(略図)笠山・堂平山付近略図
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概要
小川盆地から見上げる「笠山」(かさやま)の姿は実に印象的である。
比較的緩やかで、ややもすると没個性的な山容の山が多い比企・外秩父の山のなかで、笠山はきれいな富士型の山の上に、まるで乳首のように山頂を突き上げる姿が昔から「乳首山」「乳房山」などと呼ばれ、人々から愛されてきた。
その姿をみたら、登りたいという衝動を抑えるのは難しいだろう。
山頂には東峰と西峰があるが、一般に言われる双耳峰というよりも、西峰は笠山山頂(東峰)の西肩といった方が近いかも知れない。
東峰の山頂には笠山神社があり、小川町腰越の腰上(こしがみ)と東秩父村白石(しろいし)双方の信仰を現在でも集めている。
そして、慈光寺との関係、腰上と白石との笠山神社をめぐる争い、笠に似た山容から「笠山」と付いたという山名由来、さらに笠山神社の例祭など語るべきところは多い。
笠山のとなりに平らで広い山頂をみせているのが「堂平山」(どうだいらさん)である。
山容こそ、笠山ほど特徴があるわけではなく、山頂近くまでの車道が通っているせいか、人気面でも笠山に水をあけられているようだ。
だが、堂平山は外秩父・比企では唯一の1等三角点(点名「堂平山」)のある山である。
しかも、山頂は東秩父村と小川町との境界ながら、標高875.9㍍は、笠山の837㍍を抜いて小川町で第一位の標高である。
つまり、堂平山は小川町の最高点なのである。
車でさっと登ってしまう山というイメージが強いせいか、過小評価されがちだが、山名由来や慈光寺との関係など興味は尽きない。
笠山(かさやま)
概要
笠山は「笠」のような山容から笠山と呼ばれるようになったというのが、従来の説である。
この説は、『新編武蔵風土記稿』にまでさかのぼることができる。
そして、笠の上にちょこんと山頂が乳首が乗っているような乳房状の山容から「乳首山」と呼ばれるようになった点については、最初に触れたとおりである。
もっとも、はっきり乳首のように見えるという点では、官ノ倉西尾根周辺の「浅間山」(大里郡寄居町西ノ入)の方が上かも知れないが、これは余談である。
山頂付近は西峰と東峰に分かれるが、前に書いたことを繰り返すが、標高の低い西峰(810㍍圏)は、標高が20㍍以上高い東峰(837㍍)の西肩といった感が強い。
だが、展望は西峰が断然すぐれ、樹林に覆われ、展望皆無な東峰にくらべ、西峰で休むハイカーの方が圧倒的に多い。
とくに北側の展望はさえぎるものがないので、抜群といっても良い。
しかも、西峰が東秩父村と小川町との境界である。
これに対し、東峰は完全に小川町腰越(腰上地区)の領域である。
その東峰の山頂に笠山神社がある点が、標高面だけでなく、信仰面でも東峰を主峰(あるいが笠山全体の山頂)たらしめている。
それでは少し古い地誌をひもといてみよう。
まず『新編武蔵風土記稿』(比企郡腰越村)の条を、少々長いが全文引用しておこう。
「笠山 村の西にあり、高さ五十町ばかりなる険岨の山なり。巓(いただき)に樹木生茂りて笠の形に似たれば名とせり。又乳の状に類すれば土人乳首山とも云う。この絶頂を当郡と秩父郡白石村の境として笠山権現を鎮ず。こは白石村の鎮守なれば其村にて進退せり。祠辺より眺望最も打開け、東の方には筑波山を望み、南は江戸を越て遠く房総の山々を見渡し、西は秩父ガ岳及び浅間山連り、北は日光山を始めとして上下野州の山々見ゆ」
笠山について必要にして十分な記述である。
笠山の山名由来についても、「巓に樹木生茂りて笠の形に似たれば名とせり」とあるように、山容が「笠」のような形をしていることから笠山と名付けられたことを明記している。
しかも、乳首状の形状についても触れ、地元では乳首山といっていることも記されているなど、貴重な情報源となっている。
気になるのは、笠山神社のある東峰山頂は、今は全く眺望がないが、当時は展望絶佳であったこと(もっとも、これは西峰山頂をさしているのかも知れないが)。
そして、「白石村の鎮守なれば其村にて進退せり」という箇所である。
笠山神社(笠山権現)は腰上・白石両方の鎮守であるが、「白石村にて進退せり」、つまり「白石村が管理している」という記述は、笠山神社を知る人には驚きであろう。
笠山神社をめぐる腰上・白石の間の境界争いについては、あとで述べることにしたい。
次に『武蔵国郡村誌』比企郡腰越村の条を見てみよう。
「笠山 高さ周囲不詳。村の西方にあり、嶺上より三分し、西は白石村、北は御堂村、東南は本村に属す。山脈秩父郡大霧山に連る。村の東より上る十八丁険なり」と比較的簡略である。
ただし、同村の項には「笠山社」の解説がある。引用しておこう。
「笠山社 東西四十間、南北四十二間、面積千八百十九坪。村の西にあり、大日霊尊を祭る。例祭4月8日」
こちらも簡潔な記述だが、笠山神社の例祭日(旧暦の4月8日)に触れている点が参考になる。
最後に、『武蔵通志』を見てみたい。
すなわち、「笠山 比企郡大河村腰越村の西にあり、西は秩父郡槻川村白石村、北は同郡大河原村村御堂村にまたがる高さ千四百尺。山頂樹木繁茂し、之を遠望するに蓑笠に似たり故に笠山と称す又は乳首山と云い、また形似るをもって名づく」と記す。
『風土記稿』の記述を踏襲しているが、山名の由来について、より詳しく「遠くから眺めると、蓑笠に似た形をしていので、笠山と称する」と、より具体的に述べ、乳首山の愛称にについても触れている。
笠山の概要については、前記の引用や注釈でよく分かったと思う。
また、『角川地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1980年)は、「付近のなだらかな山容の多い中で、堅い変成岩からできており、浸食から取り残されたモナドノックといわれている」と述べている。
笠山の笠に似た形や東峰山頂部の乳首状の岩壁などは、変成岩由来のものであろう。
参道
笠山(笠山神社)には、腰上(腰越)側、白石側双方の参道がある。
腰上(腰越)からの参道
小川町腰越は、腰一・腰二・腰上に分けられる。
このうち、もっとも南の腰上(こしがみ)は、小貝戸・館・赤木・栗山の4つの集落からなる。
腰上から笠山への登路は、切通橋のバス停から館川に沿って正面に笠山を高く見上げながら車道を歩くことからスタートする。
途中、小貝戸(こがいと)の集落に笠山神社一の鳥居が設置されている。腰上稚蚕飼育所脇のコンクリート製の鳥居である。
内田康男氏によると、この地に一の鳥居が設けられたのは、「(笠山神社の)氏子区域内で最も笠山が美しく見え、神社が遙拝できることから」といい、昭和12年(1937(6月、内田やまと氏が奉納したものである(内田康夫『ふるさと腰越ーその歴史と伝説ー』(1999年)。
まもなく館(たて)の集落に入ると、笠山への旧道(山道)が新道(舗装道路)から分かれる。
新道は赤木(あかぎ)経由で栗山(くりやま)に入るが、旧道は館から直接栗山に向かう坂道であり、「長坂」(ながさか)と呼ばれる。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』にも長坂入口が明記されている。
長坂入口は、笠山登山口の一丁目に当たる。
現在こそ栗山へは赤木経由の車道(新道)が通じているが、新道が建設される以前は、長坂を登り、栗山を経て笠山神社にいたる42丁の山道が、笠山神社の参詣路であった。
かつては長坂入口の岩の上に、文政8年(1825)に建てられた笠山参詣路の起点を示す道しるべがあった。道しるべには、紀元の下に「左笠山 従是(これより)四拾弐丁」と記されている。
現在、道しるべは移動している。
長坂は信仰の道であるとともに、栗山の学童が大河小学校腰越分校に通う通学路でもあった。
また、もはや不明になったものも少なくないが、長坂に沿って一丁目ごとの丁目石が置かれていた。
やがて、山中にしては立派な造りの住吉神社の社殿脇を抜けて栗山の集落につく。
笠山山麓の集落である栗山からは、車道を登って、福島家の入口にあるマキの古木(1988年に小川町教育委員会から天然記念物として文化財指定を受けた)を見て、「下の笠山」につく。
下の笠山は笠山神社下社であり、社殿が設けられている。
笠山は明治末年頃までは女人禁制の山で、下の笠山が女人結界であった。
当時この地には近くの西ノ沢から引いた水を沸かした風呂場があり、女性は一浴したのち下山し、男性も身を清めたあと、山頂に向かった。
下の笠山からは本格的な山道になり、途中鳥居松があったが、現在は枯れてしまい残っていない。
鳥居松跡以降は、かなりの急坂になり、直接、東峰(笠山山頂)の笠山神社につく。
切通橋から約3時間強を要する長丁場である。
白石からの参道
白石側からは白石車庫から車道を登り、八坂神社の横が入口となる。
ここに嘉永6年(1853)建立の自然石の道標があり、「社頭五十二丁」と刻まれている。
その先、約1時間強の急登で笠山西峰をつく。
東に登れば、まもなく笠山神社のある東峰山頂である。
笠山をじっくり味わいたい方には、アプローチの少ない白石側の参詣路を登り、西峰山頂の好展望を堪能したあと、東峰の笠山神社に達し、帰路は栗山へ参道をゆっくりとくだるのが良いだろう
笠山神社春の祭典(5月3日)
笠山東峰山頂は、好望が楽しめる西峰山頂とは対照的に鬱蒼と茂った樹林に覆われ展望はゼロである。
だが、それがかえって神域の雰囲気を増している。その山頂に笠山神社が祭られている。
神社は本殿と社務所、そして本殿裏に末社の浅間神社、摂社猿田彦大神の二社がある。
笠山は山麓一帯が養蚕地帯であったことから、古くから養蚕の神様として信仰を集めていた。
例祭は春は5月3日(山開き)、秋は11月20日(山じまい)の年2回行われる。
とくに春の祭典(5月3日)は、腰上・白石の両地区から、それぞれ約20名の氏子代表が山に登り、盛大に行われる。
以下、1987年4月5日の小川町腰上(腰越の小貝戸・館・赤木・栗山の総称)での聞き取りにもとづき、笠山の春の祭典(5月3日)について、詳細をまとめておこう。
笠山神社の氏子は小川町の腰越(腰上)と東秩父村白石に分かれているが、両者が協議のうえ、5月3日に最も盛大な春の祭典(山開き)が行われる。
当日は腰上はもちろんのこと、白石からも氏子が登拝する。
笠山神社は腰上と白石の鎮守だが、腰上では館、赤木、栗山は全世帯が氏子であるのに対し、小貝戸だけは氏子は約半数(残りの半数は氷川神社の氏子)にとどまっている。
以上の4つの地区(字)ごとに半年単位で2名(2軒)が祭りの当番となる。
当番は字内で持ち回りとなっていて、その年に不幸のあった家は、当番から外される。
当番以外にも地区内に世話役(長老)がおり、当番・世話役を中心に祭りの準備が進められる。
当日、当番は午前8時頃家を出て、鳥居松、下の笠山などに幣束をあげながら登り、午前10時頃から祭りが始まる。
各地区からも当番以外にほぼ決まった人数が登拝する(例えば、小貝戸では4名、赤木では4~6名、館と栗山は4名など)。
腰上全体で約20名ぐらいが登拝する。
白石も上・中・下の3地区に分かれていて、やはり20名ほどが登拝する。
当日山頂で花火が打ち上げられるが、それは午前6時頃と昼、そして午後の3階である。
神官による祝詞の奏上が終わったあと、春の祭典に限り、氏子に「お猫様」と呼ばれる猫の絵を刷った護符(お札)が配られる。
これは、養蚕地帯である山麓において、繭を食べるネズミ除けのお守りである。
また、笠山神社には「猫石」と呼ばれる小さな石があり、この石をいただいて1年間ネズミの被害が出ないと、翌年2つを返したという。
内田康男氏が詳しく紹介されているように、笠山神社にはネズミ除け以外に、もぐら除けの信仰、さらに雨乞い信仰があったという。
内田氏の著書より、関連する部分を要約しておこう(詳しくは、内田康男『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』(1999年)。
腰上や白石では、神社から土を借り、土地に撒き、1年間もぐらの被害がなかったときは、畑の土を倍にして神社に返したという。
また、笠山には古くから雨乞い信仰があり、最近の例として、昭和48年(1973)の旱魃時のときの雨乞いが挙げられている。
その年は旱魃がひどく、10月29日以降雨が降らず、農作物や飲料水にも影響が出た。そのため、翌年1月20日未明、旱魃を憂いた十八会有志が笠山に登り、「雨が立った龍王」と絶叫三唱したところ、翌日大雪になって一息ついたといわれる(内田康男『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』1999年による)。
祭りに戻り、ネズミ除けの護符が配布されたあとは、当番の手によりあらかじめ担ぎあげられていた赤飯や餅が、当番以外の参拝者や希望があれば一般の登山者にもふるまわれる。
私も1987年5月3日の春の祭典に参加でき、直来の和に加えてもらい、「お猫様」をいただいたうえ、赤飯や酒をいただき、ほろ酔い気分で栗山への参道をくだった記憶がある。
当番以外の氏子は、笠山と堂平山との鞍部(白石側の呼称は「籠山のタル」。腰上では鞍部に突き上げる沢である「平ノ沢」の名前から、「平ノ沢の峠」と呼んでいる)まで林道が通じているので、栗山からの長く急な参道を避け、車で平ノ沢の峠まで行ったあと、歩いて笠山神社まで登る人が多い。
腰越と白石の境界争い
先に『新編武蔵風土記稿』比企郡腰越村の条から、笠山の説明を引用し、笠山神社について、「白石村の鎮守なれば其村にて進退せり」との気になる記述を抜き出した。
参考までに、『新編』秩父郡白石村の条には笠山の記述はないが、笠山神社の説明はあり、「笠山権現社 笠山の頂にあり、棟札に羽黒大権現と記せり。小祠東向、神體白幣、村の鎮守にして、例祭9月18日、禰宜惣兵衛持除地一段五畝あり」とあり、笠山神社は笠山権現社と称し、白石村の鎮守でもあったと述べている。
たしかに、笠山神社(笠山大権現)は腰上(腰越)・白石両者の鎮守であるとともに、上記の江戸期の地誌は、笠山神社が腰越村に位置しながら(笠山西峰が腰越・白石境界。笠山神社のある東峰は腰越内)、江戸時代当時は白石村が神社を管理していたという。
これに対しては、腰上(腰越)側が異議を唱え、最終的には「腰越村と白石村との間の境界」争いにまで発展した。
江戸時代の元禄元年(1688)、白石村と腰越村が笠山の境界と笠山神社の管理について、代官に訴訟を申し出た。
翌年、安戸村の村頭衆が仲裁に乗り出し、笠山神社は腰越地内としながらも、管理は白石村が引き続き行うという現状維持的な裁定が出た。
その後、天保10年(1839)冬、笠山神社の本社と末社等が残らず消失した。
そのため、腰越、白石はもちろん小川町・東秩父村・寄居町・川本町・滑川町など各地に氏子たちが寄進の募集に歩き、多額の寄付金が寄せられた。
そして、明治4年(1871)秋に笠山神社は腰越村社となり、それ以降は神社の管理はそれまでの白石村から腰越村主体に変更された。
しかし、明治33年(1900)に山火事のため再度消失し、翌明治34年(1901)に再建されたのが現在の社殿である(以上、笠山神社をめぐる腰越村と白石村の境界争いについては、内田康男『ふるさと腰越ーその歴史と伝説ー』(1999年)を参考にした)。
笠山の別名・見性山について
笠山の別名は「見性山」(けんしょうざん)であるともいわれる。
「見性」は「金勝山」でも登場した仏教用語で、本来固有の真性を見極めることをいう。
藤本一美氏は、「禅宗では、自己の本来の心性を徹見することであり、これが寺号になったり、山名になっている例は全国的にある」と解説されている(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家本、2018年)。
金勝山も、そもそも見性山であり、慈光寺系統の修験者の修行場であり、見性山と呼んでいたのが、なまって「きんしょう」になり、琴笙山→金笙山→金勝山となったと述べた。
笠山も、「金嶽(かなたけ)」「堂平山」と並び「慈光三山」のひとつとして「見性山」と呼ばれていたという。
笠山神社は笠山権現ともいい、棟札に修験の拠点の一つであった山形県の羽黒山大権現の名が記されていることも、修験との関係を想像させる。
そうなると、見性山と呼んでいたのは、おそらく慈光寺の修験者ではなかろうか。
神仏習合時代に「慈光三山」の山々は修験者にとって修験場であり、金勝山と同様、笠山も見性山と呼んでいたのではなかろうか。
笠山にまつわる伝説
山の背比べ伝説
武甲山と笠山のでいた坊という巨人(天狗ともいわれる)が山の高さを競ったという話が2つある。
(1)昔、武甲山と笠山の天狗が山の高さを競って争いあった。初めに武甲山から笠山に樋をかけて水を流すと笠山に向って流れた。怒った笠山の天狗は、旅人が忘れてそばにあった笠をとって樋の下に入れた。すると、果して水は武甲山に向って流れ始めた。笠山の名はここからおこったと伝えられている。
(2)昔、でいた坊という巨人が比企の山と秩父の山に住んでいた。2人は比企の山と秩父の山でどちらが高いかと争いあった。「西方の山の頂に樋を渡して水を流したらよい。」ということになって水を流したら、水は比企の山へ流れ出した。怒った比企の山のでいた坊は、カラカサを比企の山のてっぺんにさしかけたところ、こんどは反対に秩父の山の方に流れた。これから比企の山を笠山というようになったという。秩父の山は現在の武甲山だという。
デイダボウの足跡
昔、デイダボウ(デイラボウ・ダイダダボウ)という巨人があらわれた。腹が空いたので、笠をぬいでおき、粥新田峠に腰をかけて休んだ。笠をぬいでおいたところが今の笠山である。荒川の水を口にふくみ山に向かってふいたところ霧がかかった。これが今の大霧山である。それから粥を煮て食べた。それが今の粥新田峠である。また持っていた二本の箸を立てた。これが今の二本木峠である。腰をおろしたところはやすみ石という。デイダボウの足跡は大霧山の頂上や粥新田峠の下にもあるという。
いずれの伝説も、韮塚一三郎編著『埼玉県伝説集 上(自然編)』(北辰図書出版、1972年)より引用。
籠山(かごやま)のタル(平ノ沢の峠)
笠山と堂平山の鞍部について、東秩父村白石から小川町腰越(腰上の栗山)へ越える峠と、旧都幾川村(現ときがわ町)大野の七重集落へ越える峠とは位置が少しずれている。
従来、前者を「笠山峠」、後者を「七重峠」(七重越)などとガイドブックや登山地図は記載していた。
例えば、大石真人氏監修の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 『奥武蔵』(朋文堂、1954年)はそれぞれ「笠山峠」「七重越」と記している。
だが、笠山峠、七重峠(七重越)は、いずれも地元の呼称ではない。
先駆者が仮称としてつけた便宜的な名称である。
白石では、鞍部を「籠山のタル」ないし、単に「籠山」と呼んでいる。
昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』の最新版(2024年版)は、鞍部についてハイカーの間で流通している「笠山峠」と白石の呼称を採用した「籠山のタル」を併記している。だが、同じ昭文社の都市地図『東松山市 小川・嵐山・滑川・吉見町 ときがわ村 東秩父村』では「七重峠」のままである。
できれば、地元呼称を踏まえ、白石~腰上の峠、白石~大野(七重)の峠の総称として、地元呼称を尊重した「籠山のタル」で統一したいものである。
ところで、「カゴ山」の名は、白石側からタル(鞍部)に突き上げる大日向沢の奥入(オクリ)にあったとされる「釈禅寺(釈伝寺)」の山号「加護山」に由来する。
なお「籠山のタル」は白石側の呼称で、腰上では先に述べたように、栗山から鞍部に突き上げる沢である「平ノ沢」からとった「平ノ沢の峠」と呼んでいる。
したがって、登山地図等に記載するときは、笠山と堂平山との鞍部について、「籠山のタル」(平ノ沢の峠)と記して欲しいものだ。
最近、堂平山から東に延びる小川町とときがわ町の境界尾根を林道栗山線が乗っ越す付近を「七重峠」と呼び、堂平山から七重に向かって南東に走る破線路の770㍍圏小平地付近を「松の木峠」と呼んでいるようだ。
ただし、これらの名称を採用すると、旧来の(これも地元呼称ではないのに広く流通している)笠山と堂平山の鞍部の七重峠も残っているので、「2つの七重峠問題」を生じかねない。
新しい七重峠や私は初めて聞く松の木峠は、藤本一美氏も著書の中で使っているし(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』にも記載されている。
だが、この新七重峠(?)も松の木峠も地元の古くからの呼称というよりも、ときがわ町が観光用につけた名称であるように思われる。
なぜなら、ときがわ町が「ときがわトレッキングコース」として売り出してる慈光寺入口バス停→慈光寺→堂平山山頂のルートを見てみると、慈光寺→霊山院→冠岩下休憩所→七重休憩所→七重峠休憩所→森の広場→松の木峠→堂平山天文台となっている。
つまり、(新)七重峠も松の木峠も、町の設けたコース上の休憩ポイントであり、町が命名した可能性が大である。
笹山(ささやま)
籠山のタル(平ノ沢の峠)から左に笠山を見ながら、栗山川支流の平(ヒラ)ノ沢の南に沿って延びる支尾根上の740㍍圏のピーク。
籠山のタル(平ノ沢の峠)からたどると、3つ目のピークが笹山だが、その手前のつ目のピーク頂上の立ち木に「臼杵山」なる私設の山名表示板が打ち付けられている。
「臼杵山」(うすきやま・うすぎやま)は、奥多摩の戸倉三山の一峰である。
地元呼称でもない勝手な山名の表示板を設置する行為は、困ったものだ。
笹山への尾根上で笹林を過ぎるところがあるが、山名「笹山」も笹の多い山に由来するものだろうか。
現在、笹山山頂は「笹山RCグライダークラブ」というラジコングライダーの同好会が山主から有償で借り受け、これも許可を得て立ち木を伐採してラジコングライダー滑空場として整備している。
おかげで、山頂からは360度近い眺望が得られ、笠山や堂平山を間近に見る展望台として絶好の場所になった。
ただし、ラジコングライダーを飛ばすため、危険があるので、無人機航空法により、同クラブ関係者以外は立ち入り禁止となっている。
笹山に登るためには、事前に同会に連絡し、許可を得る必要があることを申し添えておきたい。
なお、腰上の栗山集落から南方に大きく仰がれる笹山だが、その笹山の斜面の小字(山字)名が悪戸沢(あくとざわ)である。
悪戸沢は、栗山支流で笹山に突き上げる沢の名称でもある。
この名称が物語るように、悪戸川の地形は笹山の山腹にあたり、急斜面で岩場が多いところである(内田康男『腰越地名誌』未定稿)。
堂平山(どうだいらさん)
笠山から籠山のタル(平ノ沢の峠)にくだり、再度登りつめると、「堂平山」(875.9㍍)山頂につく。
山頂は比企郡小川町腰越・ときがわ町大野、秩父郡東秩父村白石の境界をなしている。
最初にも書いたが、堂平山の三角点は、比企・外秩父唯一の1等三角点(点名「堂平山」)である。
山頂にある東京天文台(現・国立天文台)の「堂平天文台」は1962年に建設され、長年にわたり1等三角点とともに、堂平山を象徴する存在であった。
2000年に当時の都幾川村(現・ときがわ町)に移管され、2005年、新たに都幾川村営(現・ときがわ町営)の「星と緑の創造センター」の中核施設としてリニューアルされた。
もはや天文台は観測活動は行っていないが、営業期間(12月・1月の冬期休業期間を除く)の毎月第1・第3金曜に「星空観望会」が実施されている。
山頂一帯は、ときがわ町の「星と緑の創造センター」として、同町の一大観光拠点となっている。
センターは、宿泊可能なドーム施設(旧天文台)サイト(山頂)と、林業体験施設・ログハウス・テント・バンガローなどを含むテントサイト(山頂直下)の2つのサイトに分かれ、いずれのサイトにも駐車場が設けられている。
ドームサイトある山頂は広い芝生の広場で、周囲にはさえぎるものがなく、まさに360度の展望が堪能できる。
堂平山の山名については、山頂から少しくだった平地付近(現・大野共有林)に昔、慈光寺の奥ノ院があったことから、堂平山と呼ばれるようになったという。だが、奥ノ院は鎌倉時代にはなくなったといわれている(内田康男『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』(1999年))。
ただし、内田康男氏によると、「2006年、堂平山からは平安時代のものとみられる鉄鉢形土器などが発見され、仏教関係遺跡の可能性が高まってきた。付近の七重集落では、堂平山は慈光寺の奥の院があったと伝えていて、この鉄鉢によりその可能性が高まったと言える」(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤「小川町の山々・巨石・名石ーその歴史と伝説ー」講座資料、令和4年2月19日作成)。
堂平山は、「慈光三山」の一峰でもある。慈光三山とは、笠山の項でも述べたが、慈光寺の修験僧が修験の場としていた三つの山を指す。
それが、與地ノ峰(金嶽・鐘岳)・遠一山(堂平山)・見性山(笠山)の三山である。
ちなみに、與地ノ峰は「よちのみね」、遠一山は「おんいつさん」、見性山は「けんしょうざん」と読む。
内田康男氏は、『ふるさと腰上ーその歴史と伝説ー』(1999年)において、慈光寺所蔵の『慈光寺縁起抄』を引用して、「慈光三山」(金嶽・遠一山・見性山)それぞれの名称について次のように述べている。
金嶽(鐘岳)は、源頼朝寄進のつり鐘が掛けてあったことから名付けられた。
遠一山は、「久遠劫(くおんごう:極めて遠く久しい昔)より一乗経を説く」という法華経の文義を訳して名付けられた。
見性山は、達磨大師立宗の語に「直指人心見性成仏」とある中の要語をもって名付けられたとしている。
堂平山へのルートとしては、先の笠山→籠山のタル(平ノ沢の峠)を経由するルート以外にも、白石からは同じく籠山のタルを経由するルート、少し長いが白石峠・剣ノ峰(剣ヶ峰)を経て縦走するルートが知られている。
それらに加え、ときがわ町が「ときがわトレッキングコース」として、慈光寺・霊山院から大野の七重集落をへて、山頂の東側に直接登るコースを整備した。
コースの途中で、「七重峠」や「松の木峠」など町が勝手に命名した(?)峠名が現れ当惑するが、堂平山から七重、慈光寺に向かうコースが整備されたことは嬉しいかぎりだ.
剣ノ峰(剣ヶ峰)(けんのみね:けんがみね)別名「飯森山」(めしもりやま)
堂平山からの稜線を白石峠に向け進み、峠東にある876㍍独標。
標高は堂平山と同等だが、堂平山の陰に隠れ、不遇な存在であるのは惜しい。
しかし、古い地誌にも名前が見える山である。
例えば、『武蔵国郡村誌』秩父郡大野村の条にある「飯森山」は実は剣ノ峰の別名である。引用すると、「飯森山 一名剣の峯。高八十八丈。村の西北隅にあり、嶺上より二分し、東南は本村(注:大野村)に属し、西北は白石村に属す。山脈堂平山に連る。村の西北より上る三十三町険岨」とある。
「飯盛山」(めしもりやま)は「剣ノ峰」の別名で、遠望すると「飯を盛ったように見える形状」に起因している。
『郡村誌』秩父郡白石村の条にも「剣の峯山」の名称で記載がある。すなわち、「剣ノ峯山 高壱百六十丈周回詳かならす。村の南方にあり、嶺上より二分し、東南は大野村に属し、西北は本村(注:白石村)に属す。樹木生せす。村の南方より上る十五町険岨」とある。
『郡村誌』の秩父郡大野村の条には飯盛山と堂平山の説明があるが、白石村の条にあるのは「剣の峯山」のみである。
『武蔵通志』でも剣ノ峰について別名の飯盛山(飯森山)にも言及し、隣の堂平山の説明も含むなど詳しい解説を行っている。
すなわち、「剣峯山(けんのみね) 一に飯盛山と云い、高さ三千六百尺。白石の南にして、大椚村大野にまたがり、草山にして樹林に乏し。東に堂平山あり、高八百八十尺、また大野に界し、東は比企郡大河村腰越にまたがる」
ところで、これまでの記述で、あえて一般に通用している「剣ヶ峰」を使わず、「剣ノ峰」としたのには理由がある。
上記の古い地誌でも、漢字の違いはあるが、原則「剣ノ峰」を使っており、「剣峯山」としている『通志』でもあえてルビを振って「けんのみね」としている。
地元であるときがわ町大野でも、「けんのみね」の発音の方が一般的である。そこで地元呼称を優先し、剣ノ峰(剣ヶ峰)としたい。
山頂には大正6年(191年)に建てられた「剣ノ峰大明神」の大きな石碑があり、中央に剣峯大神、右に摩利支天、左に大山祇命が刻まれており、古くから信仰を集めた山であることが分かる。
残念ながら、山頂は大きな無線中継所に邪魔され、展望は期待できない。
さて、剣ノ峰南に「勝負平」という名の平地がある。
ここには、次のような伝説がある。
「(勝負平は)昔、平将門が藤原秀郷と最後の勝負をした所という。この戦いに勝利を得た秀郷は、勝負平の北の頂に、戦勝記念として剣を立てたので「剣の峰」の名が生まれたのだという」(飯野頼治『山村と峠道ー山ぐに・秩父を巡る』(エンタプライズ、1990年)。
最後になるが、新井良輔氏は剣ノ峰の山名について、「剣ノ峰は奥武蔵には珍しい鋭い突起で、どこからでも目立つ存在ですから、その姿から槍ヶ岳のように、この名が生まれたのであろうとも思われます」と述べておられる(神山弘・新井良輔『増補 ものがたり奥武蔵 伝説探訪二人旅』(金曜堂出版、1984年)
白石峠(川木沢)(しろいしとうげ:かわきざわ・かーぎざわ)
剣ノ峰からくだると、すぐに白石峠につく。
峠は秩父郡東秩父村白石と比企郡ときがわ町大野を結ぶ要衝である。
2万5千分の1地形図「安戸」(2016年測量、2016年5月1日発行)にも白石峠の名が表記され、昭文社山と高原地図『奥武蔵・秩父』(2024年版)をはじめ、ガイドブックの類いや都市地図などにも白石峠の名が明記されている。
もはや当たり前になった白石峠の名だが、私が1980年代後半に白石で地名採集をしていたとき、古老の多くは白石峠を「かわきざわ・かーぎざわ」と呼んでいた。
川木沢とは、槻川源流部一帯のことを指す。
「籠山」が大日向沢オクリ一帯の名称であったように、「川木沢」も槻川源流部一帯の名称であり、「籠山」が峠名に転化したように、「川木沢」も峠名に転化したのである。
しかし、のちに比企・外秩父ハイキングコース開拓期に「白石峠」の命名がされて以降、地元呼称の「かわきざわ・かーぎざわ」は忘れ去られたのである。
せめて、白石峠(川木沢:かわきざわ)と括弧書きで併記して欲しいものである。
川木沢ノ頭(かわきざわのあたま)
白石峠から稜線を西に急登した874㍍独標。
一般には先を急ぐので北側の巻き道を通り、巻いてしまう山である。
槻川源流部の総称「川木沢」は、このピークの名称として名をとどめている。
しかし、川木沢ノ頭という名称は登山者がつけた「仮称」であったのである。
この経緯を文献調査したのが藤本一美氏であった。
藤本氏によると、松本善二氏が『山岳』第20巻第1号(1926年7月号)所収の「秩父笠山より丸山」」にて「仮称」として紹介したのが最初であるという。
地元の白石では全くの無名峰であるが、比企郡ときがわ町大野、秩父郡東秩父村白石、秩父市の3自治体の境となる山である。
高谷山(たかがややま)・タカガヤ
川木沢ノ頭から新定峰峠(定峰峠)に向かい尾根を進むと、大きな山容の828㍍独標に達する。
大石真人氏監修の「外秩父概念図」(マウンテン・ガイドブック・シリーズ8『奥武蔵』朋文堂、1954年所収)では、白石峠(川木沢)と新定峰峠(マジノタワ)間のピークに「ハギノソリ」の名を記している。
藤本一美氏もそれを踏襲。828㍍独標を「萩ノソリ」としたうえで、「ソリ」について焼畑地名であると説明している(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。
だが、『高篠村誌』(秩父市高篠公民館、1980年)所収の「高篠村略図」(同村の全小字の地図)によると、「萩のソリ」(高篠村略図の表記名)は、山田村・栃谷村・定峰村の三村が明治22年(1889)に合併してできた高篠村(1957年に秩父市と合併)の東端(旧定峰村の区域)で、白石峠西側付近の小字名である。
828㍍独標とは距離が離れすぎているといわざるを得ない。
それ以上に重要なのは、白石での聞き取りで、地元の古老が828㍍独標を「タカガヤ」と呼んでいたという点である。
『新編武蔵風土記稿』秩父郡白石村の条でも、「高谷山 村の南にあり」と記載している。
以上を踏まえ、828㍍独標は無名峰でも「萩ノソリ」でもなく、地元呼称を重視し、「タカガヤ」ないし「高谷山」と記載すべきであろう。
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