はじめに
図1 橋場バス停→栗和田→堂庭(お堂跡・立場茶屋跡)→粥新田峠→大霧山
→粥新田峠→大霧山-1024x818.jpg)
図2 大霧山→旧定峰峠→経塚バス停

大霧山(766.7㍍3等三角点:点名「大霧山」)南方の724㍍独標について、かつて一部のガイドブック等では「茶立場」という名称で呼んでいた。
例えば、大石真人氏の著書『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の「外秩父概念図」では、大霧山南方のピークに「茶立場」の名を記載している。
同じく大石氏の著書『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」の「茶立場」の項目を見ると、「茶立場740㍍ 大霧山頂のすぐ南につらなる一峯であるが、現在ここには二子山という名の入った指導標が立っている」と書いている。
同じ「奥武蔵辞典-山名編-」の「二子山」の項目をみると、いくつもある「二子山」のなかのひとつで、この大霧山南のピークが挙がっていて、「二子山 大霧山の南方、里称茶立場の上に二子山と書いた指導標が立っている。大霧主峯とともに二子状をなすのであろうか。あまり適当な名とは思えない」と、二子山の名に否定的な見解を述べている。
ただし、ここで注意したいのは、大石氏が724㍍独標について「里称茶立場」と語っていることである。
大石氏の見解では、茶立場が724㍍独標の地元呼称としてとらえられていたのである。
もっとも皮肉なことに、大石氏が第二代の会長を務めた奥武蔵研究会著『ブルーがイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)本文中の略図では、724㍍独標に相当するピークに、大石氏が否定的にとらえた「二子山」の名を記載している。
最後に、比較的最近の著書(私家版)『比企(外秩父)の山々』(2018年6月1日)において、藤本一美氏は前記の2つの名称を併用し、724㍍独標について、「茶立場」(二子山)と併記したうえで、茶立場について「チャタテバ」とルビを振っている。
いささか煩雑だったかもしれないが、大石真人氏、藤本一美氏という奥武蔵・秩父の山に関する代表的な研究者が、いずれも大霧山の南にある724㍍独標に対し、「茶立場」の名を記載していたことを指摘しておきたい(藤本氏は、おそらく大石氏の見解を踏襲したのであろう)。
だが、茶立場というのは「立場茶屋」の略称でもある。
「立場茶屋」とは、街道筋の宿場と宿場の間にある茶屋をさしている。
果たして「茶立場」が街道筋でもない724㍍独標の頂上にあるのだろうかという疑問が湧いてくる。
もともと大霧山北側の「粥新田峠」を越える峠道は、江戸、川越、小川町と秩父を結ぶ物資の重要な運搬路であった。
秩父からは小川和紙の重要な原料となるコウゾが運ばれ、その代わりに小川町からは米が秩父に運ばれた。
江戸時代から明治初期にかけて、粥新田峠道は、北側の釜伏峠道と並び、江戸と秩父を結ぶ重要な交通の大動脈でもあった。
物資の運搬以外にも、江戸後期以降、秩父札所めぐりが民衆の間でブームになるにつれ、粥新田峠道は札所めぐりをする人々が押し寄せる道となった。
粥新田峠付近の宿場といえば、東側に安戸宿(今でも「宿」という地名は安戸の地区名として残っている)、峠を越えた西側に三沢宿があった。
この安戸宿と三沢宿との間の峠道沿いに立場茶屋(茶立場)があったと考える方が常識的だろう。
粥新田峠という険しい峠を越える前に、まずは茶屋で人や馬を休め、あるいは峠を越えたあと、安戸宿に行く前に立ち寄る茶屋もあっただろう。
そう考え、本ブログ「比企・外秩父の山徹底研究」第10回「新定峰峠・旧定峰峠・大霧山・粥新田峠」では、1987年3月に皆谷での聞き取りで得た「大霧山、粥新田峠を越えたところに茶立場という小平地がある」との証言にもとづき、茶立場の場所について、粥新田峠を越えた三沢側の榛名神社付近ではないかと推測した。
たしかに榛名神社付近に茶屋はあったというが、正直これが茶立場であるのかというと今ひとつ自信がなかった。
というのも、東秩父村側の方が、あえて峠の向こうの三沢側の場所に言及するというのも違和感がある。
また、榛名神社では粥新田峠からかなり距離があり、むしろ三沢宿に比較的近く、茶屋があったといっても、それほど大きな規模ではなかったと推測される。
そうなると、茶立場は粥新田峠への登りにさしかかる手前、あるいは峠を越え、疲れをとるために立ち寄るという点で、東秩父村坂本の栗和田地区付近にあるのではないかと考え始めた。
そこで栗和田で茶立場についての聞き取りをしようと準備をしていた矢先、決定的な資料を入手することができた。
それが、飯野頼治氏(2014年7月逝去)の遺稿集である『飯野頼治著作集2 歩く道・歩く旅1 奥武蔵風土記・東秩父村風土記』(まつやま書房、2022年)である。
同書に次のような記述がある。
「粥新田峠 共有林開設碑を過ぎると広々とした堂庭がある。明治末期まで観音堂があり、付近には二本松の巨木や峠越えの人馬の休息所だった立場茶屋があった。古老の話では毎日七、八十頭もの駄馬が往来していたといい、馬方たちはここで休み飼葉を与える習慣だった。今は一本のイチョウがそびえるのみ」
この記述に照らすと、1987年3月の皆谷での聞き取りも、むしろ「粥新田峠の手前に小平地があり、そこに茶立場があった」というのが主旨であり、当時観音山の調査にのめりこんでいた私が観音山以外の話題について急いでメモしたために誤記した可能性が浮上してくる。
とにかく、飯野氏の記述から本ブログの「茶立場は茶屋跡ともいい、粥新田峠を越えた三沢側の榛名神社付近にあった」との記述が完全に間違っていたことを認めざるを得なくなった。
もっとも飯野氏は旧著『山村と峠道-山ぐに・秩父を巡る-』(エンタプライズ社、1990年)において、既に「粥新田峠から東秩父村側に林道を下り、左に秩父高原牧場への林道を分けると、すぐに栗和田に下る旧道がある。この山道に入り、左に石仏一基を見ながら荒れた道を行く。左の小墓地を過ぎるとやや開けて栗和田の民家が現われる。ここは近くに小さいお堂があることから『堂庭』と呼ばれている。昔は茶屋等もあり。人馬のよい休憩所になっていて、大いに賑わった所という」と書かれていた(ちなみに、飯野氏は皆野町側の三沢から粥新田峠を越え、東秩父村坂本の栗和田にくだっている)。
私が旧著の記述を見落としていて、2022年の著書で初めて堂庭の存在を知ったというわけである。
そこで、飯野氏の資料をふまえ、では、堂庭は栗和田のどこにあったのか。お堂や茶屋は具体的にどこにあったのかなどを地元での聞き取りにより確認することにした。
それが2026年6月14日の堂庭への探訪である。
2026年6月14日(日):栗和田(東秩父村大字坂本)の堂庭探訪
図3 堂庭(お堂跡・立場茶跡)付近拡大図
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橋場バス停から栗和田へ
2026年6月14日(日)。例によって小川町駅午前10時18分発のイーグルバスのマイクロバス「白石車庫行き」に乗車。
しかし、車内が超満員になった先週の6月6日(土)とは一転して、14日にバスに乗ったのは何と私一人だけ。
たしかに「天空のポピー」は6月7日に終わってしまったとはいえ、外秩父の人気ハイキングコースに行く日曜午前中のバスの客が1人だけというのは寂しすぎる。
6月は既に比企外秩父のシーズンオフで、天気予報も一日中曇りという事情があるにせよ、先週とのあまりの落差に驚いた。
バスは私ひとりを乗せたまま、橋場バス停に到着。
ここで、念のために帰りのバス時刻を確認。
橋場発の小川町行き最終バスは17時21分。
今日は粥新田峠へのスタンダードなハイキングコースをたどり、峠手前の栗和田の集落で堂庭の場所と、お堂・立場茶屋の場所を聞き取りすることが目的。
聞き取りを終えたあと、粥新田峠まで行くものの、そのあとの行程は未定。
余力があれば、1980年代前半以来45年近く登っていない大霧山に登り、旧定峰峠から経塚にくだる予定。
橋場バス停横の皆谷地蔵堂

粥新田橋を渡り、車道を緩やかに登ってゆく。
右に普門寺への危なっかしい石段を見送り、庚申塔をみたあと、右に残土処分場への道が分かれる。
急な石段に雑草が絡み、滑りやすそうな普門寺への急な石段

すぐ先に「世界一小さな釣り堀センター」と銘打った「銀鱗亭」入口の看板に突き当たる。
左下の谷を見ると釣り堀が見え、そこへくだる車道が延びている。
世界一小さい釣り堀「銀鱗亭」の看板

その先で、右に文化12(1815)年の刻印のある馬頭尊を見る。
馬頭尊には「右ちちぶみち」と刻まれ、道標を兼ねていたことが分かる。
道標を兼ねた馬頭尊

馬頭尊の先で、車道と分かれ、山道に入る。
しっかりと踏まれた道は、はじめは植林の下にシダの目立つ暗い感じだが、次第に雑木が目立ち、やがて竹林となるなど、短い間だが、めまぐるしく林相が変わり、飽きさせない。
15分ほどで再度車道に出てしまう。
この車道が県道三沢坂本線(旧栗和田林道)である。
周囲が開け、眼前には大霧山が大きく、栗和田の人家が現われてくる。
栗和田への道から望む大霧山

栗和田の集落

6月中旬で梅雨真っ只中だが、ビワの実がたわわに実る山上集落・栗和田は、平地とは別天地の感がある。
吹く風も、下界の蒸し暑さとは異なり、涼しささえ感じさせてくれる。
ただし、人家はあれど人影はなく、農産物の無人販売の小屋は、ほとんどが閉鎖されていた。
閉鎖中の農産物無人販売所

「栗和場林道記念碑」のある地点で県道と分かれ、右に上の方の人家に登ってゆく車道に入る。
栗和田林道記念碑

車道を登るにつれ、眼下に栗和田の集落が、そして眼前には大霧山が一望できるが、果たしてどこが「堂庭」なのだろうか。
飯野氏によると、イチョウの大木が目印になるので、幸い行き交った地元の方に声をかけて、堂庭とイチョウの木の場所を教えてもらう。
幸い快く教えていただいた堂庭は、眼下に見える県道三沢坂本線が右に大きくカーブする手前付近。
そして、ランドマークとなる大イチョウは、県道三沢坂本線が右にカーブするちょうどその地点に立っていた。
大イチョウ

大イチョウのところで、粥新田峠への旧道(現在のハイキングコース)が新道(県道三沢坂本線)と分かれる。
堂庭にも人家が数軒あるので、まずはそこまでくだって、お堂と立場茶屋(茶立場)の跡を教えてもらうことにする。
堂庭(栗和田)のお堂跡と立場茶屋(茶立場)跡
眼下に県道を見ながら、栗和田上部の人家の下を通る車道を緩やかにくだっていくと、右に二体の地蔵をみて、県道にぶつかる。
左にくだると、県道が右に大きくカーブする地点。
ちょうどこの地点に大イチョウを確認。
先にも書いたように、この県道カーブ地点(大イチョウのある地点)で、右に行く県道と分かれ、直進するのが粥新田峠旧道である。
このカーブ地点の下付近一帯が「堂庭」である。
飯野氏も堂庭と大イチョウには触れているが、では、どこにお堂があり、どこに立場茶屋があったのかについては述べていない。
堂庭にも県道をはさんで両側に数件の人家がある。
そこで人家を片っ端から訪ね、聞き取りを行うことにする。
県道の上部からみて左にある最初の人家は全く人気がなく、やむなくその下の二軒目が幸い、玄関が開いていたので、声をかけてみると、ご老人が現われた。
その方が今回聞き取りに応じてくださった福島等さん(82歳)である。
福島さんの家とその周辺一帯が「堂庭」だが、飯野氏が述べているような「広々とした」という感はない。
福島さんによると、「新道」(現在の県道三沢坂本線=旧栗和田林道)が出来る前は、もっと「広々とした」地形だったという。
下からみて、県道が右にカーブする手前にガードレールがあるが、そのガードレール手前左側のヤブと林が、明治末期の頃まで「お堂」のあったところ。
左の人家の奥にあるヤブと林がお堂の跡

昔、お堂があったことから、この付近を「堂庭」と呼ぶという。
お堂には大きな松の木が立っていた。
新道をつくる際に、ここにお堂があったということで、遺跡調査を行ったようだが、その結果は福島さんも聞かされていないという。
ただし、遺跡調査のあとに、お堂跡のすぐ下の家が掘り返してみると、十一面観音像の欠片を掘り当て、それは今でもその家に保管されているという。
県道をはさんでお堂と対峙した場所は、今は草地になっているが、ここに昔、馬方たちがお茶を飲むとともに、馬に飼葉を与えた立場茶屋があった。
茶屋は奥の井戸から水を引いていたという。
茶屋跡の後方には大きな木があり、その奥に県道沿いに観光客用のトイレが設置されている。
ベンチ奥の草地が立場茶跡(1)

ベンチ奥の草地が立場茶屋跡(2)

福島さんによると、大イチョウは新道(栗和田林道=現在の県道三沢坂本線)が開通したとき(昭和41年=1966)に、記念に植樹されたという。
大イチョウはお堂や茶屋跡とは無関係だったのである。
茶屋跡の草地の前にはベンチが置かれているので、ここに座り、かつて峠越えをした人々が参詣したお堂や休憩した茶屋の存在を偲んでみた。
立場茶屋跡の草地からお堂跡のヤブと林を見る(1)

立場茶屋跡の草地からお堂跡のヤブと林を見る(2)

しかし、新道がとおり、余りにも変貌した今の姿からは想像ができないというのが実感だった。
福島さんの話では、栗和田の地は、同じ東秩父村の大内沢や寄居町の風布と並びミカンの北限だった。それが温暖化により、北限は宮城県、福島県、新潟県(佐渡)などにまで北上してしまった。
それでも栗和田では、冬にはミカンが実り、福島さんもミカンを生産し、つくったミカンの一部を無人販売所に出しているという。
先に無人販売所の話をしたが、一時はたくさんあった無人販売所も、今ではほとんどが閉鎖され、福島さんが冬にミカンを出す販売所を含めほんの数カ所が季節的に営業しているに過ぎないという。
大久根茂氏が粥新田峠越えをした1986年当時、「戸数40戸余り」と述べられた栗和田集落も、現在は27戸にまで減ってしまった(大久根茂『秩父の峠』さきたま出版会、1988年)。
戸数の減少といい、大久根氏が集落の新たな収入源として当時期待した農産物の無人販売所のさびれた状況といい、山上集落・栗和田の直面している過疎化と高齢化の現状はきびしいようだ。
堂庭から粥新田峠へ
福島さんから堂庭やお堂、立場茶屋、さらにこれから向かう粥新田峠への道周辺についてじっくりお話を伺ったため、大イチョウのある分岐から峠への旧道に入ったときには、既に13時30分。
峠道に入ると、すぐ右に栗和田最奥の人家。
道は幅広く、山腹をほぼ水平にトラバースしていく。
左下は急な斜面で、不用意にくだると谷の下まで転げ落ちてしまいそうだが、福島さんによると、そんな急斜面にある岩場の上に、地元の信仰を集める御嶽神社の石宮が祀られているという。
毎年11月の例祭では、八幡大神社(坂本)の大澤住職に来てもらい、祈禱をしてもらっているという。
私も是非、御嶽神社の石宮を見てみたかったが、何せ急な斜面。しかも、どこに神社があるのか旧道から見下ろすが見当もつかない。
危なっかしい急斜面を探索するのも時間を要するので、今回は見送ることとし、粥新田峠に急いだ。
まもなく石を積み上げたケルンが2つ突然現われる。
そのすぐ先で、右に二体の地蔵が祀られている。
いずれも毛糸の帽子をかぶり、毛糸の腹巻きをしている。
とくに右手の地蔵はかなり古いようなので、裏を覗いてみると、かすかに文政(文政年間は1818~1830年)の刻印が読み取れた。
この二体の地蔵は秩父高原牧場が管理しているというが、ある時、古い方の一体が盗まれてしまった。だが、盗賊の夢のなかに地蔵が現われたので、怖くなって元に戻したという。
粥新田峠道にある二体の地蔵

地蔵のすぐ先で車道(林道大霧山線)に飛び出し、まもなく切り通しを車道が貫通する粥新田峠に出る(14時)。
展望の得られない峠の北側(栗和田からみて右側)には比較的新しい「粥仁田峠地蔵尊」が祀られ、南側(左側)には立派な東屋が建てられている。
粥仁田地蔵尊

粥新田峠脇に建つ立派な東屋

昭和60年(1965)に建てられた粥仁田地蔵尊脇の建立記念碑に、建立のいわれが書かれている。
建立のいわれについては、幸い大久根茂氏の的確な要約と論評がある。それを以下引用しておきたい。
「秩父事件を取り扱った映画を某氏が個人制作したが、『その制作過程で費やした膨大なフィルムのうち不使用のものを徒に棄却するに忍びず』そのフィルムをこの地に埋めるとともに地蔵を建立したとのこと。また、この峠を選んだのは、粥新田峠が秩父事件に深いかかわりをもっていたため、と碑文には記されている。(中略)粥新田峠附近でも、困民党の一団と官兵隊との銃撃戦が行われた。しかし、銃撃戦の行われた(明治17年11月)5日は、困民党の本営がすでに権力側によって封鎖・解体された後のことであり、また、主力部隊でもなかったためか、ここでの攻防はすさまじい白兵戦には至っていない。(中略)粥新田峠と事件とのかかわりあいは、このようにそれほど濃いわけではない。ならば、なぜこの峠を地蔵建立場所に選んだのか。碑文はそこまでは触れていない」(大久根茂『秩父の峠』さきたま出版会、1988年)
大霧山側に少し登ったところにある東屋は大きな立派なものだが、展望もなく、やや湿った陰気な雰囲気の場所なので、さすがにここで遅い昼食をとる気にはなれなかった。
結局、昼食はあと40分頑張って、大霧山山頂でとることにした。
ところで、地蔵尊の名前は粥仁田、『新編武蔵風土記稿』の秩父郡三沢村の条には「皆新田峠」、『武蔵国郡村誌』秩父郡坂本村の条では「粥熱田峠」、そして国土地理院発行の地形図には「粥新田峠」など、さまざまな形で表記されている。
もちろん、大久根氏のいうように「地名の多くはあて字なのだから、その漢字に意味を求めることは、それこそ無意味なことといえる」(大久根茂、前掲書)
それでは「粥新田」をどう発音しているかというと、私が1980年代に採集した頃は地元では「カイニタ」と発音する人が多く、なかには「ケーニタ」となまる人もいた。
それが今回は82歳の福島さんでさえ、「カユニタ」と発音され、「カユニタ」がどうやら定着したようである。
粥新田峠には、この一帯の山や峠と同様、巨人ダイダイ坊(あるいは日本武尊)にまつわる山名由来伝説がある。
ダイダイ坊が粥を煮た場所がこの峠なので、粥新田峠になったという。
しかし、これはあくまでも「粥新田峠」の名称に付会した伝説にすぎない。
では、カユニタ(カイニタ)の由来は何だろうか。
地形語彙で「カイ」には「狭間」という意味がある。
つまり、山と山にはさまれた狭間である峠(鞍部)をさすと考えられる。
一方、「ニタ」は「ヌタ」ともいい、「湿地」をさす語彙である。「猪が身体をこすりつけた湿地ないし沼地」という意味である。
これらをまとめると、猪が好きな湿地や沼地のあった峠という意味で「カイニタ峠」の名が生まれ、それに皆新田、粥熟田、粥仁田、粥新田などの漢字があてられ、そのなかで国土地理院の地形図の「粥新田」が峠名として採用されたと考えるのが妥当ではなかろうか。
なお、1987年3月の皆谷での聞き取りで、「坂本から粥新田峠へ登る途中に『休み石』という名の巨大な石がある」という話を採集した。
今回は「堂庭」や「お堂跡」「茶屋跡」などの探索に絞ったため、うっかり「休み石」について聞く機会を逸してしまった。
先の御嶽神社とともに、「休み石」の探索も、次の機会に残しておきたい。
峠から大霧山をへて、旧定峰峠方面に向かうハイキングコースは「関東ふれあいの道」に指定され、これに関係した説明板や表示版が随所に立てられている。
大霧山への道は、地形図のとおり、最初はジグザグの登りだが、すぐに平坦な尾根になり、小尾根が分岐したあとは、再度登りになり、そのあと平らになるという登り→平坦の繰り返しがつづく。
ただし、二度目の平坦な尾根から再々度登りにさしかかるあたりから左(東)を見ると、無残に山ごと削りとられ、残った山肌があらわになっている観音山跡の痛ましい姿が目前に見える。
山ごと削り取られ、残った山肌が無残に露出している観音山跡を望む

大霧山から山麓の朝日根集落にいたる東斜面は地滑り地形で、尾根もかなり削られ、ヤセ尾根に近い形状をなし、意外なほどの高度感がある。
登りの途中で、この場所に不似合いな白い椅子が突然現われる。
休憩用だろうが、一体誰が設置したのだろうか。
大霧山への最後の急登手前に設置された白い椅子
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ここから傾斜はさらに急になり、約20分の急登の末、14時45分、大霧山山頂に飛び出す。
3等三角点のある山頂は、東側の東秩父村方面こそ樹林が茂り、眺望がきかないが、西側の皆野町・秩父市方面は遮るものが何もない素晴らしい好望が得られ、ここまで登ってきた苦労が報われる。
右側には、尾根続きの秩父高原牧場から二本木峠、皇鈴山、登谷山にいたる山々が延々と続き、正面眼下には簑山(美ノ山)が根張りの大きな山容でうずくまっている。
その背後に破風山、さらにその後方に双耳峰の城峯山が望まれる。
あいにくの曇り空のため、期待した両神山や西上州の山々こそ見えなかったが、秩父市街の西には石灰岩採掘中の武甲山が痛々しい姿を見せていた。
山頂にはベンチが3つあり、そのなかでも西側にもっとも寄ったベンチに座りながら、展望を楽しみつつ、遅い昼食をとった。
大霧山頂の公式山名表示板

大霧山頂の展望図

大霧山頂のベンチ

さて大霧山の山名因について、例のダイダイ坊の伝説では、粥を煮た湯気が霧のように流れたので大霧山になったとしている。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡三沢村の条でも「ややもすれば雲霧を含み、頂に蔵せり」とある。
『武蔵通志』でも、「山頂雲霧常に絶えず、故に大霧の名あり」と記している。
このように「山頂常に雲霧が絶えず」が大霧山の山名由来として定着して今日にいたっている。
ただし、大霧山は標高766.7㍍で、笠山(837㍍)、堂平山(875..9㍍)、剣ノ峰(876㍍)などとくらべてとくに高いというわけではない。
たしかに定峰峠(旧名マジノタワ)以北の山稜では最も高い山だが、この山域で断然高い山というわけではない。
細かい点レベルの気象条件は分からないが、大霧山だけがとくに「山頂雲霧常に絶えず」というわけでもなく、今日(6月14日)のように、梅雨どきの曇り空のもとでも、西側の展望は素晴らしかった。
そこで「キリヤマ」の名因を探っていくと、たしかに「霧」もあがっているが、「開墾地」「焼畑」があがっていることが分かった。
大霧山の東側は旧秩父高原牧場跡の草地であり、その前身として大規模な開墾地ないし焼畑があったのではなかろうか。
つまり、大規模な開墾地ないし焼畑を行った場所のある山ということから大キリ山の名が生まれ、「キリ」に「霧」の字をあてたことから、「山頂がつねに雲や霧に覆われている」という名因が付会したのではないだろうか。
秩父高原牧場のある一帯、とくに西側の皆野町側は、古くから三沢村、大野原村、黒谷村の入会で、秣場であったという。
入会地で秣場(草原)でもあり、そこでは春の若芽を促し、雑草や害虫の種を駆除するために秣場の草原に火入れをする、すなわち草焼きをするのが常であった。
すなわち、入会地で秣場であり、火入れをしたという事実から「大キリ山・大ギリ山」の呼称が三沢村側で生まれたとはいえないだろうか。
ちなみに、白石峠西の川木沢ノ頭(874㍍独標)付近の定峰側の小字名「萩ノソリ」も、焼畑地名である。
なお、大霧山の山頂には小川町下古寺の古寺鍾乳洞に続くといわれる深い穴があるという。
地元の人は、子どもの頃、この穴に小石を投げ込んで遊んだが、いつまでも石が転がる音が反響して、怖がって入らなかったという。
大霧山から旧定峰峠をへて、経塚バス停へ
大霧山から南にくだり始めると、いきなりの急坂である。
幸いロープがあったので、つかまりながらくだり、最後ロープのないところでは、横の林に逃げて鞍部に出た。
もしロープがなければ、手がかりがないので、滑って転倒する可能性さえある危険なところだ。
鞍部からは、どこが山頂なのか分からない南北に細長い平頂峰の724㍍独標までだらだらとした登りになる。
724㍍独標は、大石真人氏や藤本一美氏が「茶立場」と呼んだ山である。
山頂の東側一帯は大霧山からつづく旧秩父高原牧場跡の草地で、雑草が茂り、荒れている。
ただし、眺望は良く、とくにリュウゴッパナの東峰(狭義のリュウゴッパナ、竜ヶ鼻)と西峰(リュウゴウ、龍郷山)が双耳峰をなし、笠山の西に目立っているのが印象的だ。
724㍍独標山頂付近(有刺鉄線の柵の右側は旧秩父高原牧場跡)

724㍍独標山頂付近から双耳峰のリュウゴッパナから物見山へ続く尾根を望む

724㍍独標から緩やかにくだった鞍部から軽く尾根を登ると、700㍍圏ピークの山頂につく。
植林に覆われ、展望のない山頂にはベンチが置かれ、一休みには絶好である。
そのまま尾根を進むと西に定峰方面への尾根に引き込まれてしまう。
旧定峰峠には直角に左に曲がる。
ところで、この700㍍圏ピークはガイドブックやハイカーの山行記録でしばしば「檜平」(ひのきだいら)と呼ばれる(奥武蔵研究会著『ブルーガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』1961年では、「桧平」と記載)。
かつて、「檜平」と書かれた公式の山名表示板があったのだろうか。
現在、山頂にある指導標には「檜平」の名はなく、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』でも「檜平」(桧平)の名を記載していない。
本当に「檜平」が地元呼称なのか、それともハイカーが名付けた便宜的な名称なのか。この点についても、今後、白石、定峰両方面で確認する必要があるだろう。
ベンチのある「檜平」(?)
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700㍍圏ピーク(檜平?)からくだると、いったん平坦地に出て、そのあと階段のある急なくだりとなる。
くだりきったところが旧定峰峠。
峠着は16時ちょうどだった。
実はここが本来の定峰峠である。
のちに南東2キロのマジノタワ(マジンタ)と呼ばれる鞍部に昭和30年(1955)、県道熊谷小川秩父線が開通し、開削された峠に定峰峠の名がつけられたため、本来の定峰峠は「旧定峰峠」へと降格した。
現在でも、旧定峰峠には秩父市側の定峰と東秩父村側の経塚(大字白石)をむすぶ山道が通っている。
車が通り、茶屋がある定峰峠(新定峰峠)の賑わいをよそに、旧定峰峠は植林に覆われ、展望のない静かな峠である。
切り通し状の峠の北側(大霧山側)には一段と高いところに、山ノ神の小社が祀られ、その周囲を3枚の青石が囲んでいる。
青石の板石に囲まれた旧定峰峠の山ノ神

旧定峰峠から経塚のバス停まで、コースタイムは約1時間15分。
白石車庫発発小川町駅行きの最終バスの経塚バス停到着は17時14分。ぎりぎりの時間である。
秩父側の定峰にあるという時計付きの指導標も見たかったが、ここは帰りの交通の便を考え、無難に経塚への道を急ぐ。
峠から経塚にくだり始めると、すぐに林道秩父高原線にぶつかる。
林道を横切り、再度山道に入ると、植林帯のなか、小ピークを巻き、緩やかな植林の尾根をくだりはじめ、やがてジグザグにくだるようになる。
まもなく右から水音が聞こえ、せきり沢の左岸につけられた道をくだるようになる。
橋を渡ったのち、右のせきり沢には大きな堰堤がつくられているが、堰堤を勢いよく水が流れ落ちるさまは、あたかも滝のようで見応えがある。
左に2つの水飲み場を見ると、道はせきり沢の右岸に移り、この地点が「林道竹の花線」の起点である。
林道竹の花線起点

あとは沢に沿った林道を5分ほどで、経塚のバス停に出る。
ちなみに、バス停手前の橋は「竹の鼻橋」であり、林道の名称と微妙に違っている。
経塚バス停近くの「竹の鼻橋」

経塚バス停到着16時57分。
約15分の待ち時間で小川町駅行きの最終バスが到着した。
帰りも、道の駅・和紙の里まで乗客は私1人だけだった。
エピローグ
大霧山南の724㍍独標を「茶立場」と呼ぶのは誤りであり、本当の茶立場(立場茶屋)は粥新田峠手前の堂庭(大字坂本の栗和田)にある茶屋跡であることが確認できた。
帰りの東上線車内では、そんな満足感に浸っていた。
しかし、甘くはなかった。
帰宅後、念のために『新編武蔵風土記稿』『武蔵国郡村誌』坂本村、皆谷村、白石村の各条の「小名」「字地」(=小字名)を確認してみた。
すると、『風土記稿』には記載はなかったものの、何と『郡村誌』白石村の条の字地に「茶立場」の名があり、ちゃんと「ちゃたてば」のルビが振ってあるではないか。
「茶立場」は白石の小字名というわけである。
説明を読むと、「茶立場」は「竹の鼻の西に連る。東西五町、南北八町」とある。
茶立場の周囲の小字名を記載すると、「竹の鼻」(たけのはな)「猪鼻」(いのはな)「京塚」(=経塚:きょうづか)などがある。
それぞれの位置関係をアバウトに示すと、茶立場は竹の鼻の西、猪鼻は茶立場の東、京塚は猪鼻の南ということになる。
先に経塚バス停の手前の橋が「竹の鼻橋」、そこから西奥に延びる林道の名称が「竹の花線」であると述べた。
これを地形図に当てはめると、きわめてラフな推測だが、小字名「茶立場」は、724㍍独標東側の旧秩父高原牧場跡付近一帯ということになる。
「茶立場」は、基本的には街道筋の立場茶屋のことだが、茶立場という地名(小字名)は各地にある。
それらの小字の多くは街道筋の立場茶屋に由来するものだが、なかにはそれでは説明できないものもある。
白石の茶立場が経塚集落奥の山の中とすると、その最高点が724㍍独標であり、昔、住民が724㍍独標を小字名「茶立場」の最高点という意味で「茶立場」と呼称していても不思議ではない。
大石真人氏は、大霧山、定峰峠附近の山名・峠名を白石等で採集していた際に、上記の意味で「茶立場」の山名を採集した可能性も否定できない。
ここで大霧山周辺の茶立場をめぐる調査は振り出しに戻ってしまった。
今振り返れば、1987年3月に皆谷の関口氏が語った「大霧山、粥新田峠を越えたところに茶立場という小平地がある」という言葉の真意が微妙なものであったことに気づくべきだった。
つまり、大霧山と粥新田峠との順番を逆にして、「粥新田峠、大霧山を越えたところに茶立場という小平地がある」としたら、どうだろうか。
これは平頂峰である724㍍独標やその東にある旧秩父高原牧場の地形と符合する。
もし『郡村誌』白石村の条の記述が正確であり、白石村の最北部(皆谷村との境界近く)に「茶立場」という小字が本当に存在するとしたら、大霧山周辺には2つの茶立場が存在していたのである。
大字坂本の栗和田の堂庭にある茶立場(粥新田峠道の立場茶屋跡)と大字白石の茶立場である。
そこで今後は白石に茶立場という小字があるのか、あるとしたらどのあたりなのか、そして本当にその最高点が724㍍独標付近で、同ピークも茶立場と呼んでいるのかどうか。さらに山奥の茶立場にどのような名称の由来があるのかどうかなどを、白石や皆谷で聞き取りする作業を行う必要がある。
東秩父村役場に各大字別の小字の地図があれば(旧都幾川村や旧玉川村、旧高篠村などのように)、小字の位置が正確に特定できるのだが、それは難しいだろう。
大霧山周辺の「茶立場」を探す旅はすんなり終わると思ったら、もう1度旅をしなければならなくなった。
昔、山仕事をしていて、地名(字名)や山名に詳しい方が少なくなった現在、山奥の茶立場の位置や地名由来を確認する作業は困難をきわめるだろう。だが、挑戦する価値のある作業である。
ブログに「大霧山付近の茶立場を求めて(2)-白石の茶立場-」を投稿できるのはいつになるか分からない。
なるべく早く投稿できるよう努力したい。
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