はじめに
地図1「堂平山・籠山のタル付近図」

地図2「慈光寺・金嶽(鐘嶽)・風早山付近図」

地図3「巡礼街道周辺図」

2026年10月3連休の中日、11日(日)は雲ひとつない晴天。
こんなときにこそ堂平山に40数年ぶりに登ろうと決めたが、どのようなコースをとるべきか迷った。
定番は白石車庫から笠山・堂平山の鞍部(籠山のタル)に登り、そこから堂平山へ。
帰路は剣ノ峰、白石峠へと縦走して、槻川の源流から白石車庫へ戻るという周回コース。
しかし、これだけでは少し歩き足りない。
そこで、堂平山からの帰路を未知の「ときがわトレッキングコース」にすることに決めた。
「ときがわトレッキングコース」は、堂平山から東尾根をたどり、林道栗山七重線に出たあと、「七重のヤマザクラ」、七重集落を経由。
林道赤木七重線に出たところで、山道を登り、冠岩、霊山院、慈光寺に向うコースである。
もともと慈光寺、霊山院から冠岩→碑原→七重→篠ノ畝(しのせ)→籠岩→籠山のタル→白石へとたどる道は、慈光寺から秩父札所一番四萬部寺に向かう古い巡礼道であったという。
また、慈光寺から金嶽(鐘嶽)→冠岩→七重→篠ノ畝→堂平山→籠山のタル→笠山へ向かう尾根道は、慈光寺の僧が修行するコースでもあった。
戦後、これらの道をアレンジして「みんなで楽しむハイキングコース 笠山から慈光寺コース」が設定され、歩かれていたが、いつの間にか手入れされずに放置されていた。
それを2005年、合併前の都幾川村(現・ときがわ町)が天文観測の役割を終えた堂平天文台やその他、堂平山頂一帯を「堂平山天文台『星と緑の創造センター』」として整備するのと合わせ、慈光寺、霊山院と堂平山を結ぶハイキングコースとして再整備したのが、「ときがわトレッキングコース」である。
林道歩きが長く、堂平山から慈光寺入口バス停まで約3時間を要する長丁場のコースだが、あまりハイカーの歩かない堂平山~慈光寺間をクローズアップさせ、かつての巡礼道や修行道の面影を残す静かな山歩きを楽しめる貴重な道である。
ただ最大の難点は、慈光寺入口バス停の土・日・祝の小川町駅行きの最終バス時刻が15時33分とかなり早い時間であるということ(平日は18時19分発という最終バスがある)。
私が東秩父村方面の山に向かうとき、いつも使っている小川町10時17分発の白石車庫行きのバスでは、白石車庫から歩き始めるのが11時からになってしまう。
そこから籠山のタルをへて、堂平山に着くのは、私の足では早くても13時。
しかし、白石で地名、山名の聞き取りを行ったり、籠山のタル付近の探索をしながらの山行では、堂平山着は13時30分を過ぎかねない(実際10月11日、堂平山頂についたのは13時30分)。
山頂で30分昼食休憩をした場合、14時発となり、それに「ときがわトレッキングコース」の3時間を足すと、慈光寺入口バス停着は17時ということになり、最終バスには到底間に合わない。
実は計画を立てている時点では、ときがわ町に「乗合タクシー」があることを知らなかった。
事前に乗合タクシーの利用者登録をしておけば、当日1人からでも、日曜祝日は19時まで、平日・土曜なら21時まで乗合タクシーを利用することができる。
利用範囲がときがわ町内に限定されること。共通乗降所からしか乗車できないこと(ときがわトレッキングコースの場合、霊山院、慈光寺駐車場、慈光寺入口バス停が共通乗降所)。予約は共通乗降所へ乗り合いタクシーが通る30分前までであること。乗り合いタクシーのダイヤが決まっていて、ほぼ1時間に1本であること。料金が500円と少々高めであることなど、使いづらい点がある。
しかし、休日で最終バスを逃すことが確実になった場合、慈光寺入口までくだらなくても、霊山院や慈光寺駐車場から乗ることができ、途中、せせらぎバスセンターあるいは明覚駅で武蔵嵐山駅(西口)行きのイーグルバスに乗り換えることもできるなど、十分利用価値がある。
使い方の詳細はときがわ町役場のホームページをご覧いただきたい。
ともあれ、「乗合タクシー」という便利な仕組みがあることを知らなかったので、「ときがわトレッキングコース」をたどるにしても、慈光寺まで行かずに、最終バス(土日祝)が18時40分まである小川町腰越の切通しバス停に出るルートを探る必要があった。
そこで目をつけたのが、霊山院と腰上(こしかみ)の赤木を結ぶ「巡礼街道」である。
赤木の「ショウジバ」と呼ばれる場所は、昔から霊山院・慈光寺への腰越からの登り口だった。
ショウジバから「七曲り」と呼ばれる急坂を登り、一息入れたあと、さらに「立つ道」と呼ばれる急坂を登り切ると、「風早山」(539.4㍍3等三角点:点名「平萱」)の北鞍部(林道)に出る。
ここで林道(現在は林道赤木慈光線)と合流するので、そのまま進めば、風早山を巻いて冠岩に出ることができる。
赤木の「巡礼街道」は、私が最後に歩いた1987年4月当時は踏跡程度だったが、全コース明瞭に刻まれていた。
赤木の「ショウジバ」から冠岩まで登り約1時間30分。
逆算すれば、冠岩から約1時間強で赤木の「ショウジバ」にくだることができる。
問題はそれから40年近く経った現在、果たしてこの古道が使えるかどうかである。
参考までに山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社(2025年版)を見ると、「巡礼道」には「荒れた道」との注記があり、そのうえ、登り口の「ショウジバ」付近には迷いやすいとの注記まである。
ネットで「赤木の巡礼街道」の山行記録を検索してみたが、全く発見できず、道の現状について不安が残った。
10月はどんどん日が短くなり、16時30分にはあたりは薄暗くなり、17時で日没。周囲は真っ暗になる。
日没近くの時間帯に巡礼街道を探して山中で迷ってしまったら、それこそ遭難につながりかねない。
そんなコース終盤への不安を抱きながらの堂平山→「ときがわトレッキングコース」→風早山→巡礼街道→赤木→切通しへのチャレンジだった。
果たして結果はどうだったか。
先にいうと、初回(10月11日)は七重集落を見下ろす高台にある七重休憩所に着いた時点で、既に16時。
もはや、この時刻では風早山登頂・巡礼街道探索は不可能と判断。
馬頭観世音と冠岩、座禅岩のみ確認したあと、真っ暗な車道を延々と2時間近く歩き、切通しバス停に着いたものの、最終バスにも間に合わず、結局小川町駅からタクシーを呼ぶ羽目になった。
そこで2026年10月17日(土)に再チャレンジ。
今度は、風早山登頂と巡礼街道探索に焦点を絞り、小川町駅前10時29分発のときがわ町営バスに乗り、終点の慈光寺入口に11時到着。
慈光寺観音堂から金嶽(鐘嶽:463㍍独標)に登り、そのまま尾根伝いに冠岩へ。
そこから無事、風早山に登頂したが、肝心の巡礼街道では、2万5千分の1地形図「安戸」の破線路から外れてしまい、極度の急斜面を立ち木にすがってトラバースしたり、危険地域を抜け出し達した尾根が広場のようになり、どこに進むべきか逡巡するなど彷徨を続けた結果、最後は急な岩尾根をころがり落ちるように下降すると、かなりの水量のある沢に出た。
そのまま沢沿いの踏跡を拾いながら沢を何回も徒渉すると、本来の登り口である「ショウジバ」より上流にある赤木の人家の庭に出てしまった。
結局、2回目は巡礼街道の発見に失敗するという苦い思い抱く結果になった。
そして3回目が2026年10月23日(金)。
今回は巡礼街道の踏査に焦点を絞り、赤木のショウジバから登ってみることにしたが、果たして巡礼街道を発見することができたのか?
以下、3回にわたった堂平山・風早山・巡礼街道の記録について、初回(10月11日)、2回目(10月17日)、3回目(10月23日)の順に、重複を避けながら記してみたい。
あわせて、「籠山のタル」、「平ノ沢の峠」(笠山峠)、「風早山」、「金嶽」(鐘嶽)、都幾山などの地名についても考察を加えてみたい。
初回(2026年10月11日)
地図4「冠岩周辺詳細図」

籠山のタル、平ノ沢の峠(笠山峠)
快晴の連休中日の日曜。
こんな絶好のハイキング日和だったので、小川町駅10時17分発白石車庫行きのバスは満員どころか満席にもならず、8人が乗車した程度。
そのうちハイカーは私を含め2人。
終点の白石車庫まで乗ったのは私ひとり。
白石車庫から白石峠に車道を歩き始めると、すぐ左手の人家裏手でご老人が薪割りをしていたので、「『たかがや』という山をご存知ですか」と尋ねてみた。
すると「知ってるよ」という答え。
「たかがや」(高谷山)の名が、今でも白石で使われていることを確認。
その後も出会った方々に話を聞きながら、車道を登っていった。
まもなく左手に馬頭尊を見ると、すぐその先で「籠山のタル」に登る林道が分かれるので、これを進む。
籠山のタル登り口付近の馬頭尊

すぐに山道に入り、大日向沢沿いの山腹の巻き道をたどってゆく。
沢を渡ったあと、傾斜がやや急になる。
右側に移った沢には堰堤が見える。
この頃から石のゴロゴロとした道になり、右下の沢に再度堰堤を見ながら、ジグザグの急坂を登り切ると、いったん林道に出る。
林道を横切り、「笠山峠」への道を示す指導標に従い、山道に入る。
沢の源頭のような石の目立つ急な道をあえぎ登ると、頭上が明るくなり、「籠山のタル」に飛び出す。
籠山のタル

籠山のタルは林道荻殿線、林道栗山線、林道萩平笠山線という3つの林道の終点に当たり、広場になっていて、東側は伐採され、眺望が良い。
左には笹山へ続く尾根の最初の山が大きい(笹山は見えない)。
籠山のタルは、東秩父村の白石とときがわ町大野の七重を結ぶ峠で、堂平山に登る道の横に、林道栗山七重線にくだる道がある。
ところで、籠山のタルから北に山道を登って695㍍独標に登り、すぐに下りると、ここも笠山と堂平山との鞍部であるもう1つの峠に出る。
この峠には、山道を通らずに籠山のタルから林道萩平笠山線を進み、695㍍独標を左から巻いても、到達できる。
この北側の峠には「笠山峠」と書かれた小さな峠名の表示板が設けられている。
平ノ沢の峠(笠山峠)
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要は、笠山と堂平山との鞍部には2つの峠がある。
栗山(小川町側)から悪戸沢(平ノ沢)を登る旧い峠道は北側の峠に登り着く。
これに対し、東秩父村白石からの峠道は、南側の峠(籠山のタル)に登っている。
つまり、小川町側の栗山(腰上)からの峠道、東秩父村白石からの峠道の両者が尾根に到達する位置は695㍍独標をはさんでズレている。
従来、北側の峠(栗山からの旧道が登ってくる峠)を「笠山峠」、南側の東秩父村白石とときがわ町大野の七重を結ぶ峠を「七重峠」あるいは「七重越」などと呼び、2つの峠を区別していた。
現在は、「七重峠」(七重越)の名は消え、2つの峠をあわせて「笠山峠」と呼んでいるようである。
しかし、「笠山峠」「七重峠」(七重越)は、いずれも奥武蔵・比企の開拓期に先人が便宜的に付けた仮称が定着したもので、地元呼称ではない。
南側の峠を、白石では「籠山のタル」と呼んでいる。
「カゴ山」の名は、白石側からタルに突き上げる大日向沢の奥にあったとされる「釈禅寺(釈伝寺)」という寺の山号「加護山」に由来する。
山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、南側の峠を「籠山のタル」としているが、北側の峠については「笠山峠」と従来の通説を部分的に踏襲している。
しかし、北側の峠(栗山から悪戸沢[平ノ沢]をつめた峠)を、栗山では「平ノ沢の峠」と呼んでいた(1987年4月採集)。
広場の端から堂平山への道に入ると、東秩父村側は雑木、小川町側は植林と対照的な樹相で、緩やかな登りが続く。
途中、草の生えた林道を横切ると、いよいよ傾斜が急になるが、すぐに右手に広大な芝生の斜面が広がる。
ここはラジコングライダー、パラグライダー専用エリアで、立ち入り禁止となっている。
ラジコングライダー、パラグライダー専用エリアの芝地

専用エリアに沿って広くなった道を登ると、堂平山山頂にいたる車道に出る。
まもなく堂平観測ドーム前の平地につく。
堂平山観測所ドーム

ここにはキッチンカーが出店しているが、13時30分近いということもあって、既に売り切れで、店じまいをして下山する途中だった。
観測ドーム前の広場からひと登りすると、広い芝地の堂平山山頂。
堂平山(どうだいらさん:875.9㍍)
堂平山は比企・外秩父の山のなかでは、隣の「剣ノ峰」(876㍍独標)に次ぐ高さを誇り、山頂は東秩父村白石、小川町腰越、ときがわ町大野の境である。
山頂の中央には奥武蔵・比企で唯一の1等三角点本点(物見山は補点)の標石(点名「堂平山」)、そして堂平山の山名表示板。
堂平山山頂の1等三角点(本点)標石

堂平山山頂の山名表示柱

山頂には随所にベンチがあり、各方面の山を示す山名表示板もある。
山頂からの展望は、天文観測所の建物が邪魔して、360度とまで行かず、270度。
それでも、天文観測所方面以外は遮るものがなにもないワイドな眺望が楽しめる。
とくに、剣ノ峰から川木沢ノ頭、高谷山(たかがややま)からゾンゲ山、旧定峰峠、大霧山、秩父高原牧場、愛宕山、皇鈴山へとつづく外秩父の連山が手に取るように見える。
なかでもひときわ大きい大霧山は、山麓に朝日根の集落を抱き、圧巻である。
堂平山山頂から大霧山を望む
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遠く両神山の特徴的な山容も見ることができる。
天気が良いせいか、車やバイクで登ってくる方々が次々に山頂に到着。
今朝の小川町駅前バス停のさびしさに比べると、対照的な堂平山山頂のにぎわい。
肝心の堂平観測所ドームは現在、宿泊施設として使われているようだが、宿泊者はいないようで、建物に細かい痛みが見えるのが痛々しかった。
現在、堂平山は、ときがわ町の「堂平山天文台『星と緑の創造センター』」として整備されている。
天文観測所から下りて山頂東側の広場に行くと、まずは受付の建物。
ここで、「ときがわ町ハイキングマップ」をいただくとともに、「乗合タクシー」の存在を教えてもらう。
星と緑の創造センター受付

受付の先には、林業体験施設、テントサイト、モンゴル式テント・バンガローなどがあり、テントやバンガローなどは日帰りの客で一杯だった。
林業体験施設

モンゴル式テント

ところで堂平山の山名については、山頂から少しくだった平地付近(現・大野共有林)に昔、慈光寺の奥の院があったことから、堂平山と呼ばれるようになったという。だが、奥の院は鎌倉時代にはなくなったといわれている(内田康男『ふるさと腰上-その歴史と伝説-』1999年)。
『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書、1980年)でも、「山名は仏寺が存在したことによる」としている。
内田康男氏は、「2006年、堂平山からは平安時代のものとみられる鉄鉢形土器などが発見され、仏教関係遺跡の可能性が高まってきた。付近の七重集落では、堂平山は慈光寺の奥の院があったと伝えていて、この鉄鉢によりその可能性が高まったと言える」(内田康男「リリック学院 懐かしき小川町03-⑤「小川町の山々・巨石・名石-その歴史と伝説-」講座資料、令和4年2月19日作成)と記している。
堂平山は「慈光三山」の一峰である。
慈光三山とは、慈光寺の修験僧が修験の馬としていた三つの山を指す。
それが與地ノ峰(金嶽・鐘嶽)、遠一山(堂平山)、見性山(笠山)の三山である。
ちなみに、與地ノ峰は「よちのみね」、遠一山は「おんいつさん」、見性山は「けんしょうざん」と読む。
仮称・松の木峠
テントサイトの端から林のなかを下る道が「ときがわトレッキングコース」。
ただし、下り口に指導標がなく、少々とまどうところだ。
最初から林のなかの木段をくだる急坂。
すぐに右側が広大な伐採地になり、奥武蔵高原の山々が良く見える。
急坂がおさまり、平坦な道になると、松の幼木が現われ、すぐに大きなテーブル状のベンチが設置されている「松の木峠」につく。
松の大木の根元近くに「松の木峠」と書かれた表示柱が建てられている。
山と高原地図23『奥武蔵・秩父』昭文社(2025年版)には「松の木峠」の名が明記されているが、現地は尾根の突端ともいえる地形であり、峠といえるような地形ではない。
おそらくときがわ町(旧都幾川村当時)がトレッキングコースを整備したとき、堂平山山頂への最後の急登に備えて休む休憩ポイントとして、松の大木にちなみ「松の木峠」と便宜的に命名したのだろう。
その意味を込め、ここでは、あえて「仮称」としておいた。
仮称・松の木峠
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七重のヤマザクラ
松の木峠から南に方向を変え、木段の設けられた急坂を一気にくだる。
振り返ると、堂平山方面がはるか彼方に高く聳え、下りてきた標高差を感じさせる。
まもなく、林道にくだりつき、ホッとする。
ここが「森の広場」である。
森の広場

暗い森林のなかの林道を歩くと、約20分ほどで、林道栗山七重線と突き当たる「七重峠休憩所」につく。
七重峠休憩所付近(林道栗山七重線の説明板)

山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、この地点を「七重峠」としているが、単に林道が通る一地点に過ぎず、とても峠といえる地形ではない。
トレッキングコースの休憩所として、ときがわ町が便宜的に「七重峠休憩所」と称しているに過ぎず、それを「七重峠」と記してしまうのは誤解を招くだろう。
「七重峠休憩所」からは林道を離れ、林道とほぼ並行している山道をくだる。
山道といっても、平坦な歩きやすい道で、すぐに林道栗山七重線に出る。
再び林道に戻り、約15分ほど歩いたところで、ちょうど林道が左に大きくカーブする地点に「七重のヤマザクラ約60m」の指導標が立っている。
ヤマザクラは林道からも見えるが、近づくと木の基部がブルーシートで保護された「七重のヤマザクラ」の古木。
林道脇の斜面から突き出した古木で、ねじれた太い幹に特徴がある。
樹齢は約120年で、幹回りは4.1㍍。
花をつけた時期に再度見たいところだ。
七重のヤマザクラ

七重休憩所
再び林道栗山七重線に戻り、林道をたどると、すぐに七重集落の人家が現われる。
山腹の南斜面に点在する七重(ときがわ町大野)集落の人家の庭は、どこも柿の木が実をたわわに付けている。
しかし、ときがわ町大野では、2026年7月27日、熊と思われる足跡が発見されており、見た目には秋を感じさせてくれる柿の実が、熊を呼び寄せないかと心配になる。
七重の集落から少し登った高みに建つのが、トイレがある木造の高床デッキの「七重休憩所」。
七重の集落を見下ろしながら、一息つくのに絶好の場所である。
七重休憩所
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七重休憩所から山道を登ると、林道赤木七重線に出る。
ここで、林道を横切り、立ち入り禁止のチェーンをまたいで進むのが、冠岩下休憩所をへて霊山院への林道コース。
そして林道赤木七重線を「峠」方面(左)に少し登ったところから右に登る山道が、寛政六年(1794)建立の馬頭観世音をへて冠岩・座禅岩に出る山道コース。
ここで先を急ぐあまり、重大な間違いを犯してしまった。
時刻は既に16時を過ぎ、周囲も薄暗くなってきた。
焦るのも仕方がない。
本来は「山道コース」をたどり、冠岩から「冠岩下休憩所」にくだって、その後「林道コース」をへて戻ってくる予定だった。
しかし、焦るあまり、そのまま「林道コース」に入ってしまった。
ときがわトレッキングコース「林道コース」入口

ときがわトレッキングコース「山道コース」登り口

第一目標の「馬頭観世音」がなかなか見つからないまま、どんどん先に進んでしまう。
慌てて、先に受付でもらった「ときがわハイキングマップ」を見ると、「馬頭観世音」は山道コースにあることが判明。
「林道コース」はいったん山道コースとは大きく離れたあと、「山道コース」に再度接近して、ほぼ並行に延びている。
といっても、急な斜面を「山道コース」に直登する元気もなく、結局そのまま「林道コース」を「冠岩休憩所」までたどった。
冠岩下休憩所

ここで、そのまま霊山院に向かう「林道コース」と分かれ、急坂を登って「山道コース」に出た。
座禅岩と冠岩
林道コースから急坂を登り切り、「山道コース」と合流した地点の右手に、まず「座禅岩」。
大きな石が積み重ねられた約5㍍ほどの高さの岩。
岩の頂上が平らになっていて、たしかに座禅するスペースがある。
説明板によると、慈光七石には入っていないが、霊山院を創建した栄朝禅師が座禅をした場所であるという。
座禅岩(1)
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小川町上古寺とときがわ町西平との境界尾根の西平側に「座禅岩」があるとすると、反対の上古寺側の斜面に慈光七石の一つ「冠岩」が屹立している。
座禅岩(2)
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冠岩
冠もくしは烏帽子に似た形の岩であり、そこから冠岩と呼ばれるようになったことが分かる。
内田康男氏は、次のように記している。
「石質は珪石(チャート)で、高さ4~5㍍の岩である。そして、腰越の赤木集落から慈光寺観音へ通じる『巡礼街道』の脇にあったため、昔からよくその名を知られていたようである。さらに、この付近は小高い場所であるため眺望がきき、景色もよいので、名勝地の一つとして数えられていたことからも、慈光七石の一つとして選ばれた理由も知られよう」(氷川の里 上古寺編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)
冠岩には、以下のような伝説がある。
「かつて慈光寺の修行僧のうちの行徒、すなわち修験の僧たちは、秩父の峰を廻り、富士山頂を跋渉して行を修めた。それらの行徒たちは、回峰を終わって帰山するとき、この冠岩まで来て法螺を吹き鳴らし帰山を告げるのを習わしとした。これを聞いた宗徒たちがこの岩まで出迎えに行き、そこではじめて行徒たちは、冠を解いて帰坊した」(都幾川村教育委員会編「持光寺と伝説」金井塚良一編『慈光寺』人物往来社、1986年所収)
冠岩は風早山の登り口に当たり、尾根伝いに登れば約15分弱で風早山山頂に登頂できる。
だが既に時刻は16時50分。
このまま風早山に登ったら、山頂で真っ暗になってしまうだろう。
そこで登頂は断念。風早山の南を巻く「山道コース」を林道赤木七重線に戻ることにする。
冠岩(1)
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冠岩(2)
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馬頭観世音
途中、風早山から南西に延びる小川町・ときがわ町境界尾根上の484㍍独標から南に延びる小尾根が「山道コース」に接する地点に、青石の馬頭観世音の碑を発見。
よく見ると、馬頭観世音は、大木の幹に突き刺さった形になっている。
おそらく大木の前に立てたのであろうが、長い年月のなかで、碑が次第に倒れ、背後の大木の幹に徐々に食い込み、いまのかたちになったと予想できる。
碑には「寛政六年(1794)五月吉日 山口彌右門」と刻まれており、七重の山口家が建立したものであることが分かる。
参考までに、七重の集落はすべて山口姓である。しかも「峠」を越えた腰上の赤木にも山口姓が多く、ここからも峠を越え、七重と赤木との興隆が盛んであったことが分かる。
赤木の山口家の先祖は、平将門の家臣である山口三郎左衛門と三郎右衛門の兄弟といわれ、将門滅亡後、腰越の大日向の地に隠れ住み、後に天正の頃、赤木の地に移住したという。
寛政六年(1794)五月建立の馬頭観世音

七重と赤木との「峠」
「山道コース」を戻り、再度、林道赤木七重線に下りたときは、17時15分。
もちろん周囲は真っ暗。
ライトをつけ、林道赤木七重線を赤木方面に向かうことにする。
途中、林道は七重と赤木との峠を越える。
峠の地点には「林道赤木七重線終点」の標識があるが、その前に古い木製の表示版が建っている、古くて文字がよく読めないが、かすかに「碑原峠」の文字が何とか読み取れる。
七重と赤木との峠について、「碑原峠」の名を最初に記したのが大石真人氏で、それが『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年版)所収の「外秩父概念図」であった。
その後、大石氏は同署の1960年版所収の「奥武蔵辞典-山名編-」でも、「都幾川村七重から小川町赤木へこえる峠。字にこう書くが、名因は檜原であろう」と記している。
大石氏の述べるように、「碑原」は峠の南西にあるときがわ町西平の小字名である。
だが、碑原は峠には直接接しておらず、七重が西平地区ではなく、大野地区であることからも、碑原峠の名には無理がある。
しかし、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社)は長年、大石氏の説を踏襲し、「碑原峠」の名を記し続けた。
その後、1987年に七重や赤木で聞き取りを行った結果、碑原峠の名を採集できず、この名が地元呼称ではなく、大石氏が便宜的に命名した名であることが判明。
以後、山と高原地図から碑原峠の名は消えている(2025年版でも「碑原峠」の記載はない)。
それでも、ヤマレコでは「碑原峠」の名を採用しており、山行記録でもこの名が使われ続けているのは残念というしかない。
繰り返すが、七重から赤木に越える峠には名はなく、まさしく単なる「峠」である。
峠を越えたのが17時20分。その後、館川ダムまで1時間かかり、赤木の集落についたのは18時12分。
結局、切通しバス停に17時57分到着。最終バス発車の17分後。結局、小川町からタクシーを呼ぶことになった。
(参考タイム)
白石車庫10:58→籠山のタル12:38~13:00(平ノ沢の峠往復を含む)→堂平山13:30~14:10→松の木峠14:22→七重峠休憩所15:05→七重のヤマザクラ15:32~42→七重休憩所15:53→冠岩下休憩所16:39→冠岩16:50~17:00→馬頭観世音17:11→赤木と七重との峠17:20→赤木18:12→切通し18:57
2回目(2026年10月17日)
地図5「慈光寺・金嶽(鐘嶽)周辺詳細図」

2回目は堂平山をカット。
風早山と巡礼街道に焦点を絞った。
コースは慈光寺入口から慈光寺に登り、一番上部にある観音堂裏から山道を登り、都幾山の山頂(463㍍独標=金嶽・鐘嶽)に登頂。
金嶽から西に尾根をたどり、462㍍独標をへて冠岩へ。
冠岩から風早山(539.4㍍3等三角点)に登り、今度は山頂から北東に尾根をくだり、林道赤木慈光寺線に出て、巡礼街道の入口を探し、赤木に下りるというコース。
慈光寺
休日小川町駅10時29分発のときがわ町営バス慈光寺行きに乗車。
私が比企外秩父の山々を集中的に歩いていた40数年前には、慈光寺に行くためには、八高線の明覚駅から本数の少ない西平行きのバスに乗るというのが通例だった。
それにくらべると、小川町駅から乗り換えなしにストレートに慈光寺入口まで行くことができるのだから便利になったものだ。
しかも、料金は300円!
もっともイーグルバスでは使える交通系カードは使えず、現金のみでお釣りはないということで、小銭を用意しなければならない。
だが、絶好の晴天で土曜というのに、バスに乗ったのは私ひとり。
慈光寺は公共交通機関で行く場所ではなく、自動車で行く場所になってしまったというのが実情だろう。
バスは雀川ダム入口(雷電山・行風山などへ行くのに便利)、日影、明覚駅、せせらぎバスセンターなどを経由して11時に終点の慈光寺入口バス停に到着。
慈光寺入口バス停

バス停先から右に登る車道を進むと、すぐ左手に慈光寺の入口のような女人堂。
堂の手前左側に一体の地蔵と三つの石碑がある。
右から二つ目の石碑には文政八年(1825)の記銘がある。
女人堂

さらに車道を登ると、急カーブした先に展望台が設けられている。
展望台

展望台の先で道が左に急カーブするところで、山道に入る。
ここに「参道入口」の石柱がある。
石段を登ると、いったん車道に出るので、そこを横切り、再度山道に入る。
ここにも「参道入口」の碑がある。
緩やかな山道を登ると、再々度車道に出るが、ここは広場になっていて、大小九基の板碑(青石塔婆)が整然と並ぶ板碑群が現われる。
板碑群

ここは慈光寺の山門跡で、板碑は鎌倉・室町期に立てられた中世の貴重な資料となっており、県指定の文化財である。
板碑群を写真に収めたのち、道は車道と山道に分かれる。
山道の入口には「女人道」の石碑がある。
林間の快適な道をたどると、人家が現われ、まもなく車道に出る。
この地点の上に国指定重文の「銅鐘」がある。
銅鐘

関東で一番古い釣り鐘で、寛元三年(1245)に霊山院を創建した栄朝禅師により奉納されたものという。
車道を少しくだると、釈迦堂跡があり、その先に国指定重文の慈光寺開山塔がある。
残念ながら開山塔は覆屋の中に収められており、一般には非公開になっている。
それでも格子戸の隙間からわずかに木造の宝塔が見える。
慈光寺開山の祖である釈道忠の墓所に建てられたもので、室町時代の建立であるという。
もっとも現在の塔は再建塔である。
慈光寺開山塔

再び「銅鐘」まで戻り、車道から離れて山道を登ると、慈光寺本堂(阿弥陀堂)の下に出る。
慈光寺本堂(阿弥陀堂)

本堂が慈光寺観音堂の納経所となっており、先行のご夫婦が立ち去ったあと、ちょうどおられた住職の奥様に声をかけられ、本堂にあがり、説明を受ける。
有料パンフレット(2部)のほか、無料のパンフレットをたくさんいただき、お釣りを賽銭とした。
本堂の前から石畳の坂を登ると、いよいよ慈光寺で一番高い所にある観音堂につく。
観音堂

坂東三十三所観音霊場第九番の札所の「観音堂」であり、本尊は木造千手観音立像(頭部:室町時代、体部:江戸時代)である。
本尊は、普段は拝観できないが、毎年4月第2日曜日にお開帳がある。
観音堂では、そのほか毎年5月3日に「火渡り」の行事があるなど、かつての修験のなごりを残している。
以上、入口である女人堂から板碑群、銅鐘、開山塔、本堂などを経由して一番高い所にある観音堂まで登ってきたが、実際に足で登ることにより、慈光寺の全容が良く分かる。
慈光寺は「都幾山」あるいは「慈光山」と呼ばれる山の山腹に建てられていて、下から女人堂→板碑群→銅鐘・開山塔→本堂→観音堂の順に並び、山全体が一大寺院群となっている。
慈光寺の歴史は、天武天皇の白鳳二年(695)、慈光老翁が観音堂を建立したことに始まる。
その後、役小角がこの山に修験道場を開いた。
さらに奈良時代の元亀元年(770)、唐から渡来した鑑真和上に学んだ釈道忠が故郷の武蔵国に戻り、都幾山の値に堂宇を建立し、慈光寺を創建したという。
平安時代になるといっそう発展し、清和天皇(850~880)から「天台別院一乗法華院」の勅額を与えられた。
鎌倉時代が慈光寺の最盛期で、なかでも源頼朝から深い信頼を得て、頼朝から仏像と田畑千二百町歩の寄進を受け、幕府祈願寺として栄え、この頃、一山七十五坊を要する大寺院となった。
ところが、源氏の滅亡とともに慈光寺の勢力は衰退し、なかでも戦国時代の天文十五年から十九年(1546~1550)に行われた後北条氏の重臣である松山城主・上田氏による慈光寺攻めにより、致命的な打撃を受けた。
しかし、後北条氏が滅亡し、その遺領に入った徳川家康により寺領百石の朱印状を受けたことを契機に復活に向け動いてゆくことになる。
たしかに、今の慈光寺には「一山七十五坊」を誇った全盛期の面影はないが、それでも歩いて登ることにより、かつての偉容を偲ぶことができる。
都幾山山頂(463㍍:金嶽・鐘嶽)
観音堂の裏手から登る道が慈光寺のある山である都幾山の山頂への道である。
植林のなかの気持ちの良い緩い登りを続け、やや急になったところを一登りで、林に覆われた都幾山山頂(463㍍独標)につく。観音堂から約13分の登りである。
東西に細長い山頂は林のなかで展望は得られないが、雑木が混じっているので明るい雰囲気の好ましい山頂だ。
立ち木には「都幾山」と書かれた私設山名表示板が取り付けられている。
金嶽(鐘嶽)=都幾山山頂
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金嶽(鐘嶽)山頂(463㍍独標)には「都幾山」と書かれた私設山名表示板が設置されている
山頂には「都幾山」の私設山名表示板が-1024x768.jpg)
実は、ここは都幾山の山頂であるとともに、金嶽(糧嶽)とも呼ばれるのである。
『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条では、「慈光寺 慈光山の上にあり。麓より登ること九町余なり。当寺を都幾山一乗法華院と号す」と記している。
ここから「都幾山」(ときさん)は慈光寺の寺号であることがわかる(都幾山慈光寺)。
同じ『風土記稿』の平村の条によると、「慈光山 往古より観音安置の山なれば、慈光の名を得たりしならん。山上よりの眺望殊によくて、東には筑波山を望み、東南は江戸を打越て。安房・上総の山々を見渡し、西は秩父ヶ岳及び浅間山連り、近くは郡内笠山・雲瓦の山々手にも取るべきさまにて、勝景いうばかりなし」と記す。
『武蔵国郡村誌』比企郡平村の条は、「都幾山 一名、遠一山或いは慈光山と云、高百二十丈、村の北方にあり(以下略)」と記す。
さらに「鐘ヶ丘(かねがおか) 村の北方都幾山の絶頂、一名与地ノ峰、又鐘嶽とも云」と記す。
『武蔵通志』は、「慈光山 又都幾山遠一山と称す。高一千二十尺。平村西平の北にあり、北は大河原村上古寺に跨る。頂上少平の地を與地峯と云。其の南やや降り観音堂あり、又西に霊山院、東南に慈光寺及釈迦堂あり(以下略)」と記す。
以上の古い地誌における記述を、今までの都幾山山頂までの経路と合わせると、次のようなことが分かる。
都幾山(ときさん)は慈光山ともいい、慈光寺の山号であるとともに、慈光寺のある山の総称である。
さらに観音堂の上にある都幾山の頂上(最高点:463㍍独標)は別名、與地ノ峰という。
與地ノ峰は慈光三山の一つで、鐘嶽(金嶽)のことである。
つまり、都幾山(慈光山)の山頂=金嶽(鐘嶽)であり、慈光寺観音堂の上にある463㍍独標こそ「金嶽」(鐘嶽)である。
ときがわ町大字西平の小字を確認すると、慈光寺本堂~観音堂のある付近の小字が「都幾山」、霊山院付近が「鐘嶽」、さらに冠岩付近が「冠」である。
小川町上古寺の小字名を見ると、463㍍独標付近北側一帯を「金嶽」と称している。
このように、ときがわ町西平、小川町上古寺両者の小字名からも、都幾山山頂の463㍍独標を「金嶽」ないし「鐘嶽」と呼ぶことは妥当であろう。
ただ面白いのは、ときがわ町西平側では「鐘嶽」と表記し、「かねだけ」と呼ぶのに対し、小川町上古寺側では「金嶽」と表記し、「かなたけ」と呼んでいることである。
さらに金嶽(鐘嶽)には沈鐘伝説が伝えられている。
昔、金嶽(鐘嶽)の頂上には慈光寺の鐘楼があり、鐘が釣ってあったという。
ところが、あるとき、この鐘が落ちて北側の上古寺側の谷に埋まってしまったという。
この埋まった谷を源流とするのが上古寺の集落を流れる金嶽川である。
また、落ちた鐘は源頼朝が寄進したもののようであったという。
このような伝説は各地に伝えられており、「沈鐘伝説」一つとされる。
以上、金嶽(鐘嶽)=與地ヶ峰であり、都幾山の頂上(463㍍独標)であるという点については、疑う余地はないのだが、なぜか山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、慈光寺観音堂裏のときがわ町・小川町境界尾根をさらに西に進んだ539.4㍍3等三角点峰を「金嶽」(かなたけ)としている。
ヤマレコの山名紹介ページでも、これを踏襲し、463㍍独標を都幾山、539.4㍍三角点峰を金嶽としている。
現地の私設山名表示版を見ても、463㍍独標の山頂には「都幾山」、539.4㍍三角点峰の山頂には「金嶽」の表示版がつけられている。
後述するように、539.4㍍三角点峰の名称は「風早山」である。
つまり、539.4㍍三角点峰に「風早山」、463㍍独標に「金嶽(糧嶽)」の山名表示板を設置すべきなのである。
では、なぜ上記のような誤りが生まれたのだろうか。
2万5千分の1地形図「安戸」が463㍍独標に対し、大きく「都幾山」と記載している点については、たしかに「都幾山」の山頂であるがゆえに、まだ許容できる。
だが、大石真人氏が『マウンテン・ガイドブック・シリーズ8 奥武蔵』(朋文堂、1954年)所収の「外秩父概念図」で、539.4㍍峰に「金嶽」、463㍍独標と思われるピークに「都幾山」と記載したのが混乱の始まりであった。
山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)も、70年以上前もの大石氏の誤りをいまだに踏襲している。
さらに、地名に詳しい藤本一美氏も、自著『比企(外秩父)の山々』(私書版、2018年)で同様の誤りを犯しているのは残念である。
観音堂上の463㍍独標は、北側である上古寺の小門(こかど)の谷からもよく見える。
内田康男氏は、次のように述べている。
「小門集落からさらに谷を奥に深く入ると左側に高い山が見えてくる。鐘嶽という名で高さ462㍍。頂上は都幾川村との境になっている。この山は、鐘嶽(鐘岳)とも書き慈光寺の記録及び寺伝によると、與地の峰あるいは鐘ヶ岡とも呼ばれ、慈光三山の一つとして古来から霊地であったと帰されている。そしてこの山の古寺側の沢を、金嶽沢とか釣鐘沢と呼んでいる」(氷川の里 上古寺編集委員会編『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)
引用文に462㍍とあるのは463㍍の誤りであろうが、小門集落の奥に尖った山容をみせる金嶽は、上古寺の人々にとっても神聖視された山であったのである。
風早山(かざはややま)
金嶽(鐘嶽)から北に向かう尾根(慈光寺裏参道=奈良坂方面に向かう尾根)は急坂をくだるが、西に462㍍独標に向かう尾根は緩やかなくだりである。
平坦な尾根を緩やかに登り返した尾根上の一地点が462㍍独標だが、ここには「育代山」と書かれた私設山名表示版が立ち木に付けられている。
462㍍独標山頂付近

462㍍独標山頂の立ち木には、「育代山」なる勝手な命名の私設山名表示板が取り付けられている

これも、最近、比企・外秩父の山に目立つ単なる自己顕示ないし承認欲求でしかない勝手な名前をつけた山名表示板である。
そんな誤った山名である「育代山」がヤマレコ、YAMAPなどの山行記録を通し、定着してしまうことを危惧する。
462㍍独標からくだり、鞍部から登り返した地点が座禅岩と冠岩である。
先週はこの地点で風早山登頂を諦め、同山南面を巻く「山道コース」をたどった。
今回はいよいよ風早山へのチャレンジだ。
冠岩から見ると、見上げるような高さなので、手強い登りと思いがちだが、冠岩からの登りは意外にも緩やかであり、一部平坦な部分もある。
それでも最後はきつい登りとなり、それに耐えると、山頂につく。
冠岩から約13分である。
金嶽(鐘嶽)と似たような雰囲気の林に覆われた展望のない地味な山頂だが、東西に長い小広い山頂を木々には雑木が混じっていないので、金嶽よりも暗い雰囲気である。
山頂には3等三角点の標石(点名「平萱」)があり、ときがわ町西平、小川町上古寺、小川町腰越との境になっている。
新旧二つの「金岳」と書かれた私設山名表示板が立ち木の根元に置かれている。
三角点先の立ち木にも、「金嶽539.4m」と記した白い私設の山名表示板が取り付けられている。
風早山山頂
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風早山山頂には「金嶽539.4m」の書かれた私設山名表示板が(1)
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風早山山頂には「金嶽539.4m」と書かれた私設山名表示板が(2)
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先にみたように、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)にも「金嶽」と記載。ヤマレコの山名紹介欄にも「金嶽」とされていることから、おそらくこの山に登るハイカーの100%は、山の名が「金嶽」であると疑わないだろうが、これは誤称である。
539.4㍍峰付近の西平側の小字名は「風早」であり、風早山の名は『新編武蔵風土記稿』比企郡平村の条にも、「風早山 西北なり」と記載されている。
これらの資料を根拠に539.4㍍三角点峰の名称は「風早山」ではないかと問題提起したのが、奥武蔵研究会会員の町田尚夫氏であった。
町田氏は「都幾山・金嶽・鐘嶽は、霊山院後ろの同一の山とみて差し支えないと思われる」とし、続いて「(平萱三角点は)私見として仮に『風早山』としても無理がないように思われる」と慎重に述べておられる(町田尚夫『奥武蔵を楽しむ』さきたま出版会、2004年)。
しかし、その後、小川町の公文書でも風早山の名は使われている。
例えば、「古寺鍾乳洞調査報告書」(2023年)に、「標高539.4㍍3等三角点のある山(平萱、風早山と呼ばれる)」と明記されているからである。
ちなみに、小川町腰上側の赤木では、三角点の点名である平萱(小字名)をとり、「平萱の三角点」と呼ばれている。
巡礼街道
風早山から北北東方面に尾根をくだる。
最初は傾斜が緩いが、次第に急な岩尾根になり、滑りやすい。
とくに林道赤木慈光線に飛び出す手前は一段と急になっているので、右から巻く踏跡が付けられている。
林道をはさんで北に風早山に向かい合う510㍍圏ピークとの鞍部に出たところからが、巡礼街道を探す作業のスタートである。
小川町腰上(腰越)赤木の「巡礼街道」とは、赤木から霊山院・慈光寺に登る古くからの道である。
内田康男氏の説明を引用しておこう。
「ショウジバ 鷹尾秀一家付近をショウジバといいますが、ここは、慈光寺霊山院への登山口で、精進場(しょうじんば)があったことから、そう呼ばれています。おそらく、川の水で心身を清める場所が有ったものと思われます。
ショウジンバから少し上の登山口の道端に、元禄十四年建立の石塔があり、その上が七曲りという坂です。さらに登ると途中で道が分岐しますが、そこに『左平山王越生 右大の高山』と刻まれた道標が建てられています。左に行くと急坂の『立つ道』を経て、冠岩の脇を通り、霊山院・慈光寺に至ります。右へ行くと大野の七重を経て、高山不動や子の権現へ至る道です。
立つ道を越える道は、昭和五十年頃まで、この地域と霊山院を結ぶ道として利用されていました。霊山院住職も、越上の檀徒の仏事や年始回り、米麦の勧進の時などに利用しました。七重に至る道は、昭和二十三年頃まで、七重の人々が切り通しまで徒歩で歩き、そこからバスに乗ったそうです。
赤木では、八月十六日に行われる菩提寺霊山院の施餓鬼のため、その一か月前の七月十五日に集落総出で両方の道の草刈りを行ったといいます」(内田康男『ふるさと腰上-その歴史と伝説-』(1999年)。
私も1987年3月から4月にかけて2回、赤木のショウジバから冠岩まで歩いたが、当時、踏跡は明瞭だった。
そこで2万5千分の1地形図「安戸」と小川町役場発行1万分の1小川町全図を見ると、たしかにショウジバから南に風早山方面に向かう破線路が発見できる。
道は赤木のショウジバから小尾根を急登し、平坦になったところで、今度は325㍍独標のある広い尾根の西側山腹を巻くように進み、やがて林道赤木慈光寺線の北側山腹をトラバースし、小尾根に出て、風早山と林道北の510㍍圏ピークとの鞍部(林道)よりもかなり西に寄った地点で林道に飛び出す。
以前の記憶では 325㍍独標を巻いたあと、林道と並行してトラバースする現在の破線路ではなく、325㍍独標を巻いたあとは左から登ってくるカラ沢に沿って急登を続け、風早山北の鞍部(林道)に出るのが、巡礼街道の正しいコースであると思っていた。
そのため、当初は風早山北鞍部から沢の源頭をへて小尾根をくだり、再度カラ沢の上部に出、そこから山腹を左から巻きながらくだり、325㍍独標を巻いた先で尾根に合流する道を探す予定だった。
しかし、2万5千分の1地形図「安戸」および小川町役場発行の1万分の1地図を信頼。
風早山北鞍部から林道をしばらく左(西)に歩き、2つめの小尾根に出たところから、小尾根をくだり、その後林道の北に沿ってトラバースする破線路をたどることにした。
風早山を14時25分に出発。
林道赤木慈光線に14時37分降り立った(風早山北幹部=林道)。
林道を左(西)に進み、2つめの小尾根にぶつかるあたりで、小尾根に行く仕事道の入口がトラロープでふさがれている。
ロープをまたぎ、小尾根に沿って下降する仕事道を少し下りたあと、すぐに右から合流する山腹をトラバースする道に入った。
3回目の踏査で実は「巡礼街道」を完登したが、その時点で振り返ると、右に入らずに小尾根に沿って下降する道をもっとくだるべきだった。
そうすれば道はやがて尾根を離れ、林道の北側をトラバースする破線路となり、やがて510㍍圏ピークから派生する小尾根の左側(西側)山腹をトラバースする巡礼街道に導かれたのである。
要するに、トラロープの地点からすぐくだったところで、林道を離れて少しくだったところで、すぐに山腹をトラバースする道を発見。これが破線路であると勘違いしたのが失敗の原因だった。
トラバースする道は、すぐに左にくだっていくが、ここでそのまま山腹をトラバースする微かな踏跡を発見。
この時点では、この踏跡を破線路のトラバース道であると勘違いしているのだから、私の読図能力も落ちたものだ。
すぐに山腹の傾斜は徐々に急になり、シダの生い茂る踏跡は次第に薄くなる。
以後、急斜面を立ち木にすがりながらトラバースを続ける。
やがて踏跡は完全に消え、大岩を上から巻く辺りからは傾斜がにわかに急になり、立ち木が途切れるところでは、うっかりするとズルッと滑り落ちてしまう。
何とか眼前に見える小尾根が見えてくると、山腹に踏跡が現われ、これを進むと、小尾根に出たところが広場のような広い尾根。
ここが325㍍独標付近であると推測(これも誤り)。
どこが尾根道かどうかわからないまま逡巡した結果、ようやく尾根伝いに下りる七曲りの急坂に乗ったように思えたが、尾根は岩の出た急傾斜になり、立ち木につかまらないと危なくてくだれない。
下から沢音が聞こえてくるのも意外。
尾根の傾斜はさらに増し、ヤセた岩尾根を転がり落ちるようにくだったところ、水量の多い沢にぶつかった。
沢沿いに途絶えがちな踏跡を拾いながら徒渉を繰り返すと、ようやく人家の庭に出た。
そこから少しくだると、赤木の林道。
何とか赤木にくだることができたが、途中の山道も、最後の沢も、いずれも記憶にある巡礼街道とは全く違う。
果たして赤木のどのあたりに下りたのだろうか。
あの沢はどこなのだろうか。
自分の読図能力の低下をなげきつつ、再度「巡礼街道」にチャレンジ。
今度は赤木の「ショウジバ」から登るルートを採用した。
風早山から巡礼街道を赤木に下りることに決めた。
(参考タイム)
慈光寺入口10:58~11:08→板碑群11:46~52→慈光寺開山塔12:18→慈光寺本堂(阿弥陀堂)12:25~55→観音堂13:02~12→都幾山山頂(金嶽・鐘嶽)13:25~35→462㍍独標13:42→冠岩13:49~56→風早山14:09~25→林道赤木慈光線に出る14:37→破線路入口14:47→広場のような広い山稜に出る15:33→沢に下降16:10→赤木16:39→(聞き取りのため栗山を往復)→切通し18:55
3回目(2026年10月23日)
地図6「巡礼街道周辺詳細図」

切通しから赤木のショウジバまで
3回目は10月24日(土)ないし25日(日)を予定していたが、台風接近のため、最後の晴天との予報の10月23日(金)に変更。
平日のため、小川町10時17分発白石車庫行きのバスはなく、10時52分発の和紙センター行きのバスに乗車。
かなり遅い出発だが、目標を「赤木の巡礼街道踏査」のみに絞っているので、これでも十分時間がある。
切通しバス停に11時8分到着。
館川に沿った車道を腰中から腰上の小貝戸、館をへて、赤木に向かう。
先週、先々週と真っ暗ななか、切通しバス停まで急いだ道で、ただただ長いという印象しかもたない車道だったが、昼間に歩くと、周囲の景観や路傍の馬頭尊や庚申等などの石碑、神社や寺なども目に入り、写真を撮っているうちにいつの間に腰上の館(たて)集落。
住吉神社を過ぎると、すぐ右が赤谷林道の起点。
ここが、笠山の登山口の一丁目に当たり、赤木を通らずに赤谷沢から長坂と呼ばれる坂を登り、栗山にいたる道が、もともとの笠山への参道だった。
それを示すように、林道赤谷線起点の標識の下に、文政八年(1825)に建てられた小さな石の道標があり、そこには「左笠山 従是(これより)四拾弐丁」と刻まれている。
車道をさらに進むと、赤木の集落に入り、すぐ右手にある「二十二夜塔」が目に入る。
説明板にも書かれているとおり、小川町増尾(ましお)の磯田健齊(けんさい)の筆により刻まれた「二十二夜塔」の力強い文字が印象的だ。
天保三年(1832)七月に建てられたもので、二十二夜講中のほとんどは女性にだけの女人講だった。
二十二日の夜に講の女性たちが集まり、月の出るのを待つ行事を行ったという。
二十二夜塔

二十二夜塔を過ぎると、すぐに林道栗山線の起点。
右に栗山集落への林道が分かれるが、本道の左側(槻川沿い)に三基の馬頭尊が並んでいる。
文字が痛んで読みづらいが、一番左のものは明治十五年(1882)八月吉日建立、中央のものがもっとも古く天明三年(1783)建立、右のものが明治五年(1872)六月吉日建立など、歴史を刻んできたものばかりである。
林道栗山線合流点付近にある三基の馬頭尊

栗山への道を見送ると、赤木集落の中心となり、いよいよ「ショウジバ」が近くなる。
館川が道の右手に移り、橋をかけて仕事道が右に分かれる先で、左手の人家の間に沢が流れ、それに沿って踏跡がある。
これが上古寺の小門に向かう古い峠道である。
その先にある鷹尾家の付近が「ショウジバ」である。
ついに「巡礼街道」を発見!
「鷹尾家」の入口から坂をくだって庭に入る手前に広場がある。
庭と広場の境付近から奥の山林に登る道を発見。
ショウジバから奥の山林に登ろうとするが、スズタケのヤブに阻まれる

この道を登ってみるが、林に入る前に猛烈なスズタケのヤブがあり、それに行く手を阻まれる。
やむなく突破を諦め、広場に戻って奥の山林側を見ると、ヤブの手前に小さな自然石の碑があるのを見つけた。
これが内田康男氏のいう「元禄十四年(1701)年建立の石塔」に違いないと判断。
巡礼街道登り口の元禄十四年(1701)建立の石塔

石塔の周辺はヤブだが、何と石塔の裏に回ってみると、スズタケと林との間に明瞭な道が左に登っているではないか。
ここが巡礼街道の入口だったのである。
四十年前にショウジバから登ったときは、最初、桑畑のなかの斜面を登ったのだが、周囲の環境が一変してしまったため、偶然見つけた石塔がなければ、巡礼街道を発見できなかっただろう。
巡礼街道を登り始めると、いきなりジグザグの急坂。
これが「七曲り」の急坂である。
七曲りの急坂

道は掘り割り状ながら明瞭に踏まれており、むしろ四十年前よりも道幅が広がっているようで、ハイキングコースといっても通用するような道だ。
ただし、指導標や赤テープの類いは皆無である。
七曲りの急坂をほぼ登り終えるあたりは、大岩の下を巻くなど、周囲に岩が目立つようになる。
やがて尾根上から離れ、尾根の右側(西側)を巻く平坦な道になり、いったんヤセ尾根に出る。
その先は再度登りになるが、道は巧みに正面の尾根の直登を回避し、右側(西側)の山腹を巻くようになっている。
山腹の巻き道が多い

右下が沢になり、登りになると、左側が幅広い広場のような尾根に変わる。
ここが地形図上の325㍍独標左手付近の破線路である。
地形図の破線路のとおり、道は幅広の尾根の左側(西側)を巻きながら緩やかに高度を上げてゆく。
霊山院に参詣する信徒に配慮した巡礼のための道であることを痛感させる巧みな参拝路である。
進行方向右が植林、左が雑木の広い尾根を巻き気味に登って行くと、まもなくジグザグの登りになり、カラ沢を渡る。
その後、いったん急登になるが、すぐに山腹を巻くトラバース路が続く。
良く踏まれた道

相変わらず窪地のような道は、この付近が水で湿っていて、歩きにくいので、右手の山林に逃げて、再度道に戻る。
比較的長いトラバースの末、登りがややきつくなり、小尾根に出る。
ここが地形図上で、風早山北の鞍部から左に二つ目の小尾根であり、そこに破線路が記されている。
小尾根を登ると、左に先週間違って下りてしまった道が分かれ、その後、林道赤木慈光線に飛び出す。
小尾根への立ち入りを禁止するトラロープも先週のままだった。
林道赤木慈光線に飛び出す(林道から巡礼街道への入口)

そこから林道を左にたどり、約10分で、風早山北側の鞍部である風早山北側の登山口につく。
ここで気がついたのだが、もともと巡礼街道は七曲りの急坂を登り切ったあと、原則尾根の西側山腹を巻く比較的平坦な道が続き、カラ沢沿いになった付近からやや登りに転じる。
そして以後は、風早山北鞍部に直登する急坂(「立つ道」)になるはずだった。
ところが、現在は「立つ道」は消え、「立つ道」と今回通った林道北側のトラバース道との分岐にあったはずの古い道しるべも消えていた。
要は、巡礼街道はその上部において、かつてのルート(立つ道)が消え、七重方面へのトラバース道のみが「巡礼街道として」残ったのである。
実際、地形図(平成28年2月調製の2万5千分の1地形図「安戸」)でも、「立つ道」の破線路はなく、林道北側のトラバース道(七重方面への道)が破線路として記載されている。
巡礼街道は最後の急登である「立つ道」ではなく、七重方面に行く道をとるようになり(現行の地形図では、このルートを破線路として記載)、その結果、風早山北側の鞍部に出るのではなく、林道を西側(七重方向)に進んだ地点に到達しているのである。
つまり、巡礼街道の道自体は良くなったが、最上部のルートが地形図にあるとおりに変更されている。
これに対し、山と高原地図23『奥武蔵・秩父』(昭文社、2025年版)では、巡礼街道は「立つ道」をとおり、風早山(地図上の表記は金嶽)北の鞍部に突き上げるように記載されている。
藤本一美氏の『比企(外秩父)の山々』(私書版、2018年)でも、同様に「立つ道」をとおるように記載されている。
もちろん、現在は「立つ道」をとおらない(というよりも「立つ道」が消えている)ので、地形図の破線路の方が正しいのだが、このコース変更は一体は何が理由なのだろうか。
この変更は、良くて草深い踏跡程度だと思っていた巡礼街道が見違えるように良い道になっていたことと無関係ではないように思われる。
巡礼街道の周辺を含む風早山北面では、長年にわたり伐採が行われており、現在も大規模な伐採作業中である。
伐採用の仕事道としては、「立つ道」のような急坂は敬遠され、現在のトラバース道のような平坦な道が好まれる。
つまり、巡礼街道はハイキングコース並みの良い道に変身したが、それは伐採作業用の仕事道として復活したのであって、その結果、上部のルートが現行の破線路のように「立つ道」からトラバース道へ変更されたのではなかろうか。
ともあれ、前回の読図ミスによる失敗はあったものの、四十年ぶりに懐かしの巡礼街道を完登できた喜びは大きく、14時過ぎの風早山山頂で、ひとり感慨に浸っていた。
ショウジバから登り始めたのが12時38分。
風早山到着が14時10分だから、約1時間30分弱で赤木から風早山へ登頂できたことになる。
指導標のたぐいは全くないが、切通し橋から赤木までの約1時間の車道歩きを加算しても、巡礼街道は小川町腰越側から霊山院・慈光寺方面への登山道として十分使えることが証明できた。
風早山から霊山院をへて慈光寺入口バス停へ
風早山からは未踏の南南西への尾根をくだった。
小川町とときがわ町の境界尾根だけに、境界木のように檜が整然と並ぶ緩やかな尾根をくだり、大岩を二つ巻く付近から傾斜が増してくる。
鞍部に出ると、すぐ左下に「ときがわトレッキングコース」の「山道コース」が見えたので、そちらにくだることする。
トレッキングコースから七重方面に進み、境界尾根から派生する小尾根に突き当たったところ(484㍍独標の下)で、寛政六年(1794)五月建立の馬頭観世音と再会。
さらに木段のくだりをへて、林道赤木七重線に下り着いた。
いったん七重と赤木との峠を確認したあと(峠から境界尾根に登り、七重峠休憩所に出る尾根道にも踏跡がありそうだ)、今度は林道コースから冠岩下休憩所をへて霊山院へ。
拈華(ねんげ)山霊山院は関東最古の禅寺で寺院で、臨済宗の開祖・栄西の高弟である栄朝禅師が建久八年(1197)、慈光寺の禅寺として創建した。慈光寺の僧の禅道場であったという。
都幾山山頂近くという山の上にある寺は、夕方のためか参拝客もなく、静まりかえっていた。
庭がきれいに整備されており、秋の花々が咲き誇っている。
山門前の紅葉が有名だが、10月23日では紅葉には少し早かったようだ。
ちなみに、霊山院の「十月のことば」は「そのままの すがた ゆかしき 野菊かな」
霊山院から車道をくだり、慈光寺の駐車場をへて、鐘楼の下から山道に入り、板碑群のある平地に出、再度、車道を慈光寺入口バス停に向かった。
霊山院(1)
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霊山院(2)
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霊山院「十月のことば」

霊山院の庭

慈光寺入口バス停に17時40分到着。
乗り合いタクシーを呼ぶまでもなく、38分の待ち時間で、ときがわ町営バス小川町駅行きが到着した。
乗客は終始私ひとりで、300円の運賃では申し訳ない気持ちで一杯だった。
(参考タイム)
切通し11:08→ショウジバ12:20~38→七曲り上12:52→325㍍独標付近の巻き道13:09→小尾根に出る13:35~45(前回間違った付近探索を含む)→林道赤木慈光線に出る13:49→風早山と510㍍圏ピークとの鞍部(林道)13:58→風早山14:10~30→林道赤火七重線14:57→冠岩下休憩所15:40~16:15→霊山院16:30~40→慈光寺駐車場16:57→慈光寺入口バス停17:40~18:18

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