はじめに
図1 小瀬名周辺略図

埼玉県日高市横手の小瀬名(こぜな)集落。
巾着田の上に聳える日和田山(305㍍3等三角点)から高指山、物見山(375.3㍍1等三角点)をへて西に延びる山稜の標高340㍍圏の尾根上に、2軒の人家がポツンと並び立つ集落。
その光景は、あの人気テレビ番組「ポツンと一軒家」のタイトルを借りると、「ポツンと二軒家」という表現がふさわしい。
過去実際に「ポツンと一軒家」で紹介されたことがあったという(筆者未見)。
この付近の尾根は杉やヒノキの植林で覆われ、暗い雰囲気を醸し出すところが多いが、小瀬名の人家の前だけ林が切れ、暖かい陽光が降り注ぐ。
3月末頃になると、夏みかんがたわわに実り、一斉に花が咲き出す。
山上集落には林道(車道)が通しているところが多いが、ここ小瀬名には車道が通じていない。
小瀬名に向かうには、西武秩父線の武蔵横手から関ノ入ヤツに沿った林道を約1時間徒歩で登り、五常の滝の先で、左に中野(毛呂山町権現堂)へ登る林道中野線と分かれ、右の山道に入り、岩や木の根の出た急峻な山道を約30分以上登るのが一般的である。
苦しい山道をあえぐと、ようやく傾斜が緩くなり、右に視界が開け、左には二軒の人家が現われる。
近くにある権現堂の北向地蔵(岩船地蔵)近くの駐車場まで車で行き、物見山方面への整備されたハイキングコースをほぼ水平に40分ほど歩くという手軽なアプローチもある。
しかし、小瀬名についた感慨を味わうためには、武蔵横手からの長く苦しいアプローチを勧めたい。
小瀬名にある二軒屋は駒井家の本家と分家。
そして分家のすぐ右上にある山こそ、「小瀬名富士」である。小瀬名富士の山頂(380㍍圏)は小瀬名集落の最高点である。
そんな小瀬名富士には、山腹に茶屋があり、山頂には展望台があったという歴史がある。
小瀬名と小瀬名富士は一体となっており、小瀬名の人々は小瀬名富士を先祖代々愛してきたのである。
しかし、『奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2015年)が権現堂にある別の山に小瀬名富士の山名を記載。それにしたがい、その山の山頂に次々に小瀬名富士の私設山名表示板が設置された。
それを信じるハイカーが登山記録を登山アプリ「ヤマレコ」や「YAMAP」に投稿。その結果、登山界では今や全く別の山が小瀬名富士となってしまった。
そんな事実を知り、小瀬名にゆかりのある人々は「小瀬名富士が別の山になってしまった」と嘆いている。
この小稿は、小瀬名富士の本当の位置を示すだけにとどまらず、小瀬名集落の歴史や信仰を掘り下げ、五常の滝など小瀬名と深い関係にある名所に秘められた歴史を掘り起こすささやかな試みである。
以下の記述は、2026年3月22日に小瀬名で行った聞き取りにおもにもとづいている。聞き取りは駒井家の分家で行われた。
駒井家の分家は3年前、当時の当主・駒井初保(はつお)さんが亡くなったあと、家族が山を下り、空き家となっていた。
初保さんやその父である駒井清次郎さんは、小瀬名やその周辺の生き字引ともいえる方々であったが、子どもの頃小瀬名で暮らした清次郎さんの次女・関根清子さん(76歳)も、小瀬名の歴史・信仰や周辺地名について非常に詳しい方で、今回の聞き取りは主に関根清子さんにお願いした。
聞き取りは、暖かい駒井家分家の庭で約1時間30分行った。
清子さんは自作の詳細な小瀬名周辺の地図とメモを手に、私の質問に丁寧に答えてくださった。
聞き取りには、清子さん以外に、清子さんの姉・小菅光子さん(85)、清子さんの長女・関根いく子さん、私のブログを読み、清子さんの聞き取り実現に尽力してくださった清子さんの長男・関根正夫さん、次女の関根和子さんも同席され、それぞれが清子さんの説明を補足するなど、和気藹々な雰囲気のなかで行われた。
現在、駒井家の分家は3年間の不在時に傷んだ個所の改修中で、改修作業はおもに関根正夫さんが担当している。
正夫さんの話では、すぐに定住するというのは、自分の仕事の関係上無理だが、将来的な定住と小瀬名富士の茶屋復活をめざし、今後も定期的に通い、徐々に準備を進めるという。
茶屋や展望台の復活だけにとどまらず、「分家でうどんを提供したいんですよ」と目を輝かせて語ってくれた正夫さんの笑顔が忘れられない。
また帰路、ムジナ岩や学校山林、風穴などの探索という無理なお願いを快く快諾していただき、倒木の多い道なきムジナヤツの下降に同行してくださった清子さん、正夫さん、和子さんにも深く感謝したい。3人の同行がなければ、念願のムジナヤツ下降は実現できかかっただろう。
なかでも、先頭に立ってみんなを案内してくれた清子さんの次女・和子さんの健脚に驚くとともに、私の後について私の安全に絶えず注意を払ってくださった清子さんのご厚意にはお礼の言葉もない。それ以上に、ふらつく私にくらべ、76歳ながら、険しいヤツをスイスイと下降する清子さんの強靱な足腰に、かつて山上集落でくらした長年の年輪が感じられた。
以下の記述は、先に述べたように2026年3月22日に日高市横手の小瀬名で行った聞き取りにおもにもとづいているが、それ以外に1990年5月28日と2026年3月29日に日高市高麗本郷の駒高で行った聞き取り、2026年3月29日に毛呂山町権現堂の鎌北で行った聞き取り、2026年3月15日と22日の2回にわたって毛呂山町権現堂の中野で市川豊勝さん(81歳:以前、民宿「啓明荘」を経営)に対し行った聞き取りで得られた情報も加えている。
さらに、奥武蔵研究会会長の小泉重光氏には、小瀬名富士に関する関係文献を紹介していただいた。
あわせて謝意を表するとともに、本文中の誤りはすべて私の責任であることを、あらかじめお断りしておきたい。
それでは、まずは小瀬名の歴史と信仰から話を始めることにしたい。
小瀬名の歴史と信仰
図2 小瀬名集落拡大図①(関根清子さん作成の地図を簡略化)
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図3 小瀬名集落拡大図②(関根清子さん作成の地図を簡略化)
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駒井家のルーツ
日高市の観光地といえば、巾着田、高麗神社、聖天院などの一帯である「高麗郷」が有名である。
高句麗が滅びたあと、若光に率いられた高句麗の人々が日本に逃れ、そののち若王は高麗王との王姓を朝廷よりさずけられ、多くの高句麗人が高麗の地に定着した。
その際、若光の側近が最初に住んだのが小瀬名の東隣・駒高(日高市高麗本郷)である。のちに駒井の姓をもらったときに小瀬名の地に移り住んだという。これが駒井家のルーツであるといわれる。
駒井の姓を名乗るようになってからは武田氏、次いで徳川氏に仕え、清子さんの長兄であり、分家を最後まで守った(3年前に亡くなった)駒井初保さんが分家の17代目である。
駒井家分家(2026年3月22日撮影)

高麗神社・聖天院とのつながり
高麗郷の中心は高麗神社・聖天院だが、小瀬名は昔、高麗神社・聖天院よりも高い地位にあったという。
正月、高麗神社を開けるとき、小瀬名から鍵を借りないと開けられなかった。
のちにわざわざ毎年小瀬名まで鍵を借りに来るのは大変だということで、小瀬名の鍵を高麗神社に預けることにしたが、それ以降、鍵は小瀬名に戻ってこなくなり、小瀬名の地位が相対的に低下したという。
また、高麗神社や聖天院は後年に建てられた建造物で、現在、高麗王若光の墓は聖天院にあるが、若光はそこには眠っておらず、若光は、実は小瀬名の地に眠っているという伝説もある。
駒井家一族
先に小瀬名は二軒といったが、実は昔は三軒あった。
向かって左(西)が駒井家の本家(屋号は表の家)であり、いわゆる「小瀬名大尽」である。
向かって右(東)が駒井家の分家(屋号は井戸の上)である。
井戸の上というのは、分家の下に駒井家一族が水道の水源として使っている井戸があることによる。
この井戸は日照りが続いても涸れることながく、現在も存在している。
のちに述べる巨大な馬頭観音の周囲は平地になっていて(今は植林が育って、鬱蒼とした林の中)、ここに本家で働いていた人が土地をもらって建てた杉田家(屋号は向いの家)があった。
屋号の「向いの家」は、分家の向かいにあることに因む。
杉田家は早く山を下りてしまい、家屋も残っていない。
そのため、現在家屋が残っているのは駒井家本家と分家の二軒のみであり、常住しているのは駒井氏本家のみである。
ただし、「駒井家一族」という場合、本家・分家・杉田家を含むという。
駒井家一族は、本家が徳川家の家臣であったことから、横手はもちろんのこと、日高最大の有力者であり、昔この一帯は駒井家一族の土地で、よその土地を踏まずに小瀬名から武蔵横手の駅まで行けたというのは有名な話である。
本家は女工40~50人を雇って反物を織って、横手の街道沿いに「小瀬名店」をつくって、そこで反物を売っていた。
反物を織る工場(機場:はたば)が本家と分家の間にあったという。
「高麗郷歴史こもればなし」には、(一般社団法人)高麗1300の大野松茂理事長と、当時存命だった駒井家分家第17代当主・駒井初保さんとの対談記事を載せている。
そのなかで、大野氏と初保氏は次のように語り、かつての駒井家の栄華を振り返っている。
(大野氏)「江戸時代には駒井家がここの材木を切って横手から川に流し、江戸に材木の出店を持つほどだったとあります。五郎左衛門さん(引用者注:江戸時代の駒井家本家当主)は江戸に大きな炭問屋も開いていたようですね」
(駒井初保氏)「人を何百人も使っていたみたいです」
これらの栄華から駒井家本家は、「小瀬名大尽」と呼ばれるようになった。
後にみるように五常の滝も、全盛期の駒井家一族の偉容を示す存在であった。
石垣と三重の門
駒井家本家の石垣(2026年3月29日撮影)

林道中野線から分かれ、山道を小瀬名に向い急坂を登り、ようやく周囲が開け、小瀬名集落に入ると、道のすぐ左脇に「殉職の地」碑がたたずんでいる。
その先、左上に駒井家本家が見えてくるころ、山道の左側をみると、ブルーシートで覆われている先に古い石垣がつくられているのがわかる。
この古い石垣は本家が江戸城の石垣を積んだ職人に頼んで積ませたものであるという。
高さは2㍍以上あるだろうか。
江戸時代にこれだけの規模の石垣をつくらせたという事実が、かつての駒井氏本家の権勢を物語っているが、肝心の石垣がかなり傷んでいるのが気にかかる。
石垣の上には、かつて本家の庭までの間に門が3つ設けられており、門をとおるときに門番にお伺いをたてて通過許可を得る必要があった。
平民は第一の門までしか入れず、その上の身分の人も第二の門までで、最も高い身分をもつ人のみが第三の門を通り、本家に入ることを許された。
この3つの門を総称して、「三重の」という。
駒井家本家の山ノ神
駒井氏本家の山ノ神(2026年3月22日撮影」

駒井家本家の山ノ神(関根正夫氏提供)

向かって右手の祠(2026年3月22日撮影)

関ノ入林道が五常の滝を過ぎ、急に勾配を増し、右手に急カーブするところで、右に登る山道が小瀬名への道である(林道をそのまま進めば、毛呂山町権現堂の中野集落)。
険しい急坂をあえぎ登り、日高市と毛呂山町との境界をなす小尾根に登りついたら、やや平坦になった小瀬名への道から分かれ、左の道なき小尾根に取り付く。
かなりの急勾配だが、途中で右下の駒井家本家の庭から日高市指定の木・山桃の木(静岡から持ってきたという)の前をとおり登ってくる道を合わせると、やや傾斜は緩んでくる。
まもなく、周囲の林相が変わり、にわかに美しい竹林になる。
すると、竹の木に囲まれた小平地に、雨露よけの古びた小屋に収められた山ノ神の小祠が二基現われる。
これが駒井氏本家の山ノ神である。
向かって左の祠はごく普通のものだが、右の祠の屋根には虎や蛇などの凝った彫り物の飾りがある。
清子さんによると、これは高句麗ゆかりの彫り物だという。
昔、清子さんが幼い頃、祠を納めた小屋(祠の囲い)には格子戸があり、鍵がかかっていた。なかには黒い小さな仏像が祀られていたのを見た記憶があるという。
かつて祠は全部で3つ並んでいたといい、一番右側の祠は朽ち果てて今はない。
当時真ん中(今は右側)の祠の屋根には狛犬・亀・牛・人・虎・龍・鯉などが彫られ、これらの文様は高句麗由来の貴重なものであった。
ところが屋根が壊れてしまったので、前記の彫り物により装飾された屋根の破片を今、分家で保管している。
2026年3月22日の調査時点で、右側の祠は再建されていた。屋根の前面には、先に述べたように、分家で保管している古い屋根の破片と全く同じ高句麗由来の様式の虎・蛇の絵が彫られていた。
分家では母親と正月に赤飯を本家の山ノ神にあげ、そのあと赤飯を本家にもっていって、一緒に食べたという。
駒井家分家の山ノ神
駒井家分家の山ノ神(2026年3月22日撮影)

駒井家分家の裏山にも山ノ神がある。
こちらも現在二基の祠が並んでいる。
毎年正月に参拝するとともに、山の木を伐採するときには、その前に横手の鎮守である横手神社の宮司にお願いして、山ノ神に祈祷を行い、安全を祈願したという。
馬頭観音像
馬頭観音像(2026年3月29日撮影)

駒井家分家への道を左に分けると、ほぼ平坦な道は小瀬名富士の南側を大きく巻くようになる。
その巻き道の南端少し手前の暗い林のなか、巨大な馬頭観音の石像が現われる。
ここは杉田家の家があったところの少し先で、昔はこの一帯は畑であった。
馬頭観音の高さは、台座である石積みを合わせると、2㍍63センチと、大人の身長をはるかに超える。
嘉永元年(1848)8月、駒井家本家当主の駒井経定が建立した。
かつて、山で切り倒した木の搬出に馬を使うことが多かった。
そのため、亡くなった馬の霊をなぐさめるため、そして今働いている馬の無事を祈るために建立されたという。
私が今回この地を訪れたのは、2026年3月15日と22日。その前に訪れたのは、それから38年前の1988年10月だった。
1988年当時は、この地は畑と草地で、日だまりの明るい場所であったが、40年近くをへて、雰囲気は一変してしまった。
「殉職の地」碑
「殉職の地」碑(2026年3月29日撮影)

小瀬名への山道が平坦になり、林が開け、左手に駒井家本家の家屋が見えてくる頃、山道左手の草地の斜面に「殉職の地」碑がひっそりとたたずんでいる。
目立たない碑なので、うっかりすると見過ごしてしまうかも知れない、
この碑にはどのような歴史があったのだろうか。
昭和19年(1944)5月27日の朝、本家前の畑に飛行機が墜落した。
幼いときに、墜落の音を聞いた小菅光子さん(85歳)は、あのときの衝撃と爆音を今でも覚えているという。
このとき、分家の当主だった駒井万平さんはいったん畑に行ったが、井戸端にふやかしたささげの種を取りに戻ったため、からくも墜落に巻き込まれることはなかった。
万平さんが再度現場に戻ると、そこは想像以上の惨状だった。
4人の飛行士は既に息絶えていたので、第一発見者の万平さんは本家の駒井嘉一さん、杉田家の杉田源吉さんを呼び、警防団や軍に協力して遺体の収容を手伝った。
その後、万平さんたち3人は、若くして命を落とした4人の飛行士の霊をなぐさめるため碑を建てることを決断。
もっとも碑を建てた背景には軍の要請があったといわれる。
驚くのは、表面に殉職した飛行士4人の名、裏に施主の万吉さんたち3人の名を刻んだ石をわずか5日間で山の上に運び上げ、石碑を建立したことである。
石碑の表面には、以下のように殉職した4人の飛行士の名が刻まれている。
故 陸軍中尉 永野淳
陸軍少尉 川邊貞雄
陸軍少尉 山下豊
技術雇員 菅谷照
殉職之地
裏面には、施主である万平さんら3人の名が刻まれている。
殉職 昭和19年5月27日
昭和19年11月建立
建設者 小瀬名 駒井万平 駒井嘉一 杉田源吉
隕石の落下
馬頭観音からイボ石に向かう道の南(スミガマヤツ=スンガマ源頭)に駒井氏分家の田んぼがあった。
駒井清次郎さん(万平さんの長男。関根清子さんの父)が分家の当主だった頃、そこに隕石がおち、あたり一面、なか、気管支喘息、でも稲は黒こげになった。
隕石は大学かどこかの人が調べるために渡して、その後戻ってきた。しかし、後に調べてもらったところ、ただの石にすり替わっていたという。そんなことを清子さんの兄の初保さんが言っていた。
清子さんが小さい頃実際に見たのは、桐の箱に入った楕円形の石だった。
精進堂
中野分岐から急な山道を登り、ようやく平になり、視界が切れ、小瀬名の集落と畑にさしかかるころ、進行右手の広場の奥に墓地がある。
墓地の近くに精進堂があった。
精進道は火事で焼失し、現存しないが、そこには精進様が祀られていて、さらに金のお釈迦様があったという。
小瀬名富士とその周辺の地誌
図1(再掲)小瀬名周辺略図

小瀬名富士(こぜなふじ:丸山)
小瀬名富士中腹の「峠の茶屋跡」(2026年3月15日撮影)

小瀬名富士山頂の正体不明の鉄塔(2026年3月15日撮影)

駒井家分家のすぐ右側に聳える380㍍圏ピーク。
別名は「丸山」。丸山の名は、その山容にもとづくものであろう。
小瀬名富士は駒井家分家の土地にあり、歴代この名で呼ばれ、小瀬名のシンボル的存在として親しまれてきた。
小瀬名の最高点であることはもちろん、現在では想像できないが、以前は山頂からの眺めは絶佳で、関東平野を一望できるとともに、富士山を眺めることができた。
冨士浅間信仰にもとづく山ではないが、集落の最高点で富士を遠望できる山を、小瀬名の人々は親しみを込め、「小瀬名富士」と呼んだのであろう。
昭和30年代はじめ、当時の分家の当主であった駒井清次郎さんは小瀬名富士で茶屋を営業することを決め、山の中腹に「峠の茶屋」という名の売店をつくった。
茶屋の営業を始めた正式な時期は分からないが、清子さんが14歳の頃(1964年頃)には既に茶屋は営業していた。
清次郎さんは茶屋をつくったものの、店番は奥様のよしさんに任せていた。
峠の茶屋からひと登りすると、小瀬名富士の山頂だが、そこは素晴らしい展望が楽しめる場所で、「展望台」と呼ばれ、茶屋とともに長年にわたりハイカーに愛された。
藤本一美氏の展望図「多峰主山からの奥武蔵スケッチ」(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』170号、1976年7月所収。のちに『山岳ノート』私家版、1990年10月に再録)には、物見山の西に、「小瀬名茶屋 展望台」が描かれている。
藤本氏が展望図を描いた1976年当時には、峠の茶屋は存在していたのである。
清子さんの記憶では、峠の茶屋は1980年代はじめまで営業を続けていたという。
現在、中腹には峠の茶屋が使った小屋が二軒、そのままの姿で残されている。
傍らには重機が置かれているが、これは茶屋や展望台の復活をめざす清子さんの長男・関根正夫さんが展望を妨げる木々の伐採を行っているからである。
山頂には小さな鉄塔が建てられているが、これについては関根正夫さんも不明であるとしている。
このように、小瀬名の駒井家分家で先祖代々愛され、一時期は峠の茶屋や展望台まで営業していた小瀬名富士だが、これまで文献でどのように取り上げられていたのであろうか。
奥武蔵研究会会長の小泉重光氏からのご教示によると、小瀬名富士の名が最初に登場するのは、大石真人氏の「高麗丘陵地誌」(『山と高原』77号、1948年10月)であるという。
そこで大石氏は「小瀬名富士四百米 小瀬名部落北方の四百米二峰を並べるうち、西峰にこの名があるが、さほど著峰とは見えない」と述べておられる。
大石氏の記述は一見緻密なように見えるが、実際にはきわめて曖昧な内容である。
まず小瀬名富士は「小瀬名部落北方」にある山ではない。駒井氏分家の東にある山である。
400米という標高については、当時の古い5万分の1地形図「川越」にもとづくため、現在の2万5千分の1地形図「飯能」の380㍍圏と若干誤差があるのはやむを得ない。
それ以上に、「二峰を並べる」とあるが、小瀬名富士は小瀬名集落の最高点である。
東西二峰のうち、西峰が小瀬名富士であるというが、では東峰はどこを指すのか、それは不明である。
大石真人氏に続き小瀬名富士の名を登場させたのが、神山弘氏の『ものがたり奥武蔵』(奥武蔵研究会、1951年。1982年に岳書房より復刻)である。
神山氏は『ものがたり奥武蔵』所収の略図「高麗丘陵」にて、小瀬名集落のすぐ右に小瀬名富士を記載している。
さらに同書の「奥武蔵天狗譚」において、「日和田山の隣の富士山で知られる小瀬名部落の若者が、ある日突然見えなくなってしまいました」と記している。
だが、藤本一美氏の展望図(1976年)を除くと、大石氏や神山氏など奥武蔵研究の先駆者が言及されて以降、奥武蔵研究会においても、小瀬名富士への言及が約40年もの間ほとんどない状態が続く。この約40年以上もの「空白」期間に、小瀬名富士の位置をめぐる迷走が始まる。
まず奥武蔵研究会会員の権田則子氏は「踏み跡を求めて 物見山から北向地蔵・九郎曽根・横手へ」(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』274号、1993年11月)において、権現堂に属する406㍍独標について、「いつ頃からか『小瀬名富士』と呼ばれているが、『前山』とか『むすび山』などと呼んでいる地元の人もいる」としている。
権田氏の踏査研究は、1993年当時に「前山」「むすび山」などの山名を採集し、それらを406㍍独標の呼称としているなど、非常に価値のあるものだが、残念ながら406㍍独標を小瀬名富士とする致命的な誤りを犯している。
もっとも、権田氏の文章をよく読むと、「いつ頃からか『小瀬名富士』と呼ばれているが」とあるように、当時(1993年)は406㍍独標を小瀬名富士と呼ぶのがハイカーの間で一般的であったとも読めるのである。
そうなると、この時期、既に小瀬名富士に関する誤った位置が定着していた可能性がある。
権田氏の踏査研究でもうひとつ疑問なのが、略図において小瀬名富士にあった「茶屋跡」が記載されているものの、肝心の小瀬名富士の記載はなく、本文中では直線距離で約120㍍北にある406㍍独標を小瀬名富士としている点である。
そういえば、藤本氏の展望図(1976年)でも、小瀬名茶屋・展望台の記載はあったものの、小瀬名富士の記載はない。
権田氏や藤本氏の例から考えると、この時期、峠の茶屋と小瀬名富士とは別の場所であるという認識が広がっていたのではないかという疑問さえ湧いてくる。
現・奥武蔵研会会長の小泉重光氏は、私信で次のように述べている。
「九郎曽根から小瀬名集落へ向った際の景観から380㍍圏の東西二峰を合わせての富士山と解しておりました」
しかし、「380㍍圏の東西二峰」が小瀬名集落内に存在するというのは本当だろうか。
小瀬名富士(380㍍圏)より東には駒高との境のイボ石があるだけで、集落内に顕著なピークは存在しない。
小瀬名集落の背後に、350~370㍍圏の日高市・毛呂山町境界尾根が延びているが、この尾根には350㍍圏の地点に駒井家本家の山ノ神が祀られているものの、それ以外に特筆すべきピークは見当たらない。
要は、東西二峰という認識自体が、大石氏の最初の指摘に影響を受けすぎていると思われるのだが、どうだろうか。
奥武蔵研究会が、小瀬名富士の位置について迷走しているなかで、『奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2015年)が出版された。
そこでは、406㍍独標と小瀬名富士(380㍍圏)との間の380㍍圏ピーク(詳細図では、390㍍ピーク)について、「大々的に」小瀬名富士と記載した。
『登山詳細図』の影響はすさまじく、またたく間に小瀬名富士北北東約120㍍の位置にある380㍍圏ピーク(390㍍ピーク)山頂には、「小瀬名富士」と書かれた私設山名表示板が設置され、2026年3月現在、その数は3つにのぼっている。
こうなると、ヤマレコ、YAMAPをはじめとする地図アプリに毎週のように投稿される膨大な山行記録のすべてが『奥武蔵登山詳細図』やそれにもとづく私設山名表示版にもとづく誤った情報を垂れ流し、いつしか小瀬名富士の位置が本来の位置から、その北北東約100㍍の権現堂にある380㍍圏ピーク(390㍍ピーク)に「登山界」では変わってしまったのである。
ヤマレコは「小瀬名富士」について、以下のように書いている。
「奥武蔵登山詳細図の位置に合わせ、標高ともに変更しました。同図での標高点406は東ムカイ山になっています。奥武蔵研究会の会報「奥武蔵」のバックナンバーに小瀬名富士を扱った回があります。そちらでは南南西100mほどの地点を小瀬名富士としています。小瀬名の名を冠するからには小瀬名地区になければおかしいという見解です。尤もな意見と思いましたが、影響力の違いを考えると今後は詳細図を基に位置が定まっていく気がしますので、この位置にしました」とある。
これは当初、小瀬名富士の位置を406㍍独標としていたのを、『奥武蔵登山詳細図』にしたがい、その南にある毛呂山町権現堂東組地区内の380㍍圏(390㍍)ピークに変更したという説明である。
そして、変更にあたり、奥武蔵研究会の会報『奥武蔵』の記事にある小瀬名地区内の380㍍圏ピーク(これが本当の小瀬名富士)をも検討したが、「影響力の違い」を考え、「奥武蔵登山詳細図」の位置に定まっていくこととされるので、その位置にしたがうというのである。
驚くべき見解である。
地元の小瀬名で先祖代々「小瀬名富士」と呼んでいた山を無視し、単に「(登山界での)影響力の差」で『奥武蔵登山詳細図』の記載する間違った位置の山を小瀬名富士と呼ぼうという主張である。
そうなると、山についての地元呼称など全く関係なく、影響力のある書籍や登山地図が記載する位置が(それがいかに誤りであろうと)正しいという極論になってしまう。
そんな地元無視の登山者による勝手な山名の命名や誤った位置の記載などが野放しにされたら、一体どうなってしまうのだろうか。
残念ながら、現状は「ニセ小瀬名富士」(山には申し訳ないが、あえてこの表現をする)にはわざわざ登るものの、本物の小瀬名富士を無視して素通りするハイカーばかりである。
現在、ハイキングコースは小瀬名富士の東を巻いてしまうが、土地の所有者である関根正夫さん(清子さんの長男)は、山頂に「小瀬名富士 駒井家建立」と刻んだ大きな山名表示板を設置する予定だという。
早く実現して欲しいものだ。
むすび山
小瀬名富士北北東約120㍍にある380㍍圏ピーク山頂の「小瀬名富士」の私設山名表示板(2026年3月15日撮影)。同ピーク(ニセ小瀬名富士)は、「むすび山」の候補の1つ。

1990年5月28日、小瀬名の東に隣接する山上集落・駒高(日高市高麗本郷)で聞き取りをしていたとき、ある古老が「小瀬名富士は聞いたことはないが、むすび山という名の山がある。武蔵学園が戦前購入した土地の反対側にあるおむすび状の山」で、今は樹林が茂って展望はないが、かつては展望が良かったという。
長らく「むすび山」の位置が分からなかったが、「学校山林」の位置が分かるにつれ、あの老人が述べていた「学校山林の反対側」の意味も分かってきた。
学校山林(学校山)については、あとで述べるが、小瀬名の北側にある日高町と毛呂山町との境界尾根北の「ムジナヤツ」というヤツを指す。
ここに戦前から東京の武蔵学園がヒノキ等の植林をしたことから、「学校山林」の名がついた。
学校山林のあるムジナヤツをつめると、小瀬名分岐から北向地蔵への整備されたハイキングコースに飛び出す。
そして、ハイキングコースを横切り、反対側(東側)に向かうと、そこには顕著な突起がある。それが「ニセ小瀬名富士」である毛呂山町権現堂東組の380㍍圏(390㍍)ピークである。
ここで、私のなかでは「ニセ小瀬名富士」=「むすび山」という確信が強まった。
その後、先の権田則子さんの踏査研究を再読する機会があり、その中に例の一文を発見した。
繰り返し引用して申し訳ないが、「(406㍍独標は)いつ頃からか『小瀬名富士』と呼ばれているが、『前山』とか『むすび山』などと呼んでいる地元の人もいる』という一文である。
この文章の前段は誤りだが、肝心なのは後段で、私がむすび山ではないかと推測した小瀬名富士北の380㍍圏ピーク(『登山詳細図』では390㍍』)、つまり「ニセ小瀬名富士」よりさらに北の406㍍独標が「前山」あるいは「むすび山」と地元では呼ばれているというのだ。
ここで「むすび山」が地元呼称であることに確信を得たが、その位置となると、380㍍圏ピーク(390㍍ピーク)なのか、それとも406㍍独標なのかどちらなのだろうか。
ところが、2026年3月22日の小瀬名・駒井氏分家での聞き取りにおいて、分家の最後の当主・初保さんの妹である関根清子さんから「むすび山は、もっとずっと物見山に寄った山」との意外な指摘を受けた。
だが、物見山と小瀬名との間は平坦な尾根が続き、顕著なピークはない。
そうなると、むすび山は、ヤサオネ峠(正しくは「ヤツゾネ」)~小瀬名分岐付近の山一体の総称になるのだろうか。
3月15日に毛呂山町権現堂の中野および日高市高麗本郷の駒高で、「むすび山」について尋ねたが、「聞いたことがない」「分からない」という回答ばかりだった。
むすび山と呼ばれる山が存在しているのはたしかだが、それが果たしてどこを指しているのだろうか。
真北にあたる権現堂の東組地区が廃村になったのが致命的で、さらに38年前私にむすび山の話を熱心に語ってくれた古老がおられた駒高では、現在、周辺地名に詳しいご老人がおられない。
「もしかしたら」との淡い期待を抱いて3月29日に駒高の集落を再度めぐったが、やはり「むすび山」を知る人はいなかった。
現在7軒の人家のある駒高では、ここ10~20年の間に高齢の老人が相次いで他界されたという。
諦めきれず、権現堂最北の鎌北集落を訪ね、鎌北湖畔の立派な人家(小山家)を訪ねたが、やはり昔、山仕事をされたことがある高齢者が最近10年間で次々となくなり、今では山名等に詳しい方はいないという。
現在、毛呂山町権現堂は、土山はゼロ、中野が2軒、東組はゼロ、鎌北が5軒と、合計で7軒しかない。
先の鎌北で訪ねた小山家では、権現堂でもっとも山に詳しい方は、中野の集落の市川豊勝さん(81歳:以前、啓明荘を経営)だろうという。その市川さんが「むすび山は聞いたこともない」と断定されたことから、「むすび山」の正確な位置を確定することは事実上不可能になった。
今では人々の記憶から消え、歴史の狭間に消えてしまった「むすび山」だが、物見山~北向地蔵のハイキングコース周辺に存在し、「おむすび」に似た山容が特徴の山であることは間違いない。
それが406㍍独標(向山)の別名なのか、小瀬名富士とされている380㍍圏(390㍍)ピーク(=ニセ小瀬名富士)なのか、それとも別の場所なのか、何とか突き止めたいので、もし情報をお持ちの方がおられたら、ご一報いただきたい。
なお、清子さんや小菅光子さんから、あの日航機墜落事故(1985年8月12日)の直前、セスナ機がむすび山(清子さんによると、むすび山は物見山に寄った位置にあるという)に墜落して、死者が出たとの話を聞いた。
念のために記事を検索してみると、1988年7月10日、物見山付近(毛呂山町権現堂の山中)にセスナ機が墜落し、搭乗者6名全員が死亡という事故があった。
この事故で物見山が一躍話題になったことを覚えているが、「むすび山」の名は、どの記事を見ても見つからなかった。
向山(むかいやま)
小瀬名富士北方にある406㍍独標。
山名の由来は、山の北側にあった権現堂東組地区の住民が、「山がちょうど集落の向かい側にある」ということから、この名をつけたという(2026年3月15日、権現堂中野地区の市川豊勝さん(81歳:以前、民宿・啓明荘を経営)から採集)。
市川さんによると、小瀬名に隣接する毛呂山町権現堂には土山、中野、東組、鎌北という4つの集落があるが、このうち土山と東組が廃村。中野も現在は2軒しかないという。
権現堂では、4つの集落がそれぞれ東西南北の方向にあった。つまり、東→東組、西→土山、南→中野、北→鎌北である。
そこで権現堂の住民の間では、便宜的に山やヤツなどの前に東西南北を付けることにより、それらの山やヤツが属する集落がわかり、帰属をめぐる混乱が起きないようにしたという。
そういえば、小泉重光氏も私信で、「毛呂山町権現堂地区の小字は、かつて300以上あった地名に『東西南北』を冠して便宜化させたもの」と述べている。
例えば、向山は東組に属する山なので、権現堂内では東向山(ひがしむかいやま)と呼ぶこともあった。
『新装版奥武蔵登山詳細図』(吉備人出版、2019年)では、406㍍独標を「東ムカイ山」としているが、上記の意味では誤りではない。
しかし、頭に東西南北を付けるというのは、権現堂の住民同士の間の話であって、対外的なものではない。したがって、登山地図類には「向山」(むかいやま)の記載で十分である。
さらに、『新装版奥武蔵登山詳細図』では、小瀬名から南西に334.7㍍三角点のある尾根に進む途中にある毛呂山町・日高市境界の日高市側ある340㍍圏ピークに「南ムカイ山」の名を記載している。
先の権現堂の地名ルールによれば、「南ムカイ山」は、南=中野にある向山という意味になるが、もともと中野に向山なる山は存在しないし、東西南北の名を最初につけるというのは住民の間の話であって、対外的なルールではない。それ以上に、2万5千分の1地形図「飯能」を見ると、「南ムカイ山」なる山の山頂は日高市横手に属するようにしか見えない。
ところで、2026年3月29日、「むすび山」に関する新情報が得られず、がっかりしながら北向地蔵から北に鎌北湖に向かって山道をくだると、まもなく周囲が開け、道は右に方向を切る。まもなく墓地を横にみて、林道の終点に降りつく。
ここが権現堂の東組だが、既に住民は全員、山をくだってしまった。
あたりには寂しげな空き家が散在しているが、そのうち一軒の門付近から、立ち木に妨げられるものの、前方に向山(むかいやま)が大きく見えた。
東組からは、「ニセ小瀬名富士」兼「むすび山」候補の380㍍圏(390㍍ピーク)は、向山の大きな山容に隠れて見ることができない。
そうなると、次のような考えが浮かんできた。
権田則子氏は1993年に、私が1990年に駒高で採集したした「むすび山」の名を再度採集している。
なかでももっとも注目できるのが、406㍍独標について、「『前山』とか『むすび山』などと呼んでいる地元の人もいる」と語っている部分である。
権田氏が取材した「地元の人」とはどこの人なのだろうか。
小瀬名なのか、駒高なのか、それとも権現堂の中野、東組などのうち、どこなのかが気になる。
もし在りし日の東組を訪ね、前方に大きく聳える406㍍独標を指して、「前山」「むすび山」などの,名称を収集したのなら「むすび山」=「向山」の図式が成立する。その意味でも山名を採集した集落名を記入して欲しいものだ。
東組の人々から見れば、向かい側に大きくみえる山を「向山」(むかいやま)と呼び、同時に前方にある山なので「前山」、さらにおむすびに似た山容から「むすび山」と呼ぶ人がそれぞれいても何の不思議はない。
このように、この3つの呼称(「向山」「前山」「むすび山」)が同一の山のそれぞれ別称である可能性が高まるなら、むすび山の位置は406㍍独標(向山)ということになる。
もちろん、以上はあくまでも私の勝手な夢(?)にもとづくものであり、残念ながら「むすび山」「前山」などの山名とその位置を今の時点で採集できたわけではない。
私は権田氏の先駆的な踏査研究(1993年)を高く評価しているので(それにより、ムジナ岩や小瀬名駒井家本家の山ノ神の所在を教えられた)、いまや地元(権現堂東組)もなくなり、周辺の地区で聞いても「わからない」「聞いたことがない」という回答ばかりで歴史の闇に消えた名称を復活させるために、「向山」(むすび山・前山)と略図に記載したい気持ちも山々だが、やはり「証言」が欲しいところだ。
学校山林(がっこうさんりん)
小瀬名(日高市横手)や中野(毛呂山町権現堂)では、「学校山」ともいう。
関ノ入林道が五常の滝を過ぎ、勾配をあげながら、左に大きくカーブする地点で、そのまま左に車道(ここで林道関ノ入線から林道中野線に名前を変える)を進むのが中野集落を経由して北向地蔵・鎌北に向かう道。
右に山道を登っていくのが小瀬名への道である。
両者の間のヤツが「ムジナヤツ」である。
ムジナヤツの名は、最上流に「ムジナ岩」と呼ばれる巨岩があることに因む。
沢はしばらく真っ直ぐ進んだあと、右に折れ、ムジナ岩を右にみて、小瀬名分岐~北向地蔵のハイキングコースに突き上げる。
ムジナヤツが「学校山林」ないし「学校山」と呼ばれているのは、東京都練馬区の武蔵学園がこの土地を所有し、1940年にヒノキ林を、1960年にヒノキ林を、さらに1992年にコナラ・クヌギ林を植林するなど、約3.1ヘクタールのヤツに30年あまりかけて育林を行い、現在でも年2回(5月と10月)、武蔵中学校の学生が間伐体験に訪れているからである。
ムジナ岩
ムジナ岩(2026年3月22日撮影)

ムジナヤツの学校山林の上部にある巨大な岩。
小瀬名から向かう場合、駒井氏分家の庭から小瀬名富士の北西側を巻く急坂を登り、ハイキングコースに出る。
右に「ニセ小瀬名富士」(380㍍圏ピーク)をみながら、左下のムジナヤツにくだる地点を探す。
ヤツのツメは目もくらむような急斜面だが、右に向山(406㍍独標)を巻くあたり、左のムジナヤツのツメの傾斜もやや緩くなってくる。
この地点で道なき急斜面を立ち木にすがりながらくだっていく。
少し油断すると、そのまま谷底まで転がり落ちるような急斜面だ。
くだりきったところで、左を見ると尾根に張りついたような横幅が広く、高さも10㍍を優に超える巨岩が目に入る。
これがムジナ岩である。
巨岩というよりも、大岩壁とう表現が適切な大迫力の岩である。
このムジナ岩の根元に、学校山林で最初に植林を行った1940年に建立した「2600年(1940年)記念植林碑」が建てられている。
ムジナ岩の下にある「植林記念碑」(2026年3月22日撮影)

風穴(ふうけつ)
ムジナ岩から水の流れる沢を避け、両側の山腹を下降するが、倒木が多く、通過に苦労する。
しかも、斜面の傾斜が急で、細心の注意を払わないと沢に滑り落ちることになる。
途中で右岸(上流からみて)上部、同じく右岸下部に相次いで大きな穴を発見。
清子さんによると、右岸のより下流右側にある穴の方が風穴であろうという。
幼い頃一度行ったことがあったが、その頃、穴の入口に「風穴」と書かれていたという。
現在、穴の入口が崩れ、なかにゴミが捨てられていると探索した関口正夫さんが話していた。
穴を奥に進むと、ここに大きな縦穴があり、昔どなたかが縦穴に落ち、落ち葉を焚いて助けを求めたと聞いている。
なお、権現堂中野の市川豊勝さんによると、これらの穴は、昔マンガンを採掘した跡であるという。
小瀬名道(こぜなみち)
五常の滝の下流から沢に沿って小瀬名に登る道。
2万5千分の1地形図「飯能」にも破線路が記されている。
以前、小瀬名と武蔵横手を往復する場合、中野分岐からの山道よりも、こちらの道をとることが多かった。
関ノ入林道から右に小瀬名道に入るあたりに大きな「楠」(くすのき)があった。
小瀬名の人々が長年通った小瀬名道も、現在、上部(小瀬名付近)が荒れていて、通行困難である。
イボ石
イボ石(2026年3月29日撮影)

小瀬名(日高市横手)から駒高(日高市高麗本郷)にくだる「立岩坂」(タテヤ坂)の起点となる大石。
イボ石が小瀬名と駒高との境である。
昔イボ石のところにアセビの木があり、雨が降ったときにアセビの木の灰汁(あく)が石の上にたまり、そのたまった水を石についている苔で付けると、イボがとれるといわれていた。
無事イボがとれると、お礼に藁でつくった小さな米俵を供えたという。
立岩坂(タテヤ坂)
立岩(2026年3月29日撮影)

立岩(2026年3月29日撮影)

イボ石からジグザグにくだり、その後は沢に沿って直線的にくだる坂である。
小瀬名と駒高を結ぶ坂である。
一般には「タテヤ坂=タテヤザカ」と呼ばれる。
名前の由来の立岩(たていわ)は、イボ石からタテヤ坂をくだり、道が最初に左に大きくカーブを切ったあたりで、左側の山林になかにみえる。
駒高からの場合、沢に沿った良く整備された道を登り、イボ石が近くなる頃、道が大きく二番目にカーブする地点から、やはり立岩が山林のなかによく見える。
しかし、篤志家に勧めたいのは次のルートである。
これは駒高のタテヤ坂出合いの家のご主人(高野氏)から伺ったルートである。
タテヤ坂が最初に大きく右にカーブする地点で右の林のなかに入る。この時点では、まだ立岩は見えない。
森林のなかといっても、ものすごい急傾斜で、立ち木に捕まって山腹をトラバースするという表現の方が近い。
うっかりすると、右の斜面を底まで転げ落ちそうな急傾斜である。
しばらく道なき斜面をトラバースすると、突然、眼前に巨大な大岩が現われる。
この瞬間は、最初から見える立岩をめざすルートにくらべ難易度は高いが、苦しいトラバースの末、立岩に遭遇したときの感激は大きい。
立岩は大きな岩を積み重ねたような形状で、テッペンにいかにも不安定な格好で大岩が鎮座している。
岩の途中まで登ることはできるが、テッペンまで登るのは滑落の危険があるので避けた方がベターだ。
立岩の裏側(東側)は大石を積み上げたような表側と打って変わり、上部がハングした垂直な一枚岩で、高さは10㍍以上ある。
昔、岩の頂上(テッペン)に立岩大権現が祀られていいたとは、駒高の古老の話。
小瀬名から立岩坂(タテヤ坂)をくだって駒高側で最初に現われる家のことを、「立て屋」と呼んでいた。
かつて、小菅光子さんや関根清子さんは、小瀬名から立岩坂(タテヤ坂)をくだって、駒高を経由して、毎日、高麗小学校に通っていたという。
小瀬名分岐
小瀬名集落の駒井本家、分家それぞれの入口(分家の入口付近には井戸と貯水池がある)を過ぎ、暗い林のなかにたたずむ巨大な馬頭観音を過ぎすると、道は物見山と北向地蔵を結ぶ平坦なハイキングコースに合流する。
ここに前方右側からイボ石からの道も合流する四差路が「小瀬名分岐」である。右手前方にイボ石が見える。
五常の滝(ごじょうのたき)
五常の滝(2026年3月22日撮影)

関ノ入ヤツの上流に懸る落差約12㍍の五常の滝は、私が奥武蔵に通うようになった1980年代初め頃から観光地として有名だった。
現在この滝は、一般財団法人「五常の滝」なる団体が管理しているが、パンフレットによると、五常の滝の名称の由来は、「五常の滝は、遠いむかし『五常』と名乗るお坊さんが、この滝を訪れて修行したことから『五常の滝』と名付けられました。また南北朝時代の武士たちが戦勝を祈願して、この滝で身を清めたという言い伝えが残っており、必勝祈願の滝として知られています」とある。
この団体に土地が買収される前、当時の日高町観光協会が設置した説明板にも、若干ニュアンスが違うが(新田義貞が必勝祈願をしたとの説明があった)、ほぼ同様の説明をしていた。
ならば、さぞ由緒のある滝だと想像し、江戸期の『新編武蔵風土記稿』高麗郡横手村の条、明治期の『武蔵国郡村誌』高麗郡横手村の条をそれぞれ見たものの、五常の滝について一言も触れていない。
不思議に思い、1980年代はじめに、横手で何人かの方に五常の滝について聞くと、ほぼ全員が「五常の滝は、戦前、小瀬名大尽が職人を雇って関ノ入の勾配の急な地点に石を積ませ、つくらせた滝」という意外な話が出てきた。
それから約40年近くの時が過ぎ、インターネットの時代になり、五常の滝についてネットで調べたが、小瀬名とのつながりについての記述は全く見つからなかった。
五常の滝が人工の滝であるという事実について、間接的な話だけで公にするのにはあまりにリスクが大きい。
そこで、今回の小瀬名での聞き取りにあたり、五常の滝について直接尋ねてみた。
その答えは予想したとおりだった。
関根清子さんも「かすかな記憶だが、駒井家で職人を雇ってつくったと親父(駒井清次郎さん)から聞いたことがある」と語ってくれた。
清子さんはさらに続け、父の清次郎さんが28歳のときに五常の滝が完成したとしている。
駒井清次郎さんは明治40年(1907)生まれなので、28歳のときというと、1934~35年ということになる。
五常の滝の滝壺手前左側に滝不動尊が祀られているが、その後背には「五常之滝不動尊安置 昭和9年(1934)8月27日五常之滝供養」と刻まれている。
五常の滝が完成したのちに、滝不動尊が安置されたと考えれば、1934年に滝が完成したことになる。
このとき、清次郎さんは28歳。
清子さんの記憶は正確だった。
昭和のはじめ、駒井家一族(駒井家本家・分家・杉田家)は、関ノ入ヤツの勾配が急になる地点に滝をつくろうと、職人を雇って石を積ませ、数年がかりの大工事の末、1934年、滝が完成し、五常の滝と名付け、滝不動尊が祀られた。
五常の滝という名については、もちろん駒井家一族が名付けたのであろうが、清次郎さん亡きあと、そのあとを継いだ駒井家分家17代当主の駒井初保さんが3年前になくなったのは残念というしかない。
初保さんの生前に、お父さん(清次郎さん)から聞かされた五常の滝建設についての逸話や五常の滝の名称由来を詳しく聞きたかった。
さて、駒井家一族のなかでも、とくに分家の当主・駒井万平さん(清次郎さんは万平さんの長男)は滝に対する思い入れが強く、滝の周辺を清掃するとともに、滝に願をかけていた。
戦争が始まり、長男の清次郎さんが徴兵にとられ、大陸方面に派遣され、戦争が終わっても帰ってこないので、父の万平さんは清次郎さんが無事に帰還することを願って滝に願をかけた。
当時、万平さんは五常の滝の橋の上に立ち、「五常の滝の橋の上、韓国様のいうとおり」と歌っていたという。
息子の清次郎さん、孫の初保さんも、毎年正月にはかかさず滝に行って参拝し、滝を守ってきた。
この頃は、誰でも参拝できるように、滝の上から、下からの両方から道がつくられていた。
しかし、五常の滝のある土地は、他人の手に渡り、その後、東京都中野区の「日本ドア」に転売された。
日本ドアの社長は一般財団法人「五常の滝」を設立し、2017年7月から滝の入口に受付をつくり、入山料をとるとともに、毎週月・火・水と年末年始は休山日ということで、休山日における滝への立ち入りを禁止した。
かつて正月に参拝を行った滝が、何と年末年始には立ち入り禁止になったのである。
一般財団法人「五常の滝」は、それ以外にも橋を朱塗りにし、それまではなかった孔子廟をはじめ全部で11もの廟を設置したり、二宮金次郎の像をつくり、入口には「五常の教え」の看板を建てるなど、五常の滝一帯は、一種異様な新興宗教的な雰囲気を醸し出す空間になってしまった。
これまで気軽に滝をみることができた地元の人々やハイカーも、入山料の徴収や異様な雰囲気に嫌気がさし、滝を敬遠する人が多くなった。
かつて駒井万平さん、清次郎さん、初保さんと3代にわたって滝を守ってきた駒井家(分家)の方々が、自分たちの愛した五常の滝の変貌をみて、どのように思っているのだろうか。
その心情は察してあまるものがある。

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