はじめに
地図1「官ノ倉山および官ノ倉西尾根(三郡境まで)」
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2026年6月14日に東秩父村坂本の栗和田にある堂庭で、お堂跡と立場茶屋跡の聞き取りを行ってから約1ヶ月半。
この間、6月下旬は梅雨模様の天気。
7月に入ると、今度は連日の猛暑とゲリラ雷雨の日々。
そのために山に行くことができず、8月に入ってしまった。
比企外秩父の山で調べること、再調査したいことはたくさんあるのに、出かけられずに冷房の効いた部屋で悶々とする毎日を過ごしていた。
だが、8月に入ると、3日(月)と4日(火)は例外的に最高気温が28度から29度。
最低気温も21度から22度。
降水確率も30%程度。
湿度は高いが、この機会を逃すと、9月中旬まで出かけることができなくなる。
そう思い、私としては初めて真夏の8月に比企外秩父を訪れることにした。
今もっとも調べたいのが、官ノ倉峠から西につづく官ノ倉西尾根(官ノ倉西丘陵)の山名。
官ノ倉峠から西に、烏森山(虚空蔵山)、天ノ峰、愛宕山、細窪山(421.1㍍3等三角点)など、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社に記載されている山名は、1980年代半ばから後半まで、いずれも古い地誌や土地宝典(小字集)などをベースに個人山行や会の山行などを通し、地元での聞き取りを行い採集。
それらを当時所属していた奥武蔵研究会の会報『奥武蔵』に発表。さらに山と高原地図に記載させていただいたものである。
しかし、それから40年をへて、改めてそれらが本当に正しい山名なのか、あるいは位置が正しいのかどうかを再検証する必要を痛感していた。
さらに1989年に地元での聞き取りにより採集した烏森山東にある366㍍独標の名称「オンニョ」については、あまりにも特異な名ゆえ、本ブログの「比企外秩父の山徹底研究第2回 官ノ倉西尾根」にも掲載を見送った経緯がある。
そこで2026年8月4日(火)。平日だが、官ノ倉西尾根の官ノ倉峠~天ノ峰の南山麓である東秩父村安戸の在家(ざいけ)で聞き取りを行い、そのうえで山を歩いて現況調査をすることにした。
当日は官ノ倉西尾根と、在家の鎮守である能気神社から西に延びる長大な尾根(途中で南から城山=安戸城址からの小尾根が合流)との間にはさまれた入山川左岸に点在する在家1区の人家での聞き取りがメイン。
幸い涼しい気候のためか、何人ものご老人が自宅前の畑で出てこられており、突然の聞き取りにも快く応じてくれた。
しかも、山麓からは、ちょうど眼前に天ノ峰から366㍍独標にいたる尾根が大きく望まれ、山を指呼しながら聞き取りをするのには絶好な条件だった。
在家1区(安戸)からオンニョ(366㍍独標:中央右)と天ノ峰(中央左)を眺める
と虚空蔵山(烏森山)中央左.jpg)
なかでも今年11月には90歳を迎えるという根岸一敏さん(89)は30分以上の立ち話にお付き合いいただき、丁寧に山名や小字名をご教示いただいた。
根岸さんをはじめ、聞き取りをしたご老人(私も老人だが)がほぼすべて天ノ峰の名を知っており、その位置についても一致していた。
さらに驚いたことに「オンニョ」についても複数のご老人がご存知だった。
これで私の目的はほぼ達したようなものだが、話を聞いたご老人たちが一致して語っていたのが、「この地域の山について一番詳しいのが東秩父郵便局の前局長・大久根(おおぐね)宏さん。大久根さんは地域の山を隅々まで歩いている」ということ。
そこまで言われると、官ノ倉西尾根の山の位置を再度正確に確定するためにも、大久根さんにお会いする必要を感じ、安戸バス停まで戻り、そこから少し小川町側に寄った東秩父郵便局に立ち寄った。
郵便局には大久根宏さんの息子さんである局長と職員が2人。
幸い(?)、お客さんがいなかったので名刺を渡し、自己紹介と主旨を伝え、息子さんから自宅におられる宏さんに電話をしていただいた。
そして待つこと約5分。宏さん本人が郵便局にやってきてくれた。
大久根宏さんは、とても85歳にはみえない日焼けした精悍な顔とスリムで筋肉質な体躯。
局長を引退してから山登りを本格化させ、最近10年間で全国の150山を制覇したという。
先週は北アルプスの唐松岳に登ってきたとの健脚ぶり。
何よりも驚いたのは地元の官ノ倉山に毎週登っていて、それは7~8月の真夏も変わらないとのこと。
「大久根(おおぐね)」という姓に聞き覚えがあったので、もしや『秩父の峠道』(さきたま出版会、1988年)の著者である大久根茂氏と関係があるのかどうか聞いてみると、何と宏さんは茂氏のお兄さんであるという。
そこから話が弾み、大久根さんが手書きで山名、沢名、岩名、石碑名、小祠名、ルートなどをびっしり書き込んだ東秩父村発行1万分の1地形図を指し、1時間以上にわたり官ノ倉山周辺や官ノ倉西尾根の山について、こちらの質問に答えていただいた。
その結果、官ノ倉山の「下浅間」の位置についての私の誤りも判明した。
大久根さんは、官ノ倉西尾根の三郡境から先についても、落合におりずになるべく山道をたどり、採石場跡に地元住民が約2,000本の桜を植えた「虎山の千本桜」(東秩父村坂本)につなげるルートを開拓中であると話してくれた。
以下、官ノ倉山周辺および官ノ倉西尾根(今回は官ノ倉峠から三郡境まで)の主要ポイント(山、岩、祠、碑等)について、「比企外秩父の山徹底研究第1回・第2回」「比企外秩父山名等小辞典」の記述をベースに、今回の聞き取りで得た成果や現況などの情報を加え、まとめてみたい。
順路は、在家1区(安戸)→上浅間→官ノ倉山西峰→下浅間→石尊山→下浅間→官ノ倉峠→山ノ神→オンニョ→烏森山(虚空蔵山)→天ノ峰→能気神社からの尾根との合流点→愛宕山→細窪山(三角点)→障子岩→三郡境→障子岩→細窪山(三角点)→奥沢神社→東秩父村役場入口バス停である。
官ノ倉山とその周辺
地図2「官ノ倉山周辺」

安戸
安戸は東秩父村の入口にあたる大字であるとともに、村でもっとも世帯数の多い大字でもある。
安戸は小川町側から順に、宿(しゅく)、在家(ざいけ)、帯沢(おびさわ)の3つの地区からなる。
このうち在家は1区と2区に分かれ、その境はおおむね入山川である。
今回聞き取りを行ったのは入山川左岸の集落と東秩父郵便局であり、いずれも在家1区である。
前記の宿、在家、帯沢はそれぞれ鎮守をもち、宿の鎮守が天神社、在家の鎮守が能気神社、帯沢の鎮守が身形神社である。
宿の天神社には、官ノ倉山下浅間(石尊山西肩)から城山(腰越城址)にいたる長大な尾根中、東秩父カントリークラブ造成により破壊された「桜山」の山ノ神、山は残ったものの立ち入りできなくなった「愛宕山」の愛宕神社が、いずれも2006年に移設された。
安戸バス停から少し小川方面にもどると、入山川に沿った車道が合流する。
ここに東秩父村がつくったブルーの最新の指導標が建てられている。
指導標のタイトルを読んで驚いた。
何と「官ノ倉山・臼入山ハイキングコース」というタイトルで、官ノ倉山まで1.3キロ、臼入山まで3.7キロと書かれていたのだ。
要するに、「臼入山」という誤った山名を東秩父村が公認してしまったのである。
東秩父村が設置した官ノ倉山・臼入山ハイキングコースの指導標

以後、官ノ倉西尾根や三角点山頂から「細窪山」と書かれた私設山名表示板は完全に姿を消し(撤去され?)、「臼入山」に統一されてしまった。
奥武蔵研究会調査執筆の山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社には1980年代終わり頃から「細窪山」と明記され、現在では「誤った『臼入山』の標識あり」とまで書かれているにもかかわらず、正しい山名(細窪山あるいは三角点)が村により抹殺され、誤った山名(臼入山)を村が公認してしまった。
これが影響したのか、ヤマレコやYAMAPの山行記録などもすべて「臼入山」となってしまった(ヤマレコの山名紹介ページは臼入山、YAMAPの山名紹介ページは臼入山(細窪山)と表記)。
入山川に沿った車道を少したどり、公園の先で、右に民家の間を登る道が、官ノ倉山へのハイキングコースである。ここにも「官ノ倉山・臼入山ハイキングコース」の青い指導標が建つ。
明るい畑を抜けると、杉林のなかの暗い道に変わり、岩の出た滑りやすい急坂になる。
幸い右手にロープが設置されているので、それを頼りに登ると、尾根に乗る。
右下から尾根沿いの道も合流。
この地点に青石の石碑がたつ。
石碑の中央には小御嶽石尊大権現、その右には大天狗、左には小天狗の文字が刻まれている。
石碑を裏を見ると、明治三十四年(1901)六月十五日 大河原村大字安戸 世話人 田中久松ほか3人の記銘がある。
実は、この地点を山と高原地図および私のブログ記事「比企外秩父の山徹底研究第1回 官ノ倉山とその周辺」「比企外秩父山名小辞典」では、「下浅間」としていたが、これは大久保宏氏が指摘するように誤りであった。
小御嶽石尊大権現の石碑

庚申塔(浅間宮入口)と浅間神社再建記念の石碑
小御嶽石尊大権現の石碑から登りになり、小ピークを左から巻くと平坦な尾根道になる。
やがて尾根道はにわかに両側が痩せてくる。大久根さんによると、この地点を「馬の背」と呼ぶという。
馬の背

次のピークを右から巻くと、二基の石碑が現われ、ここで道が2つに分かれる。
左に山腹を巻く平坦な道が官ノ倉峠への道、右の尾根を急登する道が官ノ倉山の浅間神社(上浅間)と西峰(344㍍独標)山頂への道である
庚申塔には「浅間宮入口」の文字が刻まれていた。
つまり、万延元年(1860)建立の庚申塔は浅間神社(上浅間)への道しるべを兼ねているわけである。
その横の「浅間神社再建記念碑」には昭和十七年(1942)四月建立とあり、裏には寄付者の氏名が刻まれている。
浅間宮入口を示す庚申塔

浅間神社再建記念碑

地図3「官ノ倉山山頂付近拡大図」

浅間神社(上浅間:かみせんげん)
左に官ノ倉峠への巻き道を見送り、官ノ倉山西峰へ直登する急坂を登ると、まもなく再度道が二分する。
左にそのまま尾根を急登する道が浅間神社をへて官ノ倉西峰への道。
右の平坦な巻き道が官ノ倉山西峰と東峰との間の鞍部から下浅間をへて石尊山への道である。
浅間神社経由官ノ倉西峰山頂への急坂をあえぎ登ると、5分ほどでベンチが2つあり、前面が開けた浅間神社(上浅間)に達する。
官ノ倉山西峰(344㍍独標)は岩峰であり、その山頂直下の岩穴にしめ縄が張られ、その奥に浅間神社の石宮が納められている。
前方が開け、ベンチまであるので休憩に絶好の場所だが、真夏だけに、休んでいるとメマトイ(コバエ)がうるさく目や耳にまとわりつき、座っていられなくなり、早々に西峰山頂へ急がざるを得なかった。
官ノ倉山西峰山頂直下の岩穴に奉納されている浅間神社(上浅間)
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在家の信仰を集める浅間神社(上浅間:かみせんげん)の例祭は毎年4月第一日曜。
暑くて虫のうるさい夏場と違い、山桜が咲き、温暖な気候の4月初旬は、まさに祭り日和だろう。
当日は在家から20人ほどが山に登り、坂本の鎮守である八幡大神社の大澤宮司(現在は大澤宮司が引退されているので、神職の資格をとった奥様、あるいは現在、長瀞の宝登山神社宮司をしている息子さん)が祝詞をあげたあと、浅間神社の前で賑やかな飲み会(直来)を行う。
直来にはハイカーも自由に参加でき、なかには常連の方もおり、遠く群馬から通ってくる方もおられるという。
かつては在家1区・2区の約70戸から各戸1人ずつが祭りの当日には上浅間まで登ったというが、そんな当時とくらべると約20人が登るという現況はさびしい。
それでも今でも山頂直下の上浅間で例祭が継続されているという点は素晴らしい。
私も来年4月第一週の日曜には、是非とも上浅間の例祭に参加し、地元の方々と酒を酌み交わし、浅間神社についていろいろお話を伺いたいものだ。
上浅間から少し進むと、官ノ倉山西峰と東峰を結ぶハイキングコースに出る。
ここで左に少し登ると、西峰山頂につく。
官ノ倉山西峰(344㍍)
西峰は岩山で、その山頂直下(安戸側)の岩穴に浅間神社が祭られているというわけである。
さて、西峰(2万5千分の1地形図「安戸」の344㍍独標)山頂には「官ノ倉山 344.2m」と書かれた小川町設置の山名表示板が建てられている。
周囲には雑木が生えているので、決して展望に恵まれているとはいいがたいが、東峰がすぐ間近に見え、木の間ごしに秩父高原牧場方面が眺められるなど、明るい雰囲気の好ましい場所だ。
官ノ倉山西峰山頂

「標高344.2m 官ノ倉山」と書かれた小川町の山名表示板
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西峰山頂から東峰を眺める

ところで、官ノ倉山西峰に登るハイカーの多くが、東武竹沢駅から三光神社・天王沼(池)・官ノ倉峠経由で到達するコース、あるいは小川町笠原の北向不動尊経由で石尊山にいたり、尾根づたいに西峰に到達するコースをとる。
そうなると、浅間神社(上浅間)はハイキングコースから少し外れた場所(西峰山頂安戸側直下の岩穴)にあるので、ほとんどのハイカーが見落としてしまう。
官ノ倉山で山麓の信仰対象になっているのは、石尊山の阿夫利神社(石尊様)だけではない。
西峰から東峰に向かうとき、あるいは逆に東峰から西峰に向かうとき、少しコースから外れるが西峰山頂直下の浅間神社に立ち寄ってもらいたい。
東秩父村大字安戸(在家)の信仰を集める浅間神社、小川町大字笠原の信仰を集める阿夫利神社という両方の神社に参拝してこそ、信仰の山である官ノ倉山の真髄に触れることができるのである。
下浅間(しもせんげん)
西峰から岩の出た急な尾根をくだると、東峰との鞍部。
ここから先の庚申塔に向かう西峰南側を巻く道が分岐する。
東峰に向かい急坂を登ると、城山(腰越城址)から山ノ神越え(山ノ神)をへて登ってくる長大な尾根(その上部は小川町と東秩父村との境界尾根)が右から合流する。
ここは官ノ倉山東峰の一部だが、在家(安戸)では、この地点を「下浅間」(しもせんげん)と称している。
下浅間には現在、祠もないし、祠のあった跡さえない。
大久根さんに伺うと、下浅間にはもともと何もなかったという。
浅間神社の例祭の当日にも、参拝者は下浅間には向かわないという。
では、なぜこの何もない場所をあえて、在家の人々は下浅間と呼んでいるのだろうか。
大久根さんも詳しくは分からないというが、以下はあくまでも私の推測だが、下浅間がちょうど東秩父村と小川町との境に位置しているという点に、下浅間の謎を解く鍵があるように思われる。
阿夫利神社が祀られる石尊山は完全に小川町の領域である。
これに対し、ちょうど境界にあたる場所をあえて下浅間と呼ぶことにより、浅間神社の勢力(神域)がここまで及ぶことを在家の人々は示したかったのではないか。
来年4月第一日曜の浅間神社例祭では、参加者の方々にこのあたりのことを伺ってみたいと思っている。
ちなみに、官ノ倉山西峰は小川町大字木部(きべ)と東秩父村大字安戸との境。下浅間は東秩父村大字安戸と小川町大字笠原との境。石尊山は小川町大字笠原の領域である。
下浅間(官ノ倉山東峰の西肩)

石尊山
下浅間から岩尾根を少しくだり、再度登り返した尾根の突端のような場所が、石尊山である。
下浅間は東峰の一部ともいえる地点なので、下浅間と石尊山の総称として「官ノ倉山東峰」と言った方が適切である。
ともあれ小川町方面に突き出し、その先の丘陵は急激に高度を下げてしまうので、石尊山からの眺望は西峰以上である。
最近周囲の雑木が伸びているので、笠山・堂平山方面や北西面の展望が妨げられているのは残念だが、北東側には小川町から北に広がる市街が一望でき、北側には木の間ごしだが、金勝山や鷲丸山跡のホンダ寄居工場、さらに西側には秩父高原牧場から登谷山方面が眺められる。
山頂には「標高344.2m 石尊山」と書かれた小川町の山名表示板が建ち、ベンチがある。
「標高344.2m 石尊山」と書かれた小川町の山名表示板
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幸いメマトイに邪魔されないので、眺望を楽しみながら遅い昼食をとった。
ところで、石尊山の中央にある大岩を背に、三方を板石に囲まれたなかに、阿夫利神社の石宮が納められていた。
その右側には「忠七めし」で有名な小川町の二葉本店が寄進した石灯篭、左側には以前石尊山から東に連なる丘陵に祀られていた山ノ神の祠(現在の祠は、昭和五十年一月に小川コンクリート(株)の笠原昭夫氏が寄進したもの)が、ゴルフ場(プリムローズカントリー倶楽部)造成のため用地が買収されたため、移設されている。
西峰下の浅間神社が、その道しるべである庚申塔に「万延元年」と記されているように、信仰が江戸期にまでさかのぼることができるように、石尊山の阿夫利神社(通称・石尊様)も、安政二年(1856)の古文書に「石尊権現」と記されているように、それ以前から祀られていたようだ。
小川町在住の郷土史家・内田康男氏によると、「現在の石祠は昭和十三年二月に当所福田重治氏が奉納したものであるが、屋根正面に『阿夫利神社』とある」という。
西峰直下の浅間神社についても、4年後の昭和十七年四月に現在の祠に改修されているのも偶然だろうか。
石尊山の阿夫利神社は、その名のとおり雨乞いで有名な相州大山の阿夫利神社(明治期の神仏分離以前は石尊大権現と称した)の分身を祀ったものであり、官ノ倉丘陵の周辺には、東秩父村奥沢の阿夫利神社、寄居町三品の高山石尊神社など各所に祀られている。
東峰東山麓の小川町笠原の信仰を集める阿夫利神社の例祭は7月下旬の日曜日だった。
当日は暑い盛りなので、子どもをはじめ元気の良い人だけが阿夫利神社まで登り、祭典を行い、その後、山頂まで行けない老人たちを交え、北向不動尊で直来が行われ、酒がふるまわれていたという。
祭りの終わった翌日から、笠原地区では「お灯明」あるいは「あかりつけ」といって、笠原全戸が2人一組で山頂の灯篭に明かりをともしに行った。
笠原は60戸ほどなので、約1ヶ月で一回りするという。
しかし、その後簡略化され、山頂まで行かず、ロウソクを北向不動尊に供えに行くだけになっているという。
以上は1980年代に私が笠原で聞き取りしたものだが、最近の内田康男氏による聞き取りによると、令和になり祭りはいったん中止され(おそらくコロナ渦によるもの)、その後復活し、祭の日も8月第一日曜に変更。この日に区の三役と当番の方が石尊山山頂まで登り祭典を行い、8月16日以降の「あかりつけ」も北向不動尊にある石灯篭に7日間ぐらいともすだけになったという(内田康男「ふるさと笠原-その歴史と伝説-」未定稿、2024年)。
私が登った8月4日(火)には、山頂の阿夫利神社と山ノ神の祠には真新しい幣束がつけられていたが、これは直前の8月2日(日)に行われた祭典時につけられたものだろう。
阿夫利神社

石灯篭(小川町の二葉本店が奉納)
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山ノ神

石尊山山頂

官ノ倉山の山名について
2万5千分の1地形図「安戸」では、西峰(344㍍独標)に官ノ倉山の記載があるが、正しくは官ノ倉山は、西峰と東峰(下浅間+石尊山)両峰の総称である。
それはともあれ、『武蔵国郡村誌』男衾郡木部村の条は「神の倉」、『武蔵通志』では「神倉山」と記載。
そこから官ノ倉山の山名について、越生町の「大高取山」のもともとの名称である「神ノ倉山」と同じく「神を祀ってある岩ないし岩座(いわくら)のある山の意」という説が通説になっている。
たとえば、大石真人氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」において、「東武竹沢駅付近から双耳峰をなし顕著に見える山で、西峰を主峰とすべきだろう。しかし、官ノ倉とは神の蔵、すなわち神の祀ってある岩の意味であろうから、東峰のさらに東にある石尊山のあたりに名因があるかもしれぬ」としている。
大石氏がここで東峰=石尊山とせずに、「東峰のさらに東にある石尊山」としているのは、東峰と石尊山を区別している点で正確性を欠くが、安易に東峰=石尊山とする通説(本ブログもこの通説に沿っていた)に対し、既に1960年に異議を呈していたという点で、注目に値する。
実際に歩いてみて、下浅間と石尊山は、それぞれ東峰の一部というべきである。
その意味で、今後は東峰(下浅間+石尊山)という表記を採用したい。
大石氏は山頂の大岩を背に阿夫利神社を祀り、さらに山頂から北向不動にくだる岩場が鎖場になっている石尊山こそ、官ノ倉山(神の蔵山)の名因であろうとしている。
これとほぼ共通した認識を示しているのが、『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1980年)の以下の記述である。
「神の祀ってある岩穴(神の蔵)が石尊山にあることから山名となる」
大石氏、『角川日本山名大辞典11 埼玉県』のいずれも、「官ノ倉」(神の蔵)の名因である神の祀ってある岩ないし岩穴が石尊山の阿夫利神社を指すとしている。
しかし、これまでの記述から分かるように、神の祀ってある岩穴に近い場所は、むしろ西峰直下の岩穴に祀られている浅間神社(上浅間)である。
いずれにしても、官ノ倉山は西峰・東峰のいずれも岩峰である。東峰(とくに東端の石尊山)については先に述べたが、西峰についても山頂直下の岩穴(岩蔵)に浅間神社が祀ってあるほか、官ノ倉峠から西峰に登る道は岩場もある手強い急坂である。
つまり、官ノ倉=神の蔵(神の祀ってある岩ないし岩穴)が西峰・東峰両方にあり、そこに浅間神社、阿夫利神社両方が祀られていることから、神の蔵→官の蔵→官ノ倉となったというのが通説と考えてよい。
さらに通説以外にも有力な3説があり、いずれも決定打を欠くというのが実情である。
以下、さっと概要を紹介しておきたい。
・北アルプスの「乗鞍岳」は馬の鞍形の山容に由来した山名である。官ノ倉の「倉」を「鞍」に読み換え、竹沢付近から眺める双耳峰の山容を馬の鞍になぞらえ、神聖視するにいたったとする説。
・かつて笠原は江戸幕府の天領で代官所が置かれていたことから、年貢を納めた代官所の倉から官ノ倉の名が生まれたという説(小川町勝呂の故・宮沢貞夫氏の説)。
・官ノ倉山の周辺に「金属」関連地名や鉄やマンガンなどを掘った穴、そして朝鮮から渡来した人々に関連する地名や神社名が集中することから、官ノ倉を「古代より製鉄業に従事した渡来人が鉄穴のあった製鉄場を表現した言葉」ではないかとする金属地名説(故・塚越正佳氏の説)。
三ノ倉山
比企郡小川町大字飯田では、昔、官ノ倉山を「三ノ倉山」と呼んでいたという。
「三倉山」の名は、明治期の「武蔵国郡村誌」比企郡飯田村の条に登場する。
次いで、同じく明治期の『武蔵通志』では、山名を「神倉山」としつつも、「飯田にて三倉山という」としている。
さらに明治二十年(1887)の「飯田村地誌控」は、「比企男衾秩父三郡にまたがり(中略)往昔は三ノ倉山という。三郡境界にして呼称すると言い伝えるなり。今は四隣にて官の倉と称す」(小川町教育委員会所蔵旧大河村行政文書2)と詳しく記している。
西峰・東峰の総称である官ノ倉山は、男衾郡(木部村)、比企郡(笠原村)、秩父郡(安戸村)の三郡にまたがることから、昔、とくに飯田村(現在の小川町大字飯田)では三ノ倉山と呼んだという。
三ノ倉山の名因由来は上記のとおりであるが、なぜ木部や安戸、笠原ではかく、西峰・東峰に隣接していない飯田で特に「三ノ倉山」と呼ばれたのか、その理由は不詳である。
官ノ倉峠
石尊山から下浅間をへて、西峰との鞍部に出たのち、今度は西峰への直登路と分かれ、左に西峰を巻き、庚申塔に向かう道をたどる。
すぐに右に浅間神社・西峰山頂への直登路が分かれると、平坦な道は急なくだりとなる。
どんどんくだっていくと、再び庚申塔のある分岐に出る。
今度は左側の巻き道を行くと、すぐに「右よりい左やまみち」と刻まれた古い石の道しるべがある。
古い石のみちしるべ

この道しるべが物語るように、安戸から官ノ倉峠を越え、竹沢におり、そこから寄居町の西ノ入に出る道は古くから歩かれていた。
古い道しるべから少し登ると、杉林の中の広々とした官ノ倉峠に出る。
鬱蒼とした森林のなかの昼なお暗い峠で、陰気な雰囲気なうえ、「蜂に注意」との看板もあるため、早々に西尾根に向かう。
なお、官ノ倉峠という名称は、官ノ倉山にちなんだ便宜的な呼称が定着したものである。
官ノ倉峠

官ノ倉峠には「臼入山へ」の指導標が

官ノ倉西尾根(官ノ倉西丘陵)
地図4「官ノ倉西尾根(官ノ倉峠から天ノ峰)」
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「雨乞山」は誤り
官ノ倉峠から杉林に覆われた暗い雰囲気の尾根を急登すると、官ノ倉西尾根最初の320㍍圏ピークにつく。
もちろん山頂からの展望は皆無。
山頂には、なぜか石を積んだケルンが建っている。
山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社(2025年版)は、この山に「雨乞山」と表記している。
これにしたがったのだろうか、ヤマレコの山行記録でも、雨乞山と記載する記録が多い。
実は320㍍圏ピークを「雨乞山」としたのは私で、奥武蔵研究会会報『奥武蔵』228号(1986年3月)所収の「比企丘陵山名雑考(3)-官ノ倉丘陵①-」においてである。
そこでは「官ノ倉峠から西に進んだ最初の突起」について、地元で採集した名称として「天乞山」としている。
山と高原地図23『奥武蔵・秩父』でも、この記事にしたがっている。
しかし、その後この山を雨乞山としたのは誤りであり、本当の雨乞山は八高線竹沢駅西の大字勝呂の津島神社裏の小山であることが判明した(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』241号、1988年5月所収の記事「金勝山・鷲丸山」)。
天乞山は、金勝山の南に対峙し、昔は榛名山まで行ってもらってきた水をこの山にまき、降雨を祈願した歴史と信仰のある山だった。
ところが、採石のため山全体が削られ、今は存在していない(詳しくは、本ブログ「比企外秩父の山徹底研究 第1回「官ノ倉山とその周辺」および「比企外秩父山名小辞典」を参照)。
山と高原地図については、是非とも官ノ倉西尾根上の天乞山の名を消して欲しいものだ。
山ノ神
雨乞山と誤称した320㍍圏ピークからくだり、次のピークを巻き、3番目のピークを急登したあと、そこからくだりきった鞍部に山ノ神の瓦の祠が祀られている。
大木の根元に祀られた祠は、大きな岩を台座とし、破損した瓦屋根を茶色いレンガで補修している。
祠が安戸側を向いていることからわかるように、山ノ神は以前、東秩父村で花屋を経営していた方が奉納したという。
だが、花屋もなくなり、奉納者を失った山ノ神を地元・安戸で参拝する人もいない。
今は西尾根を縦走するハイカーが僅かな賽銭をあげる程度である。
オンニョ手前の山ノ神

オンニョ(366㍍独標)
山ノ神から急登となり、いったん平坦になったあと、さらに登ったところが366㍍独標である。
山頂の立ち木には「不動沢ノ頭」と書かれた私設の山名表示板が設置されている。
山頂の東秩父側は植林、小川町側は雑木で、展望は得られない。
比較的小広い山頂には、国土地理院の標定点が埋設されている。
オンニョ山頂には「不動沢ノ頭」と書かれた私設山名表示板が

オンニョ山頂に埋設されている国土地理院の標定点

ところで、366㍍独標の山名については、大石真人『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)、奥武蔵研究会調査執筆『ブルー・ガイドブックス4 奥武蔵と比企丘陵』(実業之日本社、1961年)以降、「不動入ノ頭」との名称を採用する向きが多い。
先の山頂にある山名表示板も、この名を踏襲している(不動沢となっているが)。
ヤマレコやYAMAPなどの山行記録も、ほぼすべて「不動入ノ頭」「不動沢ノ頭」の名を使っている。
だが、この名は小川町側の木部川上流が不動入に名前を変え、木部の北向不動尊の先で官ノ倉西尾根に突き上げるちょうどその付近にある山という意味で、ハイカーが付けた便宜的な名称(仮称)に過ぎない。
要は、不動入ノ頭(不動沢ノ頭)という名称は、地元呼称ではないということである。
しかも不動入が突き上げる山は、366㍍独標ではなく、その西にある「烏森山」(虚空蔵山)の方である。
実は、366㍍独標について、入山川沿いの在家1区(安戸)では「オンニョ」と呼んでいることを、既に1989年には採集していた。
しかし、「オンニョ」という名称が、まわりの山とも異質なあまりにも変わった名なので、これを公表する自信がなく、今にいたってしまった。
そこで再度在家1区で、眼前に見える366㍍独標の名を確認すると、複数のご老人が「オンニョ」であると答えてくれた。
では、「オンニョ」とはどう漢字表記するのかと尋ねたが、漢字表記はないという。
しかも、オンニョの意味については分からないという。
今回、37年ぶりに366㍍独標の地元呼称(安戸側呼称)である「オンニョ」を再収集できたのは大きな成果だった。
今後、この変わった名の由来を考察するとともに、「不動入ノ頭」という誤った呼称を「オンニョ」に変えるよう各方面に働きかけていきたいと思う。
烏森山(虚空蔵山・虚空蔵)
オンニョから烏森山(虚空蔵山)への尾根は、山麓の在家1区からも分かるように、比較的緩やかな傾斜である。
実際に歩いてみても、ほぼ平坦な尾根のあと緩くくだり、再度平坦になり、最後緩く登ったところが烏森山(虚空蔵山)山頂(370㍍圏)である。
相変わらず樹林に覆われ展望の得られない山頂だが、山頂中央に虚空蔵尊の石宮が、やはり安戸側を向いて祀られている。
山ノ神と同じく、ハイカーによる賽銭が上げられている。
「烏森山」の名は、『武蔵国郡村誌』の木部村の条、そして『武蔵通志』にも見られるが、安戸側(在家)では皆、「虚空蔵山」あるいは山を省いて単に「虚空蔵」と呼んでいる。
烏森山(虚空蔵山)の木部側には、不動入上流の木部の北向不動尊と関係を示す伝説が伝わっている。
かつて木部の不動入(木部川の上流)には北向不動尊から始まる十三仏が沢沿いに祀られており、沢のツメに当たる烏森山の山頂に最後の虚空蔵尊が安置されていたという。
この話の真偽は定かではないが、現在、十三仏は木部の北向不動尊に祀られている。
もっとも、木部では烏森山の名も、先の伝説も忘れさられつつあるなか、虚空蔵山(虚空蔵)の名は今でも安戸側では生きているのである。
ところで、山頂に祀られている虚空蔵尊の石宮(虚空蔵様)は、安戸の島田家が奉納したものだという。
烏森山(虚空蔵山)山頂の虚空蔵尊
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烏森山(虚空蔵山)山頂の私設山名表示板
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地図5「官ノ倉西尾根(天ノ峰から三郡境)」
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天ノ峰
烏森山(虚空蔵山・虚空蔵)の西が天ノ峰(380㍍圏)。
烏森山と同様、植林と雑木に覆われた展望のない山頂である。
天ノ峰山頂に設置された私設山名表示板

天ノ峰も、今回の調査山行で調べたい山名であった。
1980年代の安戸での聞き取りで、入山川の奥に聳えるこの付近で一番高い山という意味で名付けられた天ノ峰の名を採集した。
場所も以上の地点で間違いないと思ったのだが、意外なところで異論があがった。
東秩父村役場と親しい山岳地理研究家の飯野頼治氏は、村役場や教育委員会の後援のもとで、2009年7月に『野外研叢書2 地図で歩く19コース 東秩父風土記』を発行した。
同書は、のちに『飯野頼治著作集2 【歩く道・歩く旅1】奥武蔵風土記・東秩父村風土記』(まつやま書房、2022年)として復刻された。
実は同書で飯野氏は、421.1㍍3等三角点峰について「安戸側では『天の峰』と呼んでいるらしい」と述べている。
つまり、飯野氏は「臼入山」と誤称されている「細窪山」の安戸側の名称が「天ノ峰」であると示唆しているのである。
そうなると、烏森山西の380㍍圏ピークを天ノ峰とする私の説は根底から崩れてしまう。
そんな危機感をもって、今回の安戸(在家1区)での聞き取りの主眼の1つとして、天ノ峰の名称、そしてその位置を挙げたのである。
まずは天ノ峰の名称を聞き取りしたが、先に挙げたように、話を聞いたご老人のすべてが天ノ峰を知っていた。
そして場所を特定する場合のキーワードとして、「虚空蔵の西にある山」「中腹に竹林のある山」「最近、林道勝呂入山線が山の西を乗っ越している山」の3つを挙げ、聞き取りを行ったところ、結果としては私が採集した場所で正解であったし、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』で記載されている位置も正しかった。
要するに、421.1㍍三角点峰の安戸側呼称であるという飯野氏の説は誤りであったのである。
くだりはじめると、山の左側は一面の竹林に変わり、山の雰囲気も一変する。
この竹林は東秩父村で薬局を営業していた野沢家の持ち山だったが、今は野沢家も村外に移転し、手入れがされていないため、荒れ放題であるという。
天ノ峰のくだりから左側(南側)が竹林になる

そして下りついたところが、林道勝呂入山線だった。
この林道は、小川町の勝呂と東秩父村の安戸を結ぶもので、安戸から小川町の竹沢地区や寄居町の西ノ入に向かう最短路となる。
同時に、左に向かうと入山川から安戸に向かうことができ、右に向かうと西山川沿いに勝呂に出ることもでき、埼玉県最古の民家・吉田家住宅から東武竹沢駅に出ることができる。
安戸に出るにせよ、勝呂に出るにせよ、林道勝呂入山線は、官ノ倉西尾根からのエスケープルートとして有用だろう。
林道勝呂入山線に出る

能気神社・安戸城址からの尾根との合流点・トンビ岩
林道を横切り、向かい側の山道を登ると、左は竹林 右側は植林が伐採されたあとのヤブとなり、今までの暗い山から解放され、一気に明るい雰囲気の山となる。
最初のピーク、次のピークを越えると、北東に大きな支尾根が分かれるピークは左側から巻いてしまう。
巻き終わったあと鞍部から再度登り切ると、左から能気神社・安戸城址からの長い尾根が合流する。
能気神社・安戸城址からの尾根との合流点付近

合流点から南にくだり、一転して入山川に沿って南東に延びる長大な尾根も、静かな尾根歩きに絶好の魅力的な場所で、なかでも合流点から南にくだった標高約360㍍ほどの尾根上にある「トンビ岩」(鳶岩)は見所である。
大久根宏さんによると、トンビ岩は上から見ると、まるでトンビが羽根を開いたように見えることからこの名がついたという。
godohan氏のヤマレコの山行記録「能気神社御嶽山~臼入山~落合 ゴ・ドーハンの秩父札所午歳総開帳 プレ巡礼編⑥」(2026年4月25日)に「トンビ岩」の写真が掲載されているので、是非ご覧いただきたい。
今回は夏場の蒸し暑いなか、小ピークの登降でかなり体力を消耗していたため、トンビ岩の探索は今後の楽しみとして残し、まずは愛宕山に向かった。
ところで、西尾根と能気神社・安戸城址からの尾根との合流点付近は、東秩父村大字安戸と大字奥沢、そして小川町の大字勝呂との境である。
これが北に進んだ愛宕山となると、完全に勝呂と奥沢との境界になる。
在家1区では、安戸の北西端ともいうべき「合流点」付近を「大田山」(おおだやま)と呼んでいると、根岸一敏氏は教えてくれた。
大田山は小字名で、特定のピーク名ではないが、「大田山」といえば、在家1区では入山川源流付近の山(合流点付近の山)を指すという(大田山の正確な区域については、今後調査したい)。
愛宕山
合流点から緩やかに尾根を北上すると、狭い愛宕山山頂(410㍍圏)につく。
相変わらず展望のない山頂だが、山頂付近には岩が多く、とくに愛宕山から北に延びる尾根には大岩が露出している。
愛宕山は、小川町大字勝呂の呼称で(山頂北東の勝呂側には「愛宕下」という小字名がある)、かつて山頂には勝呂の宮沢家が明治十八年(1885)四月に奉納した瓦製の愛宕神社の小祠があった。
だが、私が1980年代半ばに訪れたときには祠は破損しており、2026年8月4日再訪したときには、愛宕神社は跡形もなかった。
明治期の『武蔵国郡村誌』男衾郡勝呂村の条にも記載されている隠れた名山である。
愛宕山山頂

愛宕山山頂にある「臼入山5分」と書かれた私設指導標

細窪山(三角点)
愛宕山の山頂からは、官の倉丘陵の最高点である細窪山(三角点)(421.1㍍3等三角点)が木の間ごしに大きく望まれる。
その細窪山を前にして高度を下げてしまうのは惜しいが、まずは愛宕山と細窪山との鞍部にくだる。
鞍部から沢沿いに奥沢にくだる踏跡がある(2万5千分の1地形図「安戸」に破線路として記載)。
この踏跡をくだった林のなかに「ムジナ岩」と呼ばれる岩がある。
岩には大きな穴があいていて、そこにムジナが棲んでいたので、子どもの頃、煙でいぶしてムジナを捕らえたことがあると、奥沢の古老が語ってくれた(1980年代半ば)。
そして、いよいよ細窪山山頂への急登。
約10分の登りで、細窪山山頂に到着。
時刻は既に16時55分。
ここで10分ほど休憩しても、奥沢神社までくだり、そこから東秩父村役場入口まで長く見積もっても約45分。
東秩父村役場発小川町駅行きのイーグルバスは18時02分と最終の20時20分のみ。
このままくだれば、余裕で18時02分のバスに乗ることができる。
既に蒸し暑いなかでの官ノ倉山西峰と東峰(下浅間+石尊山)の周遊、そして西尾根の登降で体力・脚力は相当消耗していた。
しかし、ここまで来たからには、さらに西尾根を西に進み、障子岩、三郡境まで行ってみたいという欲求を抑えることができなかった。
これがあとで致命的(?)な結果をもたらすとは、この時点では予想だにしなかった。
細窪山(三角点)山頂

細窪山(三角点)山頂の421.1㍍3等三角点(点名:奥沢)標石

細窪山(三角点)から三郡境への縦走路の入口にある「三郡境を経て落合(坂本)へ」と書かれた古い私設の指導標
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さて、障子岩、三郡境に進む前に、まずは最大の問題である「臼入山」問題に触れることにしよう。
現在、細窪山山頂の中央には、421.1㍍3等三角点の標石が埋め込まれ、山頂の西端には「臼入山421.1M」と書かれた山名表示板が設置されているのみ。
それ以外の私設の山名表示板(とくに細窪山と書かれた)は全部撤去されていた。
これまでのルートで東秩父村が建てた青い指導標、そして山頂のこの山名表示板をみれば、100%のハイカーはこの山の名が「臼入山」であると信じて疑わないに違いない。
だが、強くいうが「臼入山」という山名は誤りである。
この山は、東秩父村大字奥沢と小川町大字木呂子との境に位置する。
奥沢では基本、無名峰であり、なかには「三角点」あるいは「奥沢の三角点」と呼ぶ人がいるくらいである。
ちなみに、三角点の点名は「奥沢」である。
他方、北側の小川町木呂子では、山頂北側の小字「細窪」からとった「細窪山」という呼称が一般的である。
そのため、官ノ倉丘陵最高峰の421.1㍍3等三角点峰については、木呂子側・奥沢側両者の呼称を尊重し、「細窪山」(三角点)という記載をすべきであるというのが結論である。
実際、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)でも、山名を「細窪山」としているうえ、注記として「誤った『臼入山』との標識あり」と記しているほどである。
では、そもそも誤った山名である「臼入山」あるいは「臼入り」がどのようにして生まれ、それがどのようにして広がったのだろうか。
既にブログ記事「比企外秩父の山徹底研究第2回 官の倉西尾根」、そして「比企外秩父山名等小辞典」で詳しく述べているが、大事なことなので、あえて繰り返し記しておきたい。
まず「臼入り」について説明しよう。
「ウス入」は木部川の支流で、天王沼の先で木部川本流(この地点から先は、北向不動にちなみ、不動入と名を変える)から分かれ、南西に官ノ倉西尾根に突き上げる大きな沢の名であると同時に、沢周辺の地名(小字名)でもある。
本流の不動入は烏森山(虚空蔵山)に突き上げるが、烏森山(虚空蔵山)は細窪山よりもかなり官ノ倉峠に寄っており、その間には天ノ峰、愛宕山などの山々がある。
ウス入も不動入と同様、官ノ倉西尾根に突き上げるが、その地点は烏森山(虚空蔵山)よりもかなり東で、突き上げた地点から尾根を西に少し進むと、先に紹介した安戸で花屋を経営していた方が奉納した山ノ神がある。
2万5千分の1地形図「安戸」をみても、ウス入が官ノ倉西尾根上のオンニョ(366㍍独標)よりもさらに東に突き上げていることが良く分かる。
この地点は、421.1㍍三角点峰とは直線距離で1.5キロも離れており、ウス入を421.1㍍三角点の山名とするのには無理がある。
では、なぜ三角点と大きく離れた小川町側の沢名(小字名)が三角点峰の名前となってしまったのだろうか。
官ノ倉西尾根を最初にハイキング雑誌に紹介したのは岩満重孝氏と岩崎京二郎氏で、ともに1941年であった。
両氏の記事では、ウスイリ(岩満氏)、臼入り(岩崎氏)などと呼んでいるが、いずれも小字名・沢名ではなく、西尾根上のピーク名としている。
だが、それは421.1㍍三角点峰ではなく、三角点峰と官ノ倉峠との間にあるピーク(正確な場所は不明)で、おそらくウス入のツメに近い山という意味で、山名として便宜的に用いているようだ。
岩満氏・岩崎氏の記事では、ウス入のツメのピークであろうと思われる「ウスイリ」「臼入り」だったが、その後、ハイキング・ペン・クラブ著『新しき山の旅』(昭和十七年(1942)、昭和書房)所収の坂倉登喜子氏(岩根登喜子名)執筆の「官ノ倉山、小瀬田越え」で、事態は一変する。
同記事の略図には「臼入山」は載っていないが、本文では官ノ倉峠から官ノ倉山に登ったあと、再び峠に戻り、そこから西尾根を三角点峰までたどるコースにも言及している。
そして本文中には、以下のような記述がある。
「峠(引用者注:官ノ倉峠)から臼入山への縦走路は、峠から右(西)へ植林の中を幾つかの突起を越して、左寄りに巻きつつ、臼入山へは右にグッと登りとなる。臼入山からは、北に八王子を経て中郷部落へ降りるなり、或は奥沢へ降ってバスに乗るなり」とあるように、ここでは「臼入山」は三角点峰と官ノ倉峠の間の山ではなく、明らかに三角点峰をさしていることが分かる。
この坂倉氏の誤りを大石真人氏も踏襲した。
大石氏著『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の「外秩父概念図」では、421.1㍍三角点峰に「臼入り」と記載。
『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」でも「臼入り頭」(ウスイリアタマ)とし、「官ノ倉丘陵中の最高峰。官ノ倉峠から不動入頭をへて細経が尾根上にあるが、夏秋にはかなりヤブがうるさい」と記している。
坂倉氏・大石氏が歴代の会長を務めた奥武蔵研究会は、同会調査執筆の山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社で両氏の誤りをそのまま踏襲。421.1㍍3等三角点峰に長年「臼入り」と記載し続けた。
その後、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』では、1980年代末になって、ようやく三角点峰の名を細窪山に訂正したが、大石氏のガイドブック以来30年以上にわたり「臼入り」と記載しつづけた影響を消し去ることができなかった。
東秩父村としても、小川町側の木呂子の小字名「細窪」に由来する「細窪山」の名を採用するのには抵抗があったと想像される。
かといって単に「三角点」という地元呼称にもアピール性が欠ける。
ということで、広く定着してしまった「臼入山」の名を公式に採用するにいたったと考えている。
東秩父村役場に影響力をもった飯野頼治氏の以下の文言も、村が「臼入山」を公式の山名とする際に決め手となったことが想像できる。
「三角点のある臼入山(421㍍)山頂の標識には『細窪山』と併記されている。単に『臼入り』とも呼び、安戸側では『天の峰』とも呼んでいるらしい。ただし詳しい地図にも無記名が多く、山名については一考を要するが一応『臼入山』としておく」(『飯野頼治著作集2 【歩く道・歩く旅1】奥武蔵風土記・東秩父村風土記』(まつやま書房、2022年)
先に述べたように「(三角点峰を)安戸側では『天の峰』とも呼んでいるらしい」という一文は誤りである。
天ノ峰は、烏森山(虚空蔵山)西の380㍍圏峰である。
「詳しい地図にも無記名が多く」のくだりも、東秩父村役場発行1万分の1地形図には無記名だったかも知れないが、山と高原地図には細窪山と明記されていたのである。
それ以上に「山名については一考を要するが一応『臼入山』としておく」という飯野氏の現状追認的な安易な姿勢はおよそ山岳地理研究者とはいいがたく、むしろ東秩父村が臼入山の名を公認するうえで、お墨付きを与えてしまったのである。
細窪山山頂は、展望こそ秩父高原牧場から皇鈴山・登谷山方面が望める程度で、恵まれているとはいいがたい。
だが、これまで歩いてきた西尾根上のピークが樹林に覆われた暗い雰囲気の山頂であったのに対し、周囲に雑木が多いだけに明るい雰囲気の好ましい山頂だ。
ただし、官ノ倉山から西尾根のピークの登降を繰り返し、ようやく到着した山頂だけに、ベンチを置いて欲しいものだ。
障子岩
細窪山までは公認のハイキングコースなので、夏でも歩く人がいるようで(私もその一人だが)、メマトイはうるさいが、クモの巣に悩まされるということはなかった。
だが、一歩三群境に向け踏み出すと、道が細くなり、いきなりクモの巣の洗礼を浴びることになる。
それ以上に、細窪山からのくだりは、西尾根最大の難所といってもよい程の急下降である。
滑りやすいうえ、一度足を滑らすと転倒するか、そのまま鞍部まで転がり落ちるような急傾斜。
ロープを設置して欲しいところだが、細窪山以西はもの好きコースなので、そんなことは期待できない。
やむなく立ち木にすがりながら滑らないように一歩一歩慎重にくだったが、帰りにあの急坂を登るのかと思うとウンザリである。
鞍部に出ると、今度は眼前に突然、垂直に切り立った岩が集まり、行く手をふさぐ。
岩の高さは、両側が一番高いが、おそらく5㍍程度だろう。
40年前に訪れたときには、周囲の樹林が伸びてなく、岩の上からの展望は素晴らしかった。
しかし、今では森林のなかにある地味な巨岩というのが適切な表現である。
この巨岩が「障子岩」である。
飯野頼治氏は、前著でこの岩名を「トンビ岩」としているが、これは誤りで、「トンビ岩」は愛宕山から南に延びる尾根上にある。
障子岩は一見、越えることも難しそうに感じるが、容易に岩上に登り、越えることができる。
だが、岩の基部からの高さを知るためには、左からの巻き道をとってみるのも良いだろう。
障子岩(その1)
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障子岩(その2)
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障子岩(その3)
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三郡境
障子岩から少しくだって、鞍部からいよいよ「三郡境」への登りになる。
傾斜はそれほど急ではないが、クモの巣のトンネルにはうんざりさせられる。
クモの巣の下をくぐったり、手持ちの2万5千分の1地形図の拡大コピー(老眼なので)で巣を払いながら進むが、うっかりするとクモの巣を顔にまともに浴びてしまう。
それにメマトイも加わり、暑さ以上に疲れる登りだ。
ようやく到着した三郡境山頂(390㍍圏)。
この山が秩父郡(東秩父村)・比企郡(小川町)・大里郡(寄居町)という3つの郡の境である。
「三郡境」という呼称も、それに由来する便宜的な名称である。
本来ならもっと脚光を浴びるべき山だが、立ち木に「三郡境」と書かれ、「左 落合へ」と併記された古い山名表示版兼指導標がつけられている程度の地味な山だ。
山頂はもちろん展望はなく、植林や雑木、ヤブなどが混在する荒れた印象しかない。
「三郡境」を示す古い私設山名表示板兼指導標

細窪山から奥沢神社をへて、東秩父村入口バス停へ
三郡境からは、さらに西尾根を西に進み、次の380㍍圏ピークから支尾根伝いに落合の坂本山王社にくだることができる。
しかし、細窪山から三郡境までの道の様子を踏まえると、三郡境より先は、一層クモの巣の攻勢が激しくなることが予想されるうえ、時刻も17時30分近い。
日は長いとはいえ、私にとって未知の落合へのくだりを強行する気力は残っていなかった。
やはり細窪山まで戻り、奥沢神社にくだるのが無難だろうと判断。
しかし、障子岩こそ楽に乗り越えたが、やはり細窪山山頂までの極度の急坂は苦しかった。
さすがに山頂に登り切ったときには、ベンチ代わりに横たわった切り倒した丸太に座り込んでしまった。
ただでさえ、この暑い夏場に西尾根を細窪山までたどったうえ、障子岩・三郡境まで欲張ったため、長袖のシャツ、そしてズボンも汗まみれ。
それ以上に暑さと疲れから完全にガス欠となり、歩こうにも足が前に出ない。
そんな状態での奥沢神社までの長い下りは本当に苦しかった。
道は明瞭だが、予想以上に急な下降で、一部滑りやすいところがあり、転倒しないよう注意を要する。
クモの巣は少ないものの、メマトイの攻勢は、今日のコースで最大だった。
少し休むと、メマトイが黒い群になって目と耳にまとわりつく。
とても休んでいられず、くだりはじめるが、なかなか脚がついていかない。
普段ならスイスイとくだる道を、重い脚を引きずりながらゆっくりとくだるしかなかった。
蒸し暑さと脚のブレーキ、そしてメマトイの攻勢で、完全に集中力を切らし、途中のランドマークである阿夫利神社を見落としてしまったのが今日最大の失敗。
奥沢神社から細窪山への尾根の途中にある奥沢の阿夫利神社は、1980年代半ばの聞き取り当時から既に信仰は薄れていた。
かつて毎年4月12日に行われた盛大な例祭には、奥沢の集落総出で登拝したという。
だが、40年前当時には例祭は行われなくなり、社殿もすっかり傷んでしまっていた。
今回阿夫利神社の社殿を見落としたが、もしや社殿はなくなってしまったのかと勘違いしていた。
ともあれ、竹林が増えてくると、下方に奥沢神社の社殿が見え、まもなく大字奥沢の鎮守である奥沢神社につく。
ここから長い石段を手すりにつかまってくだりきると、すぐに東秩父村役場入口バス停。
時刻は18時41分。
次の最終バスは、何と20時20分!
約1時間40分の待ち時間となったが、平日だから良かったものの、土・日の最終は17時27分だから到底間に合わない。
ベンチに座ると、ズボンの汗でベンチが濡れるほど。
次第に暗くなり、最後は真っ暗になった山峡のベンチにて、懐中電灯で照らしながらスマホで最近の山行記録を検索。
私が見落とした阿夫利神社が健在であることが分かった。
ならば、次回は桜の咲く頃、リベンジに奥沢から阿夫利神社を確認して細窪山に登り、今度は三郡境からなるべく山道を探り、虎山の千本桜を見た後、西尾根を終点の寄居町三品の石尊山(高山)まで通してみたい。
そんなプランを練りながら、真っ暗ななか、最終バスの到着を待った。
〈参考タイム〉
安戸10:30~12:50(山名等の聞き取り)→小御嶽石尊大権現13:10→庚申塔13:30~36→浅間神社(上浅間)13:45~50→官ノ倉山西峰13:52~55→下浅間14:05→石尊山14:10~30→下浅間14:35→庚申塔14:51→官ノ倉峠15:06→山ノ神15:28~35→オンニョ15:46~52→烏森山(虚空蔵山)16:00~05→天ノ峰16:10→林道勝呂入山線16:18→能気神社・安戸城址分岐16:40→愛宕山16:46~50→細窪山(三角点)16:55~17:05→障子岩17:10→三郡境17:18~25→細窪山17:55~18:00→奥沢神社18:39→東秩父村役場入口18:41~20:20

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