はじめに
小川町腰越と上古寺、ときがわ町西平との境界に位置する風早山(平萱の三角点:539.4㍍3等三角点峰)。
先週・先々週と2回、風早山の山頂に立ったが、赤木の巡礼街道以外に気になる尾根がある。
それが風早山から北東に延び、小川町腰越と上古寺との境界をなす長大な尾根である。
この尾根は途中で士峰山、雷電山を経由したのち、最後に上古寺と下古寺との境界となり、槻川にかかる矢岸橋近くに落ち込んでいる。
1980年代後半、比企外秩父の山名採集に熱中していた当時、ほぼすべての尾根を歩いたが、唯一未踏のまま残っていたのが風早山から北東に延びる腰越・上古寺の境界尾根だった。
もっとも、ヤマレコやYAMAPの山行記録やその他のブログをチェックすると、2010年代以降、かなりの人がこの尾根を歩いていることが分かり、もはや「未踏の尾根」との言葉は時代遅れになっていることを痛感させられた。
そこで遅まきながら、私も腰越・上古寺境界尾根に挑戦しようと思ったが、40年間のブランクののち、今年になって71歳を過ぎてから山行を再開した鈍足の私では、長大な尾根を1回で歩くことは不可能である。
そこで、「風早山~士峰山」と「士峰山~雷電山~矢岸橋」の2回に分け、チャレンジすることに決め、まずは後者(士峰山~雷電山)から取りかかることにした。
その場合、上古寺から士峰山に取り付くだけでは物足りないので、まずは慈光寺観音堂から都幾山の頂上(463㍍独標:金嶽・鐘嶽)に登り、そこから北北東にときがわ町と小川町との境界尾根を比丘尼塚までたどり、「奈良坂」(慈光寺裏参道)を上古寺にくだり、高福寺裏から士峰山に登るコースを、前段に採用することにした。
慈光寺
ときがわ町が26人乗りのマイクロバスながら、町営バスを小川町駅から慈光寺入口まで走らせてくれたことは本当にありがたい。
わずか300円の運賃で、小川町駅から慈光寺入口までダイレクトに行くことができるようになったのだから、今までアプローチに苦労していた慈光寺が身近な存在になった。
そのため慈光寺や霊山院の裏山に頻繁に通えるようになった。
ところが何せ乗客が少ない。
10月には3回このバス(慈光寺入口から小川町駅行きを含め)を利用しているが、3回とも小川町駅~慈光寺間全部乗ったのは私一人だけだった。
10月31日(土)は、風がやや強いながら、晴天に恵まれたものの、小川町駅から乗ったのは私のみ。
11時06分に慈光寺入口に到着。
早速、最初の目標である慈光寺観音堂に向かった。
慈光寺に登る車道を歩きながら、女人堂を過ぎ、最初の山道に入り、途中車道を横切り、再度山道に入って、森林を抜け、再々度車道に出ると、そこは鎌倉・室町時代に建てられた青石塔婆が立つ広場。
青石塔婆群

車道から離れ、女人道の石段を登り、左に墓地を見ると、平坦な道になる。
やがて、右に「にょにんみち」と刻まれた古い道しるべの地蔵を2体みて、人家(木工工房)が右手に現われる。
女人道の道ばたにある道しるべを兼ねた地蔵

このあと、人家と「慈光山の会いこいの庭」の間を抜けると、車道に飛び出す。
その上にあるのが国指定重文の「銅鐘」だ。
車道を少しくだって釈迦堂跡、開山塔をみたあと、「銅鐘」から山道を登ると、まもなく慈光寺本堂の下。
慈光寺本堂

12時06分に慈光寺本堂についたが、12時から13時までは昼休みで、御朱印は受け付けていない。
近くに駐車場があるので、車でやってきた方が数人御朱印をもらいにきて、昼休みにぶつかり、戸惑っているのを横目に本堂前の庭にある石を凝視。
というのは、これからたどる奈良坂(慈光寺裏参道)は、上古寺の出口橋から慈光寺までの十六丁の距離のある坂道だが、以前は一丁目ごとに標石が建てられていた。
しかし次第に失われたので、保存のために二、七、八、十、十五目の標石が慈光寺本堂前の庭に移されたという(氷川の里 上古寺神社編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)。
しかし、それらしい石はあったものの、本当に奈良坂にあった標石なのかどうか確認できなかったのは残念。
本堂から石畳の坂道を登り切ると、坂東九番札所の慈光寺観音堂。
慈光寺観音堂

好天の土曜昼というのに、この日、観音堂にいたのは私ともう1人のみ。
シティホテルが予約できないほど混んでいる秩父の札所をよそに、この静けさは好ましいが、4月第二日曜の観音堂ご開帳や5月3日の火渡りなどの行事以外は、訪れる人はこの程度なのだろうか。
都幾山山頂(463㍍独標:金嶽・鐘嶽)
そう感じながら、観音堂の裏手から山道を都幾山の山頂(金嶽・鐘嶽)に登ろうとしたら、山から下りてきたマウンテンバイカー3人に遭遇し、ビックリ。
良く踏まれた植林のなかの道は、最初はやや急な登り。
すぐに平坦な道になり、続いて緩い勾配の道、それが木の根や岩の出た急坂に変わり、再度、緩やかな登り。最後に急登となって、登り切ると都幾山の山頂(金嶽・鐘嶽)に12時47分到着。
都幾山山頂=金嶽(鐘嶽)
山頂-1024x768.jpg)
植林と雑木に覆われ、展望は得られないが、ここが慈光寺、霊山院のある都幾山(ときさん)の山頂。
都幾山(慈光山)の頂上が「鐘ヶ岡」「与地峯」「鐘か岳」などと呼ばれ、「與地の峰」「鐘ヶ岡」=「金嶽」(かなたけ:上古寺の呼称)「鐘嶽」(かねたけ:西平の呼称)であることは、前回の記事で詳しく述べたので、繰り返さない。
ともあれ、539.4㍍3等三角点峰(風早山・平萱の三角点)を「金嶽」とするのは誤りであり、慈光寺観音堂裏の都幾山山頂(463㍍独標)こそ、金嶽(鐘嶽)なのである。
かつて金嶽(鐘嶽)には鐘がつられていて、この鐘は源頼朝が寄進したものであったという(詳しくは、前回の記事を参照)。
本当は金嶽(鐘嶽)で昼食の予定だったが、風が強く寒いので、休憩もそこそこに小川町とときがわ町との境界尾根を北北東に進むことにする。
比丘尼塚
金嶽(鐘嶽)から北に尾根をくだろうとすると、目もくらむような急坂。
そのままくだっては、転倒のおそれがあるので、左側の山林に逃げ、傾斜が緩くなるまで慎重にくだる。
鞍部から緩やかに登ると、地形図上にない小ピーク。
ここから緩く登った尾根上に410.3㍍4等三角点(点名「金嶽」)の標石。
山頂というよりも、尾根上の一地点といった方が適切だろう。
410.3㍍4等三角点峰山頂

410.3㍍4等三角点標石(点名「金嶽」)

くだりにかかると、尾根がやせて、左下には車道が見える。
鞍部から登ったところが、広い山頂の423㍍独標。
植林に覆われ、昼なお暗いうえに、山頂直下に壊れかけた小屋があり、不気味な雰囲気で早々に山頂を辞す。
423㍍独標から尾根は右に曲がり、境界標柱を頼りに尾根をくだると、一気に尾根が広がり、どこが正しいルートなのか分かりづらくなる。
広くなった山腹の左手が、下草がないので歩きやすいが、あえてヤブをかき分け、右手の踏跡をくだると、すぐに無舗装の林道に飛び出した。
そこから左に少し進むと、山を背負って三基の庚申塔等のある「比丘尼塚」(13時30分)。
以前は野ざらしだったが、現在は雨露をしのげる屋根が建てられている。
比丘尼塚

比丘尼塚は、奈良坂を登り切った小川町上古寺とときがわ町西平との境付近にあるが、内田康男氏によると、古寺地方には比丘尼塚にまつわる次のような伝説が残されているという。
「昔、慈光寺に広慧という徳の高い僧がいた。あるときこの僧をたよって比丘尼が慈光山へ登っていった。ところが、慈光寺は女人禁制であったので、山が荒れいままでの晴天がたちまち黒雲になり火の雨が降ってきた。しかたないので比丘尼は逃げて、今の場所のところまでようやくたどりついたが、とうとう力がつき死んでしまったという。そこで塚を築き、まつったのが今の比丘尼塚であるという。ある説によれば、その比丘尼は、僧の母であったともいう」(氷川の里 上古寺編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)
奈良坂(慈光寺裏参道)
比丘尼塚から少し進むと、広い林道に合流する。
ここで林道を横切り、下の山林をくだるのが「奈良坂」のはずだが、ヤブが茂って道が見えないうえ、上古寺方面を示す指導標もない。あるのは「熊に注意」の標識のみ。
やむなくヤブをかき分けてくだると、明瞭な道が現われた。
これが慈光寺裏参道の「奈良坂」である。
しかし、道の荒れようは、とても慈光寺の裏参道とは思えないほどだ。
道は明瞭だが、掘り割り状の道の両側からはシダが張り出し、ときには道に岩が出て、そこに苔がつき、滑りやすい。
足元に注意をとられると、今度はクモの巣の攻勢。
現在は、ほとんど歩かれていないようだ。
植林のなかの暗くて滑りやすい急坂には、かつてここに桜並木があり、次のように古い地誌に書かれているのが信じられないほどだ。
たとえば、『武蔵国郡村誌』比企郡平村の条には「北方上宇古寺村より登るを奈良坂という、往時数千株の桜あり花時爛漫美観を極むという」と記している。
往時、奈良坂は慈光寺裏参道であったので、多くの人々がこの道を登って慈光寺に参詣した。
江戸時代の国学者である清水浜臣は文化年間に慈光寺参詣の帰路に奈良坂を通り、その様子を以下のように記している。
「寺を出て北へおるる道十六丁のほと、ここも又一丁ことに石のしるしあり。坂路いとさかしくてあゆみくるし。羊のはらわた誠に思いやらる。北にそびえたるか鐘か岳なり。こかと山というは西によりて都伎山のうしろなり。ここに桜いと多しとそ。花の頃は近きあたりより、みやひこのむぬしたちあつまり見に来るとなん。坂路の右ひたり、栗原にましりて桜木多く見ゆ。十六丁おりつくせば古寺村なり」(「都伎山日記」)
上記のように奈良坂に見事な桜並木があったことは事実であり、「このことから、あるいは奈良の吉野の桜に模した理由に坂の名も起因するかもしれない」と内田康男氏も述べている(氷川の里 上古寺編集委員会『氷川の里 上古寺』氷川神社、1985年)
昭和三十年代の初め頃までは、毎年春になると、白装束の巡礼が列をなして奈良坂を登って行ったという。
高福寺
窪地のようなジグザグの急坂をくだると、柳沢に沿った道になり、平坦な道に変わる。
橋をかけて右から支流が合流する地点の手前で、古い道しるべの石柱がある。
これは昭和三十年二月に古寺青年団が建てたもので、「右 都幾川村慈光寺及霊山院に至る約千六百米 左都幾川村石打場に至る山道約千米」と刻まれている。
奈良坂にある古い道しるべ

柳沢沿いの道を歩いてまもなく、柳沢は金嶽川に流入。馬頭観音を左に見て、金嶽川にかかる出口橋を渡る。
出口橋が奈良坂の入口である。
出口橋(奈良坂の登り口)
-1024x768.jpg)
出口橋近くのある古い指導標

ここからは士峰山東~南東の山腹に、金嶽川に沿って点在する上古寺の集落をみながら歩く。
まもなく行く手左手の高みに、寺のような屋根の建物を見る。
すると、すぐ左側の平地に「士峰山 高福寺」と刻まれた大きな寺の入口を示す石柱が建っている。
「士峰山高福寺」入口の石柱

この入口の石柱を回り込むように参道を登ると、小久保家の自宅に出てしまう。
その小久保家の右奥に離れのようにあるのが高福寺である。
たしかに屋根をみると寺だが、寺院の建物は一般の民家そのものであり、庭には洗濯物も干してあり、寺というよりは小久保家の自宅の一部といった方が適切である。
高福寺は、禅宗臨済派、ときがわ町西平の霊山院の末寺で、侍(士)峰山を山号とする。
『氷川の里 上古寺』は次のように記す。
「昔は、慈光寺所有の経堂であった。しかし、明応七年(1498)十一月二十五日松山城主上田能登守朝実一万人余が、慈光山の南北より乱入し、坊中神社仏閣を焼打した時、この経堂も焼失したという。その後行届かないままであったが、寛永二年(1625)に(小久保右衛門重信が)再興し、本山霊山院二十三世天栄宗信和尚を請待して開山した」
士峰山(しほうざん)
士峰山は高福寺の山号であるが、同時に高福寺の裏山にあたる289.9㍍4等三角点(点名「西ノ谷」)のある山の名称でもある。
小久保家の本家裏から沢沿いに登る踏跡を発見。
これを登るが、かなりの急傾斜で、慈光寺・金嶽に登り、比丘尼塚まで縦走し、奈良坂の急坂をくだってきた脚にはこたえる登りである。
やがて沢沿いの踏跡が消えてしまうので、右に見える小尾根にトラバースし、今度は小尾根を急登する。
この急登が極度の勾配となったところで、右手をみると、さらに北側の小尾根に踏跡が見える。
これを登ると、ようやく士峰山山頂につく(15:05分)。
山頂は樹林に覆われ、展望はないが、中央にお堂があり、その前に二基の石碑が建っている。
士峰山山頂の「伝畠山重忠供養塔」を収めたお堂(1)
-1024x768.jpg)
士峰山山頂にある「伝畠山重忠供養塔」を収めたお堂(2)
-1024x768.jpg)
そのうち右側の石碑には「秩父六郎荘司畠山重忠之墓」と刻まれている。
裏面を見ると、おおむね以下のような説明書きが刻まれている。
「この地古来六郎の司の墓地と称す。元久二年(1205)重忠公の首を葬る所と言われ、五重の塔を建立した。しかし、数百年雨露にさらされ、磨損し、文字を判読することも不可能になったため、末裔である小久保勘右衛門忠義がこれを再建した。明治四十五年(1912)春」
地元では、お堂のなかにある塔を「伝畠山重忠供養塔」と呼んでおり、前記のように高福寺を再興した山麓の小久保家により長年祀られてきた。
『氷川の里 上古寺』には、以下のような記述がある。
「畠山重忠の祖父重弘の弟、重遠は、最初秩父郡高山(現在飯能市高山)に住んで高山三郎と称したという。後当地上古寺に移って小久保晏関入道と称したという。その後元久二年重忠戦死により重忠三男重慶は、密かに重忠の遺髪を携え、重遠をたよって上古寺の地に至り、丁重に埋葬し五輪塔を築いて菩提をとむらい供養したという。(中略)石塔は一間四方の小屋に覆われて保護されている。五輪塔にような形をしているが、完璧ではない。凝灰岩の石材を使用しており、高さ約1メートルである。林宏一氏の調査によれば、『材質は、伝源義賢墓(嵐山町)並びに伝本田近常墓(川本町)のものに近く、火輪である六角形の屋蓋の形などからするとかなり古いものと考えられ、南北朝頃は降らないと考えられる』ということである。太平洋戦争中この石を持って行くと戦死しないという説があり、大分欠かれたという」(『氷川の里 上古寺』より)
現在はお堂の格子戸が鍵で占められているので、格子越しに供養塔を覗くしかない。
なお、山頂には4等三角点(点名「西ノ谷」)が埋設されているはずだが、山頂を見回ったが、見当たらない。
過去の記録によると、お堂西のヤブのなかにあるようなので、次回再度探索してみたい。
士峰山山頂の私設山名表示板

雷電山(らいでんやま)
士峰山を15時30分に出発。
日の短い時期なので、16時30分になると、周囲は薄暗くなり、17時には日没してしまう。
となると、山中の行動時間は実質1時間しかない。
山頂から北北東に緩くくだり、次の280㍍圏ピーク、さらにその次の280㍍圏ピークを越える。
後者で主尾根は右側に方向を変えるので、コンパスと地形図で方向を確認し、慎重に進路を決定する。
地形図に記されない小ピークを越えると、尾根上に大岩が連続して現われ、行く手を塞ぐ。
前者は左から巻き、後者は右から巻く。
鞍部に出ると、前方に雷電山が大きく立ち上がり、これからの急登が思いやられる。
まず緩やかな登りで肩のような場所についたあと、いよいよ急登にさしかかる。
急登を終え、傾斜が緩やかになると、樹林に覆われた狭い山頂の雷電山につく(16時05分)。
山頂には4等三角点標石(点名「向山」)が埋設されている。
雷電山山頂

雷電山山頂の280.1㍍4等三角点標石(点名「向山」)

「雷電山」という山名の由来は、かつて山頂に雷電神社が祀られていたことによる。
雷電神社は落雷を防ぐための信仰を集めた神社であったと思われるが、「文久三年(1863)五月二十四日村方雷電山において雨乞」と古文書にあるように、雨乞いも行われた神社であったようだ。
雷電神社は明治年間に、上古寺村の村社(鎮守)氷川神社に合祀され、現在では雷電山には神社の跡はない(『氷川の里 上古寺』による)。
ところで現在、山頂には「古寺山」なる私設の山名表示板があり、ヤマレコ、YAMAPでも「古寺山」の名が採用され、すべての山行記録も「古寺山」で統一されている。
しかし、「古寺山」は山名表示板を設置した者が勝手につけた名称であり、誤りである。
正しい名称は「雷電山」であることを強調しておきたい。
雷電山山頂には「古寺山」という誤った山名の私設山名表示板が!

フィナーレ
雷電山山頂からのくだりも尾根がやや広くなるので、コンパスと地形図でしっかり進行方向を見定めたい(もっとも、ピンクテープや青色の紐があるが)。
地形図のとおり、最初は緩やかなくだりだが、地形図に現われない小ピークから急下降に転じる。
尾根の左側は広い斜面だが、右側は急斜面である。
くだりで、大岩が連続して現われる。
最初の大岩が左から巻き、次の三本の大木が岩を割る大岩は右から巻く。
このあと平らになり、少し登ったあと、急下降になる。
ようやく鞍部についたあと、次の250㍍圏ピークに向けての急登になる。
登るにつれ、岩が現われ、肩のようなところに出たあと、岩峰(250㍍圏ピーク)の山頂に到着。
木の間ごしに、城山(腰越城址)から官ノ倉山に続く尾根、その背後に秩父高原牧場方面の山が望まれる。
しかし、時刻は既に16時31分。
周囲は薄暗くなってきて、日没までに安全地帯に出なければと、やや焦ってくる。
急なくだりを終え、鞍部に到着。
前方に見える平頂峰の210㍍圏ピークに登ると、なぜかピンクテープや青紐も消えてしまう。
ここで念のためにコンパスと地形図で進路を見定め、いったん北に進んだあと、やや右に方向を変えると、尾根が広くなり、どこが尾根なのか分からなくなる。
幸い、眼下には車道が間近に見えてくるので、あとは傾斜のなるべく緩い斜面を、ヤブを分けてくだると、すぐに車道に出た。
車道を左に進むと、すぐに槻川にかかる矢岸橋(16時58分)。
士峰山から雷電山の尾根を末端(矢岸橋付近)まで縦走できたわけだ。
矢岸橋を渡ると、すぐに「パトリアおがわ」バス停(17時05分)。
ここで34分の待ち時間で、イーグルバス「小川町駅行き」に乗車した。
次回は、今回よりも距離の長い風早山~士峰山の尾根に挑戦する予定である。
(参考文献)
氷川の里 上古寺編集委員会『氷川の里 上古寺』(氷川神社、1985年)
(参考タイム)
慈光寺入口バス停11:06→青石塔婆11:33~38→慈光寺本堂12:06~15→観音堂12:22~30→都幾山山頂(金嶽・鐘岳)12:47~50→410.3㍍4等三角点13:02→423㍍独標13:10→比丘尼塚13:30→出口橋14:22→高福寺入口14:30→高福寺14:35→士峰山15:05~30→雷電山16:05→250㍍圏岩峰16:31→最後のピーク(210㍍圏)16:41→矢岸橋16:58→パトリアおがわバス停17:05~39

コメント