はじめに
地図1「皇鈴山・登谷山とその周辺」

二本木峠から北上して愛宕山(654.8㍍3等三角点:点名「二本木」)、皇鈴山(679㍍独標)、茱萸ノ木峠(グミの木峠)、登谷山(668㍍独標)、三角点山(657.6㍍2等三角点:点名「雨乞山」)、釜伏峠へと続く山稜。
秩父郡皆野町と東秩父村との境界をなす長大な尾根だが、稜線とほぼ並行して県道361号三沢坂本線が通り、コースのハイライトである皇鈴山にいたっては、山頂まで車で登ることができる。
そのため、二本木峠周辺がツツジで彩られる5月5日の山開き前後の時期にはハイカーが押し寄せるが、年間をとおしてみると、訪れるハイカー数は以前よりも少なくなり、圧倒的にマイカーやバイクで手軽に登る山となってしまった。
私も1980年代前半に訪れて以降、車やバイクの疾走するこの山域を再訪する気分にならず、40年以上も放置していた。
そのため、本ブログの「比企・外秩父徹底研究第11回:二本木峠・皇鈴山・登谷山」の内容が、きわめて薄いにものになったのも仕方なかった。
ところが、調べていくと、この山域にはいくつもの興味深い知られざる名所があることが分かった。
挙げていくと、七滝七不動(七滝不動、七滝祓戸大神)、宿の平、金場の平、トンビ岩、長者屋敷、水晶岩など続々と出てくる。
幸い、二本木峠・皇鈴山・登谷山の東側の山腹斜面には、いずれも東秩父村に属する大内沢の上ノ貝戸(うえのかいと)、坂本の和地場(わちば)、上ノ山(上野山:うえのやま)、柴(しば)などの山上集落が点在する。
これらの集落を訪れ、地元の方に前記の名所について聞き取りを行い、地形図に記すとともに、可能であれば実際に踏査してみたい。
そんな計画を抱えていたが、9月に入ると連日の雨に加え、台風25号による大雨までもが関東を襲い、甚大な被害を与えることになった。
この悪天候の間隙をぬって、9月18日(金)、23日(水・祝)、24日(木)の3回にわたり二本木峠・皇鈴山・登谷山付近を集中的に訪れた。もちろん、交通手段はすべて公共交通(電車とバス)。あとは徒歩である。
9月18日は打出(内手)バス停から二本木峠への道を登り、途中、打出(内手)、上ノ山双方の集落で、七滝七不動(七滝不動)の信仰について聞き取りを実施。
幸い複数のご老人が丁寧にご説明してくださった。
ところが不覚にも、ハイキングコースのすぐ脇にある七滝七不動を見落とすという大変な失態をおかした。
おまけに二本木峠の山ノ神と愛宕山の愛宕神社の石碑をこれも見落とすという信じられないような失態の連続。
どうやら七滝七不動(七滝不動)を見落としたショックが尾を引いていたうえ、8月4日以来、1ヶ月半ぶりの山行だっただけに足が重く、想像以上に疲労を感じていたためかもしれない。
結局9月18日は愛宕山から尾根を北上。
皇鈴山、茱萸ノ木峠(グミの木峠)まで行き、そこから上ノ貝戸にくだり、金場の平やトンビ岩、長者屋敷跡、水晶岩などについて聞き取りをする予定が、茱萸ノ木峠到着が既に16時を大幅に過ぎ。
結局、上ノ貝戸での聞き取りは無理と判断。
そのまま尾根をさらに北上。登谷山まで行ったのは良いが、その後、三角点山まで欲張ったものの、山頂直下にある現在外壁塗装工事中のNTTドコモの無線中継所の横で道が消え、激しいヤブに突入。
やむなく三角点山はあきらめ、手前の鞍部から車道に出、両側の斜面がソーラーパネルで埋め尽くされるという異様な光景のなか、釜伏峠に着いたところで日没。真っ暗になった。
その後は、真っ暗ななか、ライトを頼りに中間平経由寄居駅までの約2時間近い長い長い車道歩きを強いられ足や膝、腰がガタガタに。
リベンジに燃えた9月23日は、天気予報(曇りのち雨)に反し、終日雨。
今年3月に40年ぶりに山行を再開して以来、初めての雨の山行となった。
雨のため、外に出ている方は皆無。
そのため、聞き取りは諦めた。
今度は上ノ山集落に寄らず、上ノ山沢に沿ったハイキングコースを忠実にトレース。
そして、ハイキングコース脇に七滝七不動入口の看板を発見。
そこから沢近くにおりる道をくだり、七滝七不動(七滝不動)の社殿と大藤、そして大岩を二つに割って流れ落ちる不動滝を十分堪能した。
二本木峠でも山ノ神の祠を確認。
愛宕山の愛宕神社の撮影にも成功。
その後は、二本木峠から粥新田峠に向け少し進んだところから、柴の集落をへて坂本にくだる林道二本木線を下降。
途中、雨がやんだら柴の集落で「宿の平」について情報を収集しようと期待したが、残念ながら雨はやまず、静寂に包まれた柴の集落をむなしく過ぎ、新田(あらた)の集落をへて坂本バス停に到着。
そして翌24日の調査。
今度は寄居駅12時40分発(平日のみ)という遅い時間の(というか適当なバスはこの時間しか無い)イーグルバス「和紙の里」行きに乗り、大内沢の大宝バス停で降り、林道を登った上ノ貝戸集落で、金場の平、トンビ岩、長者屋敷、水晶岩についての聞き取りを行うことにした。
ところが、終日雨で肌寒かった昨日とは打って変わって、24日は天気が良く、しかも30度近い暑さ。
13時という時間帯もあり、この暑さでは午前中農作業等をしたご老人たちは昼食をとったあと家の中で休んでおられるようで、上ノ貝戸集落は静まりかえっていた。
今回も空振りかと気落ちしつつ、3月下旬になると花桃の花が一斉に咲く、「花桃の郷」を眼下に見る展望台(大内山:325㍍独標)の上でのんびり昼食をとったのち、林道を少し登ったところに「眞下工務店」があった。
花桃の郷展望台(大内山:325㍍独標)
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花桃の郷展望台から登谷山と上ノ貝戸の集落を眺める

花桃の郷展望台から茱萸ノ木峠方面を眺める

ちょうど、ご主人の眞下均(ましもひとし)さん(75)が一仕事終え、休んでいる最中だった。
これ幸いと、声をかけ、「茱萸ノ峠の近くに金場の平という場所はありますか」と聞くと、早速「『かなばのでいら』は皇鈴山のすぐ近くだよ」という意外な答え。
眞下さんは工務店を経営するかたわら東秩父村の教育委員を務めるなど地域の名士で、しかも大内沢の隅々まで歩き、地図読みもできる方だった。
眞下さんが温かく対応してくださったので、横に座り一緒に2万5千分の1地形図の拡大コピーをみながら、金場の平、トンビ岩、長者屋敷、水晶岩など次々にその所在地を地形図に記入していった。
今回の眞下さん、そして前回(安戸)の大久根さんなど、地元で地名や山名に詳しい方と出会い、こちらの質問に次々に答えていただける幸運に遭遇するためには、やはり現地に足を運ぶしかない。
話の最中にもひっきりなしに仕事関係の電話がかかり、ご多忙な眞下さんに1時間以上にわたり聞き取りをしたのち、お礼を言ってその場を辞した。
既に時刻は15時を過ぎていたが、せっかくなので皇鈴山山頂のすぐ近くにあるという金場の平だけでも実際にこの目で確かめてみたいとの欲求にかられた。
そして、林道・上ノ貝戸線を登りつめ、茱萸ノ木峠へいく道と分かれ、直接、皇鈴山に登る車道をつめて16時30分に山頂に到着。
「天空のベンチ」からすぐ左に見えるこんもりとした黒木(くろぎ)の森のなかにある金場の平の位置を確認。その後、金場の平に立つことができた。
何の変哲もない森の中の広場だが、藤本一美氏の著書『比企(外秩父)の山々』(私書版、2018年)で、この名を知ってから長年場所を知りたかっただけに感無量だった。
この時点で時刻は17時。
日没は17時30分。その後は真っ暗になるので、急ぎ、尾根を南下。
愛宕山から二本木峠にくだり、峠に17時40分着。
そして真っ暗ななか、ライトを点けながら林道和地場線をくだり、19時20分に大内沢と寄居を結ぶ県道294号坂本寄居線に出た。
県道に沿って流れる大内沢川の対岸の山は、官ノ倉西尾根の延長にある「虎山の千本桜」のある山である。だが、暗くて何も見えない。
あとは、ひたすら小川町方面に向かって歩き、白石車庫からの車道と合流する落合バス停に19時45分着。
小川町駅行きの最終バスが落合バス停に到着したのは、それから33分後の20時18分だった。
以上、3回にわたる調査の概要を紹介した。
残念ながら現地で場所を聞き、実際にその場に立ったのは七滝七不動(七滝不動)と金場の平のみ。
トンビ岩、長者屋敷、水晶岩は地形図に推定場所を記入したのみ。
宿の平にいたっては、場所さえ分かっていない。
皇鈴山に急ぐあまり、眞下さんから伺った茱萸ノ木峠の旧峠にあるという山ノ神の探索も省略。
その意味で、この記録は「中間報告」どころか「第一報」にしか過ぎない。
私も今後、機会をみて実際に踏査する予定だが、本文や地形図などをみて、踏査され、場所などについて誤りがあったら、是非ご指摘願いたい。
それでは以下、打出(内手)から二本木峠をへて北上するという定番のコースに歩くという流れで(長者屋敷跡と水晶岩については、上の貝戸から登るという流れで)説明したい。
なお、記事の一部が「比企外秩父徹底研究第11回:二本木峠・皇鈴山・登谷山」と重複することをお許しいただきたい。
上ノ山(大字坂本)
小川町から白石車庫行きのバスを打出(内手)バス停で下車。
少し小川町方面に戻り、槻川を橋で渡って、前方に見える打出(内手)の集落をめざす。
打出最後の人家の先で、林道が大きくカーブするので、その手前から山道に入り、ショートカット。
すぐに林道に出ると、その向に清流山永泉寺がある。
ハイキングコースは、永泉寺の裏から山道に入り、その後は水量を増した上ノ山沢左岸に沿って登って行くため、上ノ山(上野山)集落には寄らない。
そのため、9月18日はいったんハイキングコースから外れ、車道を登って上ノ山集落に入った。
上ノ山(上野山)集落

立派な家が点在する集落だが、過疎化の波が押し寄せ、かつて22世帯あった集落も、現在では11世帯を残すのみという。
驚いたのは、上ノ山には市之瀬姓が圧倒的に多いということ。
聞き取りに応じてくださったお二人も市之瀬姓。
少し話が外れるが、坂本や大内沢の各集落では、それぞれ特定の姓が圧倒的に多い。
今回3日間に訪れた集落だけでも、上ノ山(大字坂本)では市之瀬性、柴(大字坂本)では田中姓、上の貝戸(大字大内沢)では真下(眞下:ましも)姓がそれぞれ群を抜いて多い。
七滝七不動(七滝不動・七滝祓戸大神)
2回目は雨のため上ノ山集落には寄らず、永泉寺の裏から忠実にハイキング コースをトレース。
いったん車道に出るが、人家の前で右に山道を登り、上ノ山の人家を見下ろしながら進む。
その後、市之瀬家の墓地からいったん車道に出て、右に上ノ山の最後の人家をみて車道を登る。
再度山道に移ると、今後は雑草の生えた荒れた林道に出る。
左に林道を進むと、すぐ先は上ノ山沢の急流である。
荒れた林道は橋をかけて沢を渡っているが、橋の手前で右の岩をみると、小さな石宮が祀られている。
ハイキングコースは、橋を渡らず、沢に沿って登っていく。
すると、まもなく左手に「七瀧祓戸大神不動尊 開運 健康 武運長久」と書かれた案内板をみる。
七滝七不動(七滝不動)入口の案内版

矢印の示す方向をみると、七滝七不動(七滝不動)の社殿と藤の古木、さらに不動滝までハイキングコースからよく見える。
ハイキングコースから「七滝七不動」(七滝不動)のお堂が見える

社殿は轟音をあげて急流が流れる上ノ山沢のすぐ近くに建っており、前面(扉)は木製だが、それ以外の三方はトタン製である。
屋根もトタン張りである。
額には「七瀧祓戸大神」と記されている。
それほど古い建物ではないが、御幣が古くなっていることからも、最近では信仰されなくなったことがうかがえる。
七滝七不動(七滝不動)のお堂と大藤

七滝七不動(七滝不動)の存在を知ったのは、関口児玉之輔著『郷土誌 外秩父槻川村』(日本深勝倶楽部、1928年)によってである。
そこでは以下のように書かれている。
「七滝七不動 宿の平より流れ出す細流が上野山に来て小瀧となり且つ不動尊あり癈疹痘に霊効ありとて参詣する人多い」
社殿と沢との間の狭いスペースに藤の老木があり、その太いつるが2本の木に蛇のように絡む不思議な光景を目にすることができる。
大藤の横が沢で、沢の両岸は巨岩になっていて、巨岩を割って沢が滝をつくり、勢いよく水が流れ出している。
不動滝は高さ約3㍍程度だが、連日の雨や台風のあととあって、迫力ある姿をみせている。
飯野頼治氏も、「立木にしめ縄が張られたその奥に『七滝祓戸大神』の額を掲げた不動堂がある。大岩からは滝が落下し太い藤が御神木に絡まっている」と書かれている(『飯野頼治著作集2【歩く道・歩く旅1】奥武蔵風土記・東秩父風土記』(まつやま書房、2022年)。
正式には「七滝祓戸大神」を祀った不動堂ということになるだろうが、一般には「七滝七不動」「七滝不動」などと呼ばれており、もっと縮めて「不動尊」とか「お不動様」とも略称されている。
上ノ山集落で話を伺ったご老人(88)によると、かつて上ノ山沢には7つの滝と7つの不動尊があったが、今ではそれぞれ1つだけになってしまったという。
『武蔵国郡村誌』秩父郡坂本村の条は、合計7つの「不動滝」を記し、一番下流の不動滝についての説明に続き、「以上を七滝不動と称し、一月二十八日遠近より男女群集す」と記している。
上ノ山集落では、毎年1月28日(のちに1月最終日曜)を「初不動」といって、集落の役員が不動尊まで行き、八幡大神社(坂本)の宮司が祝詞をあげ、その後、不動堂内部や周辺の掃除、藤のつるの選定などを行っていた。
しかし、集落の世帯減と高齢化により、3年前より初不動は行われなくなり、今では不動様まで行く人もほとんどいないという。
道理で、御幣が新しいものではなく、古びていたわけである。
大藤の太いつるが2本の木に絡む

お堂と大藤の横は、大岩を割って流れる不動滝(水量が多いため、迫力満点!)

二本木峠
地図2「二本木峠・愛宕山・七滝七不動(七滝不動)」

ハイキングコースは、最初は沢沿いだが、徐々に沢から離れ、山腹を登るようになる。
急な登りのうえ、連日の雨や沢の増水により、道が濡れており、一部泥濘化していたり、岩が滑りやすくなっているなど、足元には細心の注意が必要である。
やがて沢音が消え、広い尾根上の道を登るようになると、傾斜が緩み、上方が明るくなってくる。
まもなく秩父高原牧場の柵が左に現われ、二本木峠より林道和地場線を少し下がった地点に出る。
ここから左に登れば、稜線に沿った県道361号三沢坂本線、皆野町三沢から登ってくる林道二本木線(皆野町)、そして東秩父村坂本の和地場から登ってくる林道和地場線が合流する「二本木峠」に出る。
打出バス停から峠まで約1時間30~40分はみたい。
峠から三沢側に向かったすぐ左の林の中に大きな杉の木があり、その根元に山ノ神の石見が祀られている。
この時期(9月中下旬)、草がかぶっているので、見落としやすい。
私も初回(9月18日)は見落とし、23日の再訪時ようやく発見。
大正七年(1918)年に建立されたものだが、台座の左側には「寄付者 三沢村玉川耕地一同」の文字、右側には「寄付者 槻川村坂本一同 大河原村安戸一同」の文字が刻まれている。
この山ノ神は、峠の両側である皆野町三沢側、東秩父村坂本村、さらに東秩父村安戸でも信仰されていることが分かる。
山ノ神を祀る石宮(二本木峠)

9月23日は終日雨で、峠についた13時頃に雨が一層激しくなり、昼食をとる場所を探すのにも苦労したが、二本木峠の山ノ神の横は、杉の巨木が枝を広げているので、雨に濡れずに食事を済ますことができた。
毎年5月5日の二本木峠の山開き時には、宮司が祝詞をあげるというが、峠の山ノ神はもちろん、これから登る愛宕山の愛宕神社にも参詣するのだろうか。
宿の平
9月24日は雨のなか、愛宕山を往復したあと、二本木峠から粥新田峠方向に少し進んだところから坂本の柴の集落をへて、坂本バス停にくだる林道二本木線を下降した。
林道は秩父高原牧場のなかを抜け、柴の集落に入ったあと、県道近くの新田の集落を通り、坂本バス停に出る。
この道を選んだのには理由がある。
それは先にも書いたが、内出(打出)から二本木峠に登る道は、かつては現在の上ノ山沢沿いのハイキングコースではなく、上ノ山集落から柴の集落をへて、柴の上部にある宿の平という場所を経由して峠につくという経路をたどっていたという。
ならば「宿の平」は一体どこにあるのだろうか。
関口児玉之輔氏は次のように記す。
「宿の平 字柴から三澤寺へ通ずる處に昔は小川町から大宮郷(今の秩父町)に通ずる街道があった。其通路は坂本内手から上野山を通り柴を経て三澤村に出たのであったと言ふが、柴の上に宿場があった此處からは今でも焼物の端片が出ると云ふ、又た其宿の荷物は上野山の千駄着と云う處で整理されたのだと言ふて聞かされた」(『郷土誌 外秩父槻川村』日本深勝倶楽部、1928年)
飯野頼治氏も、宿の平について、次のような伝説を収集している。
「昔、柴から二本木峠に向かう湿地に大蛇がすんでいた。その辺りは宿の平という名で、小さい田もあってじめじめした所だからねえ。人々が怖がって難渋していたのを知って、坂東札所10番岩殿山の武将だか修験者だかが退治してくれた」(『飯野頼治著作集2【歩く道・歩く旅1】奥武蔵風土記・東秩父村風土記』まつやま書房、2022年)
これだけ言及されているだけに、是非とも柴の集落で「宿の平」の場所を聞いてみたいものだ。
同時に、かつての内出→上ノ山→柴→宿の平→二本木峠への旧道のルートを地図に記してみたい。
今回は雨で聞き取りができなかったが、いずれ柴の集落を訪れ、話を伺いに行きたいと思っている。
愛宕山(あたごやま:654.8㍍3等三角点:点名「二本木」)
二本木峠から県道361号三沢坂本線を北に少し進むと、右手に愛宕山への登山路がある。
いきなり木段の急登で息が弾むが、すぐに傾斜はやや緩くなり、左手に「標高634m スカイツリーと同じ高さです」と書かれた掲示が現われる。
「標高634m スカイツリーと同じ高さです」と書かれた標識
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すぐにドーム状の天体観測所とベンチが登場。
小さな天体観測所とベンチ

そのすぐ上が愛宕神社と3等三角点(点名「二本木」)のある愛宕山山頂(654.8㍍)である。
山頂は周囲に雑木が茂り、展望には恵まれない。
ところで、山頂の南側に建つ愛宕神社の石碑の裏には、昭和六年(1931)三月完成 防火線造成記念 槻川村建立」の文字が刻まれている。
要するに、この石碑は防火線建設碑と「火伏せの神」である愛宕神社を兼ねているのである。
そこで二本木峠にあった説明板を思い出した。
説明板には「昭和六年(1931年)、槻川村では当時の村長 高田群治郎氏が大切な山林を山火事から守ること(森林保護)と失業対策事業として尾根の中心にそって土壁(高さ1.5m 幅10mを構築して防火線とした」とある。
防火線は長く、笠山→堂平山→白石峠→定峰峠→粥新田峠→二本木峠→皇鈴山→登谷山など外秩父七峰縦走路の大半に及んでいた。
それ以外に、今はなき皆谷の観音山周辺にも防火線が築かれた。
そこで、工事の中心だった二本木峠の上にある山に、防火線造成碑と火伏せの神・愛宕神社をセットにして村が設置したというのである。
実は、二本木峠の登り口である内出や上ノ山などの集落で聞いても、愛宕山の名は知っていても、愛宕神社を信仰している集落はなく、愛宕神社は地元民が勧請したものではないのではないかと推察していた。
だが、愛宕神社の手前にはしめ縄が張られているなど、地元民の信仰はなくても、今でも信仰の跡がある。
ということは、防火線を造設した村(或いは大字坂本)が山を山火事から守るため、愛宕神社を勧請し、おそらく二本木峠山開きの日に、峠の山ノ神と同様、宮司が祝詞をあげているのではないだろうか。
愛宕神社の信仰や山開きの日に愛宕神社にも祝詞をあげるのかなどについては不明な点が多いので、来年5月5日の二本木峠山開きに参加し、確認してみたい(5月3日の笠山春の祭典と中1日なのできついが)。
愛宕山山頂の「愛宕神社」(防火線造成記念碑を兼ねる)
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愛宕山山頂の山名表示柱

愛宕山山頂の3等三角点(点名:二本木)標石
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皇鈴山(みすずやま:679㍍独標)
図3「皇鈴山・金場の平・トンビ(とんび)岩」

愛宕山から雑木のなかの滑りやすい道を慎重にくだると、すぐ右手に「比企広域市町村圏組合消防救急デジタル無線設備東秩父基地局」が現われる。
そのすぐ下で県道361号三沢坂本線に飛び出す。
愛宕山からくだり切ると、県道三沢坂本線に飛び出す

山道に入り、急登を続けると、細長い山頂のピークに達する。
ここが東秩父村坂本と大内沢、そして皆野町三沢との境界をなすピークである。
このピークから右(東)に派生する尾根が坂本と大内沢との境界尾根であり、細々とした踏跡が刻まれている。
ところで、この山の名をめぐり、奥武蔵研究会『奥武蔵と比企丘陵』(埼玉産業、1985年実業之日本社、1961年)では「大平山」、日下部朝一郎『秩父の峠道』(木馬書房、1981年)、飯野頼治前掲書などでは「物見山」などと記している。
だが、今回の3日間の山行で、坂本の上の山、大内沢の上ノ貝戸などで尋ねてみたが「大平山」「物見山」との呼称は聞いたことがなく、名前はとくにないとのこと。
今後さらに調査を続けたいが、現時点では無名峰ということにしたい。
坂本・大内沢・三沢の境界ピークからいったんくだりきると、いよいよ皇鈴山に向けた登りとなる。
ここで道は2つに分かれる。
左は巻き道、右の急な木段が直登路である。
いずれも山頂に達することができるが、18日はあえて尾根通しの直登路を選択。
最初は木段の急登。やがて傾斜が緩くなり小ピークに到着。
ここからくだると、いよいよ本コース最大の難所・皇鈴山に向けた木段の急登となる。
しかし、100段近い木段を登った末には、皇鈴山山頂の素晴らしい展望が待っている。
まるで広場のような広大な皇鈴山山頂は東西2つの部分に分かれる。
西(左)の皆野町三沢側には山名表示板と東屋、句碑、そして石積みだけになってしまった皇鈴神社跡がある。
皇鈴山山頂の山名表示板
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皇鈴山山頂の西側(皆野町側)にある東屋
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西側の秩父側は立ち木により邪魔されるが、それでも目前に簑山(美ノ山)、その右に破風山、その背後には城峰山や両神山、左には秩父市街と武甲山などが眺められる。
もともと皇鈴山の公園化は旧三沢村時代に行われ、山頂の西側(三沢側)の整備から始まった。
『三沢町誌』(三沢町誌刊行委員会、1977年)によると、「皇鈴山は昭和11年。時の村長福田唯一氏の発議により三沢公園として誕生し、皇鈴神社を祭り、春秋の二季に日を定めて全村民相寄り1日の融和を楽しんだという」
関口洋介氏によると、皇鈴山という山名も、昭和11年、当時の三沢村の福田唯一村長が命名し、山頂に皇鈴神社を祀ったという(奥武蔵研究会会報『奥武蔵』第350号(2006年7月)。
要は戦前の昭和11年(1036)、三沢公園として整備するとき、当時の三沢村長がこの山を「皇鈴山」と命名し、「皇鈴神社」を建立したというわけである。
皇国思想を反映したかのような「皇鈴山」という山名やその漢字表記も、昭和11年という太平洋戦争に向かう時代背景を考えれば納得が行く。
その後、三沢側には皇鈴神社の左横に、三沢村出身の夭逝の俳人・持田紫水(1917~43)の句碑を建立された。
句碑には表に「いっしんに鷹みてありぬ萱は穂に 紫水」と彼の句が刻まれた。
裏には、彼の師であり、句碑建立の呼びかけ人となった金子伊昔紅による紫水の略歴が刻まれている。それは以下のとおりである。
「持田紫水は大正六年一月二十九日三沢村に生まれ、俳句を好み、伊昔紅、かけいに学び水原秋桜子先生の馬酔木に寄稿して馬酔木賞を受く、昭和十八年十一月八日病没す」
持田紫水の句碑の右にあるのが、今は石の台座のみを残す皇鈴神社跡である。
上貝戸(東秩父村大内沢)の眞下均さんによると、あるとき若者たちがふざけて神社の祠をいじったところ、台座から外れて壊れてしまった。
皆野町では若者たちの軽率な行為をいましめるために、あえて神社の祠を再建せずに、そのままにし、句碑を神社代わりにみなしているという。
持田紫水の句碑
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石積みだけ残った「皇鈴神社」跡
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このように三沢公園の整備や皇鈴山の命名など、皇鈴山の公園整備は西側の皆野町側(旧三沢村側)から始まった。
しかし、今では東側の一段と高いところに、三沢公園をはるかに超える規模で東秩父村大内沢の「大内沢管理委員会・地域おこし委員会」が駐車場つきの皇鈴山展望台を設置。
ベンチを置くなどして、こちらの方に圧倒的に人が集まっている。
皇鈴山山頂東側(東秩父村側)の展望台
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展望台の看板と注意書き

とにかく東側の180度以上の展望は素晴らしいの一語に尽きる。
西側のような著名な山々こそ望めないが、眼下には槻川の谷に沿って安戸から奥に続く東秩父村の集落。
その奥に官ノ倉丘陵や浅間山(おっぱい山)。
さらに奥に金勝山やその後ろに鷲丸山を崩してつくったホンダ寄居工場。
そして寄居町から深谷市、小川町などの市街。
荒川の奥には熊谷市の市街地などが広まり、冬には北関東の連山が望まれる一大パノラマが展開する。
展望台の先が大内沢上ノ貝戸から登ってくる車道だが、車道をはさんで山頂の東端には、通称「天空のベンチ」と呼ばれるベンチが置かれ、そこに座ると前記のパノラマが何の妨げもなく堪能できる。
ただし、天空のベンチ周辺にタバコの吸い殻が散乱しているのはいただけない。
皇鈴山東端の「天空のベンチ」

「天空のベンチ」から大内沢の集落を見下ろす

このように今や主客転倒し、東の東秩父村大内村側が主役になり、もともと公園を設置した皆野町三沢側の影が薄くなってしまったが、車やバイクがどんどん山頂に登ってきて、その数がハイカーを圧倒している現状は致し方ないとはいえ、一ハイカーとしてはやや興ざめである。
なお、展望台の入口には整備のための募金(200円)を入れるピンクの可愛い郵便ポストのような募金箱がある。訪れる人は是非募金して欲しい。
展望台入口の募金箱

金場の平(かなばのたいら:かなばのでいら)
皇鈴山の天空のベンチから左下を眺めると、山頂直下の黒木(くろぎ)の森が間近にみえる。
この森のなかにある小平地を上ノ貝戸では「金場の平」と呼んでいる。
呼び方は「かなばのたいら」だが、「かなばのでいら」となまる人もいる。
「天空のベンチ」から「金場の平」のある林を眺める

「金場の平」に入るためには、展望台に登ってくる車道を少し下り、ガードレールの外れるもう1つ先で、ガードレールが大幅に外され、その間に立ち入り禁止のトラロープが張ってあるところを入っていく。
「金場の平」入口

雑草の生えた林道のような道を少し進むと、突然小平地に出る。
ここが「金場の平」である。
「金場の平」(その1)
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「金場の平」(その2)
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「金場の平」を初めて記録したのは藤本一美氏であると思われる(あるいは皇鈴山周辺に詳しい奥武蔵研究会会員の関口洋介氏かも知れない)。
藤本氏が記録したのは、『比企(外秩父)の山』(私書版、2018年)15頁の地図中である。
ただし、2万5千分の1地形図「安戸」に地名と場所のみを朱筆しているだけで、読み方や説明などは一切なし。
この記事は、奥武蔵研究会が実施した山行(第3076回「大内沢・花桃の郷」2014年3月23日)の記録である。
ただし、記事本文では「金場の平」には触れていない。
実は同じ地図中に「とんび岩」「水晶岩」「長者屋敷」なども赤字で地名・場所の記入があるだけで、これらも説明がない。
とくに「金場の平」「とんび岩」などはおそらく初出であろう。
藤本氏が山行の最中、上ノ貝戸で採集した地名だと思われるが、地名と場所を赤字で地図に記しただけで、それ以上の説明がなく、私にとっても、これらの場所を改めて地図に記し、実際に踏査することは長年の課題であった。
そして今回、上ノ貝戸で眞下均さんと出合ったことで、「金場の平」「とんび岩」「長者屋敷」「水晶岩」の4つの地名・岩名について、場所や呼び名など概要を知ることができ、地図に記載することができたのは幸いだった。
今回実際に場所に達することができたのは「金場の平」のみだが、今後機会をみて、その他の場所についてもチャレンジしてみたい。
ところで、藤本一美氏は「金場の平」について、地図上では茱萸ノ木峠南のヤセ尾根上の地点としているが、実際には先にも述べたように、皇鈴山山頂近くの小平地である。
眞下さんによると、「金場」という名の由来は、近くに銅を採掘した穴があることによるという。
つまり、「金属地名」という訳である。
この場所は、皇鈴山から登谷山の山腹にまで広がる広大な「大内沢共有地」(個人所有や村の所有ではなく、各地区別に当該地区住民の共有)だった。
そこで、やはり共有地内である皇鈴山山頂の東半分を自動車の乗り入れ可能な展望台化したように、ここにキャンプ場をつくろうという話が持ち上がったが、いつの間にか立ち消えになったという。
たしかに、キャンプ場にするにしては狭すぎる感がある。
トンビ岩(とんび岩)
「金場の平」からさらに山腹をくだったところにある四畳ほどの広さの大岩。
大きな松の枝が岩の上に垂れているという。
岩の上には凹みがあり、ここに水が溜まっているという。
森林帯の急な斜面にあり、松の枝が岩を隠しているので、探すのは容易ではないとの話だ。
山ノ神
皇鈴山から茱萸ノ木峠(グミの木峠)に向かってくだると、いったん登りとなり、小ピークに達する。
この山頂に立派な山ノ神の石宮が祀られている。
記銘などがないので、誰が奉納したのか不明だったが、眞下さんの話では皆野町の方が祀ったのではないかという。
皇鈴山北の小ピークにある山ノ神の石宮

茱萸ノ木(グミの木峠)
小ピークからくだると、右手の斜面は路肩が崩れやすくなっていて、土留めのコンクリートが打ち込まれている。
ここには木の手すりがついているので。慎重に通過する。
すると、大内沢上ノ貝戸からの林道が横断し、県道361号三沢坂本線に接続する「茱萸ノ木峠」(グミの木峠)に出る。
今では林道の乗っ越す風情のない峠になってしまったが、『新編武蔵風土記稿』秩父郡大内沢村の条に、「茱萸木峠 村の西よりにて三沢村に行く峠なり。登ること二十町ばかりもありて、頂を界とし、三沢村へ約十町下るなり」とあるように、大内沢と三沢を結ぶ交通の要衝でもあった。
上ノ貝戸の眞下均さんによると、現在の峠より登谷山に少し寄ったよころに旧峠があり、ここに山ノ神の祠が祀られているという。
真下通雄氏も著書『銀河縹渺-大内沢の歴史考』(非売品、1980年)において、次のように書かれている。
「ぐみの木峠の頂上には、四角に石積みした上に山の神神社の小宮がある。ここは大内沢共通地と元三沢村境界の稜線で、その長さは約一里もあるが、その中央にあたるので、大内沢共通値を守るために、大内沢村の時代、村で建立したのではないか、と推測する人もあるが、実際には誰が祀ったのかよく判らない。大内神社の祭典の際、ぐみの木峠の山の神様へも、御幣を納めた七五三(しめ)縄を張り、代表者が参拝してはどうか、との意見もあったようだ」
このように重要な峠であり、山ノ神なのだが、9月18日は登谷山に急ぐあまり、茱萸ノ木峠は素通りし、写真も撮らないという始末。
9月24日に旧峠と山ノ神の話を聞きながら、日没に急かされ、皇鈴山展望台に直接登る車道を選択。茱萸ノ木峠や旧峠の探索は先送りになった。
皇鈴山展望台入口(左:皇鈴山展望台、右:茱萸ノ木峠)
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次回こそ、上ノ貝戸から林道を登り、長者屋敷、水晶岩、そして茱萸ノ木の山ノ神の探索を試みたい。
登谷山(とやさん:668㍍独標)
図4「登谷山・三角点山・長者屋敷・水晶岩」

茱萸ノ木峠から緩やかな登り約10分で、左側に通信施設が現われる。
その先僅かな登りで、登谷山山頂に到着。
山頂には古い展望盤が置かれているが、残念なが山名などの文字は消えてしまい、今はタバコの吸い殻入れになっている状態。
山頂の西側を先の通信施設が占拠しており、秩父側の展望が妨げられる。
上ノ貝戸の眞下均さんによると、この通信施設は秩父セメントのマイクロウェーブ中継所で、東京から登谷山を中継し、武甲山まで結んでいるという。
それでも皇鈴山より劣るとはいえ、東側の展望が開け、素晴らしい眺望が得られる。
ベンチがないのが残念。
山頂の北端には、「報徳二宮神社」の石碑があり、裏面には佐々井信太郎という寄進者の名が刻まれている。
登谷山山頂の私設山名表示プレート

登谷山山頂にある古い展望表示盤

登谷山山頂にある「報国二宮神社」

同じ尾根上にありながら、人気の点で皇鈴山に大差をつけられ、やや寂しい感のある登谷山だが、この一帯随一の名山である。
『武蔵国郡村誌』秩父郡大内紗和村の条では、「登谷山 高八十丈。周囲不詳。村の西にあり、嶺上より二分し、東は本村(注:大内沢村)に属し、西は三沢村に属す。村の西より上る十八町五間。即ち三沢道なり」と記す。
『武蔵通志』も、「登谷山 高八百尺槻川村大内沢の西にあり」と解説している。
前記2つの地誌で、いずれも大内沢の西にあると記しているが、大内沢・花桃の郷の中央にある展望台(大内山:325㍍独標)から眺めると、正面に登谷山が大きく聳え、その山麓に上ノ貝戸の集落が点在する姿が一望できる。
まるで登谷山が上ノ貝戸集落を懐に抱いているかのようにも見え、ここからも上ノ貝戸をはじめ大内沢の人々が古くから登谷山を別格的に神聖視していたことが良く分かる。
登谷山は、別名を雨乞山といい、実際雨乞いの行事が行われた。
それは大正十二年(1923)夏の終わりの頃。
既に1ヶ月も雨らしい雨がなかった。
農作物の被害は著しく、こんな旱魃は経験したことがないと人々がこぼすようになった。
そこで大内沢でも雨乞いを催すことになり、ある日の午後、昔から雨乞山といわれている登谷山の頂上へ百余人の村人が大太鼓三、小太鼓八個を担いで参集した。
やがて山頂の適当な場所に太鼓が据えられ、八大龍王を呼ぶことになった。
雨乞いの経験のある長老の指導で、彼が先ず音頭をとり、参加者が皆大声で復唱することになり、大太鼓、小太鼓の叩き方も長老が指導した。
長老が大空に向かい「なーむ、なんだあ、りゅうじんおう」と叫ぶと、大勢が復唱し、間髪を入れずに小太鼓が、続いて大太鼓が力強く叩かれ、さらに長老が「南無、跋難陀竜神王」と音頭をとると、大勢が復唱し、大小の太鼓を叩いた。
八大龍王を呼び終えると、また、これを初めから繰り返した。
夕方になって雨乞いが効いたのか、にわかに雲が出てきた。
たがて、雲は山頂にまで広がった。
そして雨乞いの効果てきめんで細かい雨が降ってきたので、雨乞いは夕方5時半頃やめ、皆は下山し、自宅に急いだ。
だが自宅に戻ると雨がやんでしまった。それから3日ほど経ってから大雷雨があり、翌日・翌々日も雷雨になり、ようやくにして十分な雨に恵まれた(真下通雄『銀河縹渺』非売品、1980年より)。
最後に登谷山の山名について考えてみよう。
「トヤ」には「山の鞍部や山中で鳥をとる人の小屋」などいろいろな意味があるが、「草刈場」の意味もあることが分かった。
登谷山から茱萸ノ木峠をへて、皇鈴山にいたる山稜の東側は大内沢共有地であり、江戸時代以降、草地で秣場として利用されていたという。
その後、杉や檜を植林したが、「草地=秣場」のテッペンにある大内沢の象徴的な山として「トヤサン」の呼称が生まれ、それに「登谷山」の漢字を当てたと考えることができないだろうか。
三角点山(657.7㍍2等三角点:点名「雨乞山」)
登谷山からくだりにかかると、簡易舗装の広い道になる。
ところが、中央の舗装部分のコンクリートに苔が生え、滑りやすい。
むしろ、両端の土の部分を歩いた方が楽である。
まもなく鞍部に到着。
これから進む三角点山に向け、左下から車道が登ってきている。
車道を登ると、すぐ左に「ちちぶ星の里」(天体観測所)への道が分かれる。
車道を直進すると、三角点山山頂直下のNTTドコモ登谷山無線中継所に行く道だった。
現在、無線中継所は外壁塗装の最中。
三角点山山頂直下のNTTドコモ登谷山無線中継所(現在外壁塗装中)
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ところが、車道は無線中継所で終わってしまい、その先は踏跡のない猛ヤブ。
突破を試みたが、無駄だとわかり、目前の三角点山への登頂を諦め、先の鞍部に戻る(のちに、無線中継所の裏から山頂への道があることがわかった)。
車道をくだると、すぐに県道361号三沢・坂本線と並走している釜伏峠への車道に出る。
秩父七峰縦走でも、三角点山をカットして、この車道を通ることしている。
驚いたのは、車道の両側の山腹がことごとくソーラーパネルに覆われていること(皆野町側)。
2社のソーラーパネルが敷かれているが、とくにひどいのが釜伏峠寄りの会社のソーラ-パネル。
なかには、ほぼ垂直の斜面にもソーラーパネルが設置されており、今にも落ちてきそうだ。
釜伏峠に向かう車道両側の斜面は、ソーラーパネルでびっしり覆われている

ところで、ヤマレコやYAMAPの山行記録では、すべて三角点山を「雨乞山」と紹介している。
これは三角点山の山頂に「雨乞山」と書かれた私設の山名表示板が設置されていることによる。
たしかに、三角点山の2等三角点の点名は「雨乞山」であるが、雨乞山は、先に上ノ貝戸の雨乞行事を紹介したように、登谷山の別名である。
上ノ貝戸の集落では、旱魃のときに、登谷山に登り、雨乞いを行い、八大龍王に降雨を祈願したのである。
それなのに、国土地理院は登谷山北の2等三角点の点名を「天乞山」としてしまった。
上ノ貝戸では、657.6㍍2等三角点のある山を、「三角点山」「三角点」などと呼んでいる。
水晶岩
「花桃の郷」の中心である大内沢上ノ貝戸集落から茱萸ノ木峠に登る林道(林道上ノ貝戸線)をひたすら登ると、大きくカーブする地点に、文化十四丁丑年八月吉祥日(1817)武州秩父郡大内澤村」の記銘のある馬頭観世音の石碑がある。
この石碑は道しるべを兼ねておて、「右 のがみ 左大宮 たの」と書かれているのが読み取れる。
別荘地のそばにある道しるべを兼ねた馬頭観世音の石碑
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馬頭観世音の石碑付近は別荘地で、こんな山奥にいくつもの別荘が建てられている。
先の馬頭観世音付近から、無舗装の林道が分かれる。
馬頭観世音のところで林道上ノ貝戸線から分かれる無舗装の林道
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この林道は、やがて中間平からくる林道と接続する。
馬頭観世音から中間平に向かう無舗装の林道は途中で方向を北北東に変える。
藤本氏の依拠した2万5千分の1地形図「安戸」では、林道はもっと先で北に曲がるが、実際にはそれより手前で北北東に方向を変えるという。
北北東に方向を変えた無舗装の林道が小沢を渡り、右に大きくカーブする地点で、この小沢に沿って林のなかを約50㍍ほど登ったところに高さ約5㍍の大岩がある。
これが水晶岩である。
眞下均さんは、「水晶岩は林道からも見える」と語っているが、果たしてそうなのだろうか。
長者屋敷
水晶岩に向かう林道の手前(上ノ貝戸側)から少し山林を登ったところに長者屋敷(跡)がある。
現在では、現地に何の目印や説明板もないという。
上ノ貝戸では、「長者屋敷の大木」という伝説が伝承されている。
昔、三角点山の下にさる長者が屋敷を構えていた。
家は母屋の他に倉庫や物置などもあり、一族郎党が住んでいて、宅地は千坪余りもあった。
長者は大内沢の邑長(むらおさ)を務めていた。
長者屋敷の西、数十間登ったところに世にも稀な欅(ケヤキ)の巨木があった。
十人寄って手をつないでも抱きかかえれないほどの幹の太さだった。
この巨木を村人は「長者の大木、長者の森」と呼んでいた。
ところが、忍(おし)の殿様から長者あてに突然のお達しが出された。
それは、長者の木が、忍の広い耕地に陰陽をつくって百姓たちが難儀しているから、早速大木を伐採するように」という内容だった。
長者は先祖代々大事にしてきた大木を伐採することに大いに悩んだが、最後は先祖に決意を告げ、伐採する旨を使者に伝えた。
長者は早速、村中の人々を集め、「忍の殿さまからのご沙汰なので、あの大木を伐ってもらいたい」と伝えた。
これに対し、村一番の木伐りの名手が「村中の住民が一致結束すれば、伐採できるかもしれない」と言い出した。
そのため、20~30人交互に人夫が出て、ようやく1ヶ月を要して根伐りを終えた。
そして、いよいよ巨木を倒す段になって、いくら押しても木が一分も動かない。
困り果てたなか、村一番の年寄りが「出し風という風の神に頼めば自然に倒れる」と話し、押し倒す作業をやめ、出し風(北西からの季節風)を待つことにした。
それから3日後、夕方から出し風が吹き、その日の夜更け、巨木は轟音をたてて倒れた。
長者には忍の殿様から褒美が届いたが、巨木を倒した祟りなのか、長者の家系も数十年後に途絶え、廃屋になった。
長者屋敷の地名と千坪余りの宅地跡は植林されて現存しているという(以上、真下通雄『銀河縹渺』非売品、1980年より)。
ところで、長者屋敷は桓武天皇の曾孫で、初めて平氏を賜った高望王の弟である恒持王(つねもちおう)の居住地という説がある。
恒持王は太宰権帥であったが、讒言にあい、延暦年間(782~806)に武蔵国に左遷され、東秩父村大内沢に居住し、そのとき「大内神社」を創建したという。
その後、平城天皇の大同元年(806)に、恒持王の罪が讒言による根拠のないものであることが分かり、もとの官位に戻り、武蔵権守となり、大内沢から秩父の山田に移った。
恒持王が山田で住んだ住居の跡が、現在の「恒持神社」となっているという(以上、ブログ「四季・めぐりめぐりてⅡ」の記事「高望王の弟恒持王を祀る『恒持神社』(埼玉県秩父市)」(2020年11月5日より)。
問題は、讒言で大内沢に左遷された恒持王がどこに住んでいたのかということである。
長者屋敷が恒持王の居所だったという説は、残念ながら大内沢ではあまり支持されていない。
私が話を聞いた眞下均氏も「それは違うよ」と一蹴。
大内沢の鎮守で、恒持王が創建したという大内神社の奥に2つの寺が南北に並んでいる。
北側が金剛山正善寺、南が大澤山高円寺である。
このうち大内神社の奥ノ院といわれる「金剛童子社」のある正善寺こそ、恒持王が居所を定めたところあるという説が大内沢では有力である。
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