はじめに
地図「高谷山・ゾンゲ山周辺図」
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外秩父七峰縦走路のうち、白石峠から旧定峰峠の間は、コース中、もっとも地味な区間である。
笠山や堂平山、大霧山、皇鈴山、登谷山など名だたる山があるわけでもないし、コース中、ほとんど眺望がきかない。
コース中の山で、比較的知られているのは、白石峠西にそびえる「川木沢ノ頭」(874㍍)くらいだろうか。
それ以外に、川木沢ノ頭と定峰峠との間に828㍍独標、そして定峰峠と旧定峰峠との間に701㍍独標があるが、いずれも山頂からは眺望が得られない地味な山である。
しかし、今回はこの地味な2つの山に焦点をあててみたい。
いずれも江戸期の『新編武蔵風土記稿』秩父郡城白石村の条に山名が記録され、私が40年前に行った白石での地名調査でも再確認したれっきとした山名をもっているのである。
ところが、川木沢ノ頭の西にある828㍍独標にいたっては、山頂に誰かが「奥ゆかし山」なるふざけた山名を記した私設の山名表示板を設置したため、その後のヤマレコ、YAMAPの山行記録をとおし、「奥ゆかし山」なる名がハイカーの間に広がり、ヤマレコ、YAMAPでも公認扱いしている状況である。
定峰峠から旧定峰峠間の701㍍独標については、幸い「ゾンゲ山」という本来の名称が使われ始めているようだが、改めて白石峠~旧定峰峠間の山名を再確認するとともに、コース状況をたしかめるため、2026年10月3日(土)実際に歩いてみた。
白石車庫から白石峠(しろいしとうげ)へ
土日祝の定番になっている小川町駅10時17分発の白石車庫行きのイーグルバス。
10月3日(土)は久々の好天との予報で、さぞや多くのハイカーが押し寄せ、バスが満席になるかと思いきや、乗車した客は8人。
このうちハイカーと分かる方は私を含め2人のみ。
終点の白石車庫バス停で下りたのは私1人だけだった。
もっとも、来週の3連休には、土日は満席になることは間違いない。
まずは白石車庫周辺の人家で聞き取りをしようとしたが、天気の良い土曜の午前中だというのに、人影が全く見られない。
庭に出ていたり、外を歩いているご老人も皆無の状態。
そこで白石車庫周辺での聞き取りを諦め、槻川上流(細山川と名を改める)に沿った車道を白石峠に向け、歩き出す。
すぐ左手に「笠山入口 五十二丁」と刻まれた古い石標をみる。
この石碑と人家との間を登る細い山道が、白石から笠山への参道なのだが、指導標がないので、笠山に向かうハイカーは見落とさないようにしたい。
「笠山入口」の旧・石標

白石からの参道は、笠山への最短路で、約1時間30分で笠山神社に達することができる。
「笠山入口」の石碑の先には八坂神社。
そのすぐ先に「白石の神送り」に関する説明板がある。
八坂神社は、白石の神送りの出発点となっている。
八坂神社

「白石の神送り」説明板

まもなく林道桂木線が橋を架け、右に分かれる。
その後、左に安政三年(1856)に建てられた馬頭尊(近くに「馬頭観音」の説明板がある)を見る。
馬頭尊(籠山のタル、堂平山登山口近く)
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その先から左に登る車道は、途中で林道荻殿線と合流し、笠山と堂平山との鞍部である「籠山のタル」に向かう。
しばらく細山川右岸(上流からみて)の車道をたどると、たかがや沢が滝を懸けて細山川に流入しているのが分かる。
すぐに左に登る車道が、白石最奥の集落「細山」への道だ(2万5千分の1地形図「安戸」に記載なし)。
細山には2軒の人家があるが、最初の家である浅見家の呼び鈴を鳴らしてみる。
すると80歳は優に超えているおばあさんが玄関をあけ、迎えてくれた。
話好きで雑談は盛り上がったが、残念ながら付近の山名や地名は良く分からないという。
話によると、山で炭を焼いたりするなど、山仕事をしていた方がここ十年の間に次々に亡くなり、今、白石で山に詳しい人はいないのではないかという。
どこかで聞いたような話かと思ったら、今年3月、日高市高麗本郷の駒高で、「むすび山」の山名を再度採集するため、集落を回っていたときに聞いた言葉だった。
15分ほど立ち話をしたあと、さらに上にある人家に向かう。
しかし、陶芸をやっている家で、よそから移ってきたということで、「地名は全く分かりません」との反応。
やむなく成果なく車道をくだって、細山集落への分岐点に戻った。
のちになって、この細山集落往復の約30分が、帰りのバス乗車に響いてくるとは想像もしなかった。
再び細山川に沿った車道を登ると、すぐに舗装が終わり、山道になる。
木橋で沢(細山川)を渡ると、左には「関東ふれあいの道」の石標。
山道はここから沢の左岸に移る。
まもなく沢は二俣になり、2つの沢に挟まれた山腹を登るようになる。
すぐに傾斜が急になり、沢を離れ、広い山腹を急登する。
登りを続けていくうちに、左に赤い帽子と赤い前掛けを着用した地蔵が現われる。
赤い帽子と赤い前掛けを着用した地蔵

このあと、カラ沢のような山腹をジグザグに登ると、白石峠につく(13時20分)。
出かける前、槻川最上流を遡り、白石峠に向かう道は、この夏の長雨と台風でかなり荒れているとの情報があり、心配していたが、さすがに「関東ふれあいの道」に選ばれているコースだけあって、良く整備された道で何の不安もない。
白石峠(しろいしとうげ)
白石峠に到達してまず見るのが、平成十三年(2011)に建てられた埼玉県知事による「槻川源流の碑」。その手前左には東秩父村村長による「槻川源流の碑によせて」の碑。
「槻川源流の碑」

「槻川源流の碑に寄せて」の碑

両者の先に東屋がある。
白石峠の東屋

ところで、『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条に「水元に古に槻の大木ありし故にこの名あり」と、槻川の名因が記録されている。
「槻」とは「ケヤキ」の古名であり、槻川は白石峠の北斜面に発し、水元(槻川源流部)には槻の大木が何本もあるという。
実際、東秩父村は昭和五十六年(1981)、槻川源流の「槻」の木を村指定文化財(天然記念物)に指定している。
だが、この槻の木に到達するのは容易ではないという。
東屋の先は四方からの車道が交差する白石峠の中央部。
だが、疾走するバイクの轟音がうるさく、東屋に長居する気分には到底なれない。
今や誰もが疑問を持たない「白石峠」の名だが、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵国郡村誌』の秩父郡白石村の条や周辺の村の条にも登場しない。
この点で、昔の地誌にその名がみえる定峰峠(今の旧定峰峠)や高篠峠、大野峠などと違い、昔からの名ではなく、東上線ハイキングコース黎明期に命名された峠名であることが想像できる。
私が40年前に白石で地名採集していたとき、地元の古老は白石峠を「かわきざわ」、あるいはなまって「かわぎざわ」「かーぎざわ」などと呼んでいた。
「川木沢」は「槻川源流部」の沢名から源流部一帯の総称に転化し、「籠山」(かごやま)が峠名に転化(籠山のタル)したように、「川木沢」も峠名としても用いられたのである。
開拓期に先駆的なハイカーにより白石峠と命名されて以降、地元呼称の「川木沢」は忘れ去られ、わずかに白石峠直近のピークである「川木沢ノ頭」にその名を残すだけになった。
川木沢ノ頭(かわきざわのあたま)
白石峠から、いきなり急な木段の登りが始まる。
二百段近い木段だが、五十段ごとに少しずつ休みながら登れば、それほど苦にはならない。
長い木段を登り切ると、意外なことに頭上にみえる山頂への直登路はなく、道は山頂を巻いてしまう。
そこで疎林のなかの急斜面を立ち木に頼りながら、山頂目がけて登ることにする。
ところが、少し登ったところで、左下から明瞭な直登路が現われた。
直登路はどこから始まっているのだろうか。
それはともあれ、直登路を登り切ると、3つの電波塔が山頂の南半分(左半分)を占拠している「川木沢ノ頭」(874㍍独標)山頂につく(13時50分)。
川木沢ノ頭山頂の電波塔

山頂の南側(左側)は巨大な電波塔、北側(右側)は雑木に覆われ、展望には恵まれず、立ち木に「川木沢ノ頭」と書かれた私設の山名表示板がつけられているだけの寂しい山頂である。
藤本一美氏によると、『山岳』第20巻第1号(1926年7月号)所収の「秩父笠山より丸山」において、松本善二氏が「仮称」として「川木沢ノ頭」と命名したのが最初であるという(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』第250号、1989年12月)。
川木沢ノ頭山頂の私設山名表示板

川木沢ノ頭山頂

そろそろ遅い昼食の時間だが、落ち着かないので、次の「高谷山」山頂まで昼食を待つことにする。
川木沢ノ頭からのくだりは、広い尾根を緩やかにくだるフカフカとした山道で、散策気分で歩くことができる。
まもなく右から巻き道が合流。
さらに広い尾根を緩くくだり、軽く登ったあと、くだりになり鞍部につく。
すぐ左下には車道が通っている。
ここから高谷山に向け、いよいよ急登となるが、急登を前にして、なぜかベンチが置かれている。
そして一見、岩尾根の垂直な登りであるかのようにみえる極端な急登が始まる。
慎重に岩を巻きながら登ると、傾斜が緩やかになり、広い高谷山山頂につく。
高谷山(たかがややま:たかがや)
高谷山(828㍍独標)の山名は、実は『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条に「高谷山 村の南にあり」とはっきりと明記されている。
槻川の源流部・細山川の支流である「たかがや沢」は高谷山に突き上げている。
さらに40年前の聞き取りだが、白石の古老(複数)は828㍍独標を「たかがや」と呼んでいた。
これだけの根拠がある以上、かりに「高谷山」の名が今、白石で忘れられてしまったかも知れないとはいえ、私たちはこの名をきちんと記録し、後世に伝えるべきなのである。
そんな高谷山の山頂に、誰かが「奥ゆかし山」というふざけた名前を書いた私設山名表示板を取り付けたため、この名がヤマレコ、YAMAPなどの山行記録で広がり、ヤマレコ、YAMAPの山名紹介では「奥ゆかし山」の名が採用されている。
高谷山山頂の「奥ゆかし山」なる私設山名表示板

繰り返しいうが、「奥ゆかし山」なる名は、一ハイカーのつけた名であり、昔からの名である「高谷山」(たかがややま)こそ、828㍍独標の本当の山名なのである。
なお、高谷山の山名について、奥武蔵研究会創設者の1人、大石真人氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の「外秩父概念図」で「ハギノソリ」と記している。
大石氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」においても、「ハギノソリ820㍍ 新定峯峠から川木沢の頭へつらなる尾根上の明るい一峯で、将来、定峯峠-堂平山ハイキングコースでなじみになるところであろう」と記している。
藤本一美氏も、大石氏の説を踏襲。828㍍独標を「萩ノソリ」とし、「ソリ」は焼畑地名であると注記している(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私書版、2018年)。
だが、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980年)所収の「高篠村略図」(同村の全小字の地図)によると、「萩のソリ」は、山田村・栃谷村・定峰村の三村が明治二十二年(1889)に合併してできた高篠村(1957年に秩父市と合併)の東端(旧定峰村の領域)で、白石峠から高篠峠にいたる山稜西側付近の小字名である。
828㍍独標とは位置が離れ過ぎているといわざるを得ない。
「奥ゆかし山」「萩のソリ」などとの混乱を避け、本来の名称を復活させるためにも、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社)には828㍍峰(現在は山名無記名)に「高谷山」と記載して欲しい。同時にヤマレコ、YAMAPでも「高谷山」と記載を統一させて欲しい。
諸悪の根源となった「奥ゆかし山」の木製山名表示板はかなり古いもので、今では文字も薄くなって判読が難しくなっている。
いずれ朽ち果ててしまうであろう「奥ゆかし山」の山名表示板が、山名として永遠に残ってしまわないように、山を愛する人々は、今すぐにでも「高谷山」(たかがややま)の名を復活させるべきである。
高谷山山頂は広い平地であり、秩父市側が植林、東秩父村側が雑木で覆われ、展望は得られない。
しかし、雑木から木漏れ日が入ってくるので、明るく、好ましい雰囲気の山頂だ。
また、山頂には「第二八一號」と書かれた古い石柱が転がっている。
一体何の跡なのだろうか。
高谷山山頂

高谷山山頂にある「第二八一號」と刻まれた謎の石柱

いつまでも休んでいたいものの、白石車庫発小川町駅行きバス最終バスの経塚バス停停車時間が17時14分(土・日・祝)。
既に14時40分。
時間ギリギリなので、名残惜しいが定峰峠に向かうこととする。
定峰峠(さだみねとうげ)
山頂からは、はじめは緩やかなくだりだが、それが一転して木段のある急なくだりになる。
鞍部から登り返すと、小ピークにつく。
小ピークからのくだりが、極度の急坂で、古い木段は壊れかけているが、幸い右側にスチール製の手すりが付けられている。
手すりに頼りくだると、道が急に右に曲り、山腹をへて尾根に出、木段で車道の定峰峠におりつく(15時20分)。
定峰峠は、秩父市からの車道、白石峠からの車道、白石車庫からの車道の3つの車道が交差する場所で、相変わらずバイクの轟音が炸裂する。
白石峠に向かう車道を少し進んだところに「峠の茶屋」が営業中。
茶屋と車道をはさんで駐車場がある。
おそらく自動車で登ってくる客がメインなのだろうが、本日はバイクが中心で、茶屋にも客がなく、店内はひっそりとしている。
定峰峠の「峠の茶屋」

ところで、定峰峠は、もともと「新定峰峠」と呼ばれていた。
なぜ「新」かというと、ここは本来の定峰峠ではなかったからだ。
本来の定峰峠は、いまは「旧定峰峠」とされているずっと北寄りの白石から定峰への乗っ越しである。
古い地誌で「定峰峠」としているのも、「旧定峰峠」のことである。
ところが、1955年に定峰から白石への車道が本来の定峰峠でなく、それから直線距離で約1.5キロ南東に寄った地点を通るようになってから、車道の通る乗っ越しを「定峰峠」と呼ぶようになり、本来の定峰峠は「旧定峰峠」へと降格した。
2万5千分の1地形図「安戸」でも、車道の通る峠に定峰峠の名をつけ、本来の定峰峠(旧定峰峠)には名称の記載さえない。
それでは、いまの定峰峠(新定峰峠)は地元では何と呼ばれていたのだろうか。
車道が通る前の新峠(現在の定峰峠)を、白石側、定峰側のいずれもが定峰側の小字名にちなみ「マジノタワ」ないし「マジンタ」と呼んでいた。
「マジノタワ」の名は、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980)所収の「高篠村略図」にも、峠附近の小字名として明記されている。
定峰峠(新定峰峠)を通る車道が開通する以前に出版された『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の大石真人氏監修の「外秩父概念図」では、定峰峠(新定峰峠)を「マジノタワ」、旧定峰峠を「定峰峠」と記し、車道開通以前のそれぞれの本来の峠名を正当に伝えている。
大石真人氏は、『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」において、「新定峰峠」(現在の定峰峠)について、以下のように記している。
「小川町と秩父市を結ぶこの峠の自動車道が開通し、外秩父と内秩父の交通の要衝となった。新峠は旧峠の約2キロ南東の従来マジノタワといわれた鞍部をこえている。ここは将来東武、西武両方のバスの乗り入れが計画され、とくに東武が本気で、実現も近く、その暁には、バンガローも設置される予定だそうだ」
ゾンゲ山(ぞんげやま)
定峰峠を突っ切り、指導標にしたがい、いきなりの木段の急坂を登る。
乗り切ると、東秩父村側の視界が開け、近くはゾンゲ山の山頂が間近に見え、さらに右手に笠山が大きく見える。
ゾンゲ山への登りの途中から右に笠山を望む

ゾンゲ山の南側斜面は鉄条網に覆われ、伐採されたあとに新株が植林され、「読売の森」との看板が立てられている。
読売新聞東京本社、読売新聞販売店、古紙回収業者でつくる「読売リサイクルネットワーク」(YRN)の活動費の一部を森林再生活動に支出。
花粉を多く飛散する杉、檜林を伐採し、花粉の少ない杉などを植える活動を行い、そこを「読売の森」と命名しているようだ。
山頂到着は15時45分。
ゾンゲ山(701㍍独標)も、高谷山ほどではないが、広い山頂で、やはり植林と雑木に覆われ、展望には恵まれない。
高谷山と違うのは、ゾンゲ山の山頂には岩がゴロゴロと転がっていること。
とくに山頂の中央部には、まるで過去何かが祀られていたかのような石積みのような大岩が残っている。
立ち木には「F2 701m」との黄色い木の標識が付けられているだけで、ゾンゲ山と記した私設山名表示板の類いもない。
立ち木に取り付けられた「F2 701m」の私設の標識

岩の目立つゾンゲ山山頂

それでも、ヤマレコの山行記録で、この山をゾンゲ山とする記録が増えてきたのは、ヤマレコの山名紹介で本ブログを参照。「ゾンゲ山」の名を採用していただいたからであり、感謝したい。
ヤマレコには、是非「高谷山(たかがややま)」も、正式名称として採用し、紹介して欲しい。
実は「ゾンゲ山」も、『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条に「ゾンゲ山 村の西にあり」と記載されている古くからの呼称である。
「ゾンゲ」とは、西側である定峰側の小字名である(『高篠村誌』所収の「高篠村略図」を参照)。
ところが、大石真人氏は『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1954年版」所収の「外秩父概念図」で、701㍍独標を「岩久保」と記載。
同氏は、『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』朋文堂、1960年版)所収の「奥武蔵辞典-山名編-」でも、「岩久保698㍍ 旧定峰峠と新定峰峠の間にあるヤブ山。山頂に道はない」と記している。
藤本一美氏も「岩久保」の名を踏襲している(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家版、2018年)。
しかし、「岩久保」は「高篠村略図」(『高篠村誌』所収)によると、マジノタワ(現在の定峰峠)から白石峠に少し寄った付近の小字名である。
定峰峠と旧定峰峠との間にあるゾンゲ山とは、明らかに位置が違う。
ゾンゲ山は、定峰側の小字名「ゾンゲ」が山名に転化したものであるが、そもそも「ゾンゲ」という変わった名はどのような意味なのだろうか。
鏡味完二・鏡味名克『地名の語源』(角川書店、1977年)によると、「ソギ=傾斜地」とある。
「ソギ」は「ソゲ」とも関連あるとの指摘もなされている。
ここから推測すると、急傾斜地を意味する「ソギ」が「ソゲ」へ、さらに「ソゲ」→「ソンゲ」→「ゾンゲ」へ転化したのではなかろうか。
つまり、ゾンゲ山は「急傾斜地のある山」という意味ではなかろうか(あくまでも仮説であるが)
獅子岩(ししいわ)
ゾンゲ山から岩の出た急斜面をくだると、坂の途中にある岩(16時05分)。
「獅子岩」と記した表示柱がたっているので、見落とすことはない。
高さ2㍍弱のそれほど大きくない岩だが、ゾンゲ山からくだってくると、たてがみが生えた獅子(ライオン)が寝そべっているような姿に見える。
この形から獅子岩の名がついた。
獅子岩(1)
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獅子岩(2)
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獅子岩は「白石の七石」のひとつで、それ以外に白石には烏帽子岩、恵比寿岩、光岩、蒟蒻石、鞍掛石、白石の6つの大岩があるという(飯野頼治『飯野頼治著作集2【歩く道・歩く旅1】奥武蔵風土記・東秩父村風土記』まつやま書房、2022年)。
旧定峰峠(きゅうさだみねとうげ)
獅子岩は岩の出た急なくだりの途中にあるが、獅子岩から傾斜がさらに急になる。
一部トラロープの張ってある個所もあるので、ロープにすがりながらくだり切ると、右下に車道の見える鞍部に出る。
鞍部からはだらだらとした登りで、小ピークを越え、次のピークは左から巻く。
624㍍独標を気づかないまま過ぎると、眼前に大きな山が聳えるようになる(ハイカーの間で「檜平」「桧平」(ひのきだいら))と呼ばれている山だが、地元呼称であるかどうかは未確認)。
それを前にして急坂をくだると、見慣れた山ノ神のある旧定峰峠につく。
正面以外、三方を青石片岩の板に囲まれた山ノ神の石宮に参拝。
旧定峰峠の「山ノ神」の石宮

『新編武蔵風土記稿』秩父郡定峰村の条は、「定峯峠 村の東の嶺なり。東北へかけて登り一里ばかり。屈曲して険しき路なり。頂上に山神社ありて、ここを栃谷村との界とす」と記す(白石村の条にも定峰峠の記載があるが、山ノ神には触れていない)。
この時点で16時30分。周囲も薄暗くなってきた。
東秩父村側の経塚バス停発小川町行きのバス最終が17時14分。
となると、44分しかない。
本当にぎりぎりの時間である。
むしろ、距離はかなり長くなるが、秩父市側の定峰にくだり、栃谷から西武秩父駅行き最終バス(18時41分発)に乗ったが無難である。
ところが、無謀にも経塚バス停への道を選択してしまった。
峠から山道をおりると、すぐに林道に出る。
あとは林道をしばらく歩き、急に右にカーブする地点で、右の山道に入る。
ほぼ平坦な道だが、まもなく山腹をくだるようになり、小尾根に出て、ジグザグに急下降するようになる。
せきり沢の沢音が聞こえてくるが、なかなか沢に沿った林道に出ることができない。
ようやく沢が近づき、鉄橋で枝沢を渡ったところで既に17時10分。
残り4分しかない。
ここでもはや間に合わないと諦めの心境に。
すぐに、せきり沢に沿った林道になり、右に沢をみて、その後、沢が左に移ったあと、沢が,右に大きく曲り、「林道竹の花線」起点に出る。
右に行けばすぐに経塚バス停である。
バス停に到着したのは17時19分。バスが発車してから5分後だった。
日没がさらに早くなっていて、真っ暗だ。
幸い、和紙の里バス停18時34分発の小川町行き最終バスがあったので、小川町からタクシーを呼んで和紙の里バス停へ。
約30分の待ちのあと、和紙の里発最終バスで小川町駅に向かった。
経塚から和紙の里まで、タクシー代は予約料500円を含み計4,300円。
費用を考えれば、歩く距離は約2倍になるが、旧定峰峠から定峰をへて栃谷バス停から18時41分発の最終バスに乗るべきだったと反省。
(参考タイム)
白石車庫10:55→馬頭尊(籠山のタル分岐)11:32→細山分岐12:00~40(細山集落での聞き取り時間を含む)→白石峠13:20→川木沢ノ頭13:50→高谷山14:26~40→定峰峠15:20→ゾンゲ山15:45~50→獅子岩16:00~05→旧定峰峠16:30→経塚バス停17:19

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