁が見える。

 すると、すぐに倒れた木の鳥居が現われ、文字が風化してしまった古い木製の指導標が現われる。

 ここが八坂神社への分岐である。

(図4)青谷上から御嶽山(その2)および上古寺滝ノ入から御嶽山
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 真っ直ぐ登る御嶽山への道と分かれ、八坂神社に立ち寄ることにする。

 岩の出た急な坂道を登り切ると、八坂神社の社務所につく。

 この先ひとのぼりで八坂神社の神殿に到着する。

 先の岩壁の上が八坂神社の神殿である。

 八坂神社は2万5千分の1地形図「武蔵小川」の297㍍独標(御嶽山)北の神社記号である。

八坂神社と琴平神社

 八坂神社の社殿は1993年5月、ゴルフ場の造成業者である大成建設により改築されている。

 八坂神社は青山上の人々の信仰を集める神社であり、新型コロナ以前には盛大なお祭りが行われていた。

 山麓に住む恩田芳郎さん(80歳)は、当時の祭りの様子を次のように語ってくれた。

 お祭りは毎年7月第2週ないし第3週の土日2日間行われた。

 土曜は祭りの準備にあて、立派な神輿を青山上の集落センターに展示する。

 また、子ども神輿を小川信用金庫から借りるとともに、太鼓を鎮守の氷川神社から借りる。

 そして、夜から先達が太鼓を叩きながら八坂神社に登り、翌日まで一晩中太鼓を叩いた。

 翌日曜は祭りのクライマックスで、子ども神輿が青山上の集落を練り歩くとともに、青山上の人々は集落センターで展示されている神輿を拝んだあと、太鼓の音に誘われるかのように、八坂神社に登る。

 神社では、神事が始まり、氷川神社の宮司が祝詞を唱えたあと、参加者が拝み、神事が終わったあとはお神酒がふるまわれ、賑やかな直来が夕方まで続いたという。

 ところが新型コロナを境に祭りの様相がすっかり変わったしまった。

 現在では、7月第2ないし第3日曜のどちらかに、青山上の4つの組(南・北・中・根木)が持ち回りで神事を行い、氷川神社の宮司が拝んだのち、社殿内を掃除し、そのあと軽くお神酒を飲むだけで、半日で終わってしまう。

 恩田さんによると、今年(2026年)は恩田さんの属する中組が担当で、中組の役員数人と青山上の区長、そして氷川神社の土岐宮司が登るだけだという。

 このように祭りもすっかり簡素化されてしまったが、それでも青山上で八坂神社を知らない人はいない。

 そこで、御嶽山への道が分からなくなった場合、八坂神社への道を尋ねるとよい。

(写真5)八坂神社
(写真6)八坂神社
(写真7)八坂神社
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 さて、八坂神社からそのまま尾根伝いに御嶽山山頂に向かう破線路が地形図に記されている。

 この急な道を少し登ると、小平地に出て、そこに石の祠が祀られている。

 これが琴平神社で、地域の人々は八坂神社の「奥の院」と呼んでいる。

 石積みの上に台座が置かれ、その上に石の祠が置かれている。

 祠のサイズにくらべ、屋根が大きく、重い屋根を支えるように祠の前には二本の支え棒が設けられている。

 この二本の支え棒が屋根を支えるという形状は、実は「サネ山の奥の院」の石祠と全く同じである。

 建立されたのは比較的新しく「昭和拾参(十三)年四月」との刻名が読み取れる(誤っていたら、ご指摘ください)。

(写真8)琴平神社

 琴平神社から道のない急なブッシュ帯の尾根を御嶽山に直登することもできないことはないが、やはりおとなしく八坂神社入口まで戻り、通常のルートを辿ることにする。

 八坂神社分岐からは、沢の源頭のような広い山腹になり、倒木がいたるところ進路をふさぎ、道が一部不明瞭になるところもある。

 しかし、再度現われたゴルフ場のフェンスに沿って登れば、頭上が明るくなり、まもなく尾根上に飛び出す。

 ここからは終始フェンスに沿った道で、ゴルファーの喋り声、ボールを打つ音などが聞こえ、気分をそがれてしまう。

 ただし、少し進んだところに「二十二夜供養」の古い石像がある。

(写真9)二十二夜供養像

 宝暦九年(1759)四月吉日の刻名があるが、これは福寿山に建てられた石碑や石像のなかでももっとも古いものである。江戸中期の頃から、福寿山が青山の人々の信仰を集めていたことを証明する貴重な石像である。

 二十二夜供養の石像からは、ゴルフ場のフェンスに沿って御嶽山頂までの最後の急登となる。

 約10分あまりの急登の末、木の鳥居をくぐると、目前に御嶽山蔵王大権現の石像が現われる。

 御嶽山頂についたのである。

御嶽山

 鳥居が八坂神社方面を向いていることからも、今登ってきた八坂神社経由の登山道が、現在の御嶽山参道であることは間違いない。

 二重の石積みの上に、さらに蓮の台座があり、その上に御嶽山座生大権現の石像が鎮座する。

(写真10)御嶽山頂の鳥居
(写真11)御嶽山座王大権現像
(写真12)御嶽山座王大権現像
(写真13)御嶽山頂の私設山名表示板
(写真14)御嶽山頂の小川町二級基準点

 御嶽山座王大権現像の高さ自体はそれほどでもないが、なにせ石積みが二重で高いので、座王大権現像は、まさに見上げるほどの高い位置にある。

 小川町の二級基準点が設置されている山頂は樹林に覆われ、展望は効かないが、それがかえって幸いし、山頂からはゴルフ場のグリーンは見えない。

 しかも、ゴルフ場との間を残存樹林が遮蔽するので、幸いにもゴルファーの声も聞こえず、静寂に包まれた雰囲気が好ましい。

 山頂には、昔からあった御嶽山座王大権現像以外に、その横にゴルフ場造成で破壊された福寿山から移設された石像や石碑が並んでいる。

 御嶽山座王大権現像の左に、頭に象を乗せた三笠山刀利天像(通称・三笠山様)、その左に獅子を乗せた八海山大頭羅神王像。

 さらに、その左に「日本武太神」の石碑(明治九年四月吉日大澤氏)、その左に三つ並んだ石碑(左から「十二太神:明治九年(1876)六月当所菅門代三郎」、「一心霊神:明治十九年(1886)四月吉日下小川久保平吉」、「普寛霊神」年月・寄贈者は読み取れず)がある。

 その左側に「中央不動尊」の石碑(明治十九年(1986)四月吉日、島田重太郎)。

 一番左に、「半蔵坊霊神」の石碑(明治二十五年(1892)一月吉日、大字青山講社)が置かれている。

(写真15)三笠山刀利天像(御嶽山山頂)
(写真16)八海山頭羅神王像(御嶽山山頂)
(写真17)日本武大神碑(御嶽山山頂)
(写真18)十二太神、一心霊神、普寛霊神碑(左から)(御嶽山頂)
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(写真19)中央不動尊(御嶽山山頂)
(写真20)半蔵坊霊神(御嶽山山頂)

 このうち「三笠山様」はかつて三笠山山頂(ゴルフ場造成以前の2万5千分の1地形図「武蔵小川」の289㍍独標)に、そして「八海山様」は八海山山頂に、さらに「半蔵坊霊神」は八海山北肩に祀られていたものである。

 とくに「半蔵坊霊神」は有名で、今でも山麓の青山上では「半蔵坊様」と呼ぶ人が多い。

 山麓で聞き取りをしているうちに、ある老人が眼前に聳える御嶽山を指して、その奥には御嶽山よりも高い山があったと語ったことを今でも記憶している。

 福寿山の最高点が御嶽山であるから、それよりも高い山はないのだが、おそらく老人の記憶のなかには、麓から見える御嶽山よりも奥に位置する三笠山や八海山などの方が高いという(誤ってはいるが)かすかな記憶が残っていたのだろう。

 それでは、古い地誌で福寿山がどのように描かれているのかをみてから、青山上の御嶽講について触れておこう。

福寿山について

 まず明治8年調査の『武蔵国郡村誌』比企郡青山村の条では、「福寿山 村の南にあり、東西百五十間、南北二百間」とある。

 明治24~25年の『武蔵通志』はさらに詳しく「福寿山 大河村青山の南にあり、山頂円形にして御嶽神社あり。松檜の間、ツツジ多し」と、御嶽神社の存在に触れているほか、「ツツジ多し」と、山の光景にも触れている。

 そして最も詳しい記述が『武蔵通志』も参照したと思われる明治19年の「青山村地誌」(小川町教育委員会所蔵旧大河村文書2)である。

 それによると、「福寿山 中央円形にして、突出し、四囲小丘陵羅列す。景致 ツツジ満山松柏疎々風景絶佳なり。雑項 頂上に松下に御嶽神社の石像あり。ツツジ満開の候は風流才子観花の徒山上群をなす。里俗物見山と称するは則ちこの処なり」と、実に詳しく記している。

 実は「福寿」は小字名で、厳密にいうと御嶽山から三笠山付近をさす。

 しかし、「福寿」は「福寿山」と呼ばれるようになり、その範囲も御嶽山・三笠山付近を超え、青山奥の山一帯を指すようになった。

 そこは初夏には全山がヤマツツジで彩られ、ツツジ目当てに多くの人々が登ったことがわかる。

 さらに「中央円形にして、突出し、四囲小丘陵羅列す」との表現も、最高点である御嶽山とその前衛である三笠山・八海山との関係を的確に表現している。

(図2再掲)ゴルフ場造成以前の福寿山

 私は以前、御嶽山大蔵王権現像が明治19年(1886)に建立されたと聞いたことがある。

 しかし、同じ明治19年に記された『青山村地誌』に既に「頂上に松下に御嶽神社の石像あり」と記されていることから、石像は明治19年以前から設置されていた可能性もある。

 御嶽山座王大権現の石像は、サイズこそ異なるものの、木曽御嶽山の石像を忠実に模してつくったという。

青山上の御嶽講について

 私は1987年4月18日、偶然、御嶽山頂にて、御嶽山の例祭に遭遇した。

 当日は山頂一杯に人々が押し寄せ、地元・青山上はもとより、上古寺、日影、そして何と東京からもたくさんの人々が訪れ、御嶽講の盛大さに驚きを隠せなかった。

 福寿山の主要ピークに御嶽山、三笠山、八海山など御嶽三太神にちなむ山名をつけ、しかもそれぞれに石像を設置するというのは、御嶽講としてもかなり規模の大きな講であることは間違いない。

 だが、その実態は当時良く分からなかった。

 ゴルフ場造成で三笠山・八海山が消滅したのちにも例祭は続き、例祭当日は八坂神社経由の参道を多くの人々が登って行った。

 その後、御嶽山の裏側に当たる上古寺の滝ノ入林道が山頂間近まで延びて以降は、滝ノ入林道の終点から山頂を往復したという。

 とくに興味深いのは、先に書いたように東京から遠路やってきた人々の多さである。

 東京からバスを連ねて滝ノ入の林道を登って行ったという。

 これだけの勢力のある御嶽講なのに、その詳細を記した記録は皆無である。

 そこで、2026年4月18日の例祭当日に御嶽山に登り、山頂に集まった講中の方々に話を伺おうと考え、御嶽山に向かった。

 しかし、12時頃に山頂に到着したものの、誰も訪れた形跡がない。

 数時間待ったものの、結局誰も現われなかった。

 帰路、青山上で何人の方に聞いたものの、「御嶽講のことは良く分からない」との答えが多かった。

 そのなかで、詳しい話を聞かせてくれたのが、先に名前を挙げた恩田芳郎さん(80歳)である。

 ご自身も青山上の御嶽講中の世話人を務めたという恩田さんによると、御嶽講の講元は元・小川町役場の職員だった青山上の原久夫さん(82歳)だという。

 原さんがお元気なときには、原さんの奥さんや原さんの補佐であった滝沢さんをはじめ、世話人たちが働きかけ、御嶽講は勢いがあったという。

 毎年4月18日の例祭当日には青山上をはじめ、上古寺、日影などからも多くの講中が登拝し、先に書いたように東京からもバスを連ね、たくさんの講中が御嶽山に登った。

 例祭の当日に山に登れない講中の人々には、世話人をとおし御嶽山のお札を渡したという。

 ところが数年前、原さんが病気で倒れ入院してから、青山上の御嶽講は急速に衰退し、現在は完全に消滅したという。

 例祭も立ち消えになった。

 世話人を務めた恩田さんも、実は御嶽講について詳しいことは知らないとのこと。

 もし講元の原さんがお元気なうちに話を聞く機会を得ていたら、石像を建立した時期や福寿山一帯を信仰の場とした経緯、東京にまで講中を広げた経緯など詳しいお話を聞けたはずだった。

 それを思うと、もっと早く聞き取りを行うべきだったと後悔したが、後悔先に立たずである。

(参考タイム)小川町駅→45分→八坂神社登山口→25分→八坂神社入口(八坂神社・琴平神社往復25分)→25分→御嶽山

青山上からのコース②「慈眼寺から御嶽山」  

 青山上から御嶽山への2番目のコースは、慈眼寺(じげんじ)奥の墓地から尾根通しに登るものである。

 八坂神社経由にくらべるとアプローチに時間がかかるのが難だが、これはバスを使うことにより解消できる。

 登り口は分かりにくいが、いったん尾根に乗ってしまえば、それほど急な登りもなく、山頂に到達できる。

 途中、石尊山へ往復したのち、滝ノ入林道終点経由でバアガヤツに沿った仕事道終点からの登路と合流する(この地点が「バアガヤツ分岐」)。そこから10分程度で山頂である。

 晩秋から早春にかけて勧めたいコースだ。

 ただし、くだりにとるとバアガヤツ分岐の先で道を間違えやすいので、登り専用のコースである。

 小川町駅から慈眼寺まで歩くと1時間近くかかるので、東秩父村路線バス(イーグルバス)を使いたい。和紙の里行き、白石車庫行きのどちらでも大丈夫だ。

 平日・休日の午前中の場合、原則1時間に2本程度だが、できれ事前に時刻を調べたい。

 バスに乗り、パトリアおがわの1つ手前のバス停「北根」で下りる(230円)

 北根バス停から右に腰二会館をみて少し進み、信号で左折。

 すぐに橋で槻川を渡り、県道西平小川線にぶつかる。

 右手にみえるのは小川町の地酒・帝末をつくっている松岡酒造だ。

(写真21)松岡醸造(帝松)付近から笠山を仰ぐ
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 正面をみると、「小川町青山メモリアルパーク」(宗教法人「永源寺」が運営)の大きな看板が出ているので、そちらに向かう。

 すぐに慈眼寺の入口(青龍山慈眼寺の標柱)になるが、その手前にある古い井戸を見ておきたい。

 「男井戸」と呼ばれる井戸は、慈光七井の1つとして語り継がれているという。

 近くのお宅でお茶を飲んでいた三人のお年寄りに話を伺うと、上の方には「女井戸」があるという。

 「これから御嶽山に登ります」というと、「頑張ってね」とエールを送られ、おせんべいの差し入れをいただいた。

 坂を登っていくと、右手が慈眼寺の境内。

 大きな門をくぐり境内に入ると、正面が慈眼寺の本堂。

 すぐ左手に井戸があるが、これが「女井戸」だろうか。

 説明板がないので、分からない。

 本堂の右手が住職の家のようだ。

 それにしても、庭にはミニチュアの動物の置物が無数ある。

 そのなかでも猫が圧倒的に多く、しかも可愛い。

 住職の家の前には「Welcome」と書かれた板があり、その上に3匹の猫の置き物が並んでいる。

 余りの可愛らしさに、そっとさわってみたほどだ。

 何でこんなに動物の置物があるのだろうか。

 先の井戸は「女井戸」なのだろうか。

 その疑問を解決すべく、呼び鈴を鳴らそうとしたところ、家の中で猫の鳴き声がした。

 先が長いので、泣く泣く寺の訪問は次回に回し、墓地に急ぐ。

(写真22)男井戸
(写真23)慈眼寺入口に立つ「青龍山慈眼寺」の石柱
(写真24)慈眼寺本堂
(写真25)慈眼寺境内の猫の置物

 墓地の奥にある森のなかに御嶽山に続く道があるはずだが、それが見つからない。

 そこでやむなく、墓地から森林に入り、踏跡なき斜面をひたすら登り、尾根に出ると、何と右下から道が登ってきていた。

 一体どこが本当の登り口なのだろうか。

 ここから雑木と植林が混じった森林のなかをたどる。

 道は明瞭で、比較的平坦だが、何せ倒木が多いのには閉口する。

 このあとくだりになると、次第に尾根がヤセてきて、今度はゆるやかな登りとなる。

 この先も、落ち葉がたまった道を平坦→くだりを繰り返すと、左から登ってくる道が合流する。

 ここから、いよいよ急登になるが、尾根をそのまま登ると踏跡が消えて行き詰まってしまうので、右側を緩く登り、まもなく尾根を右から巻く道に導かれる。

 すぐに御嶽山から派生する尾根に合流。

 傾斜が強くなるなか、最初のピークを巻き、すぐに現われる次のピークも左側から巻く。

 巻き終えた地点が、石尊山を派生させるピークと御嶽山との間の鞍部である(バアガヤツ分岐)。

 ここから進行方向右下(南)に林のなかをくだれば、5分ほどで滝ノ入林道奥の仕事道(バアガヤツに沿った)の終点に出る。

 これが御嶽山への最短路である。

 さて分岐点からは、まず石尊山に寄っていこう。

 巻き終わった鞍部から戻るようにピークに登ると、そこから痩せた尾根が派生している。

 くだって登りを2回ほど繰り返し達した突端の頂上中央に二叉に分かれた大木があり、その根元に青石の石碑が祀られ、「阿夫利神社」と刻まれている。

 上古寺滝ノ入の下(しも)の新井家の当主・新井實一(じついち)さん(76歳)は、阿夫利神社の石碑のある山を石尊山(せきそんさん)と呼んでいると話してくれた。

 かつては大山の阿夫利神社を勧請し、雨降りを祈願した山だったが、今では信仰もすたれ、石尊山の名も、阿夫利神社の青石の石碑も知る人は少ない。

(写真26)石尊山(山頂にある青石の「阿夫利神社」石碑)

 再び分岐まで戻り、いよいよ御嶽山に向けての最後の登りだが、それほど急ではなく、意外にもあっけなく山頂の御嶽山座生大権現像と三笠山刀利天像の間に、裏から飛び出す。

(参考タイム)北根バス停→15分→慈眼寺→10分→尾根道に出る→20分→左から道が合流→15分→御嶽山からの尾根に合流→15分→石尊山分岐=滝ノ入林道分岐(石尊山往復15分)→10分→御嶽山

上古寺滝ノ入からのコース

 北根バス停から県道西平小川線に出るまでは前項と同じ。

 ここで右に上古寺方面に進む。

 すぐに左手に入る林道が分岐する。

 ここが「林道小坂・滝ノ谷線 小川町起点」である。

 この地点(小坂)が上古寺の最も北端の集落である。

(写真27)林道小坂・滝ノ谷線 小川町起点

 林道は薄暗く、途中で2ヶ所大きなヤツに入る仕事道が分岐する。

 途中に「クマに注意」の看板もあり、あたりの薄暗さもあいまって、あまり気持ちが良くないところだ。

 やがて2番目のヤツを分けると、周囲が開け、葉桜の緑がまぶしい場所に出る。

 ここが滝ノ入集落奥のいわゆる「桃源郷」である。

 この地点に来るためには、原則は「林道小坂・滝ノ入線」を忠実に登ってくるのだが、近道として、滝ノ入集落内の道を通って到達するコースもある。

 先の林道起点からさらに県道西平小川線を進むと、駐車場を過ぎ、左に登る車道に「この先車両通り抜けできません」との注意書きがある。

(写真28)滝ノ入集落への道の入口にある注意書き

 この道を登って行くと、滝ノ入集落となり、集落最奥の二軒が、手前から下(しも)の新井家(通称シモンチ)、上(かみ)の新井家(通称ウエンチ)である。

 上の新井家の先は、細い農道になり、すぐに道は消えてしまう。

 この地点から左に先の林道と桃源郷がみえる。

 畑の脇を通ると、桃源郷に出ることができる。

 このコースは林道起点から長々と歩くことにくらべると大幅に時間を短縮することができるが、農道や畑の脇を通るので、地元の方に断ってから通ることをお願いしたい。

いわゆる「桃源郷」について

 ここで「桃源郷」について、その管理者である滝ノ入の新井實一(じついち)さん(下の新井家当主)(76歳)から詳しく話を伺ったので、その経緯を紹介しておきたい。

 新井さんは滝ノ入の奥にある自分の土地に好きで桃や彼岸桜、サンシュユなどを植え、花が咲く時期には、周りの人たちに楽しんでもらっていた。

 ところが、この場所がSNSで紹介され、勝手に「桃源郷」と命名されたあげく、グーグルマップや登山地図(たとえば、山と高原地図『奥武蔵・秩父』昭文社)などにも勝手に掲載されてしまった。

 その結果、2、3年前から車で県内外(遠くは神奈川県からも)から人が押し寄せ、集落内に無断停車するなどトラブルが発生した。

 そのため、新井さんは県道西平小川線沿いの駐車場に8台程度のスペースを借り、そこに車を誘導した。先の滝ノ入の入口にある「この先車両通り抜けできません」の注意書きは、滝ノ入集落での無断駐車禁止を促すために設置したものである。

 ところが、彼岸桜はソメイヨシノよりも満開が早く、3月中旬には満開になる。

 今年はソメイヨシノの開花から満開まで時間がかかったため、3月中下旬に一気に車で客が桃源郷に押し寄せることになった。

 8台駐車スペースを確保したといっても、それでは全く足りず、県道に駐車待ちの車が列をなし、それ以外の車が通れないという異常事態が生じ、小川警察署が出動する騒ぎになった。

 そのため、新井さんは3月中下旬の約2週間、ほぼ一日中、交通整理に追われたという。もちろんボランティアである。

 善意で育てた桃や彼岸桜、サンシュユが集落内の人や県道を通る車に迷惑をかけることになり、とくに今年の騒動で、新井さんも疲れ切り、来年は閉園も辞さないとお話されていた。

 しかし、閉園したといっても、勝手に車でやってくる方が後をたたないとなると、最悪の場合、せっかく育てた木を切ることにならざるをえない。そうした悲劇を生まないためにも、私たちは最低限の節度を守るべきである。

 私はいわゆる「桃源郷」(勝手な命名で、新井さんはこの名を認めていない)の盛りに行ったことはないが、行くなら車ではなく、公共交通機関で行くべきである。

 北根バス停から歩いても、せいぜい20分弱。小川町駅からのんびり歩いても1時間程度である。

 新井さんの善意を無にしないためにも、グーグルマップや登山地図から「桃源郷」の名は消すべきだし、公共交通機関と徒歩で行くことを厭わない方たちのみに開かれた場所にすべきなのである(それでも、ゴミは持ち帰るなど最低限のマナーを守りたい)

滝ノ入不動尊

 林道小坂・滝ノ谷線(通称:滝ノ入林道)は、滝ノ入の集落に出て、いったん周囲が開け、明るくなる。

 実は、この林道は当初、滝ノ入の集落から直接奥に通す予定だった。

 ところが、ずっと下(しも)の小坂を起点とする路線に変更された。

 それはさておき、滝ノ入集落を過ぎると、再び林道は谷間の暗い道となる。

 滝ノ入は林道の左岸(上流からみて)にある。

 その滝ノ入が林道の右岸(左手)に移り、道路が大きく左にカーブする地点で、滝ノ入横の山が急な断崖になって沢に落ち込む。

 ちょうど、その断崖の下で沢は急流になり、5㍍ほどの滝となる。

 黒い岩肌を滑り落ちる滝は、水量こそ少ないが、周囲の雰囲気も加味して、十分な迫力がある。

 滝の手前には石灯籠と古い祠がある。

 さらに滝の横に石段があり、登って行くと中腹に古い瓦の小祠が、そして最上段の上には、石積みの上に絶壁を背後にして立派な木の祠が祀られている。

 私の行った当日、小社にはしめ縄が張られ、そこに御幣が飾られていた。

 「不動尊」といえば寺院だが、滝ノ入不動尊の現在は神式であり、神社の祠といった方が適切である。

(写真29)滝ノ入不動の滝と石灯籠、小祠
(写真30)滝(滝ノ入不動尊)
(写真31)石段の上に滝ノ入不動尊が
(写真32)石段の途中にある古い瓦の祠
(写真33)滝ノ入不動尊に登る石段
(写真34)滝ノ入不動尊

 それにしても断崖絶壁の場所に、滝を横にして不動尊を祀った「滝ノ入不動尊」には、どのような沿革があったのだろうか。

 『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)は、明治19年(1886)の『上古寺村村誌』から以下のような記述を引用している(現代語訳)。

 「昔、僧空海がこの付近に廻来したとき、この滝をみて、あまり見事だったので、そのかたわらに、自ら石に不動尊の形を爪で刻み、滝の脇の岩石の上に創建したと伝える。しかし数百年経過して所在も不明になってしまい、里人は不動の滝と称した。そして文亀4年(1504)6月新井助左衛門という人が、この不動尊を発見して、改めて堂宇を設けてその中に祀ったという」

 『氷川の里 上古寺』は、続けて次のように述べている。

 「現在も不動堂には、不動尊を刻した石(緑泥片岩)が残されている。この石は、残念ながら2枚に分断してしまっているが、当初新井家の伝えでは、昔滝つぼの中へ投げ込まれた時、欠けてしまったといわれる。なお、この石は霊験あらたかな秘仏とされ、絶体に見てはならないといわれてきた』(『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)

 かつて「文亀4年(1504)銘不動明王画像板石塔婆」(高さ45センチ、幅19センチ)は、不動堂の堂宇に納められていたが、現在は神式の祠の中に納められている。

 滝ノ入不動尊は、滝ノ入の上(かみ)、下(しも)の両新井家が管理している。

 かつては開運に霊験があるとされ、近在に多くの信者がいたという。

 当時は毎月28日になると、20~30人の信者が列をなして不動尊まで参詣に向かった。

 とくに小川町飯田地区に信者が多かったという。

 なかでも、毎年10月28日には、新井家が中心になって、飯田から住職を呼び、不動尊まで団子や菓子、果物などを供えに行った。

 不動尊にウナギを供えて祈願するとたちまち開運するといわれたので、10月28日の例祭の直前、新井家では上流からウナギを放流して信者がウナギを捕まえることができるようはからったという。

 その際に、放流したウナギはあくまでも信者専用で、地元の人は勝手に捕まえてはいけないといわれていた。

 もちろん、信者のなかには自分でウナギを用意して、不動尊に供えた者もいた。

 また、例祭当日には「火渡りの行」も行われるなど、大変な賑わいをみせたという。

 その後、不動尊はいつしか神式となり、例祭には飯田神社の宮司を呼ぶようになり、それが途絶えたあとは、青山氷川神社の土岐宮司を呼んだときもあったという。

 現在、不動尊の信仰はなくなり、信者もいなくなり、例祭も実施されなくなった。

 今では毎年10月30日前後に、不動尊を管理する上(かみ)・下(しも)両新井家が相談し、宮司も呼ばず、両家だけでしめ縄を張り、御幣をつけたあと、祈願を行い、周囲の掃除をしたあと、軽くお神酒を飲み、帰ってくるだけになったと、下の新井家の当主・新井實一さんは語ってくれた。

 先に述べた不動尊の祠のしめ縄と御幣は、「多分、正月にウエンチ(上の新井家)が飾ったんだろう」とは新井實一さんの話。

滝ノ入林道終点から御嶽山へ(3ルート)

 林道が滝ノ入不動尊上で左にカーブし、その後、再度左岸を歩くようになると、林道終点につく。

 2万5千分の1地形図「武蔵小川」「安戸」で、左にバアガヤツ、右にジイガヤツに沿った破線路が派生する起点である。

 しかし、林道はこの先、バアガヤツに沿って無舗装で草が生えながらも、何とか車が1台走れる仕事道となって、さらに奥に進んでいる(2026年5月10日現在、途中に倒木があり、車は通れない)。

 最終的にバアガヤツのオクリで仕事道は終わる。

 右は大きな断崖で、ここから先、ルートは3つに分かれる。

御嶽山への最短ルート

 仕事道の終点左の林のなかに分け入ると、微かな踏跡が発見できる。

 ブッシュがうるさいながらも、明瞭な踏跡を赤テープに導かれ登って行くと、5分程度で、慈眼寺からの登路のバアガヤツ分岐に飛び出す。

 ここから御嶽山までは緩い登りで約10分。

 仕事道の終点から約15分。林道の終点からでも約30分弱で御嶽山に登頂できる。

 実は、このルートが今御嶽山に登る人が最も利用する道である(ただし、自家用車利用に限る)。

 先に紹介した青山上からの2つのコースのどちらかを登り(一般には八坂神社経由のコース)、くだりにこのコースをとり、滝ノ入不動尊を参拝するというのが、もっともオーソドックスなコース設定である。

石尊山経由のルート

 仕事道の終点から先の最短路を見送り、左の山腹を戻るように巻きながらゆるやかに登り、尾根の突端に出たら、今度は急斜面を立ち木にすがりながら登り切ると、石尊山山頂につく。

 青石の阿夫利神社の板碑が迎えてくれる。

 あとはヤセ尾根をたどれば、いったんくだって登り、再度くだって登るとピークの上に出て、すぐにくだると、バアガヤツ分岐。

 ここで慈眼寺からの道、バアガヤツに沿った仕事道からの登路からと合流。

 御嶽山までは、約10分の登りである。

サネ山の奥の院経由のルート

 仕事道の終点から左に御嶽山に登る踏跡を見送り、そのまま真っ直ぐ進む。

 シダが密生した踏跡なき斜面を右の大岩壁の裾野を巻きながら、緩やかに登り、回り込むと、御嶽山と大岩壁の頂上との間の鞍部に出る。

 ここで岩壁の頂上に向かうヤセた岩尾根を登ると、すぐに岩場の突端に出る。

 そこは小平地になっていて、林のなかにコンクリートの基礎の上に乗った古い石の祠(無記銘)が鎮座していた。

 石の屋根には苔が生えていて、この重い屋根を支えるために白い二本の支え棒が設けられていた。

 この祠こそ、「サネ山の奥の院」である。

(写真35)サネ山の奥の院
(写真36)サネ山の奥の院

 その存在を知ってから約39年目の初対面。

 感動のひとときであった。

 内田康男氏の計測によると、台座幅約28センチ、奥行27.5センチ、高8センチ。祠幅19センチ、奥行10.5センチ、高32.5センチ。屋根幅26センチ、奥行26.5センチ、高16.5センチ。コンクリートの基礎は、幅約39センチ、奥行60センチ、高53センチであったという。

 「サネ山の奥の院」は青山ではなく、上古寺に位置するが(内田氏は上古寺字滝ノ谷106番地12、あるいは同番地1か同番地9との境界付近かと推定)、御嶽講の講中は、この祠をあくまでも御嶽山の奥の院的な存在として参拝していたと思われる。

 もちろん、上古寺の講中は、滝ノ入からバアガヤツをへてサネ山の奥の院に登り、御幣をあげたあと、御嶽山に登ったのである。

 ところで、サネ山の奥の院をはさむ2つのヤツであるバアガヤツとジイがヤツには、それぞれ姥捨て伝説が秘められている。

 以下、『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)の該当部分から要約して紹介しておきたい。

 600年も昔の室町時代初期の頃、長きにわたった戦乱で疲弊した古寺の山里は、野武士の群れに乗っ取られてしまった。

 野武士による年貢の取り立ては過酷をきわめ、さらに「働けない者に食う物はいらない。働けないヤツは捨ててしまえ」と言い出す始末だった。

 古寺の人々は抗議したが、それに対し野武士の頭(かしら)は、「命令を聞かないヤツは切り捨ててしまうぞ」と逆に脅かす有様だった。

 結局、年老いた母を捨てなければならなくなった甚左(じんざ)は、母を捨てる運命を嘆いたが、老母は逆に「私のような足手まといがいなくなれば、おまえもいくらかは楽になるだろうし、私のことは何も心配はいらないよ」と逆に甚左をなぐさめた。

 いよいよ甚左が母を捨てる日が来た。

 捨てに行くと決められた場所は、人里離れた嶮しい岩山の谷間。甚左は母を背負って、岩山をしばらく登り、滝ノ入不動の滝についた。

 この滝の断崖を登ったところが、通称「おんたけさんのサネ山」といわれるところだった。

 サネ山の,右側が「ぢいが谷(ヤツ)」といってお爺さんの捨て場、左側が「ばあが谷(ヤツ)」といってお婆さんの捨て場と決められていた。

 どちらの谷も両側が岩の絶壁であったので、二度と人家に戻ることができないような場所だった。

 甚左そこの少しばかりの平らなところに立ち木の皮をむいて雨露をしのげるわずかな場所をつくり、乾飯と塩を残して後ろ髪を引かれながら泣く泣く谷を下りた。

 次の日に曲田(わだ)の弥五(やご)が年老いた父親を背負ってこの谷を登ったという。

 サネ山の「ジイガヤツ」「バアガヤツ」には、上記のような悲しい「姥捨て伝説」が秘められているのである。

 サネ山の奥の院から御嶽山にいたるルートは2つある。

 最初のルートは、鞍部からそのまま御嶽山に向かい急斜面を立ち木を掴みながら直登するもの。ちょうど三笠山様の石像の後ろに出る。

 もう1つのルートは、鞍部から進行方向右手を見ると、山腹をトラバースする微かな踏跡を発見できる。

 この踏跡をたどると、御嶽山から行風峠に向かう縦走路の途中に出る。

 あとは左に登れば、御嶽山まではわずかである。

(参考タイム)北根バス停→20分→林道小坂・滝ノ入線小川町起点→25分→桃源郷→20分→滝ノ入不動尊→15分→林道終点→15分→仕事道終点→5分→石尊山分岐→10分→御嶽山

 石尊山ルートは上記に15分増し、サネ山の奥の院ルートは上記に20分増し。

御嶽山から行風峠・雀川砂防ダム公園

(図5)行風峠~雀川砂防ダム公園~不動滝・北向不動尊
DSC_1873

 御嶽山山頂から下山する場合、鳥居の先に明瞭な道がくだっている八坂神社へのコースはすぐ分かる。

 しかし、それ以外のコースは指導標もないので、すぐには分からないだろう。

 まず御嶽山座生大権現の石像とその隣の三笠山刀利天の石像の間からくだる道が滝ノ入林道分岐をへて慈眼寺への道。石尊山分岐からわずか5分弱で、滝ノ入に沿った仕事道の終点につく。

 最後に、9体の石像や石碑のうち一番左にある「半蔵坊霊神」の石碑先から尾根通しにくだるのが行風峠への尾根道である。

 御嶽山から雑木と植林の尾根を緩やかにくだると、尾根が二分する。

 ここは道なりに左の尾根に踏む込みがちだが、こちらは急下降して、ゴルフ場最大の調整池直下に出る道である。

 正解は右の尾根道である。

 先の尾根分岐から小川町とときがわ町との境界尾根になる。

 いったんくだったあと、正面に見えるピークへの登りとなる。

 登り切ったピーク山頂には、地籍調査の標柱が複数埋められている。

 山頂がどこなのか分からない次のピークからくだりにかかると、ピークを右から巻く仕事道(滝ノ入不動からの古い峠道)が合流し、五差路の行風峠にくだりつく。

(写真37)行風峠
(写真38)行風峠

 行風峠は旧玉川村(現ときがわ町)日影と小川町上古寺を結ぶ古い道が乗っ越す峠である。

 雀川砂防ダム公園にある古い石の道しるべに「左古寺、右安戸」とあるが、このうち「左古寺」は、行風峠を越える古道を指している。

 残念ながらダム建設にともない林道が整備されたため、古道は寸断され、今ではすっかり荒れてしまった。

 このように古い歴史をもつ行風峠だが、現在は伐採作業用の重機が目立ち、峠名を記した表示版もない。

 おそらく訪れるハイカーは、誰もこの場所に「行風峠」の名があることに気づかずに通り過ぎるだけだろう。

 先に五差路といったが、御嶽山から縦走してきた場合、真っ直ぐ正面の山に登るのが行風山への道。

 進行方向左手下(峠の東側)には森林管理道(林道)雀川上雲線が見えている。雀川上雲線には、峠からすぐ下りることができる。

 進行方向右手が上古寺へくだる古い峠道。

 以上の3つの道に、御嶽山からの縦走路および滝ノ入不動尊からの古い峠道を加え、五差路となり、行風峠が交通の要衝であったことが分かる。

 ここでは、峠のすぐ下に見える雀川上雲線に下り、林道を左に進む。

 ところで、行風峠から林道にくだる道の右側(行風山側)に道に沿って古い石垣が積まれている。

 この石垣は一体何のために、いつ、誰がつくったのだろうか。謎がつのるばかりだ。

(写真39)行風峠から林道に下りる道右手に積まれた古い石垣

 林道は雀川ダムに向かって緩やかにくだっていくが、途中登りになる個所がある。

 ここで左(北側)の山林を登る明瞭な踏跡が目に付く。

 これが、2万5千分の1地形図「武蔵小川」にも明記されているゴルフ場最大の調整池堰堤直下に向かう踏跡である。

 だが、踏跡の入口には「ここは私有地です。立入禁止 地主」と書かれた紙がつるされたトラロープが張られ、立ち入りを阻止している。

 現在、大峰からゴルフ場の調整池堰堤付近一帯の山については、小北集落在住の地権者が立ち入りを禁止している。

 ネットの山行記録には大峰に登った記事も見えるが、長年山を守ってきた地権者の意思を尊重し、大峰への立ち入りは慎むべきだ。

 まもなく右から雀川砂防ダムとダム湖を周回する林道を合わせ、雀川砂防ダム公園につく。

 行風峠から約50分程度である。

(参考タイム)御嶽山→1時間→行風峠→50分→雀川砂防ダム公園

御嶽山から滝ノ入不動をへて行風峠

 御嶽山から行風峠までは、尾根通しに歩くのが無難だが、バリエーションコースとして、滝ノ入不動経由の道を紹介しよう。こちも指導標は全くない。

 御嶽山から滝ノ入林道分岐をへて、バアガヤツ沿いの仕事道終点に下りる。

 山頂からここまで僅か10分程度である。

 大きな倒木が道をふさぐ仕事道をくだると、すぐにジイガヤツとバアガヤツとの出合いに出る。

 ここが林道小坂・滝ノ入線の終点である。

 整備された道は滝ノ入の右岸(上流から見て)に沿っている。

 林道が右にカーブして、滝ノ入の左岸に移る個所にガードレールが設けられている。このガードレールが終わる付近で左の山林に目をこらすと、滝ノ入の対岸に沢に沿って林道とほぼ並行して延びる踏跡が確認できる。

 この踏跡が滝ノ入不動尊から行風峠に向かう古い道である。

 林道右下の滝ノ入不動尊を十分堪能したら、今度は少し戻って先の行風峠への古道に入る。

 しばらくは、滝ノ入をはさんで林道とほぼ並行している平坦な踏跡である。

 その後、右から支流が入ると、今度は支流右側の山腹を登る急登になる。

 すぐに上方に御嶽山から行封峠への尾根がみえてくると、正面のピークに登らず、右から巻く。

 まもなく広い仕事道となり、行風峠で尾根道と合流する。

(参考タイム)御嶽山→10分→石尊山分岐→5分→バアガヤツに沿った仕事道終点→10分→滝ノ入林道終点(ジイがヤツ・バアガヤツ出合い)→15分→滝ノ入不動尊→30分→行風峠→50分→雀川砂防ダム公園

不動滝と北向不動尊探索

 前回、雀川本流から分かれた焼山川(焼山沢)にある不動滝と北向不動尊に行ったのが37年前の1989年である。

 当時、ダムは建設中で、ダムが完成し、ダム湖や砂防ダム公園までできた現在とは大きく地形が異なっていた。

 2026年5月17日に行風峠経由で雀川砂防ダム公園についたとき、あまりにも風景が変わってしまったため、土地勘がなくなり、どこに不動滝や北向不動尊があるのか皆目見当がつかなくなった。

 そこで公園から少しくだって、小北集落で出合った方に、不動滝と北向不動尊の所在について尋ねた。

 幸い、不動滝へのルートを丁寧に教えてもらったが、もはや現在、小北には北向不動尊を信仰している人はいないという意外な言葉に接した。

 もともと北向不動尊は、小北集落の上サ(かさ)組のなかの特定の世帯(4世帯)が信仰しているだけで、その4世帯も世代交代してしまい、今では北向不動尊は忘れ去られてしまったということだった。

 私が1987年2月22日に北向不動尊の例祭を取材したときには、たしか笠サ集落23世帯全員が参加していたと記憶している。

 当時、祭りは上サ組のうち4戸が当番となり、順番に当番を担当することになっていた。

 担当者(当番)は例祭の朝、東光寺の住職がもってきたしめ縄を不動様に張りに行く。

 祭りは午後1時頃から始まり、東光寺の住職が祈祷をあげ、上サ組の人々が次々にやってきて、祈願をする。

 参拝者には団子と、青と赤の二色刷で「徳永山北向不動尊」と刷ってある半紙を付けた旗が渡される。

 旗刷りは、当番の家で祭りの前日に行われる。

 この例祭は、上サ組23戸の結束を強める意味があるという。

 もともと、この地に疫病が流行していたとき、この不動尊を祀ったところ、霊験あらたかであったので、以降、信仰が続いてきたという。

 これが1987年2月22日の北向不動尊例祭の概要だが、今日(5月17日)小北で聞いた話(上サ組の4戸のみが信仰)とは大きく違い、上サ組全世帯が参加していたように思われた。

 ちなみに、北向不動尊の例祭は旧暦の1月28日だが、前回の取材当時(1987年)にはそれに近い休日に行われており、ちょうど取材に行った2月22日(日)が例祭たった。

 果たして真相はどうなのだろうか。

 これは推測に過ぎないが、かつては上サ組の全員が参加し、交代で当番をつとめていたが、次第に信仰が薄れ、4戸のみが細々と信仰を続けてきたが、その4戸も世代交代の結果、信仰もなくなってしまったというのが真相ではなかろうか。

 なお、小北集落のあるときがわ町日影の北側が小川町青山である。

 その青山(青山二区)の大原集落に荒沢北向不動尊がある。

 不動尊は、荒沢にかかる滝(現在は水がかれてしまった)の上に堂宇があるが、例祭(縁日)は毎年旧暦1月28日に当たる2月から3月の日曜に行われている。

 当日は円光寺の住職により読経が行われ、参詣者には「荒澤北向不動尊」と刷ってある紙を付けた旗を配る(『青山二区の郷土誌』青山二区ふれあい・いきいきサロン、2024年2月)。

 祭が旧暦の1月28日に相当する2月下旬から3月上旬の日曜に行われるという点、参詣者には「北向不動尊」と刷った旗を配ることなど、小川町青山(大原)とときがわ町日影(小北)の北向不動尊のお祭りには共通点が多い。

 荒沢北向不動尊の建立は天明6年(1786)。小北の北向不動尊(場所は字焼山だが)も天明年間(1781~89)の建立というのも偶然の一致だろうか。

 荒沢北向不動尊の縁日は規模を縮小しつつも現在でも行われているが、小北の北向不動尊は信仰自体が消滅してしまった。

 このように明暗がくっきりと分かれているが、お祭りの時期、形式、不動尊の創建年代などの点で共通点があるということは、両者に何らかの関係があったのではないかと想像させる。

 それはともあれ、1987年当時も祭りは北向不動尊まで行かずに、当番の家で行われていた。

 39年前でさえ北向不動尊まで祈願に行く人がほとんどいなかったので、今日まで数十年にわたり北向不動尊や不動滝は放置されたことになる。

 果たしてダムやダム湖ができ、林道もできた現在、北向不動尊や不動滝は残っているのだろうか。

 早速、教えてもらったとおり北向不動尊と不動滝に向かった。

 再び雀川砂防ダム公園まで戻り、野外ステージ横の急な階段を登り、さらに階段を2つ登って堰堤の上に出る。

 ここからダムやダム湖を周遊する林道を奥に進み、ダム湖の上流までたどる。

 すると、林道が右に曲がり、その先に橋が2つ連続してかかっている。

 最初の橋が雀川の支流・焼山(やきやま)川(焼山沢)にかかる焼山橋。

 そのすぐ先の2番目の橋が、雀川にかかる不動橋である。

(写真40)焼山沢(川)にかかる「焼山橋」

 不動滝は焼山川にかかっているので、最初は沢の右岸(上流からみて)、次に左岸に沿って沢身に下りずに踏跡なき急な山腹をへずって上流まで探索してみた。

 荒れた沢の右岸は途中で斜面が急になり、それ以上遡るのは無理と判断。

 焼山橋まで引き返し、今度は左岸の山腹をへずって、かなり上流まで遡ったが、眼下の沢に滝は見当たらない。

 がっかりして戻りながら、沢を上から再度凝視すると、何と黒い岩肌を流れる2段5㍍ほどの滝があるではないか。。

 間違いなく、不動滝である。

 大変な思いをして垂直に近い岩の出た山腹を何とかくだり、滝の直下に出た。

 下段は4㍍ほどの斜滝、上段は1㍍ほどの垂直な滝。

 水量こそ少ないものの、迫力という点では、滝ノ入不動の滝を上回る。

(写真41)焼山沢不動滝
(写真42)焼山沢不動滝
DSC_1849

 しかし、滝の上にあるはずの北向不動尊の石碑(天明年間:1781~89年建立)も、さらにその上にあるはずの「大天狗、石尊大権現、小天狗」(明治2年(1869)の記銘)の石碑も見当たらない。

 本来なら滝の上流を遡行すべきだが、それまでの試行錯誤で体力も気力も失われ、再度沢を遡行する力は残っていなかった。

 だが、不動滝の下から滝の上を仰ぎ、それらしき石を見つけても、よく見ると石碑ではなく、普通の石に過ぎかった。

 前回から37年の間に、度重なる水害や林道の建設などにより、その他の石と一緒に流されてしまった可能性も否定できない。

 焼山川には大きな岩がゴロゴロと転がっているが、そのなかには北向不動尊ほかの石碑の変わり果てた姿があるかもしれないと思うと、残念な気持ちになった。

 いずれ再訪して、北向不動尊等の石碑の有無を確認したいと思う。

 ところで、不動滝の直下から山腹に向かって登っているはっきしとした踏跡があるのを発見。

 これをたどると、しばらく高度をあげるが、そのあとは水平な踏跡になり、焼山橋より少し下流の林道に出ることができた。

 おそらく、この踏跡が不動滝や北向不動尊への参詣路の名残だろう。

 しかし、本来ならあるはずの滝の上へ登り、不動尊へいたる踏跡は発見できなかった。

(写真43)林道から不動滝にいたる踏跡の登り口

 ともあれ、何とか不動滝を確認できたことで目的の半分は達成できたが、北向不動尊ほかの石碑の所在が不明のまま、消化不良な気持ちで雀川ダムをあとにした。

 夕刻迫るなか、雀川ダムから小北の集落をへて、県道飯能能寄居線に急いだが、小北集落の背後にゴルフ場調整池の巨大な堰堤が、まるで周囲を威圧するかのように聳えているのを見たときは衝撃だった。

(写真44)小北(ときがわ町大字日影)の集落
(写真45)日影の鎮守・日影神社社殿

 小北集落の人々は、小川町青山にできたゴルフ場の調整池の巨大な堰堤を毎日眺めながら暮らしているのかと思うと、ゴルフ場造成の愚を再度確認した。

 県道に出ると、小川町駅行きの最終バスが通ってから既に2時間あまりが経過していた。

 結局、車が疾走する八高線に沿いの県道を約1時間歩き、小川町駅に到着。

 19時を過ぎ、あたりは真っ暗になっていた。

(付記)本ブログを執筆するに当たり、以下のヤマレコの山行記録を参照させていただいた。

・大峰山-御嶽山-行風山-雷電山 ゴ・ドーハンの超サプライズ!倶利伽羅不動にバッタリ!?(2026年3月16日)

・御嶽山・サネ山の奥の院-姥捨の谷から桃源郷へ! ゴ・ドーハンのプチ探検(2026年3月24日)

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