金勝山(きんしょうざん)
(略図)金勝山・鷲丸山・天神山全体図(1988年)
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概要
(略図)金勝山詳細図
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八高線の線路をはさんで官ノ倉山と対峙している丘陵。 小川町勝呂にある。
2万5千分の1地形図「安戸」では、263.4㍍2等三角点(点名「勝呂」)のある最高点に「金勝山」の名を表記しているが、これが金勝山をめぐる山名混乱の始まりである。
現地にある公設の山名表示板が混乱に輪をかけている。
現地の山名表示板は、三角点峰を「金勝山」、その南にあるピークを「前金勝」、三角点峰北の小ピーク(三角点峰の一角?)を「裏金勝」、そして「埼玉県立小川げんきプラザ」(「旧県立少年自然の家」を改称。1997年にリニューアルオープン)の施設館(プラネタリウム)東の一角を「西金勝」としている。
しかし正確にいうと、金勝山は、三角点のある主峰の「裏金勝」、その南のピーク「前金勝」、プラネタリウムのある「西金勝」という3つのピークの総称なのである。
『角川地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1980年)も上記3つのピークの総称名を金勝山としているのに、現在も「裏金勝」には「金勝山」の山名表示板が建ち、その北の間違った位置に「裏金勝」の山名表示板が建ち、「西金勝」の表示板の位置も間違っているという埼玉県(あるいは小川町)の罪な所業が今も正されていないのは残念な限りである。
東登山道、南登山道という正規のルートを登れば、30分強で主峰の裏金勝に達する。
しかも、北側の小川町木呂子からは「小川げんきプラザ」にいたるつづれ折りの車道が西金勝近くまで延びるなど、ハイカーからは公園化した手軽な山という受け止め方をされているようだ。
そのため、せいぜい官ノ倉山に登る前の足慣らしに立ち寄る程度の扱いを受け、金勝山を徹底的に極める人が少ないのは勿体ないというしかない。
金勝山は、複数のピークを連ね、正規のルート以外にも多数のバリエーションルートがあるなど複雑な地形をもち、一度はまってしまうと抜けられない魅力を秘めた山である。
なお、金勝山は全山石英閃緑岩で、土木建設用の砂利を採る目的で採掘計画が起こった。
しかし、試掘結果が悪く計画が中止された経緯がある。
それに代わり、1971年に埼玉100年事業として、プラネタリウムなど屋内施設と野外活動施設を併設した「県立少年自然の家」が建てられた(前出の『角川地名大辞典11 埼玉県』による)。
採掘計画の名残りは、第一避難小屋、第二避難小屋などとして、現在でも残されている。
金勝山北面は、埼玉県農業試験場の環境緑化試験地となっているほか、最近では木呂子から小川げんきプラザに登る車道の終点近くに「ゴリラ山展望台(金太郎石がある)」が設けられるなど、さらに整備が進んでいる。
山名考
現在でこそ、「金勝山」の漢字表記や「きんしょうざん」という山名(発音)を疑う人はいない。
だが、江戸期や明治期の古い地誌に当たると、前記の漢字表記や名称(発音)が古来からのものでなかったことが分かる。
江戸期の『新編武蔵風土記稿』男衾郡勝呂村の条では、「ケンシャウ山」と表記。
明治期の『武蔵国郡村誌』男衾郡勝呂村の項では、「金笙山」の表記を採用。
同じく明治期の『武蔵通志』は「金笙山」の漢字表記を採用しながらも、「キンシャウ」のルビを振っている。
さらに『武蔵通志』では、「勝呂の東北にあり、頂上老松あり、日本松と称す。数百年外の物たり」と続けている。
「日本松」は「前金勝」の山頂に実在した老松で、「金勝の松」とも呼ばれていた。
この松が風に吹かれるたびに琴に似た音を出したことから、「琴松山」(キンショウザン)と名付けられたという言い伝えが勝呂や木部、靱負(ゆきえ)など、金勝山を取り巻く地区には残されている。
前金勝に巨大な松があったというのは事実だ。
落雷で松が倒壊してしまったあと、幹は既に虫が食って空洞になっており、使いものにならなかったが、幸い残った枝の部分を使い、一抱えもある臼を13基つくった。
その臼のうちのひとつは、今でも山麓の家に残されているという。
さて、前記の日本松の言い伝えから生まれた「琴松山」が「琴笙山」→「金笙山」と書き換えられ、さらに明治20年頃の地名改正のとき、当時の竹沢小学校の校長が、琴の代わりに地元・勝呂の「勝」のあてて、「金勝山」と書き改めたというのが「通説」である。
だが、果たしてそうだろうか。そこで鍵になるのが「ケンシャウザン」という古い地誌にある発音である。
実は今でも(といっても、私が金勝山周辺で山名の採集をしていた1988年頃)、地元・勝呂の一部の古老は金勝山を「けんしょうざん」と呼んでいた。
「けんしょう」は「きんしょう」のなまった呼称だという人もいるが、古い地誌に「ケンシャウ」の呼称が記されている事実は重い。
この疑問が決定的になったのは勝呂の鎮守・白鳥神社の隣にあった西光寺という寺の山号が琴笙山であることを知ってからである。
前金勝にあった老松が山名の原因であるという説は、琴笙山西光寺の山号(とくに「琴笙」の部分)に付会した伝説の域を出ないのではなかろうか。
むしろ、金勝山の名の起こりは、『新記』の「ケンシャウ山」(けんしょうざん)の方に求められるのではないか。
そして、「けんしょうざん」は「見性山」の呼称であったのではないか。
ちなみに、比企の名山「笠山」は「慈光三山」のひとつとして「見性山」(けんしょうざん)の別名がある。
この名称は山岳修験に由来するものである。
藤本一美氏は、見性について「諸種の志惑を照見して、本来固有の真性を見きわめること(見性)とする仏教用語で、禅宗では自己の本来の心性を徹見することであり、これが寺号になったり、山名になっている例は全国的にある」とし、金勝山の山名ルーツは「見性山」であったという説を支持しておられる(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。
では、同じ「見性山」である笠山と金勝山との間に関係はないのであろうか。
実は、笠山が慈光三山のひとつであり、慈光寺の修験者の修行の場であったことは既に触れたとおりである。
その慈光寺の「影」が金勝山周辺に随所に見られる。
まず、西光寺は慈光寺と同じ天台宗の寺である。
今でも勝呂には天台宗の檀家が多いという。
しかも、金勝山と慈光寺とのつながりを物語るように、北東山稜の靱負には「慈光平」という小字名がある。
伝承によると、慈光寺は昔この地にあったが、焼失したあと、現在のときがわ町西平に移ったという。
しかし、釣り鐘だけは焼失から免れ、今でもこの地に埋まっている伝えられている。
伝承とはいえ、これだけの「証拠」があると、金勝山=見性山という説は、かなり有力な説といえるのではなかろうか。
慈光寺が昔「慈光平」にあったというのは伝説であろうが、慈光寺と関係の深い西光寺の檀家が背後の山を笠山(見性山)になぞらえ、「見性山」(けんしょうざん)と呼んで神聖視し、熱心に登拝していたのではないだろうか。
さらに「琴笙山」という西光寺の山号も、「見性山」に由来するとともに、かえって「琴笙山」(琴松山)に付会し、通説のような前金勝の巨松伝説が生まれたのではないかと考える。
金勝山の信仰をめぐって
靱負の愛宕神社
東武竹沢駅から東上線に沿って男衾方面に北上すると、小川町靱負(ゆきえ)の野竹地区。
ここからは、よく整備された金勝山登山道を登ると、第一避難小屋を経てダイレクトに2等三角点のある金勝山の主峰・裏金勝に達することができる。
東登山道をやり過ごすと、左手に赤松の目立つ小山が見える。
岩の出た急坂を登りつめた山頂に立派な社殿が鎮座する。
野竹地区(大字靱負)の旧家・山田家の氏神。
もとは小祠だったが、昭和37年(1962年)頃、山田家の屋根を瓦に張り替えた際に今の社殿を建立した。
例祭は旧暦の1月24日。
社殿の前後にある赤松は、それぞれ幹回り2.21㍍、2.59㍍の見事なものである(1988年当時)。
勝呂の金比羅神社
東登山道の途中から沢コースに入り、登り切ると、谷をはさんで第一避難小屋が見える地点に出る。
そのまま尾根伝いに登れば、約10分で裏金勝。
それとは逆に沢の源頭ををトラバースする道をたどると、まもなく第一避難小屋。
ここで東登山道が合流。
南にヤブ尾根を下ると、そこが金比羅神社の建つ小平地。
金比羅神社は火伏せに霊験あらたかな神様として、山麓の下勝呂字池ノ入や大楽寺(だいらくじ)地区で信仰が厚い。
例祭は、春(4月10日)と秋(10月10日)の2回。
とくに春の例祭は、ちょうど桜の咲く時期とあって、花見を兼ねて大変な賑わいになるという。
勝呂の浅間神社
東武竹沢駅から今度は八高線に沿って西に折原駅方向に進む。
津島神社、金勝山南登山道入口を見送り、尾根道を比高80㍍ほど急登すると、浅間神社。
浅間神社は、以前はもっと西金勝に寄った地点にあったが、金勝山に砂利採掘計画がもちあがったときに移転命令が出て、現在の地点に移された。
社殿手前の金精様が示すように、安産信仰がある。
妊婦のいる家では、毎年4月の第一日曜に行われる例祭の際に、供えられるロウソクが燃えて短くなったときに、それをいただいて持ち帰ると、お産が軽く済むといい伝えられてきた。
このロウソクが短ければ短いほど、お産が早く終わるといわれる。
鷲丸山(わしまるさん)→消滅
(略図)鷲丸山跡(ホンダ寄居工場)付近略図

概要
2008年まで金勝山から北に続く尾根上に存在していた山。
標高は216㍍(以前の寄居町地図による)で、『新編武蔵風土記稿』男衾郡富田村や『武蔵通志』にも記載のある浅間信仰の山であった。
小川町勝呂から寄居町富田まで延びる金勝山丘陵は、六反田の沼と炭窯の沼(いずれも水田用のため池)を結ぶ道を境に北部と南部に分かれる。
南部はもちろん前金勝・裏金勝・西金勝などの金勝山一帯(小川町)。
それに対し、規模や標高において南部に劣るとはいえ、それでも95㌶(東京ドーム20個分以上)の規模の丘陵が北部(寄居町)で、北部の頂点が鷲丸山であった。
鷲丸山は、早くも江戸期の『新編武蔵風土記稿』男衾郡富田村の条に、「鷲丸山 山上に富士浅間の小祠あり」と記録されている。
明治期の『武蔵通志』は以下のように詳細に記している。
「鷲丸山 高さ二百九十尺。男衾郡富田村の南にあり、一峰突兀として聳へ、中腹に小御嶽社あり。社左に烏帽子岩右に亀岩あり。字西小林より上八町四十間。路に釈迦岩あり、頂に浅間神社を安ず。途上富嶽を望むを以てなり」と、山頂の浅間神社や中腹の小御嶽神社、さらに山頂や山中にある奇岩や浅間信仰の由来など、細かく説明されている。
ここからも分かるように、鷲丸山はその特異な山容や山中にみられる奇岩などにより、古くから地元・寄居町富田の人々により神聖視され、それに浅間信仰が加わり、長くにわたり、親しまれた山であった。
山麓の寄居町富田や南側の金勝山から眺める鷲丸山は、周囲の丘陵のなかで一際高く聳え、さらに山頂部に岩場を突き上げた独特な山容で、一目見たら忘れることのできないインパクトをもっていた。
もし金勝山から鷲丸山を経て、天神山から男衾駅に至るハイキングコースが整備されたならば、穏やかな金勝山と岩場やヤセ尾根など変化に富んだ鷲丸山とのコントラストが楽しめるコースとして、多くのハイカーを迎えたかもしれない。
それこそ先祖代々守ってきた信仰の山を、本田技研工業(株)埼玉製作所寄居工場(2013年7月稼働。2022年1月より、閉鎖された狭山完成車工場の分を統合し、埼玉製作所完成車工場として、ホンダの四輪車制作の全国の拠点化)建設のためにいとも簡単に売り渡してしまった行為には言葉がない。
ホンダ誘致の計画は工場建設が始まった2007年秋より前から本格化していた。
鷲丸山の破壊と工場用地の整備、工場の建設等を担当した清水建設は、1991年年3月に既に環境影響評価準備書を埼玉県に提出している(「寄居町富田地区工業用地造成事業に係る環境影響評価準備書」清水建設、1991年3月)。
ということは、環境アセス前の事前協議やそれ以前の埼玉県や寄居町による誘致は、はるか前から行われていたことが分かる。
準備書の記述を要約すると、埼玉県は県北地域において先端技術を導入して産業の発展を図ることをめざした「テクノグリーン構想」を策定。
これを受け、寄居町は第3次寄居町振興計画基本構想中で、優良企業を誘致し、雇用の場の確保と産業の活性化により、21世紀には5万人都市になることをめざした。
寄居町はさらに1987年に「グリーンバレー構想」を県の協力を得て策定。
その具体化の一環として、清水建設が工業用地の開発計画を町に提案。
寄居町は清水建設による提案を検討し、様々な観点から協議を行ったうえ、地元住民(富田)の強い希望と積極的な賛同が得られ、「グリーンバレー構想」に合致するとの結論が出され、清水建設の工業団地造成計画が寄居町により採用されることになった。
私が鷲丸山を最初に訪ね、おそらく同山を最初に紹介した記事(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』241号、1988年3月所収の山行報告「金勝山・鷲丸山」、『新ハイキング』1988年4月号所収の「金勝山から鷲丸山」)を発表した1988年3~4月当時に、既に開発に向けた動きが始まっていたのである。そう思うと、やり切れない心境である。
それでは、在りし日の金勝山か鷲丸山へのコースを1988年3~4月当時の記事を要約しながら、まとめてみよう。
小川げんきプラザのある西金勝横の広場から北によく整備された道をくだる。
国道254号線へ下る車道と分かれ、小川バイパス金勝山トンネルの上を通り、金勝山と鷲丸山との鞍部である六反田の沼と炭窯の沼を結ぶ道に出る。
ここまでは明瞭な道だったが、鷲丸山に向け登り始めると、すぐに踏跡が不明瞭になる。
それでも高みをめざして急登すると、鷲丸山の南肩。
北には鷲丸山の山頂が、ひときわ高く聳え、登高欲をそそる。
狭い山頂の北側は一気に切れ落ちた崖で、この方向だけが立ち木が消えて眺望がきく。
前に低くうずくまる上郷(寄居町大字富田)の天神山の向こうに熊谷の市街が広がり、はるか彼方には榛名、赤城、日光連山から筑波山までの大パノラマが展開する。
かつてのコース案内の続きは、以下の山名考、信仰と合わせて述べていこう。
鷲丸山の山名考と信仰
鷲丸山の山頂中央には北に面して「鷲丸山浅間大神 谷津郷中」と彫られた高さ約70センチの石碑(幅は最も広いところで約50センチ、厚さは7センチ)が立っている。
山麓の谷津や塚越(いずれも寄居町大字富田)から仰ぐ鷲丸山は、台地状に盛り上がった基部の右端にピラミダルな岩峰を突き上げた特異な山容で、いかにも神宿る山のイメージにふさわしい。
そう考えると、鷲丸の「マル」は聖なる山を形容する言葉であり、山頂直下の岩壁こそ神が天から降りてくる岩座(いわくら)に見立てられたのではなかろうか。
そして、「マル」が朝鮮語にルーツをもっているとするなら、寄居町富田の鷲丸山の名は、寄居町立原の車山と同様、古代この男衾の地に移住してきた渡来系氏族によって命名された可能性も出てくる。
浅間信仰の盛んな時代、例祭の日になると山頂の直下には露天も出て大いに賑わったという。
谷津の集落から沢沿いに山頂の東側鞍部に登る道が鷲丸山の「本通り」とされ、小川町木呂子との境付近から登る「裏通り」と合わせ、多数の登拝者を迎えた。
鷲丸山の周辺には炭窯の沼や六反田の沼など大小いくつもの農業用ため池が散在するが、これらの沼を総称して「富士五湖」と呼んでいたという。
いずれも、1988年から遡って40年以上前(現在=2025年から遡ると、80年以上前)の話だ。
山頂をあとに、東に岩混じりの急降下。
途中に「薬師嶽薬王神社」の石碑もみられ、神域の雰囲気が伝わってくるようだ。
鞍部から戻り気味に山頂直下の岸壁の基部を巻く。この付近で東側の谷から登ってくる「本通り」が合流するはずだが、廃道になって久しいせいか、路形すら見当たらない。
山頂から北に延びる尾根に出ると、やせ尾根の急下降になり、200㍍そこそこの山とはとても思えない高度感だ。
まもなく自然地形を利用した小高い富士塚の上に、高さ約1.3㍍の細長い石碑が立つ。表面には「朝日浅間大神」とあり、裏面に「明治17年3月 富田村吉田恵輔」の銘があり、かつてこの地にあった社を再建し、養蚕や安産の神様として祀った経緯が判読できる。
この「朝日浅間」が『武蔵通志』のいう「小御嶽社」に当たるものかどうかについては、残念ながら確認するにいたっていない。
再び急激にくだり、最後の登りを終えたところが167㍍独標で、真新しいコンクリート製の山ノ神の小社が祀られている。
祠の前からくだる明瞭な道を急降下5分で、沢沿いの「本通り」と合流。
谷津の集落に出る。
エピローグ
奥武蔵研会員会員の町田尚夫氏は、ホンダ技研工業が鷲丸山一帯の約95㌶もの用地を買収し、工場を建設することが明らかになって以降、2006年10月から2007年10月までの1年間に5回も鷲丸山を訪れ、かつての浅間信仰の山の終焉と山中の石碑群のその後を記録した(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』409号、2016年5月所収の「懐想の鷲丸山」)。
同記事によると、2007年10月には、鷲丸山山頂にあった「鷲丸山浅間大神」の石碑が抜き去られ、跡にポッカリと穴があいている状況を撮影している。
そして、山中の石碑群の最初の移設地を訪ねている。
さらに、2016年1月に最終的に石碑群を遷座した地(鷲丸山山域跡の本田技研(株)埼玉製作所完成車工場の北の一角)を確認して、入口に立つ黒御影の碑に刻まれた遷座の記を忠実に書き写している。下に引用しておこう。
「遷座の記 武蔵の國男衾郡富田(とみだ)の地に太古より聳え立つ鷲丸山は山頂に浅間社の祠を建立し江戸時代より盛行(せいこう)した富士信仰の対象として現在に至って来たがホンダ技研工場寄居工場の立地計画により山中に散在した鷲丸山浅間社を始め数祠と供養塔を平成21年4月当所に遷座した
谷津地区の海抜212米の霊山は其の姿を消し再び見る事はないが誠に痛惜の念を禁じ得ない
祭神の氏子達の末永き御加護を祈願する
平成21年7月吉日
小被神社宮司 持田倫武 撰文
江戸時代より浅間信仰の山として親しまれてきた「オラが山」を、雇用や税収のためとはいえ、現在の住民だけの判断でデベロッパーに売り渡し、後世の人々が永遠に見ることができない状況を生む権利が果たして私たちにあるのだろうか。
そんなこと考えさせる「遷座の記」である。
さて、2024年9月に「ホンダ埼玉製作所 完成車工場」(寄居町)が、環境省の定める「自然共生サイト」に認定されたとの記事を目にした。
95.1㌶の寄居工場敷地中、約30%に当たる29.2㌶を生物多様性のための緑地として残すとともに、水田ビオトープ活動などを周辺の住民や児童と協働して進めていることが評価され、29.1㌶が「自然共生サイト」に認定されたそうだ。
しかし、これまでの経緯を知る者としては、鷲丸山を頂点とする95.1㌶もの丘陵を徹底的に破壊しておいて、残存緑地+人工緑地29㌶で本当に「自然共生」なのかと改めて叫びたい。
せめて、工場の中心に自然との共生のシンボルとして鷲丸山を残存緑地として残す設計ができなかったのだろうか。
秋葉三尺坊跡
「ホンダ埼玉製作所 完成車工場」(寄居町富田谷津地区)の正門から国道254号線を渡り、正面の丘陵に取り付く。
住宅地がすぐそばまで迫りながらも、まとまった緑地をなし、ささやかな尾根歩きを堪能させてくれる「天神山丘陵」(寄居町富田上郷地区)は、鷲丸山亡き後、金勝山と組み合わせて楽しめる貴重な自然である。
丘陵の東端にある180㍍独標西のピークが「秋葉(あきは)三尺坊跡」である。
丸太のベンチもある山頂には「大山祇命」(オオヤマヅミノミコト)の小さな碑があち、その背後に3㍍四方、高さ約1㍍の盛り土がある。
これが「秋葉三尺坊跡」である(藤本一美『比企(外秩父)の山々』私家本、2018年)による。
盛り土の上には、かつて火伏せの神である秋葉三尺坊大権現を祀った社殿ないし大きな石碑が建てられていたのであろうか。
『新編武蔵風土記稿』男衾郡富田村の条に「秋葉社」とあるのが、秋葉三尺坊大権現跡のことを指しているのかも知れない。
天神山(てんじんやま)
天神山丘陵西端にある173.8㍍3等三角点(点名「天神山」)。
秋葉三尺坊跡から天神山に至る尾根上には、ソフトバンクモバイル、NTTドコモの2つの携帯中継塔が設置され、それに向かう車道が秋葉三尺坊経由で中継塔まで延びている。
中継塔から天神山までも良く整備された道であるが、以前の静けさが失われたのは残念である。
それでも丘陵をたどると、鞍部をへて3等三角点のある天神山山頂。
小広い山頂には、昭和16年(1941年)まで、北山麓の上郷にある「上郷天神社」の社殿が建てられていた。
「上郷天神社の概要」によると、「創建年代等は不詳ながら、当地(注:現在の上郷天神社)より南方に聳える天神山に鎮座。富田の上郷地区で祀られていました。明治維新後の神格制定に際し、当社は無格社とされたものの、明治時代後期に実施された神社整理令に際しては、当社が充分な資産を有していたことから小被神社(注:寄居町富田の鎮守)に合祀されず独立した社として存続したものの、昭和16年に社地天神山が陸軍用地として接収されたことから、当地へ遷座したといいます」とある。
かつて社殿のあった山頂には礎石が残されるのみだが、北側の展望が開け、寄居の町並みから北関東の山々などが一望できる。
山頂の西端から200段以上もの滑りやすい木段を下りると、住宅地に出る。北に行けば、すぐに里に遷座された「上郷天神社」につく。
吉野砦跡(物見山)
寄居町境の小川町木呂子にある中世の砦跡。
「ホンダ埼玉製作所 完成車工場」西側にある197㍍独標。
北側は土砂採掘場跡。東側は駐車場。西側は「彩の国資源循環工場」(かつての埼玉県産業廃棄物処分場)などで囲まれ、物見山も北山稜が土砂採掘により一部削られている。
物見山という名称から、単なる鉢形城の物見櫓跡と思っていたが、197㍍山頂に祠の小礎石らしきものが転がっており、堀切と小平地の城郭の遺構が残ってることなど、単なる物見櫓より規模の大きい「砦」ないし「城」の可能性もある(藤本一美氏による2016年1月の山行記録にもとづく)。
歴史的な経緯については、松山城主・上田氏(後北条氏の重臣)の家臣・木呂子丹波守の居城と伝えられるが、真偽のほどは定かではない。
藤本氏は、後北条氏の重臣・北条氏邦の守る「鉢形城」の南方の固める砦(物見台・見張り場)ではないかと考察されている(藤本一美『比企(外秩父)の山々』(私家版、2018年)。
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